「あの……気分悪いんですけど、保健室行って来ていいすか?」
 3限目の途中、唐突に(笑)そんなことを言って姿を消した尚斗は、当然のように4限目が始まっても帰ってくることはなかった。
 そして尚斗がいなくなった席を、見つめ続ける世羽子……なのだが、さっきまでと比べると幾分その視線や表情には微妙な感情がにじみ出していて。
「……ふう」
 右前方で、ため息を吐いたのは青山だった。
 口調は穏やかに、だが教師に有無を言わせぬオーラを発しながら、体調不良の旨を告げ、教室を出ていき……その5分後、世羽子もまた、教師に体調不良を告げた。
 
 授業中じゃなくても……だろうが、人の気配のない校舎裏。
 言葉にして示し合わせたわけでもないが、世羽子はまっすぐそこに向かい、当然のようにそこで自分を待っていたであろう青山と顔を合わせた。
「で…何の用?」
 一見不機嫌そうな世羽子の口調をさらりと受け流し、青山が口を開く。
「まあ、意外といえば意外だったからな」
「……何が?」
 約3年ぶりの再会……の第一声としてはさすがに予想外だったのだろう、世羽子は演技ではない意外そうな視線を青山に向ける。
「いやなに…俺は有崎と違って、小学校の頃の秋谷を知ってるからな……正直、あの頃以上に荒んだ秋谷が見られるかと思って楽しみにしてたんだが」
「……期待を裏切って悪かったわね」
 苦虫をまとめてかみつぶしたような表情を浮かべ、世羽子は言葉を続けた。
「と、いうか……何で、青山君達があんな男子校に通ってるの?」
 自分の問いかけに対し何も応えようとしない青山に、世羽子はちょっと首を傾げ……1分ほどの沈黙を経てから、質問をやり直す。
「…何で、尚斗はあの男子校に進学したの?」
「うむ、質問は正確にな…」
 ギリッ、と歯ぎしりが聞こえてきそうな表情で世羽子がうつむいた。
「…と、秋谷、その前に一つ質問しても良いか?」
「……何を?」
 校舎の壁に背中を預け、青山が腕組みをする。
「秋谷は…有崎が、どこの高校に行くのか…とか、考えたりしなかったのか?」
「……関係ないもの」
 ちょっと視線を逸らしながらそう答えた世羽子に、再びため息をつく青山。
「…なるほど」
「何がっ、『なるほど』なの!?」
 過敏な反応を示す世羽子に対し、青山が再びため息をつく。
「だからっ、何で嫌みったらしいため息を吐くのっ!?」
「今のため息は、柄にもないことを少しでも考えた自分自身に対してのため息なんだが……」
「…は?」
 もう一度ため息を吐いてから青山が口を開いた。
「まあ、それはそれとして、答えになってるかどうかはともかく、質問には答えよう」
「……」
「秀峰(しゅうほう)の入試の日、試験会場に向かってる途中で有崎が交通事故にあってな……まあ、平たく言うとそこの試験が受けられなかった」
「……尚斗が、あの秀峰?」
 世羽子はちょっと絶句し……呆れたように首を振った。
「行かなくて正解よね…」
「俺もそう思う…まあ、あの頃の有崎なら1週間で退学だな」
 青山はおそらく故意に『あの頃の』の部分にアクセントをつけたのだろうが、世羽子はそれに気づかず、何かを考えていて。
「……何で秀峰なの?」
「さあ、俺は有崎じゃないからな。父親のため…かもしれん。あれダメ、これダメ、のがちがちの進学校だが、少なくとも評判だけはこの地域じゃぶっちぎりなわけだし……今通っている男子校の評判も、別の意味でぶっちぎりだが」
「じゃあ、青山君のため……かもしれないのね」
 ちょっと意表をつかれたように、青山が視線を空へと転じながら呟いた。
「なるほど…その可能性は見逃していたな」
 そして今度は世羽子がため息をつく。
 ため息を付くと幸せが逃げる……という言い伝えがあるが、あれが真実ならこの2人には、幸せのかけらすら残ってはいまい。
