「2月4日か……」
 カレンダーを眺めながら尚斗が呟いた。
「……後10日じゃん」
 ハイピッチで進むプレハブ校舎建設工事は、順調そのものだとか。
 この前見物に行ったところ、工事看板の『(仮)校舎建設……』ってな表示から(仮)の文字が消えていたところが非常に気にかかったが、おそらくは老朽化した校舎を改修してこなかったのと同じで、自治体からの交付金があらぬ所に消えていたりするのだろう。
 学校の池で泳いでいた錦鯉や、校長室の美術品が着服した交付金で購入されていたのは純然たる事実で……もちろん、それらは尚斗が1年生の時に綺麗さっぱり消え失せた。(笑)
 ただ、それらを売りさばいた代金をボクシング部とラグビー部に偏ったクラブ予算の是正に使ったのがまずかったのか、尚斗らの行為は学校側の知るところとなり……それは別の話であり、またの機会に。(笑)
 
「おはようございます」
 待っていたのか、玄関のドアを開けた尚斗に向かって結花が軽く頭を下げた。
「……」
「……どうかしましたか?」
 結花の鼻の頭が赤い。
「えっと…ドアベルまで手が届かなかったの……ふぉっ」
 勢いあまって家の中に転がり込む2人。
「……朝っぱらから失礼な事言いますね」
「ふむ、今日のタックルは少々キレが悪い……何かあったのか?」
「……そういう心配のされ方はちょっと複雑なんですけど」
 結花はほんのちょっと笑い、コートの裾を手で払いながら立ち上がった。
「歩きながら話します…」
「ふむ…」
 
「とりあえず、夏樹様の脚本で公演をやる事になりました」
「それは良かった……で、いいんだよな?」
「今どう思うかより、公演が終わった後に良かったと思えるようにしたいですね」
 そう言って、結花はちょっと空を見上げた。
「……とすると」
 一体何が問題なんだ……という続きの言葉を遮って、結花が呟く。
「主役なんですよ…私が」
「まあ……そうなるんじゃないかなあ」
 誰がどう考えても、ちびっこ以外のキャストはあり得ない。
「もちろん、これまで通り裏方の仕事の責任者も兼任というか」
 それを聞いて、尚斗の足が止まった。
「それは……なかなかつらそうな…」
 結花が振り返り、尚斗の顔をじっと見つめた。
「……?」
「……有崎さんの入れ知恵じゃないんですね」
「入れ知恵というと?」
 結花は尚斗の視線から顔を背け、ぽつりと呟いた。
「脚本の急な変更……と言うか、まだ本当の意味で完成していない。スケジュールが厳しい、作業がキツイ、間に合わない…」
「……」
「そう思う人間が出てくるのは当たり前ですけど、そんな状況で、裏方の責任者兼、舞台方の主役を任された存在が出現しました……さて、どうなりますか?」
「なるほど……好意的に解釈すれば、不平を抑え込む効果があるな」
 尚斗はちょっと首を傾げつつ、言葉を続けた。
「……悪意的な見方をすれば、お前は恨まれてるってワケだ」
「恨まれるですか……去年に比べたら、そよ風みたいなモノですけど」
「……中学生にあれこれ指図されると面白くないってか?」
 結花は尚斗を横目で見ながら呟いた。
「優秀ですね、じょにーさんは」
「なんせ、じょにーだからな」
 自分のことを誉められたかのように尚斗が笑った。
「……後で気付きましたけど、いくつかの露骨な聞き込みは演劇部の誰から誰に情報が伝わっていくか、人間関係なりネットワークなりを観察するためだったんでしょうね」
「……なるほど」
「ま、じょにーさんはさておき話を戻しますけど、自分達の代で演劇部を衰退させてしまった……そんな負い目があったからでしょうね」
 結花は尚斗を安心させるように笑った。
