ズザザザ…
「…ん」
枕元の時計に目をやり、自分が目覚ましの音ではなく雨の音で目が覚めたということを弥生は知った。
カーテンを開ける……が、まだ陽の昇る時刻でもない上に、空には雨雲が低くたれ込めているものだから、室内は暗いまま。
「んっ…く…」
大きく息を吸い込み、右手と左手をクロスさせるように手のひらを合わせて背伸び……反動をつけずに、ゆっくりと左右にねじる。
世羽子がやっているのを見て真似をし始めたのだが、心なしかここ数日は体の調子が良くなった気がする。
ぴぴぴ…。
目覚ましを止め……弥生はちょっと首を傾げた。
ほぼ同じ時刻に目覚めたというのに、無機質なアラーム音で目覚めた場合と自然の音で目覚めたのとではこんなに気分が違うモノかと、不思議に思ったからだ。
もう一度背伸びをしてから、弥生は朝の支度をするために台所へと向かった。
「……冬の雨とは思えないわね」
まだ世羽子は眠っているのか……それなら今日は自分が朝食を作ってしまおうと思った瞬間、音もなく勝手口のドアが開いた。
「おはよう、弥生」
「よ、世羽子っ?」
全身ずぶぬれの世羽子が、まるで夏真っ盛りの時期にちょっと雨に降られちゃった……みたいな感じに。
「お、お、おはようって…」
時は1月、雨の降る中、こんな朝早くに一体何を……という質問の前に。
「身体が鈍ってるから、ちょっと走ったりしてきたの」
「走ったり…」
弥生が思わず絶句する。
そんな弥生の様子に気づいているのかいないのか、最初から準備していたのだろう、勝手口のドアの側にかけてあったタオルを手に取り、濡れた髪を拭い始める世羽子。
冷たい雨に打たれていたであろうその身体から、うっすらと白い湯気が立ち上っている。
「じゃあ、シャワー浴びてくるから」
「あ、うん…行ってらっしゃい」
そんな世羽子の背中を、弥生はただ見送るしか……。
「(……あ、でも)」
ここ数日は特にだが、妙に力の入っているように感じられた世羽子の肩から力みのようなモノが消えているのに気づいて、弥生はなんとなく安心したのだった。
「……お腹空いてるの、世羽子?」
「気にしないで、ちょっと10キロほど増量しようと思って」
弥生の質問に休みなく箸を動かしながら。
「じゅっ、10キロって、世羽子にダイエットする必要なんて……」
弥生は一旦口を閉じ……自分の間違いに気がついた。
「増量?」
「ええ、増量」
痩せたい……という話は度々耳にしたが、増やしたい……という言葉を弥生は初めて聞いた。
「世羽子、今何キロ?」
「57」
弥生から見れば、見事な中性的モデル体型の持ち主なのだが……。
「…67キロになったらどうなるの?」
「今よりほんのちょっぴりスピードが増えて、パワーが上がる……というか、何よりも全力が出せるようになるわね」
「ふーん…」
この時点で、これ以上突っ込んだことを聞くのはやめようと弥生は思った。
「……まあ、体重に関しては増量じゃなくて昔に戻すだけだけど」
「御子さん、少しお顔の色がすぐれないようですが…」
「あ、お母様…」
御子はすっと背筋を伸ばし、軽く頭を下げながら言った。
「少し熱があるみたいです」
「こんな天気ですし、休んだ方がよろしいのでは」
「……学校の温室に、お世話している花があります」
頭を下げたままの御子に、心の中でため息をつく母。
おそらく何を言っても無駄だろう……いつも一歩引いたような印象を周囲に与えながら、決めたことは絶対に曲げない頑固な意志の強さが、今は亡き親友を偲ばせた。
「そうですか……無理はいけませんよ」
顔色がすぐれないといっても、それほどとは思えなかった……ために、母はそう言ったのだし、御子本人としても大した無理とも感じていなかったのだが。
「ではお母様、行ってまいります」
激しく降る雨によって、駅に着くまでに肩先と足下を濡らし、電車の中では強い暖房といつも以上の熱気に翻弄され、急速に体調を悪化させることになる事を知らずに御子は家を出た。
「(……ゆっくりと、自然に…)」
うなだれたような姿勢で膝のあたりを見つめ、安寿はゆっくりと羽根を動かす。
目立たぬように、穏やかに……それで得た浮力によって、ふくらはぎにかかる圧力が消えていく。
