吹き荒れる風と、激しくうち寄せる白い波。
「世羽子、やっぱり遊泳禁止の看板がたってるぞ」
「……潮の香りがするわね」
「潮の香りも何も、風強すぎだって…」
じろり、と尚斗をにらむ。
「台風がきてるんだから、仕方ないだろ……第一、誰もいないし、多分、後二時間もすれば雨が降ってきて嵐になるぞ…」
尚斗が指し示す砂浜は、本来なら海水浴の客で賑わっているはずだが……さすがに台風の接近が明白なだけに猫の子一匹いなくて。
「……ふ」
無意識に口元がほころんでしまう。
「世羽子?」
「せっかく来たんだし、砂浜でも歩きましょ」
「ぐずぐずしてると、電車が止まるぞ」
「電車が止まったら走って帰ればいいじゃない」
「それはまあ、そうだけど…」
わざわざこんな悪天候の日に、海水浴へと出かけなきゃいけないのか…そんな疑問をわかりやすく表情に出している尚斗の手を取って、砂浜へと歩き出す。
さくさくさく…。
二人が砂を踏む音……は、うなりをあげる強風によってかき消され。(笑)
もし、身体をよろめかせたりする事もなく普通に砂浜を歩く二人を見る者がいたならば、風の強さはそれほどではないのかもしれないと勘違いするのかもしれないが。
「いいわね…誰もいない海って」
「まあ、正直…芋洗いはゴメンだけど」
そう呟き、尚斗がちょっと残念そうな視線を海に向けた。
「……さすがに今日は泳ぐ気はしない」
「別に、このぐらいなら尚斗は平気でしょ」
荒波をかきわけて、ぐいぐいと泳いでいく尚斗の姿が容易に想像できる。このぐらいでどうにかなるようなら、そもそもあの人の子供などできるはずもない。
「泳げるってのと、泳ぎたいってのは全然別だよ」
尚斗はちょっと言葉を切り、私に視線を向けてきた。
「…世羽子は、そんなに泳ぎたかったのか?」
台風来てるから今日はやめにしよう…と言う尚斗を、ほぼ無理矢理連れてきたのだから、そう思われても仕方ない…か。
「……別に、『誰もいない』ってのが魅力的だっただけ」
「え?」
「だって…そうでしょう?」
足を止め、尚斗の顔をのぞき込む。
約20センチの身長差…と、年齢にそぐわぬ大人びた自分の顔立ちのせいで、一見して自分たちをカップルと思ってくれる人はほとんどいない…というか、皆無。
「周りに人がいると、誰かさんは待ち合わせの相手を放っておいてもめ事に首を突っ込んだり、おばあさんの荷物を持って隣の町まで行っちゃったり、迷子のお母さんを捜してあたりをふらふらしたり……」
「あ、う…」
困ったように視線を泳がせる尚斗。
「デートの最中でも、相手を放っておいて…(以下略)」
「いや、でもさ…放っておけないだろ?世羽子だって…ほら、たまに俺より早く…」
尚斗の耳をつかむ。
「…別に、怒ってるんじゃないのよ」
「いや、怒ってるって…絶対怒ってるだろ?」
などと、失礼なことを言う尚斗の耳を優しく引っ張って(笑)、額にコツンと自分の額をくっつけてじっと尚斗を見つめる。
「尚斗が、困ってる人を放っておけないのは良く知ってる。私を優先して…なんて頭の悪いことも言わない」
「……」
「……他に誰もいない時は、私だけを見ていて」
耳をつかむ手を離し、尚斗の頬を両手で優しく挟み込んで囁く。
「目、つぶって…尚斗」
尚斗の目が閉じ…そっと顔を寄せ……かけて…
「……って、なんで歯を食いしばってるのよっ!」
スクリュー気味の右フックを、思いっきり尚斗の左頬にたたき込んだ。
「いや、なんでって…」
頬をさすりつつ、尚斗が不思議そうに呟く。
「なんだか世羽子は怒ってるし、目をつぶれって事は……つーか、殴っただろ、今?」
「〜〜〜っ!」
ぐっと握りしめた拳がぶるぶると震える。
「あの状態で目をつぶれッて言ったら、普通キスでしょ、キスっ!」
「え、あ…そ、そーだったのか…ゴメン」
ちょっと顔を赤らめてうつむく尚斗に、怒りがすっと消えていく……そして、私と尚斗はつきあい始めてから2度目のキスをした。
台風の迫っている砂浜で。
「おはよう、世羽…子?」
「……って、どうかしたの?」
「え、あ、いや…なんていうか…」
弥生はちょっと困惑したように呟いた。
