「尚斗」
「…ん?」
 紗智と尚斗、二人して帰りの電車に揺られながら。
「なんか難しい顔してるけど……」
「ん、帰ってからちょっとやらなきゃいけないことがあるしな…」
「夕飯の支度とか」
 紗智が、いつもの力の抜けた笑みを浮かべて。
「まあ、それはいつものこと……と言っても、明日から月曜まで親父が出張だからな、ちょっと頑張って作ってやろうかという気持ちはある」
「……へえ」
 紗智は曖昧な返事をし、流れていく窓の外の景色に目を向けた。
「……ちょっと、聞いていいかな?」
「内容による」
「尚斗の携帯……世羽子って珍しい名前だし、秋谷さんなのかな?」
「……ああ」
 紗智は、こきっと首を鳴らしてから呟いた。
「麻里絵のは最近登録されたっぽいし……」
「いいから、ズバッと聞け」
「以前つき合ってた……?」
 ちょっと不安そうな問いかけに対し、尚斗は小さく頷いた。
「接点が見つからないんだけど?」
「中学が同じでね……世羽子は、3年からあの学校に中途編入」
「ああ、頭いいもんね、秋谷さん…」
「紗智も、上の下なんだろ?」
「上の下と上の上は全然違うから……」
「麻里絵は、下の中と聞いたが」
「あの学校に合格したって報告した瞬間、担任の先生が口を開けたまま固まったからね」
 その時の光景を思い出したのか、紗智はくすくすと笑いながら言った。
「しかしあの学校って、寄付金とか授業料とか高いんだろ?」
「んー、入り口と出口がべらぼうに高いってとこね」
「…?」
「幼稚舎と小学校、それと大学。成績のいい庶民は、偏差値の高い大学に合格してブランド性を高めるワケ……いわゆる、幼稚舎から大学までストレートの人間がハイグレードお嬢様ね……くふふ」
「なんだ、その妙な笑いは」
「だって……男の免疫ないから、次々と転ぶのよ」
「転ぶ…?」
「ぼーいずらぶの世かっ…」
「お、ま、え、がっ、転ばしてるんだろ」
 額を押さえ、紗智は涙目で尚斗を睨んだ。
「尚斗のでこぴんって、何でそんなに効くのよ?」
「……中学の頃、『一発ずつ交互に撃ちあって額から血を出したら負け』というルールがあってな」
「……馬鹿じゃないの?」
「ちなみに俺はランキング2位だ」
「……1位は?」
「青山に決まってるだろ」
 紗智はちょっと首を傾げた。
「血が出るのと、痛いのはちょっと違うような……」
「……元々は『泣いたら負け』のルールだったんだが、青山のでこピンで失神した奴が出てな、ルール改正されたんだ」
「またまた。でこピンで失神なんてするはずが……」
「……」
「……させちゃうのね、青山君は」
 尚斗が重々しく頷いた。
「俺も3発目を食らった瞬間、マジで気が遠くなったからな……もう、音からして違うんだあいつのは。俺のは精々『びしっ』だけど、青山のは『どむっ』って感じだし」
「……でこピンの打撃音じゃないわね」
『次は……駅…駅、お降りの方は……』
「お、着いたか……」
「……そうね、ちょっと残念」
「まあ、目的はともかくちょっとした旅行みたいなもんだったしな」
 そう言って出口に近づいた尚斗の背中に、紗智がぽつりと呟いた。
「……そうね」
 
