良く晴れた朝だというのに、冬にしては珍しく気温はやや高め。
「風がちょっと重いし……予報通り週末は雨かな」
先週が大雪で今週は雨……別に用事があるわけではないが、休みの日に天気が悪いと何故か損をしたような気持ちになる。
「おはよ、尚斗君」
「おはよう麻里絵……」
麻里絵と挨拶を交わし、自分の席に座る……座ったのだが、何やら違和感を覚えた。
目の前には青山の背中、右隣には麻里絵、左後ろには紗智、そして右前方に……世羽子がいる。
「おや?」
尚斗は首をひねりながら、自分の左隣の席を見た。
「おはようございます、有崎さん」
鈴の音を思わせるような声で挨拶してきたのは、腰まで届きそうなお下げ髪に頬のあたりの柔らかい曲線を強調する丸眼鏡をかけた少女だった。
「……おはよう」
尚斗は曖昧に頷き、軽く咳払いしてから麻里絵に向かって話し掛けた。
「あー……麻里絵君」
「なーに?」
麻里絵が尚斗の方を振り向く。
「その、なんだ……今、麻里絵君は何か違和感を覚えていたりしないかね?」
「違和感…?」
何やら教えてもらっていない芸を強要された飼い犬のような表情で、麻里絵は首を傾げた。
「あー、俺の背後あたりに違和感を覚えたりはしないか?」
「背後…?」
麻里絵は尚斗の肩ごしに眼鏡娘を見た……いや、見たはずなのに
「……天野さんがいるね」
「ほう、天野というのか」
「……?」
「その、なんだ……俺が、この教室に初めてきて、間違えた席に座ったりしたことを覚えているかね…」
「うん、尚斗君が間違って天野さんの席に座っちゃったんだよね」
「……そうだな」
尚斗は硬い笑みを浮かべ、青山の背中をつついた。
「……どうした?」
「青山……俺の左隣に座る女子の名前を知ってるか?」
「……天野さんだろ」
「いや、今現在のことを言っているんじゃなくてだな……こう、普遍的な席順というか」
「秋谷の隣がいいなら代わってやってもいいが?」
「……いや、気にしないでくれ」
尚斗は椅子の背中をまたぐようにして座り、左後ろに座る紗智に向かって話し掛けた。
「さっちゃんよ」
「さっちゃんゆうな」
「昨日、紗智の前に座っていたのは天野さんとやらだったか?」
「……熱でもあるの?」
尚斗はきょろきょろと教室内を見渡して宮坂の姿を探した。
非日常的現象に対しては、非日常的な存在をぶつけなくては。
「宮坂!」
「何だよ?」
窓際の席に座って不思議そうにこちらを見つめている眼鏡娘を指さし、正直に話さないと殺すというオーラを漂わせながら尋ねた。
「あの娘、誰?」
「おいおい……クラスメイトの顔と名前ぐらい覚えろよ。4日目で、しかも隣の席の女の子の名前もわからないのか?」
「お、お前に言われると、ふつふつと怒りがわき上がってくるな…」
「あーまーの。わかるか、天野さんだよ」
「……そうか」
尚斗はうなだれたまま自分の席に戻り、机の木目を数え始めた。
「そういや、万物は流転するとかいってたもんなあ……俺に断りなく、世界が壊れたり革命されたりしても何の不思議もないよなあ」
「あの…有崎さん?」
相変わらず、鈴の音を思わせる心地よい声。
「はい?」
「ちょっと、よろしいですか?」
「あなたと私が出会ったのはいつだったでしょう?」
「昨日」
少女は驚いたように目をぱちくりさせ、しげしげと尚斗の顔を眺め回した。
人気のない廊下のはじっこに連れてきて、何を聞くかと思えば。
「うーん…」
ぱちん。
少女の手が、尚斗の目の前でゆっくりと叩かれた。
「これでよし……」
少女は大きく頷き、再び尚斗に向かって問いかける。
「あなたと私が出会ったのは……」
「だから昨日だって」
「……」
首を傾げながら、少女は再び尚斗の目の前で手を叩く。
「あなたと私が…」
「昨日」
ぱちん。
「昨日」
「あなたと私が……あれ、追い越されてしまいました…」
困ったように俯く少女を前にして、尚斗も困っていた。
「つーか、学校の制服を着て何をしている?」
