『途中から始める』
 
 『17話……1月26日(土)』
 
「自転車……」
「ええ、別に2人乗りがどうとか、うるさいこと言いませんよ」
 
『いや、自転車はやめておこう…』
 
「は?」
「ん、しばらく乗ってないしな……ちびっこにケガさせるような事になってもあれだし」
「……のんびりと歩いて帰って、他人の家で無防備に寝てしまうぐらい疲れてる私の睡眠時間を削ってくれるってわけですか」
「……」
 尚斗が何も応えなかったので、ちょっと困ったように、結花が俯いた。 
「……すみません」
「あ、いや、別に気を悪くしたとかじゃなくて……もうちょっとな」
「え?」
「……まあ、星でも見ながら歩いて帰ろうぜ」
 尚斗の動きにつられたように、結花もまた夜空を見上げ……オリオン座に目をやった。
「まあ……悪くないかもしれないですね」
 ぽすっ。
「……」
 なでなでなで。
 油断した、というより……半ばそれを予期しながら受け入れてしまった自分がちょっと悔しかったので。
「……髪フェチ」
「……つーか、ちびっこの髪って、ホント、手触りいいよな…」
 予想していなかった反応にちょいと動揺し。
「ひ、否定はしないんですか?」
 などと問い返しながらも、実はこっそりと自慢だった髪をほめられたような気がしてまんざらでもなかったりするちびっこ。
「あー、どうだろ?俺、世羽子の髪とか触るのも好きだったからな…」
「……てい」
 と、結花は尚斗の手を振り払った。
「……秋谷先輩の髪を切らせたのは有崎さんじゃないんですか?」
「……どうだろ」
「一房だけ長いままなのは……いえ、何でもないです」
 ぷいっと顔を背けて。
「歩いて帰るなら、さっさと行きませんか?」
「ん、そうだな…」
 と、歩き出した尚斗の耳に微かに届いたちびっこの呟き。
「……ごめんなさい」
「……」
 そして尚斗は、敢えて聞こえなかったふりをした。
 
「えーと、オリオン座」
 夜空を指さしつつ尚斗。
「カシオペア座」
 と、結花。
「えーと、かんむり座?」
「……」
 尚斗の指さす方向に目をやったまま、結花はちょっと黙り込む。
「……な、なんだよ?」
「ま、いいでしょ…」
 と、結花は敢えてそれをスルーし。
「ケフェウス座」
「むう、初めて聞いた」
「……でしょうね」
 それって、どれだよ……などとツッコミもせず、尚斗はきょろきょろと星空を見渡して、
「……ほ、北斗七星?」
「ダメです」
「なんで?」
「さすがに、メジャーどころは正しい知識を持っていた方がいいですからね……だからダメです」
「むう、そうか……星座なら、なんとか座って名前になってるよな、やっぱり。なんかの星座の一部だって事だけは覚えてるんだが」
 と、間違った方向に納得した尚斗にちょっと呆れ、結花は言葉を足した。
「春の大曲線…って聞いたことないですか?」
「確か、理科の授業で聞いたな」
「北斗七星……まあ、ひしゃく座とも呼ばれてますけどね、その柄の部分のカーブに合わせて曲線を延ばすと、牛飼い座のアルクトゥルス…オレンジ色の一等星があって、さらに延長すると、おとめ座のスピカにたどり着きます……これが、いわゆる、春の大曲線です」
「ほうほう…」
 と、尚斗は感心したように頷く。
「で、そもそも今は1月…まあ、2月と言ってもいいですけど…有崎さんの言う、北斗七星の柄の部分を延ばすとどうなりますか?」
「えーと…」
 尚斗の指先が、夜空をなぞり。
「えーと…」
「何もないですよね?」
「いや、星があるぞ」
「1等星ですか?」
「星の輝きにランクをつけるのはどうかと思う」
「……有崎さんが北斗七星だと思ってるの、こぐま座ですよ」
 そこで、ぽんと尚斗は手を叩き。
「おおぐま座」
「間違ってませんけどね…『北極星』を指さして、北斗七星って…」
 やれやれといった感じに首を振り、結花は言葉を続けた。
「なにが『星でも見ながら帰ろうぜ』ですか…」
「いや、それは言葉のあやというか…」
「……」
 足を止め、尚斗の顔を見つめながら……と言っても、暗いために表情は定かではないのだが。
「言葉のあやってことは……有崎さんは、1秒でも長く私と一緒にいたかったって事になりますけど」
「ん…あ、いや、まあ、そういうことになるか…」
「そこは冗談でも、そうだなって言い…」
 結花の言葉は途中で途切れ……唐突に復活した。
「……な、何言ってますかっ!」
「ん、まあ…もうちょっとちびっこと話がしたいって気持ちもあったし」
「……え?」
 と、結花は動きを止め……ちょっと俯いた。