「……くぁ」
 駅前の広場で、尚斗はぐうっと背伸びをした。
 見ると、西の空が赤く染まり始めている……ちょうど学校から帰るぐらいの時間だったのが妙な感覚を呼び起こしそうだ。
「さて、と…」
「尚斗、一旦帰るの?」
「帰ると言えば帰るし、帰らないと言えば帰らないな」
「何それ?」
 紗智が首をひねる。
「……家のある方角に行くって事だ」
「じゃ、途中まで一緒に…いい?」
「そりゃかまわんが、紗智の家ってどのあたり?」
「女の子の住所を気軽に聞かない」
「……日曜日の朝、自分はずかずか人ん家にやってきたくせに」
 ちょっとムッとした表情を紗智が浮かべた。
「……細かいこと気にする男は嫌い」
「貸した金、返せ」
「オッス、どこまでもついていきます、有崎先輩」
 ビシッとした礼をし、紗智はぽつりと呟いた。
「……お弁当と、おソバは奢りよね?」
「食いモンの金はな……切符代で立て替えた分だけでいい」
 紗智は嬉しそうに手を叩いた。
「言ってみるもんねえ…」
「食いモンの金で貸し借りはしない主義だ」
「はっ、ゴチになります」
「……最初から奢らせる気満々だったじゃないかよ」
「心配しないで。私、食べ物の恩には義理堅い方だから」
 紗智はぽんぽんと尚斗の背中を叩いて歩き出した。尚斗は仕方なくそれを追う。
「しかし……尚斗もやるわね」
「何が?」
「いや、秋谷さんってこう、ちょっと大人びた美人じゃない……髪型がちょっと変わってるのも、何となくミステリアスな感じがするし」
「……昔は、ただのロングだったんだがな」
 今はショートボブとロングを合体させたような……後ろ髪の一房だけが腰に届くほど長い。
「……変わってるわね」
「何が?」
「いや、普通昔の彼女の話とかされたらイヤじゃない?」
「中学の時、散々聞かれたからな……慣れたよ」
「そっか……ゴメン、無神経な真似して」
 紗智は子供がするように腰の後ろで手を組み、人形のような仕草で歩き始めた。
「空手の稽古でね、手を後ろに組んだままスクワットの要領で左右両脚の前蹴上げを100本とかやるのよ……」
「ほう?」
「100本蹴り上げる間にバランスを崩さないようになったら黒帯が取れる……って言われてるんだけどね」
「……確かに難しそうだな」
「大抵の人は、『簡単そう…』って言うんだけどね……よっと」
 紗智の右足が空気を切り裂いた。
「ジーンズだと、つらそうだな」
「……何か、格闘技やってるの?」
「いや、基本はケンカで……青山にいろいろと基礎を教えて貰っただけ」
「ふーん…」
「ところで紗智、お前本当にこっちの方向でいいのか?」
「……」
 紗智はちょっとため息をつき、尚斗の方を振り返った。
「ま、用事があるみたいだからここらで勘弁してあげる…」
「……悪いな、気を遣わせて」
「じゃ、また明日」
「ああ、じゃあな…」
 
