ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……
 目覚まし時計を探ろうとした右手が空を切る。
 ひどく寒い。
 額に押しつけられているのは……硬いボタンのような。
「……?」
 結花は半覚醒の状態で顔を起こし、左右を見渡した。
 卓上ライトと、ディスプレイの明かりにぼんやりと照らされた薄暗い室内には、何もない。
 いや、何もないというのは言い過ぎだが、床にしかれた布団と、目覚まし時計、教科書などが収められたカラーボックス1つ。およそ、花も恥じらう女子高生の部屋としては無機質に過ぎるであろう。
 そして、結花がついさっきまで突っ伏して眠っていた……もしくは気を失っていただが……小さな机の上に、旧型のパソコン。
 学校で廃棄処分にされるモノを譲って貰ったモノだから仕方がないのだが、表計算ソフトと文書打ち込みだけにしか使用しないのでスペック上特に問題はない。
 身体がぶるっと震え、結花の意識は急速に回復した。
「…何時ですか、今」
 目を擦り、時刻を確認……4時53分。
 眉をひそめ、ディスプレイに視線を向け……大きくため息をついた。
 もう一度時計を見……結花は寒さでこわばった肩を上下させると、鬼神のような速度でデータを打ち込んでいく。
 この地球上の生きとし生けるもの全てに朝が訪れるように、生きてさえいれば朝が訪れる。
 
 こんこん。
「どうぞ」
「入谷結花です、失礼します」
 ドアを開け、一礼し、ドアを閉める。
「……私が言うのも何ですが、早いですね、藤本先生」
「まあ、昨日の今日ですから、何が起こるかわかりませんし……というか」
 そこで一旦言葉を切り、綺羅はため息をついた。
「起こったんですけどね」
「は?」
 結花と同じく、少し眠そうな眼をした綺羅が振り返る。
「朝のHRで連絡があると思いますけど、昨夜不法侵入というか、当校の敷地内で不審な人影を見たとセキュリティから連絡がありまして…」
「……逃げられたんですか?」
「ええ、初めてですわね。セキュリティを強化したこの2年で、発見された上で逃げ切られたのは」
「……」
「……あそこまで大騒ぎにしろと言った覚えはないのですが」
「はい?」
「あ、いえ……独り言です」
 と、結花に向かって、穏やかな微笑みを浮かべる綺羅。
「それで、今朝は…?」
「あ、そうでした……データ打ち込み終了しました」
 差し出されたフロッピーディスクと資料の束を受け取りながら、綺羅は微妙な表情を浮かべて小さなため息をついた。
「身体をこわしますよ」
「かもしれませんが、そもそもお金がないと生きていけませんから」
「そうですね」
 綺羅はちょっと顔を上げ、結花の眼を見つめて言った。
「所詮は恵まれた人間がえらそうな口をきいてますか?」
「目に見える部分だけでそう判断するほど子供じゃないつもりですけど……」
 どこか拒絶するような響き。
 それは、綺羅が初めて少女と出会った6年前から変わることがなく………いや、変わる気配さえなくなったのは5年前からか。
「でも、入谷さんは私のことが嫌いですよね」
 微笑みを消し、それでいながら瞳にちょっと楽しげな色を浮かべて綺羅。
「……まあ、好きか嫌いかだけで言うならその通りです」
「別に、結構ですわよ。どういう感情であれ、それをぶつけられる相手を必要とする人間は多いですから」
 そこで初めて結花はちょっと困ったような表情を浮かべた。
「別に深刻な嫌悪じゃないです……それに、好き嫌いは別にして感謝はしてますから……このバイトだって、藤本先生がいなきゃ…」
 言葉を切り、ちょっと考え込むような表情を浮かべて結花はじっと綺羅を見つめた。
「このデータ打ち込みのバイト、本当にバイトなんですよね?」
「……と、仰いますと?」
「素直に援助を受け取ろうとしないひねくれた子供に、労働の対価という名目で援助していたりしませんよね、という意味です」
「正直、私の方が援助してもらいたいぐらいなのですが……今は貢いでくれる男性もいませんし」
「み、み、貢ぐって…」
 悪戯っぽい微笑みを浮かべる綺羅とは対照的に、結花は顔を赤らめてうつむいてしまう。
「言葉通りの意味ですわよ」
「そ、そそそそ…」
「くすっ、私が通勤に使ってる赤いスポーツカーですけど、あれはさる大企業の御曹司が…」
「わ、わわわ…失礼します」
 もう聞きたくないという感じに、結花は慌てて教官室からでていった。
 そして、残された綺羅は口元に小さな笑みを浮かべ。
「……さて、お手並み拝見ですか」
 
