「…話は変わるけど」
 それまで穏やかに談笑していた紗智が少し難しい表情をして呟いた。
「尚斗達の中学出身の生徒って、この学校に一人もいないよね…」
「……」
 尚斗はちらりと青山を見たが、青山は尚斗の視線そのものよりも、紗智の言葉すら聞いていないような感じで一見無反応。そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、紗智は言葉を続ける。
「…といっても、ここ2、3年だけの話なのよね。それまでは、毎年1人か2人……まあ、私たちの中学と同じような…」
 と、続ける紗智に対して、尚斗は困ったように窓の外に視線を向けた……瞬間、青山の口元が微妙に微笑み。
「有崎」
「ん?」
 と、青山の方に振り返った瞬間、青山の右拳……一本拳が、尚斗の人中をえぐる。
「こっ!?」
 空気の固まりのような声を上げて、糸の切れた人形のように昏倒する尚斗。
「……さて、一ノ瀬」
「な、なっなっなっ…何が『さて、一ノ瀬』よっ!?いきなり、何やったのっ!?」
「……一ノ瀬、俺が何かやったのが見えたとでも言うのか?」
「見えなかったけど、アンタが何かやったに決まってるでしょっ!尚斗、完全に白目向いてるじゃないっ!?」
「心配ない。一般人ならともかく、有崎なら蚊に刺されたようなもんだ」
 と、血相を変えた紗智に慌てず騒がず青山。
 それで紗智も多少気を取り直したのか、倒れたままぴくりとも動かない尚斗に視線を向けつつ呟いた。
「……ちなみに、尚斗じゃなくて一般人ならどうなるの?」
「そうだな…個人差もあるだろうが、今の一撃なら半々の確率で死に至るだろうな。残りの半分の半分は植物状態ってとこか…」
「ちょ、ちょちょ、ちょっとっ?」
「問題ない。もし命に関わるレベルなら、有崎は今の攻撃を確実に避けただろうし、そこにそうして倒れてるのは俺の方だしな」
「は?」
「……有崎の母親は紙一重の天才だって事なんだが」
 少し遠い目をして呟き……そんな自分を恥じるように青山は言葉を続けた。
「まあ……そもそも俺は、有崎の前で秋谷の悪口を言うほどの度胸がない」
「……」
 紗智は二回ほど瞬きをすると、自信なさそうな表情で、失神している尚斗に視線を向けた。
「それは…つまり…この学校に、青山君達の中学出身の生徒がいない理由があって、その理由を話していただけるということ?」
 何故か微妙に敬語を使ってしまう紗智。
「結論から言うと、秋谷がこの学校にいるからみんな逃げた」
「……はぁ」
 ため息をつくと、紗智は疑わしそうな視線を青山に向けた。
「なんか、青山君ってさあ…秋谷さんを悪者に仕立てようとしてない?」
「俺は事実を語っているだけだが」
 どこか楽しそうに青山。
 その表情や口調から、紗智が何かを読みとれるはずもなく。
「確か……事実と真実は別とか言ってたわよね?」
「少なくとも俺がそう思っているだけの話だが」
 そう前置きして、青山は言葉を続けた。
「事実っては起こった事象を指し、真実ってのは起こった事象に各個人が抱いた感情込みの認識を指す……事実は一つだが、真実ってのはそれこそ人の数だけある…というのが俺の考えだな」
「秋谷さんがいるから……この学校を誰も受験しなかった…のは事実?」
「少なくとも、学年が1つ上でここに合格してた人間が2人いたが、秋谷が特待生としてここの中等部に来ることが決まるやいなや入学手続きを取り消したのは事実だ」
「……もういい、なんか、やな話になりそうだし」
 紗智は机の上に突っ伏し……ぽつりと呟いた。
「そういやさ、青山君と秋谷さんってどういう知り合い?」
「小6の夏休み明け、秋谷の通う小学校の同じクラスに俺が転校してきた…そんなとこだな」
「……」
「言いたいことがあれば、素直に言っていいぞ」
「青山君ってさ…ほら、青山家の…人間だよね」
 机に突っ伏した体勢のまま、どこか躊躇うような口調で。
「さあ、素直に青山家の人間と言っていいかどうか…」
 青山はちょっと肩をすくめながらそれに応え。
「そう思ってるのは、死んだじじいと、従姉妹の一人ぐらいだろ」
 何やら紗智レーダーに引っかかるモノを覚えたのか、『従姉妹』と聞いて紗智がぴくりと耳を動かした。
 そして、ことさら関心なさそうに。
「その、従姉妹…って、いくつ?」
「ん、21で、大学3年だが」
 紗智がむくりと起きあがる……その瞳がキラキラと輝いていた。
「え、何?青山家で孤立してる少年に寄せる憐憫の感情が恋愛感情に昇華されたりするわけ?」
 紗智の発言に青山はほんの少しだけ笑みを浮かべつつ。
「それはないな」
「いやいや、そうでもないのよ」
 勢いづいた紗智が、青山の肩に手を置こうとしたがかわされて体勢を崩す……が、そのまま言葉を続けた。
「なんだかんだ言っても、青山君って自分のことには疎そうだし。実際、見た目だけで言うなら尚斗とは比べモノにならないぐらいポイント高いわけだし、特殊な状況は女の子の母性本能をごしごしくすぐったりするモノなのよ」
「どこかの女教師と同じでそういう意味では甘い女じゃない。俺の予想では、あの従姉妹が青山家を継ぐことになるはずだしな……ぼんくら揃いのあの家では珍しく、じじいの才覚をかなり受け継いでいる人間だ」
「や、一介の女子高生にそんな生臭い話しないで、お願いだから」
 全身で拒絶感をアピールする紗智。
「一ノ瀬は青山家の人間に生まれなくて良かったな」
「別に…荒んでるのは青山君のとこだけじゃないけど」
「……ほう」
「……って、話逸れてるっ!」
「俺に、秋谷の何を話せと?」
「え…」
 紗智の頬が刷毛ではいたように赤く染まった。
「有崎戦に備えて、あわよくば秋谷の弱みを握りたい…結局はそこだろう?」
「あ、う…」
「無駄だな、秋谷はこと戦いにおいては心身両面において掛け値なしの天才だし、そもそも一部の例外を除いて弱みに屈するような女じゃない」
「そうっ、その一部の例外とやらを…」
「そこに転がっている男。少なくとも俺の知る限りそれ以外の弱みは秋谷にはない」
「……」
 紗智の視線が尚斗に向く。
「それじゃ意味無いのよ…っていうか、そもそも青山君と秋谷さんはどういう関係?同じ小学校出身とか、そういうのはどうでもいいから、もうちょっと実のある話を」
「関わるのが苦痛じゃない知り合いだな。付け加えるなら、俺が苦痛を感じない相手というのは非常に珍しい」
「……秋谷さんはめちゃめちゃ苦痛を感じてるっぽいけど」
「まあ、人間関係にはありがちなパターンだ」
「……そうね」
 呆れたように、紗智はため息を付いた。
「じゃあ、話題をちょっと変えるけど……青山君が初めて秋谷さんを見たとき、どんな印象を受けた?」
「……そうだな」
 昔のことを思い出すかのように、青山がほんの少し視線をあげた。
「とりあえず、気配というか存在感がずば抜けていたな……鳩の群の中に、猛禽類が紛れ込んでいるような違和感というか。しかも、本人にその自覚が全くないときた」
「も、猛禽類…ね」
「……加えて言うなら、危うかったな」
「もういいっ。まともに答えてくれそうにないし…」
 そう言って紗智がぷいっと顔を背ける。
「ふむ…俺はごくまともに答えたつもりなんだが…」
 そう呟いて、青山は窓の外に視線を向けた。
 
