「ありがとー、おにいちゃん、おねえちゃん」
ぺこぺこと頭を下げる母親の隣でこちらに向かって手を振り続けた女の子の姿が見えなくなると、世羽子は何かを懐かしむような表情を浮かべて呟いた。
「いいわね、子供は」
「何が?」
「泣けば親切な誰かが助けてくれるし、ありがとう、ごめんなさい、あれ嫌い、何が好き……思ったことそのまんま口に出せばいいんだから」
「そうか?」
尚斗はちょっと首をひねり、空を見上げながら呟いた。
「俺は……子供がただ無邪気な存在とは思ってないけどな」
「私が言いたいのは……」
世羽子の視線は足下へ。
「子供が私達より、ちょっとだけ素直に助けを求めることができるって事よ…」
「……ちょっとだけってのが、世羽子らしい言いぐさだな」
「……」
「どこかの学者や専門家みたいに無理に決め付けなくてもいいんじゃねえの?俺ら高校生で色々いるのと同じで、大人も色々だろうし、子供も色々……と、俺は思う」
「……」
「まあ、子供について語れるほど、いろんな子供を見てきたわけじゃないけどな」
ちょっと恥ずかしそうに、尚斗が頭をかいた。
「しかし……そういうとこ、青山と気が合いそうなのにな」
「合うわけないでしょ」
俯いていた世羽子が弾かれたように顔を上げ、ジロリと尚斗を睨み付けた。
「青山君のせいでねえ、未だに私の姿を見かけたらそそくさと逃げていく連中がいるんだから」
世羽子の言葉を聞き、尚斗がちょっと笑った。
「そりゃ……全校生徒の前で、『あの』青山を派手に張り飛ばせば仕方ないというか……『影の支配者』とか噂されて俺以外は誰も世羽子に近寄らなくなったし」
「あれは……」
「まあ、青山に嵌められただけだろ」
尚斗の視線から顔を背け、世羽子はあさっての方角を向いたままぽつりと呟いた。
「……おかげさまで、孤独な学生生活を堪能させて貰ったわね。お節介なはずの誰かさんは、みんなに向かって噂を否定してくれるでもなく、静観してるだけだったし」
「えーと……あれは、否定して良かったのか?」
世羽子はちょっと怪訝そうな表情を浮かべ、窺うように尚斗を見た。
「……どういう意味?」
「まあ、正直なところ噂を否定するのが難しかったというか……世羽子が本気で怒ってるように見えなかったし……青山が何故そういう事をしたか……とか考えると、噂を否定するとそれはそれでまずいのかなあと」
並木道を、風が通り抜けていく。
世羽子は困ったように視線を落とし、そして言った。
「ゴメン…この話、もうやめない?」
「……?」
「と、とにかく。その件に関しては、それ以上追求しないで」
尚斗の視線から逃れるように、世羽子は頬のあたりを微かに染めてそっぽを向く。
「……」
「だ、大体っ!私は、こんな話をしようと思って尚斗を呼んだわけじゃないのっ!」
紗智はコキッと手首を鳴らし、唐突に切り出した。
「あのさ、尚斗ってもてた?」
「……小学生の頃から、年齢に関係なく、近辺のいじめっ子に散々煮え湯を飲ませたらしい有崎が中学校に上がるとどうなると思う?」
「考えようによっては、どっちがいじめっ子だかわからないわね……ま、それっぽい上級生に目を付けられるかしらね」
「目を付けられるなんてレベルじゃなく、入学直後から上級生相手に乱闘騒ぎを連発。相手が何人だろうと叩きのめしたらしいが……」
「……まあ、ケンカの理由はどうあれ、大抵はちょっとひいちゃうか」
口ではそう言いながらも紗智は楽しそうな表情を浮かべ、椅子の背もたれに背中を預けながら天井に視線を向けた。
「部活は?」
「上級生のしごきから同級生をかばって乱闘騒ぎ。一悶着あって、結局は責任をとる形で早々に辞めさせられた……という話を秋谷から聞いたことがある」
「……うん?」
紗智はちょっと首をひねった。
「じゃあ、尚斗と青山君の接触より尚斗と秋谷さんの接触の方が早かったわけ?なんか、尚斗と秋谷さんってあんまり接点なさそうだけど?」
「……普通は、俺と有崎の接点に疑問を持ちそうなモンだが」
「んー、青山君と尚斗より、尚斗と秋谷さんの方がピンとこない」
「何故?」
「や、秋谷さんって……いわゆる成績優秀の優等生だったんじゃないの?で、なんというか……尚斗って、その様子じゃ中学では問題児扱いだったんじゃない?」
「……つまり、俺は問題児だと」
どこか楽しげに青山が呟く。
「まあ、俺のことに関して否定はしないが、秋谷は秋谷で、ああみえてとんでもないヤツでな。俺と有崎の通ってた中学校を裏で支配しているのは秋谷だという噂が囁かれていたほどだ」