飛んではいけないし、それを悟られるわけにもいかない。
「……安寿」
「は、はいっ、天使長様〜♪」
にこにこと微笑む顔を上げ、しかし羽根はゆっくりと動かしながら。
「……」
「な、なんでしょう〜♪」
「……」
天使長はため息をつき、安寿の足をツンとつついた。
「ひぅっ」
つんつんつん。
「ひ、うっ、くっ…」
爪先からふくらはぎにかけて、大量の蟻がはい回っているような感触に襲われて安寿は身悶えする。
「あ、ああぁ…足が…」
ついに耐えかねて、安寿が正座を崩して前に倒れ込んだ。
「て、天使長様ぁ〜、お説教するなら、早くしてください〜」
朝早くから、ただ正座させられて……説教すら始まらない状態。
「……安寿、何故怒られるかわかっていますか?」
「それは、その〜私の正体が〜ですね〜♪」
「その件ではありません」
「ええっ、ばれちゃってもいいんですか〜♪」
天使長はちょっと視線を逸らし…。
「いけません……が、あの少年はかまいません」
そう言って、天使長はちらりと横目で安寿の反応をうかがった。
何故あの少年だけはいいんですか……などと追求されると思ったのだが、当の安寿は嬉しそうににこにこと微笑んでいるだけ。
そんな安寿に、天使長は優しく、穏やかな視線を向けた。
「嬉しそうですね」
「自分の正体を隠さずにすみます〜♪」
「……あの少年だけですよ」
一抹の不安を覚えたのか、天使長がくぎを差す。
「はい〜♪」
「さて…」
表情と口調をがらりと変えて天使長。
「正座」
「えぇ〜」
「何故怒られるのか、思いつきもしませんか?」
安寿はちょっと首をひねり……30秒ほど経ってきっぱりと答えた。
「わかりません〜♪」
「正座」
「ええぇ〜」
「正座しながら考えなさい……それと、羽根を動かすのも禁止です」
「…はい」
やはり、さりげなく羽根を動かして……は、ばれていたようだった。
「秋谷、忘れ物だ」
と、青山が世羽子の机の上に置いた白い巾着袋……の中身は、針にテグスに…以下略。
「……ああ、わざわざありがと」
と、これを素直に受け取った世羽子の様子に不審を覚えたのか、青山があらためて世羽子を見つめた。
昨日の今日で、まともに会話が成立するはずがない……との読みを外された意外さ故にである。
「……とりあえず、昔と同じまでウエイトを戻すわ」
「まあ……今のウエイトだと、全力が出せないか」
「あの頃より、力が落ちた……とは思ってなかったんだけど?」
ちらり、と世羽子が青山を見る。
その目には、怒りも何もなく……そこから青山の頭は回転を始めた。
「落ちてはいない……が、時速40キロで走り回せばな、F1カーの具合も悪くなる」
「F1カー…ね」
と、呟きながら、世羽子の指が机を叩く。
「まあ、あれから大したこともしてないわけだろ」
と、青山も同じく指で机を叩き。
口で話をしながら、指で別の会話を交わす……そのどちらも破綻させずに成立させるという尚斗には出来ないことを、2人はさらりとやってのける。
そうして、表向きは何気ない会話を数分。
「……秋谷、お客様のようだが」
「……みたいね」
と、2人同時にそれをやめ。
ドアのところで目をキラキラさせている温子に向かって世羽子は歩き出し、青山はそれを見送るでもなく教室の隅へと移動して。
「さて……秋谷の記憶がおかしい…な」
ぼそりと呟いた。
「あのね、世羽子ちゃん」
ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめて温子が言った。
「私、体重が59.9キロあるんだけど…」
「え、この感じだと、ろく…」
「59.9キロ」
まあ、1キロや2キロは誤差の範囲内ね……と、世羽子は頷いた。
どうやら温子が体重を気にしているようなので、一言付け加える。
「中学の頃、私は70キロ近かったけどね」
「え?」
「で、体重が何?」
「……太ってたの?」
「鍛えてたの」
「……」
「温子?」
「うん、多分…それに関して世羽子ちゃんとはわかりあえないのがわかった」
「あ、そう……で、体重がどうしたの?」
温子は微妙な表情を浮かべて言った。