「おはようございます」
 他ならぬ自分が鍵をあけたのだから、誰もいないことは明らかだけど一応挨拶。
 冬の朝の、キンッと冴えた空気に包まれた誰もいない空間……1000年も昔の古典に、結花はすこしばかり同意したくなる。
「……?」
 ふっと、微かな違和感を覚え、結花は少し首を傾げた。
 もう一度、部室の中を見渡す。
 昨夜、戸締まりをしたときと何の変わりもない……はずなのだが。
 一体何が自分の神経に引っかかったのか、結花はさらに首をひねる。大抵の人間は、気のせいと思ってそのまま忘れてしまうのだが、生憎と結花はとことんまで追求する性質だった。
 時計の秒針がきっかり一回転したところで、結花はその違和感の正体に気づいた。
「……何で、埃臭いんですか?」
 長期間閉め切っていた部屋ならともかく、毎日のように……というか、毎日人が出入りし、活動している空間で埃臭さを感じるのは変だった。
 もちろん一晩経てば多少は……なのだが、結花は自分の嗅覚というモノがそれほど上等ではないことがわかっている。
 ここしばらく使っていなかった大道具が積み上げている空間と戸棚をチェックするも異常なし……というか、そもそも昨夜がどういう状況だったか覚えてないのであまり意味がない。
 結局、結花は部室の中を全てチェックする羽目になり……最後の最後で、それに気づいて大きな悲鳴を上げた。
「どっ、どーいうことですかっ!?」
「どっ、どうかしたのっ?」
 沸騰していた感情を急激に冷まさせる、結花にとって重要度の高い声。
「え?」
 顔をドアに振り向ける。
「ゆ、結花ちゃん、何が…何かあったの?」
 心配そうな表情で結花を見て、部屋の中を見渡して、また結花に視線をもどして……を繰り返す夏樹。
 感情こそ冷めきりはしないが、夏樹の様子に結花は冷静さを取り戻す。
「昨日、公演のチケット柄見本を刷ったじゃないですか」
「そ、そうね…」
 おちついた結花の口調に、夏樹もまた冷静さを取り戻したのか小さく頷いた。
「アレがありません」
「……何で?」
「昨夜、部室を最後に出て鍵を閉めたのは私です。今朝、鍵を開けたのも私です」
「誰か他の……じゃなくて」
 既に先回りして返答されていた事に気づき、夏樹は首を振って質問を変えた。
「まだ、タイトルも決まってない柄見本のチケットに何の価値が…」
「……ぁ」
 先ほどの綺羅との会話を思い出し、結花は小さく口を開けた。
「犯人は男子生徒です」
「ごめん結花ちゃん……ちょっと話についていけない」
 結花が先の綺羅の話を手短に伝えると、夏樹は首をひねった。
「えっと……その不審人物がここに忍び込んだことについては一応納得できるんだけど」
「他にどんな被害があるのか知りませんけど、そもそも演劇部の部室に忍び込む事自体がおかしいですし、チケットの見本なんか盗んで何の意味がありますか」
「……そうだけど」
 確かに結花の言うとおり、普通なら職員室や理事長室、事務室の物色するであろう……演劇部の部室に忍び込むという行為が異常なのは理解できる。
 じゃあ、何故男子生徒なのか……についてはまったくわからない。
 そんな夏樹の疑問に気がついたのか、結花が再び口を開く。
「半分は勘です……というか、消去法で言うと男子生徒の誰か以外あり得ないんです」
 