 
「ねえねえ、ウチのクラスに転校生が来るって聞いた?」
「あ、さっき職員室で見たよ〜ねえ?」
「うん、背が高くて格好良いよ……ウチの男子とは大違いって言うか」
「え〜ホントに?」
 滅多にないイベントに騒然となる6年1組の教室内……とはいえ、騒いでいるのはもっぱら女子の方で、男子の方はさほどでもなく。
 もちろん、我関せずとばかりに男子以上に無関心な女子も一人……無関心を装っているのではなく、心底関心を持っていないだけだが。
 ただ、それは転校生に限らず、自分を取り巻く世界のほとんどに対して興味がないあたり……やや精神的に欠落したモノを抱えているという判断をされても仕方ないであろう。
「……興味ないの、世羽子ちゃん?」
 興味はあっても、その話題に加われない……といった感じの少女が、ちょっと困ったような表情を浮かべて話しかける。
「……別に、どうでも」
 頬杖をついたまま、世羽子は幼なじみである草加由香里(くさかゆかり)の顔をちらりと見やった。
「まあ……自分の隣に机が一つ増えてりゃ想像はつくし」
「多分……先生、転校生の世話を世羽子ちゃんに押しつける気だと思う」
 ため息混じりに由香里……世羽子自身とのつきあいが長いだけあって、このあたりは察しがいい。
「それと、本人も見てない状態で何を騒ぐ必要が…」
 世羽子はちょっと口を閉じ、さっき由香里が言った言葉を繰り返した。
「…押しつける?」
 転校生の世話をクラス委員の世羽子に任せる……という意味合いではなさそうだ。
 由香里は物事の本質を見抜いたような言葉を口にすることが少なくない……とはいえ、本人にその自覚はほとんどなく、わけの分からぬまま相手の不興を買うこともしばしばで、世羽子以外の相手と会話をすることを怖がっているのもそのせいだった。
「お母さんが教えてくれたんだけど……転校生って青山家のお坊ちゃんなんだって」
 多少関心が向いたのか、世羽子の手がゆっくりと頬から離れた。
「……あそこ、私達と同じ年齢の子供なんて居たかしら?」
「ん…」
「それに、あそこの人間はみな私立の学校に行ったんじゃなかった?」
 由香里はちょっと困ったようにちょっと視線を逸らし、ぽつりと呟いた。
「……妾の子って言ってた」
 かつてこの地域を治めていた青山家……明治維新によって、藩という支配体制が覆された後も、長年にわたってそれなりの影響力を及ぼし続けている。
 もちろん、この青山小学校に通う生徒の居住区域が、主に城下町の中でも武家屋敷の建ち並ぶ地域であったことも影響しているだろう……人の吹き溜まりである都会と違い、地方社会においては、このように長きにわたって形成された主従関係の意識が、親から子へ、子から孫へと、薄まりつつも受け継がれていく事はそう珍しくない。
 しかし時代の流れなのか、年齢が上がるほどある種の敬意を持って接することがほとんどだが、世羽子の世代になると、それは両親の態度によって左右される程度のモノになり果てていて。
 まあ、世羽子の場合……住所が小学校校区のはずれ、割合最近に形成され始めた新興住宅地などという理由ではなく、開明性に富んだ両親の影響と、世羽子自身が有する頭脳の明晰さ故の態度なのだが。
「あ、そ…」
 もう、興味はない……と、ばかりに世羽子がそっぽを向く。
 世羽子にとって、妾がどうのこうの…と、話す大人達の態度を想像することは難しくなく、基本的に生真面目な性格はそれを不愉快に思わせるのに十分で。
「ご、ごめん…世羽子ちゃん」
「由香里が謝る必要はないわね…」
「……ん。でも、世羽子ちゃんがそういうの嫌いなことをわかってるのに、そういう話題を振っちゃったわけだから…」
 そう思うなら単に話題を変えればいいだけの話なのに、わざわざこうやって謝ろうとする由香里の態度に不満と同時に好感を覚えつつ。
「ただ単に、会話の流れね……由香里は私の疑問に答えただけ。どちらかと言えば、私の自業自得の感が…」
 ガララッ…
「おーい、みんな。席に座れよ」
 教室のドアを開けてやってきた教師の背後に見慣れぬ少年が一人……おそらくは、アレが転校生なのだろう。
「じゃ、世羽子ちゃん…私、席に戻るね」
 由香里がそそくさと自分の席に戻っていく。
「……うぉ、でけえ」
 男子の一人が感嘆したように声を上げた。
 世羽子の見たところ、170センチ以上175センチ未満というところか……小学6年で170センチ越えとなると、大騒ぎするほどではないが大柄な部類に入る。
 まあ、現時点で166センチの世羽子は世羽子で、大きいことは大きいが大柄というカテゴリーで括られるべきかどうか微妙なところなのだが。
 ただ世羽子の場合、発する雰囲気が子供のモノとはかけ離れており、12歳でありながら大抵は高校生、下手をすれば大学生に見られてしまうほど大人びているため、あまり身長云々は関係なかったりする。
「さて、既に噂が流れているようだが……転校生の青山君だ」
 世羽子から見て、教師の態度は微妙に思えた。
 青山家に対する媚とともに、どこか嘲るような雰囲気が見え隠れして……世羽子自身、この教師のことが大嫌いなため、そう感じるのかも知れない。
 例によって自己紹介を……という流れになり。
「青山大輔です、よろしく」
 教室の中に誰もいないかのように、少年はさめた視線を後ろの黒板に向けたまま挨拶をした。
「え、えっと…」
 それだけか……と言いたげな教師の機先を制し、少年が呟く。
「何か?」
「あ、いや……わからないことがあったら、クラス委員の秋谷に聞くように」
「秋谷…?」
 何の説明もなかったのに、少年の視線が迷うことなく自分に注がれ、世羽子はちょっとたじろぐような気持ちになった。
 しかし、それを気付かなかったのか、説明を始める教師。
「ほら、窓際の後ろの席……隣に開いた席のある…」
 これ以上バカにつき合ってる時間はないと言いたげに、少年は教師の説明を最後まで続けさせることなく歩き出す。
「お、おい…青山…?」
「あそこが俺の席でしょう?」
 後ろを振り向くことなく、空いた座席を指さして。
「あ、うむ、そうだ…」
 気圧されたように頷く教師に構うことなく、少年は世羽子の隣の席に腰を下ろした。
「秋谷です、よろしく…」
「よろしく」
 世羽子はちょっとため息をついた。
 由香里が無意識に使ったであろう『押しつける』という言葉が、恐ろしいほどに真実に近いところにあると世羽子は絶望的に悟ったからだった。
 正確には、自分に押しつけざるを得ない……だろう。
 この少年を担任教師がきちんと扱えるはずがない……世羽子の目にははっきりとそう見えている。
「必要ないと思うけど、聞きたいことがあったらそう言って……聞かれない限り邪魔はしないから」
 少年の視線が、ちょっとだけ世羽子に向く。
「クラス全員がそのぐらい察しがいいのを期待しても無駄か?」
「無駄よ、教師も含めてね」
 と、世羽子は冷たく言い放った。
 