「すみませんね、気を遣ってもらって」
「は?」
「別にとぼけなくてもいいですよ」
 結花はちょっと笑って。
「確かに、誰かさんがゆっくり寝かせてくれたおかげで、話をする時間がなくなったわけですし」
「むう…」
「でも、違いますからね」
「何が?」
「話を切り上げたのは、遅くなったからじゃなくて…」
 言葉を切り、結花は尚斗を見上げた。
「その……楽しかったからですよ」
「……」
「私がしようと思っていた話は、あまり愉快な話ではありませんから……今日は楽しかった、だったら、それで今日という一日を終わらせるのも悪くないかなって、思っただけなんです」
「……そうか」
 結花は、少し笑って。
「意外とないんですよね…今日は楽しかったな、なんて思える日って」
 そう言い終える前に、ひらりと尚斗に背を向けて……結花は、ちょっと足下に視線をおとしてから、星空を見上げた。
「なんか、有崎さんも私なんかのためにご飯作って、何でもない話をしながら楽しんでくれてるような気がして……だから、なおさら……秋谷先輩の話をして失敗したなって思ったんです」
「いや、俺は別に…つーか、むしろ貴重な意見をもらえたな、と感謝すらしてるんだが」
 結花が背中を向けたまま……声をあげずに笑った。
「そういう人ですよね、有崎さんは」
「ん?」
「自分がどうこうされるよりも……たとえば、秋谷先輩や夏樹様がひどい目に遭っているという話を聞く事で心を痛めてしまうというか」
「……誰かが困ってたり、悲しんでるのを見るのが嫌いだけだぞ、俺は」
「だけだぞ……って」
 そう呟いて、結花がまた声を出さずに笑った。
「ホント、変な人ですよね、有崎さんは」
「しみじみと言われてもなあ…」
 別に、誰だってそうじゃねえのかなあ……と、尚斗が夜空を仰ぐ。
「まあ、そんな変な人といて楽しかったりする私も……」
 そう言って、結花がひらりと振り返り……。
「おかしいってことですかね…」
 そう、続けた。
「よくわからんが、不快な思いをしてないなら何よりだな…」
「……そう思ってるなら、頭撫でたり、ちびっこって呼ぶの、やめてくださいよ」
 尚斗は顎に手をやって考え込み……10秒経ったところで、結花が爆発した。
「そこまで考えなきゃいけないことですかっ!?」
「じゃあ、…結花ちゃん」
「ひぃうっ」
 ぞわぞわぞわっと、背筋を悪寒のようなものが走って、結花が首をすくませる。
「…ものすごい、嫌がってないか、それ?」
「い、いきなり名前で呼ぶからです…っていうか、名字ですよ名字。私は、有崎さんって呼んでますよね?尚斗さん、なんて呼んでないですよね?」
「じゃあ……」
「……」
「……えーと」
 結花は低く構えつつ。
「まさか、とは思いますが…」
「いや待て。思い出すから、ちゃんと思い出すから…」
 と、尚斗は目を閉じる。
「……ボケてるんじゃなくて、しっかり忘れてはいるんですね」
 ため息混じりに呟き、馬鹿馬鹿しくなったのか結花は構えを解いた。
 そして結花は、気がついた。
 そもそも自分は、尚斗に対してちゃんと名乗ったことがなかったような……まあ、じょにーの報告書には本名が記されてはいたのだが。
「よし、思い出した……入谷」
「……」
「入谷…さん」
「……なんか、しっくりきませんね」
 と、首をかしげる結花に向かって。
「ちびっこ」
「……」
 なんか納得がいかなさそうな表情を浮かべた結花に、さらに追撃。
「ちびっこ」
「……」
「他の呼び方に違和感を覚えるぐらい、馴染んでしまったんだな、あきらめろ」
「……ひ、人の身体的特徴を笑いものにするのは良くないって習いませんでしたか?」
「笑いものにするつもりは全くない」
 と、尚斗は胸を張って言った。
「……」
「むしろ、親しみを込めているつもりだが」
「どんな親しみですか…」
 などと文句を言いつつ……口元が笑っていることに、結花自身が気づいているのかいないのか。
「しかし、そんなに気になるか?俺、中2になって背が伸びるまでずっと3つぐらい年下に思われるぐらいチビだったが、何も思わなかったしな」
「……有崎さんと一緒にしないでくださいよ」
 と、口をとがらせる結花。
「ああ……でも外見といえば、世羽子とデートしてたときにこんな事があったな」
「……」
「中学の時にはもう、世羽子は私服だと外見は完全に大人だったからな……で、俺は反対に小学生にしか見えなくて……多分、不審な2人組にしか見えなかったんだろうが、警察官が、世羽子に職務質問を始めてな…」