 もちろん、それを言えば二人そろって仲良く鼻で笑うのはほぼ確実だが。
「……そろそろ、本当のこと話してくれない?」
「本当…とは?」
「秀峰云々は嘘じゃないかも知れないけど、あの尚斗が、車にひかれたぐらいで骨折なんかするわけがないでしょ……おとなしくひかれるような運動神経でもないし」
「有崎に聞いてみろ。入試の朝、車にひかれそうになった女性を助けようとして、救急車で運ばれ…入試は受けられなかったが脚の骨折だけですんだ……などと、本気で説明するはずだから」
 一呼吸おいて、世羽子。
「…どういうこと?」
「少なくとも……有崎は、車にひかれそうになった女性を助けて入試を棒に振ったという事を信じているわけだ」
「……」
 この男は、今度はどんな手段で自分を騙そうとしているのか……そんな視線で青山を見つめ続ける世羽子。
「有崎をひいたという車の運転手、女性を助けようとして少年が車にひかれたのを見たという通行人が数人……まあ、探せば今でも証言してくれるだろうな」
「…嘘は言ってないってわけ?」
 世羽子の問いには答えず、青山が言葉を続けた。
「ただ面白いことに、有崎が助けたはずの女性だけがみつからない」
 微かに、世羽子の瞳が細まった。
「……仕組んだの?」
「秋谷、省略された主語が俺のように聞こえるのは気のせいか?」
 どこか笑いをこらえるように青山。
「まあ、秋谷の言うとおり、俺も有崎が車にひかれて脚を骨折…なんてのは信じてはいないが」
 細めた瞳のまま、世羽子は青山を見つめ続ける。
「なのに……やっかいなことに、俺にはしっかりとさっき言ったような光景が記憶にあるんだ」
「……は?」
 ぽかんと口を開け……た、世羽子の顔が憤怒の色に染まっていく。おそらくは、青山が自分をからかって遊んでいると思ったのか。
「あお…」
 何か言いかけた世羽子を視線で制し、青山が言う。
「基本的に、俺は自分の記憶に絶対の自信を持っている……が、その件は別だな。当の本人を含め、いくら証言者がいようとも俺はその記憶を否定する……故に、俺は秋谷に対して本当のことを話すことなど出来ない……これでいいか?」
 『…これでいいか?』と言われても、どう反応したモノやらという様子の世羽子に向かって、青山は口元に笑みを浮かべながら言った。
「まあ、秋谷の通うここに一番近い学校を選んだとかいう理由ではないな、多分」
「……っ!」
 もんのすごい目つきでにらむ世羽子……を、青山はいつもと同じく皮肉っぽい笑みを浮かべ、観察するように見つめる。
 ただ単純につきあいの長さで言うなら尚斗にも勝る青山である。
 世羽子という存在が本当に恐ろしいモノになるのは、そんなわかりやすい目つきをしているときではないことを良く知っているだけに、何のプレッシャーも感じていないのだろう。
 無論、世羽子そのものにプレッシャーを感じずにいられるだけの能力差を保持した青山だからなのかも知れないが。
「……相変わらず、ね、青山君は」
「そうか?」
 青山の口元の笑みが皮肉っぽく歪む。
「……で、何の話がしたいの?」
「ふむ、否定はしないが……俺としては、秋谷の方により多く聞きたいことがあるようだと思って、誘ったつもりだった」
「別に……尚斗が、青山君と一緒になってあの男子校に通ってるのか気になっただけ」
 そう言い捨てて、ぷい、とそっぽを向く世羽子。
「それだけか?」
「それだけよ」
 そっぽを向いたままやや声高にそう答える世羽子を、青山は皮肉っぽい目で見つめる。
「じゃあ、遠慮なく俺の方から質問させて貰うとするか…」
「……お好きに」
「秋谷から見た藤本先生の印象を教えてもらえるか?」
 ちょっと意外そうな表情を浮かべて世羽子がゆっくりと振り向き……こめかみのあたりを指先で揉みほぐしつつ力無く首を振った。
