明日にテストを控えた日曜日。
この状況では、高校生はおおむね4つのタイプに分類される。
成績の良い悪いはともかく、テストに備えて普段より勉強するタイプ。
特にテスト勉強をしないタイプ。
普段より勉強をしないタイプ。
そして最後のタイプは……朝から晩まで否応なしに野球の練習に明け暮れなければいけない野球部員のタイプである。
ちなみに、野球は空手なりバイトなり同人誌執筆(笑)なり、任意の言葉に置き換えていただいて結構だが。
「失礼しま…」
がち。
「……あれ?」
両脚を踏ん張って思いっきり引っ張ってみたが、演劇部部室のドアはびくともしない。
「今日が27日だろ……バレンタイン公演まで3週間足らずなのに休み?」
ドアを前にして、尚斗は首を傾げた。
『テスト前は原則として部活動禁止』などという規則がこの女子校にはあったりするのだが、尚斗はもちろんそれを知らない。
「……予定が狂ったな」
それにしても……と、尚斗はひっそりと静まりかえった校舎内を歩きながら呟く。
「平日も休日もあんまり変わんねえな……このガッコ」
人によっては礼儀正しいとか静謐な雰囲気などという言葉で語られる学校も、尚斗にとっては活力が失せているとしか思えない。本来異邦人である男子生徒がいてそうなのだから、普段の雰囲気は推して知るべし……だろう。
「バネと一緒で、押さえつけられりゃ跳ね返るのが自然のはずなんだが……?」
階段の踊り場に見知った顔を見つけて足を止めた。
いつものように気軽に声をかけようとしたのだが……花瓶に生けられた花を整える姿が様になっていて感心したというのではなく、花に向けられる目が妙に痛々しいというか、触れてはいけない部分を無防備にさらしているように思えて口をつぐんでしまう。
「……」
そんな尚斗の気配に気付いたのかどうか、弥生は振り返りもせずに言った。
「ちょっと、声ぐらいかけなさいよ」
「いや……正直、声をかけづらい雰囲気だったというか」
耳の後ろをひっかきながら、尚斗は一足飛びに階段を駆け上がって弥生の側に立った。
「……にしても、気配で分かるのか?」
「アンタ、独り言の声大きすぎ」
「俺に言わせれば、この学校が静か過ぎるだけだ」
弥生はちょっと笑い、花瓶から花を一本抜きとった。
「…なんで?」
「この花……死んでるから」
弥生が手にした花に顔を近づけ、尚斗は首をひねった。
「……俺の目には、花瓶の花と変わらないように見えるが」
「……経験ないとわからないと思うけど、花首がもう花を支える力を失ってるの。遅くても明日の朝には花がうなだれてくる」
「へえ…」
もちろん尚斗は花のことなどわからないが、弥生が正しいことを言ってるのだとなんとなくわかった。
「……こんなとこに」
「ん?」
「こんなとこに来なければ、もっと生きていられたかも知れないのに…」
どこか遠い呟きに、尚斗は曖昧に頷いてみせた。
「……姉妹揃って花好きか」
「ううん…」
弥生が首を振る。
「御子なら……明日の朝にしおれるとわかっていてもこの花を抜き取ったりしない。私は……花に対して傲慢なだけ」
返答を求められていない……そう判断して尚斗は何も言わなかった。
「……ところで有崎」
「ん?」
弥生の表情と口調が変わり、くだけた感じになる。
「今日、暇なの?」
「まあ、暇と言えば暇だな……」
「テスト前だって言うのに余裕ね…」
「俺の価値観の中で、テストの順位はそう高くないからな」
それを聞いて弥生がちょっと笑った。
「大概はそうだと思うけどね……それを実践できるのはあんまりいないかも」
「や、男子校にはけっこう居るぞ」
「言っとくけど、諦めてるのとは違うからね…」
「ん?」
「社会におけるテスト……って言うと語弊がありそうだから言葉を変えるけど、学歴とか地位の意味をきちんと理解した上でそれを捨てられる人はほとんどいないって事」
弥生は尚斗の表情に気付いたのか、促すように呟いた。
「言いたいことはその場で言わないと、ストレス溜まるわよ」
「ふむ……」
尚斗は腕組みをし、躊躇いながらもそれを口にした。
