1月28日(月)
 天候は晴れ、風は微風。
 放射冷却現象で朝の冷え込みこそ厳しいモノの、日中は10度前後まで気温が上がる見込みだとか。
 と言うわけで、尚斗は朝から洗濯物を干していたりする。
「……親父がいないと、たるんでるな俺」
 まあ、金曜は天気が崩れるという予報で、土曜は積もっている雪のせいで干しても乾かないという言い訳があったにしろ、4日ぶりの洗濯は尚斗の価値観に照らし合わせてちょいと精神的なダメージを与えたようだ。
 洗濯物を干し終えると、尚斗は自分の布団と父親の布団を干した。
 取り込むのが遅くなると干した意味がなくなるので冬は天気のいい休日にだけ干すのだが、今日は冬季考査だから寄り道さえしなければ問題ない。
「さて……」
 時刻は7時半……男子校健在時(笑)なら朝のHRが8時45分始まりで、まだまだのんびりできる時間。
 しかし、生憎と女子校のそれは8時10分開始だった。
「……高校じゃ珍しいと思うんだが」
 高校ともなると、遠距離通学が珍しくないため始業時間は小学校、中学校のそれに比べて遅くなるのが通常だが……女子校のそれは、尚斗がいた中学校よりも早かったりする。
 それにも関わらず、男子生徒の遅刻率は男子校時に比べて異常に低いところが。(笑)
「……モチベーションってのは大事だよなあ」
 尚斗はぽつりと呟き、慌ただしく家を出た。
 女子校は尚斗の家から見て大体北西にあり、歩いて25分、人智を尽くした近道を使用して20分、軽く走れば12分、命がけで走って6分。(笑)
 ちなみに、男子校は東北東にあるから女子校とはほぼ逆方向……あくまでも、尚斗の家から見た話だが。
 そして、西の方角には麻里絵の家があった。
 あの曲がり角で俯き加減に腕時計を気にしている麻里絵に気がついても、尚斗は歩調を早めるでなく遅めるでなく、そのまま近づいて、よう、と声をかけた。
「……5分待って、来なかったら先に行こうって思ってた」
 腕時計を見つめたまま、麻里絵が呟く。
「何秒残ってた?」
「15秒ぐらいかな」
「……1分が1年か?」
「……そういう意味じゃないけど。深読みしすぎ」
 麻里絵は顔を上げ、ちょっと笑った。
「おはよ、尚斗君」
「ま、あんまり無理はするなよ」
「そういうのは、わかってても言わないのっ!」
 麻里絵がちょっと憤慨したように。
「そういうもんか…」
 尚斗はため息をつくように。
「……とりあえず、謝っとくな」
「……何を?」
「いや……子供の頃って『偶然出会ってた』んじゃないんだな?」
「……そうだよ」
 固い表情と口調で、麻里絵が頷く。
「いつも尚兄ちゃんを探して歩き回ってたんだから……全然偶然なんかじゃなかったよ」
「そりゃ怒るよな……『偶然』なんてとぼけた事言われたら」
「……本当に怒っていいのはみちろー君だと思うけど」
 麻里絵を促すように言った。
「とりあえず行くか、遅刻する」
「……考えてみれば、初めてだね」
「ん?」
「幼なじみなのに、なんか変な感じ…」
 自分の言った言葉に驚いたような、麻里絵はちょっと不思議な表情を浮かべた。
「どうかしたか?」
「……そっか」
 尚斗の言葉は聞こえていないのか、麻里絵が小さく頷く。
「もしもし?」
「……あ、何でもない」
 安堵したような、それでいてちょっと悲しみを堪えているような笑みを浮かべて、麻里絵は首を振った。
 それについては何も言わず、尚斗はゆっくりと歩き出した。
「ところで、テストの自信はいかほど…」
「……あっ!」
 尚斗は思わず後ろを振り返った。
 麻里絵の目がおよいでいる……いや、およいでいるどころか彷徨っているという表現の方がぴったり来る動揺ッぷり。
 これが演技だとすれば大したモノだと尚斗は思った。
「わ、わ、忘れてたよう…」
「うむ、その様だな……」
「わ、笑い事じゃないんだからねっ!これ以上成績さがったらお小遣い減額されちゃうんだからっ!」
「バイトすれば?」
「うちはバイト禁止なの。見つかったら、即停学」
「知ってる」
 
