「……んー?」
 ちょっと首を傾げ……壁に向かって立つと、紗智は右手をぐっと握りこみ、反動をつけずに腰の回転だけで目の前を打ち抜いた。
 今ひとつ力が入らないが、身体のキレは悪くない。
 狭い場所、というかスペースの無い状態での打撃を、中学3年から通い始めた空手道場の師範は熱心に教えてくれた。
 どうやら自分にはかなりの素質とやらがあるらしく……それと同時に、性別という名の限界の存在を語り、とにかく相手に捕まえられないための攻防を熱心に指導してくれたわけで。
 もちろん、関節技の攻防も出来なくはないが……レベル云々よりも、正直好みに合わなかったりもする。
「せっ!」
 つま先で前髪を蹴り上げる……ちょっとよろけたのはご愛敬だが、並の技量では出来ない技だ。
「……ま、全快とは言えないけど」
 この地方には珍しい大雪が降ったのは先週の土曜……1月12日のこと。
 学校が休校になり、雪の降る中を麻理絵と二人して遊びに行ったのがまずかったのか、日曜日の朝から違和感を覚え、夕方に高熱を出してあっけなくダウンした。
 メールでのやりとりでは、麻理絵は全然平気らしく……なんとかは風邪をひかないなどと、心の中で何度呟いたことか。
「……月曜が振り替え休日だったのがしゃくなのよね」
 休日に病気で休み……もったいない。
 しかも、火曜からお隣の男子校の生徒が間借りのために出入りしているとか……それだけでも何が起こるかわからないワクワクするような限られた時間を与えられておきながら、家で寝て過ごすなんて……もったいない以外のなにものでもない。
 などと、自分の回復を知って、紗智はちょっとばかりテンションが高かった。
「ま、とりあえずシャワーでも浴びて、食べるもの食べないとね…」
 シャワーはともかく、階下に降りたらすぐご飯……という家庭環境ではない。
 父は、40代にしていわゆる一流企業の重役様というご身分で、母はインテリアデザイナーとして小さいながらも会社を作って、不況に負けずに成長させているほどだから、両親共に有能なのは間違いなく。
 ただ、父親は良くも悪くも仕事中毒で……それに耐えかねたのか、父に当てつけるかのように結婚前の仕事に復帰した母は、家庭を顧みることなく仕事に打ち込んで会社を立ち上げて今に至っているのだから、似たもの夫婦と言うべきか。
 夫婦仲については推してしるべし。
 世間体と、お互いの仕事の関係が、それを実行させずにきただけのこと……と紗智は中学生になる前に見切りをつけ、半ばあきらめた。
 裕福であることをのぞけば、別に珍しくも何ともない家庭の1つ……などと、本気で割り切れているわけではないが。
 バスタオルで濡れた髪を拭いながら大型の冷蔵庫を開け……一応病み上がりなので、消化の良さそうなモノを……選んだりする紗智ではなく。(笑)
 仕事優先の両親が冷蔵庫の中身の買い物をするはずもなく、また紗智もそういう事はほとんどしない。にもかかわらず、冷蔵庫の中身が脱臭剤1つ(笑)などという悲惨な状況に陥ったりしないのは、吉野さんという通いのお手伝いさんを雇っているためである。
 さっぱりした性格は紗智の好むところであり、また彼女の方も紗智のことを気に入っているらしく、『いくらなんでも親として紗智さんをほったからかしすぎ…』などと憤るのを、紗智自身がなだめたりするような関係。
 吉野さんはいわゆる離婚出戻り組というやつらしく……それを知っているだけに、紗智は、『子供はいるの…?』などといった、つっこんだ話をする事を避けており、ある意味何年ものつきあいでありながら彼女のことを良く知らないでいる。
 余談だが、麻理絵はこの吉野さんを紗智の母親と勘違いしている節があり……紗智も、また吉野さんも2人してその誤解を助長していたりするから良いコンビでもあるのか。
