1月26日土曜日の朝……昨日の夜から夜明けまで断続的に降り続いた雪は、街にうっすらと雪化粧を施していた。
 と言っても、積雪量はせいぜい3センチというところか。先々週の大雪に比べるべくもない。
 雪の多い地方に住む人間にはお笑いぐさなのだろうが、滅多に雪の降らないこの地方では都市部に10センチも雪が積もると交通網がたやすく麻痺してしまうのだが……このぐらいなら。
「……ま、1時からの公演に影響が出る程じゃないだろ」
 ちなみに今日は、演劇部が某養護施設でボランティアだかなんだかの公演を行う予定がある。
 ピンポォン…
「……」
 ピン…ポォォン…
「……すっごい、やな予感がするんだが」
 尚斗は髪の毛を掻きむしりつつ、玄関のドアを開けた。
「ちーす」
 白い息を吐きながらにこやかに右手をあげる制服姿の紗智がいた。
「……」
「昨日、麻里絵ン家に泊まったんだけどね……何の用意もしてなかったし、急な話だったから朝ご飯までおよばれするのは気が引けちゃって」
 私ったら奥ゆかしいでしょ…とでも言いたげな表情で尚斗の脇をすり抜け、紗智は玄関に腰を下ろして靴を脱ぎ始めた。
「……おい」
「朝ご飯は?」
「右拳でいいか?」
「食らわされるんじゃなくて、食べられるものがいいんだけど?」
「こ・こ・は・お・ま・え・の・い・え・か?」
「なんか、会話のつながりがおかしくない?」
「つながりがおかしいのは、多分紗智の脳神経だと思うぞ」
 紗智はちょっと首を傾げ、下から見上げるような視線を尚斗に向けた。
「……お腹空いた」
「紗智、お前人生なめてるだろ…」
 紗智はちょっとつまらなそうな表情を浮かべた。
「『さっちゃん』って、呼ばなくなったね?」
「嫌がってたじゃねえか」
 紗智は何か抗議するように両膝を抱えて丸くなった。
「……相手にもよるだろうけど、わかりやすい優しさって結構傷つく」
「……」
「……お腹空いた」
「わかったよ……大したモンは用意できんぞ。親父がいないときは多少手を抜くんでな」
 そして、十数分後。
 尚斗と向かい合うような形で、用意された朝食を食べつつ紗智が呟く。
「……なんか、新婚さんみたいね」
「……新婚さんなら、もうちょっと会話が弾みそうなモンだが」
「ご飯にみそ汁おつけものに、おそらくは昨日の残り物の煮物…」
「文句があるなら食うな」
「いや、それに関してはいいんだけど……」
 紗智は箸をおき、湯飲みを両手で掴んで中を覗き込んだ。
「このメニューで、しかも湯飲みに冷えた牛乳ってのはあんまりじゃない?」
「穏やかな気持ちで毎日を過ごすには、カルシウムが必要だからな」
「……カルシウム不足がイライラを招くって、最近は否定されてる気がするけど。それに、冷えた牛乳よりホットミルクの方がカルシウム吸収率が良かったんじゃなかったっけ?」
「さっちゃんよ、ボケ所とツッコミ所はわきまえようぜ」
「確かにね……」
 紗智はいつもの笑みを浮かべると、背筋を伸ばして椅子に座り直した。
「じゃ、率直に言うけど」
「前置きが長いって…」
「麻里絵の告白から逃げたことに対して負い目を感じるのはやめて……じゃなくて、いろんな事をひっくるめて、負い目を根拠にした行動は取らないで欲しい」
「……」
「一昨日の事だって……昨日もそう。知り合って1週間ちょっとでこんな事言うのなんだけど、アレは尚斗らしくない。多分、色々と考えた上でああいう態度をとったのはわかるけど、麻里絵に対して負い目を感じてる限り麻里絵はそれに気付くよ」
 紗智は一旦言葉を切り、牛乳に口を付けてから言葉を続けた。
「負い目がなかったら、尚斗も麻里絵に対してどこかで線を引くでしょ……でも、負い目があると線を引くのを躊躇って……尚斗は麻里絵に対して、麻里絵は尚斗に対してお互いに気を遣って……そういうのってさ、多分どっかですれ違っちゃうと思う」
「俺は…」
「別に麻里絵とつき合えとか突き放せとかって言ってるわけじゃないから……第一、私と違って負い目を感じるようなことじゃないと思うし」
「……昨日は」
 麻里絵への負い目を捨てにいったのか……そう言いかけて、尚斗は口をつぐんだ。
「何?」
「いや……何でもない」
「何それ?」
 紗智はちょっとだけ笑い、言葉を続けた。
「みちろーと麻里絵を見てきたから」
「ん?」
「縁がない、なんて言葉で片づけるのは簡単だけど。相手に対する優しい気持ちがすれ違っていくのを見てるのは……ちょっとツライ」