「なんか、朝っぱらから楽しそうでいてちょっと怒ってるような複雑な表情してるから、どうしたんだろうって」
世羽子は言うべき言葉が見つからないようにしばらく口を開けたまま…そして、ぽつりと呟いた。
「……夢見が悪くてね」
「ふーん…」
なんとなく、このことについてはもうこれ以上口にするのはまずいことを悟ったのか、弥生は生返事。
「それはそうと……お父さんは?」
「あ、おじさんなら、なんか会社から連絡あったとかで、1時間ほど前に出てったわよ」
「ご飯は?」
「時間なかったみたいだったから、トーストとスクランブルエッグで軽く」
「ごめんね…というか、ありがとう」
「ま、居候だし、このぐらいは当然よ」
何でもない…という感じに、弥生がほほえむ。
弥生が家出をして……というか、正月早々着物姿のままで世羽子の家に転がり込んできてからほぼ2週間。
去年の秋、初めての家出がわずか二日だった事を考えると、今回の家出の根っこは深そう……いや、前回も今回も、本質的には同じ根っこなのだろうが。
何とかしてあげたいとは思っても、よそ様の家庭の事情に踏み込む事に対するためらいと、弥生の性格を鑑みれば世羽子としてもおおっぴらに動くこともできず。
弥生には内緒で、彼女の両親と会って『ウチでお預かりしてますので必要以上の心配は無用』…と、話をするぐらいが関の山。
こんな時、尚斗なら…
久しぶりに尚斗の夢を見たせいか、ふとそんな事を考えてしまった自分に腹を立ててダンッとテーブルに右手を叩き付ける。
「よ、世羽子っ!?」
びっくりしたというか、半ばおびえたように振り返る弥生。
「何でもないから」
明らかに何でもないことはないのだが、少なくとも世羽子の表情と口調だけは何でもなかったようにさらりとしたもので。
「何でもっ…て」
「だから、夢見が悪かっただけ」
「そ、そう…」
弥生は、どう接したモノやら…という感じに、いつもよりゆったりと、優雅な手つきでお茶を入れた。
「ま、お茶でも…」
「ありがとう」
世羽子はもちろん、世羽子の父も同じ意見なのだが……同じお茶葉と道具を使っていながら、弥生のいれるお茶は2人がいれるそれよりも美味しい。
多分、パンチや関節技と同じでちょっとしたコツがこれだけの差を……などと、女性らしからぬ思いを胸に抱きつつ、世羽子はお茶をすすった。
「……」
「あれ?熱かった?」
「いいえ……というか、その逆。でも、美味しいのよね」
「気温と飲む人の体調もあるから…いつもいつも同じお茶をいれてもダメなの」
ちょっと得意げに弥生。
「……どんなときでも同じモノを作る自信はあるんだけど、そういう微妙な調整が全くダメなのよね、私…」
家事スキルに関して弥生の方がレベルが高いのを認めることはやぶさかではないが、最近は少し弥生に頼りすぎかもしれない。
お茶をすすりながら、世羽子はぼんやりとそんなことを考えた。
「……というか、弥生。あなた、何時に起きたの?」
「6時前だけど?」
「休みの日ぐらい、もっとゆっくりしてればいいのに…」
少し呆れたように。
「…子供の頃からの習慣だから」
と、今度は弥生がちょっと困ったような表情になる……が、それには全く気づかないふりをして、窓の外に視線を向けた。
「……今日も、洗濯はパスした方が良さそうね」
「そうね、雪がちゃんと消えないと乾かないだろうし」
土曜から日曜にかけて、30年ぶりにこの地方を襲った大雪。
あまりそういったモノに情緒を感じないが、雪国の住人からすればばかげた感情なんでしょうね…などと醒めた意識に混じって、今度の大雪にはほんの少しばかり心が踊った。
もし、弥生がこの家にいなければ……それは表面に出てきたのかもしれないが、あいにく世羽子は他人の前で感情を露わにすることが苦手な性質だった。
「……ところで弥生」
「何?」
「庭の雪だるま3個と、朝の6時起きにはなにか因果関係があるの?」
「ほ、ほらほら世羽子。温子との待ち合わせは、9時半なんだからさっさとシャワーとか浴びてきたら?」
どこか慌てたように、弥生が風呂場に向かって世羽子の背中を押す。
「ま、いいんだけど…」