「家出の原因は、そのあたりを両親が理解してくれない事にあるのか?」
弥生は瞬間狐につままれたような表情を浮かべ、やがて手のひらで顔を覆って乾いた笑い声を上げた。
「あ、あはは……」
「すまん……俺はガキだから、聞いていいことといけないことの区別がつかないらしい」
「や、怒ってるとかじゃなく……ちょっと感心しただけだから」
「……感心?」
「間合いの詰め方がうまいって言うか……多分、今この瞬間以外でそんなこと言われたら私絶対怒ってたと思う…」
弥生は1人納得したように頷き、尚斗の肩をバンバンと叩いた。
「一種の才能かもね…」
「……で、どこに行くつもりだ?」
ギターケースを抱えたまま、尚斗は自分の前を行く弥生に聞いた。もちろん弥生は手ぶらで……早い話、尚斗は荷物持ち。
「んー、繁華街のあたり」
「繁華街……」
尚斗はぽつりと呟き、ギターケースに目をやった。
「……ストリートでもやんのか?」
弥生は足を止め、くるっと振り返って笑顔で頷いた。
「うん」
「へえ…」
尚斗は単純に感心した。
先日温子が弥生のギターをどうのこうと言ってたが冗談だったのだろう……度胸はもちろん必要だが、なまなかの腕でストリートをやろうと思えるものではない。
「ウチのガッコ、バイト禁止なのよね……ばれたら即停学」
「停学は男のロマンだぞ」
「私、女の子だもん」
「それもそうだな」
「……って、話を逸らさないっ!」
「バイトが禁止で、どうした?」
「人前で練習できてうまくいけばお金までもらえる……一石二鳥でしょ。とはいえ、ただで練習できる場所があるだけ私達って恵まれてるんだけど」
「まあ、スタジオを借りて練習しようとするとこのあたりじゃ1時間で2000円以上かかるしな」
弥生の足が止まる。
「……バンド、やってたの?」
「あれをバンドと呼ぶのは抵抗があるな……ま、遊びというか、精々中学の文化祭で演奏したりとかのレベル」
「えっ!文化祭で演奏とかさせてもらえるのっ!?」
ひどく羨ましそうな表情を浮かべ、弥生が目をキラキラと輝かせた。
「……待て」
「何よ…?」
「お前らの学校……文化祭とか何してるんだ?」
「各クラスで研究した展示発表とか……まあ、ウチのガッコって大学までいかないと模擬店とかは一切禁止だから」
「そっか……そういうの聞くと、お嬢さま学校ってのが実感沸くな。そんなじゃあ、演劇部の公演にも反対するよなあ……」
尚斗はしみじみと呟き、ふとあることが気になってそれを聞いた。
「そんなとこで、よく軽音部が認められたな?」
「んー、最初は相手にもされなかったんだけどね…」
弥生はちょっと首を傾げた。
「なんか急に認めてくれて、部室までついてきたの……って、どうかした、有崎?」
「あ、いや……別に」
尚斗は何でもないように首を振り、話題を変えるように呟いた。
「軽音部ができたのって高校に入ってからか?」
「うん……最初は世羽子と私と聡美の3人。去年の9月に温子が中途編入してきて4人になったんだけど……」
弥生の表情がちょっとだけ曇った。
「ま、しゃあねえだろ……誰にだって色々と事情ってモンはあらあな」
「まあね……って、話したっけ?」
「口の軽いドラムスにちょっと……つっても、ギターの娘が抜けたって事だけだが」
「いいとこのお嬢さまでね……最初は両親なんかもギターを買ってくれたりしてたのに」
「やめとけ」
弥生の言葉を遮るように。
「……」
「それは、弥生が俺に話していいことじゃないと思うぞ」
「……そうね」
弥生はちょっと笑い、空を見上げた。
「生きるために何かを犠牲にするのはかまわないけど、自分を生かすため以上のモノを奪われることはしたくないな……少なくとも私は」
「すまん、意味が全然わからん…」
空を見上げたまま、弥生はぽつりと呟いた。
「……御子なら、わかると思う」
駅前の噴水広場にはすでに先客がいた。
「むう……」
「弥生、わかってるだろうがこういうの早い者勝ちだから……というか、ここはお巡りさんに追い払われる可能性が高いだろ?」
「そうなの?」
尚斗は弥生の顔を見つめた。
「……もしかして、この場所のデビュー?」