「有崎」
 自分の席に座るやいなや、青山が紙切れを差し出してきた。
「ああ、ちょっと待ってくれ……と、これだ」
 鞄の中から尚斗もまた紙切れを取りだして青山に差し出す。
 いつも(?)なら2人の様子に興味を示すはずの麻里絵は、机に突っ伏したまま最後のあがきを見せるでもなくさめざめと泣いていたり。
 そしていつもなら殊更無関心な態度を示すはずの世羽子が、それとはわからないようなさり気ない仕草で尚斗に視線を向ける……が、青山の視線に気付いて慌てて顔を背けた。
 そんな無言劇に反応することなく、青山に手渡された紙切れを凝視しながら尚斗はぽつりと呟いた。
「……青山」
「なんだ?」
「お前の予想……高すぎないか?」
 尚斗が予想した平均点よりも10点以上……というか、前回前々回の女子校生徒だけの平均点と同じレベルの予想点を付けている。
「まともにやれば……有崎の予想はなかなかいいラインだとは思うし、俺の予想とほとんど一緒だが」
 口元にちょっと笑みを浮かべ、青山は紙切れを指先で弾いた。
「……は?」
「ここ、女子校だぜ?そのあたり計算に入ってるか?」
 尚斗はちょっと考え、疑わしそうな口調で言った。
「男子連中が、女子にいいところ見せようとして頑張るとでも?」
「その解答、18点だな」
「……何点満点で?」
「100点満点で」
 青山の返答はにべもない。
「……何故?」
「……ま、勝つと分かり切った勝負も興ざめだし」
 青山はちょっとため息をつき、ぽつりと呟いた。
「有崎、あの馬鹿を計算に入れてないだろう?」
「あの馬鹿って……あっ!」
「気付いたか、自分のミスに…」
 尚斗は髪の毛を掻きむしり、右手を机に叩きつけた。
「やってるよな………『あの』宮坂なら」
「ただ……どのぐらいのレベルで売りさばいたかというのが問題だが」
「……なんか、不穏な会話ね」
「紗智、このガッコって試験問題の作成が当日早朝なんて事はないよな?」
 紗智はちょっと首を傾げた。
「普通、試験問題なんて1週間ぐらい前には完成させてるんじゃないの?」
「男子校も……俺達が1年の夏まではそうだったんだよ」
「……?」
 尚斗の言葉に、紗智はさらに首をひねった。
「想像できないだろうが、宮坂の奴は俺達の代の新入生総代でな」
「今年最高のジョーク、って言ったら、失礼なのかな……?」
 紗智と尚斗は同時に、青山がじっと麻里絵を見ていることに気付いた……いや、多分それと気付くように仕向けたのだろう。
 ただ、青山にしては違う意味であからさますぎた。
「青山」
「ん?」
「一応、わかってるつもりだから」
「私も、一応ね」
「そうか、老婆心だったな…」
 青山はそう呟き、席を立った。
「おーい、もうすぐ始まるぞ」
「トイレだ、すぐ戻る」
 青山の姿が教室からいなくなってから、紗智は囁いた。
「……なんか意外かな」
「何が?」
「ん、青山君がああやって麻里絵に気を遣うというか…」
「……まあな」
 曖昧に頷いた尚斗の視線は、麻里絵ではなく世羽子の背中に向けられていたのだが紗智はそれに気付かずに尚斗の耳に口を寄せ、ぼそぼそっと呟いた。
「あのさ……麻里絵、納得してるフリをしてるだけと思う」
「……だろうな」
 尚斗がちょっとため息をつくと同時に、世羽子は立ち上がってゆっくりと教室を出ていった。
 