 カチャカチャ…
 勝手口に視線を向ける。
 吉野さんは今日休みの予定で……そもそも、来るのはもっと遅い。
 両親が不在がちな上一人娘は病気で寝込んでいる事を知って、朝っぱらから泥棒でも……と、紗智は油断無く勝手口までの距離を詰めた。
 病み上がりという事を念頭に置いても、前蹴り一発で片が付くはず。
 がちゃ。
「あら」
「…あれ?」
 お互いが、お互いを確認して不思議そうな声をあげた。
「紗智さん、起きたりして大丈夫なの?」
「おかげさまでほぼ回復したよ……今朝は早い、というか休みの予定じゃ?」
「病気の紗智さんを放っておけますか…」
 紗智の額に手を当て、目をのぞき込み、ほっと安心したように息をつく。
「よかった……本音を言えば、念のため今日一日休んで欲しいけど」
「さすがに3日も寝てると退屈で退屈で」
「じゃあ、何か作るから紗智さんは座ってまってて」
「……はーい」
 返事までの微妙な間。
 この吉野さん、料理は下手ではない……むしろ上手なのだが、ちょおーっと献立および味付けが古いというか昔なじみというか。
 まあ、滅多にないことだが、親子3人顔をつきあわせて夕食を取る苦痛に比べたら、好みの誤差には目をつぶる事にはしている。
「……と言っても、あんまりゆっくりはしてられないんだけど」
 紗智の家から女子校までは割と遠く、歩いて30分から35分というところ。方角で言うと、女子校は東北東にあり、麻理絵の家はほぼ東で、女子校よりもさらに遠くなる。
 ちなみに、女子校では自転車通学というモノを認めていない。駅もあるし、バスもある……が、近辺に住む生徒にとっては、自転車通学の禁止は結構厳しい。
 もちろん、近辺に住む生徒で自転車通学を望む生徒は少数だ。
 麻理絵と紗智とみちろーが通っていた中学校校区の北西部と、そのお隣の青山中学校校区の中央やや南より……早い話、世羽子の家のあたり。
 この2つの地域だけが、妙な具合に駅は遠く、バス路線からも外れていたりする……ちなみに、みちろーが住んでいた家は駅のすぐ側で、女子校の最寄り駅の隣にあたる。
 ……と言う状況から、紗智の場合、朝の7時半には家を出ないと結構厳しい。
「紗智さんの学校、なんか向こうの男子校の生徒を間借りさせてるらしいわね」
「うん、そうみたい」
「最近はちょっとおとなしいみたいだけど、随分評判の悪い学校だから心配よね…」
 朝食の準備をしながら、まるで自分の娘を心配するような口調。
「まあ、良い評判も悪い評判は、実際の姿以上に誇張されがちだから…」
 男子校の評判の悪さが別に誇張されてない事を知る紗智だったが、吉野を安心させるためにそう答え…。
 とはいえ、ここ最近……この1年半に限って言えば、男子校の悪い噂はほとんど聞かない。地区予選を勝ち抜いて全国大会出場を決めたラグビー部が、部員の登録手続きをすませていない生徒を出場させた事が発覚し、出場を辞退、および1年間の対外試合禁止を食らった件だけが例外か。
「……まあ、大丈夫じゃない?」
 と、紗智はほほえみながら言葉を続けた。
 
「あはは、いるいる〜」
 女子高生に女子中学生、教師もほとんどが女性で占められていて……とにかく、女ばっかりの学校に男子生徒がいるだけで何やら笑いがこみ上げてくる紗智である。
 学校なんてどこも同じ……とは言わないし、この女子校が嫌いというわけでもない。ただ、紗智の嗜好からするとちょっとばかりお上品に過ぎるというか。
 たまには誰かが羽目を外してバカをやり、それをネタにして騒いだり……という事がほとんど無い。
 はっきり言うと、紗智にとってこの学校はちょっとばかり退屈なのだ。
 そこに、最近はなりを潜めているとはいえ、様々な問題を引き起こして近辺の教育関係者や子供を持つ両親の眉をひそめさせていた男子校の生徒が乱入。