「皆様方…」
 凛とした気品に満ちた声。
「おはようございます」
「おはようございます」
 尚斗は無言で二の腕のあたりをかき、青山は肩をすくめ、男子生徒は昨日と同じくとまどったように礼をし……ただ、美貌の女教師に魂を吸われつつあるのは明らかで。
 綺羅はにっこりと微笑みながら、あらためて尚斗に視線を向ける。
「おはようございます、尚斗君」
 右側からチクチクと肌を刺す麻理絵の視線を感じて、尚斗はちょっと弁解するよう気持ちで口を開いた。
「何故、俺だけに?」
「挨拶は礼儀の基本ですもの」
「……なるほど」
 その線で責められては弁解のしようもない。
「おはようございます」
 だったら青山はどうなのか、などとごねずに頭を下げたのだが……にこにこと微笑みつつも、綺羅はどこか不満そうに尚斗を見つめており。
「まだ、何か?」
「先生は、尚斗君に挨拶しましたから……尚斗君は私に…」
「おはようございます、藤本先生」
 にこにこにこにこ。
「まだ何か?」
「藤本綺羅と申しますの」
「教師を名前で呼べと?」
 昨日の件もあり、さすがに教室内の女子が『あの二人どういう関係?』という表情で顔を見合わせる……それでも口を開かないところは教育のたまものか。
 ちなみに、男子は麻理絵と同じく刺すような視線を……と言っても、相手が相手だけに(笑)少しばかりマイルドな視線を送り始めていたり。
 青山はそれとわかる仕草で尚斗の左隣に座る世羽子を観察するように眺め、当の本人は首をねじ曲げるようにして窓の外に視線を向けて決して青山とは視線をあわさぬようにしている。
「ダメ……でしょうか?」
「ダメです」
 にべなくはねつけられ、綺羅は小さくため息をついた。
「では出席を……(中略)……一ノ瀬さんと、宮坂君がお休みですね」
 出席簿に何かを書き入れながら、綺羅はちょっと憂鬱そうな表情を浮かべる。
「これは連絡事項といいますか……昨晩、不審な人物を高等部の校舎で目撃したと、警備の方から報告がありました」
 綺羅の報告にクラスの約半分が不安そうな表情を浮かべ、約半分が呆れたようなため息をついた。
「皆様も、何か気づいた事があったら報告してくださいね……何でしょうか、青山君」
「皆様『も』という事は、既に何らかの被害があったことを確認済みなんですね」
「ええ、ちょっと職員室に荒らされた跡がありまして…」
「なるほど」
 青山が小さく頷く。
 尚斗は尚斗で、今朝宮坂から没収したブツを単純に捨てるのもアレだし、どう処理したモノかと思いをはせていて。
 
「不審人物だって…この学校、新しく校舎を建てた時に警備システムとかすごいのにしたらしいけど…」
 綺羅が教室を出ていくなり麻理絵。
「まあ、並のシステムじゃ……というか、不審な人物が発見されるぐらいだから、かなりのシステムなんだろうが」
 ちらり、と青山が尚斗を見る。
「ん?」
 何か話しかけてくるのかと思いきや、青山はそのままふっと視線を逸らしてしまう。そばに麻理絵がいるから……でもなさそうなので、尚斗は首を傾げた。
「どうかしたの?」
「ん、あ、いや……」
 麻理絵に向かって、尚斗は首を振った。
「ふーん……そういえば、宮坂君お休みなんだね」
「いや、休みじゃなくて多分遅刻だと思うが」
 そろそろ目を覚ますかもな…などと考えつつ。
「遅刻…多いの?」
「別に宮坂に限った事じゃないけどな……俺もあんまり人のことは言えないけど、毎日どのクラスにも5、6人は遅刻するやつがいて、ひどいときは二桁にのるし。ウチの学校は、ここより始まるのが30分遅いんだけどな」
「そうなの?」
 麻理絵はちょっと驚いたように目を開き……教室内を見渡した。
「……そうなの?」
「まあ、最初だけだろ……しばらくすれば、また元に戻るとは思うけど」
 
