冬になると天気予報で度々耳にすることになる放射冷却現象による冷え込みがどうのこうの……1月30日(水)の朝はまさにそんな感じだった。
ジャッ、ジャッ、ジャッ……
軽快な音を響かせて中華鍋をふるう尚斗に視線を向けながら、父親がなんとも不思議そうに呟いた。
「……お前、誰に似たのかなあ?」
「…なんか言ったか、親父?」
「いや、別に…」
父親が再び新聞に視線を戻した瞬間…
ピンポーン。
「親父、今ちょっと手が離せないから出てくれ」
「ん、ああ…」
ジャッ、ジャッ、ジャッ……と、中華鍋を3度ばかりふるってから、尚斗は慌てて火を止めた。
「親父っ、やっぱり俺が出るっ!」
などと玄関に駆けつけたときは既に手遅れで。
「やあ、これは可愛らしいお嬢さんだ……尚斗の知り合いかな?」
「え、あ、あの…そう…です」
「そこは寒いから、中にあがって待ってるといい…」
などのやりとりを経て、父親に誘われて断り切れなかったのか、御子が家の中に引っ張り込まれていたり。
「わあ…」
ため息にも似た、感心した様な呟き。
「有崎さん…お料理、お上手なんですね…」
「……親父、客を台所に連れてくるな」
「ん、応接間は寒いからな」
「……それもそうか」
「あ、あの…あの…お構いなく…」
顔を赤らめて俯いてしまった御子に優しい視線を注ぐと、父親は尚斗に向かって言った。
「尚斗」
「……何だよ」
「実はな、ワシは息子じゃなくて娘が欲しかった」
「今さら、俺にそんなこと言われてもな…」
軽く味を合わせてから火を止め、中華鍋の中身を皿に移し替えつつ応える尚斗。
「……で、この子が娘に」
菜箸を父親の喉に突きつけつつ、尚斗がちょっと笑った。
「はじめての家庭内暴力でもやってみるか」
「軽いジョークだ、マイサン」
「くすくす…」
おかしそうに笑う御子を見て、父親が首を振る。
「確かにお前はワシに過ぎたぐらいのできた息子だが……こう、なんというか」
「馬鹿言ってないで、さっさと飯食って、会社行って、馬車馬のように働いて、ぼろ雑巾のようになって帰ってこい」
「……ごらんの通り、冷え切った家庭でね」
「え、あ…あの…」
同情をひくように寂しく笑ってみせる父親に対して、御子はどう反応して良いかわからないようだった。
「親父、母さんに刺されたのって、絶対に無実じゃねえだろ」
「えと……面白い、お父様ですね」
「まあ、世間一般と比べて父親に恵まれているのは認めるけど……女の子がくると性格ちょっと変わるというか」
御子と2人、学校に向かいながら。
「……で、今日は何の用事が?」
「あ、そうでした…」
御子は口元に手をあてると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「……えっと、今回ばかりは全く身に覚えがないです」
御子は一度頭を上げ、再び頭を下げた。
「お姉さまが、家に戻ってきました……きっと、有崎さんがお姉さまを説得してくださったのだろうと…」
「いや、それ違う、多分違う、絶対違う」
尚斗は両手と首をブンブンと振って否定した。
「……ですが」
なにやら自分に対して不思議な信頼をおいているらしい御子に向かって、尚斗は諭すように言った。
「それは買いかぶりというものだよ、御子ちゃん」
「……家に帰ってきても、お父様やお母様と顔を合わせようとはしませんので…」
「じゃあ……和解したとか、話し合おうとか思って家出を中断したわけじゃ…」
「プチ家出…です」
こればかりは譲れない……という感じに御子が訂正した。
「……つまり、プチ家出を中断した背景に、外部の力が働いたと?」
「一度決めたら、ちょっとやそっとでは決意を翻すようなお姉さまではありませんし…」
そう呟いて、じっと尚斗を見つめる。
「何故、俺を見ますか?」
「……いえ」
気恥ずかしそうに御子が俯いた。
「ふむ……」
尚斗はちょっと空を見上げ、御子から聞いた話を元に状況を整理しようと試みた……元々大した状況など知ってはいないのだが。
家出に必要なモノ……衣、食、住、つまり、基本的には金と住む場所か。
「んー?」
首をひねると、御子がじっとこちらを見つめていた。
「……家出じゃなく、プチ家出ですので」