「世羽子ちゃん、弥生ちゃん、こっちこっちー」
子供のようにぶんぶんと手を振る温子。
普通なら目立つ行動なのだが、温子のそういったたぐいの行動は奇妙に自然で、周囲の人間はちらりと視線を向けるものの、注目を浴びたりしないのがちょっと不思議。
「早いわね、温子」
「弥生ちゃんはともかく、世羽子ちゃんを待たせるほど度胸ないもん、私」
「そうね」
「……」
温子はごく自然な感じに世羽子から離れ、弥生の耳元で囁いた。
「や、弥生ちゃん…何かあったの?」
「朝からちょっと不機嫌…というか、変なのよ…なんか、『夢見が悪かった』とか言って」
「私達に被害が及ぶ訳じゃないけど……妙な連中が絡んできたりすると、心配かも」
もちろん言うまでもないが、心配なのは絡んでくる妙な連中の健康である。
以前…といっても、温子自身が女子校に転校してきたのは去年の9月なので、精々3ヶ月ばかりの前のことだが、バンドの仲間4人で街をぶらついていたところ……。
「温子」
「は、はいっ」
世羽子を刺激しないようになのか、それとも世羽子が好まないであろう過去の出来事を思い出していたためか、温子がいつになくきびきびした動作で振り返った。
「……聡美は?」
「あ…うん、ちょっと都合が悪いって」
温子の表情からおおよその事を悟ったのか、世羽子はほんのすこしだけ顔を曇らせた。
「そう…」
「……ダメ、なのかな?」
こちらもまた暗い表情で弥生。
「難しい問題だもの……助けてあげることはできるかもしれないけど、聡美自身が考えて、決断して、行動しなきゃいけないことだし」
そう言って、世羽子は弥生を見つめた。
弥生、あなたもよ……そう言われているような気がして、弥生は頷く。
そんな二人を見る温子の視線は優しい。
「……で、温子。今日は何なの?」
「や、なんか聡美ちゃんから世羽子ちゃんのくじ運の強さを聞いてね」
にこにこと微笑みながら、ポケットから抽選券らしきモノを取り出す温子。その抽選券には、音楽専門店の名が刻まれており。
「この、ね?2等のアンプが欲しいなって、ね?ほら、部室のアンプはそろそろちょっとお疲れみたいだし」
世羽子は温子の手から抽選券を取り、じっと見つめ……ぽつりと。
「そうね、もらいにいきましょう」
と、もはや当てたかのように。
「…聞いた、弥生ちゃん?あの頼もしいお言葉」
「温子……世羽子が当てると言ったら、絶対に当てるから」
「もう、弥生ちゃんまで……運の強弱はあっても、絶対に当てるなんて無理に決まって……」
何か予感めいたモノを感じたのか、温子はふっと口を閉じ……既に歩き始めている世羽子の背中に視線を向けた。
「温子……お昼ご飯賭けてもいいわよ。当たりが残っているなら、世羽子は絶対に当たりをひくわ」
1時間後、温子は弥生の昼飯をおごる羽目になったことを明記しておく。
「……ほんとに当てちゃうし」
「世羽子のくじ運は、神がかってるからね…滅多に発揮しないけど」
「毎回毎回、自分の好きなモノを当てたら周りの人の迷惑だもの」
さらりと世羽子。
「あ、あの…世羽子ちゃん?」
「なに?」
「……当たりがわかるの…っていうか、狙って引けるの?」
「まあ、うまく説明できないけど何となくわかるのよ…ただ、宝くじやビンゴゲームみたいな、後で当選番号を決めるタイプのはまるっきりダメだけど」
世羽子の発言にいまいち納得できないモノを感じたのか……温子は鞄から取り出した紙切れ数枚に何かを書き、世羽子に向かって差し出した。
「はい、世羽子ちゃん」
「……当たりの印は?」
「数字の2」
世羽子はちょっと遠くを見るように目を細め……右から二枚目の紙をつまんだ。
「げげ」
「もう一回やる?」
「……いい。なんか、世羽子ちゃんなら、できるような気がしてきた…」
「先に言っておくけど……私は自分がこういうくじ引きをすることに関して不公平だと思ってるの。ごくたまに……ならいいけど、過度に力は貸さないから」
温子はぱちぱちっと瞬きし、柔らかい微笑みを浮かべつつ呟いた。
「……変わってるねえ、世羽子ちゃん」
「そう?」
不思議そうに世羽子。