「むう…」
 3限目の授業を終えて、ため息ともうなりとも判別しかねる声をあげた尚斗。
「……限界か、有崎?」
「んー、ちょっとな」
 振り向かずに問いかけてきた青山の背中にそう返す。
「限界って…?」
 首を傾げながら、それでも麻理絵は尚斗に気づかれない程度にちらりと世羽子に視線を向けた。
「いや、授業中の静かさというか……」
「……授業中は、普通静かでしょ?」
「そりゃ、単に授業に集中して静かならともかく……」
 ちょっと口ごもり、尚斗はげんなりしたような表情を浮かべて教室内を見回した。
「活気のある静寂ならいいが、有崎は無気力な静寂に耐えられない性質だからな」
「……無気力?」
 反射的にそう呟くと、麻理絵は考えるようにちょっと俯き……青山に向かって問いかけた。
「……男子生徒がふぬけてるってこと?」
 そこで初めて青山が振り返った。
「そう見えるか、椎名」
「う、うん……なんとなく」
「ほう」
「わ、私……変なこと、言ったかな?」
「いや」
 青山が口元をちょっと歪めて笑った。
「……というわけで、4限はサボる」
「え、ちょっと…尚にーちゃん?」
 席を立って歩き出した尚斗の後を、麻理絵が慌てて追いかける。そして2人が教室を出ていくと、それまで黙っていた世羽子が口を開いた。もちろん、視線は向けずに。
「……ふぬけてるの?」
「と、いうか……まあ、男子連中は授業の邪魔をしないように必死で息を殺してるというところか」
「そうね……女子の前ではともかく、休み時間なんかはそれなりだもの」
「ただ、確かに普段の連中からするとふぬけていると言われても仕方がない」
 お互いに顔を見ることなく、青山は前を向いたまま、世羽子は窓の外を向いたまま、呟くように。
「さっき……椎名さんの何が興味深かったの?」
「クラスの半分が、普段から接しているはずの女子で……まあ、大抵の人間はとりあえずそっちについて言及する」
「……先入観ありきの結論のように思えるけど」
「椎名が特殊なのは、既に決定事項だ」
「……それは」
 世羽子が口をつぐんだ。
 視線の方向は窓の外で、教室のドアが死角であるにもかかわらず麻理絵が戻ってきたのに気づいたのか……それとも、仕掛けられた隠しマイクの存在を思い出したからなのか。
「どうした、椎名?」
「尚斗君、4限目は絶対にサボるって…昼休みには戻ってくるって言ってるけど」
「ま、義務教育じゃないからな…」
 別に何の問題もないだろう……という感じの青山をじっと見つめ、麻理絵はおずおずと切り出した。
「青山君…尚斗君って、いつもあんな感じ?」
「……」
「…な、何?」
「椎名の知ってる有崎と、今の有崎……どこか、違う部分があるのか?」
「…もうちょっと、真面目だった気がする」
「ほう」
 世羽子が微かに身体を強ばらせたことに気づいたのか。青山のそれは、明らかに面白がっている口調で。
 もちろん、麻理絵にしてみればそれは奇妙な反応に違いなく。
「わ、私、な、何か変なこと言った?」
「いや、別に」
 