紗智がちょっとため息をついた。
「……青山君ってさ、あんま冗談上手くない?」
「……真実の程は定かではないが、秋谷が影の支配者という噂が流れたのは事実だし、その噂を信じたのか、ほとんどの生徒は秋谷を恐れて近づくことはなかったようだ」
「……単なる噂でしょ?馬鹿馬鹿しい」
騙されない……という感じに紗智は手を振った。
「大人びてるし、成績良いし、どっか近寄りがたい雰囲気はあるけどね……親しく口をきいたことはないけど、優しい人ってのはなんとなくわかるわよ」
「噂が広まるだけならまだしも、それを信じる人間が大勢いたってのは事実だ……周囲にとってそれなりの信憑性があったんだな」
「信憑性…ねえ?」
紗智は疑わしげに青山を見つめた。
「…くしゅんっ!」
「大丈夫か?」
「……青山君が私の悪口を言ってるような気がするわ」
「そこまで嫌いか、青山を」
呆れたように呟いた尚斗を見て、反対に世羽子が呆れたようにため息をついた。
「嫌いじゃないわよ」
「だったら…」
「大嫌いだから」
「世羽子……お前、そんなに青山のこと嫌ってたか?少なくとも中学の時はそこまで……」
「……3年経ってちょっと丸くなったかなと思ったけど、中身がますますひねくれたわね、青山君は」
それ以上は言いたくない、とばかりに世羽子がそっぽを向いた。
「ご、ごく最近に何か…?」
「……いい天気ね、今日は」
思い出させないで、という心の声が聞こえてきそうなぐらい露骨な台詞に、尚斗はただ頷いた。
「そ、そうだな…いい天気だ」
「……」
無言のまま、世羽子がゆっくりと歩き出し……尚斗もまた肩を並べて歩き出す。
「……」
「……」
「あのさ、おばさん……去年の春か?」
世羽子は足を止め、結果として自分を追い越した形の尚斗の背中を見つめた……ただ単に沈黙に耐えかねて疑問を口にしただけなのか、それとも自分に話の切り出し口を与えるためにそんなことを言いだしたのかを判断しかねたように。
もちろんそれは時間にして精々1秒ほどで、世羽子はすぐに歩き始め、尚斗の背中を見つめたまま口を開いた。
「……どうして、そう思うの」
「いや……香神さんが去年の9月から中途編入してきたわけだろ。だったら、世羽子は1学期の中間試験なり期末試験なりで、特待生として学校側を安心させるだけ成績が残せなかったのかと」
世羽子はちょっと首を振り、ぽつりと呟いた。
「……鋭いけど、相変わらずどこか抜けてるね尚斗は」
「ん?」
「……5月のはじめだったわ」
「……そっか」
嘆息するように呟き、尚斗は空を見上げた。
「悪ぃ、ちょっとかける言葉がみつからねえ」
「別に……1年も経てば今さらだしね」
先とは別の沈黙が二人を包む。
それを破ったのは、今度は世羽子だった。
「……あの時、やっぱり知ってたのね」
「だから、主語と目的語を省くなって」
「……私が、ここの学校に誘われてるって相談したとき…ウチの家庭の事情について」
世羽子が立ち止まり、それに遅れて立ち止まった尚斗が、後ろを振り返る。
自分を真っ直ぐに見つめる瞳……尚斗はそれを受け止めざるを得なかった。
「……知ってたよ」
「……そう」
何か荷物でも背負わされたかのように、世羽子の背中がちょっとだけ丸くなった。
「……その情報の出所って、青山君?」
質問には答えず、尚斗がしゃべり出した。
「混合治療……だったっけ?とにかく、保険がきかないとか毎月毎月とんでもなく費用がかかるとか……」
ちょっと言葉を切り、澄み切った空を見上げながら言葉を続ける。
「女子校に編入すれば金がもらえるとかも含めて、全部知ってた……金に関して俺は何もできないってのはわかったし」
「……」
「……結局、俺は現実的な問題には手も足も出ないガキで……それを認めるのが精一杯だったな」
自分を納得させるように小さく頷く尚斗から目をそらし、世羽子が吐き捨てるように呟いた。
「なんで青山君が知ってたのよ……尚斗に頼まれたわけじゃないわよね?」
「さあ……今なら、青山だからの一言ですませるが」
どこかのんびりとした口調で尚斗。
「何の前触れもなく教えてくれた……あの時まで、青山がそういう形で積極的に人と関わるタイプとは思ってなかったからちょっとびっくりしたけど……今になって思えば……多分、俺は青山に試されたんだろうな」
「試すって……何を?」