「普通なら、いろんな抽選やくじ引きで、当たりを引きまくるよきっと」
「不公平だし、好きじゃないのよ、そういうの…」
それまで温子のおごりであるランチセットを食べていた弥生がナプキンで口元を拭い、結論づけるように言った。
「まあ、そういう世羽子だから、くじ運が強いんじゃない?私はそう思うけど…」
「……昔、本気で宝くじを当てたかったことはあったんだけどね」
ちょっと遠くを見るような眼差しをして呟く世羽子に、温子と弥生がほぼ同時に視線を向ける。
「ああ、だから宝くじはまるでダメって?」
温子の言葉を聞いているのかいないのか、世羽子はそこにいない誰かに話しかけるような口調で言葉を続けた。
「あの時当たってたら…」
「……」
「……ぁ」
何か気づいたように弥生がちょっと口元に手をやり……温子が目で弥生に問う。
「ん…後でね」
「……で?」
昼食を終え、3人はぶらぶらとウインドーショッピング……と言うよりは、ただの散歩に近く。
「『で?』って、何よ温子?」
「ほら、さっきの…」
温子はちらりと世羽子の背中に視線を向け。
「あぁ…」
弥生の表情が微かに沈み。
「多分、世羽子のお母さんの事だと思う……前にちょっと話したと思うけど、病気で、入院費や治療費が大変だったみたいだし」
「……そっか」
温子はちょっと目を伏せ……気を取り直したのか、すぐに空を見上げた。
週末の雪が嘘のように…とまではいかないが、雪雲はもう影も形もない。
「求めよ、さすれば与えられん……という言葉通りなら、人生はもうちょっと気楽かもしれないのにねえ」
「それ、意味が違うと思うけど……でもまあ、大抵は……欲しくもないモノばかり与えられるモノよね」
「弥生ちゃん」
温子は穏やかに微笑んだまま。
「ん?」
「欲しくもないモノでも、何かしら与えられている人間は幸福なのだよ」
そう言った。
微かな沈黙の後、弥生は話題を変えるように小声で呟いた。
「そういえばさ…」
「何?」
「聡美は……温子にばかり色々と相談するのね」
高等部に入って発足した軽音部の初期メンバーである聡美……弥生と世羽子は中学3年からのつきあいだが……と、女子校に転校してきてから4ヶ月ばかりの温子。
普通に考えれば、つきあいの長い自分たちの方に、重い相談はなされるはずではないのだろうかという思いが弥生の腹の底にあるのを見抜いたのか、温子がちょっと首を振る。
「それは違うよ、弥生ちゃん」
優しい目をして。
「つきあいが長いと、反対に相談できなくなる悩みもあるの……特に、弥生ちゃんや世羽子ちゃんと3人で過ごしてきた時間そのものなんだよ、聡美ちゃんにとっての音楽は」
「ん…」
「まあ、この温子ちゃんの人柄のせいでもあるんだろうけど」
「そこで自分を誉めなきゃ格好いいのに」
少し呆れたように弥生。
「んー、他人に誉めてもらえる人は自分で自分を誉める必要はないけど、誉めてくれる他人がいない人は、自分で自分を誉めるしかないのだなあ」
「誉めて欲しいの?」
「わっ」
少し離れて前を歩いていたはずの世羽子に背後から話しかけられ、温子のみならず弥生もまたびっくりしたように振り返る。
「い、いつのまに…」
「立ち止まった私に気づかないまま、あなた達が通り過ぎようとしただけ……というか、なんか大変なことになってるみたいね」
と、世羽子が指さす先は、家電ショップの店頭に並べられたテレビ。
「え、何々?」
まさにがれきの山…と表現するしかない有様がブラウン管に映し出されている。
『見てください……このがれきの山、元は学校の校舎だったんです』
大げさな仕草と口調で女性リポーター。
「うっわ…ぁ」
「世羽子、これって…」
「お隣って言うか…近くの男子校。この地域で現像する唯一の木造校舎だかなんだか知らないけど、昔からぼろっちい校舎で有名ではあったわね。ただ、ここまで脆いとは……」
口を開いたままの状態で、世羽子が固まる。
「…世羽子?」「世羽子ちゃん?」
ただならぬ様子の世羽子を心配しての弥生と温子の声も聞こえていないのか、世羽子の視線はまさに画面に釘付けで。
