1時間目の授業。
 2時間目の授業。
 そして、3時間目の授業中に尚斗はとうとう音を上げた。
「あの……気分悪いんですけど、保健室行って来ていいすか?」
「あら…」
 綺羅は板書の手を止めると、尚斗の側ににじり寄って心配そうに顔を覗き込んだ。
「熱は…」
 と、おでこに向かって伸ばされた綺羅の手を、尚斗はさり気なくかわす。
「ないっす……じゃ、そういうことで」
「尚兄ちゃん、保健室の場所わかる?」
 尚斗は麻里絵に向かって心配するなという風に軽く手を振ると、そのままドアを開けて教室を出た。
 ひっそりと静まった……休日を思わせる廊下を歩きながら、尚斗は胃のあたりをゆっくりとさすった。
「……確か、1秒で胃に穴があくとか言ってたよな」
 神経が太い方……尚斗自身はそう自己評価していたのだが、授業中の半分ぐらいはこっちを睨み付けているんじゃ無かろうかと思われる世羽子の気配がなんとも強烈に精神衛生上よろしくない。
 それに輪をかけて堪えるのが、この学校の雰囲気だった。
 耳をすませば微かに聞こえてくるのは教師の声だけで、生徒の話し声はもちろん机や椅子が軋む音もしない。
 授業中に2度ほど話し掛けてきた麻里絵は、おそらくこの学校では例外的な存在に違いないのだろう…尚斗はそう思った。
「……なーんか俺には窮屈なんだよな、このガッコの雰囲気」
 尚斗はため息混じりに呟き、階段をのぼる。
 屋上の分厚い鉄の扉を開ける……と同時に、冷たくさえわたった空気が尚斗の顔を叩いた。
 尚斗はなんとはなしにほっとため息をつき、ドアをそっと閉めた。
「〜♪」
「……おや?」
 屋上の片隅に目を向ける……と、後ろにまとめた髪を風になびかせながら歌う少女の姿。
 おそらくは授業中という事でかなり声量を抑えてはいるのだろうが、透明感のある歌声は強い風にまぎれることなく尚斗の耳に飛び込んでくる。
「へえ…いい声してら」
 尚斗は給水塔を取り囲むフェンスにもたれると、少女の歌声のリズムに合わせて腰のあたりを指先で叩き、歌のリズムに身を委ねてそれを他人と共有する懐かしい感覚をしばし味わった。
 時間にして1分ほどだっただろうか、少女の歌声が途切れた。
 曲が終わったという感じではなく、おそらくは自分一人の世界に侵入してきた異物の存在に気付いてしまったのだろう。
 少女はゆっくりと後ろを振り返り、そこに尚斗の姿を認めるや、慌てて後ずさりした。
「な、な……」
「……サンキュ。おかげで気分が良くなった」
 少女はちょっと首を傾げ……尚斗の表情から言葉の意味を理解したのか、顔を赤く染めた。そして、怒ると言うより恥ずかしさに耐えかねたと言った感じで口を開く。
「い、今は授業中でしょ!」
「気分が悪かったからサボった、気にするな…」
「だったら、保健室に行きなさいよっ!」
 少女は正真正銘顔を真っ赤にして叫ぶ。
「聞かれて恥ずかしいなら、こんなとこで歌うなよ……」
 そう言って、尚斗は空を見上げた。
「ま、こんなとこって言い方はないか……ここはいい場所だよな」
「……」
 じっと見つめられている気配を覚え、尚斗は視線を少女に戻した。
「……どうかしたか?」
「……ありがと」
 そう呟き、少女が照れたように横を向く。
「何がだ…?」
「私も、この場所が好きなのよ……そうやって誉めてくれるとなんか嬉しくて……ね」
 どうやら随分とさっぱりした性格の持ち主らしい。
「悪いな、土足で踏み込んで」
「別に……私だけの場所なんて主張するつもりもないし」
 ふ、と少女の横顔が急に大人びて見えた。
「……」
「そういえば、あなた何年?」
「ん、2年だが?」
「じゃあ、同級なのね…」
「……普通、名前から聞かないか?」
「んー、次に会ったときの楽しみに取っておく」
 少女は口元に笑みを浮かべると、そのまま屋上から出ていった。
「……会えなかったらどうするつもりなんだか」
 
