夏休みだ。
 留年しない限りは、高校最後の夏休み。
 信じられないことだが、これといって何の取り柄もないはずの俺には、美人の彼女がいたりする。
 まずは、この幸運に感謝だ。
「……どうしたの、尚斗君?」
「え、あ、あ…ちょっと神様に感謝を」
「……?」
 夏樹さんは、ちょっと首を傾げ……笑った。
「もう、いきなり何…?」
 怒りもせず、優しい目で俺を見つめてくる。
 夏休み、美人の彼女というか、夏樹さんと、俺の部屋で2人きり。
 もう、考えただけで甘酸っぱいような、ドキドキする気持ちで胸の中が一杯になるはずだ……なるはずなんだけどなあ。
「じゃあ、尚斗君…こんどはこの問題ね。いいかな、この問題のポイントはね…」
 などと、丁寧に、説明を始める夏樹さん。
 贅沢言うな、と怒られそうだが……朝から夕方まで、これが毎日毎日、2週間も続いたら、少しは俺の気持ちを理解してくれるんじゃないだろうか。
 付け加えておくけど、この4月から、休日はずっと同じパターンだ。
 もちろん、幸せだし、光栄だし、手弁当でやってきてくれる夏樹さんに対しては感謝の言葉だけじゃ足りないぐらい感謝してるんだけど。
 ただ、ちょっと…ちょっとだけ…ようやくというか、俺の頭の中に疑問が芽生えてきたのだ。
 とりあえず、夏樹さんの中で俺は受験生……という事になってるようだ。
 まあ、確かに他にやりたいことというか……特に明確なビジョンがない以上、その選択はさほど間違ったモノではないのだろう。
 と、いうか……それまで勉強というモノをほとんどやったことがなかったから、俺の成績は、もりもり上昇したし、今もその上昇カーブにかげりは見えてこない。
 もちろん、俺の両親…というか、特に母親が、それを悪く感じるはずもない。
 別に俺だって、今の状態が悪いとは思ってないんだけど…。
 俺は、ちらっと、夏樹さんを見た。
 目が合って、夏樹さんが笑ってくれる。
 所詮俺は小市民というか、これだけでものすごく楽しいというかやる気が出るというか、幸せなんだけど、このハイスペックな夏樹さんは、はたして今の状況に満足しているのだろうか。
 それが謎というか……心配というか。
 
 そして、4時。
「……はい、今日はここまで」
「あ、いや…もうちょっと、もうちょっとでこの問題が解けそうだから…」
 夏樹さんの手が伸びて、参考書とノートをぱたんと閉じてしまう。
「ダ・メ」
 遊びならともかく、勉強なのに容赦がない。
 きちんと時間を決めて、それを繰りかえす……時間が過ぎれば、そこでおしまいという習慣をつけることによって、自然に時間内に終わらせる事ができるようになるというのが、夏樹さんの持論だ。
 あと、この問題はどのぐらいの時間で解くことができるか……という、感覚を身につけるのは、試験のテクニックというか、スキルとして必須らしい。
 つまり、俺は残り時間と、問題との配分を、見誤った……そういう事になる。
 季節は夏だから、4時とはいえ、夕方という感じではない。
 じゃあ、今から恋人らしく……と、思うか?
「ほら、急いで尚斗君」
「あ、いや…夏樹さんがいたら、着替えが…」
「ご、ごめんなさいっ」
 夏樹さんが慌てて部屋の外へ出ていった。
 えーと、あぁ。そんなに急いで、どこに行くのかって?
 決まってるだろ。
 
「……はい、まだ暑いから、各自水分補給を心がけてね。あと、準備運動も忘れずに……ランニングは、1人じゃなく、何人かで組になって…」
 と、いうわけで…劇団の練習だ。
 練習場所は、女子校だ……ただし休日は、の条件付きだが。
 お金もかからないし……というか、劇団のメンバーの多くが、女子校の演劇部員だから、ものすごく都合がいいのだ。
 もちろん、お嬢さん連中だから、あまり遅くならないうちに帰す(というか、日中、演劇部として練習をもしてるしな)んだけど……俺や夏樹さんは、日が沈んで暗くなるまでびっちり練習だ。
 うん、まあ……1日の半分ぐらい、俺は夏樹さんと一緒にいられる。
 これは、ひどく幸せなことだと思う。
 練習を切り上げるのは8時。
 これは、学校施設の使用云々から来る門限みたいなもの。
 そして、俺は駅まで夏樹さんを送る。
 俺と夏樹さんが交際しているのはみんな知ってるので、邪魔をしないようになのか、他の女の子達は別の道を通って駅へ向かっているらしい。
 女子校から駅まで歩いて10分程度。
 うん、10分程度のはずなんだけどなあ……今日は、30分かかった。
 それにくわえて、駅の入り口で、改札口で、別れを惜しむように、俺と夏樹さんは見つめ合う。
 2度ほど、夏樹さんがいなくなってからちびっこに蹴られた。
 夏樹さんの乗った電車が駅から離れていくのを眺めて……それから俺は家に帰る。
 以前なら、『こんな遅くまで…』と母親が俺に向かって怒鳴り散らしたモノだが、今は当たり前のようにそれを受け入れるというか、テーブルの上に夕食が用意してあって、俺はそれをかき込むように平らげ、風呂に入って、夏樹さんにメールを送って、それから夏樹さんに勧められた本をちょっとだけ読んで、眠りにつく。
 それが、11時前だぜ。
 深夜のテレビなんか見やしねえし、漫画は少し読むけど、ゲームもしばらくやってない……以前とは生活リズムが全く違うというか、そりゃ、健康にもなるよなあ。
 