『集まっているのはこの学校の生徒のみなさんでしょうか…みなさん、不安そうな表情で…』
カメラが再び移動した瞬間、世羽子ががしっとテレビにしがみついた。
「な、なんでっ?」
画面にちらっと映った少年の姿…世羽子がそれを見間違えるはずもない。
「…あの、世羽子ちゃん?」「もしもし、よーうーこー」
尚斗だけならともかく、そのそばにいたのは……カメラから身を隠すように後ろを向いていたが、間違いなく青山で。
尚斗一人なら、何らかのお節介でそこにいると思えなくもないが、青山もそこにいる……となれば、その2人がそこに通っている可能性が非常に高いと世羽子が考えるのも無理はない。
「なんで…あんな学校に…」
はっきり言うと、あの男子校は狙っていくような学校ではなく、様々な事情(主に学力)によって行かざるを得ない学校である。尚斗も青山も、そんな学力の持ち主ではない……青山はもちろん、尚斗にしても大抵の高校なら楽々合格することができるはずで。強いて言うなら青山はともかく、尚斗にとっては一番近所の…。
世羽子は複雑な表情を浮かべ、微かに頬を色づかせた。
「…弥生ちゃん、私、世羽子ちゃんのああいう表情初めて見るかも」
「や、私もだから……っていうか、大雪で校舎つぶれたニュース見て顔赤らめるってどういうことよ?」
「……人でなし?」
「温子、冗談でも怒るわよ」
温子に向ける弥生の視線はやや険しく。
「そーだねー、世羽子ちゃんって一見ドライだけど、実質かなりウエットだし、人でなしにはほど遠いもんね……まあ、男の子には洒落にならないぐらいきっついけど」
「まあ…それは認める」
仕方なくといった感じに頷いた弥生に向かって、温子は声を潜めて尋ねた。
「弥生ちゃん…世羽子ちゃんの家に居候してて、身の危険とか感じたこと無い?」
「……なんで?むしろ、世羽子がいるからかなり安全だと思うけど?」
「いや、そうじゃなくて……こう、一緒の部屋で寝たりとか、お風呂に入ったりとか、強要されたり…たたたたっ!」
温子の耳を引っ張り上げながら、世羽子は一語一語区切るようにして言った。
「温子、私はそっちの趣味はないわよ」
「だってだって、世羽子ちゃん男の子に冷淡すぎるんだもん、この前だって、私の彼にめちゃめちゃ冷たいし、挙げ句の果てに10円玉折り曲げながら『話しかけないで』とか言っちゃうし、もう彼ったらどんひきで…」
「別に、私が冷たいのは男に限った事じゃないわよ……基本的に人間嫌いだからね、私」
「……あ、あはは」
弥生が乾いた笑い声をあげた。
おそらく、転校してきた当時の事を思い出したのか。
「それはそうと、何を固まってたの、世羽子?」
「え……別に」
世羽子らしからぬ下手なごまかしに、弥生と温子はかえって追及する気をなくさざるを得なかった。
弥生はもちろん、温子もまた、自分には決して真似をすることのできない世羽子という人格にある種の敬意を払っているからだが。
「それはそうと、校舎が崩れて……どうするんだろ?」
温子が呟く。
無論、この3人が、今現在その答えを知るはずもない。
弥生と世羽子、台所に2人並んで夕食の準備中に電話が鳴った。
「弥生、今ちょっと手が離せないから出て」
「はいはい」
濡れた手を拭きながら、台所を後にする弥生……が、すぐに戻ってきて世羽子を呼んだ。
「世羽子、藤本先生から」
「?」
「そっちは私が見るから…なんか、聞きたいことがあるみたい」
世羽子は怪訝そうに首を傾げ、弥生と入れ替わるように台所を出ていく。
「……お電話代わりました、秋谷です」
『はい、こんにちは秋谷さん』
「こんにちは、藤本先生。何か聞きたいことがあるとのことですが、何でしょうか?」
『……えっと、お隣の男子校の校舎が全壊したことはご存じでしょうか』
微かな沈黙の後、世羽子はニュースで見た旨を告げ、言葉を続けた。
「……それが何か?」
『結論から言いますと、男子校の校舎…仮校舎ができあがるまで、我が校で生徒達を受け入れることになりました』
「……」
『あの…秋谷さん?』
「3つほど質問があります」
『なんでしょうか?私が答えられることでしたら』
受話器をちょっと握り直し、世羽子は淡々とした口調で言った。