「おーい、宮坂……生きてるか」
 ちびっこの鬼タックルを食らってのびている宮坂の頬をぺちぺちと叩く。
「……お前がいうな、有崎」
 絞り出すように呟くと、宮坂はマット運動の後転をするように足をひきつけ……反動をつけて一気に起きあがった。
「宮坂、さっき取り戻されたチケットは演劇部のモノとして、謝恩会のチケットはどこから盗った?」
「ん、生徒会室だ」
 それがどうかしたか……と、いう表情で宮坂。
「ところで宮坂」
 それまで黙っていた青山が口を開いた。
「何だ?」
「有崎にやられて、午前中ずっと気絶してたのか?」
「この冬の寒空の下、公園に放置だぜ…」
「それだけの理由はあったと思うがな」
 尚斗は宮坂の肩に手を置き、みしみしと締め付けた。
「ちょ、ちょっとタイム」
「つーか、お前のせいでここにいられなくなったりしたら恨まれるぞ」
「心配するな、そんなへまを俺がするように見えるか」
 そんなやりとりを続ける二人には聞こえぬよう、青山がぽつりと呟く。
「そう…確かに見えないんだよな」
 宮坂がその気になれば、ここの学校の警備レベルでは発見されたりしない……休み時間を使ってそれとなく調べた結果、青山の疑惑は既に確信になっている。
 確かに、宮坂に関してはその場その場の気分によって何をやらかすかわからないと言う不確定要素をたぶんに含んではいるのだが。
「有崎、また後でな…」
 軽く右手をあげ、青山はその場から去った。
「それより、犯人が特定された危機感ぐらい持って欲しいが……」
 呆れたように呟きつつ、青山はさっきの小柄な少女を気配を探った。割と特殊な雰囲気を持っていただけに、それを追うのは青山にとってそう難しくはない。(笑)
「ふむ…」
 最悪、そのまま職員室なり事務室なりに駆け込むと思ったが、意外にも少女はそばを通りがかった教師にそれを告げる素振りも見せず。
 どうやら緊急的な危険はないと判断すると同時に、青山はそれが何故なのかに興味を持った。
 
「……取り戻したって、結花ちゃん」
 取り戻したって事は、それは昨夜部室に忍び込んで無価値のチケットを盗み出した犯人が分かったと言うことでは…。
 夏樹の顔にわかりやすくそう書いてあるのに気づいたのか、結花がごく平然と嘘の言葉を付け足した。
「無価値だと気づいたんでしょうね、校庭の隅に捨てられてたのを、男子生徒が拾ったみたいです」
「じゃあ、犯人が分かったって事じゃ…」
「まあ、これが戻ってくればいいですよ」
「そう…ね?」
 頷きつつも、どこか腑に落ちない……という表情の夏樹。
「別に警備に関しては学校側が考えることですし、私達が頭を悩ませたって仕方がないことです」
「え、ええ…」
 夏樹もそう鈍い方ではないので、結花の態度にやはり違和感を覚えつつも……頷かざるを得ない。
「そういうわけで、演劇部の部員にもあえて何も伝えませんから、夏樹様もそういう心持ちでお願いしますね」
「……わかったわ」
 おそらく、部員達に余計な心配をかけたくないだろう……と判断した夏樹は、素直に頷く。
「じゃあ、夏樹様。また放課後に」
 一礼して去っていく結花の背中を見送りながら、夏樹はちょっとため息をついた。
「……どう見ても、結花ちゃんの方が先輩よね、これじゃ」
 