「……片手で私を持ち上げてるのはどうしてなのかな?」
制服の襟を掴んで……イメージとしては猫の首根っこを掴んでいるような感じ。
『世羽子ちゃーん、昨日はどうだったのかな?』と話しかけた瞬間、くいっと首筋を掴んで持ち上げられ、人気のない廊下の片隅へと移動したのである。
「両手だと、『タカイタカイ』をしてるみたいでちょっと間が抜けてるかもって思ったから」
「あー、それは言えてるかも」
納得したように温子がうんうんと頷き……表情を歪めて言葉を続けた。
「世羽子ちゃん、ちょっと苦しくなってきたから、おろして…」
「はい」
とすっと、音を立てて温子の両足が地に着いた。
「……怒ってる?」
「多少は」
「むー」
温子は腕組みし、足もとを見つめながら首を右に左にふった。
「青春は一度きりだよ、世羽子ちゃん」
「恋愛イコール青春ってのは、むしろ貧しさしか感じないわね」
「むー」
温子が再び腕を組む。
「じゃあ世羽子ちゃん、何で今朝は機嫌がいいの?」
「……」
世羽子はぱちぱちっと瞬きし、不思議そうに答えた。
「いつもと同じぐらいだけど?」
「……とりあえず、要点だけ聞くね。昨日の男の子とはどうなったの?多分、3人のうち、一番小柄だった男の子だと思うけど」
「丁重にお引き取り願ったけど」
「丁重に…」
イヤな想像をしてしまったのか、温子はちょっと視線を逸らした。
「あのね温子、私にだって気になる相手ぐらいはいるのよ。それ以外は……温子?」
目を見開いた温子の前でゆらゆらと手を振ってみる……が、無反応。
「……温子?」
「……はい?」
「そんなに意外?」
「いや、意外って言うか……この前と言ってることが全然違うって言うか」
わけわかんない……と頭を抱える温子。
「…ぁ」
ふっと、世羽子の視線が窓の外に。
「…わ」
と、これは、世羽子の浮かべた表情を見て温子が思わず上げた声。それにも気づかず、世羽子は視線を窓の外に向けたまま。
「……あれぇ?」
再び温子は頭を抱える。
いや、それは……世羽子がそういう表情を浮かべることは、友人としてとても喜ばしいことだとはわかっているのだが、温子の中でどうしてもそのギャップというか矛盾についていけなくて納得できないのである。
「……というか、相手は誰?」
と、世羽子の視線を追いかけようとした……が、どうやら校舎の中へと入ってしまったらしかった。
「……と」
自分の感情を無防備にさらしていたことに気づいたのか、世羽子がちょっと空咳をして温子と向かい合った。
「と、とにかく…妙な気は回さないで。心配してくれるのは嬉しいけど」
「う、うん…」
曖昧に頷き、その場を去っていく世羽子の背中を見送りながら、温子はぽつりと呟いた。
「……壊れてるのは世羽子ちゃん?それとも、わたし?」
「……安寿。何故怒られるのか、少しはわかってきましたか?」
「足の感覚がなくなって、なんだか楽になってきました〜♪」
「そうですか、では、ひとまず足を崩しなさい」
「あ、おしまいですか〜♪」
と、安寿が足をのばして……1分後。
「あ、あ、あ、あ、あし、足が…」
「何故怒られているかわかってきましたか?」
ツンツンツンツン。
「て、天使っ、長さま…、そ、それっ…」
などと、5分ほど安寿に地獄の苦しみを体験させて。
「安寿、正座」
「えええええ〜」
説教という名の拷問はまだまだ続く。(笑)
「……むー?」
腕を組み、天井を見つめて、右へ左へと首をひねる温子。
今朝のHRから、授業中もずっとこんな感じで、さすがに1限目が終わったところで弥生が声をかけた。
「どうかしたの、温子?」
「『私はいつも嘘をつく』……この言葉に矛盾を生じさせない説明をせよ、という命題がね…」
「なんの話?」
また温子がおかしな事を……という感じに、弥生が眉根を寄せた。
「なんというか……今朝の世羽子ちゃん、おかしい」
「まあ……そうね」
と、弥生が同意。
「……ちなみに弥生ちゃん、弥生ちゃんがそう感じたのは…」
「九条さん、九条弥生さんはいます?」
「はい…?」
教師ではない、事務の女性に呼ばれて、弥生がその場を離れてしまい、温子の言葉はむなしく空振った。
「むー?」