「人間って不思議なモノで、そうやって足を引っ張る人間が出てくると、それに同情して積極的に手伝ってくれる人間が出てくるんです」
「……」
「有崎さんは優しいからそれを否定するでしょうけど、私はその同情心も計算してつけ込みましたよ」
 誰の……という質問をする程、尚斗は無神経でもなかったから話題を変えた。
「それはそうと……主役云々は誰が提案したんだ?」
「……夏樹様です」
 尚斗はちょっと口をつぐむ。
 その提案を夏樹がするとは想像しにくい……おそらくは、結花もそのあたりがひっかかったから来たのだろう。
「……ちょっと出来過ぎですよね?」
 結花が空を見上げながら呟いた。
「これでお互い様……というやり方は有崎さんらしくないなとは思ったんですが、ちょっと気になりまして」
「……なんとなーくだけど、それは冴子先輩っぽい影を感じるな」
「……ですね」
「あ、苦手とか言ってたっけ?」
「別に、嫌ってるわけじゃないんですよ……」
 結花はちょっと複雑そうな表情を浮かべた。
「なんというか……あの人の前じゃ、何も隠し事が出来ない気がして、落ち着かないんです」
「んー、なるほどな」
「あの人と平気でつきあえる夏樹様はすごいと思いますよ……」
 そう呟いて、結花はちらりと尚斗を見た。
「……ただ単に、私の心の中に壁があり、それを自覚してるから苦手に感じるだけかも知れませんけど」
「ま、単なる相性だろ……あまりネガティブに考えないように」
 尚斗はちょっと言葉を切り、真面目な口調に切り替えて言葉を続けた。
「で、大丈夫なのか実際?台詞覚えとか色々大変だろうに」
 結花は鞄の中から例の書類封筒をとりだし、尚斗に手渡した。
「……はい?」
「好きなページを開いて、適当に読んでください」
 尚斗は言われたとおりちょっとページをめくった。
「でも……もし失敗したら、全てを失うかも知れない」
「だからじっと幸運を待つというの?」
 よどみもなく次の台詞が結花の唇から紡ぎ出されてくる。
「止まれと願っても心臓の動きが止まらないように、人は全てを投げ出して死のうと決意した時ですら何らかの行為を必要とするのよ…」
 尚斗は再びページをめくり、呟いた。
「どうしたの静、なんか元気ないけど…」
「あ、うん……何でもないよ」
 再びページをめくる尚斗。
「そういえば、この並木道だったね…」
 結花の顔がちょっと赤くなった。
「……」
「どうした?」
「あなたと初めて出会った場所ね…」
 蚊の泣くような小さな声。
「……ん?」
「わ、私ね……あなたとここでぶつかった時…い、い、一瞬で……あなたのことが好きになったって……って、そんな恥ずかしい台詞を、こんなとこで言わせるつもりですかっ!」
「ん、そんな気恥ずかしい台詞だったか……?」
 と、尚斗は次の台詞に目を落とし……。
「でもまあ、舞台に上がったらそんなこと…」
 いきなり結花のタックルが炸裂する。
「と、とにかく!嫌味に聞こえるかも知れませんが、このぐらいの脚本なら全員分覚えるのに3時間もかかりませんっ!」
「むう、それはすごい…」
 本気で感心しながらも、尚斗は首を傾げた。
「じゃ、問題ないじゃん」
「……」
「……あるの?」
「私…舞台に立ったことないんですよ」
「それでいきなり主役」
「言わないでくださいっ!」
「ふむ…」
 尚斗はちょっと考え、ぽつりと呟いた。
「……夏樹さんはどうだったんだ?」
「ああ…」
 結花は納得がいったように小さく頷いた。
「香月先輩らしいですね……そういうきめ細かさは」
「個人的な意見を言えば……冴子先輩は不可能な難題をふっかけるタイプとは思わない」
「……気楽に言ってくれますね」
 尚斗はちょっと考え、ぽつりと呟いた。
「ちびっこ、もし男子校の生徒が夏樹さんに手紙を渡そうとしたら…」