「俺が口だけのヤツかどうか……かな?あの後からだからな、青山が俺のお節介云々に皮肉は言っても、否定しなくなったのは」
何かを思い出すように、世羽子がちょっと遠い目をした。
「ま、青山にどういう思惑があったにせよ……俺はそれを教えてくれた青山に感謝したし、今もそれは変わらない」
「私は、感謝できそうにないわ」
「……」
「青山君が尚斗にそれを言わなきゃ……」
「俺は、多分世羽子に同じ事を言ったと思う」
その瞬間、尚斗は世羽子の表情を見てちょっとたじろぐような気持ちになった……多少弁解めいた口調で言葉を続ける。
「……同じ学校でちょっとでも長く一緒にいたいという気持ちなら正直嬉しいと思うけど、世羽子の進路は世羽子のモノで、俺のモノじゃない」
「……」
「まあ、一歩譲って……2人のモノだとしても、世羽子がそれをしたい、それをしなければいけないなら俺は……」
「……あの時の私、怒ってたんじゃないから」
「じゃあ…」
何で…と言いかけた尚斗より早く、世羽子は呟いた。
「私、恐かった…」
「恐い…?」
痛々しいとも思える表情を浮かべ、世羽子は呟いた。
「尚斗は…」
「…ん?」
「自分には何もできないとか……あの時までそういう無力感とは無縁だった?」
「いや、そんなことはないぞ。母さんはある意味スパルタだったから結構アレだったし、ガキの頃高校生相手にぼっこんぼっこんにやられた時も結構…」
「……小学生が、何で高校生とケンカになるのよ?」
ぎこちない笑みを浮かべ、世羽子がため息をつく。
「んー、なんか電車の中で絡まれてた高校生の……女の人を……あれ?」
首を傾げた尚斗の右脇腹を、世羽子の右拳が軽く突き上げた。
「話をしているときに他のことを考えない……最低限のマナーは守って」
右脇腹をさすりながら尚斗は呟く。
「し、死角から正確に肝臓を……そんなだから、影の支配者なんつー噂を否定するのが…」
「私、小さい頃から結構なんでもできた子でね…」
「あっさりと流すか」
「中学に入るまで……入ってからしばらく経っても、そういう無力感とはほぼ無縁だったわ」
「……キツイのは、おばさんが最初か」
世羽子が首を振った。
「尚斗が最初」
「……俺?」
「そういや、ただの方便じゃなきゃ青山君の聞きたい事って何よ?」
「ん…」
ちょっと改まったような表情を浮かべ、青山は紗智を見つめる。
「な、何よ…?」
「やめとく」
「今さら。遠慮しないで何でも聞けば?真面目に答えるとは限らないけど」
「いや、一ノ瀬は多分俺の質問には答えられないってわかった」
「……?」
「……ついでに、俺がその質問をすると一ノ瀬は色々と質問の裏の意味を考えて、結果として多分不愉快な目に遭う」
「……予言者気取り?」
「どう言えばいいかな…」
青山はゆっくりと右手を机の上に出し、ギュッと握り込んでからパッと開いた。
「えっ!?」
何もなかった筈の青山の手に小ぶりのナイフが握られているのを見て、紗智は驚いたように青山の右手を凝視した。
「ど、どこから…?」
「一ノ瀬にはどこからこのナイフが出てきたかはっきりとはわからない……が、俺にはわかってる」
「あったり前でしょ」
青山はナイフを手の中で一回転させ、刃先を自分の胸に当てた。
「ナイフで心臓を刺すと死ぬ……ぐらいの想像もできないヤツがたまにいるけど、まあ、大抵の人間は実際にやってみせるまでもなく結果が想像できるだろ?」
「そりゃ、ね……あんまり想像したくないけど」
青山は、ナイフを胸から離し、今度は自分の左肘の裏に刃をあてた。
「しかし、ここを切るとどうなるか……と問われると、血が出るとかそういう事はともかく、俺がどうなるかってのを答えられる人間の割合は極端に減る」
「……」
「人間ってのは、一人一人知ってることが違い、考え方、立場やそれらに伴い想像力も違ってくる……ある行為に対してどういう結果が待っているか……その推察について、正しい正しくないは別にして、俺と一ノ瀬のそれが違っていても当たり前だし、それを説明することが面倒って事もわかるな」
「……なるほどね」
「と、言っても俺の推測がいつも正しいなんて自惚れてるつもりはないし、一ノ瀬がそれに従う義務もない……さっきも似たようなことを言ったが、俺の言葉は一ノ瀬にとって単なる1つの情報にすぎないわけで、判断するのは一ノ瀬だし、決めるのも一ノ瀬。それだけだろ?」
紗智は大きくため息をついた。
「尚斗が……青山君を頭がいいとか言うレベルじゃないとか言ってた意味が何となく分かったわ」