「……紗智の目には、すれ違うように見えるか?」
「何となくだけどね……それに、アンタ達があの学校にいられるのって後3週間しかないから」
 そう言って、紗智はちょっとだけ牛乳を飲んだ。
「……本当ならさ、アンタ達って出会うことなかったよね。家の距離なんかじゃなく、別の町に住んでたのに偶然会えて、ちょっとしたことで離れちゃったかと思ったら、何十年ぶりかの大雪でまた出会う事になって……そういう偶然って、大事にした方が良いと思う」
「……」
「重ねて言うけど、つき合えって言ってるわけじゃないから……ただ、せっかく再会できた幼なじみとの縁をきるのはもったいないよ」
「……随分とおしゃべりだな」
「……女の子は、世間的におしゃべりって事になってると思うけど」
 尚斗が怒っていると思ったのか、紗智はちょっと弁解するように呟いた。
「別に怒ってるわけじゃない」
「……ならいいけど」
 紗智は思い出したように箸をとり、煮物に箸をのばしながらを言葉を続けた。
「私、最近思うのよ……世の中って、自分勝手な人間がいるから動きが出てくるんじゃないかって」
「……動き?」
「相手のことを思いやって行動する人間ばっかりじゃあ、人間関係がガチガチに固まっちゃうと思う……アンタ達3人がいい見本。細かい理由はわからないけど、多分尚斗は麻里絵とみちろーに、麻里絵はみちろーと尚斗に、みちろーは尚斗と麻里絵に負い目を感じてる」
「……」
「……怒ってもいいけど?」
「何で?」
 紗智はちょっと笑った。
「自分のことだけ考えた行動って……程度にもよるけど、それって多分悪くないと思うよ」
「俺はかなり自分勝手な人間なんだがな…」
「かもね……まあ、ただの戯言だから」
「いやいや、朝っぱらから家に上がり込んで朝飯を食ってる言い訳としては大したモンだと思うぞ」
 二人して呼吸を計ったかのように、尚斗の言葉を受けて紗智は話題を切り替えた。
「ところで……今日は暇?」
「いや、昼から出かける」
「……テスト前だって言うのに」
「お前が言うな……それに、ちゃんと昨日一晩かけて平均点を予測したぞ。事前予想とテスト後の予想、それと実際の平均点との食い違いもマイナスポイントになるからな」
「ちょ、ちょっと待って……何か、凄く深い部分で勝負してない?」
「最初は平均点に近づけるだけだったんだが……年々エスカレートしてな」
「……ま、頑張ってね」
 
「劇、見てくれなかったんですか?」
「性別で演劇部関係者じゃないことは一目瞭然だし、だからといって施設の子供達に混ざって観客に回るのも無理があったからな」
「まあ……劇の内容自体、向こうからの注文がありましたから、人によっては不愉快な内容だったかも知れませんし」
 公演終了後、後かたづけを終えて養護施設から出てきた他の演劇部部員には気取られぬように結花の視界にちょっとだけ顔を出して誘い出した結果……今こうして、夕日を背負いながら尚斗は結花と2人で公園のブランコに揺られていたりする。
「……内容に注文って」
「元ネタはアンデルセンの童話っぽいんですけどね……早い話、1人では何もできません、でもみんなで力を合わせれば何かできる……と、言う感じですか」
「……もろに、大人の考える子供向けの話だな」
 ちょっと困ったように尚斗がブランコをこぐと、鎖の軋む音が風にのって飛んでいった。
「私、ちっちゃな頃からアンデルセンの童話が大嫌いで仕方がなかったんですよ」
「……」
「今もちっちゃいとか言いたそうですね」
「いや、そんなことは決して思ってもいないと断言するにやぶさかではないと…」
 結花の鋭い視線を避けるように尚斗はそっぽを向いた。
「有崎さんは……アンデルセンの童話って酷いと思いません?」
「……と言われてもなあ、アンデルセンの童話ってどんなのだっけ?」
「『醜いアヒルの子』は知ってますよね、後『親指姫』とか……まあ、ほとんどの作品に『醜いモノには醜い心、美しいモノには美しい心』というとんでもない差別思想が貫かれてますから」
 ちょっと憤慨したように、結花は言葉を続けた。
「まあ、子供のうちから反動思想を植え付けておけば支配者階級は楽ですからね」
「……えーとだな、会話レベルを俺のレベルにまで下げてくれ」
「俗物的な基準に従った外見的美醜に内面の美醜が従うって、子供向けの内容としてはどうですか?」
「すまん、レベルが上がったような気がする」
 結花がちょっと笑った。
