有崎家において、御子はアイドルだった。
 父は、異様に優しい目で見守るだけだったが、母、そして姉の2人に、さんざんいじくられて30分、ようやく解放された御子は、申し訳なさそうに、尚斗に頭を下げた。
「お、お待たせしました…尚斗さん」
「あー、なんつーか…いつもごめん」
「な、なにがですか…?」
 きょとん、とした表情で。
「いや、親父はともかく、母ちゃんと姉ちゃんがさあ……もう、御子ちゃんのこと、可愛くて仕方ないみたいで」
 息子、あるいは弟に会いに来た客を捕まえて、『可愛いっ、可愛い可愛い』『ウチの子になんなさい』などと、頭を撫でくり回して言いたい放題やりたい放題。
 御子が家を訪れたのは、これが初めてではないというのに……毎度毎度、同じようなことの繰り返しなのだ。
「……?」
 そこに何か、謝ることがあるんでしょうか……みたいな目で、御子は尚斗を見つめる。
「いや、あの2人が御子ちゃんを可愛がるのってさ…こう、人形というか、ペットを相手にした感じがするんだよな」
「…そうなんですか?」
「いや、俺がそう感じるだけって言ったらそれまでなんだけど…」
 尚斗はちょっと頭をかき。
「御子ちゃんって、何かを断るの苦手だろ……気を悪くしてないといいなって」
 御子はちょっと尚斗を見つめ、ゆっくりと頭を下げていった。
「ありがとうございます」
「な、なんで、お礼?」
「……気を遣っていただいて」
「いや、普通、それは全然普通だから」
 御子の頭が上がり。
 にこ。
「むう…」
 思わず伸ばしかけた右手を、左手で押さえ込む。
 母、姉に続いて、自分までもがそれをやらかしてどうするか、という奇妙な義務感がそれを可能にした。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
 ちょっと笑って、尚斗が歩き出すのを待ってから、御子も歩き出す。
「しっかし、もう1年経つんだよなあ…」
 尚斗の言葉を受けて、御子がしみじみと呟く。
「時の流れは、早いです」
「あー、でもこれって、多分…10年経っても同じこと言ってるような気がするなあ」
「……」
 えっと、どういう意味でしょう……という感じに、立ち止まった御子が、じっと尚斗を見つめていて。
「え、いや、あれから10年経つんだよなあ…とか、言ってさ」
「そ、そうです…ね」
 どこか片言言葉で答えつつ、御子は恥ずかしげに俯いた。
「(……今の会話、なんか恥ずかしがるような要素あったかなあ…?)」
 と、尚斗はちょっと首をかしげ……空を見上げた。
 冬にしては風も弱く、外出するのには悪くない条件ではあるのだが……空は雲に覆われていて、太陽を拝むことは出来ない。
 寒さはこれから本番を迎えるはずなのだが、尚斗の感覚的に、今年の冬は寒かった。
「……っと、いけね」
 冬の寒空の下で立ち止まっていたら、俺はともかく御子ちゃんが風邪をひいちまう……と、尚斗は恥ずかしげに俯いたままの御子の肩を軽く叩いてやり。
「寒くない?」
「あ、は、はい…大丈夫です」
 こくこくと頷く御子の仕草が、どこかぎこちない。
 尚斗は、それを寒さのせいだと判断した。
「歩こう。動いてないと寒いよ」
 動いていれば大丈夫……そういう考えは、やはり尚斗が活動的な少年さを濃く残している証明だろう。
「じゃあ…」
 きゅ。
 歩きかけた尚斗の服の袖をつかんで、御子が恥ずかしげに呟いた。
「あ、あの…手をつないでも、いいですか?」
「俺の手でよければ」
「……はい」
 何か、別の言葉を呑みこんだような気配はあったが、御子はそっと、尚斗の手を握った。
 尚斗は素手、御子は手袋……このお互いの皮膚と皮膚の間に挟まれた布が、どれだけの情報のやりとりを阻んだのかを、2人は知らなかったし……また、そのことに少々の安堵も覚えていた事も事実だろう。
 
 駅の入り口で待っていた弥生は開口一番に。
「遅い」
「すまん、寝坊した」
 『え?』という表情の御子をさりげなく隠しつつ、尚斗は頭を下げた。
「悪かったな、待たせて」
「まったくね」
 弥生はため息をつき。
「お正月から何考えてるのか、5分に1回は、声かけられたわよ」
