「みなさま方…」
いつも通りに現れた綺羅のいつも通りの挨拶で。
「おはようございます」
「おはようございます」
朝のHRが始まる。
そして、尚斗の右隣の席に麻里絵は座っていなかった。
「……失礼します」
水無月は一瞬何かを言いかけたようだったが、軽く頷いただけにとどまった。
「ただのサボりなんですが、保健医として何か言うことはないですか?」
「義務教育じゃないんだ、好きにしな」
「じゃ、お言葉に甘えて…」
尚斗は近くの円椅子を引き寄せて腰を下ろし、周囲に視線を投げてから呟いた。
「今日は、冴子先輩いないんですね…」
「ああ、香月は大体HRが終わってすぐか、3時限4時限目が始まる前に来ることが多いからな……」
「なるほど」
意味もなく大きく頷いた尚斗を見ながら水無月は椅子の背もたれを軋ませ、指先で眼鏡の位置を調節してから皮肉るような口調で言った。
「なんだ、香月目当てか?」
「……そんな風に見えます?」
「いや、全然」
「……水無月センセーとかもアレですか、いつもそこにいる人がいなかったりすると妙な気分になったりするモンですか?」
「保健室だと、それはむしろ歓迎すべき事だが」
「……なるほど」
尚斗がそう答えるまでに一瞬の間があいた。
自分が使う言葉の意味に無頓着なのか、それとも敢えてそういう表現を使ったのか。水無月は尚斗の曖昧な視線を気にするでもなく、ポケットに手を突っ込んでタバコを一本取りだした。
「あ、俺にも一本もらえますか?」
「……毒だぞ、これは」
ちょっと意外そうな表情を浮かべ、水無月が指に挟んだタバコをちょっと持ち上げた。
「知ってますって。でも、ちょっと身体の中に毒というか、そういうものを流し込んでみたい気分でして」
「まぞ?」
「……どうですかね。まあ、今はちょっと自虐的な気分であることは確かですが」
ただそこにいないだけ……なのに、昨日のように責められる方がマシだった。麻里絵がそこまで考えて学校を休んだのならなかなかのモノだが。
「吸うのは初めてか?」
「いや、中学の時に1回……似たような気分でしたよ、今と」
水無月は何も言わず、指に挟んだタバコに火をつけてから尚斗に手渡した。
「ども…」
タバコの先を2秒ほど見つめ、尚斗はそれを吸い込んだ。
「……っ」
内臓が引っかき回されるような……腎臓のあたりを軽く蹴られた時と似た感覚が、尚斗を襲った。咳きこもうとする身体の欲求を必死で押さえつけ、尚斗は目に涙をにじませながらゆっくりと煙を吐き出す。
「……くは」
「……口の中だけでごまかしたり、咳きこんだりしたらひっぱたいてやろうと思ったんだが」
「ご期待に添えずにどうも…」
尚斗の口調に非難めいたモノを感じたのか、水無月がちょっと弁解気味に呟いた。
「それはアタシのタバコだからな。アタシの気にくわない吸い方をするなら、それぐらいされて当然だ」
水無月の差し出した灰皿にタバコを置き、尚斗は苦笑した。
腹の中を掻き回されるようなイヤな感覚はまだ残っているが、煙を吸い込んだ直後に比べれば随分とマシになった。
「確かに毒というか……身体中、冷や汗をかいてます」
「まあ、人間の身体って奴は多少の毒には慣れるようにできてるもんだ…」
「センセーは慣れたんですか?」
「……」
水無月はちょっと黙り、灰皿の上のタバコに手を伸ばした。
「いいか?」
「センセーがいいならいいっすよ」
タバコをくわえ、紫煙をくゆらせながら水無月は呟くように言った。
「アタシは、これが美味いと感じ始めたら禁煙する。で、身体から毒が抜けたらまた吸い始める……その繰り返しだね」
「禁煙するの、難しいって聞きますけど…」
「他人のことは知らん。アタシは別に難しいと思ったことはないね」