「すみません、その話、私は絶対に笑えないような気がするので…」
 と、結花は丁重に断りを入れる。
「まあ確かに、世羽子が警察官の目玉を抉ろうとしたときまでだな、笑えるのは」
「……私が笑えないって言ったのは、そういう意味じゃないんですけどね」
 ため息混じりに呟き……そういや、銃を持った強盗をたたきのめした後、デートに遅れそうという理由で警察の事情聴取すらスルーした人でしたね……と、結花は思い出し。
『貴方の目は節穴なの?節穴なら、節穴らしく、えぐり出してあげるわ…』などと詰め寄って警察官の目に指をつっこもうとする世羽子の姿をかなりリアルに思い浮かべてしまい……やや躊躇いつつ、尚斗に確認を取った。
「……止めたんですよね?」
「そりゃ止めたよ」
 それは良かった…と、ため息をつき。
「……実際、やりかねないところがありますよね、秋谷先輩」
「やりかねない、じゃなくて世羽子は実際にやるんだが……やばいと思って、手は止めたんだが、足が止められなくてな…足癖悪いというか、世羽子の足技ってものすごくやっかいなんだよ」
「……」
 警察官の目に向かって伸びる世羽子の手首を小柄な尚斗がつかみ、警察官がほっと息をついた瞬間、その腹部を世羽子の足が蹴り飛ばす……そんな光景をリアルに想像したところで、結花はちょっと首をかしげた。
「どうした?」
「……それはつまり、有崎さんは、少なくとも秋谷先輩の手を止めたって事…ですよね?」
「まあ……今なら、さほど苦労もしないで、足の方も止められたと思うが」
「……」
「……ちびっこ?」
「……あー、私、ちょっと…勘違いしてたかも知れません」
 そりゃそうだ……と、結花は自分自身に呆れながら心の中で呟いた。
 自分のタックルが通用しない時点で、既に並ではないことは明らかで。
 そもそも、今日自分が言った『秋谷先輩とは怖さの質が微妙に違う』ってことは……怖さのレベルそのものは変わらないって事で。
 圧倒的な暴力……それが、外見と同じく、人の内面を覆い隠してしまうことを、自分自身の経験も含めて結花はよく知っていた。
「ははは…」
 乾いた笑いをこぼし……結花はあらためて、尚斗を見つめ。
「なるほど」
「……?」
「秋谷先輩は……」
「ん?」
 何故別れてしまったのか……質問に対する少年の答えと、その答えに対する自分の意見が、ひどく一方的すぎた気がして。
 でも、今この場でその話をまた繰り返すのは躊躇われて。
「……いえ、何でもないです」
 結花は首を振った。
 ぽす。
 なでなで。
「……あの、これはどういう?」
「いや、なんかちびっこはいいやつだなあと思って」
「なっ、何ですかいきなりっ!?」
「んー、なんかそんな感じがして」
「とかいって、実は髪を触る口実だったりするんじゃないんですか…?」
「……否定しづらい」
 結花はちょっと視線をそらし。
「有崎さんが見知らぬ誰かの髪に手を出して警察に捕まるのも目覚めが悪いですからね……しばらくは我慢してあげます」
「いや、そう言われると…」
 と、尚斗が手を離そうと…。
「我慢してあげますって言ってるじゃないですかっ」
 と、結花が素早く尚斗の手をつかんで自分の頭の上に。
「えーと…」
「で、でも、いやらしいさわり方はダメですからね。いつもみたいに、頭撫でるだけですよっ」
「……自分が撫でて欲しいだけとか」
「てい」
 と、手をはたき落とした結花の顔は真っ赤で。
「か、勘違いもほどほどにしてください」
「そーか、すまん…」
「……何笑ってますか?」
「いや、別に笑っては…」
「笑ってるじゃ…」
「ちょいストップ」
 と、尚斗は結花の口をふさぎ。
「時間も時間だしな」
 そう言って、結花の身体を小脇に抱え。
「むーむー」
「騒ぐなって…ただでさえ、絵面が怪しいってのに」
 その場から2人が駆け去った後……近くの家の窓ガラスに明かりが灯ったのだった。
 
「有崎さんって、誘拐とか、うまそうですよね」
「……人聞きの悪いことを」
「まあ、私を誘拐しても身代金とか出ませんけどね」
 ぶつぶつ、くどくど。
「結構根に持つよな、ちびっこ」
「恨みは死ぬまで忘れませんよ、私」
「むう…世羽子と、同じようなことを言う」
「そうなんですか?」
 と、結花が足を止め……それに遅れて、尚斗も立ち止まって。
「まあ、『そのかわり、感謝も死ぬまで忘れない』と続いたけどな」
「……情の強い人ですよね」
 そう言いながら、結花が再び歩き出す。
「情が強いって、そういう使い方するんだったか?」
「多分……普通の人では、秋谷先輩の情を真正面から受け止める事が出来ないんでしょうね、きっと」
