ゴツ、ゴツ……
「……尚斗」
「ん?」
 ぎこちなく松葉杖をついて歩く息子の姿が見ていられなかったのか、父が心配そうに提案した。
「タクシー呼んだ方がいいんじゃないか?」
「たかだか歩いて20分や30分の場所に行くのに呼んだら、向こうが迷惑だろ」
「いや、しかしな…」
「つーか、青山が自転車に乗せてってくれるってさ。心配ないよ…」
「そうか…」
 父が浮かべた安堵の表情はすぐにかき消えた。
「……青山君にも申し訳ないことしてしまったな」
「自分でもわかってるからそれ以上言うな、親父」
 いつになく咎めるような口調から、父は尚斗の胸中を思いやったのか素直に口を閉じた。
「ま……定員割れなんだかなんだか知らないが、今年も二次募集があってラッキーだったと思わなきゃな。歩いて通えるから、電車代もかからねえし」
 かつては名門と呼ばれて地域の俊英を集めた時期もあったらしいが、新しい私立校の進出や時代の流れ云々が影響し、近年にいたっては今にも崩れそうなオンボロ校舎をはじめとした設備の貧弱さに生徒が寄りつかず、悪循環を繰り返している……のが、尚斗の家から歩いて30分ほどの場所にある男子校だったりする。
 偏差値は低い……が、毎年のように定員割れを起こしてこの時期に二次募集を行うため、尚斗のようにちゃんと受験ができなかった不運な人材を拾い上げたりして毎年数人はそれなりの大学に進学する卒業生がいることと、ラグビー部とボクシング部がこの地域ではなかなかの強豪なので、その関係ではちょっと有名なぐらい。
「……ま、何はともあれ頑張れ」
「……受験に絶対はないが、多分受かるとは思う」
 尚斗は父に向かって軽く右手をあげると、玄関のドアを開けて外へ出た。
「……なんだ、来てたなら呼んでくれりゃいいのに」
「約束の時間まで、まだ3分あったからな……おっと、今はもう1分20秒か」
「細かいこと言うなよ……」
 尚斗は苦笑を浮かべ、松葉杖をつきつき青山の側に駆け寄ろうとして……固まった。
「……激しく動くと骨に響かないか?」
「……青山先生の仰るとおりでございます」
 ちゃりりりり……
 青山のこぐ自転車の荷台に横座りし、尚斗は流れる景色を眺めながらぽつりと呟いた。
「……すまん」
「何が?」
「いや……受験、駄目にさせて」
 受験校に向かう途中で車にひかれた尚斗に付き添い、救急車に乗って病院まで。
 その後、尚斗の父に連絡を入れたり……してたら、受験なんかできるはずもない。もちろん、受験生側のそんな都合を考慮してくれるほど、世の中という奴は甘くもなかったり。
「……俺がそんな事気にするタイプだと思うのか?」
「青山自身はそうかもしれないが……ほら、親とか世間体ってやつがさ……お前んち、昔このあたりを治めてた殿様の家系だろ、うるさいんじゃねえの?」
 青山はちょっとため息をついた。
「……俺がそんなもん気にするタイプだと思うのか?」
「いいから、謝らせろ」
「こういう時は謝るんじゃなくて礼を言えばいい……って、昔誰かさんが言ってた気がするな」
「礼なら事故の後に言っただろ……」
 自転車をこぎながら、青山が器用に肩をすくめた。
「ま、有崎は日頃から好き勝手にお節介しまくってるんだからな。たまには反対の立場になって、自分のお節介が相手に負担をかける事があることをじっくりと実感しておけよ」
「……やな事言うね、青山先生」
 人通りが増えてきたせいか、青山のこぐ自転車の速度がちょっと落ちた……もうすぐ、男子校が見えてくるはずだった。
 