まだ長いタバコを灰皿に押しつけて火を消した水無月の顔に、微かに自嘲めいたモノが浮かんでいるように思えて尚斗は視線を逸らした。
「聞いちゃいけないことでしたか…?」
「ガキだから仕方がないな」
「やっぱりガキですか」
「素直にうなずけりゃ捨てたモンでもない…」
「そりゃどうも…」
尚斗は小さく頷くと、腰を上げた。
「じゃ、俺はこれで…」
「……なんだ、タバコもらいに来ただけか?」
「そういうワケじゃないですが……ま、冴子先輩が来たらよろしく」
保健室を出て、2階に上がったところで尚斗は冴子とばったり出会った。
「噂をすれば…」
「あら、どういう噂かしら?」
「なんかご機嫌ですね……って、これから保健室ですか?」
「ううん、図書室。一緒にどう?」
「……授業、でてます?」
「あんまり」
「人のことは言えませんけどね、俺も」
「授業中、教室に戻るのは気まずいわよ…」
誘っている……と言うより、暗についてこいと言われているような気がして、尚斗は頷いた。
「わかりました、お供します…」
カラララ…
図書室のドアを静かに開け、冴子は入り口近くの席にさっさと座った。尚斗も、向かい合わせの席に腰を下ろす。
「……さて」
「はい?」
「自分のせいで麻里絵が休んでちょっと堪えてるって顔してるけど?」
「身内にモサドでもいらっしゃるのですか?」
「んー」
冴子は自分の額に指をあて目をつぶった。
「耳にした情報と、自分の判断……それを組み合わせると、大体のことはなんとなくわかってしまうというか」
「……ちなみに、冴子先輩が耳にした情報ってのは?」
「今日は麻里絵が休んでるって事と、授業をサボっているキミの表情が芳しくないって事かな」
「めっちゃ短絡的な推理じゃないですか…」
冴子はちょっと斜に構えて言った。
「麻里絵は……結構興味深い観察対象だったから、短絡的というわけでも」
「観察…ですか。あまり好きになれない表現ですね」
「ああ、ごめんね。でも、キミの『見る』と私の『見る』は言葉の意味が違うと思うから……敢えて観察って言葉を使っただけなんだけど」
「……?」
冴子はちょっと微笑んだ。
「……ちょっと待っててくれる?すぐ戻ってくるから」
「はあ…」
数分後、冴子は何かを抱えて図書室に戻ってきた。
「はい、これが麻里絵の撮った写真なんだけど……」
何やら楽しげに微笑み、冴子は尚斗の方に写真の束を押しやる。
「そういや、写真部がどうとか言ってましたね……麻里絵と写真ってあんまりつながらないですけど」
尚斗は写真の中から無造作に一枚引き抜いた。
「……」
「……どうかした?」
「いや、ピンボケでして……なんとも」
尚斗はその写真を机の上に置き、あらためて2枚の写真を抜き出した。冴子は相変わらず楽しげに微笑んだまま、尚斗の様子をじっと見つめ続ける。
「……どう?」
「いや……これもちょっとピンボケだし、こっちは……多分、犬を写そうとしてるんでしょうけど……見切れてますし」
「面白く…ないかな?」
「いやまあ……面白いと言えば面白いんですけど」
意味が違いますよね……とでも言いたげな表情の尚斗の額を冴子が軽く小突いた。
「見た目の技術にとらわれすぎ」
「……と、言いますと?」
「写真はね、ありのままを写すものじゃないの…」
「その説明、辞書を監修する人が怒ったりしませんかね?」
冴子の目尻がちょっとだけ下がった。
多分それは笑っているのではなく、本当の感情を隠すときの冴子の癖なのだろう……根拠はないが、尚斗はなんとなくそう思った。
「ヒント。昔のカメラならともかく、今のカメラ……少なくとも、麻里絵の持ってるカメラでピンボケ写真を撮るのは難しい」