「……ねえ、2番の3の答えって?」
 終わった試験のことをぐだぐだ考えるより、今は次の試験のための勉強でもすればいいものを……と思いつつ、尚斗が答えた。
「2だろ?」
 麻里絵が助けを求めるように紗智の顔を見た。
「2と思うけど?」
 麻里絵の視線が青山に向く。
「2以外あり得ない」
「……じゃ、じゃあ4番の…」
「4か5……と思う」
 麻里絵の視線は再び紗智に。
「……5と思ったけど」
 麻里絵の視線が向くより早く、青山が呟いた。
「5以外あり得ない」
「……しくしく」
 机に突っ伏して、麻里絵が再び妖怪子泣き少女と化した。
「……紗智。試験の時、麻里絵っていつもあんな感じなのか?」
 困ったような表情を浮かべ、紗智が言った。
「中学の時はそれなりに上位だったんだけど……ほら、この学校って基本的にレベル高いから」
「……」
「私、こう見えても中学2年からは万年3位だったし……ま、上位2人の壁が厚い厚い」
「1位はみちろー……か?」
「まあね……で、万年2位というか1年の途中でみちろーにトップを奪われたのが杉原さんって娘でね……」
「いやあ、今日はとても愉快だなあ」
 教室内の雰囲気を完全に無視した呑気な声をあげて、宮坂がやってきた……制服のポケットからチョコパンが溢れかえりそうになっているのを見て、尚斗がため息をつく。
 そして紗智が一言。
「……チョコパン大将?」
「紗智、お前のセンスは時々時代を超えるよな」
「や、これについてこれる尚斗もたいがいだと思うわ」
「……お前ら、俺のこと嫌いだろ」
「つーか、横流しするならするで、発覚しない程度に押さえてるんだろうな?」
「あ、これは別口…」
 宮坂は平然と答え、チョコパンを1つとってもぐもぐと食べ始める。
「……あれって、食べるだけなの?」
「奴の行動は俺にも良くわからないからな……」
「試験問題に関してはもちろん現金で……」
 がららっ、ぽいっ!
 尚斗が宮坂の首根っこをひっつかむと同時に青山が窓を開け、あうんの呼吸で窓の外へと投げ落とす。
「そういう危険な単語を軽々しく口にするなと言うに……」
「……軽々しく、人を3階から投げ落とすのもどうかと思うけど」
 ズドドトトッ…
「うむ、やっぱり今日は宮坂の奴絶好調だな」
「あれだけは、俺にも真似できないからな……大した奴だ」
 真面目な表情で青山が呟くのを聞き、紗智は何かを言いかけたがちょっと首を振って笑った。
「まあ……男の子はこのぐらいじゃないとね」
 紗智の呟きをを無視し、尚斗と青山が何事もなかったように席に着く。
「あのぉ……?」
「どうした、安寿?」
「今、誰か空を飛んでませんでしたか?」
「安寿、人は誰も空に憧れるモノなんだ」
「そうなんですか?」
「そして人は空に挑む……だから、1人や2人空を飛ぼうと試みる奴がいても全く不思議ではないんだな、これが」
「なるほどぉ…人は空に憧れるんですか…」
 などと呑気な会話を交わしていると、宮坂が息を切らして教室に戻ってきた。
「お、お前らなあ……ポケットのチョコパンが二つほど潰れたじゃないか」
「被害、それだけなんだ…」
 紗智がぽつりと呟く。
「屋上から突き落とされたフリして、教師を1人クビにさせた男がそのぐらいでぐだぐだ言うな」
「マイフレンド有崎。あれはとんでもない暴力教師に下された正当な処分じゃないか……多少の作為があったことは認めるが」
「停学処分を撤回させるため、校長の車にひかれたりもしたよな……包帯やそれっぽい副木こそつけてたが、あれ無傷だったろ?」
「マイフレンド青山。あれは不幸な事故じゃないか……多少の作為があったことは認めるが」
「ゴメン、アンタ達の話を聞いてると共犯にされそうだから耳ふさいでていい?」
 
 ちなみに宮坂が落下するのを運悪く目撃してしまった女子生徒が1名いた。
 彼女はクラスメイトにむかってそれを力説したのだが誰も信用してくれず、もんもんとした心持ちのまま試験を受けることに。
 しかしこの出来事がきっかけとなったのか、数年後に一冊の絵本を世に排出してそこそこ話題をよんだりしてしまうのだがこれは別のお話である。
 