「今朝崩れて…既に受け入れが決定したということは、こちらから提案したということでしょうか?」
『はい。なんと言っても、一番のご近所ですし……対外的な評価も含めて、理事長はそう判断したんだと思います』
「なるほど…どうせ押しつけられる可能性があるなら、こっちから…ですか?各方面に恩も売れるでしょうし」
『まあ…手厳しい意見ですわね、秋谷さん』
「金で買われた生徒の立場として、このぐらいの皮肉を当事者に言う権利ぐらいは欲しいものですね」
『ええ、こちらの要求に応えてさえいただければ皮肉ぐらいいくらでも…それに、秋谷さんも納得ずくでの契約でしたと私は認識してますし』
世羽子の皮肉を気にした風でもなく、さらりと。
ごく一般的……というか生徒からは、綺羅は面倒見の良い美人教師という評価を得ているのだが、世羽子が綺羅に対して抱いているイメージは女狐そのものである。
初めてみたときから、それは変わらない。
「正直…母が死んで、意味がなくなったんですけどね」
『……それでも、きちんと仕事を完遂してくださるのが秋谷さんの良いところですわ』
「大学受験に関しては、前払いという形でしたし……形はどうあれ、父と私が、母に負い目を感じない程度の治療を受けさせることができたことについて感謝してますから」
『荒みきったこの世の中で、心洗われるような気概ですわね…』
「……2つ目の質問ですが」
『なんでしょう?』
「あまり評判の良くない男子校の生徒を受け入れるのは…外より、内の反発が大変なのでは?」
ふう、と受話器のむこうで綺羅のため息が聞こえた。
『ほんとーに大変でしたわ…』
「なるほど…対処済みなんですね」
『大きな声では言えませんが…影響力の強い良家のご家族にご理解いただくために、朝から今の先まで、電話、電話、電話、直接訪問の繰り返しで…』
『朝から』という言葉に多少のひっかかりを覚えたが、単なる言葉のあやに過ぎないだろうと判断して、世羽子は綺羅の労をねぎらう言葉をかける。
「……お疲れさまです」
『九条さんのご両親なんかは非常に楽でしたが…』
「……3つめの質問、いいですか?」
『あら、失礼しました…ついつい、愚痴を』
「何故、私に連絡を?」
『ええ、それは純粋に聞きたいことがあったからですわ』
「……なんでしょう?」
漠然とした不安を感じつつ。
『男子校の生徒を受け入れる…のは良しとして、空いている教室を使って男子校の生徒が授業する…だけではせっかくの機会を活用しているとは……。ですから男女混合のクラスを作ってみようかと思いましたの』
「……」
『幸い、男子校の生徒の方がウチよりも少ないですし……女子だけのクラスと、男女混合のクラスの二種類に分けようかと』
「良家のご息女は、女子だけのクラス…ですか?」
『そのあたりの絡みで、苦労したのです…』
世羽子は辛抱強く繰り返した。
「もう一度聞きます、何故私に連絡を?」
『秋谷さんはどうしますか?やはり、女子だけのクラスの方がよろしいのでしょうか?』
「『やはり』とは、どういう意味でしょうか?」
世羽子の口調に、微かに怒気が漂う。
『いえ、その…秋谷さんは、小学校の時…男性教師に……あまり、男性に良い印象を持っていないとも聞いてますし…』
ああ、そっちの方…と、世羽子は心の中でため息をつき。
「何か、学校ぐるみでもみ消したようでしたが…藤本先生はご存じでしたの?」
『その…教育関係者の間では有名な話ですから……全治6ヶ月というか…結局全治しなかったというか…』
「……そこまで承知で、良く特待生でひっぱるつもりになれましたね…」
『あ、いえ勘違いしないでください、秋谷さん……個人的には、同じ女性として、胸のすくような話だと思ってますから……それに、抵抗して、そばにあった花瓶で殴ったと聞いてますし…当たり所が悪かっただけの話でしょう?』
「……」
世羽子は沈黙した。
もちろん当たり所が悪かった…わけではなく、殺さぬ事だけを考えて、極めて残酷に攻撃したと言っても良かったからだ。
『あ、その、ごめんなさい…イヤなことを思い出させるつもりは…』