「……おお」
尚斗は意表をつかれた風に呟き、あらためて麻里絵の写真を手に取った。
「……てことは、この写真はわざと撮ったピンボケだと」
「さあ」
冴子は首を傾げながらにっこりと微笑んだ。
「……先輩」
「まあ、深読みすればそういう見方もできるって事……で、そういう見方でピンボケじゃない写真を見ると……すごく面白かったりするのよ」
「……ふむ」
何やら新しい視界が開けた気分で、尚斗は再び麻里絵の写真を見た。
「……どう?」
「……なんとなーく、先輩の言ってることがわかったようなわからないような」
「うん……キミはわかってくれる人だと思ってた」
「人の話聞いてます?……っていうか、買いかぶってません?」
「こう見えても、私は写真の世界ではちょっとだけ有名だったりするの……学生レベルだけどね」
「……意外って事もないですよ。なんか、冴子先輩って何でもできそうな雰囲気あるというか……青山と似てます」
冴子はちょっと言葉に詰まったような仕草を見せたが、気を取り直したのか言葉を続けた。
「カメラって一部の例外を除いて見るのが仕事というか、本質なのよね……対象物の外見、内面、感情、雰囲気……何かを見た上で、シャッターを押す」
「……?」
「逆を言えば、それらが見えてこない限りシャッターは押せないわけで」
冴子の目尻がちょっとだけ下がった。
「キミも結構複雑に屈折してるっぽいから写真は撮れないけどね、それでもキミを買いかぶりもしないし見損なったりもしない自信はそれなりにあるわよ……麻里絵に対しても、だけど」
「……それ、凄いというかちょっと恐いですね」
「私……写真って本質的に暴力だと思ってるのよね」
「……そこまでは言いませんが」
「プライバシーとかの小難しい問題じゃなくてね……カメラを向けられるとほとんどみんなが顔って言うか表情を作ろうとするのは、撮られたくない何かを抱えてるからじゃないかな」
「……なんとなくわかります」
「その仮面を引っ剥がすわけだから……暴力以外のなにものでもないわね」
冴子の口調にほんの少しだけ自嘲的な響きを感じ、尚斗はさり気なく視線を逸らした。
「ところで、さっき言ってた一部の例外って…」
冴子は尚斗にそれとわかる好意的な視線を向け、話題の転換に戸惑うことなく言った。
「個人的な見解だけど、麻里絵はそのタイプ」
「……」
「言葉を飾らずに言うけど、対象物をあばき尽くす写真を撮るんじゃなくて、自分の感情とか価値観を意識的か無意識的かはともかく写真にのっけちゃうのね……例えば」
冴子は右手の人差し指を顎にあてた。
「『学校』の写真を1枚だけ撮ってきて……そう言われたら、キミはどうする?」
「1枚だけですか……それなら、校舎全体が収まるようにロングで」
冴子はちょっとつまらなさそうな表情を浮かべた。
「……まあ、ほとんどの人がそういう写真を撮るでしょうね……でも時々、黒板のアップを撮ってきたり、昇降口を撮ってきたり、屋上の給水塔を撮ってきたりする人がいたりするの」
「はあ」
「そういう写真はメッセージ的側面が強いモノがほとんど……だから、他人が見ても『ああ、なるほど』とうなずけるモノなのよ」
「……麻里絵の写真は、ワケが分からないって事ですか」
「そう言われるとちょっと語弊があると思うんだけど……他人に伝わりにくいメッセージというか」
冴子には珍しい、困ったような表情。
「何というか……写真にはもちろん最低限の技術が必要なんだけど、対象物をどうとらえるか……あるいは、そこにある風景をどう切り取るかという点で違いが出てくるのよ……そういう意味で、麻里絵には才能がある……と私は思うのよね」
