「おはよう、温子」
「あ、おはよう、弥生ちゃん」
 温子は教科書から顔を上げ、にっこりと微笑んで挨拶を返した……が、その表情がすぐに曇った。
「どうか……した?」
「どうもこうも……」
 弥生は大きくため息をつき、ちょっと恨むような視線で温子を見た。
「何で……あの時教えてくれなかったの」
「何を?」
「世羽子と……有崎の関係」
「え……」
 温子は手のひらを口元にやり、まじまじと弥生を見つめた。
「ま、まさか弥生ちゃん……直接世羽子ちゃんに聞いちゃった?」
「直接って言うか……有崎って中学の時つき合ってた相手はいるの……って」
「……あれ?」
 温子が首をひねる。
「何よ、『あれ?』って?」
「『世羽子ちゃんと有崎君がつき合ってたの?』って聞いたワケじゃ…?」
「そんなの、世羽子に聞くまで、わからなかったってば。有崎って誰かとつき合ってたの…って」
 弥生はちょっと言葉を切り、自分自身に言い訳するように小さく頷いた。
「私、世羽子と有崎はてっきりバンド仲間で、音楽か何かの理由で仲違いしてるモンだと……」
「仲違いって、それはそれで……んー?」
 温子は再び首をひねり、弥生を見た。
「じゃあ、世羽子ちゃんが言ったの?『有崎君とつき合ってた』って?」
「うん……そうだけど?」
「あれあれ…?」
「温子、そんなに首ひねってると折れちゃうわよ…」
「……『知らない』じゃなくて、ちゃんと答えた…?」
 温子はドラムスティックを取りだして、指先に挟んでくるくると回転させ始めた。
「答える必要もないのに、答えたくないのに答えた……そのココロは、答えたくないけど答えざるを得なかった…?」
「温子…?」
「ふむふむ……世羽子ちゃんは、弥生ちゃんにそれを答えなければならなかったワケかな……とすると」
 温子はドラスティックの回転を止め、弥生の顔を見つめた。
「な、何よ……そりゃ、世羽子には悪かったとは思ってるけど、温子が教えてくれてれば……」
「……あ」
 温子の指先から、スティックが落ちた。
「何よ、『あ』って?」
「んー、どうしたもんだか……」
 ちょっと困ったような表情を浮かべる温子の代わりに、弥生は床の上に転がったそれを拾い上げながら口を尖らせた。
「まーた、私だけのけものにする…」
 温子は弥生からスティックを受け取り、バランスを取りながら人差し指の上にのせ……ユラユラと揺れるそれを見つめながら呟く。
「……別に、のけものにしてるつもりはないんだけど」
「してるじゃない……自分だけわかってて、私を馬鹿にしてる」
「そうじゃなくて……」
 ため息混じりに。
「あのね、世羽子ちゃんはそれに答えることで、すごーく控えめにだけど……弥生ちゃんは手を出すなって言いたかったんじゃないかと」
「手を出すな……って?」
 瞬きを2回ほどする間をおき、温子はちょっと視線を逸らした。
「……藪をつつけば蛇が出る」
「ちょっと温子。今日はちゃんと答えてよね」
「藪をつつかないと責められる……かのように人生は理不尽に満ちているのよねえ」
 温子は文字通り頭を抱えた。
「あーつーこっ」
「んじゃ言うけどっ!」
 温子は弥生の耳に唇を寄せた。
「弥生ちゃん、有崎君の事を好きになり始めてない?」
 
「よお、弥生」
「……んっ!」
 背後から尚斗に声をかけられ、弥生は文字通り飛び上がる。
「すまん、驚かせたか…?」
 手を胸にあててぶつぶつと何かを呟く弥生の姿に尚斗は首をひねる。
「あ、有崎。ひ、久しぶりっ」
 ぎくしゃくと、ぎこちない笑みを浮かべて。
「日曜はもちろん、昨日も会ったが…」