 紗智と別れてからしばらく進み、尚斗は電柱によりかかった。
 麻里絵がここを通るという保証はもちろんない……その時は、呼び出せばいいだけの話だった。
 みちろーと話をしている間にぼんやりと浮かんだ思考が、紗智との会話でしっかりと形を持った。あんまり誉められた手段ではないと思うし、単に空回りする可能性だってある……それでも、やろうと思っていた。
 麻里絵に恨まれようが、泣かれようが、呆れられようが……結局は自分が納得するための、自分勝手な行動に過ぎないのだから。
 少なくとも、喜ばれることだけはない……それだけははっきりしている。
 ただ、麻里絵の時間を動かすきっかけにさえなればいいと思う。
 最初、麻里絵は尚斗の知らない表情を見せてくれた……が、次の日、その次の日と時間が経つにつれ、どんどん昔のままのちび麻里へと戻っていった。
 意識的にしろ、無意識にしろ……こだわっているのだろう。
 随分と遅れたが、決着をつけよう……麻里絵のためにではなく、あの時ただ逃げ出した自分の心の決着を。
「……ちょっとばかし、みちろーに毒されてるな」
 なんだか偉そうなことを考えている自分を嘲笑うように呟いてみた。
 所詮は、ガキの頃の馬鹿が恥ずかしくて子供の自分がじたばたとあがこうとしているだけ……青山ならそう言うだろうし、それで良い。
 しばらく待った。
「……よう」
 俯いたままとぼとぼと歩いていた人影が、ふっと顔を上げた。
「……尚兄ちゃん」
「待ってたよ」
「待ってた……って、ここで?いつから?」
「……ついさっき」
 そう呟いて、尚斗は電柱から離れた。
「最初に謝る」
「……何を?」
「5年前のアレな……聞こえてた」
「……わかってたよ。あの時……尚兄ちゃん、ほんのちょっとだけ足を止めたもん」
 ぽつりと、目を伏せたまま麻里絵が囁くように呟いた。
「言い訳になるが……あの頃、俺はどうしようもないガキだった、麻里絵の方がずっと大人だったよ」
「……」
「麻里絵の言葉の…意味が分からなかった」
「……今は、わかるの?」
「多少は」
 それを聞いて麻里絵がちょっとだけ笑った。
「……ちょっとなんだ」
「でも、ちょっとでもわかるようになったって事は……俺は、5年前の俺とは違うって事だ」
「……そうかな?」
「5年前の麻里絵が好きだって言ってくれた俺は幻みたいなモノで……」
「違うよっ!尚兄ちゃん変わってないもん……だって私、すぐにわかった…あ、尚兄ちゃんがいるって…」
「麻里絵……お前は5年前のままじゃないだろう?」
「……」
「俺は、5年前は世羽子と知り合ってもいなかった」
「……でも」
「とりあえず、遅くなったけど5年前の麻里絵に返事するつもりで待ってた」
「今さら聞きたくない、そんな返事」
「お前はいつも俺やみちろーの後をついてきて、危なっかしくて、守ってあげなきゃいけない妹みたいな…」
「聞きたくないってば!」
「……好きとか嫌いとか、恋愛感情を抱く対象じゃなかったよ」
 ぱんっ。
 麻里絵の右手が、尚斗の左頬を叩いた。
「これだけは言っとく。お前があの頃のお前であろうとし続ける限り、お前はいつまで経っても妹のような存在で、恋愛感情を抱く対象にはなり得ない」
 ぱちんっ、ぱちんっ…。
 泣きながら、麻里絵が何度も何度も尚斗の頬を叩く。
「……言わないもんっ」
「……」
「尚兄ちゃんはそんな酷いこと言わないもんっ!」
「……ちび麻里は、誰かを叩いたりするような奴じゃなかったな」
 頬を叩かれながら、努めて冷静に、残酷な口調で。
「尚兄ちゃんはっ、優しくて、危ないときは助けてくれて…優しくて…格好良くて…」
 ぺちぺちと撫でるように頬を叩かれながら、幼なじみを失うのかもしれないなと尚斗は思っていた……。
 
「……尚斗」
「聞くな」
「その頬は…」
「だから聞くなって」
 赤くまんべんなく腫れ上がった頬にもう一度だけ視線を向け、尚斗の父は小さくため息をついた。
「ま、刺されなきゃいい」
「さらっと恐いこと言うなよ親父」
 父は箸をおき、服の袖をまくり上げて左肘を尚斗に見せた。
「これ、新婚直後に母さんに刺された傷」
「うわお…」
「しかも、全くの誤解」
「……まあ、死人に口なしだからな」
「尚斗はマザコンか…」
「息子がファザコンでどうする」
 父はしばらく考え、ぽつりと呟いた。
「それもそうだな…」
『……明日の夜は低気圧の通過に伴い強い寒気が流れ込み……』
 テレビの天気予報が、この週末に天気が崩れることを告げていた。
「……また天気が悪いのか」
 先週と違って、今週は雪になるとかならないとか。
「親父の出張先は…?」
「……大雪などと言ってるな」
「帰ってこられるのか?」
「……冬はいつか終わるから大丈夫だ」
「季節単位の発言をするなよ…」
 
 
                   完
 
 
 さあ、やっと麻里絵のプロローグが終了だ。(笑)
 この話、是非が分かれるんでしょうね……分かれるほど、読み手がいないという説もあるが。

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