「どうかしたか?」
「いえ……一瞬でも、青山君にそんな人間らしい感情がと思った自分がちょっと馬鹿馬鹿しく思えて」
「美人であることは認めるが……座席順といい、クラス分けといい、ちょっとできすぎてる感じがするしな…俺の知る限り、それに手を回せるのはあの女だけだろ」
「正直、偶然…とは言い難いわね」
 どうやら、自分にも関係のある話らしいと思ったのか、世羽子の表情がいくらか真剣味を帯びた。
「基本的に、この学校の実権は、ほとんどあの先生が握ってるようなものだし…極めつけは、有崎の席に向かって仕掛けられたカメラにマイクだな」
「……え?」
 意外な内容だったのか、かくん、と顔を上げた世羽子の仕草はやや人形じみていた。
「……おや、鈍くなったな、秋谷…というか、それどころじゃない、というのが正解か」
「え…え、え、ちょっと待って?」
 世羽子は右手を青山に向かって付きだし、左手で自分の目を覆う。
「……カメラとマイクって…何のためにそんな」
「それがわからないから、とりあえず秋谷あたりから情報を集めようとしてるんだが」
 青山はちょっとため息を付き、言葉を続けた。
「有崎には教えるなよ……説明する必要もないだろうが、あの男に腹芸を期待するだけ無駄だしな。頃合いを見て、俺が教える」
 それから数秒…観念したように、世羽子が天を仰いだ。
 青山の質問に素直に答えるのはしゃくだが、この手の陰謀めいた件に関しては青山に判断させるのが一番であることがわからないほど、世羽子は馬鹿ではないし、意固地でもない。
「とりあえず…印象としては女狐かしら。無論、信用できないという意味で、だけど。ただ…悪い人間には見えない…とは、付け加えておくわ」
「ほう」
 『悪い人間には見えない』という部分に、青山が興味深そうに声をあげた。
「私と尚斗がつきあってたことはもちろん、小学生4年の時、私が教師を再起不能にしたことまで知ってるわね……というか、それを知ってるって事を、昨日わざわざ私に教えてきたわ」
 世羽子は手早く、昨日の電話の件を青山に説明した。
「なるほど……まあ、間違いなく仕組まれてるな。どこからなのか、はともかく」
「それはわかるけど…何のために?」
「さて……な」
 ちょっと間延びしたような返事をし……青山は、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、つぎのこっちの番か……男子校の校舎の件だが…」
 
「……こんなところかしら?」
「そうだな」
 お互いが持つカードの全てをさらさず、とりあえず自分に必要な情報を引き出し……もちろん、青山の方により多くの情報が集まったわけだが、そこは交渉能力の差というよりも、世羽子が青山の能力に絶大の信頼をおいているためだろう。
「……それにしても、尚斗が悪戯…ね」
 そう意外そうに呟く世羽子の瞳には微妙な感情が見え隠れしており。
「意外か?」
「それは……そうね。本当の意味で、尚斗が悪いことをしたという記憶はないもの」
 ほんの少し目を伏せ、世羽子は言葉を続けた。
「変わっちゃった…って事かしら」
「個人的な意見を言わせて貰えば、悪い変わり方ではないし、有崎という人間の本質を思えば些末なことだ……まあ、あの学校の生徒達に対する仕打ちを聞けば、すこし意見が変わるとは思うが」
「……ひどいの?」
「そうだな……まあ、有崎が気づいているかどうかはともかく、最初から学校側は俺や有崎に対して含むところがあったとしか思えない対応だった」
 世羽子がちいさくため息をついた。
「それは可哀想ね……相手が悪いし」
「……何故最初から、という疑問はないのか?」
「自分の宿題を他人に押しつけないで……基本的に私は降りかかる火の粉は払うだけ。青山君とは違うわ」