「別に男が嫌いなわけじゃありません」
『……』
昼間、温子や弥生に言ったのと同じ口調で。
「基本的に、人間が嫌いなだけですから」
『……わかりました』
そう答えた綺羅の口調は、女狐の印象を覆すほどに寂しげで。
『秋谷さんに、良い出会いがあることを願って…男女混合クラスのほうに配置いたします』
「用はそれだけでしょうか?」
『はい』
「……世羽子、こっちの道って遠回りなんじゃ?」
「いいのよ、こっちで」
「ふーん」
いつもとは違う道を、学校に向かって歩く世羽子と弥生。
「…いつもより早いし」
「いいのよ、この時間で」
「ふーん」
首を傾げながら、弥生が言う。
「世羽子。今日は機嫌が悪いの?それとも良いの?」
「別に普通だけど」
「……ふーん」
生返事をしつつ、器用にも心の中で盛大にツッコミを入れる弥生。
まあ、普段から世羽子のそばにいる弥生だからこそ……の部分はあるが、今日の世羽子は明らかに変だった。
寝不足、表情が硬い、いつもは見向きもしないのに軽く化粧、かと思えばいきなり凶暴な風切り音を発するパンチ?を見えない足さばきと共に何もない空間に数限りなく繰り出したり…エトセトラエトセトラ。
家を出てからこうして歩いている姿は……普段と同じのようにも見えるのだが。
「……?」
などと、弥生が何度も何度も首をひねっている間に学校に到着……見慣れた女子生徒に混じって、男子生徒の姿がちらほらと。
「……ホントに男子がいる」
「今さら何を…」
「私は別に構わないんだけど…こんな重要なことを、連絡網で回すだけってのはどうなのかしら?」
と、良家のお嬢様の自覚があるのかないのか不安になる発言をする弥生。
「内部生と違って、外部生はここにくるまで大抵共学でしょうし…どうって事ないわよ」
「そっか…そういえば、世羽子も…なんか、ずっとここに通ってたような気がしてた」
「そう?この学校じゃ、私浮いてると思うけど」
「……それは否定できないけど…」
困ったように、弥生が言葉を選ぶ。
「沈むよりマシじゃない?」
「…そうね」
ほかならぬ弥生の言った『沈む』という言葉に、世羽子はただ頷いて。
「さて…クラス分けの紙がはりだされてるはずなんだけど…あれかしら」
玄関脇に人が集まっていて…世羽子と弥生はそこに移動した。
「あ、世羽子と別のクラス……で、温子とは同じ」
「なるほど、弥生は女子クラスなわけね…」
「いいなあ、世羽子…私もせっかくだから、男女クラスの方が良かったのに…」
「別に…学校の中を男子がうろつくんだから、クラスがどうとか関係ないわよ……じゃ、また後でね」
「そうね」
弥生と別れて教室に向かう途中、世羽子はふっと窓ガラス越しに校門の方に視線を向けた。
「……」
きっかり5秒眺めてから、再び歩き出す。
「……なるほど、気のせいじゃなかったわけね」
そんな呟きを聴く者はおらず……世羽子は雑然とした教室内に足を踏み入れた。
当然といえば当然か、教室内は、男子と女子がくっきりと分かれ、どちらも居心地が悪そうに落ち着かない様子で。
それでも、世羽子が教室に入ってきた瞬間、それなりの視線が集まった。
男子の視線は世羽子の外見に向けられたモノで、女子の視線は……やや微妙。
元々、温子と弥生、そして聡美ぐらいとしかまともに会話しない世羽子なだけに、わざわざこの状況で話しかけてくる女子生徒がいるはずもなく。
教卓の上に置かれた座席表を手に取り……世羽子は眉をひそめた。
「あの女……全部わかってて、やってるんじゃないでしょうね」
ここでいう『あの女』はもちろん綺羅のことで。
世羽子も尚斗も青山も、全部『あ』から始まる名字とはいえ……挙げ句の果てに、尚斗の右隣は、あの巨大な猫かぶってる性悪少女。
いや、今も……そうなのかは、さすがの世羽子も自信がない。
何故なら、この2年というもの、世羽子はあの少女とはほとんど接触がなく……表面的には、内向的なおとなしい感じの少女でしかないように見えるのだが……それでも、おそらくは感情的なモノも含んでだろうが、世羽子は某女教師と同じくその少女からもどことなくうさんくさいモノを感じていて。