「……世羽子の一生が、恨みよりも感謝の方が多いものだといいんだがな」
「……感謝だけ、とは言わないんですね」
「感謝だけで満たされる人生ってのは、どこか虚構っぽい気がしてな」
 結花の視線が、足下に。
「そうですね……」
「そういや、ちびっこって……幸せってどう思う?」
「幸せ…ですか?」
 ふっと、ちびっこの口元に皮肉な笑みが浮かび。
「幻想じゃないですかね」
「むう」
「……全部とは言いませんけどね」
 と、結花は尚斗に視線を向け。
「幻想を信じ切れるかどうか……そういう所はあると思いますよ」
「なるほど…多分それも間違ってないんだろうなあ」
「……有崎さんは幸せですか?」
「幸せかどうかはともかく、恵まれているとは思う」
 結花はちょっと笑って。
「つまり、恵まれている状態が幸せとは限らない…それが、有崎さんの価値観ですか」
「ん、そういうことに…なるな」
 笑みを消し、結花が言う。
「私、有崎さんとは反対に、父親に早く死なれたんですよ……というか、父親の記憶がありません」
「……」
「へえ、そーいう顔するんですか…有崎さんは、母親に死なれたのに、恵まれてないとは言いませんでしたよね」
 結花の皮肉っぽい口調に、尚斗は首を振って。
「いや、父親の記憶がないってのは、正直寂しいのかな、と思ってな。気を悪くさせたならすまん」
「……」
「俺には母さんの記憶がちゃんとあるから……そういう意味で、俺はちびっこの気持ちをきちんとわかってやれないと思う」
「……どこまでお人好しですか」
 そう呟いてから。
「じょにーさんの報告書に…私の父親についての記述がなかったのは何でですかね」
 尚斗はちょっとため息をつき。
「お前、宮坂のことをどこまで信用してるか…とか聞いたよな」
「……」
「俺が、じょにーというか、宮坂を使うのはな……対象者本人が、おそらくは知られたくないだろうと判断する部分を、報告しないからなんだ」
「……」
「そりゃ、青山に言わせれば、使えない調査かも知れないけどな……調査に限らず、宮坂は、なんていうか……多分、自分の中にやっちゃいけないことっていうラインをちゃんと持ってるんだと思う」
 結花の肩を軽く叩いて促しつつ……尚斗は、星空を見上げて歩き始める。
「……まあ、ちょっと、というか、ものすごく非常識なところはあって、色々と振り回されたりもするんだが」
「……噂なら多少は聞いてます」
 と、ちびっこ。
「でもあいつ、その気になれば強いはずなんだけど、絶対に人を殴ったりはしねえんだよな……俺は結局、暴力肯定者だから、あいつの、ある意味無抵抗主義みたいなとこはすごいと思う」
「……そう聞けばいい話ですが、男子校の池の鯉を売り飛ばしたって聞いてますけど」
「あれは、理事長が学校運営の金をくすねて自分の趣味につぎ込んだもんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ちなみに、売り飛ばした金は、体育館の床の補修とワックスがけに使った……つーか、巻き込まれたのは事実だが、俺も手を貸してるからそれ」
「……それは、知ってます」
「体育会系の、男子連中からでも聞いたか?」
「そんなとこです……校長の車にわざとひかれたとか、入学式で……」
 結花がちょっと口ごもる。
「ん?」
「にゅ、入学式で…え、えっちなビデオの音を流したとか…」
「ああ、あれは笑えたなあ」
「や、有崎さんもないですから、常識」
「まあ、それはそうだが……せっかく人が集まってるんだからさ、わいわいと騒がしい方が好きというか、その方が自然だと思うんだけどな、俺は」
 結花の中で色々葛藤があったようだが……ため息を1つで忘れる事にしたようだった。
「……必要以上に羽目を外せば、有崎さんや青山さんが、修正するわけですね」
「多分、青山が一番苦労してる…」
「宮坂さんが、悪い人じゃないって言うのはいいです……でも、なんで宮坂さんが、演劇部のチケットの見本を盗んだか……なんて考えたりはしませんでしたか」
「え?」
「チケットもって、朝から有崎さんの家に行って……調査書もそうですけど、有崎さんが私や夏樹様と接触するように、誰かの思惑に乗って動いてるのは確実ですよ、あの人」
 チケットはともかく、朝から尚斗の家によって……などを何故ちびっこが知っているのかという疑問にはたどり着かなかったのか、尚斗は感心したように呟いた。
「……なるほど」
「き、気づいてなかったんですかっ!?」