 世羽子の言葉に青山はちょっと微笑み……おそらくは演技であろうが、何かを思いだしたかのように口を開く。
「そうだ…大事なことを忘れていた」
「なに?」
「宮坂…同じクラスの、あの男には気をつけろ」
「……どういう意味?」
 半瞬の間をおき、世羽子が問い返す。
 少なくともこの少年が『注意しろ』と忠告する存在はざらにはいない。
「もちろん、有崎がそれなりに気を許しているだけに基本的に悪い奴じゃないのは確かだろう……が、何らかの目的を持って有崎なり俺に近づいてきたのは間違いないからな。俺はあの男を本当の意味で信用したことは一度もない」
 世羽子が大きくため息を付く。
「……今のはどういう意味のため息だ?」
「別に……というか、珍しいわね。信用してないと言い切る相手がそばにいることを、青山君が肯んじてきたなんて」
「まあ、少なくともあの男の存在は有崎の心を和ませる役にはたったからな」
 ふっと、世羽子の視線がどこかあらぬ方向に向けられた。
「……高校受験の前、何かあったの?」
「……」
「……ちょっと、青山君?」
 青山はちょっと何かを考えるように眉をひそめ……ぽつりと、呟くように聞いた。
「秋谷、つかぬ事を聞くが……中3から高1にかけて、有崎なり、俺の噂を耳にしたことはなかったのか?」
「交友関係が極端に狭い私に対して愚問だと思わない、それ?」
 呆れたように呟き……言わなくてもいいことを言った事に気づいたのか、世羽子はちょっとうつむいた。
「良かったな、と言うべきか?」
「何が…」
「交友関係が皆無じゃなく極端に狭いと言うことは、この学校で草加のような存在に出会え…」
「由香里の話はやめて」
 世羽子のそれは、どこか哀願するような響きで。 
「ふむ……それにしても噂すら聞いたことがない、か」
 世羽子に気を遣ったのか、それとも関心を失ったのか、そう呟いて、視線を空へと向ける青山。 
「……妙な話だな」
 青山の呟きは、世羽子の耳に届かぬまま風に紛れて消えた。
「……で、噂がどうしたの?」
 微かな感謝をただよわせた世羽子の問いには答えず、青山は軽くのびをしながら口を開いた。
「有崎の幼なじみの、椎名という女は面白いな」
 急すぎる話題の変更で、『噂』とやらについて答えるつもりがないことを示したのか……世羽子もそれを感じ取り、諦めたように変更された話題についていく。
「……同じ学校とはいえ、ほとんど面識がない…というか、挨拶すら交わしたことがないわね」
 そしてちょっと自信がなさそうに世羽子は言葉を続けた。
「一見……普通に見えるんだけど、どう面白いの?」
「なるほど……ずっと昔に、面識があったわけか」
「……こっちから情報を引き出すだけじゃ、フェアとは言えないんじゃないかしら?」
 青山はふむ、と頷いた。
「そうだな、ある意味秋谷と同じ勘違いをしているんだろうが…並はずれた演技力を、間違った方向に使っているのがなんとも滑稽でな」
「……?」
「そこから先は自分で考えろ、秋谷」
「……青山君は、今日初めて椎名さんに会ったわけよね?」
「ああ」
 青山の言うとおり並はずれた演技力の持ち主ならば、いかな青山といえどもこの短時間で見抜くことは難しいのではないか……と、世羽子は首をひねる。
「……後でゆっくり考えるんだな」
「……」
 微かな沈黙の後、少し歯切れの悪い口調で青山が言った。
「それと……有崎に話しかけて欲しいなら、素直にそう言った方がいいぞ」
「な、何言ってるの?」
 世羽子の口調と表情に、わかりやすい動揺が浮かぶ。
「わ、私はね、怒ってるのよ。見ればわかるでしょ!?」
「そりゃ、多少は怒ってもいるだろうが…」
 青山はちょっと肩をすくめ、呆れたように言葉を続けた。