「ただのはったりとは思わないのか?」
「はったりだとしても……よ。青山君と私じゃ見えてる景色が全然違う……それだけは確かね」
紗智は青山の手のナイフに目をやり、ちょっと首を振った。
「……それ、しまってよ。落ち着かないから」
「ああ」
青山が軽く手首をひねる……と、ナイフがかき消えた。
「……どこにしまったの?」
「秘密」
「ま、いいけど…」
紗智はちょっと俯き、ぽつりと呟く。
「青山君は……尚斗と秋谷さんのよりを戻させたいの?」
「そんなの、まわりが何をしようと戻るモノは戻るし、戻らないモノは戻らない……というか、そんなお節介な人間に見えるのか、俺は?」
青山には珍しい、ちょっと驚いたような表情……はすぐに消え、いつもの表情で言葉を続けた。
「まあ……俺には、お節介の才能ってヤツがないしな」
「……お節介って、才能でやるモンなの?」
「女子校に来てからというもの、才能に満ちあふれた有崎のお節介のキレが悪くてな」
「……はぁ?」
会話の展開が急すぎて、間抜けな声を出してしまう紗智。
「秋谷と椎名が、何らかの形で有崎の心の重しになってるせいだと思ったんでな……まあ、重しを取り除いてやる方向で俺は動いてやろうかと」
「……へえ」
青山を見る紗智の目が和んだ。
「……いいところあるじゃない」
何も答えず、青山はにやりという擬音がぴったりな笑みを浮かべる。
「……前言撤回」
「俺はそっちの方が楽しいことが起こりそうだから色々動いてるだけ……結果としてどう転ぶかはともかく、多分一ノ瀬が想像するような善意も悪意もないな」
「私…ね」
くっと顎をあげ、世羽子が空を見上げた。
「おばさんが死んでから……ずっと必死だった」
「悪い……確かに母さん死んでからしばらく、俺は心の余裕がなかった」
尚斗は申し訳なさそうに頭を下げ、言葉を続けた。
「せっかく世羽子が色々と世話を焼いてくれようとしたのに、俺の態度はちょっと邪険だったな」
「……本当にそれだけ?」
「……世羽子の手つきが危なっかしくて、見てられなかったのもある」
「そうじゃなくてっ」
世羽子が振り返る。
「私のこと……恨んでない?」
世羽子の言葉の意味をとらえかね、尚斗は首を傾げた。
「……何で、俺が世羽子を恨まなくちゃいけないんだ?」
「だってっ」
世羽子の右頬を涙が伝っていった。
「あの日、私が調子に乗って尚斗を色々連れ回さなきゃ、おばさんは死ななくてすんだんじゃないのっ!?おばさん、誰もいない家の中で死んでたんでしょ!?」
尚斗がちょっと不思議そうな視線を世羽子に向けた。
「ずっと恐かったっ……尚斗優しいから、絶対にそんな素振りは見せないってわかってたし……でも、ふとしたはずみで憎々しげな視線を私に向けたりするんじゃないかって……もし、尚斗にそんな視線を向けられたらって考えるだけでも恐くて…」
世羽子の右目から二つめの涙がこぼれると同時に左目からも涙がこぼれた。
「尚斗にそんな目で見られたくなかった……そんな目で見られないためにも、尚斗に必要とされなきゃって……なんとかして尚斗の役に立ちたかった…嫌われたくなかった…」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、堰を切ったように世羽子の口から溢れ出した言葉は彼女の性格らしからぬ不器用なモノになっていく。
「……世羽子」
「心配してたのは結局自分のことだけでっ……そんな自分がイヤで…イヤなのに、どうしていいかわからなくって……色々やってみても……料理とか尚斗の方が手際が良いし…何もしてあげられなくて……母さん倒れちゃうし…もう、何もかもぐちゃぐちゃで…」
嘆息するように、尚斗が呟いた。
「そっか……そのタイミングで、女子校の件だったのか」
「もう、いらないって…私とは会いたくないって言われた気がして…だから…」
尚斗は世羽子の身体を抱きよせ、耳元で囁いた。
「あのな、世羽子……お前が側でいてくれたから、お前には格好悪いところ見せたくなかったから気を張っていられた……恨んだりしてない、感謝してる、本当だ」
「でも、おばさんは…」
「……親父が解剖を拒否したから正確な死因はアレだけど、ウイルスかなんかが脳に入ったとかで……結局、突然死に近かったんじゃないか…って。たとえ俺が家にいても気付かなかっただろうし……母さんには悪いけど、その時家にいなかったって事は俺の心にとって少なからず救いになってる……だから、責めるな」