「可愛い子供は純粋な心、可愛くない子供はひねくれた心。貧乏人は、現状に甘んじる事が美徳である……そういう内容って事です」
「……あ、わかる気がする」
「アヒルが白鳥になるんじゃなく、実は元々白鳥だった……アヒルや白鳥の気持ちを全く考えないおめでたい話です。白鳥がアヒルの集団に受け入れられる……って内容ならまだしも」
「そこまで子供が読むかな…?」
「勉強ができるとかできないとか……それだけで両親が喜ぶのと同じ話じゃないですか」
 結花はブランコをこいで、ぽつりと呟いた。
「何が保証された…というワケでもないのに」
「……子供の頃から?」
「小学生になる前から『変だな、この話…』と思ってましたよ……こんな酷い話を、大人達は子供に聞かせるんだろうって」
 尚斗の言葉の意味をとり間違えたのか、それともわざと間違えた振りをしたのか……それは定かではなかったが、尚斗は結花の言うことにただ感心した。
「幼稚園でそう思えるのは凄いぞ」
「早熟だったんですかね……皮肉な言い方をすれば、世の中ってのはこんなモノだって最初に教えてくれてるのかも知れませんけど」
 結花はちょっと遠い目をして呟いた。
「外見なり能力なり、相手が勝手に誤解するのはかまいませんが……それを押しつけられるのはあんまり愉快な話じゃありませんね」
「……」
 ブランコに揺られながら、結花は時折横目で尚斗の様子を窺っている。
「私、どうやら勉強が得意みたいなんです……学生は勉強が仕事って言いますけど、私の場合は本当に仕事ですから」
「……と言うと?」
「小学6年、中学3年、そして高校3年の受験シーズンに限りますけど、去年は有名私立進学校なんかを10校以上も受験しましたから……学校のお金で」
「それは……学校案内のパンフに載せられる輝かしい有名進学校合格者実績の陰で、それを支えているのが精々1人や2人だったりするワケだな」
 結花はブランコの揺れを止め、ちょっと意外そうに尚斗を見た。
「知り合いが1人引き抜かれたからな」
「……秋谷先輩ですか」
「なんだ、特待生仲間ってやつか」
「特待生というか……」
 結花はちょっと口ごもり、淡々とした口調で切り出した。
「口外するような人じゃないと思うから言いますけど、他の学校から引き抜かれた特待生の中のごく一部は受験実績を元に学校からお金貰ってるんです」
「なるほど」
「……前から知ってたって感じですね」
 尚斗は視線を地面に落とすと、ぽつりと呟いた。
「バレンタイン公演に対して学校側は渋っていたそうだが……それを説得できたのは、その絡みか?」
「学校経営的に、私のへそを曲げさせたくなかったんでしょうね。私の学年、成績的にパッとする人が他にいないので……」
 結花は一旦言葉を切り、これ以上この話題を続けたくないのかちょっと困ったような表情を浮かべて言った。
「……ひどく傲慢なこと言ってますね、私」
「成績がいいってのは特技の1つだろ。恥じ入る必要があるのか?」
「……」
「足が速いから、絵がうまいから、料理が上手だから……自慢したり謙遜したりする奴はいても、多分恥じ入る奴はほとんどいない」
「随分と狡猾な言いぐさですね、『多分』って」
「…狡猾?」
「口調は完全に断定してるのに、そういう例外がいないとも限らないって逃げ道を残してますから……好意的に解釈すれば、私の存在を肯定してくれてるとも受け取れますけど」
 尚斗はちょっと懐かしいような気持ちで結花を見た。
 何かを測るような視線を、結花がこちらに向けている。
「……あんまり怒りませんね、有崎さんは」
「怒らせたいんかい…」
「話は変わりますが、近視になると視力が落ちたって表現をしますよね」
「はい?」
「あれって変ですよね。調節機能の硬化現象なんかの説明は省きますけど、近いモノを見すぎた結果、身体がそれに適応しようとしたワケで……言い方を変えれば、近くを見る能力が発達したワケですから」
「……ひょっとして、コンタクトなのか?」
「両目とも、2.0です……頭フェチと眼鏡フェチでも併発してるんですか?」
「いや、そういうワケじゃないが……」
 尚斗は曖昧に首を振った。
「……私の観察眼が皮肉っぽいと感じるなら、私のまわりにそういう人が多かったってだけの話です。気を悪くさせたなら申し訳ないですけど」
「……おお、そういう話か」
 話題の変化についていけてなかった尚斗は、なるほどと思ってポンと手を叩いた。
 そんな様子を、結花はまたじっと見つめている。