「もし秋谷が本気で怒ってるなら、同じクラスの連中の半分以上は心身に異常を覚えて早退する羽目になると思うが」
 そう青山が言った瞬間、4時限目の授業の終了を…昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
 
 約3年ぶりの青山との会話は、昔と同じくある種の開放感と共に疲労をもたらしていたのか。教室に戻って弁当を取り出し、隣の席に視線を向けていらだちと懐かしさの混じった複雑な感情を抱き、ため息をつきながら弥生と温子の待つ教室へと向かう。
「俺が先だっ!」「うおおお、女子トイレっ!」「…っ!」
 うんざりしたような表情を浮かべ、怒号とも歓声とも言い難いそれが聞こえてくる方角に目を向ける。
「野郎が一度使ったら、もう価値なんかねーんだよっ!」
 などと女子トイレを前に、十数人の男子生徒が押し合いへし合い……ある者は片手で前を押さえたまま、ある者は鼻をくんくんさせながら……誰が一番先に、そこを使うかでもめているのか。
 見られていることに気づいているのかいないのか、ついには殴り合い……大半の男子が片手で前をおさえながら故に、どちらかというと喜劇めいた雰囲気ではあったが。
「……」
 世羽子が、この場にいる男子生徒達をつぶしてしまおうという衝動に駆られたのはほんの一瞬だった……その衝動を押しとどめたのは、注意しろと忠告された宮坂の存在である。
 汚物を見るような視線を送り、弥生達の待つ教室に向かって足を速めた。
 
「……遅いよ、世羽子ちゃん」
「先にぱくぱく食べながら言う台詞じゃないわよ、温子」
「弥生も、先に食べてれば良かったのに」
 二人が用意してくれていたらしい席に座りながら世羽子。
「そういうわけにもいかないでしょ…っていうか、温子はお行儀悪すぎ」
「ふーんだ……授業さぼった弥生ちゃんには言われたくない」
「ちょっ、温子」
「……何かあったの?」
「違う違う……ちょっと屋上で…」
 弥生がちょっと口ごもり、何故か照れたような表情を浮かべてうつむいた。
「……?」
 そんな弥生を不思議そうにみつめる温子とは対照的に、世羽子はちょっと窓の外に視線を向けながら呟いた。
「なるほど、屋上か……好きそうな場所よね」
「世羽子ちゃん、高いところが好きってのはあまり誉め言葉じゃ…」
「…弥生が屋上を好きなのは繊細だからでしょうね」
「よ、世羽子ったら…」
 弥生が照れてうつむく……が、温子はちょっと納得がいかないように世羽子の顔を見つめていて。
「世羽子ちゃん、さっき…弥生ちゃんじゃない省略した主語が…」
「さて、さっさと食べちゃいましょ弥生。ぐずぐずしてると、温子にとられるわよ」
「あ、そうね…」
「わ、人を食欲魔人みたいに…」
 温子の抗議を聞き流し、弥生と世羽子は昼食を開始した。
 女子のみで構成された女クラに配置された温子と弥生は、男子生徒の話題を引き出そうとしたのだが、世羽子はそれに応えることなく。
 いつもより多少盛り上がりに欠けた昼食を3人が終えたところで、それを待っていたのか女子生徒が一人近づいてきた。
「あの、ちょっとよろしいですか九条さん。石嶺先生が、昼食を終えたら教官室まで来て欲しいと仰ってました」
「あ、ありがとう……授業さぼったからかな」
 ちょっと不安げに弥生はうつむき……踏ん切りをつけるように立ち上がった。
「じゃ、温子に世羽子…そういうわけだから」
「いってらっしゃ〜い」
 と、手を振って弥生を見送ると……温子は、幾分真面目な表情で世羽子の方に向き直った。
「どうしたの?」
「あ、うん…私が言うのも何だけど、世羽子ちゃんのくじ運が強いって事、あんまり口外しない方がいいと思う」
「別に、自慢することでもないし……弥生は、そういう事言いふらす人間でもないし」
 でもいきなり何を…?