「そ、そうね…わ、私ったら変なことを……って、用事があるからまたねっ」
 パタパタとその場から走り去っていく弥生……手と足が同時に出ていたり。
「……はて?」
 尚斗は何気なく背後を振り返った……と、何故かそこには深々と頭を下げた温子がいる。
「……何の真似かな、香神さん?」
「り、理由は聞かないで欲しいな」
 頭を下げたまま、温子が口を開く……いつもより幾分声のトーンが低いが、それでも普通の女子よりは高い。
「まあ、聞くなというなら聞かないが……」
「え、ホントに聞かないの?」
 顔を上げ、びっくりしたような表情で尚斗を見る温子。
「聞いて欲しいんかい…」
「うむむ……話したいけど、話せないワケがあるの」
「なるほど……あまり楽しくないワケあり、なんだな」
「そうなの〜人生って理不尽……と言うワケで、これから世羽子ちゃんに会いに行かねば…」
 と、こちらはこちらで、弥生とは別方向にパタパタと走り去っていく。
「……軽音部絡みの話か」
「ちっちっち…」
 振り向くと、安寿が舌打ちをしながら人差し指を振っていた。
「……また妙な芸風を」
「……似合いませんか?」
「東京ドーム3杯分ぐらい似合わないと思います、はい」
 ほのぼとした表情でやると、間抜けなだけとまでは口にしない。
「そうですか…」
 しゅん、と安寿がうなだれた。
 そんな安寿の姿を見て、尚斗はふと浮かんだ疑問を口にした。
「そういや、何か知ってるような口振りだったが?」
「天使と花売り娘は、昔から乙女の味方と相場が決まってますので教えられません」
「……安寿さん」
「はい?」
「それ、暗に俺に関係あるって教えてないか?」
 安寿は不思議そうに首をひねり、いつものようにぱたぱたと尚斗の背中をはたき始めた。
「や、別に翼は隠してないから」
「……えっと、有崎さんには関係ないですよ」
「ふむ、最近の天使は嘘もつく……と」
「あああ、またマイナスポイントが…」
 安寿は真剣な表情で右手の指を折って何かを数え始めたが、何かを思いだしたように胸を張った。
「……って、今さらそのぐらいのマイナスポイント恐くも何ともありません」
「まあ、正体ばらしてるし…」
「あああ…」
 両耳をふさぎ、あらぬ方向に視線を泳がせて呻く安寿。
「天使って…」
 安寿を見ながら、尚斗はちょっとばかり天使の境遇に思いを馳せた。
 
 次に最後のテストを控えた休み時間……微妙な雰囲気の漂う教室に音もなく戻ってきた世羽子は、そのまま真っ直ぐに尚斗の席に向かってやってきた。
「尚斗」
「ん?」
「今日の放課後……時間ある?」
 その瞬間、教科書のページをめくって最後の抵抗をしていた麻里絵はバサッと教科書を床の上に取り落とし、紗智は机から身を乗り出すようにして耳をそばだてる。
 そんな2人の気配を痛いほどに感じつつ、尚斗は世羽子を見上げた。
「いや、今日はちょっといろいろと用事があるんだが……時間を食う用事か?」
 今日こそは演劇部に寄って夏樹と接触せねば……そんな尚斗の心中を察するはずもなく、世羽子はちょっと俯いた。
「言い方が悪かったわね……」
 ちょっと視線を背けながらそう呟くと、世羽子は再び尚斗の顔に視線を向けた。
「今日の放課後、時間ある?」
「……全然変わってないじゃん」
 尚斗の左後方で思わず呟いたのは紗智……だが、世羽子に冷ややかな視線を向けられたせいか、慌てて窓の外に顔を向けた。
 そして、世羽子の視線は再び尚斗に。
「もう一度言わなきゃいけない?」
 尚斗はちょっとため息をついた。
「……わかった」
「……じゃあ、また後で」