「(宮坂のあの上機嫌具合。かなりの人数に試験問題を横流ししたと思って間違いないだろう……とすると、本来あるべき平均点に上乗せしなきゃいけない点数は一体……)」
 などと、試験問題そっちのけで平均点計算のやり直しを始める尚斗。
「(えっと……天使だからあんまり目立っちゃダメなんですよねえ。いい成績でも悪い成績でもダメって事ですから……)」
 などと目的こそ違えど、やってることは尚斗とまるっきり同じの安寿。
「(……どうしよう、長文なのに意味の分かる文章が3つしかない)」
 などと、断片的な文章と意味の分かる単語を組み合わせて本分の内容を推理するパズラーと化している麻里絵。
「(くっくっくっ……どうせ、試験問題の横流しがばれても、後2週間ちょっとでこことはおさらばだから関係ないし。しかし……1年も合わせて全部で(ぴー)人だから、今日の上がりは……おいおい、マジかよ)」
 などと、試験問題そっちのけで、今日の売り上げを計算し始める宮坂。
「(さて……宮坂の様子からして、発覚覚悟で1年の夏の時より大量に横流ししたことは間違いないな。とすると予想される平均点はこのぐらいだから、間違えるのはこことここと……後はこの選択問題答えを……選択……おや?)」
 開始十分ほどで全ての問題を解き終え、既にどこを間違えるかという最終段階に入っていた青山は、選択問題の解答欄から妙な違和感を覚えていた。
「(屋上から教師に突き落とされたフリして……とか言ってたわよね。でも、そんな記事目にした覚えはないし、裏で処理されたのかしら……って、そんなこと考えるんじゃなくて、今はテスト、テストやらなきゃ…)」
 などと、さっきの会話内容がぐるぐると頭の中を駆けめぐってテストに集中できないでいる紗智。
 そして、終わりは訪れる。
 きーんこーんかーんこーん……
「ほい、青山……」
 後ろから回ってきた答案用紙で青山の背中をつつく……が、無反応。
「おーい、青山?」
「あ、すまん…」
 青山にしては珍しく、慌てた感じでそれを受け取った。
「……どうかしたのか?」
「有崎……お前、本当に藤本先生と初対面か?」
「そりゃ、考えてみりゃ俺はここが地元だし、藤本先生はずっとこの学校に通ってたわけだからどこかですれ違ったことぐらいはあるかも知れないが……何で?」
「いや……まあ…」
 これまた青山には珍しい、歯切れの悪い対応だった。
 
「あ、有崎君だ。やっほー」
 相変わらず、耳にキンキンと響く声。
「……テスト中だってのにテンション高いな、香神さんよ」
「テスト中だからって、テンション低くなるような娘じゃないけど…」
 温子の背後から、弥生が姿を現して言葉を続けた。
「温子、これからデートだから」
「へえ……って、平日だぞ?」
 温子が瞳をくりくりっと動かした。
「平日だからいいの。こっそりと、校門で待ってて脅かしてやるつもり」
「ほお」
 温子は1人納得したように、うんうんと頷きながら呟く。
「ここのガッコに編入してきて、なんだかんだ言いながら会う回数減ってるし……たまには、そういう刺激を与えてあげないと」
「……こっそりとって事は、向こうの都合が悪かったらデートにならねえじゃん」
「まあね」
 あっさりと、温子は肯定した。
「でも私はドキドキしながら待ってるだけでも楽しいし、向こうは私が待ってたってのを楽しんでくれると思うし…」
「ごちそうさん」
 尚斗は軽く頭を下げ、温子にそれ以上喋らせない。
「……っていうか、自信家よね、温子って」
 温子は弥生の呟きを聞いて首を傾げた。
「そのぐらいの自信がなきゃ、誰かとつき合うなんてできないでしょ……って、弥生ちゃんはずっとシングルだからわかんないか」
 子供は早く寝なさいっという表情を浮かべ、温子は弥生の目の前でひらひらと手を振った。
「な、なんで私限定なのよ!有崎だって、みるからにシングルじゃないのよっ!」
「今現在の話じゃなくて、これまでに誰かとつき合ったことがあるかも含めてなんだけど…?」
「有崎が誰かとつき合った事があるなんてどうしてわかるのよ?」
「……弥生ちゃん、本気で言ってる?」
「本人を前にしてする話のネタじゃないと思うが…」
 勘弁してくれという表情と口調で尚斗が割り込んだ……のだが、弥生は尚斗の顔をじっと見つめながら口を開く。
「有崎、アンタ彼女いるの?っていうか、いたの?」
「香神さん……弥生ってひょっとして?」
「うん、すごく鈍い」
「なんで無視するの?」
 尚斗は指先で頬のあたりをかき、ぽつりと呟いた。
「いたぞ」
「むう……」
 弥生が黙り込んだ。
「別に、弥生は幼稚舎からここなんだろ?環境の差もあるし、いつまでに誰かとつきあわなきゃいけないなんて決まりがあるわけでもないし、気にしなくても……」
「……鈍いのは有崎君もか」
 ぽつりと。
「え?」
「んー、ちょっと困ったことになりそうな予感」
 温子はため息をつきながら目を閉じた。
 