「そりゃ、重ね重ね悪かった……つーか、美人の宿命とも言う」
「まあ、退屈はしなかったから」
「つーか、こんなとこで待ってなくて、御子ちゃんと一緒に家まで迎えに来れば良かったじゃねえかよ」
「やだ」
 弥生は、つん、とそっぽを向いて。
「そもそも、本当は有崎が、迎えに来るべきでしょ」
「俺だってやだよ…おじさん、俺のこと目茶苦茶にらむんだぜ?それも、目が笑ってないとか言うレベルじゃなくて、隠す気配が全くないんだぞ?」
「……仕方ないでしょ。とうさまは、御子のこと溺愛してるんだから」
「俺ン家の母ちゃんと姉ちゃんもそうだよ。べたべたべた、御子ちゃんのこと捕まえて放そうとしねえっつーか」
 弥生はため息をつき。
「仕方ないわね…御子は可愛すぎるから」
「いや、自覚ないのかもしれんが、弥生もシスコンと呼ばれる資格は十分にあると思うぞ」
「姉が、妹を大事に思って何が悪いの」
「まあ、悪くはないんだが」
 尚斗はちょっと言葉を切って。
「何事も、度を過ぎれば周囲には変な目で見られると言うことだ」
「周囲の目が正しいとは限らない」
「……まあ、それはそーかもしれんが」
 尚斗は、半分の賞賛と半分の呆れをブレンドして。
「俺は、弥生みたいに自信家にはなれん」
 弥生の視線が、まだつながれたままの尚斗と御子の手に注がれた。
「……」
 御子が、手を放す。
 弥生はため息をつき。
「御子と有崎って、そういうとこ、似てるわよね」
「言いたいことはわからなくもないが、俺は根拠があって自信がないだけで、根拠もなく自信がない御子ちゃんとは違う」
「……えらそーに、言わないの」
 と、これは100%呆れたように。
「御子はもちろんだけど、有崎もちょっとぐらいは自信持っていいと思うんだけど」
「自信持てっていわれてもなあ…」
 一体どこに自信を持てというのか。
「そもそも、自信ってのは、自分の能力とか、積み重ねてきた努力をよりどころにするもんだろ?」
「まーね」
「御子ちゃんはさ、やることやってきてるのに自信を持てないだけ……でも俺は、努力を積み重ねてきてねえもん。これで自信もってたら、ただの勘違いやろーだろ」
 弥生はちょっと笑い。
「うおっ」
「ほらほら、有崎ってば、こんな美人がお正月早々、腕組んで歩いてくれるのよ」
「じ、自覚を持ちすぎた美人は、嫌みになるぞ」
「嫌みにならないように、努力するから大丈夫」
「つ、つーか、こういうのは俺が自慢できるようなことじゃねえだろ」
「でも、こういうのって、男の甲斐性って言うじゃない?」
「そういう話じゃなくて…と、とにかくやめろ…胸が当たってる、胸が…」
「私は気にしない」
「いや、気にしろよ、女として」
 口ではそういうモノの、尚斗の意識が柔らかい感触に浸食されていく隙を突いて。
「……御子」
「は、はい…」
「有崎の左手、余ってるわよ」
 顔を赤くして、御子が恥じらう。
「おいおいおいっ、姉としてどーなんだ、その発言は」
「両手に花は、男のロマンだって温子が言ってたの」
「男サイド、それは男サイドの話、俺が言ってるのは姉として御子ちゃんにそういう真似をさせていいのかって話で」
「……えい」
 何かを吹っ切ったように、御子が尚斗の左腕を抱え込んだ。
「み、御子ちゃん?」
「そーそー、御子も16になったんだから、そのぐらいは…」
 弥生はちょっと周囲に視線を向けて。
「ほらほら、有崎…みんな羨ましそうに有崎を見てるわよ」
「見世物にすんなっての」
「じゃあ、私はやめる」
 と、弥生が尚斗の腕を開放して、距離を取った。
「ふむふむ」
 尚斗と、その腕をしっかりつかんだ御子の姿を見分するように眺め回して。
「大丈夫大丈夫、仲の良い兄妹に見えなくもないから」
「また、微妙な評価だな…」
 尚斗は、腕を組むと言うより必死に抱え込んでいるような御子へ。
「ほら、御子ちゃんも無理しなくていいぜ…」
「……」
 御子はちょっと尚斗の顔を見つめ…手を放した。
 そして、弥生がため息をつく。
 
「今更だが、2人して出かけて大丈夫なのか?」
「ん?」
 先を歩いていた弥生が振り返る。
「俺ん家なんかと違って、正月って、色々と忙しいんじゃねえの?」
「とうさまと、かあさまがいるし」
