ジリリリッ、パチ。
 その間、0.6秒。
 目覚ましのベルを止めるまでに要する時間としては、ごくごく平均的な反射レベルといえよう。
「……って、ちょっと待て」
 日本人の嫌いな電解製品……というアンケートを取ったなら、間違いなく上位にランクインするであろう目覚まし時計を握りしめたまま、尚斗は目覚ましとは別の壁に掛かった時計に目を向けた。
「……さっきまで、11時ぐらいじゃなかったか?」
 尚斗は窓に駆け寄ってカーテンを開けた。
 外はまだ暗い……しかし東の空が白み始めているという事実が、今が朝であることを告げている。
「……やっちまった」
 夏樹の忘れ物である分厚い紙束……おそらく次の舞台脚本と台本なのだろうが、時間を忘れて読みふけり、何度も反芻しているうちに夜が明けてしまったらしい。
「まあ……やっちまったものは仕方ないんだが」
 尚斗は机の上の紙束に目をやりため息をつく……と、室内でありながらそれは白霧となって消えていった。
 
「やあ、マイフレンド有崎」
「……」
「おい、有崎…?」
「……」
「尚にーちゃん、宮坂君が呼んでるよ?」
 肩を揺さぶられ、尚斗ははっと我を取り戻した。
「……あれ?」
「あれ、じゃないでしょ……もう」
 麻里絵がため息をついた。
「はっはっはっ、徹夜でエロビでも見てたのかあっ?」
 その瞬間、尚斗は宮坂の左腕を手前に引きこみ、机を使って変形の三角締めを極めていた。
「……お前じゃあるまいし」
「ぎ、ぎぶ……マジで、ギブ…」
 宮坂の右手がバンバンと机を叩いた。
「2人とも、喧嘩はダメです!」
「……ケンカに見えるか?」
「見えます」
「……麻里絵に感謝しろよ、宮坂」
「……ふいー」
 三角締めから解放された宮坂は、遠い目をしながら深呼吸した。
「尚斗くん、宮坂君に謝って…」
「麻里絵……『尚にーちゃん』と『尚斗君』を使い分けているのは意識的なのか、それとも無意識なのか?」
「……話を逸らそうとしてもダメです」
 尚斗はため息をつきながら宮坂に視線を向けた。
「宮坂、一応謝ってやる……一応な」
「はっはっはっ、気にするなよマイフレンド有崎。お前に素直に謝られても気色悪いだけだっつーの」
「くっくっくっ…」
「ふっふっふっ…」
 不自然に笑いあう2人を見て、麻里絵は脅えたように呟いた。
「な、仲直り…?」
「……元々、仲違いなんぞしてねえ。ただのスキンシップだ、こんなの」
「そ、そうなんだ…」
「……ってダメだ、マジで眠い…」
 尚斗はブンブンと首を振った。
「……どこ行くの、もうすぐHR始まるよ?」
「保健室……昼休みまで寝てくる」
 
 ガララッ…
「帰れ」
「……保健室のドアを開けた瞬間にいきなりそれですか?」
 尚斗は後ろ手にドアを閉めながら、苦笑を浮かべた。
「お前もアレか、怪我もないのにここにやってきたクチか?」
 ちょっと憤慨したように吐き捨てる保健医の顔を見て、尚斗は指先で頬のあたりをかいた。
 土曜日はそれどころではなかったのだが、あらためてみればなかなかの美人。
 軽くウエーブのかかった髪を無造作に後ろで束ね、眼鏡のレンズ越しにのぞく勝ち気そうな瞳が印象的だ。
「……多分、先生を見物に来てたんだと思います」
「……って、どこかで見た面だな」
 保健医は指先で眼鏡の位置を調節し、じろじろと尚斗の顔を眺め回した。
「先週の土曜日の朝、一瞬だけ会いました」
「……おお」
 保健医は納得したように頷き、ちょっとだけ口元を綻ばせた。
「あれは良くやった、誉めてやる」
「そりゃどうも」
「で…?」
「俺の目を見てください」
 ずいっと、保健医の前に顔を突き出した。
「ふむ、こりゃひどい充血だな」
「徹夜です」
「家に帰って寝ろ」
 そう言い捨て、保健医は白衣の胸ポケットからタバコを一本取りだした……どうやら、箱ではなくバラで放り込んでいるらしい。
「学校に用事があったから、休まずに来たんですけどね…」
 この前、保健室で冴子が煎餅をかじってた事から想像はしてたが、一連のやりとりからかなりフランクな性格だと確信を持てた。
「……ま、いいか」
 保健医は鷹揚に頷いた。
「どうも…」
 