「ごめんね、今日はちょっと用事があって」
 と、申し訳なさそうに頭を下げて、麻理絵がそそくさと教室から出て……いったところで、尚斗はふと気がついた。
 そういえば、教室の掃除というか放課後の掃除なんかはやらなくていいのかと。
「えー……っと」
 麻理絵は帰ったから……と、反射的に世羽子の方を振りむきかけた動きを急停止。
「赤井さんだったっけ?」
「はい?」
 左前方の……青山の左の座席に座る少女に声をかけた。
 青山が誰にも聞こえないようにため息をつき、世羽子は普段より微妙に大きな足音をたててすたすたと教室を出ていく。
「何…ですか?」
 少女は少し硬い表情で振り返る。
「いや、この学校って、放課後の掃除とかしないの?」
「ああ、業者の方に委託してるそうです。私も最初はとまどいましたけど」
 それだけですね……という感じに、少女はちょっと頭を下げて教室を出ていった。
「業者に委託……ときたか」
「まあ、色々理由があるんだろ」
 と、そっけなく青山が答える。
 生徒に隅々まで掃除させたら一体何が出てくるのやら……とは言わない。(笑)
「しかし…」
 呟きながら、尚斗は教室を見回した。
 HRが終わって精々5分ほどしか経過してないのに、もう教室に残っている生徒は尚斗達を含めて5、6人。
「帰るか、青山」
「ああ…」
 
「夏樹様ったら、また本を読みながら……」
 危ないですよ……と、一声かけるため、結花はちょっと小走りに……から、いきなり全力ダッシュへと切り替えた。
 男子生徒が、本を読んでいて周囲に何の注意も払っていない夏樹様に向かって後方から手を伸ばしかけていたからだ。
 
「あぶなあああいっ!夏樹お姉さまああぁっ!」
 
 叫び、駆けながら、重心を落とす。
 速度を上げるためではなく、攻撃のため。
『……別に、身体が小さいならそれを逆手に取る方法だってあるわよ』
 どこか突き放したような素っ気ない言葉を思い出しながら、結花はステップを一足ほど左側にずらして右肩を引いた。
 無防備な男子生徒の脇腹めがけて、右肩を抉り込むように突き上げる……つもりが、予想以上に男子生徒の反応が素早い。
 かわされる……そう判断した瞬間、結花は軌道修正して少年の鳩尾へと突進……しかし男子生徒はその動きにすら対応して。
「…っ!?」
 覚悟していたほどの衝撃は訪れず、柔らかい風船に向かって突進したような違和感……の後結花の世界は回転し、制服の襟を引っ張られたのかまずは首に圧迫感を覚え、そして右肩に衝撃。
「……いたあーい」
 痛みに思わず声が出た。
「あたた……一体、何なの」
「むう……漫画や映画のようにはうまくいかねえなあ」
「有崎、誰も彼も助けようと欲張りすぎだって……1人に絞れ、1人に」
「俺の計算では、実現可能なはずだったんだがな……よっと」
 背中に感じていた重みがすっと消えた……が、すぐに立ち上がろうという気力が湧いてこない。
 右肩の痛みではなく、首を絞められた後に感じる一種の虚脱感のせいか。
「すまん…読書に夢中になってて壁にぶつかりそうだったんで……とはいえ、壁に頭ぶつけた方がマシだったかも知れないが」
「え…あ、ああ…」
 夏樹と男子生徒の声。
「怪我は…」
「なさそうだけど…?」
「そっか…」
 夏樹の無事を告げる声に……結花は男子生徒の魔の手から夏樹を守ったという充実感に胸を熱くした。(笑)
「……で、大丈夫かお前は」
「…っ?」
 両脇の下に手を差し込まれ、結花は思わず身体を固くした。そのまま抱え起こされる。
 動揺を抑え込み、結花は口を開く。
「……誰の許可を貰って抱え起こしてますか?」
「おお、タカイタカイしてやるから勘弁な」
 タカイタカイって、私は子供じゃ……っ!?
「きゃっ」
 天井がものすごい勢いで目の前に迫り、脇の下に差し入れられた手の感触が消えて全身を浮遊感に包まれる。
 その感覚は悪くなかった……が、すぐに全身は重力の鎖に絡め取られて、男子生徒の腕の中へと着地する羽目になる。
「な、なんて事するですかっ!一瞬天井にぶつかるかと思ったじゃないですかっ!?」
「いや、スマン。思ったより軽かったもんで力が余った……つーか、もうちょっと状況を確認してからつっこんでこい。あの勢いで壁につっこんだら洒落ですまないぞ多分…」
 そう言いながら指さす壁の出っ張りがなくとも、既に結花は相手の正しさに気がついている。もちろん、それを正直に口に出せはしないが。
「何言ってるですか……かわせなかったくせに」
「……ま、そういうことにしとこーか」
 ため息混じりに。
「で、肩は大丈夫か?」
「は?」
「ぶつかる瞬間に右肩をねじり込めば威力は上がるかもしれんが、その衝撃を受け止めるお前の肩が保たんだろ……」
「……ちっちゃくて悪かったですね」
 あなたが妙な感じに避けたりするから……という言葉をのみこんで。
「ま、そういう口がきけるなら問題ないな……とりあえず、良かった良かった」
 最初、結花は自分が何をされているのかわからなかった。
 髪の毛と頭皮を刺激されている。
 目の前の男子生徒の手が、自分の頭の上へと伸ばされている。
 永遠にも感じた意識の空白を、女子高校生である自分が、幼い子供のように頭を撫でられているという事実認識が埋めた。
「な、な、な……」
 顔に血が集まっていく……怒りか、羞恥か。側にいるはずの夏樹の存在が綺麗さっぱり消えた。
「何するんですかっ!」
「うむ、無事で良かった」
 一瞬ひるんだが、やめる気配がない。
「てい」
 慌てて少年の手を払いのけた。
 