「……ここの生徒ですから」
「休み時間に空を飛んだり…」
「わっわっわっ…」
ぱちん、ぺちん、ぱちん、ぺちん、ぺちん……
少女がめちゃくちゃに手を叩き始め、やがて息を切らしながら口を開いた。
「あなたと私が…」
「……4日前」
「良かった……やっと効き目が」
心の底から安堵したように呟くと、少女はにっこり笑って違う質問をぶつけてきた。
「私の名前はなんでしょう?」
「天野……」
「うんうん…」
「天野…」
「……?」
いくら哀れに思えても、知らない嘘はつけない。
「……昨日」
少女が再びめちゃめちゃに手を叩き始めたのを見て、尚斗は何となく『幸せなら手を叩こう』の曲を口ずさんでしまう。
「……あんまり幸せそうには見えないが」
「……はーっ、はーっ」
肩で大きく息をしながら、手のひらを真っ赤にした少女が切れ切れに呟く。
「あなた…の…おなまえ…は…?」
「有崎尚斗です」
「良かった…これでバッチリ」
「バッチリか、おい…?」
酸欠なのか、どうやら少々錯乱気味のようだった。
きーんこーんかーんこーん…
「あ、予鈴がなってしまいました……戻りましょう、有崎さん」
尚斗の腕を掴み、少女は走り出す。
「……ま、本人が納得してるならいいか」
「えーと、次の授業で使う資料を運んで欲しいのですが……」
と、綺羅の視線がまず青山に注がれた。
「パス1です」
「じゃあ…」
「パス2」
「はい、じゃあ有崎君、お願いします」
なんでこの先生は俺に構いたがるのか……と、心の中で毒づきつつ、尚斗は敵意に満ちた視線を投げかけてくる男子連中の方を振り返った。
「おーい、男子。藤本先生の荷物運びをしたい奴、いるか?」
尚斗がそう言った瞬間、すっごい勢いで立ち上がった宮坂を先頭に、男子の6割ぐらいが手を挙げて立候補する。
「まあ……」
「と言うわけで、希望者がたんまりいますのでこの中からどうぞ」
「……」
「……最初に青山、次に俺を指名しましたよね?誰でもいいなら、やりたい奴にやらせるのが筋だと思いますが」
「ん、もう…」
つれない子……と、視線で語りつつ、綺羅はつまらなさそうに男子の1人を指名してとぼとぼと教室を出ていった。
「……有崎にしちゃ、手厳しいな」
「……かもな」
「ま、有崎なら大丈夫だろうが、ファンクラブの人間に気をつけろよ」
「ファン…クラブ?」
青山は口元に冷笑を浮かべながら答えた。
「まあ、あの外見だからな……男子の半分ぐらいはイカレてる」
「……滅多にお目にかかれない美人なのは認めるが……何というか、俺にはあの先生の言動に黒い影がちらついて見えるんだが…」
「ねえ、尚斗」
「ん?」
ちょいちょいと背中をつつく紗智を肩越しに振り返った。
「アンタ…ほも?」
ストレートな物言いに精神的に2歩ほどよろめいたが、それを表情には出さずに尚斗は答えた。
「以前、女の子とつき合ったことがあるから違うと思うぞ……まあ、それだけではバイの可能性を否定はできないかも知れないが」
「へえ、女の子とつき合ったことあるんだ……で、フラレたショックで男子校に……くふふ」
可愛らしい笑い声とは裏腹に黒い妄想をしているのか、紗智の目が妖しく光る。
「しかし、アンタとつき合うだなんて世の中には物……」
何を感じたのか、紗智は口をつぐんであたりをきょろきょろと見回した。
「……どうかしたか?」
「いや、虫の知らせというか……私、危機を感じるアンテナには自信があるのよ」
「ほう、どんな危機だ?」
「んー」
紗智は小首を傾げると、唇の下あたりに人差し指をあてて笑った。
「そこまではわからないんだけどね」
「……役に立たないだろ、それ」
「君子危うきに近寄らず……よ。後は…」
紗智は尚斗の鼻先をかすめるように正拳を飛ばす。
「実力で排除」
「そういや、空手2段とか言ってたな…」
「おや…?」
遅ればせながら自分の行動範囲を広げようと、昼休みに校内を出歩いていた尚斗の目に留まったのは、何やら分厚くものものしいドアだった。