「ううん、この場所も何も、ストリート自体初めてだけど…」
「そ、そうか……すっげえ堂々としてたから、常連なのかと勘違いした」
とりあえず度胸だけは満点だ……尚斗は心の中で呟いた。
「……有崎は経験者って事?」
「…いや、いつかはデビューを目指して色々話を聞いただけ」
「答えるまでちょっと間が空いたけど?」
「……と言うわけで、ここから少し離れた公園のベンチなんかがお勧めだと思う」
「人、来るの?」
「こういう待ち合わせのメッカじゃ、よっぽどの腕じゃないと邪魔にされるだけ……ちょっと一休みってな場所の方がちゃんと耳を傾けてくれる」
「へえ…」
「……という話を聞いた事がある」
「んじゃ、その公園とやらに行きましょ…」
駅から歩いて約5分……ショッピング通りの裏手に位置するその公園はそれなりの広さがあり、繁華街の喧噪に疲れた人などがうろつくオアシスだった。
ただ、地元民というか詳しい人間じゃないと知らない場所なのだが。
「へえ、こんな場所あったんだ…」
「案外知られてないみたいだからな……昼過ぎになるとそれなりに人が集まってくるけど、今はちょっと早いな」
「んー、じゃあ軽く練習してよっかな…」
「ところで弥生」
「何?」
「俺は、帰りも荷物持ち決定なのか?」
「か弱い女の子にこんな重いモノ持たせるつもりなの?」
「……バンドやってる人間が、ギターを重いなんて言ってどうする」
とりあえず、『か弱い』という部分にツッコムという愚は避けた。
「私より有崎のほうが力が強い……つまり、有崎がギターを持つのは理想的な役割分担なのよ」
「……俺が、バンド仲間ならな」
弥生はちょっと考えるような仕草をし、ポンと手を叩いた。
「じゃあこうしましょ。たった今ストリートバンド結成って事で…」
「人生なめてるだろ、お前」
「……なるほどね」
「何がなるほどなんだよ…?」
「私のギターを聞けば、断る事なんてできなくなるはず」
「……言葉の意味はよくわからんが、とにかく凄い自信だ」
「いいから聞きなさい」
ギターを構える姿が様になっている。
弥生のギターが、尚斗の期待感をうち砕くのは5秒後の事である。
ぺし、ぺし、ぺし、ぺし…
痛みを与えるのではなく、ただ単に精神的な苦痛を与えるためのでこぴんを延々と繰り返す……そして、それを甘受せざるを得ない弥生は正座。
「……お経だかなんだかわからないようなギターの腕前でストリートデビューしようなどとはいい度胸だ……それだけは誉めてやる」
「ち、違うんだってば……ほら、私本番に強いタイプで。ギャラリーがいたら、眠っていたギターの才能が開花するかなって…」
べしべしべしべし……
「いたたたたたっ…」
弥生のポニーテールがブンブンと揺れる……が、尚斗の人差し指は弥生がどう動くかを予測しているかのように正確にでこぴんを額の中央に叩き込み続けた。
ちなみに2人は気付いていなかったが、ストリート漫才かなんかと誤解されたのか数人が2人のやりとりを見ておかしそうにくすくす笑っていたりするのだが。(笑)
「じゃあ、アンタも弾いてみなさいよ!」
「……この前、弾いただろ」
「そんなこと言って……あの曲しか弾けないとかじゃないの?」
正座したまま、弥生は疑わしそうな視線を尚斗に向ける。
「上手いとは思わないが、絶対にお前よりはマシだ」
尚斗はギターを持ち、弥生に向かってくいっと顎をしゃくってみせた。
「何よ…」
「ソロは嫌いなんだ……何か歌え」
「へえ、私が何を歌ってもフォローする自信があるって事ね…」
弥生はすっと立ち上がり、尚斗に向かって挑みかかるような表情を浮かべて透明感のある声で歌い始めた……が、尚斗はギターを抱えたままじっと弥生の歌声に耳を傾けるだけ。
「……知らない曲?」
「続けてくれ、すぐに追いつくから…」
「……?」
首を傾げながらも、弥生は再び歌い始める……と、ギターらしからぬ単音で尚斗のギターがフレーズの頭を押さえ始めた。 曲を確かめるような単音は少しずつつながりを持ち、1番の終わりにはちゃんとしたフレーズへと変化し、間奏もアレンジを加えながら無難にこなすのを聞いて弥生はちょっと感心したような表情を浮かべた。