「……?」
「みんなが納得できるような答えを探すための、プチ家出……です」
おっとりとした外見にそぐわない鋭さを感じた様な気がして、尚斗はちょっとあらためるような気持ちで御子を見つめる。
「……家出は、不可能だと?」
「お姉さまには……重い足枷が2つありますので」
「おはよう、尚斗」
「おっす…って」
一房だけ長く伸ばしていた髪が切りそろえられた世羽子の首筋に視線を向けつつ、尚斗が呟いた。
「切ったのか?」
「まあね……自分が思ってたより結構引きずってたのがわかったから」
「そっか」
「そっけないのね」
「いや、普通に口をきいてくれてほっとしてる」
「……」
世羽子はちょっと慌てたように自分の席に座った。
「あ、そうだ…弥生は世羽子の所からでてったのか?」
「……弥生、家に帰ってるの?」
「らしいが…」
世羽子はちょっとため息をついて立ち上がった。そして、振り向きざまに尚斗の頭にチョップを食らわす。
「……はい?」
「私、今度は友達無くそうとは思わないから」
世羽子はそのままスタスタと教室を出ていく。
「……ケンカでもしたのかな?」
「長生きしろよ、有崎…」
青山がため息をついた。
「……麻里絵がきてないけど、何か聞いてる?」
世羽子がいなくなるのを待っていたのか、入れ替わるようにして紗智が遠慮がちに尚斗の肩を叩く。
「……むう」
尚斗がちょっとだけ世羽子の席に視線を走らせ、首をひねりながら呟く。
「えっと……影の支配者が、なんかやっちゃったかも」
青山が肩を小刻みに震わせて笑っていたり。
「それって、秋谷さんのこと?」
「何故紗智がそれを知っているっ!?」
「いや、青山君が…」
「ちょいと、青山先生」
「なまじ空手の黒帯とか持ってるようだから、一ノ瀬には教えておかないと反対に危ないし」
「……なんで?」
「それは…」
「青山君っ!何か暖かいモノでも呑みたくない?奢るわよっ、ねっ!」
「……?」
首をひねる尚斗の隣の席で、いつの間にか現れた安寿がらしからぬ大きなため息をついた。
「ドロドロです…」
4時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、弥生は勢いよく立ち上がって教室の外に……行こうとしたが、温子にがっしりと抱きしめられた。
「……温子?」
「逃がしちゃダメと命令されたの」
「……誰にっ?」
「世羽子ちゃんに」
「ちょっと放してってば、どんな顔して世羽子に会えば…」
「……普通でいいけど」
「早っ」
弥生につられて温子までもが身体を硬直させた。
「じゃ、温子……弥生の早退届けをお願い」
「らじゃ」
「ちょ、ちょっと、早退って…」
渋る弥生の手を取り、世羽子は歩きながら言った。
「とりあえず一段落したし……弥生には話さなきゃいけないことがあるから」
「……世羽子の奴、一体何を急いで」
「もうすぐ2月だからな」
納得できそうでできない青山の言葉に曖昧に頷きつつ、尚斗はふと思いついたように呟いた。
「そういえば、ここって1学年の定員いくらなんだっけ?」
「160人で4クラスだけど」
「いたのか、紗智」
「人をゴキブリみたいに…」
怒った風でもなく、紗智が肩をすくめた。
「あれ……って事は、ウチの2年と3年は2クラスしかないから」
「2年の場合、男子と女子が半々の合同学級は4つで…あとの2つは女クラよ」
紗智はつまらなさそうに言葉を続けた。
「合同学級の女子はほとんど外部入試生……まあ、幼稚舎からのお嬢さま生徒40名はほぼ女クラにかたまってて、ちょっと学校側の魂胆が見え透いてるわよね」
「へえ…」
「というか……私も気になってたんだけど」
「何を?」
「男子校の定員って、3クラスだか4クラスぐらいの規模じゃなかった?実際、1年は3クラスあって2年や3年より1クラス多いし」
「……あははのは」
唐突に、尚斗が乾いた笑いをあげた。
「尚斗…?」
「あははのは」
「……青山君?」
「……ウチの男子校ってかなり評判悪かっただろ」
「まあ、はっきりいってガラが悪いというか……でも最近はそんな噂聞かなくなったような」
「……その続きは、この宮坂幸二がお話しいたしましょう」