再び考え込む温子だったが、弥生が顔色を変えて教室から出ていったのを見て、腰を上げた。
「ねえねえ、弥生ちゃんどうしたの?」
と、ドアの側に座るクラスメイトに声をかけた。
「あ、香神さん」
弥生と温子が親しいグループであることを承知していたのか、聞こえた話をそのまま温子に告げた。
「なんでも、妹さんが倒れて救急車で運ばれたとか……心配ですわね」
「きゅっ…」
救急車となると、ただごとではない……と、温子の表情が引き締まる。
温子はとりあえず疑問を後回しにする事にした。
「えーと…といっても、私に出来ることは…」
何もなかった。(笑)
というか、御子が御子が救急車で運ばれたのは1限目が始まってすぐだったのだから。それさえ知っていれば、1限目が終わってから姉に連絡が入る……時点で、それほどの緊急性はないと温子なら判断できたのであろうが。
「藤本先生」
「あら、一ノ瀬さん…」
何か用事ですか……と綺羅が続けるより先に、紗智は声をひそめて囁いた。
「尚斗いないんだけど、どうします?」
「今は保健室にいると聞いてます」
「保健室…って、風邪でもひいたんですか?」
つい先日まで寝込んでいた紗智だけに、口調と表情に尚斗を気遣う気配が滲み出る。
「そういうわけではないみたいですが…」
と、曖昧な答えをしつつ、綺羅は優しい視線で紗智を見つめた。
「まあ……そのまま帰ってしまったりはしませんから、手はず通りに」
「……」
「どうかしましたか?」
「その…藤本先生と、尚斗ってどういう知り合いなんですか?」
「知り合いにしては、尚斗君の方が毛嫌いしている…と?」
穏やかに微笑みながら。
「いや、まあ……そうですね」
と、紗智は少し困ったように。
「…っていうか、藤本先生ってすごい綺麗じゃないですか。あんな風にされたら、普通の…年頃の男の子なら、鼻の下のびまくりますよ。というか、昨日の今日でアレだけの男子生徒集まりましたし」
「あらあら…」
ちょっと照れたような仕草を見せる綺羅だが、目の奥が笑っていない事に紗智が気づいたかどうか。
「……と言うわけで」
「と、いうわけで?」
「尚斗ってば、本気で女の子に興味ないのでは……という純粋な好奇心がですね」
「い、一ノ瀬さん、無理矢理言い訳しなくてもいいですから…尚斗君が先生の知り合いでも、それとこれとは別の話ですから」
と、綺羅はちょっと口を閉じ……ぽつりと呟いた。
「ええ、別の話ですから…」
「て、天使長様ぁ〜」
正座をした安寿を放置して、時折現れる別の天使に向かって忙しく指示を飛ばし、時間を見つけては、安寿の足をつつき……以下繰り返し。
「どうしました、安寿」
「な、何故怒られているのかはさっぱりわかりませんが、天使長様がすっごく怒っていらっしゃることだけはわかりました〜」
ぼろぼろと涙をこぼしながら訴える安寿の姿に何かしら思うところがあったのか、天使長が小さく頷いた。
「謝るフリして、足を崩さないように」
「あうあうあう〜」
首をぶるぶるふって。
「も、もう正座したくないです〜正座イヤです〜正座怖いです〜自分の足が別の何かに生まれ変わっちゃいそうです〜」
「……何故怒られているか」
「意地悪しないで教えてくださいよう〜」
考えても考えても考えても……いつしか足の感覚に魂を奪われてそれ以外のことは考えられなくなったりもしたが、自分が何故怒られているのかさっぱり理解できない安寿は、涙ながらに訴えた。
「……昨日、一人の少女の記憶を…」
一人の少女が世羽子を指し示しているときづいた安寿は即座に言い返した。
「あの方が幸せです〜」
「幸せ…ですか」
「はい〜」
「……心の奥底に秘めたプライバシーを興味本位でぐりぐり覗かれまくるのが幸せですか?」
「そっ、そっちの話ですか〜」
そういえばそうでした〜と、安寿が動揺を顔に出した……が、いつも安寿の目を見て話す天使長の視線が微妙にあさってを向いていて。
「……何故怒られているかわかりましたか」
「えっと〜その件についてはそうなんですが〜♪」
何か怪しい……と感づいた安寿の語尾に、いつもの♪が復活する。
「その理由、今でっち上げたモノじゃないんですか〜天使長様〜♪」
「……」
「……」
「正座」