 世羽子が自分の席に戻る……と、尚斗は青山の肩が微かに揺れているのに気付いた。
「何がおかしい、青山」
「いや、別に」
 背中を向けたまま、青山が首を振った。
 
 テスト終了、HR終了、世羽子が、尚斗が教室を出ていくのを確認して、紗智もまたひそやかに教室を出ていこうと……したところ、手首をギュッと掴まれた。
「……はい?」
 紗智は不思議そうに、自分の手首を掴んだ青山を見る。
「今日は居残りな、一ノ瀬」
「いや、居残りって……」
 手を振りほどこうかと思った瞬間、青山の手が微かに動き、紗智の手首が軽く極められた。まだ痛みはないレベルだが、紗智がちょっとでも体を動かすと途端に鋭い痛みが身体を駆け抜ける状態で固定されている……傍目には、ちょっと手首を掴まれているぐらいにしか見えないのだが。
「……わかった。席に戻ればいいんでしょ」
「うむ、そうしてくれると助かる」
 
「……で、愛の告白ってワケじゃないわよね?」
「うむ、あり得ないな」
 教室に残るのが紗智と青山になった瞬間、2人の会話が始まった。
「そうきっぱりと言い切られるとちょっと傷つくかな……とびっきりの美少女とまでは言わないけど、偏差値60を越える顔立ちぐらいには自惚れていたりするのに」
「また、微妙な評価基準を持ち出すんだな、一ノ瀬は」
「じゃあ、霞ヶ関ビル6杯分とか?」
「聞き手を煙に巻くような評価基準を使わなくても、一ノ瀬は可愛い分類に入るとは思うが」
 紗智はちょっとだけ口元を歪めて笑った。
「なんか、青山君に言われても誉められてる感じがしないのよね…」
「まあ、絵画に興味のない人間が、『綺麗な絵ですね』と言ってるようなモノだからな、無理もない」
「……」
 紗智は自分の額に人差し指をあて、首をひねりながら呟いた。
「……青山君って、尚斗がいないとちょっと毒キツイ?」
「ああ、ちょっと違うか」
「え?」
「有崎や宮坂と一緒にいると……まあ、大概の奴はまともな奴に見える。言葉上の問題じゃなくて、人格レベルでのボケとツッコミの関係というか、本来どっちも普通じゃないのに、組み合わせると普通のやりとりに見えてくる感じだな」
「あはははっ」
 紗智はお腹を抱えて笑い出した。
「な、なるほどね…ボケもツッコミも、単独で見ればかなり特殊な会話で……青山君1人だと、その特殊さが前面に出てくると」
「そういうこと」
 紗智はひとしきり笑ってから指先で目元の涙を拭い、青山の顔をじっと見つめた。
「……で、本題は何?」
「別に。有崎と秋谷の邪魔をしてもらいたくなかっただけ」
 さらりと青山。
「……私、精々盗み聞きするだけのつもりだったけど?」
「1ついいことを教えてやろう、一ノ瀬」
「……何?」
「先週の木曜……つまり、有崎と一ノ瀬が2人仲良く学校を休んだ日の事だが」
 紗智はちょっとだけ恥ずかしそうな表情を浮かべた。
「な、何かあったの?」
「その日、椎名は学校に来ていない」
 数秒の沈黙……紗智が青山の言葉を理解するまでにかかった時間である。
「……え?」
「正確に言うと……6限目の終わり頃、制服姿で校門前をうろうろしてはいたが登校はしてない」
「6限目の終わり頃……って」
 紗智と尚斗がこっちに帰ってきたのがちょうど同じ頃。
「まさか……」
「他人を理解した……ってのは、大概傲慢な思いこみだとは教えとく」
 がたっ。
 右拳を握りしめ、紗智が椅子を倒すような勢いで立ち上がった。
「あ、青山君に、何がっ…」
 震える唇から、怒気を露わにした紗智の声……青山は涼しげな表情で言葉を重ねた。
「一ノ瀬は、あまり人に嫌われないタイプだろ?」