 ガララッ…
 ドアの音で目が覚めた。
「水無月センセ、ご機嫌いかが?」
「おう、香月」
「また、お邪魔しますね」
「あ、寝てる奴がいるから……手遅れか」
 ベッドの上で身を起こした尚斗に気付いたのか保健医はそう呟く。どうやら、尚斗の睡眠を妨げないように気を遣っていてくれたらしい。
「いや、おかげでだいぶスッキリしましたよ…」
 ベッドを囲むカーテンをひき、尚斗は冴子に軽く頭を下げた。
「どうも、冴子先輩」
「あら」
「何だ、2人とも知り合いか……って、そういやそうだったな」
 土曜日の朝、保健室に2人を残したまま去ったことを思い出したのか、保健医は1人納得したように頷いた。
「……で、今何時です?」
「12時前……4時間目の途中だな」
 そう言って保健医がタバコをくわえた……が、不思議なことに室内にタバコの匂いがしていないことに尚斗は気付く。
「おや?」
「なんだ?」
「ひょっとして、俺が寝てる間タバコを遠慮してました?」
「なんでアタシがそんなことしなきゃならん?」
 憮然とした表情を浮かべた保健医をみて、冴子がくすくすと笑った。
「水無月センセ、有崎君ってかなり鋭いから無駄ですよ…」
「……ちっ」
 保健医が面白くなさそうにタバコに火をつける……が、どう見ても照れ隠し以外の何物でもない。
「えーと、水無月先生ですか、気を遣ってもらってどうもです」
「うるさいっ!」
 ヒュッと、ライダーの角が尚斗の鼻先をかすめた……というか、尚斗がかわしたのだが。
「……ライターの角って、保健室で怪我人が出ますよ」
 尚斗は苦笑を浮かべた。
「お茶でも入れるけど……?」
 冴子が尚斗を見た……が、既に湯飲みが3つ用意されている。
「お願いします」
 冴子は小さく頷き、保温もできるタイプの電気ポットの湯を急須に注ぎ始めた。それを聞きながら、尚斗はあらためて保健医と向かい合う。
「2年、有崎尚斗です」
「水無月だ……って、いきなり何だ?」
「いや、先生の名前を知ったからには、こっちも名乗らないと無礼だなと」
「お前の名前は知ってた」
「……?」
「ほれ、土曜日の……あの子の姉とやらがお前の名前を知りたがったから、香月に聞いて教えてやった」
「……なるほど」
 尚斗はいろんな意味で納得し、頭を下げた。
「はいセンセ、有崎君も…」
 冴子が湯飲みを手渡してくる。
「冴子先輩もサボりですか?」
「そういうこと」
「……」
 冴子がそう応えたとき、尚斗は水無月の表情がほんの少しだけ動いたのに気が付いた。
「センセ、お茶を飲むときはタバコやめましょ」
「はいはい…」
 ちょっとばかし唐突に思われた冴子の言葉に対して、水無月は肩をすくめて見せた。
 
「むう、もう放課後か……今日は時間の経つのが早いぜ」
「……お昼まで寝てたからでしょう」
 ため息混じりに麻里絵。
「そうとも言うな」
「そうとしか言いませんっ」
「……今日は用事があるから、先に行くぞ青山」
「尚にーちゃんっ!」
 麻里絵の非難を背中に浴びながら、尚斗は演劇部部室へと足を運んだ。
『そっち、資材あまってない?』
『衣装係、こっち集まって…』
 わいわいがやがやと……大工仕事をしていたりするせいか、飛び交う声はおおきく、みな活気があった。
 そんな中で次から次へと指示を飛ばし、集団の指導的立場にあることが一目でわかるのがあのちびっこだったりする。
「……邪魔しちゃ悪いか」
 尚斗は喧噪に包まれた演劇部部室から一歩外に出た。
「にしても…」
 半ば無意識にそう呟きながら、尚斗は好意的な視線で部室内を見回した。皆がいきいきと作業に従事しており、なんというかこう、こちらも体を動かしたくなるような雰囲気に溢れている。
「……いい雰囲気だよなあ」
「……誉めても何も出ませんよ」
「いつの間に」
 尚斗は多少芝居がかった驚きを示しつつ結花を見た。
「今日はどうしました?力仕事でも手伝ってくれるんですか?」
「いや、申し訳ないが夏樹さんに用事があって…」
「……夏樹様に、何の用ですか?」
「ん……ちょっと、これを渡しに」
「……」
 分厚い封書を見せると、結花がちょっと俯いた。
「どうかしたか?」
「何でもないですよ」
 そういって顔を上げた結花は、いつもの表情だった。
「今公演を控えてて、部室は今裏方の人ばっかりですから。役者の夏樹様は舞台稽古の方に……私もこれからうち合わせのためにそっちに行きますから一緒に……って、何ですか、その絶対防御姿勢は?」
「いや……夏樹様には指一本たりとも触れさせません……ってな、近距離からのロケットタックルが飛んでくるのかと」
 尚斗がゆっくりと構えを解くのを確認してから、結花は口を開いた。
「ちょっと複雑ですけど……そういう趣味の方なら、夏樹様に危害を及ぼすはずもないでしょうから」
「……は?」
「あ、気にしないでいいですよ。別に、そういう趣味を否定するつもりはありませんし……確かに、ちょっとびっくりはしましたけど」
「もしもし…?」
「あ、でも……夏樹様の男装を見ちゃダメですから、念のため」
「……結花ちゃん?」
「でも、有崎さんってモテモテだったんですね、男の人に」
 2、3秒ほど経過して、尚斗は結花の頭を掴んでぐりぐりとひねくり回した。
「紗智のやっろぉ〜」
「痛たたたっ、首が、首がもげます!冗談、冗談ですってば…」
 結花は涙目になって尚斗の手から逃れた。
「た、タチの悪い冗談は慎むように……」
「ま、たまには仕返ししないと不公平ですから」
 どこか楽しげな口調で結花が言った。
 