「いや、『宮坂がした事だから』といえば、男子校では大概のことは納得されるぞ。正直なところ、俺も大抵はそうだ」
 結花は、もう何度目かわからないため息をつき。
「なんか気持ち悪いって思いませんか。誰かの思惑に踊らされて、よくわかんない状況に陥るのって…」
「でも、考えようによっては、こうしてちびっこと知り合いになれたのはそのおかげとも言えるが」
「……」
「人との出会いって、全部ひっくるめて縁ってやつだろ……原因とか、目的とか、そういう事を考えるより、俺は先に感謝するかなあ」
「ポジティブというか……やっぱり、お人好しですよね、有崎さんって」
「うむ、ついでにお節介だからな……ちびっこと夏樹さんには色々と関わり続けるぞ、俺は」
「そうですか、まあ、夏樹様もそれを望まれているようですし…」
 ボランティア公演へのお誘いといい、それが終わった後の、『結花ちゃん…そういう言い方は良くないと思うわ』という夏樹の言葉ににじみ出たほのかな怒りを思い出しつつ結花はそういったのだが。
「……そうか?」
 と、肝心の尚斗が首をひねる。
「どういう意味ですか?」
「いや、ちびっこはともかく……夏樹さんからは、人当たりの良さとは裏腹にむしろ壁を感じるというか」
「……節穴ですか、有崎さんの目は」
 尚斗は結花をちらっと見て。
「お前は夏樹さんに受け入れられてるっぽいから気づかないかも知れないが……夏樹さんの人を見る目って、多分すげー厳しいぞ」
「……」
「人のことは言えんけど……夏樹さんの交友関係って、めちゃめちゃ狭いだろ。基本、冴子先輩とちびっこ…おまえの2人だけだよな?」
「それは…」
 そうかも…と、結花は続きの言葉を呑みこんだ。
「まだ俺も、はっきりと確信してるってわけじゃないけど……夏樹さんの人当たりの良さは、ある一定以上に他人が寄ってこないようにするための防御の気がする」
 立ち止まり、何言ってますか…という感じに、尚斗を振り返る結花。
「防御…ですか?」
「つっても、明らかに他人を寄せ付けない世羽子の壁みたいなやつじゃなくて…こう、マントを持ってひらり、ひらりと、身をかわすような感じかも知れないが」
「……?」
 結花の困惑は深くなるばかり。
「……あんまり気は進まないんだが」
 と、尚斗はため息混じりに呟いて。
「俺と夏樹さんが、最初にあったときのことを覚えてるか?」
 話の行方が見えなかったのか、結花がちょっと首をかしげて。
「3人そろって廊下に転がったときですか?」
「すまん、間違えた。その次だその次…えーと、俺が夏樹さんを『夏樹ちゃん』って呼んだとき」
「あぁ……それが、何か?」
「俺も、この前ようやく気づいたんだけどな……あの時の夏樹さん、おかしいよな?」
「……?」
「あの時、夏樹さんはちびっこの名前をほぼ初対面の俺に教えたよな…『花を結ぶと書いて結花って言うのよ』だったっけ?」
「夏樹様はちょっと天然というか、無防備な方ですから」
 結局何が言いたいんだろう…そんな表情で結花。
「……自分じゃない、お前の名前を俺に教えたのに、しかも俺はその後に『有崎尚斗です』って名乗ったにも関わらず、夏樹さんは俺に対して名乗らなかったよな」
「……それは、私の会話というか…そもそも、有崎さんが先に『夏樹ちゃん』なんて呼ぶから…」
「まあな、俺もその時は何も思わなかったし……ただ、俺のとこに謝り来たこととかも考えると、かなり礼儀正しいはずなんだよな、夏樹さんって」
「それはまあ…歴史ある名家ですからね、夏樹様のご実家は」
「ああ、公家の出自とかってのも知ってるし、それも含めての話なんだが……で、今日のボランティア公演へのお誘いがな……やっぱ、おかしいというか」
「……」
「『演劇が好きで好きでたまらない方は…』とかちびっこは言ってたが、正直なところ、俺はこのせいで夏樹さんのことが良くわからなくなった」
 結花はじっと尚斗を見つめ。
「……結局、何が言いたいんですか?」
「……うまく理由は説明できんけど」
 と、尚斗は頭をかきながら前置きし。
「好意をもたれてるとは思うんだが、夏樹さん本人は、あまり俺を近づけたくないと思ってるような気がするぞ」
「だったら、明日の約束なんかするはずないです…それも」
「あー、いや、そういうんじゃなくて…」
 頭をかきながら、尚斗は言葉を探したのだが……自分の中の何かを、きちんと言葉に変換することができなくて。
「むう…」
「……わけわからないこと言ってないで、明日の約束には遅れないでくださいよ。夏樹様、遅刻とか嫌いですから」