「横暴です〜イジメです〜吹けば飛ぶような下っ端天使だからって、あんまりです〜♪」
「安寿様っ!」
天使長の剣幕に圧倒され、安寿は騒ぐのをやめて正座し……首をひねった。
「あの…天使長様?」
天使長が安寿の視線から逃れるように背中を向ける。
「あの〜」
「……と、このようにですね、天使長でありながらあなたのような天使に対しても敬う心を持つ……それが天使には必要なのです」
背中を向けたまま、天使長がぶつぶつと。
「なるほど〜さすが天使長様〜♪」
天使長の背中に、安堵した雰囲気が漂い。
「人を幸せにする……そのためになら、何をしても良いというわけではありません」
「はい…」
何か思うところがあったのか、安寿がうなだれた。
「何が正しい道なのか、何が幸せなのか……私達は常にそれを考えていかねばならなくなりました」
と、ここで天使長が安寿を振り返り。
「安寿…あなたがどんな答えを出すのか…私は期待していますよ」
「天使長様…」
天使長は優しく微笑み…
「もうしばらく正座して、それから戻りなさい…」
「あ、あの…1つ聞いてもよろしいですか〜」
「……何ですか」
「有崎さんの記憶が消せないのは何故なんでしょうか〜?」
どこか緊張していた面もちの天使長がそっとため息をついた。
「それこそ自分で考えなさい、安寿」
「……はい」
安寿は素直に頷いたのだった。
「……む」
それは唐突だった。
肌を刺す、ピリピリと張りつめた空気。
顔を動かさずに、青山は隣に座る世羽子に視線を移す……。
「……」
睨まれていた。(笑)
そして青山は心の中で呟く。
それでこそ、秋谷の正しい反応……だと。
自分のまわりで何かが起こっている……とりあえず、その認識だけで今の青山には充分だった。
「2時半と言われてもなあ……」
HRを終えて、どこか困惑したように尚斗が呟く……のを聞きながら、青山は、そそくさと教室を出ていった紗智の背中を横目で見送った。
すでに、そっちの動きは掴んでいた……が、面白そうなのでそれに関しては見物を決め込んでいる青山である。(笑)
「……俺は、せっかくだから図書室の品揃えを確認しに行くが?」
尚斗の視線を感じて、青山が応える。
「1人で頑張ってくれ……って、品揃えって言うな」
「ふむ…」
青山がため息をつく。
いつもの尚斗なら、気づいたはずだった。
今日は土曜日で、今は放課後……『せっかくだから』の言葉の意味を考えれば、他の理由があって学校に残るのであり、それまで図書室で時間をつぶすという意味を含ませたのである。
「俺は…」
「麻里絵は?」
「私、写真部によるけど…来る?」
「聞けよ、有崎っ!」
「あ、すまん……最近お前の影薄いから」
「ふふふ……影が濃くては情報屋はやっていけないからな」
「まあ、重ねて念を押すが、警察沙汰だけは起こすなよ……」
何気ないふりをして、青山はじっと宮坂を見つめていた。
「青山君……警察沙汰って?」
「椎名。世の中には聞いたら仲間と見なされる事があるんだが?」
「聞きたくない!聞きたくないですっ!」
「……それが賢明。……じゃ有崎、俺は行くから」
「おー、頑張れ」
「じゃ、私も…」
「おー」
「じゃ、俺も…」
「お前はとっとと家に帰れ、宮坂」
そして、教室を後にした青山なり、宮坂なり、麻理絵……は、それぞれの思惑を胸に活動を始めるのであった。
「弥生」
「あ、世羽子…ありがと、わざわざ…?」
今朝はあれだけ抜けていたように感じた肩の力が、またもりもりとみなぎっているのを感じた弥生は、ほんの少し首をひねった。
「まあ、結局は風邪というか……九条家の娘って事で大事をとったというか、もうすぐ家に帰る準備を始めるみたい」
弥生はちょっと口を閉じ……待合室の天井の隅に視線を向けた。
「ただ……心労が原因かな、とか思うとちょっとね」
「ごめんなさい、私からは何とも言えないわね」
「うん、ありがと」
弥生が感謝の色を示して頷く。
「ご両親は…?」
「お母様が、今お医者様の説明を聞いてるの……お父様は、昨日から九州に行ってるから…ちょっと、ね」
「弥生ちゃーん」