音もなく現れた宮坂が、気取って前髪をかき上げた。
「校内に巣くう悪の理不尽な行為に抵抗した我々3人が、勝利した結果です」
紗智の視線が、宮坂から尚斗へ、尚斗から青山へ……そしてため息。
「なるほど……要するに、大きな悪が生き残ったのね」
「一ノ瀬……宮坂と有崎は停学処分を受けたことがあるが、俺は無傷だぞ」
「本当に悪い奴ってそういうもんでしょ」
宮坂が遠い目をして呟く。
「俺はあの時悟ったね……青山と有崎だけは本当に怒らせちゃいけないと」
宮坂を指さしつつ、紗智が青山に聞いた。
「……なんか自分は無関係ってな発言してるけど?」
「どちらが悪いかはともかく、発端は全部宮坂だよ」
力強く言い切る青山と、乾いた笑みを貼り付けたままの尚斗。
そして紗智は、これ以上何も聞かない事にした。
「……えっと、話は戻るが」
「……?」
「……この学校、なんでそんなに教室があまってるんだ?」
尚斗が首をひねりながら言う。
「そりゃ公立の小中学校なら児童数の増減でそういう事もあるだろうけど、ここってパリッパリの私立お嬢さま学校だよな。定員160名の高等部の校舎に、ほぼ同規模の男子校の生徒を受け入れるスペースがあまってるっておかしくないか?単純に考えて、少なくとも7つの空き教室が存在してたわけだろ?」
「……ふうん」
曖昧に笑った青山に、尚斗が視線を向けた。
「何だよ?」
「いや、秋谷の件が一応片づいて心に余裕が出来たせいかな……そういう疑問が出てくるって事は」
「何か知ってるのか?」
青山は指先でトンと机を叩いた。
「有崎……ここと男子校、どっちがいい?」
「は?」
「……邪魔者は消えまーす」
面白くなさそうに、紗智が自分の席へと戻っていく……言うまでもなく、宮坂の姿は既に教室から消えていたり。
「あ、すまん」
「ま、いいんだけどね…」
紗智にちょっとだけ頭を下げてから、尚斗は青山を向き直った。
「で、『どっちがいい?』とはどういう意味だ?」
「……言葉通りの意味だが。元々、有崎はあの男子校を希望してたわけじゃないだろ」
「別に…まあ、色々あって面白かったけどな俺は……あの学校じゃなきゃ、あれだけいろんな騒動も起きなかっただろうし」
「騒動の数々は宮坂のせいだと思うが…」
「じゃなくて……ここに来てわかったけど、ウチの学校って飾り気ないから居心地いいんだよ、俺には」
「なるほど……じゃ、その方向で」
「……その方向?」
何も答えず、青山は例の笑いを浮かべて見せた。
「……と言うわけで、これから世界へ羽ばたく予定のモデル候補がのこのことやってきましたが?」
「……なんだか今日はご機嫌ね。麻里絵が休んだから?」
「冗談でもやめてくださいね、そういう言い方」
そう応じながら、なんで麻里絵が休んだことを……という視線を冴子に向ける。
「他の学校はどうか知らないけど、保健室にいると欠席者と早退者の情報は全部入ってくるの」
「相変わらず、保健室の主ですか?」
「図書室も好きだけど」
平然と冴子。
「で、この娘は温室の主」
冴子の後ろに隠れていたのか、御子がちょこっと顔を出した。
「こ、こんにちわ、有崎さん」
「おや、御子ちゃん……知り合いだったんですか、冴子先輩?」
「知り合いというか、この前の件で本格的に知り合ったというか…」
「香月先輩の家は茶道の家元でして……九条家とは多少縁があるんです」
「はあ…」
「といっても、私は本家筋じゃないからね……言っとくけど」
「でも…香月先輩の入れるお茶ってすごく美味しいんです…」
「ああ、確かに……煎餅と一緒にいただくとこれがなんとも」
保健室でのひとときを思い出し、尚斗がそう呟く。
「ですよねえ…」
赤らめた頬に手を当て、同じような経験があるのかその時のことを思い出すように目を閉じる御子。
「大げさねえ…」
照れなのか、冴子が困ったような表情を浮かべて前髪をかき上げた。
「本家の従姉妹のお茶を飲んだら多分差がわかると思うわよ」
「あ、かやねさんですね。以前に一度だけお目にかかったことがあります……なんか、ぽやーんとして優しそうな人でした」
「うん、まあ、そうね…」
冴子の返事は、どことなく歯切れが悪い。
「それはそうと……」
尚斗が冴子を見る。