「まあ、基本的に真面目そうだよなあ…夏樹さん」
「……『基本的に』とか、なんかいちいち引っかかる物言いをしますね」
「いや、たとえばな……ちびっこは素直でいいやつだ、と俺は自信を持って断言できるんだが、こう夏樹さんの事に関すると、なんか自信が持てなくなったというか。真面目でいい人って方向性には間違いないとは思うんだけどな……」
「……あの、それ以上夏樹様を悪く言うつもりなら、覚悟した方がよいですよ」
「別に悪く言うつもりはない……けど、夏樹さんは屈折した想いを抱いてるような気がするな、俺は」
「私への、当てつけですか。随分と回りくどいですね」
 震える声で、結花が尚斗の話を遮った。
「……わかってますよ、それぐらい」
「……」
「夏樹様に、夏樹様を無理矢理押しつけた私が一番良くわかってますよ、それは」
「いや、俺が言ってるのは…」
「でもまあ、有崎さんの言うとおりだから仕方ないですね」
 そう言って、ちびっこはちょっと笑い。
「そうですね…どうも、今日は楽しかった…なんて感じに終わる事は不可能っぽいですし、ちょっと不愉快な話でもしますか」
 ついっと顔を上げて。
「北斗七星の一部って勘違いしてた有崎さんにはわからないかも知れませんが、北極星って、船乗りにとって命綱だったと思うんですよ」
「ん?」
「『北』っていうか、いわゆる1つの物差しじゃないですか。真っ暗な夜の海……経験とか潮の流れはおいといて、何を目印にしていいかわからない……多分、恐怖ですよ、それはきっと」
 夜空を見上げたまま、再び結花はてくてくと歩き出した。
 気まぐれ……というより、半ば計算した上での行動なんだろな、と思いつつ、尚斗は後をついて行く。
「ひょっとしたら、船乗りじゃなかったかもしれませんが……そんな恐怖が、北極星という目安を発見させたんじゃないかって、私思うんです」
「そうかもなぁ…」
 と、尚斗もまた視線を空へ……あいにく、歩いている方角と北極星の位置はずれていて、ちびっこが見ている星がなんなのか、尚斗にはわからなかった。
「夜空で動かない星……それに向かって、とか、左手に見ながらとか、人は時には失敗を重ねつつ少しずつ道を作り、活動範囲を広げてきたんでしょうね」
「うまいな」
「……何がですか?」
「いや、ナレーションというか、語りというか…なんか、ちびっこのしゃべってるのを聞いてると、すげーイメージがわいてくる」
「どっちかというと、某国営放送の番組向けじゃないですか?」
 と、ちびっこはちょっと笑って……そのまま、さらりと口にした。
「私は北極星を失ったんです……小学5年生の時でした」
 それは、記憶すら残っていないという父親の話ではないのだろう、と尚斗は思った。
「ひょっとしたら、北極星だと思い込みたかっただけかもしれないんですけどね……でも、私は一応それを目安にして生きてましたから、今思っても滑稽なぐらいに動揺したんです」
「今は…?」
「……」
 てってってっ…。
 何も答えず、歩く速度も変わらず……ただ、空を見上げていたはずの結花の目線は足下へ。
「……秋谷先輩に初めて会ったのは6年生の時で」
 ん、今ちょっと話をそらした気配が……と思った尚斗だが、ちゃんと聞いてるぞ、と主張するように口を挟んだ。
「例の強盗騒ぎか…」
「あの時、まだ私は北極星を失ったままでした」
 つっと、結花はまた足を止め……空を見上げた。
「秋谷先輩に助けられて、微笑みかけられたとき……私、出来ることならこんな女性になりたいなって……そう思ったんです」
「……ちょっと難しいと思う」
 怒るかな、と思ったが……結花は笑って、肩越しに尚斗を振り返って言った。
「いいじゃないですか、憧れるぐらい…」
「憧れるだけなら…」
 そう言いかけて……尚斗は、結花の目が笑っていないことに気がついた。
 表情だけの結花の微笑みが……何かに耐えかねたようにくしゃっと崩れ、その手が……尚斗の服をつかむ。
「それはつまり、私は別に橘先輩に憧れているわけではないって事です…」
「……少なくとも、全部が嘘ってわけでもあるまい」
 尚斗の反論に、結花はちょっと黙り込み……話を別の方向へ持っていった。
「有崎さんが言ったとおり、橘先輩は…御自分に自信を持てないというか……多分、御自分のことがあまり好きではないんだと思います」
「それは…まあ、なんとなく」
「成績は優秀で、運動もできますし……容姿も素敵なんですけどね」
「それ、そのまんま、お前にも当てはまるんだけどな…」
「……」
「どうも…お前もあんまり自分の事が好きじゃなさそうだよな」