「……第2音楽室?」
音楽室と言いながら、この横幅では生徒40人を詰め込むほどの広さがなさそうに思える。
ガララ……
「鍵開いてるし……」
壁にベタベタと貼られたビジュアル系バンドのポスター、ドラムセット、ギター、アンプ……
「へえ……」
尚斗は吸い寄せられるように足を踏み入れ、壁際に立てかけられていたギターを手に取った。
しゃらん…
「わざと……じゃないな」
調律が甘い。
弦をつまはじきながら持ち主の目印を無視して合わせ、そして試し弾きを……しようとしたところで、自分を見つめる少女の存在に気がついた。
「……えーと」
困ったな、という感じに尚斗は頭をかいた。
「鍵が開いてたってのが理由にならない事はわかってるんだが……別に、盗もうとか悪戯をしようと思ったワケじゃ」
「……くす」
少女が笑う。
「ギターの扱い方を見てればわかるよ……」
「ん?」
声を聞いて、尚斗はまじまじと少女を見つめた。
「おや、あの時の…」
「その反応、ちょっとショックだなあ……」
心の底から残念そうにため息をつく。
「?」
「ま、いいか……何か弾いてよ」
「何か…と言われても」
「何でもいいから……」
「じゃ、絶対に知らない曲を」
尚斗はため息をつき、静かな、単音のフレーズを紡ぎだした。
「……?」
「どうかしたか?」
手を止めずに聞いた……が、少女は返答の代わりに歌い出す。
「〜聞いて、歩いた道〜」
「……お?」
「〜潮の、香りがして〜」
「……」
僅か2分足らずの短い曲を終えた瞬間、2人は同時に口を開いた。
「何で知ってる(の)!?」
「いや(だって)、これは…」
今度は両者同時に口をつぐみ、尚斗はお先にどうぞと右手を差し出した。
「だってこの曲、友達の……オリジナルって」
「……世羽子か」
質問ではなく、独り言のような呟きに少女は目を丸くした。
「え?」
おそらくは、なんで……と続けたかったのだろうが、少女は礼儀正しく、強引に話題をねじ曲げる。
「えっと、次会ったときのお楽しみということで……自己紹介を」
ポニーテールを揺らすと、少女は腰に手をあてて胸を張った。
「私、九条弥生」
「ん…有崎、有崎尚斗」
「まあ……見ての通りここは軽音部の部室なのよ」
少女はあちこちを指さしながらその場でくるりと一回転した。
「……のようだな」
「毎日ってワケじゃないけど、週に3回ぐらいはみんなで練習してる……良かったら、また…」
弥生の言葉を遮るように尚斗は言った。
「俺は、招かれざる客だろうから」
「有崎さん」
ちょい、と皺の寄った眉間を人差し指でつつかれた。
「ん…?」
目の前、僅か十数センチの所で心配そうに自分を覗き込む眼鏡娘に気付いて、尚斗は慌ててのけ反った。
「……もう、下校時間なんですけど」
「い、いつの間に…」
「椎名さんや青山さんがお声をかけても、何やら思索に耽っていたようで……」
窓の外に目を向けると、なるほど雨雲に支配された空はひどく暗かった。
「……ふむ」
ため息をつきかけた尚斗の両頬が、少女の手によってびろーんと伸ばされた。
「……はのひいか?」
「ええ、割と楽しいです…」
にこっと微笑まれてしまい、尚斗もつられて笑った。
「……サンキュ、天野さん」
「……」
少女はじっと尚斗を見つめ、そして口を開いた。
「私の名前はなんでしょう?」
「……天野さん」
「……ふう」
少女はため息をつき、そして尚斗の頭を指さしながらぽつりと呟いた。
「壊れてます?」
「あまり壊れてるとは思いたくないなあ……自分の頭だし」
少女は首を傾げると、尚斗の背後に回って背中をぺたぺたと触り始めた。
「翼は……隠してないですよねえ?」
「人前でそういう事を口走らない方が良いと思うが…」
「…っ!?」
少女は尚斗からサッと離れ、やっと納得がいったというように手を叩いた。
「そうですか……そうだったんですね」
「はあ、多分間違っているとは思いますが…」
「監視役の方とは知らずにとんだご無礼を…」