 朝は、たいていは自然に目が覚める。
 これが6時頃。
 それから、半分散歩、半分ランニングみたいに、早朝の街をぶらりぶらり。
 夏休みに入って一度だけこの時間帯に麻里絵を見かけたが、どうやら最近、近所に可愛い犬を飼い始めた家があるそうだ。
 麻里絵よ、それはストーカーという。
 真正面からいけよ。
 天下無敵の女子高生に頼まれたら、返事ひとつで触らせてもらえるし、散歩ぐらいならやらせてもらえると思うんだがなあ。
 そういや俺が子供の頃は、近所の公園にガキを集めてラジオ体操とかやってたように記憶してるんだけど、いつの間にか無くなってしまったらしい。
「あら、おはよう、ナオくん」
「あ、おはようございます」
 子供の頃、良くお菓子をもらった近所のおばさんは……いつの間にか、おばあちゃんと呼ぶにふさわしい感じになっていた。
「もう、最近はすっかり落ち着いて……お母さんも安心ね」
「あ、いや…まあ…ははは」
 うちのババアが、夏樹さんのことを散々言いふらしまくったらしく……『グレていた息子を更正させた、できたお嬢さん』に、興味津々のおばちゃん共とは違って、割と気楽に話せるのだが……『いつ一緒になるの?』などと素で聞いてくるのが少々照れくさい。
 つーか、俺はグレていたつもりはこれぽっちも無いんだが……世間的な評価はそんなもんなのか。
 まあ、家に帰ってシャワーを浴び……部屋に戻った頃に、夏樹さんからモーニングコールというか、メールが送られてくる。
 それに返事をしてから、朝食をとり……姉貴と親父が出かけた後、夏樹さんに言われたとおりに、意味が分からなくても、新聞に目を通す。
「……母ちゃん、風呂の掃除なら、シャワー浴びた後にやっといたぜ」
「あ、そうかい…あんたも、気が利くようになったね」
 などと、ちょっとした会話をかわし……9時が近づいてくると、俺じゃなく母ちゃんがそわそわし始める。
 ぴんぽーん。
 俺じゃなく、母ちゃんが玄関までダッシュだ。
「おはようございます、おばさま」
「あらあら、おはようございます夏樹さん」
 ……そういう将来があるかどうかはおいといて。
 とりあえず、色々と噂をきく、嫁姑の争いはないんじゃなかろうか。
 ただ、ババアが時折呟く、星組とか宙組とかいう単語にそこはかとない不安を感じるのは、何故だろう。
 夏樹さんが、俺を見て笑う。
「おはよう、尚斗君」
「おはよう、夏樹さん……今日もありがとう」
 当たり前のことでも、かならずお礼は言いなさい……と、どこかのババアが口うるさく言うので、もう癖になってしまった。
 さあ、これから休憩も含めて、びっちり7時間勉強だ。 
「夏樹さん、今日は何の教科からやろうか?」
「ん、そうね…」
 などと話しながら、俺は夏樹さんと階段を上っていく……といっても、夏樹さんは俺が『先にあがってて』と声をかけてもただ待っていて、必ず俺の後をついてくるのだけど。
 考えてみれば、これは道を歩くときも同じで……肩を並べて歩くことはあっても、夏樹さんが俺の前を歩くことは決してない。
 もしかすると、そういう風に躾られたというか……。
 俺は、ふっと夏樹さんを見た……目が合って、夏樹さんが笑った。
「どうしたの、尚斗君」
 夏樹さんは……相手が男の俺だからと言うだけじゃなく、あまり自己主張ができないタイプなのかも知れない。
 だとすると……
 俺は、そんなことを考えながら自分の部屋のドアを開け。夏樹さんを中へ迎え入れたのだった。
 