「……うっ、ぐす…」
子供をあやすように、尚斗は世羽子の背中をポンポンと叩く。
「悪かった、付いてやれなくて……俺はただ、世羽子に心配されてるだけだと思ってたんだ」
「……ゴメン、取り乱して」
公園のトイレから出てきた世羽子は、まだ少し腫れぼったい目をちょっと伏せるようにして頭を下げた。
「……しかしアレだな。泣いてる女の側にいる男って、犯罪者のような目で見られるな」
並木道から公園までの道のりが長いこと長いこと。
広さはそこそこあるのに子供のための遊具は少なく、樹木が多めに配置された……いわゆる、最近作られた公園らしい公園は陽当たりが良く暖かかい。
「……悪かったって言ってるでしょ」
「別に、世羽子を責めてるワケじゃない」
「そうね……尚斗に責められる覚えもないし」
そういって顔を上げた世羽子の表情はどこか穏やかで。
二人にとって苦痛ではない沈黙がしばらく続き、やがて、ちょっとはにかむような表情を浮かべて世羽子が口を開いた。
「……あのね、尚斗」
「中学の時、二人で曲作ったよな……へったくそな曲」
「え、あ…うん…」
曖昧に頷き、世羽子はちょっと笑う。
「そうね……ああでもない、こうでもないって…」
「……それを思い出す事も、弾いたり歌ったりすることはできるけど、今となっては同じ曲を作る事はできないよな」
世羽子の表情から笑みが消えた。
「誤解が解けたなら……」
「それはいい……でもな」
「……もう、無理って事?」
「3年経ったからじゃなく……俺はあの時と同じじゃないから」
「……」
「同じじゃないけど……俺は、同じ曲を作ろうとしてしまうと思う。正直、俺はずっとこだわってたから……すぐにスイッチの切り替えはできない」
尚斗の言葉は、世羽子の気持ちをどこかで救い、どこかで傷つけた。
「尚斗から見て…私、変わった?」
「それが判断できるほど俺は今の世羽子を知らないし、世羽子も多分俺をつかんでないと思う……でもお互い変わったと思うよ、俺は。身内が死ねば変わらざるを得ないと思うし、本人の自覚とは別に小さな事を積み重ねていくだけでも人間って変わっていくからな……あの、青山でさえ変わっただろ、中学の時に比べて」
「そう……かしら。単に、変わったと見せかけるために演技してる可能性はあると思うけど」
「……混ぜかえすなよ」
「……」
尚斗はちょっとため息をつき、言葉を続けた。
「もちろん、変わった部分があれば変わらない部分もあると思う……でも、その変わらない部分に目を奪われていると……多分、どこかですれ違っていくんじゃないか?」
尚斗はちょっと言葉を切り、世羽子の顔を見つめながら言った。
「あの時、俺達がすれ違ったように」
肩をちょっと震わせ、世羽子が小さく頷く……どこか、自分自身を納得させるように。
「変わったね……尚斗」
「……」
「昔は……そういう事、あまり喋らなかったのに。大事なことはいつも行動で示す……そんな感じだったけど」
「……まあ、言葉ってヤツを信用してなかったからな。どこか曖昧で……同じ言葉なのに、使う人や受け取る人によって意味はバラバラになるし…」
「今は……信用してるの?」
「いや……言葉が不完全なら、行動だって同じように不完全かなって。言葉だけでも結構伝わることは伝わるって青山が教えてくれたような気がする……でも、やっぱり言葉だけでも、行動だけでも多分足りないだろうなあ」
しみじみと呟いた尚斗をしばらく見つめ、ちょっと俯きながら世羽子は尚斗に背を向けた。
「……そうね。2人一緒に変わってきたならともかく……3年経ったものね。元通りってのはムシがいい話だったわ」
「……悪い」
「あ、謝るような事じゃないでしょ……謝るような事じゃ…」
背中を向けたまま、世羽子は顔を上げた……その目が空を見上げているのか、それとも何かを堪えているのかは尚斗にはわからない。
「言わなくてもわかってくれる、聞かなくてもわかる……そんな風に甘えている間に、すれ違うだけの隙間ができちゃったのかしら」
「……かもな」
「今は……それがちょっと悔しいだけ」
ぽつりと呟かれた世羽子の言葉が、冬の風に千切れ飛んでいった。
……やがて、
「用事……あるんでしょ?」
「……ああ」
「私の話は終わったから……いいわよ、別に」
「そっか……」
尚斗は靴の先でちょっと地面を叩き、世羽子に背中を向けた。
「じゃ……行くわ」
「……尚斗」
「ん…」
「また縁があったら……今度は新しい曲を作りましょ」