 豪快な化学反応が起こるのではないか……などと考える紗智は、もちろんこの学校では少数派で。
「さってと…」
 幸い、クラス編成の張り紙がまだ残っていた。
 とりあえず親しいと呼べるのは麻理絵と、同じパソコン部の生徒が1人……後は、まあ顔と名前が一致する程度のおつきあいの生徒がほとんどで。
「ふーん……にしても」
 男子と女子の混合クラスと、女子だけのクラス……は、人数差があるから仕方ないといえば仕方ない話だが、女子クラスの生徒に偏りがあるのがちょっと露骨で。
 そのあたりの事情がわからないほど鈍くもないし、否定するほど潔癖でもない。
 なんとなく頷いて、紗智は教室へと向かう。
 廊下を歩いていて思ったのだが、久しぶりの学校だからというわけではなく、どこか空気がざわついている。
 それが気に障るのではなく、むしろ好ましく感じて……紗智は、テンション高めで教室へと入っていった。
「……あー」
 女子を意識する男子生徒達の雰囲気が懐かしい……というか、中学では割とおなじみだったそれをもうちょっとパワーアップさせたような感じ。
 町中でのナンパ云々をのぞけば、中学校以来の感覚……という理由だけではなく、個人的な嗜好(笑)により、男子校という響きは紗智にある種の高揚感を与えるのだが、男子は男子で女子校という響きにそういうモノを感じているのであろう。
 そういう意味では、男子よりも女子の方が落ち着いている。
 評判がどうのこうのは関係なく、可愛いもんじゃん……そんな心境で、自分の座席を確認、そちらに視線を向けた。
 窓際、前から三番目…80点。
 隣ではないが、近くに麻理絵の席が……いない。
 鞄はあるから、トイレにでも行ってるのか……と、紗智の視線はなんとなく教室の入り口へ。
 ちょうどタイミング良く少年が現れる。
 身長は180にちょっと届かないぐらいで、何らかのスポーツをやっているのか、均整の取れた体つき。
 顔は、まあ普通……好みによっては、というレベルだろう。明るく穏やかな、周囲の人間に安心感を与えるようなところはちょっと個人的にポイント高いか。
 別に男子生徒一人一人をチェックする趣味はないが、少年が教室内に姿を現した瞬間に、心なしか教室内の男子がちょっと萎縮したように思えたのが気になったのだ。
 それを裏付けるかのように、誰も少年に声をかけようとしないし、少年もまた誰かに挨拶するでもない。
 友達は結構多いだろう……という自分の読みが外れたのか、それともたまたまこのクラスに親しい知り合いがいなかっただけなのか。
 ふっと、少年が何か納得がいかないような感じに首をひねったので、観察しているのがばれたと思って紗智は慌てて窓の外に視線を向けた。
「青山……今日って何かあるのか?」
「……自分達の想像を超えてたから一時的に放心してたが、自分達の置かれた状況に馴れてきたというか目覚めたって所だろ」
「……そう言われてみると、なんか『彼女作るぜコンチキショー』ってなオーラに満ちあふれているような感じだな」
 まるっきり他人事……の口調。虚勢を張っているようにも思えない。
 年頃の男子としてそれはどうなのかとツッコミ入れたくなるほど、青山とかいう少年も含めて、少なくともこの教室内の男子生徒の中では異質な存在っぽい。
 ふっと視線を戻すと、青山という少年と眼があった……少年が何もなかったかのように目をそらす。しかしそのせいで、今度は紗智の方が目をそらす機会を失ってしまい……なんとなくその少年を観察するような形に。
 席に座って、しかも学生服のためちょっとわからないが、こちらも均整が取れた体つきっぽいのは同じ……だが、顔の造形に関しては圧倒的にこちらに軍配が上がる。