病院の待合室ということを意識したのか、いつもよりぐっとボリュームを押さえ気味……だが、良く通る声質のせいか弥生にはすぐに誰だがわかった。
「あ、温子まで…」
「聡美ちゃんもいるよ」
「ありがと、聡美」
「うん」
弥生に向かってちょっと頷いて……聡美は世羽子の視線を避けるように、温子の陰に回った。
「そういえば世羽子ちゃん、どうやってここまできたの?私と聡美ちゃんは、学校終わってから駅でタクシー捕まえたんだけど」
「走ってきたわ、大した距離でもないし」
「……」
弥生と温子が顔を見合わせて黙り込む……が、聡美は世羽子の視線を避ける素振りをみせながらも、さすがだなあという目で世羽子をちらちらと見ていたり。
「聡美」
「えっ、あっ、な、なに、世羽子?」
世羽子はことさらに穏やかな視線を向けて。
「あなた、風邪ひきやすいでしょ。気をつけなさい」
「あ、ありがとう、世羽子。ちゃんと、気をつけてるから」
腰までのばした髪を揺らして、聡美が何度も何度も頷く。
「そうだ、弥生ちゃん。妹さんを保健室まで運んでくれた男の子の名前、聞いてきたよ」
「あ、ホント?」
「ただ……名目上、私が弥生ちゃん……って事になってるから。身内じゃないとダメかなと思って」
「別に構わないわよ」
さりげなく、世羽子がその場から離れていく。
「あのね、有崎尚斗くんっていうんだって、私達と同じ2年生」
「へえ、ありさきなおと……ありさき、なおと…?わかった。後は自分で探してちゃんとお礼は言うわ」
「世羽子さん」
上品さを漂わせた和服姿の女性……弥生の母親が、深々と頭を下げた。
「娘が、弥生がご迷惑をかけて…」
「いえ、ウチは母がいませんし、弥生がいてくれて色々と助かってます」
と、世羽子もまた頭を下げる。
「そう言ってくださるといくらが気が楽になります、お父様にもよろしくお伝えください」
「はい」
「……集まっていただいて」
弥生、聡美、温子の3人の姿をそっとのぞき見て目尻を下げる。
「弥生は、良いお友達に恵まれました」
「……妹さんの具合は?」
「お陰様で大したことは……明日にも回復するのでは、と」
「そうですか…」
ほっと、息をつく世羽子。
あの尚斗が関わったのだ、まず心配はない……とは思っていたが、世羽子の心を刺激する苦い記憶を脳裏から消すことも出来ず。
「それで……どうしますか?」
温子達と話し込んでいる弥生にちょっと視線を向けながら聞いた。
「妹思いの弥生の事です、言われなくても今日は帰ってくるでしょう。ただ、私の口からそれを言えば、角が立つかもしれませんが…母親として、逃げるわけにも」
と、微苦笑を浮かべて。
「ご迷惑でしょうが、今しばらく娘のことをよろしくお願いします」
今一度、深々と頭を下げてから、娘の元へと歩いていった。
ゴロゴロゴロ…
遠くで雷が鳴った……いや、雨の音が大きいだけに、本当はもっと近いのかも知れない。
「あら、冬の稲妻」
「……」
「麻理絵、そこで反応がないとちょっと寂しいんだけど」
「冴子先輩は時々わけの分からないこと言いますから…」
と、麻理絵がちょっと口を尖らせた。
土曜日、あいにくの雨……という事で、写真部は開店休業状態。
人がいないときに限って現れる元部長の冴子……だが、写真の腕は確かだし、まわりにあまり人がいないときに限ってではあるがきちんと技術指導はしてくれるし、相談にも乗ってくれるというので、冴子に対しての部員の信頼は篤かった。
人数が多いときは姿を現さないため、あまり比較は出来ないのだが……他の部員に言わせると、麻理絵は冴子先輩に可愛がられているのだとか。
冴子が麻理絵をどう思っているかはともかく、麻理絵は冴子からいつも得体の知れない不安と不思議な安心感という、相反するモノを覚えていて。
「麻理絵は、雷とか平気なの?」
「子供じゃありませんから」
「……子供の頃は怖かった、という事かしら?」
「怖かったです」
と、これは素直に。
「……で、さっきから何をしてるの麻理絵?」
「写真の整理です」
「へえ、写真部部員として、ちゃんと活動してる…というアピールのためかしら?」
「私が写真撮ってるところが想像できないって、尚斗くんにバカにされたんです」
「あらら、失礼ねえ……私が見た感じじゃ、部員の中では一番才能あるのに」