「……」
「それなら……いいのよね?」
「ああ……今度俺が告白したときはあんまりいじめないでくれよ」
世羽子は肩越しに振り返り、穏やかに微笑みながら言った。
「さあ……その時の気分次第ね」
「……出番がなかったです」
尚斗が公園を出てすぐ、しゅんとうなだれた安寿が目の前に現れた。
「出番も何も……」
尚斗はちょっと口元を歪め、空を見上げた。
「まあ……結局は、俺が自分の考えを世羽子に押しつけただけというか」
「……珍しいですね、有崎さんが誰かに頼むのは」
「……と、いうと?」
「他人のために骨を折るというか、他人の頼みをきく有崎さんばかり見てきましたので……そういう意味では、秋谷さんは特別って事でしょうか」
「……安寿さん。そういう事は思っても口に出さないでいただきたい」
「ひゅーひゅー」
「茶化さない」
安寿は申し訳なさそうにうなだれた。
「……『自分のやったことの責任云々…』って事を大事にすると、ああいう答えを出さざるをえないんですか?」
「良く覚えてるな」
「メモってますから」
「誰かのせいでとか、運が悪かったとか、そんな理由で別れたとは思いたくない……自分が未熟だったとか、自分の責任と思わないとやりきれない……ってのが近いと思う」
安寿は小さくため息をついた。
「心が強い人じゃないと貫けない考え方じゃないかと……あまり他人に押しつけない方が良いと思います」
安寿はちょっと言葉を切り、1つ頷いてから言葉を続けた。
「心の強くない方にそれを押しつけると……結局は追い込んでしまうというか、不幸になってしまいそうですから」
「俺は……」
空を見上げながら、囁くような声で。
「世羽子に無理をさせたのかな……いや、ずっと無理をさせてきたのかな」
「せ、責めてるわけじゃないんですよ…」
「世羽子が泣くのを初めて見た…」
「……二回目」
「…え?」
安寿は何かに気付いたように慌てて首を振った。
「な、何でもないです〜私、何も言ってないし、有崎さんは何も聞いてません」
「……?」
首をひねる尚斗の目の前で、安寿がぱちんぱちんと手を叩きはじめた。
「……安寿さん?」
「えっとですね……有崎さんに聞きたいことが」
きりっと真面目な表情を浮かべ、安寿は尚斗を見つめた……が、微かに目が泳いでいたりする。
「じい〜」
安寿は尚斗の視線をスルーし、それを追うように背後の空を見上げた。
「……未来というか、将来の幸せを約束する行為が決して今の幸せを意味するわけではないとしたら……永続的な幸せは人にとって不幸になるんでしょうか?」
何かをごまかそうとしているにしては、口調はどこか真剣で。
尚斗はちょっと考え、自分が思うことを口にした。
「満ち足りた思いを抱く瞬間があったり、不意に叫びだしたくなるような瞬間があったりするけど……それと同時に、幸せでも不幸せでもない瞬間はあると思うし、それは多分無駄じゃないと思う」
「……」
「悪い……そういう問答は青山先生とやった方がいいかもな。俺よりずっと上手に言葉にしてくれるような気がする」
「青山さんですか……好き嫌いで言うと好きな方なんですが、正直苦手でして」
「……天使までもが気後れしますか青山は」
尚斗の口調に意外そうな響きを感じたのか、安寿はきょろきょろと周囲を見渡し、声を潜めて呟いた。
「正直な話、天使にも好き嫌いはあるんですよ……この前男子生徒に『俺の幸せはこれだあっ!はいてくれっ!』と、ブルマを渡されたときはどうしようかと……何やら希少価値がどうとか絶滅種を保護して何が悪いとか……真剣な心持ちだけは良く理解できましたが…」
「そいつが誰だかわかりましたので、今度ヤキを入れておきます。安寿が天使とかいう以前の問題ですので……っていうか、その後どうした?」
安寿は困ったような表情を浮かべ、自分の顔の前でぱちんと手を叩いた。
「……と言うわけで、お引き取り願いました」
「いや、それは全然オッケーというか……」
尚斗はちょっと言葉を切り、安寿を見つめた。
「しかし……さっき公園で誰かいるなとは思ったが、紗智じゃなかったんだな」
「……」
安寿はちょっと驚いたような表情を浮かべ、尚斗の背中をぱたぱたと叩き始める。
「……隠してませんねえ」
「隠してないです」
『あら、さっきの男の子……今度は別の女の子相手に…』
ひそひそひそひそ…
「……」
「どこに行くんですか、有崎さん?」
「学校」
いつもより早足で歩き始めた尚斗についていきながら、安寿はちょっと残念そうに呟く。