 おそらくではなく、まず間違いなく女子生徒から注目されるレベル……ただ、口元の冷たい笑みが多少気になるが。
「……賭けるか、有崎?」
「何を?」
 ああ、有崎っていうんだ……などと思いながら、紗智は『賭け』という魅力的な響きに身を乗り出していた。
 恋愛云々ではなく、この二人は退屈を吹っ飛ばしてくれる……そんな予感があった。
「バレンタインカップルがいくつ成立するか」
「のった」
 面白そうだ、と思ったときには言葉が出ていた。
「面白そうだから私も」
「おう、いい……ぞ?」
 有崎という少年はちょっと戸惑ったように、青山という少年はその展開が読めていたかのようにこちらを向いた。どこか見透かされているような不思議な視線だが、あまり嫌悪は感じない。
「誰…」
「あ、風邪治ったの、紗智」
 『誰だ?』と聞かれたのはわかっていたが。
「あ、やっほ麻里絵。いやあ、来るとは聞いてたけどホントに男がいるから間違えちゃったかななんてびっくりしたけど…」
 ちょおっと落ち着き無い上に礼儀知らずだな…とは思いつつ、麻理絵との会話を優先。
「ちゃんとメールで伝えたでしょ」
「まあね…でも、実際に見るまではやっぱ、ちょっと不安」
 何故だろう……と、紗智は内心首を傾げた。
 いつもより麻理絵が明るい感じがするのは、自分の風邪が治ったことを喜んでくれているからなのか。
 と、麻理絵の顔が下に。
「あ、尚斗君、この娘が昨日言ってた…」
「なお…と」
 あの麻理絵が、親しげに男子を名前で呼ぶ……昨日今日のつきあいでは絶対にあり得ない。というか、聞き覚えのある名前。
 知り合いじゃなくて、麻理絵の知り合いで、名前がなおと……とすると。
 すぐに答えは出た……が、その答えを認めたくなくて、ちょっと距離をとり、じろじろと容赦なく視線を浴びせる。
 え、これが……みちろーの?
 顔は普通に良い程度のレベルだったけど、なんといってもみちろーは中身がすごかった。成績優秀、スポーツ万能……というか、サッカー選手として2年時から地区のベストイレブンに選ばれ、性格は温和。驕ることなく、困っている人には親切で、あれだけ女子の人気が集中すると男子連中がやっかむものだが、あくまでも仕方ないかというレベルで……まあ、口の悪い女子なんかは、麻理絵と付き合っていることだけが欠点などと言っていたが。
「……みちろーのライバル?」
「……麻里絵君。何やら俺の知らないところで噂を1人歩きさせてないか?」
「え、べ、別にそんなことないよう…」
 などと、麻理絵はあらぬ方向に視線を彷徨わせたが……『おさななじみのなおと』を紗智に最初に教えたのはみちろーだった。
 
 中学2年のバレンタイン……麻理絵という彼女がいるのを知りながら、女子生徒はみちろーに殺到し。同じクラス、同じ部活……その場を紗智が仕切るのは自然な流れで。
『麻理絵は麻理絵でおいといて、ハーレムでもつくっちゃうつもり?』
『それは……殺されるなあ』
 苦笑い……に、何か別の感情が混ざったような表情。
『……あんまり想像できないんだけど、麻理絵ってそういう激しい部分を隠し持ってるわけ?』
 みちろーは再び苦笑い…に、さっきとは別の感情を混ぜこんだような表情を浮かべた。
『麻理絵は…まあ、さっちゃんが見たとおりの麻理絵だし、俺が願うとおりの麻理絵だよ』
『はいはいはい、ごちそうさま。理想の彼女ってわけね』
 また苦笑い。
 あのはにかむような笑顔が素敵……と騒いでいた女子がいたが、はにかんでいるというのとは違うと思っていた。どこか暗い部分があり、それが心に触れてきて……どうしようもなく惹かれた。
 多分、その暗い部分がみちろーの家庭の状況にある事を知って、その時にはもうみちろーと麻理絵が付き合いだしてしまっていたけど……連帯感を覚えた。