冴子は一旦言葉を切り、ちょっと笑った。
「みんなに受ける受けないは別にして」
「確かに……マンホールのアップ写真とか、ゴミ箱の中の写真を見て喜ぶ人間がごろごろいるとは思えないッス」
半分冗談、半分本気で呟いた尚斗に向かって、冴子は呟くように囁いた。
「……とまあ、私から見た麻里絵を抽象的に表現するとそんな感じなんだけど、それってキミの中の麻里絵と一致する?」
冴子は、ん?と首を傾げながら言葉を続けた。
「先週の土曜日、保健室にやってきた麻里絵は私の中の麻里絵像からちょっとはみ出しちゃってね」
「言いませんでしたっけ?俺、麻里絵とは5年ぶりに再会したんです」
「……5年前の麻里絵ちゃんはああいう感じだったと?」
冴子は妖しく微笑み、指でちょうどカメラと同じ大きさぐらいの四角いフレームを作ってそこから尚斗をのぞきこんだ。
「俺から話す事じゃないですよ」
「……なるほど」
冴子はちょっとため息をついた。
「……今度は俺から質問いいですか?」
「どうぞ」
「冴子先輩は、何故それを俺に言います?」
「キミに興味があるから」
尚斗はちょっと言葉に詰まり、それでもすぐに冴子の言葉の意味に気がついた。
「……それは、写真のモデルになれと?」
「ええ、暇な時だけでいいけど」
「まあ、暇なときなら……って、その意外そうな表情は何ですか?」
「だって……普通、この会話の流れで私の写真のモデルになってもいいという反応が返ってくるとは思わなくて」
冴子はちょっと目を閉じて不思議そうに呟いた。
「……普通、屈折してる人間は自分を隠そうとするんだけど」
「人間って、他人にはわからない理由で屈折するモンじゃないですかね?他人にわかる屈折は、屈折じゃないと思いますよ」
冴子は目を開いて尚斗の視線を受け止め、そしてちょっと笑った。
「……残り3週間じゃ、キミの写真は撮れないかもね」
「……と言うわけだ。後、演劇部の年間予算とか活動報告のコピーはこれだ」
「……なるほど」
じょにーの調査報告を聞き終え、尚斗は重々しく頷いた。
「仕事にご満足いただけたかな?」
「ただ一言、素晴らしいと言わせてもらうよ、じょにー」
「これからいい関係でありたいモノだな」
そう言い残して宮坂が背を向けながらポケットに手を入れる……と、一瞬動きを止め、ポケットからチョコパンを取りだして呟く。
「……いつの間に」
「ボーナスだ」
「……ふっ」
宮坂は口元にニヒルな笑みを浮かべて立ち去った。
「……有崎」
「ん?」
「すっかり忘れていたが、例の…試験の資料コピーだ」
青山が言葉通り本当に忘れていたかどうかはともかく、尚斗自身は青山にいわれるまですっかり忘れていた。
「そっか、来週だったな…」
2学期の中間と期末の試験問題をぱらぱらとめくりながら呟く。
「で……どんな感じですかな、青山先生」
「難しいな。正直、男子連中がここのテストで何点取れるかちょっと予想がつかない」
「……理系は、そうレベルが違うって事もなさそうだが」
「……2人とも、真面目に試験受けたりする事は考えないの?」
ちょっと微妙な表情で、紗智が2人の間に割って入った。
「俺らはいたって真面目だが?」
「や、そうじゃなくて……なんて言うか」
「こういうのは聞いていて不愉快か、一ノ瀬」
紗智はちょっと笑い、机の上の資料に視線を落とした。
「成績が上がった下がったで一喜一憂する親を持つと……まあ、正直なところ羨ましいわね」
「別に、俺の親が成績に無頓着だったって事でもないんだが……」
尚斗の口調は弁解気味……と言うよりは紗智をなだめるためのモノで、紗智もまたそれに気付いたらしくちょっと笑った。
「腕白でもいい…の教育方針だったんでしょ?」