「……省略された言葉が『なんとかなるでしょ』のような気がして仕方がないんだが」
 尚斗のツッコミに弥生は『あはは』と笑って。
「愛してるわよ、有崎」
「……図星なのかよ」
 ため息混じりに呟いてから、本当に大丈夫なの……という視線で、尚斗は御子を見た。
「……その、去年おねえさまが家を飛び出したのは、ちょうど…」
 御子は言葉を濁したが、どうやら、正月は弥生にとってはあまり心楽しくない苦行が待ち受けているらしい、と尚斗は納得した。
 それを知ってか、弥生が呟く。
「義理のお年始って、お互いにとって苦痛を生むだけだと思うんだけど」
「俺ん家なんか、年始の客なんて……まあ、親戚ぐらいか」
「ウチは、朝から晩まで順番待ち」
「え、マジで?」
「とうさまやかあさまと、ゆっくり話も出来ないのよ……だから、私にとって、昔からお正月は、苦痛でしかなかったわね」
「……言われてみると、俺も、親戚がやってくると、ちょっと居心地悪いな。あれがレベルアップしたようなもんか」
「たぶんね…」
 尚斗は、ちょっと御子を見て。
「御子ちゃんも、そんな感じ?」
「あ、いえ、私は…」
「だから」
 と、弥生が割り込んできた。
「あの人達が挨拶に来るのは、九条家っていうか、九条流というか……とうさまとかあさま、そして、次期宗匠と思われてる私なの」
「あぁ……って、その間、御子ちゃんはずっと1人かよ?」
「その場にいるけどね…あの人達が話しかけるのは、とうさま、かあさま、そして私……まあ、色々と私にとっては不愉快」
「あ、あの…私は別に」
「御子が良くても、私が不愉快」
 まさに、ぴしゃり、という感じで弥生が言い放つ。
 自分勝手なのではなく、これは弥生の優しさなのだ……御子はもちろん、尚斗だってそのぐらいはわかる。
「まあ、九条家の正月が大変なのはわかったが、24時間営業、年中無休のコンビニも大変そうだよな」
「は?」
「なんか温かい物でも買ってくる」
「私、肉まん…御子は?」
「え、あ、あの…私…」
「御子、有崎に恥をかかさない」
「…え、っと…」
「時間切れです、御子ちゃんには俺が適当に選んで買ってくることに決定しました」
「あ…」
「じゃ、しばらく待ってな」
 と、尚斗は2人を残してコンビニへ。
「時間切れ…か」
 ぽつりと、弥生が呟く。
「……?」
「御子、あなた、いつまでもこんな風にいられると思ってる?」
「……いえ」
「……ひょっとして、私が有崎に気がある、なんて思ってないわよね」
「……おねえさまは、優しいから、わかりません」
「私は、そんなお人好しじゃありません」
「……そうでしょうか?」
「また、そうやって、殻に閉じこもる…」
 困ったなあ、という感じに弥生がため息をついた。
 御子の頭を優しく撫で、弥生はちょっと空を見上げてから。
「御子、あなたが有崎に出会った、というより、そんなあなたが見ず知らずと言っていい有崎に相談を持ちかけた事自体が、奇跡みたいなモノよ…」
「……はい」
「次期宗匠だとかなんとか、大人、というより…人間の汚さ、醜さは、私達の周りにも渦巻いていて……その中で、あなたは有崎に相談を持ちかけた」
「……そんな、尚斗さんだから、おねえさまは、心をひかれているんでしょう?」
 弥生は渋い表情を浮かべて。
「結局、そこに戻るのね…」
「……ひとつ、よろしいですか?」
「なに?」
「軽々しく口にした言葉は、重みを…なくすと思います」
「……さっきの、『愛してるわよ』のこと?」
「おねえさまにはおねえさまの考えがあるとは思います…でも、軽々しく、口にして良い言葉だとは、私には思えません」
 堅く、重く、動かしがたい、御子という人の形をした巌……の中に、ほんの微量の嫉妬が含まれていることに気付くだけ、弥生には心の余裕があった。
 いや、人としての奥行きのようなゆとりと言うべきか。
 まあ、弥生にそれをもたらしたのは、人生における初の挫折ともいうべき出来事だったのだが……御子はそれを知らない。
「……春が来たら」
「…ぇ?」
 御子の視線を感じながらも、弥生はただ曇り空を見つめて。
「私は、家を出ます」
「ど、どういうことでしょうかっ?」
 いとも簡単に破れた御子の殻……それを少々面はゆく感じながらも、弥生は表情1つ変えずに。