『……って、じゃあ、誰に殺されるのよ』
『麻理絵から聞いたことない?なおと、っていうんだけど』
 みちろーの表情に息を呑む。
 次の瞬間にはもう消え去っていたけど……それは多分。
 
「……なんだ、レベル低いじゃん」
 昔のことは、昔のことなのか。少なくとも、いまのみちろーがそんなモノを抱くだけの存在には見えない。
「おい、さっちゃん」
「さっちゃんゆうな」
 紗智の中で、失礼なことを言った自覚とその呼び名が化学反応を起こし……たが、幸いその拳は誰かを傷つけることもなく。
「ほう、なかなか……」
 安堵の思いが、そんな言葉を呟かせた。
「……寸止めするつもりなかったろ、今の」
「このぐらい避けられないようじゃ、男失格でしょ」
「無茶いうな、一ノ瀬さんよ」
 図星を指されて無茶を言った自覚はあったから、紗智は話の転換を試みた。
「紗智」
「は?」
「紗智って呼んでよ。私、一ノ瀬さんとか呼ばれると背中がむず痒くなるタイプだから」
 嘘は言ってない。
 ただ、もう少し……『さっちゃん』という呼び名を自分の中で特別なモノにしておきたかった。
「じゃ、俺は尚斗って事で…」
「了解」
「ちなみに、こいつは青山……先に忠告しておくが、男子校の生徒で一番敵にまわしていけない奴だから、注意するように」
「ほほう…」
 興味が湧いた。
「悪いが、俺は一ノ瀬って呼ぶぞ……名前を呼ぶのは好きじゃないんでな」
「ふーん……別にいいけど」
 確かに、どことなく得体の知れない何かを感じるが、多分オーバーな表現だろうと紗智は判断した。(笑)
「ま、そんなことよりバレンタインカップルの予想といきましょ」
 
 1時間目の授業を終えると、紗智はパソコン部の仲間である畠本澄香(はたもと・すみか)の側へと寄っていき。
「ねえ澄香、ちょっといい?」
「ん?」
 澄香は外部受験組で、紗智とは同じパソコン部の仲間で副部長……というよりは、やおい友達と呼んだ方が正確かつわかりやすい。ちなみに、紗智の友達だからと言って澄香と麻理絵の仲がよいなどと言うことはまったくない。
「つーか、風邪、大丈夫なの?うつさないでよ」
「そこまで責任は持ちたくない」
「うわ、無責任。寄らないで、うつるから」
 肩のあたりで切りそろえた髪を揺らして、澄香はのけ反るようにして紗智から距離をとる。
「まーまー、それはともかくさあ…」
 と、紗智はちょっと声をひそめて。
「あの2人……ほら、私の席のそばの男子、青山君とな…有崎君って、どう思う?」
「どう思う…って」
 澄香はちょっと目を細めて。
「青山君……は、絵的に映えるわね。こう、実写に耐えうる素材って言うのかしら……有崎君は、まあ外見的にはこないわ」
「うん、そーなんだけど……こう、あの2人って、なんか怪しくない?」
「え、え、え?」
 瞳をキラキラ輝かせ、澄香が身を乗り出す。風邪がうつるとかいう意識はどこか遠くに飛んでいってしまったらしく。
「いや、片方が麻理絵の幼なじみらしくてね、色々話してたんだけど……こう、あの2人ってなんか雰囲気が違うし、なんか男子の中でも浮いた感じしない?」
「え、そうなの、リアルで?」
 額に『腐』の文字を浮かび上がらせながら、紗智と澄香は独特の盛り上がりをみせる。
「あ、でも…あの2人って…確かもう一人つるんでるのがいたよ…宮坂君だったかな。なんかお調子者って感じで」
「三角関係ね」
 きっぱりと断言する紗智。
「…いや、青山君は申し分ないけど、あとの2人は個人的にちょっと」
「まったく、澄香は耽美系よね……なんでもかんでも美形じゃないと駄目なんだから」
「汚いモノくっつけても面白くない」
 と、これまたきっぱりと宣言する澄香。
 周囲の人間が少しずつ距離をとっているのに気がついているのかいないのか。(笑)
「あ、そうだ」