「いや……『育って欲しい』という希望じゃなくて、『育たなきゃいけない』という強制だったからな、あの母親は」
尚斗が苦笑混じりに呟くと、紗智は同意するようにしんみりと頷いた。
「……それはそれでつらそうね」
「小学校の頃、高校生ぐらいの連中に殴られて家に帰ってきたときも、『勝つまで帰ってくるな』って家から閉め出されたもんな……今思えば酷い話というか」
それまで黙ったまま紗智と尚斗の会話を聞いていた青山が口を挟んだ。
「……小学生が高校生ぐらいの連中に殴られるというのも妙な話だな?」
「電車の中で妙なのが女の人に絡んでてな……見て見ぬ振りの周囲に、無謀にもどうにかしようと思ったガキがいただけの話」
「……何か、後悔してるような口調だけど」
と、紗智。
「まあ、勝てなきゃ意味がないというか……できるだけケンカはしない、でもやるなら必ず勝て……という事を母さんも言いたかったんだと」
そう言って尚斗は頭をかいた。
「……尚斗。ちなみにお父さんの教育方針は?」
「親の老後の面倒を見ることができるぐらいの甲斐性を持て……だと」
紗智はちょっと興味を持ったように頷いた。
「……ちょっと会ってみたいかも、尚斗のお父さん」
「……週明けには試験があります。土、日と努力を怠ることのないよう……」
HRでの綺羅の言葉はいつも簡潔で、無闇に長くなったりしないことに関して尚斗は無条件の好意を抱いている。
「では、ごきげんよう…」
綺羅が頭を下げ、静かに教室を出ていく。
「……何か、土曜日が休みであるかのような言いぐさじゃなかったか?」
肩を叩く……と、青山がくるりと振り返った。
「ん、明日は休みだぞ?この学校は月の最終土曜日は休み……俗に言う、部分的週休二日制だからだな」
「初耳だが……って、麻里絵はいないんだって」
尚斗は視線を右から左へと動かした。
「安寿、明日休みって本当か?」
「私に聞かれましても〜♪」
「そりゃそうだ……えーと、紗智」
「本当だけど」
その瞬間、尚斗は立ち上がり、教室から飛び出しかけていた男子連中に声をかけた。
「男子!明日学校休みだってよ、間違って登校してくるなよ」
「なにっ!?」「ラッキー!」「綺羅先生と会えないのかっ!?」
などと教室のあちこちで男子連中の声が挙がった事から察するに、少なくともこのクラスの男子連中は青山を除いて1人も知らなかったに違いない。
おそらく綺羅にとっては当たり前の感覚すぎて、伝える事すら思いつかなかったのだろう……が。
「青山、そういう情報はもっと早くだな……お前が教えてくれなきゃ、俺だって明日呑気に登校してたぞ」
「知らない奴が悪い」
「それはそーだが…」
「藤本先生の話を聞いて、有崎は疑問を感じたわけだ。結果、明日が休みという情報を得ることができたワケで……それに対して疑問を感じなかった奴らは、それだけの代償を払うのが当然と言えば当然だろう?」
「青山先生の仰るとおりではあるんだが……」
「有崎に聞かれて素直に教えた俺は、むしろ親切だと思うが…」
そう言って青山はにやりと笑った。
多分、何も知らずに学校にやってくる男子連中を想像して先の尖った黒い尻尾をぶんぶんと振りまくっていたに違いない。
「確かに……とりあえず、礼は言う」
「あの〜」
「ん、どうかしたか、安寿?」
「学校がお休みだと、幸せなんでしょうか?」
尚斗は青山と顔を見合わせた。
「……深いな」
「えーと……それについては、人それぞれとしか答えようがない」
「……そうですか」
何故か残念そうに、安寿が肩を落とす。
「ところで安寿」
「はい?」
「こう、なんというか……『幸せさがし』のアンケートの進みはどうかね?」