「おーほほほっ。どうやらご自分を客観的に見ることの出来ない可哀想な方のようですわね。おそれ多くも学校創立以来最高の才媛、全てを最高レベル……(以下略)」
 尚斗は結花の頭にぽんっと手を置いて呟いた。
「や、全く問題ないわお前。ノープロブレムというか、多分夏樹さんより向いてる」
 結花を見てるだけでその光景が浮かんできそう。
「な、何を根拠に…」
「説明できるような根拠はない、でも大丈夫」
「そんな…」
 なでなで。
「……頭撫でたらごまかせるとか思ってません?」
 頭を撫で続けつつ、尚斗は思い出したように呟いた。
「それはそうと、演劇部の手伝いに回す連中はいつでも準備オッケーだぞ」
 
「……おはよ、尚斗君」
 ちょっと視線を逸らしながら麻里絵。
「もう、いいのか?」
 麻里絵は尚斗の目をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「どういう意味……なの?」
「幼なじみがずっと学校休んでたんだ、心配しちゃいけないのか?」
「……」
「……」
「……長いよね、5年って」
 そう呟いて、麻里絵がちょっと笑った。
 肩越しに麻里絵を見ていた世羽子はそれで窓の外に視線を向け、紗智は安堵したように小さく息を吐いた。
「尚斗君、1つ聞いていい?」
「何を?」
「心配してた割には……来てくれなかったね」
 恨むような口調とは裏腹に、麻里絵の視線はどこか優しい。
「みちろーくんじゃなきゃダメだと思ったの?それとも……みちろーくんのために、待ってたのかな?」
「……両方だ」
「……そっか」
 麻里絵が小さくため息をついた。
「……変わったね、尚斗君」
「今さら」
「上手く言えないけど……優しさの質が変わったような気がする」
 そう呟いて、麻里絵は世羽子に視線を向けた。
「昔なら……みちろーくんの事も私の事も、全部1人でどうにかしようとしてたと思うよ」
「……」
 世羽子の背中をしばらく見つめ、麻里絵は小さく頷いた。
 ぱちん。
「これで許してあげる」
「……」
 麻里絵の右手を頬に貼り付けたまま、尚斗は顔を上げた。
「どの事を?」
「多分、尚斗君が考えていること以外のこと」
 ちょっと怒ったように言って、麻里絵は自分の席に座った。
「……有崎」
「ん?」
 麻里絵の話が終わるのを待っていたかのように、青山が教室の外を指さす。
「了解」
 青山に続いて、尚斗は教室を後にした。
 
「頼みがある」
 屋上への階段を昇りながら青山。
「……珍しいな」
「とりあえずは大したことじゃない…」
 屋上に出るドアを開き、青山は尚斗の方を振り返って言った。
「ここに、宮坂を呼び出してくれ」
「……は?」
 そんなの、指先をパチンとならせば……
 尚斗の表情からそれを読みとったのか、青山は首を振った。
「俺は死んでもそんな馬鹿げたことをやりたくないし、俺がやったからといって宮坂が来るかどうかは疑問だ」
「……と言うか、教室にいただろ?」
「あまり人目に付きたくない」
 その言葉の意味に思い当たって、尚斗はちょっと構えるような気持ちになった。
「おい、青山…?」
「……」
「……わかった」
 尚斗は大きくため息をつき、思い出したように顔を上げた。
「そうだ、その前に聞きたいことがあるんだが」
「……何だ?」
「俺は……母さんがどこで死んだなんて親父以外に言った覚えはないんだが、青山や世羽子にそれを推測させるような事を俺はしたのか?」
 青山は顎の下に手を当て、うかがうように尚斗の顔を見た。
「いいのか、その話題を俺にふって」
「……」
「俺にその話題をふると……有崎が触れたくない部分まで触れる事になるぞ」