「なかなかお礼をさせてくれませんね、有崎さんは…」
「お礼って……あぁ、おかまいなく」
「かまいますぅ…」
「いや、まあ……安寿も大変だろうし、できるだけ自分で頑張ることにするって」
「……勝手に幸せになられても、それはそれでツライです」
「むう……とすると、人間の幸せはみんな天使の手によるモノなのか?安寿には悪いが、それってちょっとイヤだが」
「……」
「大体、天使が人間を幸せにする……としたら、天使を誰が幸せにするんだ?」
きょとんとした表情で、安寿が尚斗の向こう側を見るような視線を向けた。
「……安寿?」
「……ああ」
ぽんっと、安寿が手を叩く。
「天使長様の仰ってた意味が分かりました……」
そう呟きながらがくっと首を折り、俯いたまま安寿が言葉を続けた。
「……というか、わかってしまいました」
「何やら、わかりたくなかったような雰囲気だが……」
安寿がぽつりと。
「幸せって……必ずしも幸せじゃないんですねえ」
「……?」
「ガチョーン……という気分です」
尚斗がこめかみのあたりを指先で押さえる。
「安寿……前から疑問だったが、安寿のセンスはかなり古い気が」
「それは仕方ないです……地上に降りてきたのが約20年ぶりですので」
「……なるほど、そいつは仕方がなさそうだ」
納得したという感じに頷いた尚斗を見て、安寿がちょっと微笑んだ。
「秋谷さんと違って、私は優しくされるだけですか…」
「……え?」
安寿は指先で眼鏡の位置をちょっといじり、空を見上げた。
「昔……ちょっと天使としてはやってはいけないことをやってしまいまして……罰としてつい最近まで謹慎させられてました」
重そうなネタをあっさりと……しかも、どこか誇らしげに。
「……んー、まあ良くわからないけど、あんまりマイナスポイントとか溜めないように」
「仕方なかったんです」
にこにこと微笑みながら。
「自分の信じたことを為した……その結果ですので。詳しく話すわけにはまいりませんけど、話すのがツライとか、そういうのじゃありませんから」
「あ、いや……あんま立ち入った話を聞くのは失礼かなと」
「……」
「……安寿さん?」
ちょっと俯きかげんだった背中をしゃきっと伸ばし、安寿は尚斗の顔を見つめた。
「有崎さん、幸せになってくださいね」
「……へ?」
ぱちん。
「……だから、効きませんって」
「でしょうねえ…」
どこか寂しげに、それでいてどこか嬉しげに安寿は微笑んだ。
尚斗と別れてから数分……世羽子は空を見上げたままちょっと目元を拭い、あらためて右手の方角に視線を向けた。
「気をつかってくれたなら、ありがと」
世羽子の言葉に対して、応えるのは冬の風のみ。
さらに1分ほど過ぎ、痺れを切らしたように世羽子が口を開いた。
「出てくるつもりがないなら、私は帰るけど?」
5秒、10秒……世羽子がその場から立ち去ろうとした瞬間、木の陰から麻里絵が姿を現した。
ちょっとため息をつき、世羽子が呟く。
「あんまりいい趣味じゃないわね……相変わらずと言ってしまえばそれまでだけど」
世羽子の皮肉を気にとめた風でもなく、麻里絵は納得がいかないように首を振った。
「……何で」
「…?」
「変わったとか変わらないとか……そんなのがどうして理由になるのっ!?」
世羽子はちょっと訝るような視線を麻里絵に向けた。
「椎名さんには理由にならなくても、私と尚斗には理由になるから……としか言えないわね」
「嘘っ、だって秋谷さん納得してるように見えなかった」
世羽子は手のひらで顔を覆い、大きくため息をついた。
「納得できてないのに、どうして納得したような…」
「ちょっと黙んなさい」
世羽子の言葉……と言うより、口調に滲んだ怒りの感情が麻里絵を黙らせたのか。
「記憶と……記憶と感情は混同しやすいからよ」
「……?」
「子供の頃読んだおとぎ話……その時どんなことを思っていたか、どんな気持ちだったかを思い出すことはできるけど……同じ風に感じることはできないって事ね。私は、3年前なり4年前の感情の記憶をひきずっているかもしれないから」
「……そんなこと…ない」
「それは、私が昔の思いを引きずってないって意味?それとも、どんなに昔と状況が変わっても昔と同じように感じることができるって意味?」
「……変わってなければ、同じように…」
「弱々しい反論ね……自信がないんじゃなくて、認めたくないってところかしら?」