「……みなさん、奇妙な表情を浮かべて私の側から離れていくんです〜」
「まあ、それがごく標準的な反応だろうな」
「青山先生、もう少し言葉を選ぼうな」
すん、と安寿は鼻をすすり上げ、尚斗の頭を指さしながら言った。
「……やっぱり、真面目に答えてくれる有崎さんが変わってるんですね」
「安寿も。人の頭を指さしながらそういう発言をしないように」
「……ついに降り出しやがったか」
今朝の天気予報では、今夜から明日の朝にかけて平野部でも積雪の恐れがある……などと言ってたが、日本の天気予報の未来は安泰のようだ。
持っている傘を広げるでもなく、尚斗は空を見上げて暗く沈んだ灰色の空から小さな白い粒がぽつりぽつりと舞いおりてくるのを見つめ、雪の落下速度は桜の花びらの落下速度とほぼ同じのせいか、雪の散る様は花に例えられることが多い……てな事を書いてあったのは何の本だったかなどと思いを巡らせかけ、慌てて首を振った。
いつまでも空を見上げたまま、自分の家と麻里絵の家との分かれ道でずっと立ち止まっているわけにもいかない。
「……さて」
麻里絵の家に向かって歩き出そうとした瞬間、尚斗はそこに紗智の姿を認めた。
「……紗智」
「即断即決タイプかと思ったけど、そうでもないのね…」
あるかなきかの笑みを浮かべて、紗智が呟く。
ちょっと寒そうに自分の腕を抱く紗智の頬と鼻の先が赤い……おそらく、ずっとそうして待っていたのだろう。
「……つーか、昨日の今日で、俺からかける言葉がなくて正直困ってた」
尚斗はそう呟き、照れ隠しのように頭をかいた。
「……どうせ聞いてたんだろで、昨日」
「まあね」
悪びれもせず、紗智が頷く。
「で、何の用だ?」
「言わなかったっけ?食べ物の恩には義理堅いって…」
紗智は一旦言葉を切り、尚斗の目をじっと見つめながら言葉を重ねた。
「……いい仕事するわよ、私」
「本気でそう思ってるなら帰れ」
紗智がふっと口元に笑みを浮かべる。
「……私、麻里絵に言わなきゃいけないことがあるから」
「……麻里絵は、いい友達を持ったって事なのかな?」
「……」
困ったとも哀しいともちょっと違う表情……強いて言うなら、何かを耐えているような表情を浮かべて紗智は空を見上げた。
「雪ってさ…」
「ん?」
「見た目綺麗だけど、元になるのは空気中の塵や埃なんだよね……」
「……」
「まわりにいくら綺麗なモノをくっつけても、ゴミはゴミだよね」
コンコン。
「……」
コンコンコンコンコンコンコンコン……
「開いてますっ!」
「だったら、返事ぐらいするっ!」
ドアを開け、紗智はベッドの上で上体を起こした麻里絵に向かって口を尖らせた。
「……何しに来たの?」
「ま、お見舞いというか何というか…」
微かに滲んだ麻里絵の拒絶を気にかけることなく、紗智はクッションの上に腰を下ろして麻里絵を見た。
「私がやったこと……迷惑だったのかな?」
「……何が?」
「みちろーのね、背中を押したこと」
軽い口調とは裏腹の紗智の真摯な視線を受け止め、麻里絵はあるかなきかの笑みを浮かべた。
「みちろーくんが好きで私に近づいてきた紗智が、何でそれをしたのか……ずっと不思議だった」
「……」
麻里絵はちょっと首を傾げた。
「……怒らないの?」
「怒るって……何を?」
「今、酷いこと言ったよ、私…」
紗智はちょっと笑った。
「麻里絵の言うとおりだもん……私、みちろーが好きだったから麻里絵に近づいたの」
「だったら…」
何か言いたげな麻里絵を、紗智の言葉が遮った。
「成績、運動……私のどこが麻里絵に劣るのかな……なんて、最初の頃はもっと酷いことを考えてたんだけど?」
「……仕方ないよね、それは」