「……お節介だとは思うんだけど」
「……言ってみろよ」
 3時限目の休み時間、隣同士の席だというのにお互いに顔を見合わせることなく。
 1時限目、2時限目と、転校生の周りにわらわらと集まってきていた連中が、誰も寄ってこなくなったことから、少年が彼らに対してどういう態度をとったかは想像していただきたい。(笑)
「『なんだよ、転校生だから親切にしてやろうと思ってるのに…』……ってな感じに、自己欺瞞ってのはたやすく敵意に変わるわよ。あなたがそれを利用するようなタイプには見えないけど、青山家の影響力ってのが理解できるような頭の持ち主ばかりじゃないから」
「ほう」
 その相づちには、ちょっと感心したような響きがあり。
「多分、他人と関わりたくないんでしょうけど……時と場合によっては、逆効果になるわね」
「他人と関わりたくないんじゃなくて、バカを相手にしたくないだけだが」
「……あなたはそれで良いかも知れないけど、立場上、私は助けなきゃいけないのよ」
 少年がちらりと世羽子を見る。
「青山家の影響なんぞ、くそくらえってなタイプに見えるが…」
「はぁ?」
 世羽子は呆れたように少年に視線を向けた。
「私は、クラス委員なの…それが、単なる押しつけであってもね」
 ややあって、少年が微かに微笑む……おそらく、この教室に姿を見せてから見せた、初めての感情らしい感情の発露。
 なんとなく…だが、悪くない微笑みだと世羽子は思った。
 少なくとも、このクラスの連中や担任教師に比べればこの少年は世羽子にとって好ましい存在に思える。
「なるほど……助ける必要はない」
「別に…そういう意味じゃなくて」
 世羽子はちょっと言葉を切り、ため息混じりに呟いた。
「他人の助けを必要としないぐらい強いでしょ、あなた。だから、私は考えなしの馬鹿が怪我しないように助けなきゃいけないの」
 
「えっと……」
 転校生が男子のみんなに連れられて変な雰囲気……慌てた様子でそう告げてきた由香里に見えぬようにちょっとため息をつき、世羽子は現場に急行したのだが。
「遅かったかしら」
 転校初日に、これだけの人数から攻撃衝動にまで発展する敵意を集めるのも一種の才能なのだろうが……既にほぼ全員、腰が抜けたようにへたり込んでいる。
「……青山君?」
「怪我はさせてない、痣はもちろん、医者に診せても打ち身の診断すら出せないから、クラス委員が心配するようなことじゃない」
 と、振り返りもせずに言い……少年は残っている二人に近づいていく。
「や、やめろよ…来るな」
 握りしめた棒きれを振り回しながらも……二人の腰は完全に引けていて。
「俺もそう言ったはずだがな……俺に関わるな、と」
 少年の右腕が一閃……しばらくして、2人は酔っぱらったようにふらつき、その場にしりもちをつく。意識はあるのに、からだが動かない……元々恐怖というものは理屈ではないのだが、理屈そのもののわからない小学生にとって、今や少年はたやすく恐怖の対象となるべきオーラを振りまいている。
 その場にへたり込んでいる全員が、心の底から少年に対して脅えていた……数人は失禁しており、生涯忘れられぬ記憶として彼らを苦しめるかもしれない。
「……なるほど、そんなこともできるのね」
「……?」
 いぶかしげに、少年が振り返る。
 自分が被害を受けたわけではないにしろ……この光景を見て感嘆の呟きをもらす世羽子の反応がおそらく意外だったのだろう。
「この光景を前にして、珍しい反応だな」
「別に……脳震盪を起こさせた…だけの話じゃないの?あなたの言うとおり、誰かが死んだわけでも怪我したわけでもないし…まあ、素手で、そういう事ができるってのは、ちょっと驚いてるけど」
 世羽子の返答に少年はちょっと首を傾げ……周りに転がっている少年達にちょっと視線を向けた。
「俺が何をやったか見えたのか…?」
「まあ、なんとかね」
「……」
「私、何か気に障ること言った?」
「いや」
 少年はちょっと首を振り……自分自身に言い聞かすように呟いた。
「…なるほどな」
 