「外見はいかにもオンボロだが……」
「中は一層すごいな……生徒が集まらないのも無理はないというか」
 建物自体が古いこと自体はそう悪いことではない。
 きちんと手入れされていればそれなりの風格も滲みだそうというものだが、今となってはかつての名門の威光ではなくガラが悪いことで有名な高校だけに……まあ、なんというか。
「まあ……少なくとも今日は進学希望生徒が集まってるんだが」
「本当に腹が空けば食えることだけで感謝する生き物だよ、人間は」
「だから、まわりの人間を刺激するような事を口にするなと言うに…」
 なんとしても中学浪人は避けたい……という事なのか、ガラの悪そうなのはもちろん、一癖も二癖もありそうなのがぞろぞろと。
『……受験を受ける生徒は、このまま真っ直ぐ進んで体育館に……』
「ん?このまま試験会場に行くんじゃないのか?」
「最初に説明でもあるんだろ……教室とか間違う事もあるだろうし」
 青山の言うとおり、試験の前に受験生を体育館に集め、受験会場である教室移動の説明やらなんやら……掲示板に要点を書いた紙を貼っておけば十分なのに、わざわざ手間暇をかけてとしか2人には思えなかったが。
「……しかし、ここが最後の砦って感じに追いつめられた受験生となんでこんなとこにって感じに落胆してる受験生が両極端だな」
「俺が言うのもアレだが、有崎も結構まわりを刺激する発言を……」
 青山は言葉を切り、背後を振り返った。
「俺達に何か用か?」
「…っと」
 ちょっと意外そうな表情を浮かべた少年……おそらくは同じ受験生なのだろうが、受験に臨む緊張が全く感じられないところが妙に浮いている。
 もちろん、尚斗もほとんど緊張はしていないのだが、それなりの心構えはしているワケで……こう、上手くは言えないが、能力の上下ではなく根本的な部分で張りつめているモノが感じられないというべきか。
「いや、俺は別に…」
 何か言い訳でもするように、少年がポケットに突っ込んでいた手を……。
「動くな」
 声を荒げたわけでもない静かな口調だが、青山の言葉に少年の動きがピタリと止まる。
「おい、青山…?」
 尚斗の問いかけを無視し、青山は威圧するようにじっと少年を見つめ、少年は青山の視線を受け止める。
 その間数秒、少年がちょっと視線を逸らした。
「……お前が何をやらかそうが構わんが、俺達を巻き込むな」
 少年を見据えたまま、青山は淡々とした口調で呟いた。
「……おいおい」
 少年は、白い歯を見せて笑う。
 口調といい、表情といい、なんとなく憎めないモノがある……が、青山は反対に警戒感を強めているようで、静かな視線を向けているだけ。
 少年は、尚斗の松葉杖に視線を向けた。
「……怪我で志望校を受験できなかったクチか?」
「まあ、そんなとこ。ここはここで家から近いし、悪くはない……」
 尚斗はちょっと口ごもり、体育館の床、壁、天井に視線を泳がせた。
「……と、思いたいなあ」
 尚斗の言葉に少年はちょっと笑みを浮かべ、気を取り直したように青山に視線を向けた。
「さて……行っていいか?」
「ああ、そのままの姿勢でゆっくりとならな」
「じゃ…」
 少年は制服のポケットに手を突っ込んだまま2人に背を向けて去っていった。
「そんなにやばそうな奴には見えなかっ……」
 尚斗はちょっと言葉を切り、自分の足に視線を向けて納得したように小さく呟いた。
「ああ、俺がこんな状態だから気を遣ってくれたのか」
「……暴力的雰囲気とかじゃなく、何というか、何をやるかわからない雰囲気という方がより正確なんだがな…」
 青山の言葉を尚斗がしみじみと噛みしめるのはこれから数分後のことである……。
 
「……ん?」
 体育館の隅の方で何やらざわついているのに気づき、尚斗はそちらに視線を向けた。
 ケンカでも始まったのか……と思ったのだが、何やら様子がおかしい。
「臭っ!」
「なんだこれ?」
 今度は、逆方向でそんな声があがりはじめた。
 口元や鼻を押さえた生徒が、入り口に向かって動いていく。
「んー?」
 一体何が起こったんだろうなと、尚斗が青山に視線を向けると、青山の視線は騒ぎの起こった場所ではない方を向いていた。
「……奴か」
「え?」
 青山が指さす方角にさっきの少年が……ごくさり気ない動作で、ポケットから取りだした何かをばらまき、ばらまいては再びポケットに手を突っ込み、その場から離れる事を繰り返している。
「……まあ、あんな無造作にばらまいているって事は危険物じゃないよな」
 そう呟いた尚斗の鼻に、独特の異臭が漂ってきた。
「……って、これは」
「……征露丸だな」
 尚斗はこめかみのあたりにじんわりとした痛みを覚えつつ、場所を変えながら未だソレをばらまき続ける少年を見てため息をついた。
「受験前に、並の神経じゃないな……つーか、俺には絶対できない発想の持ち主だな」
 余裕があるとかそういう次元を越えた……自分は持ち合わせていない何かを備えた精神の持ち主であることを尚斗は即座に確信する。
「発想云々より、それを実行に移せる行動力というか精神力を誉めるべきだと思うが……」
 そう呟く青山が微妙な表情を浮かべているのに気付き、尚斗はちょっと首を傾げた。
 この手の悪戯に関して基本的に青山は随分おおらか……なはずなのだが。
「確かに場所を選べという気持ちはわからないでもないが……まさか征露丸の匂いを間違える奴なんていないだろうし、誰に危害が及ぶ悪戯でもないと思うが?」
「いや、有崎も知ってるだろうが俺はあの手の悪戯は嫌いじゃない……というか、ある部分では手を貸してやりたいぐらい感心してる」
「だったら……」
 青山はちょっと首を振り、眉間にしわを寄せた。
「実を言うと有崎……俺は征露丸が嫌いでな」
「そ、そうなのか…初耳だ」
「勝手な言いぐさに聞こえるかも知れないが……俺は、俺を不快にさせるあの悪戯を許し難い」
「そ、そうか…」
 青山の右手がゴキリッ、と鈍い音をたてる。
 かなり利己的とも思える理屈だが、青山には青山なりの秩序法則があることと、青山の危険性を知っている尚斗はおとなしく頷いた。
「その……なんだ。程々にしておけよ」
 尚斗の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか……青山は既に少年に向かって歩き始めていた。
 