 紗智は青山をじっと見つめ、どかっと音をたてて椅子に座り直した。
「何が……言いたいの?」
「椎名みたいなタイプは依存度の高い相手の意見に迎合しがちになる……そのあたりを理解してないと、すれ違うことになるだろうな」
「……」
「もちろんこれは俺個人の意見だが……まあ、参考程度にな」
「……それって、私にアドバイスしてくれてるって事?」
「いや、俺はただ情報を提供してるだけ……それを嫌味と受け取るか、アドバイスと受け取るかは一ノ瀬に任せる……って、どうかしたか?」
 机の上に突っ伏したまま、紗智は呻くように呟いた。
「……青山君って、尚斗とは中学からのつき合いだったっけ?」
「ん…ああ」
「尚斗ってすごいわ……私、青山君と会話してると神経おかしくなりそうだもん」
「まあ、有崎は異常だからな」
 首だけを動かして、紗智が青山に視線を向けた。
「……って、何か話が逸れてない?」
「いや、別に話を逸らすつもりはなかったな。一ノ瀬が何も気付かないならそれでもいいかとは思ってたが」
「……落ち着け、落ち着け、私…」
 こめかみの血管をピクピクさせながら、紗智は大きく深呼吸をした。
 
 学校を出てから、何も言わずに歩いていく世羽子の後をついてきたのだが……駅を過ぎ河川の方向に向かって続く並木道の半ばに来たところでついに尚斗が口を開いた。
「……結局、どこに向かってるんだ?」
「まだ、続けてたのね…」
「世羽子……主語と目的語を省くなよ」
「テストの平均点勝負……青山君と」
「まあ……な」
 曖昧な尚斗の返答に反応するでもなく、世羽子がちょっと空を見上げた。
 秋になると鮮やかに色づいて人の目を楽しませる並木道だが、今はすっかり葉を落としてしまっていて、冬の空を隠すこともない。
「……なんだ、前みたいに怒らないのか?」
「よしてよ…」
 はにかむような、それでいて少し哀しげな印象を与える笑みを浮かべて世羽子は振り返った。
「テストや勉強は真面目にやりなさい……なんて、今の私に言えると思って?」
「別に……なんか、問題あるのか?」
 世羽子は3秒ほど尚斗の顔をじっと見つめ、再び空に視線を転じて呟いた。
「葉が散らないと空が見えないなんて……ちょっとものがなしいわね」
「……?」
 尚斗に背を向けたまま世羽子が再び歩き出し……尚斗はそれについていく。
「尚斗、正直に答えて……知ってたから、止めてくれなかったの?」
「だから、主語とか目的語をちゃんと使おうぜ。中学の時にも言ったけど、ちゃんと言わなきゃ通じないこともあるんだから…」
 世羽子が立ち止まった。
 尚斗に背を向けたまま、空を見上げたままぽつりと。
「……昔は、言わなくてもわかってくれなかった?」
「……」
「今は……わからない?それとも、わかっててとぼけてる?」
 それは、なんのため……と、世羽子が言葉を続けようとした瞬間
「まぁま〜っ!」
 と、雰囲気をぶちこわしにする鳴き声があたりに響き渡った。
 何事かと世羽子が振り向くと、既に尚斗は世羽子から遠く離れ、泣きじゃくる女の子の側にしゃがみ込んで頭を撫でていたりする。
「何…迷子?」
 ため息をつきながら近寄った世羽子に、尚斗は曖昧な返事を返す。
「さあ、どうだろ…世羽子、とりあえず話は後な」
「……」
 迷子の女の子を肩車した尚斗とうろつきたかった……ワケでは決してない。
 世羽子はそれとわかるようにため息をつき、皮肉っぽさと懐かしさの混じり合ったような微妙な視線で尚斗の背中……に乗っかっている女の子を見つめた。
「そうよね……いつもの事よね」