あっさりとした麻里絵の言葉を聞いて、紗智は居心地悪そうにおさまりの悪い前髪をちょっとかきあげた。
「紗智だけだったね……私とみちろーくんがお似合いのカップルだって言ってくれたの」
「やめようよ、麻里絵」
「……何を?」
「こんな、お互いの腹を探り合うような会話はやめようよ」
「じゃあ……中学のみんなみたいに、私のことが気に入らないくせに見た目だけはにこやかに笑って楽しげな会話を交わしたりしたいの?」
「私はっ」
「……ごめん、紗智はそうじゃなかったよね」
ただ正直に思ったことを口にしたとも皮肉とも受け取れる口調。しかし、その口調や言葉よりも、紗智は麻里絵の中の荒廃に触れた気がして息を呑んだ。
「……信じてもらえないかも知れないけど、私は麻里絵のこと好きだよ」
「どうして?」
「ねえ、それって理由が必要なの?」
「……理由がわかれば、ちょっとだけ安心できるから」
あるかなきかの笑みを浮かべたまま、麻里絵は視線をあらぬ方向に泳がせた。
「麻里絵、昔のみちろーと同じ目をしてる…」
「……」
「それとも……私が、気付かなかっただけかな?」
短い沈黙を破って、麻里絵が口を開いた。
「みちろーくん……中学1年の秋にね、『俺、捨てられるんだ…』って言ったよ」
「…え?」
「……おじさんとおばさんを仲直りさせるためだったのかな。勉強やサッカーを頑張って……でも、どうにもならなくて」
「……」
「何か信じられるものが欲しかったんだと思う。崩れたり、壊れたりしない確かなモノが……それがあったんだよ、私とみちろーくんには」
「……麻里絵」
「私のせいでっ」
感情がそのまま言葉と化したように。
「尚兄ちゃんいなかったっ!私のせいで尚兄ちゃん私達に会いに来てくれなくなったからっ!」
「……」
「みちろーくん助けなきゃって思っても、私ができる事なんてほとんどなくてっ!」
「違うっ!」
「…」
「麻里絵とつきあい始めて……みちろーは癒されてたよ。荒んでた目がね、ちゃんと柔らかくなっていったもん。私、ずっとみちろーの事見てたから……麻里絵は、みちろーをちゃんと助けた」
麻里絵はゆっくりと首を回し、どこか遠くを見るような視線を紗智に向けた。
「……だから、なの?」
「え…?」
「だから、私とみちろーくんをつき合わせようとしたの?」
軽い逡巡の後、紗智は麻里絵の視線から顔を背けて小さく頷いた。
「そうよ……」
時計の音が耳障りに案じるほどの沈黙がしばらく続いた。
「……紗智」
「…何?」
「今日……何しに来たの?」
「……そんな資格ないかも知れないけど……麻里絵と、友達になりたいと思って」
「それって、今までは友達じゃなかったって事だよね?」
「……私、麻里絵を利用しようとして近づいたから」
「……」
「きっかけはどうでもいい……なんて言う人がいるけど、私はそんなの認めない」
「……紗智に酷いコトされた記憶はないけどね」
紗智はおそるおそる麻里絵を見た。
あるかなきかの笑み……それは、中学の頃麻里絵がいつも浮かべていた表情。心を閉ざすことで他人の悪意を受け流す、麻里絵なりの処世術なのか。
中学生活で得たモノがそれだけだったとしたら……それは哀しすぎた。
紗智は重い荷物を投げ下ろすように呟いた。
「昨日、みちろーに振られてきた」
「……え?」
「とにかく、決着もつけずに曖昧にしてきた恋はちゃんと終わらせた」
「……」
「麻里絵に話さなきゃいけないことも話したつもり」
「……」
「図々しいことはわかってるんだけどさ……私と麻里絵の関係って、新しく始めたりできないかな?」
紗智を見て、麻里絵がちょっとだけ笑った。
「……自分だけの都合しか考えてないよね、それって」