「……変わってますね、有崎さんは」
「そうか?」
「変わってますよ…」
 変わってるのではなく、慣れているだけだった。
 虚実を織り交ぜた言葉を投げかけ、こちらの反応をじっと観察する……青山がそのタイプだったから。最初からそれを不快に感じることがなかった事が変わってると言われれば、確かにそうなんだろう。
 結花は口元をちょっとだけ綻ばせると、視線を前に転じて言った。
「話が逸れましたけど……夏樹様、もうすぐご卒業ですから。演劇部にいて良かった……そんな思い出を与えてあげたいんです」
「……」
「学校とか部活とか……自分が得られる以上に何かを犠牲にする必要ないですよね。私が言うのも何ですが、この1年、夏樹様は何も得ることなくただ犠牲になってるだけです」
 キイ…と、鎖を軋ませて結花のブランコが揺れ始めた。
「演劇部にいたことで……夏樹様は何かで満たされるべきだと思うんです。それだけの資格はあるお方ですから」
「……自分には資格がなさそうな言いぐさだな」
「あるわけないです」
 自分自身を突き放すように。
「背が高くて凛々しいお姿をお持ちの夏樹様の気持ちも考えずに……いえ、知っていながらそれを押しつけた私になんの資格がありますか」
 ふと、思った。
 紗智ならやはり、ここで結花に対して色々と言葉を尽くすんだろうかと。
『潰れそうだった演劇部を救った』
『ファンクラブを結成し、自ら管理することで夏樹の負担を減らした』
 ……等々、言葉を尽くすことはできるだろうが、結花が夏樹に対して感じている負い目……それは結花の気持ちの問題で、他人がどうこうできるはずもない。
 唯一例外があるとしたら夏樹だけで、それでも結花の負担を多少軽減させるというレベルに留まるだろう……決して紗智のやり方を否定するわけではないが。
「私なりの……罪滅ぼしと受け取って貰っても構いません。ただ……私の口からそれを言えるほど、恥知らずじゃないつもりですから」
「『利用させて貰います』……そう言ったよな?」
「……」
「どこからどこまでが計算付くかはわからないが…」
 尚斗はブランコから降りて、結花の側に立った。
「やっぱり悪い子にはほど遠いな、お前…」
 上体をかがめ、結花の頭を撫でる。
「……頭フェチ」
「否定はしない……正直、手がちょっと寂しくてな」
 多分、こうして麻里絵の頭を撫でてやることはないだろうから。
「てい」
 結花は尚斗の手を払いのけた。
「撫で方が優しくないっ!」
「……?」
 尚斗は自分の手を見つめ、ちょっと首を振った。
「気のせいでは?」
「気のせいじゃないですっ!」
 結花はブランコから飛び降り、びしっと尚斗の顔を指さした。
「どうせ、他のこと考えてたに決まってます」
「……ああ、言われてみればそうかも。すまん」
 他のことを考えていると何故撫で方が優しくなくなるのかわからなかったが、尚斗はとりあえず頭を下げた。
「ふん、だ」
「……ん?って事は、優しい撫で方なら…」
 どむっ!
 何の予告もなく、結花の鬼タックルが尚斗の鳩尾をヒットした……しかも、尚斗の右足を両腕ですくい上げながら肩で押し倒すという、レスリング競技では基本中の基本のタックル。
 思いっきり地面に叩きつけられた尚斗の上を、勢いあまったのか結花の小さな身体がコロコロと転げていった。
「…ぐおぉ…」
「よ、余計なこと考えなくてもいいですっ!」
 酸っぱい液体が逆流しそうになるのを必死で堪えている尚斗に向かってそう叫んだ結花の顔が赤かったのは夕日のせいか。
 どこか遠くでカラスの鳴き声がした。
 
 
                     完
 
 
 チョコキス7不思議の1つ。
 はたして1月26日(土)は休みだったのか?
 他の土曜日は授業があるのだが、この日に限っては描写無し……ちなみに、ゲームをプレイする限り、50分授業の10分休みで、1限目8時20分始まりの、4限終了が12時20分。(昼休みは50分)
 固定イベントである夏樹と1時に繁華街で待ち合わせ……現れた夏樹は私服。
 12時20分に授業を終え、掃除当番がなかったと仮定して家に帰って着替えて繁華街に出てくるまで40分……この日は学校が休みだったのだろうと高任は判断したのですが、真相は闇の中。
 どうでもいいことですけど。(笑)

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