少女は深々と頭を下げた。
「いや、なんか勘違いしてるぞ…」
「わかってます」
にっこりと、花開くような笑みを浮かべて。
「私達の存在は人間には内緒……ですよね?」
目の前の少女が底なし沼に沈んでいく光景が尚斗の脳裏に浮かぶ。
「でも、やっぱりすごいです……どこから見ても、人間にしか見えません」
「天野さんとやら…」
「安寿ですけど…?」
「……じゃあ、安寿」
心配そうに尚斗の表情を窺う安寿。
「俺、正真正銘の人間だから」
「……2人しかいないから大丈夫です」
「そうじゃなくて」
「はっ!壁に耳あり、障子に目ありですね……勉強になります」
全くかみ合わない会話に業を煮やし、尚斗は椅子を指さした。
「ちょっとそこに座りなさい」
「はい…?」
ぱちん、ぺちん、ぱちん、ぺちん、ぱちん……
「もう諦めたらどうでしょうか?」
「……」
安寿はぐしぐしと涙を拭い、尚斗を見つめた。
「あなたさえいなければ…」
「泣きはらした目で恐いこと言わないように……というか、天使の存在が人間に知れるとそんなにまずいんでしょうか?」
「怒られます…」
「……怒られるだけですか?」
「すごく怒られます…」
「すごく怒られるだけなら…」
「下手をすると、天使の資格をとり上げられます…」
「……安寿」
「はい?」
「俺が怪我したら……治せる?」
「はい」
「どんな怪我でも?」
「ええ…可能ですが?」
「……ま、運が良ければ」
尚斗は大きくため息をつき、壁に手を当てた。
ガンッ!
「…っ!?」
ガンッ、ガンッ!
壁に向かって、尚斗は額を強く打ち付ける。
「ちょ、ちょっと、頭が壊れたらどうするんですか!っていうか、本気で壊れてます?」
壁から引き剥がそうとする安寿に向かって、尚斗は言った。
「……安寿、誰のためにやってるかわかってる?」
「あ……」
安寿は口に手をやり、そして慌てて首を振った。
「ダメです!ダメダメダメっ!」
少女とは思えぬ力で尚斗を壁から引き剥がし、それだけでは飽きたらず床の上に押さえ込む。
「……こんな無茶をする人、初めて見ました」
ため息混じりに呟くと、安寿は血の滲んだ尚斗の額に手をかざした。
「見つかったからって、記憶を無くしてチャラにするという考えと根っこは同じだと思うんだが……」
「……自分を傷つけることに躊躇しないって意味です」
「怪我しても治せるという保険つきだからな……そんな偉そうなもんじゃない」
「……それでも、初めて見ました」
ガララ…
「……っ!」
一瞬立ちすくんだ気配と、慌てて走り去る足音。
「どうしたんでしょう、顔を真っ赤にして…?」
「えーと、この体勢が問題じゃないかと思います……っていうか、誰?今の誰だった?」
「……」
安寿は自分達の体勢に今気付いたのか、ほんのりと頬を赤らめて立ち上がり……そして、尚斗に向かってちょっとだけ頭を下げた。
「……記憶、消してきます」
「結局それかい…」
安寿は首を傾げ、ぽつりと呟く。
「消さない方がいいですか?」
「消してください、お願いします…」
安寿は小さく頷くと、あらぬ方角に視線を向けたままその姿を消した。
「お…?」
おもわずさっきまで安寿のいた空間に手を伸ばしたが、もちろんそこには何もない。
そして数分後、安寿は歩いて教室に戻ってきた。
「つつがなく終了しました」
「はあ、終了しましたか…」
ぱちん。
「……」
「やっぱりあなたにはダメですか?」
「ダメみたいです」
「……」
安寿の手が、尚斗の頬を挟み込む。
「さっきみたいな事はしないでください…私の、一生のお願いです」
「……了解」
「……では、ごきげんよう」
にっこりと微笑んで教室を出ていった安寿の背中を見送りつつ、尚斗は思った。
天使の一生…?
完
安寿……については色々と書きたいことが。(笑)
つーか、いつになったらキャラが勢揃いするんだか。
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