 少年が転校してきてから1週間が過ぎた。
 例の一件と、その後のちょっとしたいざこざ(笑)はまたたくまに全校生徒に知れ渡り……もはや、少年に話しかけようとする勇気ある存在はおろか、できる限り少年の視界に入らぬよう、できる限り少年を視界に収めぬように細心の注意を払うまでに。
 ごく普通の人間なら周囲のそんな対応に耐えかねるであろう……が、少年は気にとめる様子もない。
 むしろ、すすんでその状況を作り上げた……と、推測していた世羽子は、早々と少年の期待に添うように礼儀正しい隣人を貫き、維持している……が、どうも、教師はそういう訳にもいかないらしい。
 クラスにうち解けさせよう……と試みた教師が2人いたのだが、容赦のない少年の口撃を浴びて1人はノイローゼで休職、もう1人は、あろうことか少年を暴力で従わせようとしたらしく……肉体的には傷一つなかったものの、いわゆるやばい精神状態で放課後の校内をふらついていたところを保護されて入院中。
 理論でも、暴力でも太刀打ちできず……しかしながら、表面上は教師に対する礼を失うこともない問題生徒。
 事ここにいたり、教師達はやっと自分達のとるべき手段を見いだした……そう、こちらから何もしなければ、何も起こらない……ニトログリセリンを扱うように、それもできる限り触れないように。
 その結果。
「……青山君、これ、先生があなたに渡してって」
「ん…」
 何かの連絡事項が書かれた用紙を、少年は世羽子から受け取った。
 本人に自覚のない予言者である由香里の言葉通り、青山は世羽子に押しつけられたのである。
「すまないな秋谷、損な役回りをさせて」
「別に、青山君と接するのは苦痛じゃないから…むしろ」
 そこから先を、肩をすくめる事で表現する世羽子。
「確か、一人だけいたんじゃなかったか?」
「由香里のこと?」
 会話を二つほど飛ばした青山の言葉に迷うことなく世羽子はついていく。
「そうね…」
 ちょっと俯き、世羽子はぽつりと呟いた。
「多分、外界と断絶した生き方ができる青山君ほど精神的に強くないからでしょうね……あの子はまあ、私の心におろされた一本の蜘蛛の糸なのよ、きっと」
「なるほど…なら、可能な限り傷つけるようなことはしないように心がけよう」
「……」
「どうかしたのか、秋谷?」
「あ、いえ…なんというか…」
 世羽子は複雑な表情を浮かべつつ。
「他人に対してそういう気づかいはしないタイプだと思ってたから」
「礼儀正しい隣人は貴重だからな…その程度の礼は尽くすさ」
「そう、ありがと……といっても、あんまり関係はないかもしれないわね。ひとみしり激しいから由香里は」
 そういって、世羽子が柔らかな笑みを浮かべた。
 おそらく、自分で思っている以上に心の中の柔らかい部分を託しているからだろう。
「…気づいてないのか?」
「何を?」
「2、3日前から…なけなしの勇気を振り絞って、俺に話しかけてみよう…という素振りを見せているんだが」
「それは……珍しいかも」
「……確かに、草加が秋谷以外の人間と喋っているのを見たことがないな」
「本人の性格……というか、ちょっと事情があってね」
 世羽子の眉根が寄る。
「なるほど、じゃあ質問を変えるが」
「何?」
「秋谷は何故、周囲から必要以上に怖がられている?」
 微かな沈黙。
「……昔から色々あったけど、一番の理由は、4年の時に担任教師を病院送りにしたからでしょうね」
「ほう」
 特殊な事情が絡んでいることに気を取られて、『必要以上に』という質問の意味が気がついているのかいないのか。
 おそらくはそのことも含めてなのか、少年は興味深そうな表情を浮かべている。
「花瓶で顔面を2回……両目の……名前は知らないけど、このあたりを骨折させて、文字通り顔の形を変えてあげたのよ」
 このあたり、と指先で自分の目の下を指しながら、吐き捨てるような口調で世羽子。
「なるほど……下手すりゃ眼球が落ち込んで失明モノだな」
「……驚いてもいいところじゃないかしら?」
「ここで驚くような相手なら、そもそも秋谷は喋らんだろう」
 青山は何でもないことのように肩をすくめて見せた。
「それに、理由ありだろ」
「わかるの?」
「大方、秋谷の蜘蛛の糸に性的悪戯ってとこか?」
 青山の言葉に、世羽子は何らかの予感を抱いていたのか、ただ薄く笑った。
「まあ、卒業生も含めて被害者は結構いたみたいでね……一応、私もその被害者の一人ってことになってるけど」
「ほう、よく2発で勘弁したな」
「2発で花瓶が砕けちゃったのよ……殺すつもりはなかったけど」
 そう言った世羽子が浮かべた微笑みはどこか荒んだモノを感じさせ。
「それはそうと……証拠が必要だったのか?」
「教師の1人や2人、ぶちのめすのは簡単だけどね……その後で自分の身を守る算段をしないほど馬鹿じゃないつもりよ」
 おそらく、これまでそういう事を話せる相手が相手がいなかったのか……世羽子の口調と表情に、はっきりと心の荒廃の気配が滲み出た。
「……秋谷」
「……ごめんなさい、ちょっと愚痴をこぼしちゃったわね」
 世羽子が青山に対してそうだったように、青山は世羽子にとっても礼儀正しい隣人であったから……自分の非礼をわびた。
 
 カツン。
 頃合いと見たのか世羽子が教科書の角で机を叩く……と、ざわざわと騒がしかった教室内がシーンと静まりかえった。
 そして指導力不足を非難するかのように、担任教師に対して冷たい視線を向け……教師は気まずげに視線を逸らす。
 こんな生徒を受け持つと、教師は違う意味で気が休まることがない。
 世羽子のそれは、クラス委員……がどうのこうのと言うより、荒んだ心情を示した行動なのだが、一人を除いて誰もそれに気づかないらしい。
 無論、教師やクラスメイトにそんな心の余裕はないだろう。
 これまでは世羽子1人だったのだが、2学期からは青山まで加わったのだ……世羽子のような行動こそ起こさないが、青山の存在感はある意味世羽子を凌いでいて。
 ここ数日、体調不良……主に腹痛、頭痛のたぐいだが……を訴える生徒が増えているのは間違いなくこの2人が原因だろう。
 ただ、基本的に子供の方が世間の常識というモノに染まってない分抵抗力が高いのか、担任教師が、そろそろ神経性ストレスで倒れそうな顔色なのにくらべれば可愛いモノとも言える。
 それにしても……今日の世羽子が周囲に振りまく刺激的なオーラはいつも以上に濃厚すぎて。
 きーんこーんかーん…
 チャイムが鳴った瞬間、一番安堵したのは教師だった。
「よし、今日はここまで」
 と、足早に教室を出ていきかけた教師の背中に世羽子の冷たい声が飛ぶ。
「先生、次はHRです。やることやってから帰ってください」
 世羽子の教師の権威も何もない言いぐさ……が、そもそも他の生徒の行動につながっているのだが、それがわかっているのかいないのか。
 そんな世羽子に視線を向けるでもなく、青山が小さくため息を付く。
 突出しすぎた能力を受け止められる人間が身の回りに誰一人いない結果であることに気づいてはいるものの、それに対して何とかしてやろうと思う程お人好しでもなく。
「ま、これでつぶれるならそれまでの才能だったということだ…」
 などと心の中でうそぶく始末。
 ピリピリしたムードの中、HRが終わり……教師を筆頭に、もう1秒たりともあの2人と同じ空気を吸いたくないとばかりに、少年少女が足早に教室を出ていく。
 そして、例外が一人。
「よ、世羽子ちゃん…一緒に帰る?」
「ごめん由香里…今日はちょっと用事があって」
「そう…じゃあ、また明日ね」
 自分が断ったかのように、申し訳なさそうな顔をして教室を後にする由香里。
「青山君、お先」
 由香里との下校を断ったにも関わらず、鞄を持って教室を出ていく世羽子……学校に用事があるのではなく、単に由香里と一緒に下校したくなかったのか。
 青山の知る限り、登校はともかく下校はいつも一緒だった……そんな微かな違和感が好奇心を誘ったのか、青山もまた静かに教室を出ていく。
 