「わかったようなこと言わないでっ」
感情をそのままぶつけるような麻里絵の大きな声にひるむ様子もなく、世羽子はちょっとだけ目を細めた。
「わかったようなこと?」
「……」
「椎名さんにとって都合の悪い事って訂正してくれないかしら?」
「ど、どうしてそんな意地悪言うんですかっ!?」
「今の椎名さんは、そんな言葉遣いしないはずでしょ?それとも、近くに尚斗や一ノ瀬さんがいないから平気?」
「……どういう意味ですか?」
世羽子はちょっと肩をすくめてみせた。
「どういう意味も何も……あなた、一ノ瀬さんと尚斗の前では幼い印象を与えようと努めてるわね?それは、大事にされたいから?」
「わ、私、秋谷さんとそんなに親しくしてたワケじゃ……」
麻里絵はふと何かに気付いたように首をひねった。
「……さっき、『相変わらず』って言った?」
ガラララ…
「……珍しい組み合わせだな」
教室の中にいる青山と紗智を見て、尚斗はちょっと意外そうに呟いた。
「あ、私これで失礼しますね」
唐突に、ぺこりと頭を下げて、安寿がスタスタとその場から立ち去っていく。
「……」
どこか不思議そうな表情を浮かべていた紗智に向かって尚斗は声をかけた。
「……どうかしたのか、紗智?」
「あ、うん……さっきの女の子、誰だったっけ?」
「おいおい、さっちゃんよ…」
ガンっ!
激しい打撃音にそちらを見れば、青山が机に頭を叩きつけていた。
「あ、青山?」
青山はすくっと上体を起こし、ぶつぶつと呟き始める。
「名前を知っていたという記憶がありながら、名前が思い出せない……これがど忘れという事象なのか……そんなことあり得ないし、俺は認めない」
「……何気なくむかつくこと言うわね」
紗智の呟きが聞こえているのかいないのか、青山は再び机に頭を叩きつける。
「ちょ、ちょっと青山……?」
『幸せになって下さいね』……尚斗はある予感とともに、安寿の言葉を思い出した。
「安寿…」
慌てて教室のドアを開け、廊下の左右を見渡した……が、安寿はもちろん誰もいない。
「ちょっ、ちょっと待てよ…そんな、急に…」
何でそんな急に……そう呟きかけた尚斗の背後で、青山らしからぬ興奮した大声が響いた。
「思い出したっ、天野だ!」
「あ、そうだ……そうよね、天野さんよね」
何故忘れていたのかというように首をひねる紗智と青山に尚斗が視線を向けた瞬間……
「有崎さん……」
慌てて振り返った背後に、しょぼんとうなだれた……それなのにちょっとだけ嬉しそうな安寿の姿。
「……安寿」
「青山さんは……本当に人間ですか?」
「さあ、青山に直接……つーか、こういう不意打ちはやめてくれ」
力が抜けたのか、尚斗はもたれかかるように安寿をそっと抱きしめた。
「出会いと別れはいつも突然ですから…」
顔を赤らめながら、安寿が尚斗の背中をポンポンと叩く。
「突然すぎだ」
「私がいなくなると……不幸なんですか?」
安寿が呟く。
「いきなりだと心配するだろ……何かあったんじゃないかとか…」
視線を感じて、尚斗は振り返った。
「もうちょっと場所を選べ、有崎」
青山の肩越しに、ちょっぴり不機嫌そうな表情を浮かべた紗智がそっぽを向いているのが見えた。
「場所を選べ……とは?」
「ふむ、それはな…」
「それ以上言ったら、私ここから飛び降りて死んでやるから」
窓枠に手をかけている紗智の顔がほんのりと赤い。
「青山、お前紗智に何かしたのか?」
「……有崎さんが不幸をばらまいてますので、私はひとまず帰ります」
「……帰るのか?」
安寿はちょっと笑った。
「また…明日です」
完
あれは9月の下旬……2月14日に最終話(予定)を書き上げるべく、20話、21話、22話、23話……と書き上げたところ、ちょっと気になることがあってこれまでの話を読み返していると……
いや、腰が抜けるかと思いました。(笑)
ノリノリで書いた某部分のせいで、設定の一部が破綻していたのです……もちろん、20〜23話は全部パーです。既にアップしてあるのをこっそりと書き直すのは邪道というか、やっちゃったことは仕方ないというか責任をとらなければいけません。
本来、こういう内輪ネタは最終話を書き上げてからばらすのが筋なんでしょうけど……一応、『秋口から再開します』とか宣言しちゃってた手前、それなりの言い訳は必要かなと。(笑)
遅れちゃってごめんなさい。
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