「…あ、あのさ、夏樹さん」
「あ、それ、美味しくなかったかな…頑張ったんだけど、ごめんね…」
「え、いや、そんな…いや、おやつの話じゃなくて」
 俺は首を振った。
「あ、そうなんだ…良かった」
 夏樹さんは、ほっとした表情を浮かべて。
「なんだか、尚斗君が浮かない表情で口にしてたから…」
「いや、これはうまいよ…っていうか、、時間かかってるんじゃないの?」
「うん、少し」
「だったら…」
「楽しいの」
 俺の言葉を遮るようにして、夏樹さんが、本当に楽しそうな表情で言葉を重ねる。
「尚斗君の事を考えながらね、こういうモノ作ってると……幸せだなって思えるの」
「あ、う…」
 な、夏樹さんは時々こういう恥ずかしいことを平然と口にする。
 まあ、後で赤面したりする事もあるけど。
「え、えっと…じゃあ、何の話だったの?」
 上目遣いに、夏樹さんがたずねてきた。
「あ、あえ…そ、そうだ…その、もうすぐ、夏樹さんの誕生日だよね」
「え、あ、うん…」
 夏樹さんは、ちょっと寂しそうに笑って。
「私、また尚斗君より年上になっちゃう…」
「こだわりますね」
「だって…」
「夏樹さんは、可愛いよ」
「……年上なのに?」
「あんまり、関係ないと思うよ」
「……横倒しにしてもでかい女なのに?」
 夏樹さんは、結構根に持つ。
「美人で可愛い」
「……」
 肩のあたりまで伸びた髪の毛を、夏樹さんが指先でいじり始めた。
 夏樹さんにとって、美人があまり誉め言葉じゃないというか……とにかく、『可愛い』という事に対して憧れの気持ちが強い。
 まあ、確かに……顔立ちに関しては、『可愛い』系じゃなく、『美人』系なのは間違いないんだけどね。
 でも、ふとした仕草や、こういったことで拗ねたりするのは可愛いとしか言えないんだけど。
「……髪、大分伸びましたね」
「伸びては毛先を揃えるためにちょっと切って…の繰り返しだから、じりじりしちゃうの」
「あー、伸ばしたこと無いんでわからないッス」
「……結花ちゃんとまではいかなくても、尚斗君の幼なじみの椎名さんぐらいまで伸ばしたいな」
「……シャンプーとか、大変らしいですけどね」
 夏樹さんが俺を見る。
「えっとね…色々、髪型を変えてみるのに、憧れてるの。ほら、ショートカットだと、ショートカットだけしかできないでしょ」
「似合ってますよ…あ、今の感じもですけど」
「……尚斗君は、私がどんな髪型にしても『似合ってるよ』としか、言ってくれない気がする」
「あー…」
 でもなあ、色々想像してみても……夏樹さんは、どんな髪型でも似合う気がするんだよなあ。
「ごめんね、ちょっと意地悪言っちゃった…」
 仕方ないので、俺は思ったことをそのまま口にした。
「んー、意地悪とは思わないですけど…やっぱり、夏樹さんなら、どんな髪型でも似合うような気がするんですけどね」
「じゃあ、結花ちゃんみたいなの」
 な、夏樹さんの…ツインテール…は…。
「……どんな髪型でも似合うって…」
「や、やってみないとわからないじゃないですかっ」
「わかるのー」
 夏樹さんは、ふるふると首を振った。
「実際にやらなくてもね、わかるのぉー」
 あ、拗ねモードから泣きモードへ移行した。
「こう、ね……姿見に映した自分を見てね、顔が強張る瞬間が想像できるの。次の瞬間には、もうリボンを外して、部屋の隅に座り込んでぶつぶつ言ってる自分の姿が手に取るようにわかるんだからぁ」
 ……敢えて言おう。
 こういう夏樹さんがすげー、可愛い。
 どこかの誰かは、『ま、1、2ヶ月もすればそういうのがウザク感じてくるのよ』などとのたまってくれやがったが、4ヶ月以上経っても可愛いと思える俺がいる。
 ああ、それはそうとして……やっぱり、夏樹さんの憧れはあのちびっこなんだなぁ。
 俺はちょっと頭をかいた。
 夏樹さんは、美人で可愛い、だけど……ちびっこの場合は、可愛くて生意気で…(以下略)……なんだよなあ。
 まあ、すごいやつって所は否定しないけど。
 俺はちょっと時計を見た。
 そろそろ、夏樹さんの手にのってあげないとな。
 泣きモードと言っても、本気で泣いてるとか、鬱に入ってるわけじゃなく、ちょっとかまって欲しいサインみたいな事の方が多い。
 ……たぶん、何かあったんだろう。
 ここで『何か』っていってるあたり、彼氏としてはどうなんだって話になるが。
「夏樹さん…さっきの話ですけど」
 話しかけながら、俺は夏樹さんの隣に腰を下ろす。
「どこか、遊びに行きましょうか」
「え、でも…」
 こっちを向いた瞬間を狙って、夏樹さんの頭に手を伸ばした。
「あ…」
 夏樹さんの顔が、赤くなる。
 撫でるというか……良い子良い子って感じ。
 最初やったときは怒られるかなって思ったんだけどな。
 夏樹さんはしばらく、俺に頭を撫でられるままにしていたが……やがて、ぽつりと呟いた。
「あのね…最近、尚斗君…あんまり、勉強に集中、できてない気がしたの…」
「あー」
「考えてみたら、毎日毎日勉強と練習ばっかりで…私、自分のことばっかりで、ちょっと尚斗君のこと疎かにしてたかなって…」
「いや、そん……え?」
 なんか、日本語がおかしくなかったか?
 俺はちょっと考えた。
 モーニングコールに始まり、朝から夕方まで俺の勉強を見てくれて、夕方から夜までは劇団の練習……ここに毎日ではないにしても、手作りお菓子とか、お弁当とか…。
「いや、俺って、ものすっごい夏樹さんに大事にされてますよね?というか、毎日毎日こんなに俺のこと考えてもらって、夏樹さん大丈夫なのかな?とか、心配になってたんですけど?」
「あ、う…」
「夏樹さん、自分の勉強とか、劇の脚本とか書く時間がとれてます?俺、自分が疎かにされてるなんて思ったこと無いです」
 夏樹さんが、首を振って……赤くなった顔を手で覆って隠した。
「ち、違う…の。わ、私…」
 ……えーと?
 とりあえず、頭は撫でておこう。
「……尚斗君と一緒にいたかったから、劇団に誘ったの」
「それは、こっちも願ってもないことで…」
「勉強だって…」
「すっごい、感謝してます」
「い、一緒にいられる…から」
「……へ?」
 俺の学力のあまりの低さに心配して…とかじゃなく?
「全部じゃないけど…確実に、そういう気持ちは持ってたの」
「……えーと、やっぱり、俺が疎かにされてるという意味が分からないんですが?」
「私…自分のことしか…考えてない」
「そう…ですか?」
「尚斗君、私のこと…考えてくれてる…全然違う…」
 えーと、えーと、何を言えばいいのか…というか、どこか話がかみ合ってない気配が満タンなんだよな。
 ……よし、これだ。
「あの、夏樹さん…俺が、夏樹さんと一緒にいられて幸せってところが、抜けてません?」
 
