朝食の最中、箸を休めることなく尚斗の父が口を開いた。
「尚斗」
「ん?」
「明後日の金曜から出張で家を空ける……帰ってくるのは月曜だ」
「また、突然だな…」
反射的に尚斗は呟く。
「あーそれともう一つ」
父は箸をおき、軽く咳払いしてから切り出した。
「今月は新年会なんかで物入りだったせいか……その、足りん」
「……今月の分は、新年会なんかの分を含めていつもの月の5割増しで渡したはずだが?」
牽制の左ジャブにいきなり右クロスを合わされたボクサーのような表情を浮かべたが、気を取り直して父はもう一度言った。
「足りんモノは足りん」
「へそくりでも使えよ、俺は知らん」
「へそくりなどない」
「ほう……なら、あれは落とし物か」
「思わせぶりなことを言うな尚斗」
「親父の本棚にある某文学全集の…」
「……母さん、息子が儂を虐めるよ」
「母さんなら問答無用で抜き取ってる……精々、夕飯で出前の寿司を取るぐらいだろ」
父は気まずそうにみそ汁を飲んだ。
「……前から不思議だったんだが、母さんといい、お前といい、どうしてわかる?」
「家の中を掃除するってことは、細部まで目を届かせるって事だからさ」
「……ごちそうさん」
肩を落とし、父は新聞を片手にトイレに向かう。
「ったく、親父は金銭感覚ねえよな……ま、出張先で羽を伸ばす金もないのは惨めだろうし…」
尚斗は頭をかきながら立ち上がて父の部屋にいき、財布に札を足してやった。
「おはよー、尚斗君」
今まさに校門を通り抜けようとしたその時に、キンキンと耳を揺さぶる声をかけられて振り返った。
「……おはよう、香神さん」
温子はちょっと首を傾げ、言い直した。
「おはよー、有崎君」
「……好意的な反応を期待しないように」
「んー、失神させちゃったのは悪かったけど……仕方なかったの」
「アレに関しては認めよう……が、闇討ちはやめろ」
「ギターの子が抜けちゃったの……だから、練習ができなくて」
「……抜けたって?」
「いろいろあって……今は、ドラム、ベース、ヴォーカルの3人」
「ヴォーカルの弥生にギター弾かせたら…?」
「知らないからそんなこと言えるのっ!」
温子はぐっと手を握りしめた。
「もう、弥生ちゃんのギターは何がすごいって……」
温子がいきなり口を閉ざす。
「……なかなかいい勘をしてるな、香神さん」
「あはは、じゃあね…」
温子は足早にその場を立ち去った。
そして、入れ替わるように弥生が現れる。
「……温子が私の悪口を言ってた気がする」
「推測でモノをいうのはやめよう」
「や、確信だから」
「……ふむ」
尚斗は顎のあたりを指先でひっかきつつ呟いた。
「弥生は、ギターとか弾けないのか?」
「弾けるわよ」
あっさりと。
「ほう……ギターが抜けて大変とか聞いたが、だったら問題なさそうだな」
弥生が小さくため息をついた。
「……温子ってば、おしゃべりなんだから。あれで、成績はびっくりするほど良かったりするのよねえ…」
「……それはちょっと意外だ」
失礼とは思いつつ、尚斗はそう口にしていた。
あの待ち伏せの件から察するに、あまり頭の回転はよろしくないタイプだと思っていたのだが。
「温子、中途編入だから……って言われてもわかんないよね」
「わかるよ……ブランドイメージ保護のために近隣の学校の成績優秀者を特待生扱いで引っ張ってくるんだろ」
幼稚舎から大学までの一貫教育のお嬢様学校……だけでは生徒を集め続けることは困難である。有名大学等の進学実績を残し、質の高い教育を行ってます……と、保護者に訴えるための戦略の1つといってしまえばそれまでだが。
「……詳しいのね」
「中学の時、知り合いが1人それで引っ張られたからな…」
「……そっか」
弥生はぽつりと呟き、空を見上げた。
「そういう事か…」
「何を1人で納得してる?」
「いや、世羽子と有崎は中学が同じだったのかなって……家も近いしね」
ふと、頭にひらめいた考え……それを尚斗は口にした。
「弥生……お前ひょっとして、世羽子の所にいるのか?」
「ぴんぽーん……って、ホントに察しがいいわね」
教室に尚斗がやってくると、何が楽しいのか麻里絵がにこにこと微笑みながら口を開いた。
「おはよう、尚斗君」
「おっす、麻里絵……って、1つ聞いていいか?」
「な、何、あらたまって?」