それを受けて冴子の視線がまず尚斗に向き、そして御子に向けられた。
「あ、お邪魔でしたか…」
「ううん、別に……今日はとりあえず話だけのつもりだったから」
「ひょっとして、モデルは毎日ですか?」
「そんなことないわよ……まあ、気が向いたときに保健室や図書室に来てくれれば」
「あの…その……香月先輩は、有崎さんの写真をお撮りになるんですか?」
「うん、そのつもり……なんだけどね」
冴子はちょっと挑むような視線を尚斗に向けた。
「難しそう」
冴子と御子の3人で世間話、御子1人ではどうにならないという鉢植えの移動……小一時間ほど経ってから2人と別れた尚斗の前に結花が現れる。
「……いつまで待たせるつもりですか?」
「用事があったなら、声をかけてくれれば……忙しい身だろうに」
「……香月先輩、苦手なんです」
「夏樹さんとは仲がよいみたいだが」
「夏樹様は夏樹様、私は私ですから」
「それはそうだ…」
ちょっとした沈黙を経て、結花がぽつりと呟いた。
「…読みましたよ」
「ほう」
「……正直、驚きました」
ため息混じりに。
「完成度は極めて高いです……」
その沈黙が枕詞であることを知りつつ、尚斗は何も言わずに結花の言葉の続きを待った。
「……ただ、観客がそれを受け入れるかどうかとは別物ですから。この1年というか2年で、演劇部の客層はかなり特殊になってますし」
「ふむ……ちびっこの考えでは、客に受け入れられるかどうかは疑わしいと」
「生意気な口をきくようですが……これが夏樹様のやりたいお芝居だとして、もし途中でぞろぞろと客が帰ってしまうような事態になったとしたら……」
結花はちょっと俯き、ぽつりと呟いた。
「それは……夏樹様にとって一番残酷なんじゃないでしょうか」
「そっか…」
尚斗は1つ頷き、空を見上げた。
「ただな……採算性というか、そこまで考えなきゃいけないのか?」
「チケットが有料ですからね……」
「……って事は、高校生の青春の象徴とされている高校球児達は、観客を満足させるプレーを心がけなきゃいけないか」
ちょっと虚をつかれたように、結花が尚斗を見た。
「……あれって、地方予選も有料なんですか?」
「安いけど有料だ……といっても、高野連の運営費とか球場の使用料に消えるから選手にバックするモノはないらしいけど」
「……一生懸命劇を演じて、それを楽しんで貰ったらいい……そう言ってますか?」
「いや、正直なところ、こういう話の展開になるとは思ってなかったというか…」
尚斗は結花の頭に手を置いた……いつものポジション。
「上手いとか下手とか……夏樹さんの書いたのはそういうんじゃなくて」
優しく、なだめるように頭を撫でながら。
「上手く言えないんだが…」
ぽす、と結花が尚斗のみぞおちのあたりに顔を埋めた。
「わかってますっ…わかるから余計につらいんですっ」
微かに肩を震わせながら。
「夏樹様…こういう芝居がやりたかったんですよね……なのに……」
「……夏樹さんも、ちびっこもどこか純粋すぎる部分があるんだろうな」
頭を撫でながら、もう一方の手で背中をトントンと優しく叩いてやる。
「テストと違って、100点満点の思いやりとか親切とかあるはずもないのに……それを求めて苦しむというか…」
「……」
「夏樹さん、それを読ませたらお前が傷つくかも……って言ってたんだが」
「だったら…有崎さんは、何で私に読ませようとしたんですか……恨んだりしないって言いましたけど……恨んじゃいそうです」
ちょっと言葉を切り、結花が再び口を開く。
「わかってるって事と、思い知らされるって事は違いますから…」
「読ませたら傷つく……ただそれだけの脚本を書くような人か、夏樹さんは?」
「……」
「書くだけじゃなく、わざわざプリントアウトして持ち歩く?夏樹さんの性格からしてありえないだろ、それ」
「……どういうことですか?」
「気付いてないかも知れないけど、そのヒロインってお前がモデルだぞ」
「え?」
結花がちょっと顔を上げた。
「いや、だって……あのヒロインは……」
「まんまお前じゃん……まあ、多少は夏樹さんの願望が混じってるかも知れないけど」
「……え、えええ〜っ?」
結花の顔が真っ赤に染まった。