 きゅっと、尚斗の服をつかむちびっこの手に力が入り。
「……わかりますか」
「まあ、それもなんとなく…」
「そうですか……有崎さんにもわかっちゃうぐらい、私の心は汚れてるって事ですよね」
「なんか、いきなりだな…」
 と、尚斗は首をかしげ。
「汚れてるから好きになれないって思ってるなら、それはむしろ綺麗な証拠だぞ」
「……そういう言い方、ずるいです。否定も、肯定も出来ないじゃないですか」
 そう言って……ちびっこはぽすっと、尚斗の胸に顔を押しつけた。
「お前の言う、『心が汚れてる』ってのが、どういう意味での『汚れてる』なのかはわからんが……本当に心が汚れてるやつは、大抵は自分が汚れてるなんて気づきもしねえぞ」
「大抵は気づかないってことは、私は例外ってことですね」
「むう…」
 尚斗は、ちびっこの手の上から自分の手を重ねて……もう一方の手で、ちびっこの頭をなでてやる。
「それ…さっきの言葉よりずるいです」
「だって、俺はずるいからな……許せないと思ったら、ふつーに、暴力でぶちのめすし、まずいと思ったら聞こえないふりもするし、嘘もつくぞ。知らなかったか?」
「……でも、有崎さんがそうするのは……誰かのためじゃないですか」
「いや、俺は…」
「そんな風に、私の言葉を否定するのも、私のため…ですよね」
「聞かなかったか、俺はお節介だって。ついでに言うと、俺は誰かが困ってるのを見るのが嫌いなんだよ…だから、俺は俺が思うように色々やると言うか……もんのすげー、自分勝手なやつだぞ、俺は」
「自分勝手ですか……それは、認めてもいいですね」
 そう言って結花は、握っていた服を放し、重ねられていた尚斗の手を外して、頭をなでる、尚斗の手を静かに押しのけて……でも、顔だけは胸に押しつけたままで。
「でも、私は……私だけのために、橘先輩を利用しましたから」
「……さっきも思ったが、お前、誰かに対して負い目を感じると、ものすっごい卑屈になるよな」
「……」
 尚斗の言葉にちびっこは何も応えず……ただ、両手を尚斗の胸に当て。
 2秒、3秒……何かを振り切るように、とん、と尚斗の胸を突いた。
「……」
 それは、尚斗をよろめかせるにはいかにも力が足りず……結花は、しかたなく自分から1歩さがった。
「……まあ、いいや。それを認めないと話が進まないって言うなら、そういうことにしとこうか。で、お前の心が汚れてるから、何だってんだ?」
 結花の手が、震えて……ぎゅうううっと、握り込むことで震えを隠そうというのか……それとも、隠そうとしたのは別の何かか。
「……演劇部を立て直すためのプランを橘先輩の所に持ち込んだときの事ですけど…」
 と、結花はちょっと首を振って。
「一瞬でしたけどね……ものすごく傷ついた表情を浮かべたんです」
「……?」
 尚斗が覚えた微かな違和感……結花はそれに気づかず、自嘲的な口調で言葉を続けた。
「鏡がひび割れたような表情っていえば、演劇っぽいですかね……まあ、すぐにそれは消えましたが…『ああ、この人はこんなにも純粋に演劇のことが大好きなんだな』って思いましたよ」
「……」
「でも、私はそれと同時に、演劇部を人質にすれば、この人はこちらの思い通りに動きそう……なんて考えたりしてました」
 ちょっと笑って。
「汚れてますから、心が」
「随分とこだわるんだな」
「……いつも他人を思いやる有崎さんは、心がおきれいな方ですからね…気後れしちゃうんですよ」
「似合わねー」
「……何がですか?」
 ちょっとむっとした表情で、でも、尚斗に向ける視線はどこか弱々しく。
「ちなみに、俺の母さん人殺しだから」
「え?」
「悪ぶるなら、このぐらいスルーしろよ」
 はっきりとは見えないが、結花の顔が怒りで赤くなるのが、手に取るようにわかった。
「じょっ、冗談にも言っていいことと悪いことが…それも、自分の母親を…」
「……」
「え、ホント…なんです…か」
「さあな…でも、ちびっこのさっきの反応って、俺を気遣う感じだったな」
「それは」
「まず他人を思いやれる人間の心が汚いわけあるかよ…」
 ぽんぽんと頭を軽く叩いてやり……結花が、それを嫌がる素振りを見せなかったので、尚斗はそのまま頭を撫でてやった。
「……」
「ちびっこが言ってる、『心が汚い』ってのは夏樹さんを利用したからじゃないだろ……もっと昔のことだよな、多分」
「……言いたくないです」
「……悪かったな」
「そう思ってるなら、最初から言うなです」
「というか……前々から薄々感じてたけど、お前は夏樹さんに対してものすごい負い目を感じてるんだろ…」