「ふむ…」
 物陰から見守りつつ青山。
 相手は4人……おそらくは高校生だろうが、その落ち着いた物腰と実年齢よりもかなり大人びて見える世羽子だけに、下手をすれば相手の方が年下に見えかねない。
 感嘆しつつも、青山は微かに首を傾げる。
 どういうやりとりがあったかは不明だが、荒事に慣れた感じの高校生を相手取り、世羽子は一人、また一人と戦闘不能へと追い込んでいく……見ていて全く危なげはないのだが、どこか妙なのだ。
 ここにはいない誰かを、もしくは違う体格の相手を想定した練習のような……。
 パンチなりコンビネーションの一つ一つを取ってみれば、お手本のようなモノなのだが……背の高い相手と低い相手ではもちろんパンチを打つ場所が変化して当然なのに、全員ほぼ同じ高さの場所に打ち込んでいる。
 もちろん、相手によって受けるダメージは異なるわけで。
「……?」
 パンチを打ち……別の相手に向き合うための足さばきも、綺麗な部分とぎこちない部分があり……。
 そして最後の一人……逃げだそうとする相手の退路をわざわざふさぎ、世羽子の右腕が一閃した瞬間、思わず青山は身を乗り出した。
「ほう…」
 つい先日、青山自身がやってのけた技。
 あごの先を文字通りピンポイントで打ち抜かれ、腰が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ少年に対し……世羽子はさめた視線を向けたまま、少年の顔面に向かって握りしめた右拳を振り下ろす。
 青山の眉をひそめさせる容赦のなさ……は、既に倒れて戦闘不能の残りの少年に対して向けられそうに思え……まさに仕方なくと言った感じで、青山は世羽子に声をかけた。
「……そのぐらいにしておいたらどうだ」
「なんで?」
 そこに青山がいることを知っていたかのように振り向く世羽子……右頬についているのは返り血か。
「よりによって、小学生からカツアゲするような馬鹿よ」
「……」
「釈迦に説法かもしれないけど、手加減したところで後が面倒なだけ」
 そう吐き捨てながら、倒れた一人の股間をぎこちない動きで蹴り上げる。
 くぐもった悲鳴を上げてイヤな感じに身体を痙攣させる少年を見つめたまま、青山がため息混じりに呟く。
「……そのつもりなら、まだ手ぬるいな」
 倒れている少年の腕をとり……
「〜〜〜〜っっ!!?」
 あり得ない角度に曲がった腕を抱えた少年の身体を踏みにじり、青山はやや毒気を抜かれた様子の世羽子にかまわず、その場に転がっている少年全員を、どこからか取り出したテグスで縛り上げ、これまたどこからか取り出したタオルのような布きれで全員に猿ぐつわを噛ませる。
「……?」
「中途半端はやめておけ」
 自分の容赦のなさは、所詮怒りという感情の発露からきているもので……青山のそれが全く違う事に気づいたのだろう。
 世羽子は恥じ入ったようにうつむいた。
「さて…」
 青山手が縛り上げた一人の顎をつかみ……外す。
「〜〜〜っっ!!」
 猿ぐつわがずり落ちた少年の口の中をのぞき込み……目標を定めたのか、青山は手を突っ込み……奥歯の一本を引き抜いた。
「はがっ、あががが〜〜!!」
 麻酔も何もなく奥歯を引き抜かれたのだ。
 当の少年の痛みも相当だろうが、それ以上に口から吹き出る血を否応なしに見せられる残りの少年3人の恐怖はいかほどか。
「目を逸らすな」
 少年3人が身をすくめる……が、青山の言葉は世羽子に対して向けられたモノで。世羽子ももちろんそれをわかっていたから、逸らしかけた視線をもとに戻した。
「さて、もう一本…」
 おそらくは渾身の力を込めて抗おうとしているのだろうが、青山がそれを許すはずもなく……2本目の歯が引き抜かれる。
「今日一日は、絶食しろよ…」
 などと歯医者のようなことをいい……青山が振り向く。
 もちろん少年3人は思いっきり首を振る。
 いくら鈍くとも、言葉なしに通じる青山の視線。
 と、青山が爽やかに微笑みながら一人を引き寄せ……同じように顎を外した。
「……おや、綺麗なもんじゃないか」
 少年が、口をだらしなく開けたまま涙を流して頷く。
「ふむ、じゃあ親不知だな」
 と、青山の手が突っ込まれ……以下略。
 そして5分後。
 少年達が吐き散らした血のお陰で、あたりはかなり凄惨な様相を呈しており……もちろん、少年4人といえば、この5分で10歳ほど老け込んで見えるほどに消耗していた。
 青山のやっていることから目を逸らさなかった世羽子も少し疲れたような表情。
 そして青山はといえば……
「ふうん…」
 少年達の携帯電話や身分証明書などのチェックに余念がない。
「さて…」
 心底おびえ、がたがたと震える少年4人の1人の腕を取り……外していた肘の関節を入れてやる。
「……?」
 青山はちょっと微笑み……それをまた外した。
「っっ!!」
 声なき叫びをあげさせてから、また入れる。
 肩を外された痛みより、目の前の少年一人に与えられる恐怖の方が上なのだろう…3人が3人、悲鳴も上げず、青山を見つめたまま震えるだけで。
 世羽子は、ただ黙ってそれを見ていた……。 
 