 大国露西亜を征するという名に恥じぬ威力を発揮し、体育館はあの独特の臭気に包まれ、受験前の緊張を纏った集団はちょっとしたパニック状態に……まではおそらく少年のもくろみ通りだったのだろう。
 しかし、事態はそれだけに留まらなかったのである。
 近年の物騒な事件のせいなのか、早とちりな人間による『毒ガスっ!?』『生物テロかっ!?』という余計な叫び声が状況を一変させ、プチパニックは本格的なパニックを呼んで体育館はまさに右往左往の大混乱となり、警察がやってきたり消防隊がやってきたりして、結局受験は後日延期に。
 これはちょっとした事件としてローカルニュースで報じられたのだが、もちろん悪戯犯人であるあの少年が捕まることはなかった……ただし、警察には。
 
「……誰がどう考えたって征露丸の匂いだっつーのに」
 教師の指示で体育館から避難させられた尚斗は松葉杖をつきつき、いかにも人が寄ってこなさそうな校舎裏にやってきた。
「……ビンゴ」
 校舎裏の用具室だかなんだかわからない建物の陰に青山らしき姿を認め、尚斗はゆっくりと近づいていく。
「おーい、青山」
「……受験、始まるのか?」
「いや……どうも今日は受験どころじゃなくなりそうだぞ」
 青山の背後から、尚斗は靴ひもかなんかで身体の動きを封じられた少年を覗き込む……と、尚斗よりも早く少年が口を開いた。
「こいつに何か言ってくれ!」
 それには応えず、尚斗は青山に向かって呟いた。
「なんだ、捕まえただけか……青山にしては優しいな」
「いや多少は手加減したが、二発ばかり入れた」
「二発っ!?」
 尚斗はびっくりして少年に視線を戻した。
「……元気そうに見えるが?」
「こいつ……身体が柔らかいというか、衝撃を逃がす能力が半端じゃない」
「すいません、許してください、勘弁してください、ボクが悪かったんです…」
 自分を捕まえた人物が予想以上にただならぬ存在だと気付いたのか、少年がじたばたと身悶えしながら謝罪の言葉を吐き始めた。
「……っていうか、めちゃめちゃ元気だな」
「じゃあ、後5発ぐらいいれとくか…」
 と、少年に向かって青山が拳を振り上げた。
「ちょっ、ちょっと待っ…」
「まあ、そのぐらいにしておいてやれよ、青山」
「……そうか?」
 青山がちょっとだけ残念そうに拳を止めた。
「あ、ありがとう、心の友よ!」
「ジャイアンか、お前は…」
 尚斗は苦笑し、感心したように言葉を続けた。
「警察やら消防隊なんかももうすぐ到着するらしいから、ばれないようにしとけよ」
「へっへ、そんなへまは……」
 少年はちらっと青山を見た。
「いや……本気で逃げて捕まったのは初めてなんだぞ」
「まあ、相手が悪かったな……というか、受験前だってのに大したモンと言うか…」
 半ば呆れ、半ば感心の口調で呟いた尚斗に向かって、少年はさらりと言った。
「ああ、俺受験生じゃないから」
 瞬きを3度ほどする時間、尚斗の心が空白になった。
「……え?」
 尚斗が青山を見る。
「それはつまり……今日、この場所であの悪戯をするためだけに受験生を装ったワケか?」
「くっくっくっ、その通りだよ明智君」
「なるほど…」
 青山がちょっとだけ笑い、尚斗も笑った……そしてつられたように少年が笑う。
「良かったな、青山」
「ああ……遠慮する必要が綺麗さっぱりなくなった」
「……というか、俺もちょっと、な」
 尚斗は松葉杖を壁に立てかけ、右肩をぐるぐると回し始めた。
 そして青山は、少年の身体を引き起こして建物の壁に背中を預けた体勢で少年の身体を固定する。
「あ、あれ……なんか2人ともいやーな雰囲気が」
「……と言ってもまともな打撃では効果が薄いぞ」
「左右から青山と俺で同時に打撃を加えたらいいんじゃないのか……衝撃を逃がすにも限界があるだろうし」
「も、もしもし…?」
 愛想笑いを浮かべる少年を無視して、尚斗と青山はこそこそと相談を始める。
「……じゃ、1、2、の3で」
「有崎、お前は足の怪我もあるし、全然手加減は必要ないからな。こっちでお前の威力に合わせるから」
「了解」
 左右に尚斗と青山が分かれたのを見て、少年は額に汗を滲ませた。
「ちょ、ちょっと……ぼ、暴力反対」
「1」
「2の」
 『3』のかけ声にあわせ、青山の拳と尚斗の拳が唸りをあげて少年の両頬へと吸い込まれた。
「ぐえっ」
 完全に白目をむいた少年を眺めながら青山は呟いた。
「……足、大丈夫か?」
「ん、手を抜いたからさほどには……というか、戻ろうぜ」
「そうだな……」
 青山はちらっと少年に目をやり、右拳を握りしめてふっと少年の目の前で身体を沈み込ませ……
「たんまたんまっ!」
 じたばたと身をよじる少年の鳩尾の手前で拳を止めた青山がため息混じりに呟く。
「……やっぱりか」
 理解したか?と言いたげな青山の視線に、尚斗はちょっと頷いた。
「仕方ない……本気でいくか」
「ちょっ、ちょっと待て!気絶しなかったからといって痛くないわけじゃないんだぞ……っていうか、お前らの攻撃マジで痛いって!」
「……自分が生きていると実感できる感情は恐怖だ。良かったな」
「いやぁっ!」
 