 そんな世羽子のとまどいを読みとったのか、温子は少し抑えた声で言う。
「うん…世羽子ちゃんは宝くじとかからっきしとか言ったけど、その場であたりがわかる宝くじの種類があるとか知ってる?」
 3回ほど瞬きをして、世羽子は温子に聞き返した。
「あるの?」
「うん…そりゃ、1等の金額こそ小さいけど…といっても、10万とか100万とかのレベルで…世羽子ちゃん?」
 世羽子にしては珍しい、机の上に突っ伏すというオーバーアクション。
「ご、ごめん…ちょっとショックな内容だったから」
「……弥生ちゃんも世羽子ちゃんも…聡美ちゃんもだけど、ある意味世間知らずだよね」
 呆れたように呟く温子の、表情だけは真剣で。
「聡美と弥生はともかく、私はお嬢様にほど遠いわよ、生活レベルからして」
「ああ、そういう話じゃなくて…」
 温子はわたわたと手を振り、あらためて言った。
「つまり、世羽子ちゃんのそれはお金になるって話。だから、悪い人とかがそれを知ったら……そりゃ、世羽子ちゃんが強いのは知ってるよ。でも、拳銃とか持ち出されたらどうにもならないでしょ?」
「……そうね。心配してくれてありがと、温子」
 自分の身を案じてくれた温子に向かって、世羽子は素直に礼を言った……が、温子はちょっと世羽子を見つめ、いきなり深呼吸を始める。
「…温子?」
「ごめん、いまちょっと心の準備というか、覚悟を決めてるとこ」
 そうして1分ほど経ってから、温子はさっきよりも声量を落とし、囁くように問いかけた。
「世羽子ちゃん……ひょっとして、てっぽー持った人間を相手にしたことある?」
「……まあ、そんなに多くはないけど」
「何回もあるのっ!?」
 思わず立ち上がり……温子は慌てて席に座り、再びひそひそと。
「よ、世羽子ちゃんって…裏で正義の味方でもしてるの?」
「まさか…1回は銀行強盗に出くわしただけだし、後のは私じゃ……まあ偶然よ、偶然」
「偶然…」
 そう呟いた温子の脳裏に浮かんだ言葉……それは、『好奇心は猫を殺す』だった。
 
「じゃーねー、弥生ちゃん、世羽子ちゃん」
 手を振って駅へと走り去っていく温子を見送り、弥生と世羽子はあらためて家路へと。
 軽音部の練習がない日は、特に用事さえなければこうして駅まで一緒に帰っていたのだが……ここ最近、聡美だけはそのあつまりから距離を置いていて。
 ちなみに、聡美と温子は同方向(3駅となりの繁華街に向かう方向)で、弥生はその逆方向、世羽子は徒歩……まあ、1月から弥生も徒歩なのだが。
「それにしても…男子が女子校にってことで、騒動の1つや2つは起こるかなと思ってたんだけど…」
 期待はずれ…と言わんばかりに弥生がため息をつく。
「……騒動ならあったけど?」
「え、あったの?」
 楽しみにしていたテレビ番組を見逃したような表情をして弥生。
「ほら、うちって女子校でしょ」
「当たり前でしょ」
「だから…ないわけよ、男子トイレが」
 弥生はトイレという単語に礼儀正しく恥じらいを見せ……やがて、世羽子の言葉そのものの意味に気づいて気の毒そうな表情を浮かべた。
「それは、大変だったでしょうね…」
 ほんの少し、弥生の地がこぼれた瞬間、弥生の母が呟いた言葉が世羽子の耳に甦った。
『なるほど、弥生さんが変わったのはあなたの影響でしたか…』
 それは高校に上がる直前……初めて、世羽子が弥生の家に行ったときのこと。
 世羽子にとって、弥生は2人目の……青山を友人と呼んでいいのか確信が持てないので、少なくとも同性では2人目の友人で。