麻理絵はちょっと手を止め、冴子を見つめた。
「嘘でも冗談でもないわよ」
「えっと…」
自分の手元の、失敗した作品に視線を落とし。
「と、とてもそうは思えないと言うか…」
「技術的にはノーコメントね」
「…?」
「写真を撮るっていうのは、現在、過去、未来の3つの時間を行き来することなのよね……シャッターを切る現在に対して、フィルムに焼き付けたものは過去」
そこに誰もいないかのように、冴子の視線はあらぬ方角に向けられたまま。
「撮った写真をどう見るか、どう見られるか……今というシャッターチャンスを待ち続けながら、同時に過去と未来に思いを馳せる、もしくは、今を過去のモノとして懐かしんだり、過去を今のモノとして受け止めたりする視点……そういう部分が麻理絵はずば抜けてる」
と、冴子はちょっと口を閉じ。
「麻理絵、そろそろ時間じゃない?」
背を向けたままでそう告げた。
「……やっと2人きりになれたわね」
などと軽口を叩く綺羅を無視するかのように。
「藤本先生って、ここの跡継ぎだったりするんですか?」
「どうしてそう思うのかしら?」
「さっき、理事長室から出るときに、お祖母様…とか言ってましたし……盗み聞きしていたわけじゃないですが、聞こえてしまいました、すみません」
と、これに関しては尚斗は素直に頭を下げた……が、視線は綺羅を向いたまま。
「あら、理事長の姿を見たわけでもないのに……あんな言葉だけのやりとりを信用するんですの?理事長でも何でもない人間がいたのかも知れませんし、テープレコーダーにふきこんだ声かもしれませんわよ」
「……」
「思っていたより、私の事を信用してくれているのね、尚斗君は」
「正直なところ…」
ぽつりと呟くように尚斗が口を開く。
「悪い人間とは思っていませんよ」
「それは……残念ね」
と、言葉通り残念そうな表情を浮かべる綺羅。
「……で、なんの用事ですか?授業をサボった件に関しては、謝るしかありませんが」
「あら、女子生徒を助けてくださった結果でしょう…感謝こそすれ……呼び出しの口実にはさせてもらいましたけど」
「……青山と違ってそういうの苦手だから、ずばっとぶっちゃけてくれませんか?」
「…では」
綺羅はちょっと俯き…顔を上げてずばっと切り出した。
「尚斗君は、私のことをどこまで覚えてますか?」
「どこまで…と言われても」
困惑顔の尚斗に向かって右手をつきだし、綺羅があらためて言った。
「尚斗君の認識では、私はどういう存在ですか?」
「ショタコンの性犯罪予備軍」
ごとっ。
机の上に突っ伏したまま動かなくなった綺羅に向かって、尚斗が声をかけた。
「あの、藤本先生…?」
「そ、そう…ですわね…確かに、そう思われても仕方ない…んでしょうね」
演技でもなんでもなく、かなりダメージを受けた様子の綺羅。
「それにしても…ふ、ふふ…ショタコンの、性犯罪予備軍ですか…」
「予備軍というか、思いっきりレギュラーのような」
「はあ、まあ…そうですわね…尚斗君のせいではありませんし」
「……?」
「尚斗君のせいではないとはわかってはいるのですが…」
「…先生?」
がばっと綺羅が身体を起こした。
「尚斗君っ、恨むなら私じゃなく尚斗君のお母様と……いえ、尚斗君のお母様を恨みなさいっ」
「は、はい?」
妙に目のすわった綺羅の気迫に押されて、尚斗はなんとなく頷いた。
そして、雨も上がった夕方の5時。
「……というわけで、どう、澄香?」
「美しくない」
まだ未編集の生映像を、冷めた瞳でみつめながら澄香が紗智に答える。
「と、いうか、ここまでするなら青山君は?」
「いや、その、ひそかに思いを寄せていた尚斗が、どこの馬の骨ともしれぬ男に言い寄られてね、クールそうな彼の心に青い炎が点るのよ…」
「オーソドックスに過ぎるわね」
などと、2人の腐女子が語り合っていたり……。
さて、このあたりから1周目とは本格的にストーリーが変化していきますので、そのつもりでお願いします……というか、もう、お呼びじゃないですか。(笑)
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