 そして時は移り……4月。
 
「……新入生総代、宮坂幸二」
「はい!」
「ぶうっ!(*2)」
 その少年が立ち上がった瞬間、尚斗と青山は同時に噴きだした。
 尚斗はともかく、青山にこのリアクションはとらせた事は奇跡に近い。(笑)
 そこの2人静かにしやがれってな教師の視線に、2人は平静を装いながらひそひそとと小声で囁きあう。
「(あ、青山……新入生総代って事は)」
「(ああ…つまり奴は)」
 青山は、ステージへの階段を登っていく少年に視線を向けて言葉を続けた。
「(一次募集で合格してたって事だろう)」
「(……しかも総代か、おい)」
 呆れたように呟き、尚斗もまた視線をそちらに向けた……と、少年の視線と尚斗の視線がぶつかった。
 どうやら2人が少年のことを覚えていたように、少年もまた2人のことを覚えていたらしく、ちょっと笑ってみせた。
 ただ、再会を喜ぶような爽やかな笑みではなく、にやり、という擬音が似合いそうなどす黒いモノを感じさせる笑み。
「(……奴、またなんかやる気だな)」
「(俺もそう思う…)」
 ステージの中央で立ち止まると、マイクを前にして少年はポケットからきちんと折り畳まれた紙切れを取りだした。
「(ん?)」
「(どうした、青山?)」
「(いや……なんかポケットからあれを取り出すときの動きがちょいと不自然だったような…)」
 キイィィィンンンッ!
 耳障りな音が体育館内の人間の鼓膜を激しく揺さぶった。
 教師連中が何人かスピーカーのスイッチを入れたり切ったりと忙しく動いたがそれは収まる気配もなく……が、唐突にそれが止んだ。
「(……ぬるいな)」
「(これが悪戯というなら、少々失望だ)」
 などと尚斗と青山が囁きあった瞬間、スピーカーから艶っぽい女性の声が流れ出した。
『ふふ、そんなに固くならないでボウヤ……固くするのはここだけでいいのよ』
『あっ、先生っ……そんなとこ…』
 ざわざわざわっ!
「なんだ、何がどうなってる!?」
 教師が声を荒げた……が、今現在マイクの近くにいる人間はいない。
「スピーカーのスイッチを切れっ!」
「ダメです!反応しません!」
 大慌ての教師連中をよそに、アダルトビデオだかポルノ小説のドラマテープだかわからないが、いわゆる18禁な内容が10分以上に渡って垂れ流されたのであった。
 ちなみにこの悪戯に関しては少年の仕業ということが『何故か』発覚し、入学早々3日間の停学を食らうことになったのは別の話である。
 