「……」
「それをつつくようなこと言って悪かった…無神経だったよ」
「……有崎さんの」
「ん?」
 頭を撫でられながら、結花が続きを口にする。
「お母さんって、どういう人でしたか?」
「んー」
「私も無神経なこと言いました…だから、これでおあいこです」
 いや、そういうわけで答えられなかったんじゃないんだが……と尚斗は思ったが、まあこのぐらいで切り上げておく方が無難かもな、とそのまま何も言わずに結花の頭を撫で続ける。
 結花は何も言わず。
 尚斗も、ただ黙ってちびっこの頭をなで続けて。
 端から見れば、ある種滑稽な光景なのだろうが……2人にとって、特に結花にとっては、それはとても大切な時間で。
 ようやくに、ぽつりと…。
「無理に……聞き出してはくれないんですね」
「まだ時期じゃないんだろ、きっと」
「……そうでしょうか」
「そりゃ、ある程度予想はつくんだがな……お前が言う、『心が汚れてる』ってのは、夏樹さんに対してやった事じゃなく、状況はともかく、もっと、昔のことで」
「……」
 なでなでなで。
 波立ちかけた心が……穏やかに、安らいでいく。
「で、夏樹さんに対して負い目を感じてるのは本当で、少なくともお前は、今の夏樹さんが、何かものすごく無理をしてると思ってて……何かをしてあげたいと思ってる」
「……有崎さんには、そう見えないんですか?」
「いや」
 と、尚斗は首を振り。
「……なんか、こう、うまく言葉に出来んが……なんつーか、違和感はあるんだけど、それがうまくつながらないというか」
「……」
「そもそも、今日のお誘いがあるまでその違和感すらもなかったわけだからな……つーか、麻理絵のせいというか、おかげかも知れないが」
「……この状況で、なんで椎名先輩の名前が出てきますか?」
「俺の感じた違和感が本当なら……多分、夏樹さんは麻理絵と似たところがあるのかな、と」
 
 てくてくてく。
 星空を見上げることもなく、言葉少なに夜道を歩く。
「…っしゅん」
「大丈夫か?」
「ちょっと冷えただけです」
「それは、大丈夫とは言わないような…」
「心配しなくても、ここ数年、風邪ひいたことないです」
「それは、何の保証にもならないぞ」
「……親元を離れて、一人暮らしですからね……鼻風邪程度ならともかく、寝込んでしまうような風邪をひくわけにはいかないんですよ」
「むう」
 と、尚斗は唸り。
「まずいと思ったら、俺に連絡しろ」
「……」
「そんなのは、迷惑でも何でもない……あとになって、その時自分が何も出来なかったと思い知らされる方が迷惑なんだっつーの」
 立ち止まり、尚斗の顔を見た瞬間……結花は、理解した。
 この人は、どんな時でもギリギリまで他人のことを考える人で……だからこそ、特別な存在である秋谷先輩のことが後回しになりがちだった……と。
「……どうした?」
「そうですね…気が向いたら連絡させてもらいます」
 と、結花は歩き出し。
「黙ってると余計に寒いですから、話しながら帰りませんか」
 星を見ながら、他愛もない話をしながら…。
 でも尚斗は、さっきまでしていた話には決して触れず………結花は結花で、『もう、ここでいいですよ』という言葉を何度も呑みこんで……アパートにたどり着いたときには、とうに日付が変わっていた。
「じゃ、明日は夏樹様との約束に遅れないでくださいね」
「おう……と、ほら、弁当箱」
「……はい」
「んじゃな、俺が言えた義理じゃないが、暖かくしてさっさと寝ろよ」
「あ、ちょっと待つです」
「ん?」
「なんと言われようとも、秋谷先輩は、私の憧れですから…」
「……わかった…つーか、悪かった」
 尚斗はちょっと頭をかき……結花に背を向けて…背を向けたまま手を振って、歩き出した。
 その背中を見送りながら、結花はぽつりと呟く。
「鈍い人ですね…」
 そして、周囲を確認してから鍵を開け、部屋に入る。
 いつも通り、何もない寒々しい部屋の中に……尚斗が渡してくれた、保温タイプの弁当箱を置く。
 今日は、これを抱いて寝よう……結花はそう思った。
 
 
 
 
 
 さあ、戦略無視の2正面作戦だ。(笑)
 
 全てにおいて前のめりには生きられませんが、せめて自分の好きなことぐらいは前のめりの姿勢でいきたいような。
 というわけで、目の前に2台のテレビ、ゲーム機をセットして、同時に別キャラ攻略をしていると思って頂ければ。(笑)

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