「……で、あの連中がカツアゲした額はいくらだ?」
「いくら…って?」
 さすがに青山の質問の意図をつかみかねたのか、世羽子は聞き返した。
「取り返すんじゃなかったのか?」
 と、青山が取り出したのは4つの財布。
「……」
「とられた額だけ抜き取って、後は返せばいいだけの話だと思うが」
「……いつ取ったの」
 世羽子はちょっと言葉を切り、質問のばかばかしさに気づいたのか首を振った。
「…いつでも取れたわよね」
 やがて世羽子は大きくため息をつき……空を見上げた。
「カツアゲ云々は前のことよ……邪魔された逆恨みだかなんだか知らないけど、私のことを捜してるって噂を聞いてね、こっちから出向いたってわけ」
「なるほど…」
 少し肩をすくめると、青山はさめた目で世羽子を見つめた。
「『手加減したって後が面倒』とか言ってたが、どうやら秋谷は、暴力ってモノを勘違いしているな」
「……」
「暴力の本質は、相手の抵抗力を根こそぎ奪い取り、長期にわたって屈従させるための手段だ……単に、相手を傷つけるだけ行為は暴力とは違う」
「……」
「地位や金、安っぽい言葉で言うなら権力なんてのも、要は暴力が形を変えたモノで……その場その場で相手をうち倒すだけの力は、暴力でも何でもない」
「……わかるような気は…するけど」
 世羽子には非常に珍しいぼそぼそと呟くような声。
「国と国との戦争をイメージしてみろ……相手を完膚無きまで叩きのめして、単に和平条約を結ぶような馬鹿がいるか?買った方は必ず負けた方に条件を突きつける……別の言い方をすれば、その条件を突きつける勝ち方ができない限り、戦争には意味がない」
「別に、脅して金を取ろうとかじゃなくて…ただ、絡んでくるから…」
「二度と絡んでこないよう……その目的に対して、手加減しないって手段は一番下策だ」
「……どうしろっていうの?」
 ちょっといらただしげに世羽子。
「相手に強いって思わせても無駄なんだよ…相手に怖いって思わせるのが、暴力の本質であり、要点でもある」
 青山はいったん言葉を切り…微かに微笑んだ。
「まあ、秋谷にはもうピンとこないかもしれないが……殴るとか蹴るとか、そういう暴力行為そのものに屈する人間は希でな。大抵の人間は暴力の気配に屈する」
「……だから、手加減しないって事は…」
「はっきり言おう、秋谷。お前は強いが、怖くない」
 あいにくと、この場にいるのは2人だけだったので、ツッコミを入れる人間はいなかった。(笑)
 そして、秋谷は自信なさそうな表情でぽつりと呟く。
「青山君……私って、強いの?」
「強い、の定義にもよるが」
 青山は一旦言葉を切り…口元に笑みを浮かべながら続けた。
「男とか女とかの性別以前に、体格で勝る4人を相手に指一本触れられることなく殴り倒したんだ……普通なら、充分だろ」
「普通じゃダメなのよ」
 吐き捨てるように呟き……ふと、世羽子は思い出したように言った。
「そういえば、一応お礼を言うべきよね。助けて貰ったわけだし」
「いや、必要ない……俺は、自分にとって利のないことは一切しない主義だ」
 世羽子の瞳に、微かに警戒の色が浮かぶ。
「なにをすればいいの?」
「いや、ちょっと質問がな…」
 瞳に浮かんでいた警戒の色が消える。
「質問?」
「ああ、何故ボクサースタイルなんだ?」
「何故って…」
 質問の意味は分かっても、意図が読めなかったのか、世羽子がとまどったような表情を浮かべた。
「秋谷の体バランスおよび、筋バランスからして、蹴りを主体としたストライカーだと判断してたから、正直意外でな。ボクサースタイルにしろ、肩関節の形状からして、ストレート系統より、フックやアッパー系を主体にした方が良さそうだし」
 たっぷり、5秒経ってから世羽子は間の抜けた声を上げた。
「……は?」
「なるほど、どうやら素質だけか…」
 青山はちょっと言葉を切り、質問を言い直す。
「ボクシングジムかなんかで指導を受けたのか?我流には見えなかったが」
「昔、テレビで試合を見ただけだけど?」
 今度は少年の方が、きっちり5秒ほど経って間抜けな声をあげる。
「…は?」
「だから……こう、昔…ちょっと理由があって、強くならなきゃって思ってたとき、テレビでボクシングの試合が放映されてて…」
「……」
「その人の姿を見た瞬間、あ、この人強いと思ったから…その真似をしてるだけ」
「ふむ…」
 ため息にも似た呟きを発し、少年が軽く手加減した蹴り……といっても、目にもとまらぬという表現がぴったりという程度の……を放った。
「真似…出来るか?」
「無理ね……私にはそれだけのスピードは出せないもの」
 少年は口を開きかけ……一旦閉じた。
 世羽子の言葉の意味を理解したからだろう。
 つまり、真似をしているのは動きだけではなく、速度も含めてなのだ……そして、おそらくは世界チャンピオンのボクサーの動きを、昔というのが数年前とすればたかだか10歳に満たぬ少女が…。
「じゃあ、このぐらいなら…」
 と、今度は先よりも手加減した、逆の脚で、違う軌道を描く蹴りを放つ。
「……こう?」
 あっさりとそれをコピーする世羽子に、少年がたずねた。
「いまのより、20センチ低い部分を蹴ってくれ」
「……こ、こう?」
 と、さっきとは比べモノにならぬ素人のような動き。
「ちなみに、こう」
「なるほど、こうね」
 と、少年が実際にやってみせると、世羽子はあっさりとそれをやる。
「……なるほど、才能があり余って馬鹿になってるのか」
「え?」
 訝しげに世羽子が眉をひそめた。
「外的コーディネイト能力が飛び抜けて高すぎるってことだ」
「……?」
 世羽子は自分の着ている服を見て首を傾げた。
「これ、母さんが買ってきた服だし、自分のファッションセンスには自信がない方なんだけど…」
「……頭悪くないんだから、もっと勉強しろ」
 と、いいつつ……さすがに無茶を言ってることに気づいたのだろう、少年は再び口を開いた。
「はしょって説明すると、人に写真を一瞬だけ見せ、同じポーズをしろ…で、それを再現する力がコーディネイト力……で、見たままを再現するのと、自分の想像した格好を再現するのを外的コーディネイト力と、内的コーディネイト力と分ける」
「……で?」
「前者と違って後者は、経験によって鍛えられる部分が大きくてな……早い話、普通の人間は、失敗を繰り返して自分の想像通りに動く能力を高めていくわけだ」
 少年の説明に思い当たる部分があったのか、世羽子は口を開いた。
「つまり、他人の真似をそつなくこなしてきた私は、その応用が利かない…と?」
「そういうことだ……基本的に、人は不自由を克服するために進化するわけだが、才能がありすぎると不自由を感じないから、どこか極端に抜けた部分が出来る……の、お手本みたいなケースだな」
「……」
「自分の動きに対して、筋肉がどう動くか……そこからだな。とりあえず、さっきの蹴りを逆の脚でやることを練習するんだな」
「何で?」
「理由は知らないが、強くなりたいんだろ……筋肉がどう作用して人間の身体が動いているか。それを理解するだけで全然違うはずだ」
 『何で?』に込めた意味を取り違えたのか、それとも無視したのか。そう言い残して去っていく少年の後ろ姿を、世羽子はじっと見つめていた。
 