「おーまーえーらーかー?」
 入学式から4日後、教室に現れた宮坂は恨めしげな視線を尚斗と青山に向けた。
「俺、ああいう悪戯嫌いだから」
「同じく」
「悪戯ってのは好きとか嫌いとかでやるモンじゃないんだ!インスピレーションなんだよ!」
 ごっ。
「ぐえっ」
 顔の両頬にパンチを浴びて、宮坂は床の上に倒れた。
「……おや?」
 妙に静まりかえった周囲を尚斗が見渡すと……クラスメイトのほとんどが尚斗の視線を避ける、避ける、避ける。
 それとは対照的に、妙に挑戦的な目つきをした男子が数人、尚斗を値踏みするようにじろじろと眺め回していたり。
 倒れたままの宮坂に視線を向け、尚斗はポンと手をうった。
「……なるほど、こいつの仲間と思われたか」
「有崎、それちょっと違う」
「……と言うと?」
 青山と尚斗のパンチを受けて倒れる宮坂……これ以後、男子校では日常茶飯事の光景になるのだが、今の周囲の人間にとって青山と尚斗は『いきなり宮坂を殴り倒した危険人物』でしかない。
 宮坂は宮坂で、入学式でお茶目なことをやらかして停学を食らったワケわかんない存在といったところ。
「周囲がお前に抱いたイメージ、暴れん坊ってとこか」
「むう…」
「はっはっはっ、暴力教師ならぬ暴力生徒ってわけか…」
 速やかに復活した宮坂が、なれなれしく尚斗の肩を叩いた。
「早いなっ!」
「くっくっくっ、暴力生徒と一緒にいたら俺まで仲間と思われるからな……」
 にやりと笑うと、宮坂は尚斗達から離れて他の生徒に話し掛け……話し掛け、どことなく拒絶された雰囲気を感じ取ったのか2人の所に戻ってきた。
「えーと、仲良くやろうぜ」
「こ、この男……いろんな意味で早すぎる」
 こめかみのあたりにじんわりとした痛みを覚え、尚斗はそれを振り払うようにちょっと首を振った。
「青山と有崎だったっけ?俺は宮坂、宮坂幸二。じょにーと呼んでくれ」
「……何故?」
「おいおい、最後まで言わせるなよ…」
 こんな事も知らないのか……と言わんばかりに、肩をすくめて首を振る宮坂。
「じょにーといえば、イギリスで活躍した伝説の麻薬捜査犬に決まってるだろう」
「すごいな、お前、麻薬の臭いがわかるのか」
 瞬きを数回繰り返し、宮坂は青山に視線を向けて言った。
「……珍しいリアクションを返すな、こいつ」
 青山は氷よりも冷たい視線を宮坂に向けた。
「俺は、お前とは無関係だ……挨拶以上の会話を期待するな」
「ク、クールを通り越した視線…」
 
「いやー、この季節には珍しいモノを見つけてな…」
 2限目が終わってなって登校してきた宮坂は、大きなずた袋を机の上にそっと置いた。
 入学式早々の停学あけから、今日で連続遅刻記録を8に伸ばしたというのに、全く悪びれた風はない……昨日、生活指導の先生に散々絞られたようだが、これっぽっちも気にしていないのは明らかだった。
「何だこれ…」
 ずた袋に伸ばしかけた尚斗の手を、宮坂が慌ててひっつかむ。
「危ないから触るな」
「そんな危険なモノを俺の机に上に置かれても困るんだが……つーか、中身は?」
「いくら払う?」
 宮坂が差し出した右手を、尚斗はぱしっとたたき落とした。
「煽るだけ煽って金払えってのは一種の詐欺だぞ」
「くっくっくっ…」
 宮坂は口元に妙な笑みを浮かべつつ、両手をわきわきと蠢かした。
「純真な生徒を容赦なく竹刀で叩きまくる暴力教師に鉄槌を下す、ファイナルウエポンとだけは言っておこうか……」
「……遅刻しなきゃ良いだろうが」
「無茶言うなよ、俺ん家からこの学校まで2時間近くかかるんだぞ」
「……2時間って」
 尚斗がはちょっと絶句する。
「お前、どこから通学してんだ?」
「〇×だけど?」
「……って、隣の県じゃねえか。越境入学にもほどがあるぞ、それ」
 それまで黙っていた……というか、無視していた青山が口を開いた。
「俺が言うのも何だが、何でわざわざ隣の県からこんなぼろっちい男子校に……ボクシングやラグビーに青春を燃やすタイプには見えないが?」
「んー、ちょっと事情があってな」
 宮坂は苦笑を浮かべ、ほっぺたを指先でひっかいた。
「あ、すま…」
 謝りかけた尚斗の言葉を遮って、宮坂が小さな声で歌い出す。
「〜俺たちゃ、町には住めないからに〜♪」
「何をやったお前」
「おいおい、人を犯罪者みたいに言うなよ」
 宮坂の仲間として周囲に認知されていく尚斗にその自覚を求める愚を悟ったのか、青山がため息混じりに呟いた。
「どうでもいいが、その物騒なモン持って消えろ……教室内に1匹でも逃がしたらただじゃすまさんからな」
 宮坂はちょっと驚いたように青山を見た。
「あれ?」
「そろそろ目を覚まし始めてるぞ……羽音がする」
 宮坂は青山に指摘されて初めて気付いたのか、ずた袋にそっと耳を寄せた。
「ちょ、ちょっと計算違いが…」
 ポケットからスプレー缶を取りだしてずた袋の口からそれを噴出……
「青山……アレって」
「……下手すりゃ死人が出る。これ以上関わり合わない方が身のためだぞ」
 