「聞いてる、世羽子?」
「え…」
「もう、やっぱり聞いてなかった…」
 ちょっと拗ねたように頬をふくらませる弥生。
 初めて会った頃の弥生は、美しい少女だった……世羽子はそう思った。
 美しいという形容詞は非生物に対して使用されることが多い…そういう意味でも、弥生は美しい少女だったと世羽子は思う。
「ごめん…ちょっとぼんやりしてて」
 温子はともかく、聡美がまがりなりも自分の友人でいてくれたのは、弥生のおかげだろうと世羽子は思っている。うまく言えないが、弥生には周囲を和ませる…人の悪感情を中和させるような雰囲気を持っていて、それはどことなく尚斗に通ずる…
「…ってだから何でっ!」
 なんでもかんでも尚斗に結びつくのかっ…と、ブロック塀に右手を打ち付ける世羽子……を、おびえたように見守る弥生。
「何でもないから」
「いや、何でもないことないでしょ?やっぱり昨日ぐらいからなんか変よ、世羽子」
「な・ん・で・も・な・い・わ」
「……もう。世羽子には迷惑かけっぱなしだから、たまには恩返ししたいのに」
「弥生のこと、迷惑だなんて一度も思ったことないわよ」
 さらりと言われ、弥生がちょっと口ごもる……おそらくは照れが理由だろうが。
「そ、そんなことないでしょ…ほら、私が初めて話しかけたときなんか、おもいっきり私と関わらないで的なオーラ出てたし」
「ああ…」
 世羽子はちょっと遠くを見るように目を細め……懐かしそうに呟いた。
「確かに…あの時は、鬱陶しいと思ったわね」
「や、やっぱり…」
 
「……で、結局藤本先生とはどういう関係なの?」
「やれやれ、世羽子の次はそれか…」
「だって…」
 ちょっと困ったような、拗ねたような複雑な表情を浮かべて麻理絵は口ごもる。
「…どした?」
「は…話せないような関係…とか」
「いや、なんというか……話したところで、あんまり信用してもらえないような…」
 あの当時は、尚斗自身も何がなんだか訳が分からなかったのだが……今は、おぼろげにわかっているつもりではある。
 仕方なくといった感じで、尚斗は麻理絵に、あまり思い出したくない『それ』を話した。
「……ふーん」
 尚斗の話を聞き終え、麻理絵はちょっと考え込むような仕草で相槌を打った。その態度に、尚斗の言ったことを疑っているような気配は見られない。
「……今ので、納得したのか?」
 尚斗がそう言うと、麻理絵はちょっと傷ついたような目をして顔を上げた。
「私…尚兄ちゃんの言うことを疑った事なんて一度もないよ」
「あ、いや…」
「それに……藤本先生なら、そういう事もあるかなって思うから」
「…待て」
 独白にも似た麻理絵の呟きに、尚斗が割り込む。
「…なに?」
「それは、あれか?あの先生は……そういう事をしても不思議じゃないと思われてるぐらい、奇行が目立つ人だったりするのか?」
「ううん、生徒思いの良い先生だって……多分、みんな言うと思うよ」
「だったら…」
「まあ、悪い人とは思わないけど…」
 麻理絵はちょっと尚斗の表情を窺うような視線を向け、言葉を続けた。
「でも、多分すごい嘘つきだから……尚にいちゃんはあんまり近づかない方がいいと思うし、正直近づいて欲しくないかな…」
 
                 完
 
 
 え、1周目と違いすぎですか?(笑)

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