「えっと…秋谷は、都合が悪くて学校を休むそうだ…」
 朝のHRで教師がそう告げた瞬間、教室内にほんのりと安堵した気配が漂った。
 具合が悪くて、ではなく都合が悪くてというところに、世羽子らしさを感じたのは二人だけ。
 HRが終わり、世羽子の席を見つめ、少年が呟く。
「……まさか、な」
「あ、あの…ちょっといいですか、青山…君」
 教室内がざわついた。
 世羽子以外が少年に話しかける事はもちろんだが、それをした少女が誰だったかもまた、ざわつきの原因であろう。
「どうかしたか、草加」
「…ぁ」
 少女はちょっと驚いたように口元を手で押さえた。
「どうした?」
「い、いえ…相手してもらえてると思ってなかったから…びっくりして」
 一旦言葉を切り、大きく息をついて。
「まあ、世羽子ちゃんの知り合いだからだろうけど、ありがとう」
「……お礼ではなく、怒る場面だと思うが」
「でも……話しかけるなって示してるのを無視した形だから」
 少女は、自分を見る少年の視線が微かに深まったように感じた。
「……なるほど、秋谷と付き合っていられるだけはあるのか」
「え?」
「いや……で、何の用だ?」
「……世羽子ちゃんの事なんだけど」
「何故休んだかについてなら、心当たりはあるが、確信はない」
 そう言って、少年はこちらを遠巻きに眺めている連中に視線を向け……それだけで教室の外へと追い払った。
「あ、ありがとう…」
 由香里はぎこちなく頭を下げる。
「そう思うなら、最初から人のいないところに呼び出せば良いだろう」
「う、うん…ごめんなさい」
「…で?」
「あのね青山君、世羽子ちゃんに色々教えてあげて」
 3秒ほどの沈黙を経て、少年は口を開いた。
「…どういう意味だ?」
「うん、よくわからないけど…なんとなく」
 そう呟く由香里の顔を見つめ……別にとぼけているわけでも無いのを確認したのか、少年は肩をすくめた。
「…よ、世羽子ちゃんに、自覚のない予言者っていわれたことがあるけど、やっぱり変だよね、私」
「勘の良い人間ってのは、自分の観察力に表現力が伴ってないケースが多い」
「……?」
 少年の言葉に、由香里はただ首を傾げるだけだった。
 
「……っ」
 少年の顔が弾かれたように窓の外を向くのに2秒ほど遅れて、世羽子が校門に姿を現した。
「…おいおい」
 半ば感嘆したように、半ば呆れたように、ゆっくりと登校してくる世羽子を見つめる。登校してくる児童の数が一番多い時間にも関わらず、少女の周囲には誰もいない……おそらくは近寄ることが出来ないのだろうが。
「おはよう」
 3日ぶりに姿を見せた世羽子は少しやつれたように見えたが……既にそういうレベルの問題ではなくなっていて。
「秋谷、少し抑えろ」
「抑えろって……何を?」
 世羽子は不思議そうに少年を見る……教室の中にいた生徒達が、何かに気圧されるように距離を取ったことに気がついていないのか。
「……つまり、こういうことだ」
 何か硬いモノを全身いっぱいにぶつけられたような衝撃を受け、世羽子は窓際へと後退した。
「…え、何?」
「殺気というか、プレッシャーというか……どんなに鈍いやつでもたじろぐレベルのが、秋谷から思いっきり放出されてる」
 と、圧力を引っ込めながら少年がいい……世羽子はちょっと困ったように呟いた。
「えっと……自覚ないんだけど」
「……そんな気はしてたんだがな…ついてこい」
 少年はためいきをついて立ち上がり、世羽子を連れて校舎裏へ。
「この3日間、睡眠もろくにとらずに練習してた……んだろうな」
「ええ」
 小さく頷き、ちょっと興奮したような面もちで世羽子は言葉を続けた。
「人間の身体って、面白いのね……関節とか筋肉とか、いろんなパーツが…」
「それは後だ。とりあえず、どういう経緯でそうなったかは知らないが、自覚もなくだだ漏れしてるその殺気をどうにかしないと、秋谷の日常生活がぼろぼろになるぞ……というか、両親は何の反応も見せなかったのか?」
「……言われてみると、お父さんは何か変だったわね。学校休んでるからだと思ってたけど……でもお母さんはいつも通りだったし」
「……ふむ」
 少年がちょっと頷く。
「で、さっきも言ったけど……自覚ないし、どうすれば引っ込むかなんてさっぱり……の前に、ごめんなさい迷惑かけて」
 