 教職員の9割以上が女性(教師のほとんどがこの学校の卒業生だとか…)という事もあり、3時間目から昼休みにかけて男子生徒の間ではちょっとした出来事があった(笑)が、何とか無事に1日が終わろうとしていた。
「……青山は大丈夫だったのか?」
「何が?」
「いや、トイレの件…」
「別に……女子校の校舎を間借りすると聞いた時点で予測はしてたからな、昨日の夜から水分は控えめにしてたし」
 事も無げにさらりと答える青山に向かって、尚斗は苦笑を浮かべた。
「用意周到すぎだろ、それ…」
「じゃ、有崎は?」
「昼休みに学校を抜け出して近所の公園のトイレですませたが……用務員用のトイレ1つに、行列作ってどうするよ」
「……お前ら」
 結局、女子トイレの幾つかが男子用に解放されたとかなんとかで混乱は急速に収束したらしいのだが、前を片手で押さえつつ血で血を洗う激闘を昼休みに経験したらしい宮坂が恨みっぽい目つきをした。
「んじゃ、帰るか…」
「これから秘密の花園を隅々まで探険して回るという崇高な目的が……」
「そうか、精々警察沙汰だけは起こすなよ……青山は?」
「ん……」
 青山はちょっと微妙な表情を浮かべた。
「悪い、俺もちょっと今日は用事があって…」
「そっか、じゃあ1人で帰るわ…」
 そう呟いて鞄を肩に掛けた尚斗に、青山はちょっとだけ微笑んだ。
「ま、積もる話もあるだろうしな…」
「?」
 