「……ふふふ」
「……なんですか、夏樹様?」
 放課後の廊下を、演劇部の部室へと向かいつつ。
「ううん…さっきの結花ちゃん、楽しそうだったなあって」
「なっ、何言ってるですかっ?」
 反論する結花を、夏樹は優しい視線で見つめている。
「あ、あんなっ、勝手に人の頭撫でたりする礼儀知らずな男子を相手に、なんで楽しいなんて思ったりしますかっ?」
「でも、そう見えたから」
「な、夏樹様ぁ…」
 ちょっと困ったようにうつむく結花。
 さっきのように、深刻さを感じさせない怒りを爆発させたりする結花を見るのは初めてで新鮮だった。
 あの少年に、結花は良い意味で子供扱いされていて……それは、自分も含めて結花を子供扱いできるだけの人間がいない事を意味するのであるが。
 冴子は……子供扱い以前に、結花との相性が悪いというか、結花にとって冴子はあまり近づきたくないタイプらしく。
「……」
「……夏樹様?」
「あ、ううん…ちょっと考え事」
 結花に負担がかかりすぎている。
 あの少年とのやりとりを冷静に判断すれば、そういう結論にいきつく。
 心配そうに見上げる結花に、微笑みかける。
『助けようとはしたが失敗したからな……必要ないだろ』
 何気なく放たれた少年の言葉が心を刺していた。
「そういえば……私、タカイタカイって、やってもらった記憶が無くて」
「そうなんですか?」
「物心ついたときには、もう誰もそんなことしてくれなかったし……」
 そのころから大きかったからと言う言葉を呑みこみ、夏樹はさっきの少年と結花とのやりとりを思い出しながら悪戯っぽい微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「頭を撫でられた記憶もないのよ」
「まあ、いつも良い子は頭を撫でられたりしないものですし」
 あっさりと流され、夏樹は心の中でため息をついた。
 自分は、この少女の先輩なのだろうか……。
 
 
 
 
 さて、2周目だから書くのは楽なんじゃねえの……などと仰る方もいますが、そうでもないです。(笑)
 ギャルゲーのテキストなら、一度読んだ文章のスキップ機能があったりしますが、こういうのはそういうわけにはいきません。
 同じ内容でも、違った事を書かなきゃ読み手としてはうんざりするでしょうし。
 

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