「……こっちですよ」
「おや、土曜日は確か…」
「毎日同じ場所が使えるとは限りませんから……時々は体育館のステージも使うんですけどね」
「なるほど…」
 カラララ…
「あ、入谷さん。ちょうどいいところに」
 ドアを開けた瞬間、数人の演劇部員が結花に駆け寄ってきた。
 そして口々に足りないモノや問題点なんかを訴え、結花はそれをメモに取るでもなく1つ1つ頷いてはその場で対処できるモノは即座に指示を出し、それ以外のモノは大体どのぐらいで対処できるかを答えていく。
「……なんか、ちびっこの背が伸びない理由がわかったような気がする」
「何か、仰いましたか?」
「いや」
 左右の演劇部の声に耳を傾けながら、背後にいる尚斗の呟きまで把握しているようだった。
「……ところで、夏樹様は?」
「え、夏樹様?」
「夏樹様なら、お一人でホンヨミに行くって…」
「ああ…」
 結花は小さく頷き、尚斗を振り返った。
「無駄足を踏ませてしまったみたいですね…」
「……1つ聞いていいか?」
「……?」
「演劇部では、『全員が夏樹様と呼ぶ』のか?」
「1年生はほぼ全員ですね」
 あっさりと答える結花。
「……2年は?」
「6割ぐらいでしょうか」
 こめかみのあたりにじんわりとした痛みを覚え、尚斗はため息混じりに呟いた。
「わかった、もういい…」
「夏樹様に憧れて入部した……のは事実でしょうけど、それだけじゃあの雰囲気は出せませんよね」
 疑問でも確認でもなく、ただ誰かに頷いて欲しいという哀願のような呟き……それにほだされたわけではなく、尚斗は頷いた。
「で……ちびっこは?」
「……忘れました。ここに最初に来たのは、中学2年の冬でしたから……今となっては、卵が先かニワトリが先か…」
 結花は一旦言葉を切り、いきなり尚斗の向こうずねめがけて足を飛ばした。
「流星パンチ」
「甘い」
 やはりタックル以外はからっきし。
 空をきって大きくバランスを崩した結花の身体を尚斗が支えた。
「……いきなり何の真似かね」
「……単純に、フェイントに弱いってワケじゃないんですね」
「キックをパンチって口走るだけでフェイントになるか」
 呆れたように呟くと、結花はちょっとだけ笑った。
「私、悪い子なんですよ」
 どこか遠い表情を浮かべ、結花が聞こえるか聞こえないか微妙な音量で囁いた。
「……悪い子って事はないと思うが?」
「学校の側を流れる川の土手……鉄橋の下ってわかります?」
「ああ、一応地元だからな……って、話が飛びすぎだ、ちびっこ」
「夏樹様は、多分そこで台本を読んでます…」
 結花は尚斗の手を逃れて自分の足で立ち、ちょっとだけ強ばった笑みを浮かべた。
「……夏樹様によろしく」
「……?」
「悪い子ですから、有崎さんを利用させてもらいます…」
 そう言って結花はあっかんべーをした。
 