 その日の放課後。
 愛車に乗って家に帰ろうとした某教師が、車の中で大スズメバチ数匹に襲われて入院したのは別の話である。
 
『……証拠はないがお前が犯人だ、宮坂』
 少年探偵顔負けの台詞とともに、2回目の停学を食らった宮坂が再び学校に姿を見せたとき、既にゴールデンウイークは過ぎ去っていた。
「証拠もないのに罰せられる……法治国家にあってはならない処分だよなあ」
「……お前が犯人じゃねえか」
「……学校は法治地域じゃないからな」
「冷たい、冷たいよ、お前ら!」
 ごごつっ!
「……ちょっとは暖かくなったか?」
「あ、足のギプスが取れたせいか……威力が違うな」
 倒れたままの宮坂をじっと見つめ、青山が興味深そうに呟いた。
「なるほど、ダメージを予測しそこねた……単純に打たれ強いというわけではない、か」
「妙な分析しないでくれよ…」
 重そうに身体を起こし、宮坂が椅子に座り直した瞬間。
「いつまでくっちゃべってやがるっ、席に着けゴルアァっ!」
 バシーン、と壁を竹刀で叩きながら某教師が姿を現した……宮坂の姿を認めて、憎々しげな表情を浮かべてつかつかと歩み寄ってくる。
「なんだ、もう停学期間が終わったのか宮坂」
「おかげさまで滞りなく」
「ふざけるなっ!」
 と、いきなり竹刀を横殴りにして宮坂の顔に……直撃する寸前で、尚斗の左足裏がそれを受け止めていた。
「先生、いくら何でも竹刀で顔面はまずいっしょ」
「あん…」
 ひどく嬉しそうな表情を浮かべ、教師は竹刀を肩に担いでじろじろと尚斗を見る。
「ああ、青山1中で暴れてた有崎ってのはお前のことか……どうせ、ここ以外に来る学校がなかったってクチだな」
「いやあ、その通りっす」
 頭をかきながら尚斗は微笑んだ。
「いいか、おとなしくして迷惑をかけるんじゃないぞ」
 教師が尚斗の前髪をつかみ、そのまま机に叩きつけた……が、尚斗は何事もなかったかのように上体を起こす。
「そのつもりですけどね」
 ちょっと勝手が違ったのか、教師の矛先がこの3人の中で最も危険な存在に向いた……というか、向いてしまった。
「お前は何だ?」
 青山が、虫を見るような目つきで教師を見て言った。
「粗暴な外見と言動にそぐわない哲学的な質問ですね」
 教師は最初きょとんとした表情を浮かべ、次に顔を赤くした……もちろん羞恥ではなく怒りで。
 教師が、青山の胸についている名札に目を留めた。
「ははあ……お前が青山か」
 侮蔑と羨望の入り混じったような表情を浮かべ、教師が吐き捨てるように呟く。
「問題を起こしても家がどうにかしてくれるとでも思ってるんだろう……だがな、青山家の人間と言ってもお前なんか所詮…」
「おっと……」
 急に立ち上がろうとした尚斗が倒れかけたのを抱きとめて、青山は教師に爽やかな笑みを向けた。
「さっき机に叩きつけられたせいですかね……多分、問題ないとは思いますが保健室に連れてってきます」
「おい、まだ話は…」
「先生、ズボンが落ちてますよ」
「何?」
 ベルトが切れ、足首までストンと落ちたズボンを見て、今度ばかりは羞恥に顔を赤くした。まわりで笑っている男子生徒を威嚇するために竹刀を振り回すが、その姿はただ間抜けなだけで。
「じゃ、そういう事で」
 右手首をちょっとひねり、青山。
「青山君、1人じゃ大変だろうから俺も行くよ」
 ちゃっかりと宮坂。
 