「ついたよ尚兄ちゃん……ここが私達の教室」
無意識の内に、世羽子は教室の後ろ…しかも隅っこに移動していた。
椎名麻理絵の後に続き、尚斗が首だけのぞかせて教室内を見渡し……何事もなかったかのように入ってきた瞬間、世羽子はつかんだ椅子をみしみしいわせながら、震える声で呟いた。
「…気づきもしない?」
そして、尚斗の後に続いて青山が……こちらは、一瞬だけ世羽子に視線を向け、後は知らんぷり。
そのまま3人は教卓の前を通り過ぎ、窓際へと……そこにいた男子生徒が慌ててそこから離れていく。
「…で、座席は?好きに座って良いのか?」
尚斗の手が席に触れた瞬間、世羽子は歩き出していた。
それを見つめる青山の視線に気づくだけの余裕は残していたが……複雑に入り交じった感情をもてあましているだけに止まるはずもない。
「それとも、ホームルームか何かで……」
尚斗が腰を下ろす……世羽子の席に。
「そこ、私の席だけど…」
内心の複雑な思いとは裏腹に、世羽子の口調は恐ろしいほどに刺々しく。
「あ、悪…い」
「尚兄ちゃん、そこは秋谷さんの席…」
世羽子から……というより尚斗と世羽子2人から発する気配に押され、麻理絵が口をつぐむ。
「悪い…二度と顔見せないでって言われてたのを忘れたわけじゃない」
微かに、ほんの微かに世羽子の表情が曇る。
そんな世羽子の様子を、青山はじっと見つめていて。
「ま、仕方ないでしょ……合同授業を言い出したのはここの理事長だし、尚斗がそっちの校舎を壊したわけでも…」
「あははのは」
尚斗の乾いた笑いに、世羽子がちらりと青山に視線を向けた。
おそらく、校舎の破壊に尚斗なり青山が関わっているのだと気づいたのだろう。
「……不可抗力だから勘弁してあげるわよ」
「助かる」
「……?」
藤本先生が現れた瞬間、教室内の体感温度が確実に上昇した……少なくとも、世羽子にそう感じさせるだけの男子生徒の興奮ぶり。
ちらりと、尚斗に視線を向ける世羽子。
世羽子の視線に気づいているのかいないのか、尚斗は当たり前のように無反応で……しかし、女子校では普通の挨拶が行われた瞬間、尚斗の顔が苦痛に歪んだのをみて世羽子は笑いをかみ殺した。
現在の状況を端的に説明し……自分がクラスを受け持つ旨、自己紹介などの軽い挨拶をすませると、美貌の女教師こと、藤本綺羅は穏やかな微笑みを浮かべて教室内を見渡し……尚斗に向かって微笑んだ。
「……尚兄ちゃん、藤本先生とも知り合い?」
「いんや、初対面」
「……どうだか」
世羽子がそう呟いた瞬間、綺羅は微笑みを浮かべたまま右手を頭の後ろに回して艶やかな長髪を握ってみせた。
「お久しぶり、尚斗君」
「え…」
尚斗が顔を上げ……スイッチを入れられた機械のように立ち上がる。
「あ、アンタまさかっ…?」
「あら、覚えててくれたのね…それとも、思い出したのかしら?」
楽しそうに…にっこりと微笑む綺羅。
「な、何でこんなとこに…?」
「あら、ここの教師ですもの、私」
「教師っ?」
そんな馬鹿なことがあるかとでも言いたげな尚斗の口調に、綺羅が悲しげに眉をひそめた。
「あの、尚斗君が…教師に向かってこんな言葉遣いを…」
「あ、アンタにそんなっ」
「おちつけ有崎」
大きくもなく穏やかな口調ながら、巨大な質量を思わせる青山の声に尚斗は我を取り戻し……口をつぐんで腰を下ろした。
「うふふ…」
微笑む綺羅。
「…尚兄ちゃん?」
ちょっと不機嫌そうに麻理絵。
「すまん…初対面じゃなかったが、知り合いじゃない」
そして、ホームルームの始まりを告げる鐘が鳴る。
りーんごーんがーんごーん……
週末の雪が嘘のように晴れ渡った1月15日の朝。
その鐘の音を祝福と聞く者、呪詛と聞く者、そして何も感じない者……立場は違えと、鐘は全ての人に始まりを告げる。
そう、何度も。
完
まあ、2周目だから多少ストーリーが変化しますよ。(笑)
ほら、ゲームのシナリオというか。
えっと、遅くなりましたが……2周目です。のんびり書きます。
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