「な、ななななんですか?夏樹様は、私のことをあんな風に見てたんですか?」
「……と言うか」
尚斗は呆れたように呟いた。
「あのお話の登場人物って……演劇部の人間がモデルじゃねえの?昨日、俺と一緒に丸太を切ってた女の子なんて〇×そのまんまだろ」
「……」
「演劇部のみんなをよく見てたんだろうな……そういうお芝居もあるとかいう主張じゃなくて、それは夏樹さんからのみんなへの感謝の気持ちそのものなのでは?少なくとも、そういう気持ちが込められているのは確かだと思う」
「……」
「俺としては……それを踏まえた上でもう一度読み直すことを提案するぞ」
涙を拭うこともなく、結花はじっと尚斗を見つめ続け……1分ほど経過。
「……有崎さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた結花の顔は晴れやかで。
「多分、騙されてるんでしょうけど……それでもいいです」
「……そうしとけ」
結花はもう一度頭を下げ、そのまま呟いた。
「……夏樹様に恨まれるのを覚悟で、私も、私なりにやってみます」
「……頭、撫でてやろうか?」
「それは、上手くいったときにしてください」
ちょっと照れたように笑うと、結花は小走りに去っていく。
そんなちびっこの背中を見送る尚斗の背後で安寿が呟いた。
「……あのですね」
「うわっ……って、安寿さんですか」
「カレーって煮込めば煮込むほどドロドロになるんですぅ…」
「……はい?」
「あ、でもドロドロのカレーって美味しいですよね……じゃなくて」
安寿は何か違うというようにブンブンと首を振った。
「安寿さん?」
「はあ…」
ため息をつき、いつものように安寿が尚斗の背中を……いや、いつもと違ってはたくと言うよりは叩き始めた。
「ど、どうかしましたか?」
「ついてないですよねえ…」
「いや、明らかにそれは台詞と行動が合ってないだろ…」
「ちょっと世羽子……こんなに買い込んで、何なのよ?」
ビール6缶のパッケージを入れた買い物袋を1つぶら下げた弥生が、ビールの袋が1つ、缶チューハイの袋が2つ、あとはおつまみ系統を1つ、合わせて4つぶら下げていながら平然と前を歩いていく世羽子に抗議した。
「おじさん、あまりお酒呑まないでしょ?こんなに買っても…」
「昔は結構呑んでたのよ…」
そう応えてから、世羽子は振り向いた。
「ちなみに、それは私と弥生で呑む分」
「……え?」
缶ビールが12本、缶チューハイが12本……1人あたりビールだけで2.1リットル。
即座にそんな計算をした弥生の顔が強ばった。
「さすがに、呑まないと話せない事もあるから」
「あ、あの…世羽子。私達、未成年…」
「……ゲームが発売されてからそろそろ3年経つから大丈夫よ」
「何の話よっ?」
「いいから来なさい……一ヶ月近く寝泊まりした家の住人に対して一言の挨拶も無しに突然にいなくなるような礼儀知らずに拒否権はないから」
「ぐっ…」
育ちのいい弥生だけに、そのあたりをつかれると弱い。
「まあ、家に帰ったらとりあえずお父さんの夕食を用意して……それからだけど」
カシュッ……ゴッゴッゴッ。
カシュッ……ゴッゴッゴッ。
瞬く間に2本の缶ビールを空にした世羽子を見て、弥生の顔に縦線が入った。
「よ、世羽子……大丈夫?」
「小学生の分際で、授業中にミネラルウォーターのペットボトルの中に入れたウォッカを飲んでた悪魔に比べたらこのぐらい…」
吐き捨てるような世羽子の言葉に首を傾げ、弥生は呟いた。
「有崎…じゃないよね?」
「尚斗は中学は同じだけど、小学校は別……と言っても、その悪魔にしたって6年の2学期に転校してきたんだけど」
「む、昔話にしては…怒りが新鮮っぽいね」
「弥生も、さっさと酔いなさい」
「酔うったって…」
諦めたように、弥生がビールを口にした。
「苦っ…」
「じゃあ、こっちにしなさい」
と、缶チューハイを投げてよこす。
「……あ、こっちはなんか美味しいかも」
やがて、弥生が2本目の缶チューハイを空けた頃……世羽子が呑んだ本数は秘密。
「とりあえず言っとく」
「ん?」