 名探偵の条件は都合良く事件現場に居合わせる事……というジョークがあるが、世羽子に言わせると、お節介やきのまわりには必ずお節介を焼かれるような存在がひしめいているのだ。
「世羽子」
「何よ?」「なあに?」
 1つはやや不機嫌気味、1つは自分の置かれた状況も忘れて無邪気に。
 ちょっとした沈黙を経て、尚斗は女の子に聞いた。
「ようこ…ちゃん?」
「うん。わたし、ようこ」
「へえ……そっちのお姉ちゃんと同じだな」
 女の子の瞳が世羽子に向いた。
「おねえちゃんも、ようこなの?」
「そうよ」
 小さく頷き、世羽子は笑って見せた。
 
「青山君、私ちょっと聞きたいことあるんだけど?」
 ちょっと考える素振りを見せ、青山が呟く。
「奇遇だな、俺にも聞きたいことがある」
「……」
「どうした?」
「本当に、あるの?」
 疑わしげな紗智の言葉を聞いて、青山がちょっとだけ笑った。
「……と言うと?」
「うん……なんて言うか、聞きたい事なんて無いけど、そう言っとけば話がスムーズに進むからという意図があるのかと」
「ふむ、40点」
「……ま、青山君の都合なんてどうでもいいか」
 紗智は椅子の背もたれにもたれて天井に視線を向ける。
「あの2人、なんで別れたの?」
「2人とも、馬鹿だからかな」
「……そういう抽象的な話じゃなくて」
 紗智は左手で頬杖をつき、いらただしげに指先で机をトントンと叩いた。
「…っていうか、その皮肉な物言いどうにかなんない?」
「有崎にお節介はやめろって説教するのと同じぐらい無意味だ」
「……」
「悪口や侮蔑は、本人に面と向かって言うのが醍醐味だな」
「じゃ、じゃあ、言うけどさっ!」
 怒りに唇を震わせながら、紗智は青山の顔を睨み付けるようにして見つめた。
「私、どんなに頑張っても青山君のこと好きになれそうもないわ」
「わざわざ頑張って好きになる必要はないだろう……そういう肩肘張った関係は、どこかいびつだと言わざるを得ないな、俺としては」
「…………」
「ディベートでは、3秒以上の沈黙は明らかに減点対象だぞ」
「〜〜〜っ!」
 紗智は真っ赤な顔で、ぐっと握りしめた拳を宙に振り上げたままプルプルと震えていた。
「へえ、秋谷より我慢強いな……中学と高校じゃ単純比較はできないが大したモンだ」
「そ、そんなに、私を、怒らせたいワケ?」
 ぜえぜえと肩で息をしながら、紗智はゆっくりと拳を収めていく。
「別に俺と一ノ瀬が最悪の関係になったとしても、有崎と気まずくなったりはしないか安心しろ」
「……どういう意味?」
 青山はちょっとだけ目を細めた。
「腹芸じゃなくて、本人に自覚なし……か」
「……何の話?」
 青山はそこに紗智がいないかのように、虚空に視線を向けた。
「……青山君?」
「……ま、自業自得だよな、有崎の」
「放課後の教室、可愛い女の子とふたりっきりってシチュエーションで女の子を無視するってどういう了見よ?」
「一ノ瀬」
「な、何?」
 まるっきり無視されていた状態からいきなり話し掛けられ、紗智はちょっと腰をひいた。
「先週の金曜から……その前日、2人仲良く学校を休んだ日に何があったかは知らないが、有崎に対する距離感が変化してるって自覚はあるか?」
 
「……なんだ、そのまま帰ったかと思ったが」
 教室を飛び出して、おそらくはトイレで水でもかぶってきたのか、いつもの毛先が遊んでいるような髪型は見る影もない。
 紗智はポタポタと水滴を床に落としながらずかずかと青山に近づき、そのまま椅子に腰を下ろした。
「頭、冷やしてきたわ」
 顔色は良くないが、先ほど見せた動揺は完全に払拭しているようだった。