 尚斗は青山の視線を受け止め、ちょっと笑った。
「それならそれで、覚悟が決められる」
「…?」
「世羽子の精神的負担を増やしたくないんでな」
 青山はちょっと首を傾げ、そしてため息をついた。
「あの人が死んだ後にも色々ヒントはあったが、秋谷が熱を出してふらついた時に抱きかかえて我を忘れたように走り回ったことがあったろ……秋谷なら、多分アレでピンときたはずだ」
「……」
「怒りならともかく、精神的にタフな有崎がパニックに陥る事自体が異常だからな……それなりの重い理由を考えもするさ」
「自分の彼女が心配で……という理由はダメか?」
「有崎の場合、その理由に説得力はまるでない」
「……」
「まあ、突きつけろというなら容赦なく突きつけてやるが……秋谷はそこまで考えてなかったんだろうが、家で死んだだけじゃないんだろ?」
 尚斗の肩がちょっと揺れた。
「……続きは?」
「……俺の推測では、有崎が家に帰ったときあの人はまだなんとか生きていて、何も出来ないうちに死んだってとこか」
「……」
「……有崎」
 右手で目のあたりを覆い、掠れた声で尚斗が呟いた。
「すげえな青山……」
「……割と冷静だな」
「『割と』じゃ意味ない……あの日、世羽子にそこまで不意打ちされてたと考えたら寒気がする」
 尚斗はため息をついた。
「……秋谷を見る限りでは、軽く流せたようだが?」
「正直、家で死んだ云々は俺にとって大した問題じゃないと言うか……ひょっとすると、お節介されたかもしれん」
 尚斗は頭をかいて空を見上げた。
 出番がなかったとか言いつつ、某天使がきっちりアシストしていた可能性はある。
「……?」
「小説とか漫画で……人が死んだ瞬間に、重くなったり軽くなったりするだろ。青山はどう思う?」
「どこか海外の大学で、人が死んだ瞬間に0.001グラム程の重量が減少するのを確認した……それが魂の重さであるとかいうトンデモ研究を発表してた記憶があるが」
「……錯覚かも知れないけど、俺は命がなくなる瞬間ってのをもろに感じたよ」
「……」
「世羽子のせいなんて気持ちはこれぽっちもないのにな……矛盾するけど、自分のせいだという意識は抜けない」
 青山もまた空を見上げた。
「あの日、秋谷が遅くまで有崎をつれ回したんだろ?」
「俺のせい……って意識してるのを感じさせたら、世羽子は間違いなく自分を責める。正直、そんなのはさせたくねえなあ…」
「間が悪かったな……多分、有崎が1年生の女の子を抱えて走り回ってたのを秋谷は見ていたと思う」
「……世羽子の時に比べりゃ、別にパニックって程でもなかったんだけどな」
「秋谷にそう言えよ」
「……」
 尚斗は空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「時間が本当に解決するって事、あんのかなあ…?」
 
「青山大輔くん。これはなんの真似かなぁ?」
 お呼びとあらば即参上……などと呟きつつ現れた宮坂を瞬時に捕獲し、脱出不可能のうつぶせマウント状態を確保した青山が低い声で応じた。
「何の真似……と言われてもな」
「青山、宮坂が何かしでかすのはいつもの事だろう?」
「俺が悪いのは決定的なのかっ!?」
「……」
「……」
 2月の風よりも冷たい2人の視線を浴びて、宮坂はそっぽを向いた。
「で、何をしたんだ宮坂のヤツ?」
「俺は何もっ…」
 ぶちぶちっ。
「……生まれてきてすみません」
「あ、青山…」
 青山は涼しげに笑い、十数本程引き抜いた宮坂の髪の毛を風の中にまき散らした。
「ふむ、右からのフォローか」
「フォローじゃねえっ!貴重な人の髪の毛をなんだと…」
 ぐい。
「いやあ、ここはスプーンを使って右からのハイドローでぶっとばしましょう」