曲が2番に入ると、尚斗のギターの音が消えた……いや、消えたのではなく目立たなくなったのか。
弥生の声を尊重するように出しゃばらず、弥生が歌いやすいように微妙にアレンジをきかし、時にはリードギターのように……ギターとしては無茶苦茶なのだが、弥生はいつもよりずっと気持ちよく、しかもいい声が出た。
歌が終わり、余韻を包み込むように尚斗のギターが静かに演奏を終えた。
「今の……」
何……そう聞こうと思った瞬間、弥生は自分達のまわりに人が集まっているのに気付いて反射的に後退った。
「え、ええっ?」
どこか惚けたような表情で、弥生はぼんやりと空を見上げている。
ギャラリーにせかされるようにして30分ほど歌い続けた反動なのか……そんな弥生をしりめに、尚斗はギターケースの中に放り込まれた小銭を数えていた。
「へえ……728円も集まってる。大したモンだな、お前の声…」
尚斗は小さく口笛を吹き、ちょっとばかし複雑な表情を浮かべて弥生の肩を叩いた。
「……きゃっ」
可愛らしい悲鳴を上げ、弥生は尚斗から距離をとった。
「……その反応、結構傷つくんだが」
「い、いや、そうじゃなくて……いや、そうなんだけど…」
顔を赤くして、弥生はあたふたと両手を振り回した。
「アンタのギター、やらしい!」
「……はい?」
何を言ってます?という表情を浮かべて尚斗は弥生を見る……と、弥生は何故か頬のあたりを赤らめながらぼそぼそと呟いた。
「なんか、服脱がされてぎゅっと抱きしめられるような……」
「お前の日本語、良くわからんぞ」
「とにかくやらしいのっ!」
「……」
憮然とした表情を浮かべた尚斗の視線から顔を背け、弥生はぽつりと呟いた。
「……心の中を見透かされてるみたい」
「は?」
「なんでもないっ!」
弥生の顔が赤いのは気恥ずかしさなのか、それとも怒りのせいか。
「……良くわからんが、とにかく不快な思いをさせたんなら謝る…」
「べ、別に不快っていうか、気持ち良……」
「え?」
「何でもないってばっ!」
プイッと弥生はそっぽを向いた。
「……ま、それはそうとこれ」
小銭をベンチの上に置いた。
「……何それ?」
「お前本当に歌ってただけだな……『ありがとうございます』の一言はおろか、頭も下げないし」
「あ、ごめん……」
弥生はちょっと姿勢を正し、尚斗に向かって頭を下げた。
「ギター弾いてくれてありがとう」
「そっちじゃない。お前の歌聞いてた人がギターケースにお金入れてくれたんだ……お前、ぼーっとしてただけだから、俺がお礼言って頭下げてたんだっつーの」
「や、なんか頭真っ白になっちゃって……」
弥生は照れくさそうに頭をかき、大事そうに小銭を手のひらにのせた。
「……お金、もらえたんだ」
「正直、お前の歌っていいと思う」
「そ、そうかな…」
恥ずかしそうに弥生が笑う。
「過信は良くないが、自信は持っていいだろ…」
「や、ちょっと照れるからやめて」
顔を赤くして、弥生は尚斗の背中を乱暴にバンバンと叩いた。
「……で?」
「……でって、何?」
「いや、まだ歌うのか?時間的には、これから本番なんだが…」
「……今日は、もういい。疲れたから」
「30分やそこらで…」
「何か知らないけど、アンタのギターで歌うのってすごく疲れる……いつもなら、2時間歌っても全然平気だし」
尚斗はちょっと首を傾げ、ぽつりと呟いた。
「それ、普段は全力出してないって事じゃないのか?」
弥生の計画ではどうだったのかはともかく、結局は学校にUターン……もちろん、尚斗は荷物持ち。ギターケースを置いて帰ろうとした尚斗に向かって、『ギター教えて』と弥生が頼んだというか何というか。
べん、べん、べべん、べん……
軽音部部室に、おどろおどろしいギターの音が鳴り響く。
「いーしきしきくうくうぜーくう……」
「ちゃんと弾いてるじゃないっ!?」
「や、お経というか……音が濁ってるんだっつーの」
「濁る……って?」
「……弦を撫でずにちゃんとはじけ」
「こう?」
べん、べべん、べべべんべんべっべべん!