 ちなみに、少年と世羽子が教室に戻れたのは4時間目の半ば。
 
「ふっ」
 呼気と共に、空気を切り裂くように世羽子の手が、足が、流れるように連撃を繰り出す……を見て、少年は本日何度目になるかわからないため息をついた。
「……何か変?」
「いや……秋谷が、スポーツなり、武道を始めたら自殺を図る輩がぞくぞくと出てきそうだなと」
 放課後の校舎裏。
 瞳をキラキラさせて練習の成果を見て欲しいという世羽子に押されて……少年自身も、世羽子の底知れぬ能力に興味を持ったのか……以下略。
 9月である。
 小学校の授業が終わってから、日が沈むまでにはまだまだ時間がある……が、あたりは既に夕闇に覆われつつあり。
「正直ね…」
 額に汗を浮かべて世羽子。
「自分が出来ないことができるようになるっていうか……楽しいの。多分、生まれて初めてだと思う」
 まず少年のお手本をなぞり、次にその応用。
 どの筋肉と関節を動かせば、どういう動きになるのか……これまで顧みることの無かった自分の肉体に対して、この3日間、全精力を傾けて学び、実践し、振り返る事を繰り返した。
「ところで、そんなに強いやつがいるのか?」
 ふっと、世羽子の動きが止まる。
「どういう意味?」
「今の秋谷に勝てるやつを探すのはかなり困難なレベルなんだが……『強くならなきゃ』とかいう理由付けがまだ生きているように思える」
 何も答えず世羽子は蹴りを放ち……フィニッシュを決めたままの姿勢でぽつりと呟いた。
「多分…威力が足りないわね。体格のいい高校生4人が、金属バットでめった打ちにしてもけろっとしてるぐらいだから」
 少年はちょっと考えるように目を細めた。
「多分、青山君が想像したの間違ってるわよ」
「ほう」
「私や青山君より多分年下の男の子で……2年前に見たときは、身長が130ちょっとだったわ」
 少年の表情に、困惑が浮かぶ。
 小柄な小学生男子が、高校生4人に取り囲まれて金属バットでめった打ちにされながら平然と笑っているシーンをさすがに想像できなかったのか。
「……むう」
「あはは、青山君でもやっぱ想像できなかった?」
 そういって、世羽子が年齢相応の幼い笑みを浮かべた。
「別に、悪いことをしてるんじゃなくて……でも、私はその子を殴って……殴られたら痛いって事を教えてあげなきゃいけないの」
 あげたままだった足を下ろし、右拳を突き出す。
「……よくわからんし、聞くつもりもないが」
 少年は一旦言葉を切り……世羽子は気づいていないようだが、遠くからずっとこちらを窺っている少女にちらりと視線を向け。
「秋谷にそのつもりがあるなら、出来る範囲で鍛えてやってもいい」
 
「おい、一年坊主。ちゃんと先輩に挨拶しろ」
 面識も何もない、ただ廊下ですれ違った先輩とやらに挨拶するのが礼儀かどうかはさておき……それまで何人もの1年がすれ違ったにもかかわらず、青山だけにそれを言うのはやはり難癖を付けているだけだろう。
 青山と世羽子が出会ってから7ヶ月……2人は、中学生になっていた。周囲の3つの小学校から生徒が集まり、年度によって差はあれど、大体1学年150人から180人程度の中規模の中学校で、名を青山中学という。
 地名を取って……と言うよりは、長らくここを支配したかつての大名家の名を取ってと考える方がおそらくは正確だろう。
 その青山家に属しているあたりが、彼らにそういう態度をとらせたのか。
 青山はちょっとため息をつく。
 わざわざ挑発するような態度をとらなくても……と思うだろうが、その執拗な絡み方に多少うんざりしたモノを感じていて。
 微かに右手首をひねった瞬間、目の前の先輩二人が壁までふっとんだ。
「……」
 もちろんその接近に気づいていなかったわけではないが、その攻撃力を少しばかり見誤っていたのは確かで。ただ、派手にぶっとびはしたものの、攻撃を加えた箇所は急所でも何でもなく、精々痣が残る程度の打ち身のダメージを与えたのみだろう。
「このぐらいで勘弁してやれよ」
 そう言いながら青山の方を振り向いたのは、1年生としても随分と小柄な……制服の襟に付けられたバッチからそれと知れた……少年。
 屈託のない微笑みを浮かべる少年の全身を目の動きだけで隅々まで観察し、身長150センチほどのバランスの取れた体型でありながら、およそ70キロの体重を保持していることに興味を持った。
「……俺が、吹っ飛ばしたわけじゃないんだが」
「ナイフよりマシだろ」
「……ほう」
 青山はあらためて少年に見つめた。ナイフを取り出そうとしたのは確かだが、まだそれが誰かの視界に入ることはありえない状態で……はっきりとナイフと断言しているからには、ただの勘ではない。
 ふっと、青山の脳裏をよぎったのは世羽子の言葉。
 『私や青山君より多分年下の男の子で……2年前に見たときは、身長が130ちょっとだったわ』 
 青山は三度少年を観察した。これまで相手の肉体的能力に関してはほぼ一見で見通してきたのだが、目の前の少年にはどこか判断しきれない部分があり、世羽子より下とも思えるし、あるいは遙かに上のように思える。
「ふむ……俺はそいつらに絡まれて多少不愉快な気持ちだったわけだが」
「……?」
「そのストレスを解消する相手を横取りされた」
「ああ…」
 何をいわんとしているのか納得がいったのか、少年はぽん、と手を打ち……青山をじろじろと眺めた。
 それは、先ほど青山と同じ、相手の能力を瀬踏みするような視線で。
「本気……はちょっと勘弁して欲しいけど、殴っていいぞ」
「そうか…」
 『本気はちょっと勘弁して欲しい』という言葉が、すこしばかり青山を刺激した。
 本気ではないが、金属バットで殴られる以上の破壊力で少年の腹部を突き上げる……が、少年は多少口元をゆがめながらも平然としたモノで。
「……やはりこいつか」
 金属バットはもちろんだが、これだけの打撃に耐えうる小柄な少年が、この地域に何人も存在しているはずもなく。
「は?」
「いや……俺は青山という。同じ、1年のようだな」
 自分の能力より上か下かではなく、特別なモノには敬意を払ってきた……敬意を払うだけのモノが、目の前の少年にはある。
 そして、自分が殴られたことになんのわだかまりも感じていないか、少年は悪意のかけらもない笑みを浮かべて。
「俺は有崎尚斗。4組」
「そうか。じゃあな…」
 青山はその場を去って、1組にいるはずの世羽子の元へ歩き出した。
「……しかし、殴られたら痛いという事を理解していないようでもなかったが」
 
「……秋谷」
「何か用?」
 中学生にあがったばかりのクラスはどこか落ち着きが無い……のは確かだが、例によって既に世羽子の存在はごく自然な形で浮き上がっており、誰も近寄ろうとはしていない。
 それはもちろん青山も同じなのだが。
「4組に有崎という男子がいる」
「は?」
「いや、それだけだが」
「何の話?」
 首を傾げる世羽子を放っておいて、青山はそのまま教室を出ていった。
 
 余談ではあるが、世羽子と尚斗が出会うのは、これから1週間後の事。
 と言っても、いきなり火を噴くような右コークスクリューブローを食らわされた尚斗(目撃者あり)には何が何やらわからなかったであろうし、その代償として手首を捻挫した世羽子にとっても、すこしばかり不本意な出会いだったかも知れない。
 
 
                    完
 
 
 むう、まとまりが今ひとつ。やはり、もうちょっと話を進めてから書くべきだったか。

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