「ずっと前に別れたつもりだったけど……多分、本当の意味では別れてなかったんだと思う、私と尚斗って。色々とね、悪条件が重なって……と言っても、私が尚斗を信じ切れなかっただけの話だけど」
「……うん」
「で、恥知らずにも……」
世羽子が新しいビールの缶を開け、一気に飲み干した。
「誤解が解けたからって、よりを戻そうとした馬鹿がここにいるのよ」
「……振られたの?」
「まあ、そんな感じ……というか、とりあえずきちんと別れて3年前の精算をしたってところかしら」
そう言った世羽子の顔をじっと見つめ、弥生が呟いた。
「なんか……嬉しそうに話すね」
「悲しいわよ。悲しいけど……ああ、尚斗らしいなって」
「……?」
「こう、融通が利かないというか……上手く言えないけど、尚斗っていつも割に合わないところで答を見つけようとするのよ」
今度は弥生が持っていた缶チューハイを一気にあおった。
「有崎、見る目ないっ!」
「尚斗の悪口言わない」
弥生の頭に軽くチョップ。
「なんでかばうの、振られたんでしょっ!」
世羽子は弥生の顔をじっと見つめ、ぼそっと呟いた。
「……まあ、それ以上は内緒って事で」
「なんか、やらしい…」
「……というか、本題はこれからだから」
世羽子が持っていた缶を床に置いた。
「中学の時仲の良い友達がいたのよ……幼稚園からのつき合いで」
「ふうん…」
カシューナッツを食べながら、頬をほんのりと桜色に染めた弥生が頷く。
「……その子が尚斗のこと好きになってね」
「…んぐっ」
弥生が食べかけのナッツをふきだした。
「本人は必死に隠してたつもりなんだろうけど……尚斗はそういうの鈍いから気付かなかったけど、私にはバレバレで」
ある種のプレッシャーに耐えかねたのか、弥生は缶チューハイを口に運んだ。
「私が気付いてることに気付いちゃって……避けるんだよね、私と尚斗を」
「へ、へえ…」
缶を傾ける弥生。
「私と尚斗を見てるのがツライ、無意識に酷いことを望んでる自分がイヤだって……そう言って泣いたわ、その子」
「……」
「私と尚斗の仲を裂こうとしていろいろ仕掛けてくる輩なら、問答無用でやり返してお終いなんだけど……その子のは、結構きつかった」
「……それ、有崎が気付いたら泥沼なんじゃ?」
「でしょうね……絶対に、私とその子を仲直りさせようと動いただろうし」
「……気付かれなかったの?」
「魔が差したのよ」
「え?」
「……さっき言った悪魔にね、相談しちゃったのよ。何か上手い手はないかって……その結果、影の支配者と囁かれるようになってその子だけじゃなく友達はおろか知人まで無くしたわ」
「……な、何がどうなったらそうなるの?」
「尚斗はケンカが強かったけど、結構まわりの人間には好かれてた。対照的に、その悪魔は私と尚斗を除いて誰も近寄ろうとしないぐらい恐れられてたの……嫌われてたんじゃないのよ、恐れられてたの」
「……な、何となくわかったかな…」
「こういう事をやると前もって言ってくれたら覚悟も出来たのに、ある日突然……」
世羽子が新しい缶を開け、グイッとあおった。
「今思い出すのもイヤな事を囁かれてね……全校生徒の前で、その悪魔を叩きのめした格好に…」
「ふ、ふうん…」
「その後一体何のためって詰め寄ったら、こう、うすうく笑って…『これで知人が離れていっても不思議はないし、有崎にちょっかいかける女は減るし、秋谷にケンカを売る女も減るし、秋谷にとっては一石三鳥だろ』って」
手をブルブルと震わせながら、世羽子は何とか気持ちを落ち着けようと努めて淡々と語り続けた。
「悔しいけど、実際その通りだったのよ……妙なのが絡んでくることもなくなったし、尚斗にアプローチかけてくる女の子は激減したし……」
「そ、そんな人が…」
「いるのよ。しかも今も尚斗の側に」
ふっと、弥生が首をひねった。
「弥生?」
「それって……青山家の」
「……知ってるの?」
弥生がなんとも複雑な表情を浮かべた。
「中学にあがる前に……その…いわゆる名家とか資産家の集まるパーティーで……」
「……何、言われたの?」
弥生が残っていたチューハイを一気に飲み干す。
「正直っ、その通りだったと思うし、今となっては多少感謝もしてるけどっ」
弥生の剣幕に押されたように、世羽子がちょっと上半身を引いた。