「……そういや久しぶりだな」
 緩やかなカーブを描きながら下流へと流れていく川を眺めながら、尚斗は遠くに見える鉄橋に向かって土手を歩いた。
 段ボールを使ってのそり遊び……に興じる子供がいないのはテレビゲームのせいか、それとも危険なことをやらせたがらない親のせいか。
 脅える麻里絵をなんとかなだめすかし、安心させるために尚斗とみちろーでサンドイッチにして3人で滑った光景が甦る。
 尚斗にとって、子供の頃は純粋に遊び場の1つ、中学の頃は通学路……が、高校に上がってからはほとんど足を向ける事もなかった。
 ガタタン、ガタタン、ガタタン……
 すぐ近くまでやってきた鉄橋を、ちょうど電車が通り過ぎた。
「……こんなとこで、練習になるのか?」
 練習の邪魔をしないように、どてからちょっと鉄橋の下を覗き込んだ。
 夏樹はそこにいた。
 片手には、台本らしきモノ。
「……じゃあ、これは」
 予備か何かを持っていたのだろうか。
 台本を持っていない方の手を時には広げ、時には自分の身体を抱き……そして、ため息をつく。
 耳を澄ますと、夏樹の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「君の瞳は闇を照らす灯火………その瞳で、私の心の闇を……はあ」
「……そんな台詞、なかったよな?」
 尚斗は夏樹に見つからないようにじりじりと土手を降りていった。
「この凍てついた私の心を溶かしたのは…君の笑顔、そして君の口づけ……はあ」
 演劇部の部室で動き回っていた部員の表情とは異質の夏樹の表情に、尚斗はぽつりと呟いた。
「……上手くいかないって感じじゃないよな」
 それからしばらく夏樹を見守っていたが、台詞の合間にため息が重ねられていくばかり……そして、夏樹の練習は終わらない。
「……夏樹さん」
「だ、誰っ!?」
 夏樹は弾かれたように顔を上げ、尚斗の姿を認めた。
「な、何で…こんな…とこに?」
「練習の邪魔しちゃ悪いとは思ったんだけど、邪魔しなきゃ悪いような気がして…」
 何かに真剣に取り組めば楽しいことばかりじゃないのは尚斗にもわかっている……しかし、夏樹の表情に滲み出ているのはそれ以前の問題だ。
 尚斗だけではなく、自分自身をも突き放すような表情を浮かべて夏樹が呟いた。
「なあに、それ?」
「演りたくないんだろ、その役?」
「……ばっ、馬鹿なこと言わないでよ」
 夏樹の声が大きくなった……が、吹き抜ける風にその言葉がちぎれていく。
「誰かに代わってもらえば……」
「そういうわけにはいかないのっ!」
 手に持った台本をぎゅっと握りしめ、夏樹が叫んだ。
「……夏樹さんじゃないとダメなのか?」
「……そうよ」
 夏樹の練習を見ていて、尚斗にはその劇がどういう内容かおおよそ理解できていた。
 『ウチの演劇部はイロモノなんかじゃないですから』……土曜日の、ちびっこの呟きは多分そういう事なのだろう。
「仕方ないじゃない…」
 尚斗の沈黙をどう受け取ったのか、夏樹は顔を背けながら口を開いた。
「あのままだと……演劇部は潰れちゃってた」
「……」
「人も、予算もなくて……みんな、やる気さえ失ってて」
「さっき演劇部を覗いてきたんだが、ちょっと想像つかない、それ…」
「想像付かなくてもっ……2年前はそうだった」
「目的は、達成されたんじゃ…」
「目的なんて、今の2年の子が入って来た時に達成されたわよ……でも」
 涙をにじませた瞳で、夏樹が尚斗を睨んだ。
「1年で活気が出るって事は、1年で活気がなくなるって事じゃないっ!何も知らないくせに、勝手なこと言わないでっ!」
 正論だった。
 咄嗟には何も言い返せないぐらいに。
 そしてこういう時、咄嗟に言い返せないと意味はない。
 尚斗が黙り込んでる間に、夏樹はその場から駆け去り、1人取り残された尚斗は鉄橋を見上げながらぽつりと呟いた。
「ちびっこ……俺を買いかぶりすぎだ」
 買いかぶってくれた意気には応えてやりたいのだが…。
 
「誰もが、胸の中にもう1人の自分をもっている……か」
 結局返しそびれた台本を眺めながら尚斗は呟いた。
 あの時こうしていればとか、本当はこうしたかったとか……それは後悔にも似た、自分が心の奥に思い描いている理想像の事なんだろうと思う。
 尋ねたわけではなかったが、尚斗はこの台本が夏樹によって書かれたモノだという確信めいた思いを持っていた。
「これを……演りたいのかな、夏樹さん」
 そう呟いてはみたものの、今はわからないことが多すぎた。
 夏樹が何を求めているのかはもちろん、演劇部がどういう状態なのかも知らない。
「……明日は、じょにーの出番かな」
 
 
                   完
 
 
 夏樹の書いた脚本の内容は『チョコキス』7大不思議の1つですな。(笑)
 ゲームの中で語られる断片からは、どう組み合わせてもきちんと物語が構成できないと言うか……。(笑)

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