 そして、今日は夏樹さんの誕生日。
「……後数日遅く生まれてたら、乙女座だったのに…」
「獅子座の人に謝りましょうね」
「でもぉ、獅子座って…なんで、獅子座なの…」
「百獣の王ですね」
「……」
 あ、夏樹さんが拗ねた……これは、本気の方かな。
「あらためて、誕生日おめでとうございます、夏樹さん」
「……あんまり、おめでたくない」
「誕生日おめでとうございます、夏樹さん」
「う、うぅ〜、何で二回言うの?」
「そりゃあ、大事なことだからですよ」
 決まってるでしょう…と、俺。
「この世界に生まれてきてくれて、俺と出会ってくれて、俺のこと好きになってくれて…えーと、それから…」
 ふっと、夏樹さんの手がかざされて俺の視界がふさがれた。
「う、むっ…」
「……」
 温かくて柔らかい感触が、唇から離れていく。
「ありがとう、は…私の言葉」
 視界が戻り、夏樹さんは笑っていた……多少、顔を赤らめて。
「えっと…」
「べ、勉強しましょ、尚斗君」
 ちょっと慌てたように夏樹さんが言う。
 なんだろう、さっきの拗ねモードはフェイクだったのかなあ。
 俺は苦笑して、参考書を開いた。
 結局は、遊びに行かずに俺の部屋で勉強……だ。
 どこかの誰かに言わせると、俺と夏樹さんは人前に出せない立派なバカップルだそうだ。
 ふ、何をバカな。
 俺はバカップルにだけはなるまいと気をつけているからな。まあ、夏樹さんをとられたという意識があるからだろう、皮肉のひとつでも言いたいんだろうな。
 温かい心で、許してやることにする。
「……」
「ぁ」
 今みたいに、勉強の合間に、ふっと夏樹さんに目をやると、視線が合う。
 これって、俺と夏樹さんの心が通じ合ってるせいだよな。
 同じタイミングで相手の顔が見たくなるなんて、シンクロ率高過ぎだろ。
 夏樹さんにそういったら、夏樹さんは何も言わずにただ微笑んでくれた。
 
 
おわり。
 
 
 と、いうわけで……日記っぽい、報告の文章にチャレンジしてみました。
 ツッコミは尚斗視線のみの1方向なので、読み手のみなさんにはじんわりと夏樹の狂気(笑)が伝わってくるのでは。
 おそらく、夏樹はずっと尚斗の顔を見つめ続けていると推測される。(笑)

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