「なに?」
「倉本が言ってたけど、青山君……いいとこのお坊ちゃんだって。倉本も結構なお嬢様なのにあの言い方……美形でお坊ちゃん、正直そそるわ」
 もちろん、この『そそる』は、恋愛がどうとかいう意味ではなく。(笑)
「青山…お坊ちゃん……もしかして」
「なに?」
「いや、昔このあたりを治めてたのが青山家っていう大名なのよ。で、明治維新を乗り越えて、今はたくさんの企業を傘下に抱えた……全国規模というわけじゃないけど」
「じゃ、じゃあ…元華族?」
 澄香の瞳が、さらなるキラキラ光線を放つ。
「この時代に華族って……まあ、このあたりに住んでて、お坊ちゃんで、名字が青山ときたら……多分そう」
「私、ちょっと他の教室見てくる」
「え?」
「彼にふさわしい(外見の)パートナーを捜しにっ」
「いや、澄香。まだ話の途中…」
 しかし紗智を置き去りに、澄香は瞳をキラキラさせながら教室を飛び出していった。
 さすがの紗智もちょっとため息をつき……ちらり、と肩越しに尚斗の姿を見る。
「そう、よね……ぱっとしないわよね」
 そう、自分がみちろーを好きだったから……という欲目ではなく、大したこと無い……はずなのに。
 麻理絵は、ひどく幸せそうに笑う。
 みちろーと付き合っていた頃でさえ……まあ、あの頃は色々と女子生徒による圧力が存在したわけで。
 もちろん、みちろーと麻理絵をくっつけた格好だった紗智もまた、それなりの圧力にさらされたが、ほとんど気にもせず。
 そして今は……そばにみちろーがいないわけで。
『……なんで?』
『麻理絵を……自由にしてやりたい』
『別れる…の?なんで?麻理絵のこと好きじゃなくなったの?』
『……』
『なんで?あんなに、せっぱ詰まってぐらいに好きだったのに、そんな簡単に…』
『麻理絵が好きだ』
 紗智の心を再び傷つける程に、その言葉には真実の鋭さがあって。
『……わからない。みちろーの言ってること、やってること、アタシ全然わからないっ』
 麻理絵を置いて、遠くの学校にみちろーが進学先を決めたことを知った日の会話。
 自分の中の醜さにも傷ついたあの日が暖かな小春日和だったこと……それが何故か強く印象に残っている。
 
「先生、ちょっと気分が悪いんで…」
 紗智は何気なく周囲に視線を向ける……と、麻理絵も含めて数人の女子生徒が『またあの人…?』という表情を浮かべていて。
 どうやら、サボリの常習犯らしい……が、どこかよそいきの男子生徒にくらべて、紗智は尚斗の行動にある種のすがすがしさを感じた。
「……っ」
 紗智は、控えめなため息の主に視線を向ける。
 秋谷世羽子……クールビューティなどという表現ではとても追いつかない、他人を寄せ付けない雰囲気といい、授業料免除の特待生だけあって成績優秀、スポーツもそつなくこなし、暖かみはないが大人びた冷たく冴えた美人。
 紗智の知る限り、友人と呼べるのはバンドの仲間である3人。それ以外の生徒とは、ほとんど言葉も交わさない。
 だからといって、態度が尊大だとか、嫌われているわけではない。誰かが廊下の真ん中でプリントをばらまいたとすると、手早くそれを拾い集めてやり、何を言わずに、お礼も言わせずにそのまま立ち去っていく……そんな風に、他人との接触を拒絶するところはあるが、基本的に良い人…というのが紗智の世羽子に対する人間判断。
 それをふまえた上で、紗智はあらためて首を傾げた。
 さきの、バレンタインカップルの賭けに関して……青山と、おそらく尚斗も含めてだろうが知り合いで。
 なんというか……秋谷世羽子という少女は、いついかなる時も秋谷世羽子なのだが、さっきのアレはどうだ?少なくとも、紗智の知らない秋谷世羽子がそこにいた。
 ふと、紗智は苦笑する。
 アタシ、退屈してないのかなあ……。
 