 青山が髪の毛をはなし、低い声で呟いた。
「お前……男子校の補助金横領のネタを藤本先生に売っただろ?」
「失礼なことを言うなっ」
 あまりにも毅然な物言いに、青山がちょっと首を傾げた。
「綺羅先生に対して売るなどと、無料で進呈したに決まって……」
 ぶちぶちぃっ。
「いやぁっ、髪が、髪がぁっ!」
 青山にチラリと視線を向けられ、尚斗はあうんの呼吸で慌てて青山を制止に入る。
「お、おいやりすぎだぞ青山。ハゲが出来てるじゃないか」
「いやぁっ」
 じたばたと身悶える宮坂だったが、いかんせん上に乗っている相手が悪すぎた。
「お前……あのネタがどういうシロモノか理解してるのか?」
「何言ってんだ青山、ほとんど全員が思ってるに決まってるだろ。あんな学校つぶれてしまえって…」
「有崎」
「ん?」
「お前は、授業に戻ってくれ」
「……」
「ついでに、俺はこの後早退する」
「……何か、事情があるんだな?」
「頼む」
「わかった…」
 そう言って立ち去ろうとした尚斗に向かって宮坂が必死に叫んだ。
「いやだっ、青山と2人にしないでくれぇっ!」
「おいおい宮坂……有崎を戻らせたのは俺の親切なんだが」
「えーと、やりすぎないように…」
「その点は心配するな」
 バタン、と扉が閉じられる音を、宮坂は絶望の中で聞いた……そして
「さあ、宮坂……俺は有崎と違って完璧に手加減が出来るからな、気絶なり死ぬなりで解放されるなんて思うなよ……」
 地獄の扉が開く。
 
「……青山君は?」
「早退」
 紗智はうさんくさそうな視線を尚斗に向け、さらに言葉を続けようとしたが教師がやってきたことで引き下がった。
「今日は先週の試験を返します…秋谷さん…天野さん、はお休みですか……一ノ瀬さん…」
 返却された尚斗の答案を覗き込み、紗智がちょっと意外そうに呟いた。
「……数学、苦手なの?」
「まあ、苦手だな……」
「あれ……私が96点だから……」
 紗智がノートを開いて何やら計算を始める。
「……ちっ、総合で3点負けてる」
「世羽子、総合でいくらだ?」
「マイナス3」
 前を向いたまま、そっけなく世羽子が応えた。
「何よ、マイナス3って?」
「全教科で3点落としたって事だろ……麻里絵は?」
「……聞きたい?」
 奇妙なほど朗らかな笑顔に、尚斗は慌てて首を横に振った。
「ねえ、聞きたい?本当に聞きたいの?」
「すまん、俺が悪かった麻里絵…」
「へっへえ……いいわよねえ、尚斗君もみちろーくんも紗智も……出来ない人の気持ちなんてわかりっこないもんねえ…」
「……麻里絵がやさぐれてる」
「そういや、小遣いが減額とか言ってたよーな…」
 麻里絵は机に突っ伏してぶつぶつと呟き始めた。
「新しい服も買えない、映画も見れない、遊びに行く電車賃もない……もう、普通のじょしこーせーとして生きていけないの…」
「紗智、あれは麻里絵の新しい芸風か?」
「……多分ね」
 
 帰りのHR終了後、尚斗が立ち上がるのを待っていたのか、教卓の前でじっと立っていた綺羅が呼び止めた。
「有崎尚斗君…多少、お時間いただけますか?」
「……今からですか?」
「はい」
 にっこりと、満面の笑み……を見て、尚斗はちょっと首を傾げた。
「どうか…しましたか?」
「あ、いえ……」
 頭の奥に何かがひっかかっているような感覚……が、消えてしまった。
「……どこで、ですか?」
「教官室がお気に召さないなら、ここでもよろしいですが…」
 尚斗は素早く周囲に視線を巡らせ、右手、左手、右脚、左脚……に異常がないことを確かめる。
「……じゃあ、ここで」
「ではそのように…」
 綺羅はふわりとカーディガンをたなびかせ、尚斗の前……青山の席に座った。