「友達になってからならともかく、これから友達になろうって相手に何の負い目も持ちたくないし、有利になろうとも思わないもん」
「……友達、多いじゃない」
「いない……って言っちゃうと角が立つけどね。私が今求めてる『友達』って意味的には1人もいない」
「紗智の言ってること、良くわからないよ…」
「私と麻里絵は違う人間なんだから……言ってること、考えてること、全部が全部わかるはずがないじゃない」
何か不思議なモノを見るような目で、麻里絵が紗智を見た。
「紗智は、それでいいの?」
「え?」
「誰も、自分のことを完全にわかってくれないんだよ?」
「……麻里絵の世界って、狭すぎるのかな」
「……?」
「麻里絵の世界には、尚斗とみちろーだけしかいなかったの?あの2人は、麻里絵にとって多分特別……自分の事を多少なりともわかってくれる人なんて滅多にいないんだよ」
「そう……なの?」
「私、みちろーのこと好きだった……でも、みちろーのことをわかってるってわけじゃなかったよ」
「……」
「麻里絵に近づいてちょっとびっくりした……不純な動機で近づいたことを後悔もした。私、麻里絵との出会いをもっと大事にしたかったよ…」
「……紗智」
「私、真っ白な気持ちで麻里絵に出会いたかった……だから今日、ここに来たの」
沈黙を経て、麻里絵が口を開く。
「紗智もいたよ…」
ぽつりと呟かれた言葉には、ちょっと違った響きがあった。
「え…」
「私の世界に…紗智もいたよ」
「……」
「紗智のこと……全部じゃないけど少し理解できたから側にいても安心できた」
ほんの少しだけ、紗智は麻里絵の心の中を覗いたような気がした。
理解できないモノ、知らないモノに恐怖する……おそらくは麻里絵の性格の根っこの部分にそれがある。方向音痴も、おそらくは方向がわからないのではなく知らない場所を歩けないだけなのか。
「……」
「……何で黙ってるの、紗智?」
「いや、私が麻里絵にお願いしたんだけど……返事はもらえないのかなって」
「……みちろーくんのお母さんと私のお母さんが友達で」
「…は?」
「みちろーくん、お母さんに頼まれたからって言って私と遊んでくれた……だから、恐かったけど私ちょっとだけ外に出てみた」
「……」
「……理由はわからないけど、いきなり通りがかりの男の子達に虐められそうになって」
「尚斗が助けてくれた……と」
麻里絵が笑った。
「誰もいなかった私の世界の中に飛び込んできて、色々見せてくれた……びっくりしたし、恐かったけど、嬉しかった」
「……」
「紗智も、一緒かな…」
「え…」
麻里絵はベッドから降り、きゅっと紗智の身体を抱きしめた。
「……どうして、私なんかにこんなに優しくしてくれるかなあ」
「『なんか』はやめて」
「みちろーくんと尚斗くんに見捨てられたもん…」
「……見捨てられてないってば」
「……」
「尚斗は……自分だけの世界に閉じこもろうとしてた麻里絵を、外の世界に引っ張り出そうとしただけだと思う。あの言葉は、多分そうだと思うよ」
「……紗智」
「ん?」
「……何で知ってるの」
「……」
「私、紗智の盗み聞きの癖は嫌い…」
「あ、あはは…」
麻里絵は紗智の肩に額をつけ、ぽつりと呟いた。
「……みちろーくんとつき合う前の自分に戻りたかったんだよ」
「……」
「……怒らないの?」
「こうして麻里絵に会いに来た私が怒るわけにも……それに、みちろーが言ってたよ……麻里絵には感謝してるって」
「……やっぱりばれちゃってたんだね」
そう言って、麻里絵はちょっとだけ泣いた。
完
……やり過ぎか。(笑)
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