「オラは死んじまっただ〜♪」
 良く晴れた冬の空に、伸びやかに羽を広げて。
 20年ぶりの下界に、なんとなくおぼえていたそんな歌を口ずさむ。
 本当に20年ぶりかどうかはわからない。全てから隔絶された小部屋から出された時、20年経ったと聞かされて……ああ、20年過ぎたんですか、そう思っただけだった。
 あの小部屋に、10年単位で監禁された天使はこれで3人目だとか……天使長様には言えないが、ちょっと誇らしいような気もする。(笑)
 どうやら自分は、たくさんの記憶をあの小部屋で失ったようだった。
 あまり実感がないのは、ほとんど何も思い出せないからだった。そもそも自分が何を失ったかもわからないし、失ったモノの多さに絶望することもない。
「絶望…?」
 それは、天使の言葉ではなく、人間の言葉。
 天使は決して望みを捨てない。いついかなる時も未来を忘れない。人の幸せを願い、出来る範囲で、その手助けをする。
 そして、私は天使。
 たくさんのモノを失ったとしても……いや、失ったのならば、今自分に残されているモノはとても、大切なモノだったからに違いない。
 それはそうと…
「自分はどこに行けばいいんでしょうか〜♪」
 どこまでもお気楽に。
『このあたりを飛んでいればすぐわかります。そこで、天使がなすべき事をしなさい』
 このあたりを飛んでいて、すぐにわからないのは自分に原因が……。
「はっ、もしや、あの小部屋に長期間閉じこめられた影響が〜♪」
 ブブーッ。
「なんでしょう、今のブザー音は…何か、懐かしいような」
 少し目を閉じて考える。
 階段……ゲート……失格……Uターン。
 よくわからない言葉が羅列されていく……とりあえず、この事についてはあまり考えないことにした。
『……そうそう、貴女の行くべき場所には監視者がいるはずですから、くれぐれも言動には注意しなさい』
 人間の言葉を借りると、堕天使と呼ばれるモノ達。もちろん、天使に言わせると、堕天使と一緒にするなんて……なのだが。
 それは、天使の誇りを守るため、天使であることをやめたモノ達への気高き称号。
「このあたりを飛んでいてもすぐにわからないということは〜♪」
 まず、天使長の指示が間違っている……却下。
 何かの手違いで、すぐに気づくべき何かがどうにかなっている……保留。 
 そもそも、自分が天使長に指示されたあたりを飛んでいない……有力。
「と、とりあえず…少し高度を落としてみましょうか〜♪」
 
 ふっと、青山と世羽子がほぼ同時に顔を上げた。
 もちろん、授業中でありそれは誰も気づかない。
 少し遅れて、微かな、本当に微かな振動……屋上かしら?と世羽子が青山を見るが、斜め後ろという座席の位置のため、それだけでは完全なる意志疎通が出来ない。
 トッ、トトトト…
 小さな、小さな音が青山の机から聞こえてきた。
 見れば青山の指先が、指の腹で机を叩いている。青山と世羽子、そして尚斗だけに通じるオリジナルのモールス信号だった。
 中学2年の時、世羽子と青山が同じクラスになったときに遊び感覚で青山が考え出したモノだが……皮肉にも、ここ2年ばかり青山と尚斗の間で使われることが多かった。
 世羽子が、机の上をたたいて返答する。
『何よ』
『多分有崎がらみ。妙な気配なし。心配無用』
「しっ…」
 心配なんてしてないわよ、第一心配しなきゃいけないような……と言いかけて、世羽子は口をつぐむ。
『今は関係ない。赤の他人』
『賭け。勝ったら何を要求』
『うるさい』
『きっかけ。後は自力で』
『頼んでない』
 などという2人のやりとりを……実際は交代で机を叩いている光景だが、さすがに何らかの意志疎通をかわしているぐらいは紗智にも理解できて。
 こっ、この2人……ひょっとしてできてるんじゃ?