 じゃばじゃば……
 弥生が洗った食器を世羽子が水ですすぎ、洗い物かごに置いていく。
「世羽子は休んでていいのに」
「2人でやった方が早いのに、1人でやるのは馬鹿げてるから」
「1人ですむところを、2人が手を濡らす事になるけど」
「拭けばいいことじゃない」
 弥生ははちょっと手を止め、世羽子を見た。
「……?」
「あのさ……迷惑だったらすぱっと言ってね」
「何を馬鹿なことを…」
 世羽子は大げさにため息をついた。
「正直、助かってるからね……私、家事ってあんまり得意じゃないから」
「そうかな?別に世羽子の手際って見てて悪いとは思えないけど……誰と比べて言ってるの?」
「……弥生、手が止まってる」
「あ、うん…」
 何か悪いことでも聞いたかな……そんな思いを胸に、弥生は黙々と食器を洗い終える。
「世羽子、お茶入れるね」
 布巾で台所まわりを拭っていた世羽子がちょっと振り返って頷いた。
「そっちの棚に、お煎餅あるから」
「はいはい」
 急須を手に取る、湯飲みにお茶を注ぐ、テーブルの上に食器を置くとき決して音をたてない……本人がそれを意識しているかはともかく、弥生の動作は1つ1つがきちんと洗練されている。
 『私は、成長する前に手を入れられた植木みたいなモノだから…』
 少し寂しげな笑みを浮かべた弥生が以前にぽつりと漏らした言葉、今は、その意味が多少は理解できる。
「……弥生」
「何?」
「私のこと、恨んでない?」
「な、何で?」
 いきなり何を言い出すのか……そんな表情やくだけた口調は以前の弥生にはなく、物静かで、唇をあまり動かさずに喋る少女だった。
「ん……音楽がね、弥生にツライ思いをさせてるんじゃないかって時々思うのよ」
「まあ……そういう見方もできるかも知れないけど」
 弥生は一旦言葉を切り、自分が入れたお茶を静かに飲んだ。
「それを後悔したからと言って、歌う事の楽しさを知らなかった頃の自分に戻れるワケじゃないしね。自分を変えるモノに出会えた……それはとても幸運な事だと思ってるけど」
「……」
「花が咲く、樹が伸びる……そこにそれ以上の意味を求めることができない限り華道をやるべきじゃないし、今の私は、歌うことにそれ以上の意味を感じてるから」
 世羽子はちょっと気圧されるような気持ちで弥生を見つめる。
 初めて出会った時と同じような物静かな表情……それでも、やはりあの時とは違っているのかも知れない。
「世羽子」
「な、何?」
「お茶、冷めちゃうわよ?」
 そう言った弥生の表情は、既にいつもの表情で。
 世羽子が湯飲みに口を付けた瞬間、弥生が口を開いた。
「ところで…」
「……?」
「有崎って、中学の時誰かとつき合ってたの?」
「ブフッ…」
「よ、世羽子?」
 お茶が思いっきり気管に入ってしまい、涙を浮かべながら咳きこむ世羽子の背中を弥生が慌ててさすり始める。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫も何も……コフッ、コフッ…」
 口元を手で隠し、世羽子は荒い息をつきながら言った。
「いきなり、何なの?」
「いや、なんか温子に『誰かとつき合ったことのない弥生ちゃんにはわからない…』なんて馬鹿にされたんだけど……って、そういえば世羽子は誰かとつき合った事ってある?」
「……」
「世羽子?」
「……」
「世羽子まで、私のこと馬鹿にするのっ!?」
 世羽子は複雑きわまりない表情を浮かべ、それでもぽつりと呟いた。
「……私」
「ふんふん」
「だから……私と」
「私と……って?」
「だから……私と尚斗」
 瞬きを二回ほどする時間が経過してから、弥生はちょっと首を傾げた。
「……え?」
 
 
                     完
 
 
 さあ、そろそろ物語を収束させねば。(笑)

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