「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー…」
「どうすりゃいいってのよっ!?」
ちょっと拗ねたように、弥生がプイッと横を向く。
「……つーか、お前ギター弾いてて楽しいか?」
「……?」
「歌ってるときは本当に楽しそうなのに、ギター弾くときは形相変わってるし……ギター弾いてて楽しくないなら、無理にやらない方がいいぞ」
「温子と同じような事いうのね」
「それはちょっとショックだ……」
弥生はちょっと笑い、取りなすように言った。
「結構味のある娘なんだけどね、温子って……何というか、かめばかむほど味が出るキャラというか」
「……宮坂みたいなもんか?」
「宮坂?」
「すまん、弥生は会ったことなかったな…」
「……どんな人?」
尚斗はちょっと考え、一言だけ告げた。
「すごい奴」
「…?」
1時時間以上も弥生の念仏奏法につき合わされ……解放されたのではなく、隙を見て尚斗がついに逃げ出したのだが。(笑)
「……まだなんか、耳の中で坊さんが唸ってるような」
指先で耳の穴をほじくりほじくり、通りがかった教室の中に視線を向ける……時刻は2時半。
ふと、背筋に冷たいモノを感じて振り返る。
「……あっ」
「……」
尚斗は固い笑みを浮かべ、殊更に礼儀正しく切り出した。
「こんにちは藤本先生」
「こんにちは、尚斗君」
「1つ質問してもよろしいでしょうか?」
「まあ……」
綺羅は右手を後ろに回したままの不自然な格好のまま、口元に左手をやって不安そうに呟いた。
「私が答えられる質問ならよろしいのですが…」
「その……右手に持っている、スプレー缶は何ですか?」
「えっと…」
綺羅は困ったような表情を浮かべ、背中に回していた右手を身体の前に持ってきた……もちろん、尚斗は2歩ほどさがって間合いを取っている。
「お友達から預かった物なんですけど…」
「ほおおおぉぉ?(語尾上がりまくり)」
尚斗は物覚えの悪い生徒に教え諭すような口調で言った。
「僕の記憶によると、それは唐辛子の成分を含んだ催涙スプレーのようですが……」
「まあ、そうでしたの……さすが尚斗君、記憶力に優れてますのね」
心の底から感心したように、綺羅がにっこりと微笑んだ。
「……あれ?」
「どうかしましたの?」
さらににっこり。
「いや……昔…」
催涙スプレー……?
にこにこにこにこ…
「……気のせいか」
心なしか、綺羅の笑顔にほころびが見えた。
「尚斗君……テスト前日ですが、準備は万端ですか?」
「まあ、なんとか平均点ぐらいを目指してはいますが」
綺羅はちょっと困ったような表情を浮かべた。
「……もうちょっと頑張ってもらえないでしょうか?」
「もうちょっととは、どのぐらいでしょう?」
綺羅は尚斗の表情を窺うように呟く。
「全体で上位20位程度…」
尚斗はちょっとだけ動揺した。
前回、前々回の試験問題を真面目に解いてみたところ、総合得点がどちらも15番ぐらいだったのだ。
「……はあ、20位ですか」
動揺を押し隠し、ため息混じりに呟く。
「……俺の成績、知ってて言ってます?」
「中学にあがった直後は、ここで学年トップの秋谷さんよりちょっと落ちる程度の成績だったようですし……その後の不自然な成績に興味を持つぐらいには知ってますけど」
にこにこにこ。
「く、詳しすぎませんか?」
「私、知人との約束がありますので失礼しますね……」
綺羅はそう言い残し、尚斗に背を向けて歩き始めた。
じわじわと、ボディーブローのような効果を持つ話術を熟知している後ろ姿だった。
「……右手にスプレー缶持ったままってのはちょっと間抜けだが」
そう呟いた尚斗の身体を、背後から誰かががっしりと抱え込んだ。
「うわっ」
「もうちょっとなの!もうちょっとでギターの何かがつかめそうなのよっ!」
「いや、明日はテストだし、そろそろ……なっ」
「テストはどうでもいいって言った…」
尚斗の身体を離すまいと、弥生がぎゅううううっと強く抱きしめる。
「ま、待て!当たってる、当たってるって…」
背中のあたりに感じる柔らかい何か…
「まーた、適当なこと言って逃げようとしてる」
「いや、もうすぐ船の時間なんだよ!だから…」
「……そんな言い訳、生まれて初めて聞いたわ」
弥生は思っていたよりも強い力で、尚斗の身体を羽交い締めにしたままぐいぐいと引っ張っていく……無理に振りほどく事は可能だが、それだと弥生に怪我をさせかねないのでそれもできない。
尚斗は、市場へひかれていく哀しそうな牛の瞳をしてドナドナを口ずさみ始めた…
完
重い話から一時脱出。(笑)
や、重い話ばっかりだと読む方もアレでしょうけど、書く方もアレなんです。(笑)
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