 だとすれば、これは美男美女の組み合わせよね……ぼんやりとそんな事を考えながら、さりげなく視線を麻理絵に。
 憑き物が落ちた……そんな横顔。
 麻理絵は悪くない……もし仮に、誰かが悪いとしたら、それはみちろーか自分で。
 だったら、麻理絵は幸せになるべきだった。
 
「入谷さん、この、四角いのって何?」
「あ、バッテリーです。もう使いませんから、どこか隅っこにおいといてください」
 一体そんなモノ何に使ったのか……などと疑問に思うほどの主体性を持ち合わせていないようで、結花に言われるままそれを隅っこにもっていく。
 バレンタイン公演に向けて……動いている部員はもちろんいるが、とりあえず今優先されているのは、10日後にせまった養護施設での冬公演への準備。
 通常この公演は、1年生を主体に動き、2年3年はフォローに回る。早い話、1年生に経験を積ませる……というポジションの公演。
 昔からやっていたボランティアらしいのだが、部員の減少に伴っていつのまにかなくなり……夏樹が1年の夏(当時ちびっこは不在)有志4人で復活させた。
 5月と1月の年2回。
 夏は2年生、冬は1年生主体。
 冬と夏のこの公演を経て、秋の学生演劇……おおまかにはそういう流れで、後はイレギュラーなボランティア公演が入ったり入らなかったり。
「……今年で最後ですか」
 バレンタイン公演……言わずと知れた、夏樹による、夏樹のファンのための公演。夏樹がいなくなれば自動的に……だろう。
 しかし……実質イレギュラーであるはずのこのバレンタイン公演に、演劇部全体が引きずられがちなのは確かで、昨年秋の学生演劇コンクールでは、あまりはかばかしくない結果に終わった。
 お話はさておき、レベルそのモノは低くなかったと思っているが、一部の審査員が『イロモノだな』と酷評したという噂が結花の耳には届いている。
 無論、その噂は結花が調べたモノで、部員は誰も知らないはず……だが、夏樹に関しては自信がない。
 コンクールが終わってからしばらく、夏樹だけが多少落ち込んでいたように見えたから。
 審査員は、大抵名家となんらかのつながりを持っていたりするため、夏樹の実家、橘家ともなれば、そういう噂はどこからともなく耳に入る機会も多いだろう。
「入谷さん、この手配はどうなってる?」
「入谷さん、ここと、この配置なんだけど…」
 1年も2年も3年も……もちろん、数の上で3年はごく少数だが、何か問題があればすぐ結花のところへダッシュ。
 そういう意味では、結花に従うを潔しとしなかった先輩達がいた頃を、結花は多少懐かしくも思う。
 問題を解決しながらふっと、夏樹に目をやる。
 今度の公演で役を与えられた1年生が、顔を赤らめて夏樹の指導を受けていた。一見すれば、活気に溢れた部活動……だが、ガラス細工のような危うさを秘めている。
「入谷さん、ちょっといいかしら?」
「入谷さん、ちょっときて…」
 この人達……私がいなくなったら、どうするつもりなんだろう。
 どこかうそ寒いモノを感じながら、結花は呼ばれた方に向かって歩き出した。
 
『有崎尚斗君、麻里絵とよりを戻すつもりはないかね?』
 麻理絵の反応は、まあある程度想像通りで……尚斗は、思ってたより誠実なのがわかった。
 放課後の、パソコン部の部室……というか、パソコン教室で。紗智は、ディスプレイを眺めながら、その実何も見ていない。
 探りを入れるためのジャブだったが、思ってよりも、いや想像していた以上に予定外の獲物がかかったのかも知れなかった。
 何事もなかったようにそのまま立ち上がり、弁当を持って教室の外へと出ていった彼女。おそらくは、いつものようにバンドの仲間と昼食をとるためであったろうが……。
 明らかに、あの言葉に動揺して立ち上がった……背中に目がついているわけではないので、そこは紗智の想像なのだが、あの椅子の軋む音はおそらく。
 そもそも、いつもほとんど物音を立てない女として有名なぐらいで、3年の橘先輩の巨大な陰に隠れてはいるが、こっそりと彼女に憧れている女子生徒も多いと聞く。
「秋谷さんと尚斗…?」
 ちょっと首を傾げる組み合わせだが、それはそれで朝の会話など納得のいく事も多いのは事実で。
「秋谷さんと麻理絵……かぁ」
 ため息をつき、天井を見上げる。
 それは、今のところ自分の想像にすぎないのだが。
『紗智から見て、麻里絵にはいいところが気だてしかないのか』
「そりゃ、相手が相手だし…」
 女は愛嬌……などという、失礼な言葉を思い浮かべるしかできない紗智であった。
 
 ぱちん。
「……これで万事おっけーです〜♪」
 放課後の理事長室、職員室および事務室で……足りない部分はまさに神頼みで。(笑)
 女子高生、天野安寿が誕生した瞬間である。
 なお、これによって赤井さんが別のクラスへと移動したこと、およびクラスの座席の位置が多少変更されたことを明記しておく。(笑)
 
 
 
 
 ちょいと暗め……というか、1周目と重ねてお読みください。ちなみに、大きなお姉さんの会話に関してつっこまないように。(笑)
 

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