「そんなつもりなかったとか言っても、所詮前科ありだから誰も信じてくれないだろうし……軽蔑するならしなさいよ」
 どこか捨て鉢なモノを感じさせる口調。
「……男前だな、一ノ瀬」
 青山はちょっと笑い、鞄からタオルを取りだして紗智に放った。
「……」
「俺は一ノ瀬がどうなろうと全く気にしないが、熱でも出して有崎の前でふらつかれるとややこしいことになるからな…」
「……どういう意味?」
「風邪が原因で母親が死んだからだろうな……ちょっと、心の傷になってるっぽい」
 紗智はちょっと黙り込み、タオルを使ってぐしぐしと髪の毛を拭き始めた。
「……なんか、青山君と話してると死にたくなるわね」
「じゃあ、図書室でフォークナーでも借りて読むといい」
「……どんな本?」
「落ち込んでるときに読むと、ますます落ち込んで死にたくなるような本」
「〜〜〜っ!!」
 紗智はタオルを持った手でガシガシと頭を掻きむしる。
「ま、中2の時に有崎に貸してやったが生きてるから心配ない……しかし、普通は学校の図書室においとくような本じゃないんだが」
 紗智は髪を拭く手を止め、青山の顔を見ながら呟いた。
「中2の時ね……それは、あの2人が別れることになった直後って事?そうやって、会話の所々で一応はヒントを与えてくれてるのかな?」
「さて……どうかな」
 青山はちょっと不思議そうな表情を浮かべ、紗智の顔をじっと見つめた。
「それにしても……何故、俺からの情報に固執するかな?宮坂に頼めば……まあ、それなりの情報は手にはいると思うが」
「ある意味青山君を信用してるのよ……そりゃ本音を言えば、この放課後のやりとりだけでこうやって顔見てるのもイヤになったけど、信用するしないとは別の問題でしょ」
 青山の視線を受け止め、紗智もまた青山を見つめた。
「……と、言うと?」
「青山君って……知ってることを黙ってたり、相手が誤解するような情報の与え方はするかも知れないけど、嘘は言わないような気がする。だから、あの2人に関して、青山君が口にすることは全部真実だと思うから」
「真実、ね……」
 青山はちょっと言葉をきった。
「……俺は確かに、あの2人についていくらかの事実を知ってはいるよ。ただ、事実と真実は別物だからな」
「事実って……普通、真実じゃないの」
「んー、例えば……男子校校舎が大雪の重みでつぶれた……ここで事実なのは、男子校校舎がつぶれたという事だけでな」
「……雪のせいにして、誰かが壊したとでも?」
「いや、誰かが壊したのは間違いない事実で、真実でもあるんだが」
 青山は紗智の視線からちょっと顔を背け……首を傾げた。
「どうかした?」
「雪がやんだのは日曜の朝……校舎が崩れたと思われる大きな音を近辺住人が耳にしたのは月曜の早朝。日曜の午後、既に雪は溶け始めていた」
「は?」
 青山はちょっと遠くを見るような眼差しをして呟いた。
「もちろん、雪の重みで弱ってた各部分(笑)が少しずつ壊れ、月曜の朝にそのしわ寄せが限界を超えて一気に……という可能性はある……が」
「もしもーし?」
「ふむ、有崎や秋谷の馬鹿さかげんを笑えないな」
 紗智がタオルを横に薙ぎ払う……が、青山は視線をあさっての方向に向けたままそれをかわした。
「……とことんむかつくわね」
「あ、すまん……これは一ノ瀬には全然関係ない話だから」
「…?」
 
 
                    後編へ続く
 
 
 紗智ファンにとって、青山が運命の敵状態になりましたでしょうか…

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