 ベッドの上の有崎に視線を向け、宮坂が呆れたように呟いた。
「しかし、鳩尾から、首筋……って、洒落にならない打撃だったが」
「こいつは純粋に打たれ強くてな、あのぐらいやらなきゃ意識が断ち切れん」
「あのズボンは……ナイフか?」
「そう見えたならそうだろ」
 とりつく島もない青山の返答に、宮坂がちょっとため息をつく。
「自分が机に叩きつけられても怒った風には見えなかったのに……仲、良いんだなお前ら」
「さあな。ま、有崎がそういうヤツなのは否定しない…」
「ま、それはそれとして……」
 宮坂が小さく頷きながら呟いた。
「むかつくだろ、あの教師」
「先に警告しておくが…」
 青山が、言葉の重要性を悟らせるようにちょっと間を取る。
「…こいつを騙すのはいいが、利用しようとはするな」
 宮坂はちょっと首をひねった。
「それ、意味違うのか?」
「騙す騙されないは本人の責任だからな……まあ、お前の頭がただの飾りじゃないならじきにわかるさ」
「……もうちょっと、軽くならない?」
 肩をすくめつつ、宮坂が呟く。
「俺、そういう会話ダメなんだわ……人生はタイミングとC調というか」
「別に、お前の選択を否定しようとは思わん」
「……あっそ」
 宮坂はちょっと頷き、話を変えるように手を叩いた。
「……で、あの教師の事だが」
「聞こうか」
「……いいのか?」
「ああいう周囲に害毒しか垂れ流さない存在は、その醜悪さに応じた地獄を見せてやるのがまわりの人間の義務ってヤツだな」
 宮坂はちょっと腰を引き、顔の前で小さく手を振った。
「こ、殺すとか言うのは無しな……そういう直接的な暴力的手段は俺のポリシーに反するから」
「……スズメバチはいいのか?」
「何を言ってるんだ、アレは不幸な事故じゃないか」
 自分に何らやましいことはないとばかりに胸を張った宮坂を見て、青山はにやりという擬音がぴったりの笑みを浮かべた。
「とりあえず、お前の悪戯は杜撰すぎるから俺が考える……と言うことで、お前が何をできるかちょっと教えろ」
「何ができると言われてもな……とりあえず」
 宮坂が保健室のドアを開けてから20秒後。
 ズドドトトッ…
「……」
 制服に付いた埃をはらいながら、ちょっと呆然としている青山に向かって保健室の窓越しに宮坂が話し掛けた。
「……俺が他人に自慢できるとすれば、このぐらいだが」
「……今の、屋上からだな」
「ああ、警備やら警察の人間の追跡を振り切るにはこれが一番」
「保健室から20秒で屋上の身体能力もすごいが……」
 青山は、宮坂が着地した地面を見つめて首を振った。
「……有崎の母親が言ったとおり、日本は広いな」
「は?」
 
 その時、屋上にいた面々の表情が凍り付いた。
 ズドドトトッ……という凄まじい音が呪縛を破ったのか、数人が慌てて屋上の縁に駆け寄り、下を覗き込む。
「青山っ!」
「とりあえず、救急車は呼んだ」
 いつでも冷静な青山が、携帯を持ち上げる……もし尚斗が冷静だったなら、ちょっとばかり早すぎる事に気付いたかも知れないが。
「有崎、俺は宮坂を見てくる……ヤツは頑丈だから助かるかも知れん」
 小走りに屋上から去っていく青山を確認することなく、尚斗は宮坂を突き落とした教師に駆け寄ってその胸ぐらをひっつかんでグイと持ち上げた。
「てめえっ、教師だからってやっていいことと悪いことの区別もつかねえのかっ!?」
「い、いや…ワシは、別に…」
「てめえが突き落としたんだろうがっ!?」
「しかし、ワシは…別に…そんな力を入れたワケじゃ…」
 教師に向かって反抗的な態度の尚斗に怒るでもなく、青ざめた表情でしどろもどろの弁解を始める教師……既に、屋上にいたほかの数人も非難めいた視線を教師に向け、ひそひそと…
『やべえよ、宮坂のヤツピクリとも動かねえ…』
『殺人だろ、これって…』
 そんな囁きがさらに教師の精神を追い詰めていく。
「わ、わ、ワシは、ワシは…」
 ピーポー、ピーポー…
『救急車だ…』
「……何?」
 尚斗は持ち上げていた教師の身体を下ろし、校庭に視線を向けた。
「……早すぎないか、それ?」
「わ、ワシは…ワシは…ただ…」
 まるで事故現場が最初からわかっていたかのように何の躊躇もなく校庭内に乗り入れられた救急車から2人の人間が飛び出て、宮坂の身体を担架に乗せて運んでいく。
 ピーポーピーポー……
 そのまま素早く去っていく救急車……あまりにも速やかすぎ、まるで悪い夢を見ていたかのよう。
 もちろん、教師にとっては悪夢以外の何物でもないだろうが。
 膝をつき、がっくりとうなだれてぶつぶつと何かを呟いている姿は、事情を知っている人間にとっては滑稽そのものである。
「……とんでもない事をしでかしましたね、先生」
 いつの間にか屋上に戻ってきた青山が、『先生』の部分にアクセントをつけて教師の肩をポンと叩いた。
「あ、青山……宮坂は、宮坂は…?」
「さあ、俺は医者じゃありませんから……外傷は確認できませんでしたが、内臓を強くうった事だけは確かでしょう…」
「た、助かるよな、助かるんだよなっ?」
「……どっちでも同じでしょう、先生には」
 絶対零度の口調で、青山が呟いた。
「……?」
「教え子を屋上から突き落としておいて……助かるとか助からないとか、意味のある質問とは思えませんけど……そう思いませんか、先生」
「わ、わ、わわわ、ワシは…」
「……まあ、その日までご自愛下さい」
 そう呟くと、青山は『きちんと説明しろ』という視線で自分を凝視している尚斗の方に向かって歩き出す。
「……どうした?」
「どうしたじゃねえ」
 青山はちょっと俯き、神妙な口調で呟いた。
「宮坂は多分奇跡的に助かると思う」
「……」
「宮坂のヤツ、地面にぶつかる直前にちゃんと受け身を取ったらしい」
「受け身でどうにかなる高さかっ!?」
 ぼろぼろとはいえ、4階建ての屋上である。
「有崎……親に肩車された幼児が落下すると大怪我をするが、俺達ならなんてことないよな?」
「は?」
「宮坂は、俺達が思うより大きかった……それだけだ」
 自分が黒幕ということを地平線の彼方まで追いやって、青山が首を振った。
 