「ここの購買って、チョコパン売ってるか?」
2秒ほどの沈黙があった。
麻里絵は麻里絵なりに、尚斗の言葉の裏を理解しようとしたのかも知れない。
「う、売ってると思う…けど?」
この返事で良かったのかな…と、不安そうに尚斗を見上げてくる。
「ふむ…かもん、じょにー」
尚斗は小さく頷き、左手を挙げて指を鳴らした。
その瞬間、口元にニヒルな笑みを浮かべた宮坂が音もなく現れる。
「ふ、お前の呼び出しを受けるとはな…」
「頼みがある」
「おいおい、日本語はちゃんと使おうぜ……頼みじゃなくて、仕事だろ?しーごーと」
尚斗と宮坂のやりとりについていけなかったのか、麻里絵が困ったように青山に話し掛けていた。
「青山君……男子校で、ああいう遊びが流行ってるの?」
「椎名、人に聞く前にまず自分で考えてみろ……流行ると思うか?」
麻里絵はふるふると首を振った。
「……で、仕事の内容だが、じょにー」
「何だ?」
「ここ2年ほどの演劇部の活動内容を詳しく……できるなら、夏樹さんとちびっこの関係や立場も含めて聞き込みをしてくれ」
「……10個だな」
「いいぜ、言い値で払うよ」
宮坂はちょっと驚いた表情を浮かべ、そして言った。
「5個でいい」
「……仕事だろ?」
宮坂は何も言わず、ただニヒルな笑みを浮かべて教室から出ていった。
「じょにー……いい奴だよ、お前は」
などと呟く尚斗の背後で、麻里絵がこめかみを押さえながら呟いた。
「……男の子って一体…」
「椎名、男の子ってカテゴリーで括るのはやめてくれ…」
「おばさん、チョコパン5個下さい」
「はーい…」
と、尚斗にチョコパンの入った袋を手渡しながら、売店のおばさんが首をひねった。
「最近、チョコパンがやたらと売れるんだけど……何かあるのかい?」
「……はい?」
「さっきも、ちっちゃい女の子が5個ぐらい買っていってね……って、その子の場合は、今週に入ってから毎日なんだけど」
考えてみれば、『奴に頼めば、チョコパン1個で大概の情報は手に入る…』ってな事を口走った気がする。
「……ちっちゃい女の子ですか」
「うん、ちっちゃいちっちゃい…もう、このぐらい」
売店のおばさんは随分ノリのいい人らしく、右手の親指と人差し指で10センチほどの感覚を示して見せた。
「……本人の前では絶対に口にしない方が良いと思います」
尚斗は曖昧な表情を浮かべながらそう応え、売店を後にして教室へと戻った。
「しかし、宮坂まで駆り出すとは……緊急を要するお節介か?」
チョコパンを抱えて戻ってきた尚斗を見て、青山がため息混じりに呟く。
「お節介に限定するな」
「じゃあ、お節介じゃないのか?」
「放っておくと気分が悪い……そんな思いはしたくない……だから、俺の行為はただの自己満足で、誰かに感謝されようとも思わないし、感謝されるいわれもない」
「……はいはい」
何かを諦めたように呟いた青山の向こうで、世羽子がじっとこっちを見ている事に気が付いた。おそらくは世羽子も尚斗が気付いた事を知った筈なのに、いつもと違って視線を逸らさない。
「おっす…」
尚斗の挨拶には応えず、世羽子は尚斗の顔を見つめたまま、唇を躊躇いがちに開いた。
「……相手が」
「……?」
「お節介された相手はもちろん、まわりの人間が必ずしもそう受け取らないって事を認識した方がいいわね」
そう言って、世羽子はふいっと視線を逸らした。
「……秋谷に賛成」
「いや、賛成と言われても…」
キーンコーンカーンコーン…
2時限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
「……ふむ、真面目に授業を受けたのが久しぶりのような」
背伸びをしながら思わずそう呟いてしまう尚斗だが、実際はやっと3時限目が終わったところだった。
ちなみに、じょにーは朝から教室に戻ってきていない。
「……尚斗君」
「どうした麻里絵、不機嫌そうな声を出して」
「いつもと同じです」
めちゃめちゃ不機嫌じゃないか、という言葉をのみ込み、尚斗は麻里絵の言葉の続きを促した。
「で?」
「お客様が来てるよ……1年生の、可愛い子」
『可愛い』という言葉を強調し、麻里絵は自分の席にどすんと音をたてて座った。
「へいへい…」
立ち上がりながら、尚斗は頭の中で1年生の知り合いを順番にピックアップ……