「で、一体何の用事が…」
「早いモノですね、時の流れというのは…」
 まるで尚斗の言葉が聞こえなかったの様に、綺羅は窓の外に優しい視線を向けながら呟いた。
「まあ、光陰矢のごとしと言いますし…」
「男子校のみなさまがこの学校にいられるのも後10日間ですものね…」
「今さらですが、お世話になってます……この季節に、青空学級はやりきれませんし」
 綺羅はちらと尚斗に視線を向け、哀しそうに目を伏せた。
「実は……良からぬ噂を耳にしたのですが」
「……何でしょう?」
「男子校の校舎は…雪の重みではなく、一部の生徒による破壊工作によって崩壊したという噂なのですが……」
 綺羅は自分の発言の効果を高める為なのか、一旦言葉を切ってからほんの一瞬だけ尚斗に視線を向けた。
「何か、ご存じありませんか、有崎尚斗君」
「……あります」
「まあ…」
 表情はあくまでも何かを憂えるようで、それでいて口調に微かに滲むのは喜びか。
「一部の生徒の中に、俺が含まれます」
「それはそれは…」
 きらりと、綺羅の瞳が光った。
「……他には?」
「他は知りません」
 綺羅はちょっと困ったような表情を浮かべ、再び口を開いた。
「私、有崎尚斗君の正直さに胸をうたれました……そして、お友達をかばおうとするその心にも」
「俺がやったことはやったことですから……まあ、酒飲んで酔っぱらった挙げ句に馬鹿やりましたから隠しても仕方ないです」
「……あくまでも、1人でやったと?」
「はい」
「……ですが、1人では少々荷が重い作業では?」
「屋根に穴を空けただけですし」
 綺羅はちょっとため息をついた。
「尚斗君はご存じないかも知れませんが……私立校とはいえ、学校のような公共性の高い建物の場合、それは持ち主との間の問題だけではなくなるのです」
 尚斗はおぼろげに気がついた。
 どうやら、綺羅は青山の名前を口に出させたいのだと。
「……誰からその噂を?」
「さあ…噂というモノは、どこからともなくふわふわと…」
「青山が何かしでかしましたか?」
 綺羅がふ、と表情を変えた。
「しでかした……と、おっしゃいますと?」
「いえ、どんな些細なことでも良いから青山の弱味を握りたがっているように見えたので」
 残念そうに肩を落とし、綺羅がちょと横を向いた。
 綺羅に対する警戒感はますます高まる一方なのだが、その秀麗な横顔を見ているとやはり滅多にお目にかかれない美人であることだけ認めざるを得ない。
「しかし、ますます美人になりましたね、藤本先生」
「えっ?」
「あれ?」
 綺羅は心持ち頬を染めながら不思議そうに尚斗を見つめ、尚斗は尚斗で自分の発言に首を傾げる。
「な、尚斗君…今」
「……」
 会った記憶はない……が、青山の発言なり状況証拠から会ったことはおそらく間違いないわけで。
「思い…出せないのかしら?」
 綺羅のその表情と口調に、何の作為も見いだすことが出来なかったので尚斗は素直に頭を下げた。
「……すみません、会ったことあるんですよね。どうも、思い出せなくて…」
 気を取り直したのか、綺羅は再び含むところがあるような満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ…」
 綺羅がゆっくりと立ち上がった。
「おや?」
「尚斗君のさっきの言葉に免じて、今日はやめておきます…」
「はぁ…」
「どのみち……すぐにわかることですし」
 そう呟いて、綺羅は妖艶に微笑んだ。
 
 
                   完
 
 
 何はともあれ、綺羅先生がついに発進。(笑)

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