 その3日後。
「やあっ、心配かけたな有崎」
 元気良く右手を挙げる宮坂に胡散臭そうな視線を向け、尚斗はちょっと首を振った。
「宮坂、お前どこの病院に入院してた?」
「え…」
「……」
「あ、いや……例えるなら、俺は野生の狼だからな。傷ついた身体の快復をただひたすらに待つ場所は誰にも教えられないと言うか…」
「……」
 尚斗は無言で宮坂の首根っこをひっつかみ、窓際に向かって引きずっていく。
「あ、有崎尚斗君?」
「宮坂……もし俺の勘違いなら、俺もここから飛び降りてやるから勘弁な」
「う、うわっ…」
 引っこ抜かれるように宮坂の身体が宙を舞い、開け放たれた窓から校庭に向けて落下していく……。
 ズドドトトッ。
「……ほう、五点着地か」
 この技を生で見られるとは……という感慨を滲ませながら呟く青山。どうやらこの件に関してはとことん自分が無関係であることを貫く腹らしい。
「なんだそれは?」
「ん、空挺隊員というか……元々はパラシュート降下の着地の衝撃を和らげるための技術を無謀に改良した技で、足の裏、膝、腰、肩……まあ、横倒しになるようなイメージだな……という感じに、自分の身体の耐久力を超えない範囲でダメージを分散して結果的に無傷で着地する方法と聞いたことがある…」
「……」
「ヤツは……あの技術を一体どこで?」
「……青山はできるのか?」
「無理……というか、冷静に考えてみろ。あれをどうやって練習するつもりだ?」
「……少しずつ高さを上げていくとか」
「練習で、一回失敗したらそこでお終いだよな……幻の技と呼ばれる所以だ」
 何事もなく会話を続ける2人とは対照的に、もちろんというか当然教室内はひきまくっている。
「あ、有崎、俺じゃなかったら死んでるぞ!」
 と、これは教室に戻ってきた宮坂。
 有崎尚斗、青山大輔、宮坂幸二……高校1年生5月末の時点で、3人は同学年の中で哀しいぐらいに浮いていた。
 
 
                    完
 
 
 これを書き上げて、後書きでも書こうかと思ってる矢先に、オセチアでの事件がニュースに流れたり……体育館か、書き直した方がいいかななどと。(笑)
 で、この話の宮坂幸二……恐ろしいことにモデルがいます……いや、屋上から飛び降りたらもちろん死にますけど、生徒を窓から突き落とした教師は実在します。
 
 199X年3月……T県の某県立高校の入学試験前、受験者が集合している体育館内であろう事はヤツは正露丸の瓶の中身をあちこちでばらまいて……アレって、オ〇ムのサ〇ン事件以降だったら多分大騒ぎに…大丈夫か、正露丸の臭いだし。
 とりあえず、あれを目撃した瞬間高任は思いました。
 
 『ダメだ、良くわからないがこいつには勝てない』と。(笑)
 
 彼は今どこで何をしてるんでしょうか…

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