「……二者択一じゃん」
結花か御子……どちらも、『可愛い』という基準は軽くクリアする。
いつもの結花なら平気で教室に乗り込んできそうだが、昨日の件があるから一応本命は御子、穴で結花というところか……などと考えながら教室の外に出た。
「……万馬券か」
「……意味は分からないけど、何か失礼な響きがする」
「単に、誰が来たんだろうという予想だ。他意はない」
結花は腰に手をあてて尚斗を睨んでいたが、やがてため息をついた。
「いろいろと演劇部のことをお調べになってるようですが…」
「ふむ、じょにーもヤキが回ったな……ちびっこに悟られるとは」
「……女の子の間のネットワークは舐めない方がいいですよ」
「わかった、肝に銘じておく」
尚斗は精々神妙そうな表情を浮かべて頷いてみせた。
「で、何の用だ?」
「……深入りしてくれてる、と思っていいんですよね?」
「乗りかかった船だ……放っておくのも気分が悪いしな」
結花は複雑な笑みを浮かべ、ちょっとだけ俯いた。
「じゃあ、調べてもわからない事を1つだけ教えます」
「……昨日のアレは試験か、おい?」
咎めるような尚斗の言葉を無視して、結花は淡々とした口調で言った。
「夏樹様に……演劇部を潰さないためだと何度も説得して、ああいう役をやらせたのは私です」
「……」
「元々夏樹様は裏方希望の筈です……あの頃の演劇部は、演じる人間が決定的に足りませんでしたから、当時の先輩に対してその希望を口にすることはなかったようですが」
「そっか…」
結花はじっと尚斗を見つめ、ぽつりと呟いた。
「夏樹様を縛り付けた私が口にしちゃいけないんでしょうけど……」
「夏樹さんは、ああいう芝居はしたくない……と」
「演劇部の活動として認めたくないのか、それとも単にああいう役がイヤなのか、本来希望だった裏方に回りたいのか……私が、夏樹様にそれを聞くわけには」
淡々とした口調……それが自分の心の揺れを表に出さないための手段である事を痛いほどに感じ、尚斗はちびっこにかけるべき言葉を探し求めた。
「……えーと」
結局、うまい言葉が見つからずに結花の頭に手をおくしかなかったが。
そして、泣きそうな小さな子供をあやすように、優しく頭を撫でてやる。
「…有崎さんには、妹がいるんですか?」
「……何で?」
「いえ、なんとなくですけど…」
うるさそうに手を払いのけるでもなく、結花はただ尚斗に撫でられるままじっとしている。
「頭フェチだからな、俺は」
ちょっと弁解じみた口調になった。
「……変態ですね」
「……かもな」
それを聞いて、結花がちょっとだけ笑った。
「……尚斗君、昼休みになっても宮坂君帰ってこないけど?」
「じょにーはプロだからな」
ちびっこが帰った後、右手がだるくなるまで頭を撫で回してやったせいか麻里絵は随分ご機嫌だ。
それにしても……と尚斗は思う。
教室内で延々頭を撫で回されて喜んでいるじょしこーせーは如何なものか。
「……チョコパン1つで、尚斗の情報を売って回る人間がプロなの?」
と、紗智が横から口を挟んできた。
「……俺の情報を必要とする人間がそれほどいるとも思えないが」
ふ、と気になって顔を動かさずに目だけを動かして麻里絵を盗み見る。
にこにこと微笑んだまま、紗智と話すこちらを見ているだけだ。
「……おや?」
この前青山の言った、『気付いてないなら別にいい』という言葉を思い出した。
綺羅といい、さっきの結花といい……ひょっとすると御子に対しても見せた、子供じみた嫉妬が何故紗智に対しては発揮されないのか。
「おや、おやおや?」
おもわず、顔を動かして麻里絵の顔をじっと見つめていた。
「……どうかしたの、尚斗君?」
「いや……ちょっと待て」
ひどく憂鬱な仮定が瞬間的に組み上がり、それを顔に出さないようにするため尚斗はかなりの努力を要した。
屋上を吹き抜ける風は身を切るように冷たかったが、それは冬だから仕方ない。
「……落ち着けよ、俺。これは仮定の話だからな」
仮定の話……自分にそう言い聞かせなければならないぐらい、組み上げた仮定にリアリティを感じている事に尚斗は嫌悪感を抱いた。
尚斗と麻里絵がかつてそうだったように、学校がどうとかよりも遊び相手に関しては行動範囲が狭い事がネックとなるため子供は大概近所同士でつるむ事が多い。