「あの人ねえ、虫でも見るような目つきで言ったのよ!『ペットと会話する趣味はない』って!」
「ペ、ペット…」
そう呟いて世羽子が絶句する。
「そりゃ、あの頃はお父様とお母様に誉めて貰おうと思ってせっせと言われたとおりのことをやってただけでっ……今だったら、『じゃあ、アンタは一体何なのよっ!』って言い返せたのにっ!」
「……あ、あぁ、そういう意味ね」
「もうっ、あの頃の不甲斐ない自分が許せないっ……でもまあ、この前会ったら随分と丸くなってたようだけど」
「それ、絶対違うと思う」
2人の会話は妙な方向に突き進んでいき、今までとは違う種類の固い連帯感が生まれた頃に世羽子が我に返った。
「ゴメン、青山君について言いたいことはまだ山のようにあるけど本題に戻らせて」
「……本題って、何だっけ?」
世羽子は弥生の目を見つめて言う。
「……逃げないでよ」
弥生が世羽子の視線から顔を背ける。
「わ、私は別に……」
世羽子はちょっとため息をついた。
「私に気兼ねして自分を曲げる……またペットに戻るつもり?」
「…っ」
「ご両親に気兼ねして、また堅苦しい着物に身を包んで花を活けていく……多分、それと同じ事よ」
「それは……」
「どんなに綺麗事を並べたとしても……人って、哀しいぐらいに自分のために生きると思うし、それで良いと思う」
「だったら、何で放っておかないのっ?」
「さあ……なんでかしらね」
世羽子がちょっと笑い、言葉を続けた。
「……自分のためとしか言えないわね」
「……」
「まあ、こんな事でまた友達をなくすのはこりごりだし……なにより、向かってこない相手には絶対に勝てないもの」
弥生がぽつりと呟く。
「なんかね……申し訳ないなと思うのよ」
「……どういう意味?」
「……一緒にいると楽しいとか、居心地いいなとか……そんな曖昧な理由しか持たない自分が、他人をけ落とそうとしていいのかなって」
世羽子はちょっと口を開きかけ、弥生が返答を求めていないことに気づいてそのまま閉じた。
「……私、小さい頃は着物が嫌いで」
弥生がちょっと間を取るようにチューハイを口に含んだ。
「花を活けるのは嫌いじゃなかった……でもそれは嫌いじゃなかったと言うだけで、あとは精々お父様やお母様に誉めてもらえるぐらいの理由」
「……」
「生きている花をちょんぎって作品を作る……いつ頃からかな、花を切るたびに自分の身体を切り刻んでるような気がして」
弥生が自嘲するような笑みを浮かべた。
「……こっちの心の中を見透かすような目で『ペット』って言われたとき、何も言えなかった……図星過ぎて」
「それにしても言い様って物があるわよ」
「……そうね」
弥生がちょっと微笑む。
「……だから思うのよ。今私が有崎に寄せている好意……それは、花を活けているようなものじゃないのかって」
「それで……申し訳ないって?」
「歌が好き……せめて、それと同じぐらい自信を持って『好き』って言いたいかな」
「……1つ気になることがあるんだけど?」
「何?」
「つまり……弥生は、私に勝てると?」
「……振られたんでしょ?」
世羽子は何も答えず、ビールを飲んだ。
「……世羽子?」
「私が、振ったの」
『私が』の部分に必要以上にアクセントをつけて。
「……負け惜しみ」
「……最初ッから逃げ出そうとした腰抜けの台詞?」
「……」
「……」
世羽子と弥生、2人は何も言わずに新しい缶を開け、一口二口。
「や、私が本気になったら有崎なんてちょちょいのちょいだから」
「いいわね、無邪気で……中学時代、つきあい始めてから私がどんなに苦労したか」
「……世羽子相手なら自分にもチャンスがあるって思われてたんじゃないの?」
「私だからあの程度ですんだ……ぐらいには自惚れてるわよ」
「……胸は私が大きい」
「そう、良かったわね」
弥生が小さくため息をついた。
「じゃあ、悪いけど……もうしばらくお世話になるから」
「そうしなさい」
完
2月14日まであと106日……とか書くと、全然余裕のような。(笑)
って、逆算されると、この話書いた日時がばれますな。
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