「尚兄ちゃん、一緒に帰ろう」
 校門を抜けた所で、麻里絵に呼び止められた。
「……なるほど」
「何がなるほどなの?」
「いや、こっちの話」
 尚斗は柄にもなく気を遣った青山に苦笑を浮かべた。
「……にしても、何年ぶりだろ。こうやって麻理枝と一緒に帰るのは」
「5年ぶりだよ…」
「そっか、もう5年になるのか……早いよなあ」
 尚斗がしみじみと呟くと、麻里絵は拗ねたように呟いた。
「……そうね。5年の間、連絡しようとも考えなかった人には早かったかもね」
「……」
「会いたいなんて、考えもしなかった?」
「ずっと小さかった頃はともかく、あの頃の俺達はもう、『一緒に遊ぼう』なんて約束しなかったよな……確か」
 今度は麻里絵が黙り込む番だった。
「俺や麻里絵、みちろーの3人……別に遊び場所は決まってなんかいなくて、毎日じゃなかったけど、それでも俺達3人は自然に集まって……俺は、そういう出会い方を期待してたけどな」
 尚斗は空を見上げ、そして呟いた。
「ま、何はともあれ麻理枝にはこうして会えたわけだが」
「尚兄ちゃん……」
「俺はどうでもいいんだが、そう口にする度にまわりから不思議そうな目で見られてるぞお前」
「5年ぶりだから……どう呼んでいいかなんてわからないよ」
「尚斗でいいじゃん……」
「……尚斗…君」
「なんだ、麻里絵さん」
 揶揄するようにそう呼んだ尚斗に向かって、麻里絵は眉を吊り上げた。
「男の子と女の子は違います!」
「そりゃそうだ……ま、好きに呼べよ。放送コードにひっかかるようなあだ名は勘弁だが」
「そ、そんなの使わないもん」
 麻里絵は頬をほんのりと染め、尚斗の身体をぽかぽかと叩いた……が、何かを思いだしたかのように慌てて距離をとる。
「……変わってないね、尚兄……じゃなくて、尚斗君は」
「……で、聞きたいのは世羽子の事か?」
 麻里絵は小さくため息をつき、そして呟いた。
「そういうところも全然変わってないよ…」
「いや、相変わらず顔に出すぎだお前…」
 尚斗は鼻の頭を指先でちょっとひっかき、ごく淡々とした口調で言った。
「ま、察しの通り世羽子とは、中学の頃つき合ってた」
「……」
「で、一目瞭然だろうし、過去形を使ったことからわかるだろうが、別れた」
「……何で?」
「まあ、俺がガキだったんだな……それ以上は聞くなよ、俺だけの話じゃないから」
 麻里絵はちょっと形容しがたい表情を浮かべると、じっと尚斗の顔を見つめてきた。
「じゃ、今度は私の番……私、みちろー君と……つき合ってた」
 端的な言葉とは裏腹に、麻里絵の瞳にはいくつもの疑問が同時に浮かんでいる。
 それは普通のこと……でいいの?
 怒る?
 寂しい?
 それとも……なんとも思わない?
「そっか、みちろーから告ったんだろ」
「……うん」
「そんで麻里絵が受け入れた……と。良いことじゃねえの?」
 どこかほっとしたような、それでいて傷ついたような表情で、麻里絵は空を見上げた。
「良いこと……ね」
 そう呟いた麻里絵を見た瞬間、上手くは言えないがどこか遠い印象を尚斗は覚えた。そして、かつて自分が見たことのなかった表情を見せられたからだと気付く。
 尚斗の5年は麻里絵の5年を意味する事を実感し、尚斗もまた空を見上げて呟いた。
「やっぱ長いか、5年は…」
「……他に、聞きたいことはないの?」
「みちろー、元気か?」
「うん……でも、みちろー君、今遠くの学校に行ってるから。すごい頭いい学校」
「ほお、それは意外だ」
「みちろー君、中学に上がったら勉強もスポーツも頑張ったから…」
「そういう意味じゃ……いや、いい」
 ひどく懐かしい表情でそう話す麻里絵に、尚斗は言葉をのみ込んだ。
 幼なじみと言うだけでは越えられない壁がある。
 越えようとすれば越えられるかも知れないが、それをするのは無礼だと思えたから。
 そして、尚斗は全く別のことを口にした。
「みちろーの連絡先教えてくれるか?」
「え…?」
「いや、携帯…持ってるんだろ?」
 日本語ワカリマスカ?と言う感じに、尚斗は自分の携帯を取りだして麻里絵の目の前で振って見せた。
「なんか…意外」
「ん?」
「だって……あの頃の尚斗君、『俺は、携帯なんて絶対に持たない…』とか言ってたから」
「別に……今も嫌いなんだけどな。中学の時ちょっと必要に迫られて……ほとんど使いもしないのに、今も惰性で持ってるってとこだ」
「……それ、もったいなくない?」
「そう思ってたから……使い道を探してた」
 尚斗は苦笑を浮かべ、そして言った。
「でも想像してみろよ…いきなり俺から連絡を受けたときのみちろーの面」
 麻里絵の口元に微笑が浮かび……しかしそれはすぐに拭い去るように消え去った。
「あは…面白そう」
 口調だけは楽しげに。
「じゃ、私のもついでに……尚斗君のも教えて」
「へいへい……」
 それからの会話はとりとめのない……麻里絵の話題が過去に偏ることが多少気になったが、とりあえずは楽しい時間を過ごした。
 ふと、麻里絵の足が止まる。
「ここだよね…」
 麻里絵と尚斗の住む家の住所をわける町と町との境界線で、そして2人の帰り道が別れる場所。
「覚えてる?」
「ん?」
「お互いの中学の入学式の前の日……私と尚斗君、ここでお別れしたんだよ」
「はは、別にその時に限った事じゃなかっただろ、それ…」
 みちろーの家は麻里絵の町内のもっと内側にあり、遊び場所によってはまずみちろーが別れ、そして麻里絵と尚斗のふたりがここに辿りつくまでの短い時間を共に過ごした。
「……みちろー君はね、別れるときにいつも『また明日』って言ったのに」
「『また明日』って言って、会えなかったらなんか約束を破ったような気になっていやだったんだ…」
 麻里絵がちょっと顔を上げた。
「そっか……そんな風に考えてたんだ、尚兄ちゃんは」
「約束ってのがどうも重荷に感じる性格みたいだ俺は……」
 電柱に背を預け、尚斗は空を見上げた。
 ここに来ると決まって何か言いたそうな顔をして、それでもそれが言えなくて、ただ黙って麻里絵が尚斗の言葉を待つようになったのはいつからだったか。
「私、あの日にね……尚兄ちゃんには聞こえなかったかも知れなかったけど、頑張って言ったんだよ。ほら、中学生になるから……言わないとダメかなと思って」
 見れば、麻里絵が笑っていた。
 同じ言葉でも違う意味があったりするように、同じ表情に見えてもその下には全く別の感情が潜んでいたりする……それが分かるくらいにガキではなくなった。
「……また明日って」
「そりゃ……悪かった」
「そうだよ。尚斗君ったら、振り返りもせずにズンズン帰っちゃうんだもん。そうしたら、案の定5年もほったらかしで…」
 ちょっと怒ったように。
 それにちょっと救われた。
 あの日、麻里絵が自分の背中に投げかけた言葉は、尚斗には届いていたから……。
「……今日はいいよね?」
「何が?」
 麻里絵はちょっと深呼吸し、そして言った。
「尚斗君、また明日ね」
「ま、あまり期待はするなよ」
 怒るかと思ったのだが、意外にも麻里絵はちょっと微笑んだだけだった。
 
 同時刻。
 尚斗と麻里絵のいる地点からそう離れてもいない場所を歩む2人の少女がいた。
「ねえ、聞いてよ世羽子」
「何?」
「今日授業中に屋上で歌ってたんだけど、それを聞かれちゃって恥ずかしいったら…」
 恥ずかしいと言いつつ、どこか楽しげに話す様子をみて少女はため息をついた。
「そんな、呆れなくても良いじゃない」
「別に、弥生のことを呆れたワケじゃないから…」
 弥生と呼ばれた少女が不思議そうに首を傾げるのを見て、もう1人の少女が呟く。
「変わってないな…って」
「……?」
 
 
                  第2話 完
 
 
 ……思っていたより短くなってしまいました。(笑)
 これならわざわざ分割する必要なかったか。
 1話の分量があんまり長くなるとフットワーク悪いかなと思ったんですが。

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