麻里絵は小学校の校区で言うところの外れに住んでいたせいか、同じ小学校の人間の遊び相手というのがほぼ皆無で……誰かの後を付いていくだけの内気な性格がかなりマイナス面に作用したこともあるだろう。
麻里絵は、尚斗が自分以外の人間と遊んでいるのを見かけたりすると必ず拗ねた……その時の感覚で子供じみた嫉妬だと片づけてきたのだが。
「麻里絵の方が先に大人になったのに……いつまでも子供扱いして、馬鹿か俺は」
自嘲の思いを滲ませながら尚斗は吐き捨てた。
中学の始業式を明日に控えたあの日。
いつまで経っても黙り込んだままの麻里絵に見切りをつけ、じゃあな、と言って麻里絵に背を向けた瞬間……囁くような声で麻里絵は言った。
好き、と。
いきなり何だ?という気持ちや、嫌いな奴と遊ぶか馬鹿という気持ち……妹のように思っていた麻里絵の『好き』の意味が良くわからなかったあの瞬間。
尚斗は、聞こえない振りをすることで逃げた。
年下の妹のように感じていた相手が、実は自分よりも大人だった……それに気付いたのは、中学に上がってしばらくしてのことだった。
「……麻里絵は、子供じゃない」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。
その上で……考えたくないことを考えた。
麻里絵が紗智に嫉妬を覚えないのは……嫉妬を感じる必要性を覚えないからか。
それは、紗智が友達だからなのか、それとも紗智に誰か好きな相手(もしくは彼氏)がいるからなのか。
「……」
そこまで考えて、尚斗は空を見上げた。
白く吐きだされる息が風に飛ばされるのを見て、尚斗はそれを敢えて口にした。
「麻里絵は、みちろーの事が好きでつき合ってたのか?」
言葉は風に飛ばされる……が、風に飛ばされなかった思いは尚斗の心を激しくかき混ぜた。
尚斗はポケットから携帯をとりだし、先週麻里絵に教えて貰ったばかりの番号を呼び出してしばらく待った。
『……もしもし?』
記憶とは違った声だったが、尚斗の心にはワケもなく懐かしさがこみ上げた。
「よお、みちろー。久しぶりだな」
屋上から降りる階段の途中に青山がいた。
「……どうやら、俺は余計なことを言ったのか?」
「いや、自分の馬鹿さ加減を笑っただけだよ」
尚斗は自嘲めいた笑みをこぼし、思い出したように言う。
「俺、明日学校休むから」
「そうか」
「……と、宮坂にも伝えとくか」
尚斗は左手を挙げ、指を鳴らして言った。
「かもん、じょにー」
「……」
1分、2分……きっちり3分30秒経って、宮坂が肩で息をしながら現れた。
「よ、呼んだか?」
「今度ばかりは冗談のつもりだったんだが、すごいなお前」
「……同感だ」
青山が少々呆れ気味に頷いた。
「俺、明日学校休むから……それと、チョコパン5個はお前の鞄の中に入れておいたぞ」
「なるほど、じゃあ念入りに調べておいてやるさ…」
「頼む」
尚斗は軽く頭を下げてから、口元に笑みを浮かべて宮坂を見た。
「ところでじょにー、なかなか繁盛してるようじゃないか」
「ま、ぼちぼち」
「俺の情報も売り歩いているとかいないとか…」
「ま、ぼちぼち」
瞬間、尚斗の右拳が宮坂の頬をかすめた。
「……撃たれ強さがウリのくせに避けるなよ」
「い、今の……マジだっただろ、お前」
宮坂はじりじりと後退して尚斗から距離をとった。
「ま、他人のことを調べさせてる俺が、自分の情報売られて腹を立てるってのも筋が通らないな…」
尚斗はそういって、拳を収めた。
「有崎尚斗君…」
帰りのHR、連絡事項を伝え終えた綺羅がにこやかに微笑みながら尚斗を見た。
「……はい?」
「何やら、明日は学校をお休みするという悲しい噂が先生の耳に入ってきたのですが、本当ですか?」
尚斗は左手を挙げ、指を鳴らした。
「かもん、じょにー」
きっちり10秒経ってから、綺羅は不思議そうに口を開いた。
「……そういう遊びが流行っているのですか?」
「いや、何でもないです」
「そうですか…」
綺羅は小さく頷き、再び言った。
「で、噂の真偽は…?」
「事実です。明日は大事な用事があるので休みます」
「……はい」
意外にも、綺羅は小さく頷いて目を閉じた。
完
さて、ここからですね。(笑)
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