「私は、家を出ます」
 これで、良いですか……そう言わんばかりに、御子を見る。
 以前の家出の際、弥生は自分がどこにいるかを両親には告げたが、家を出ることに関して、御子には何も言わなかった。
 だからこそ、今、御子はかように動揺したのである。
 御子は、常に弥生の背中を見てきた。
 さきの、『軽々しく口にした言葉は…』なども、元々は、弥生から学び取ったモノに他ならない。
 程なくして、『弥生が家を出るという現実』が、御子の動揺すらも打ちのめして観念させた。
「……なにやら、ただならぬ雰囲気だが」
 中華まん、そして温かい飲み物の入った袋を下げて戻ってきた尚斗が、2人を見比べて。
「なんか、あったのか、弥生?」
「ん、春が来たら家を出るって言ったの」
 尚斗は、ちょっとだけ弥生を見つめ、小さく頷いた。
「なるほど」
 そんな尚斗の反応に、弥生は少し笑って。
「…驚かないんだ?」
「いや、驚くも何も……去年の家出っつーか、プチ家出の件は、うやむやになったけどよ……結局、状況は何も変わってなかったわけだろ」
 さっき、『有崎は』の言葉を弥生が省略した事を思いだし、尚斗の視線は、弥生から御子へ。
「まあ、弥生なら、卒業を機に何かしらアクションを起こすってのは、想像できる範囲じゃねえの?」
 御子から弥生へ。
 尚斗の目から見ても、姉妹の表情は対照的だ。
「まあ、ただ家を出るだけ…って感じでもなさそうだな」
 この尚斗の一言で、御子は顔を上げ、弥生はちょっと眉をひそめた。
「……ねえ、有崎」
 弥生は、拗ねたような表情になり。
「あの話、もう一回、考え直してみない?」
「無い頭で死ぬほど考えたんだぜ」
「言っておくけど、納得したワケじゃないのよ?」
 と、ここで弥生は一旦言葉を切り……御子を、そして尚斗を見つめてから。
「ただ、有崎が、私のことを真面目に考えてくれたから、感激しちゃったの」
「感激って……真面目に考えろって言われたら、考えるだろ、ふつー」
「ちなみに、温子は有崎のこと褒めてた」
「……他人に話すなよ」
 勘弁してくれよ……と、尚斗が手で顔を覆ったが、弥生はどこ吹く風だ。
「あ、あの…」
 ちょい、ちょい、と御子が尚斗の服の裾を引いた。
「ん?」
「な、何の話…でしょうか?」
「……えーと」
 と、尚斗が言葉を選んでいる隙に、弥生がさらっと。
「将来的なパートナーを視野に含めたお付き合いを始めないか、と、私が有崎に提案したんだけど、断られた、というお話」
「……」
「……」
「……ぇ?」
 御子が反応するまで約1分……言葉の無い尚斗はともかく、弥生はそれを辛抱強く待っていた。
「お、お、おねえさま…」
「だから言ったでしょう、御子……『私は、そんなお人好しじゃありません』って」
 そこから、今度は約2分。
「ど、どういうことでしょうか?」
 御子は、有崎の服の裾をぎゅーと引っ張って、抗議するように声をあげた。
「お、おねえさまの、どこに不足が…」
「え、そっちに食いつくの?」
 意表を突かれ、弥生が思わず漏らした声を聞いているのかいないのか。
「尚斗さんは、おねえさまの、何が不足で…」
「いや、そうじゃなくて、俺自身の不足というか」
「……?」
「別に、御子ちゃんが尊敬してる弥生にどこか問題があるという話じゃなくて、俺の方に問題が……ってのも違って」
 尚斗はばりばりと髪の毛をかき混ぜて。
「言うまでもなく弥生は魅力的だし、ただ付き合ってくれって話なら、間違いなく飛びついたんだけど……将来とか、そういう話になってくると、多分どこかで俺は弥生を重荷に感じるようになるかなって……そう思った」
「……」
「この先、弥生がどういう道を目指すのか…は、俺にはわからないけど、何かを目指す弥生は好きだし、俺もそれには協力したいとは思う……ただ、弥生のすぐそばで協力するとなると…」
 尚斗は一旦言葉を切り……弥生に視線を向けた。
「俺は、弥生に対して引け目を……いや、弥生に比べて何も出来ない自分自身に引け目を感じるような気がするんだ」
「……」
「別に、俺は何かが出来るわけでもないんだけどな……なんつーか、弥生のそばにいるなら、俺は弥生と肩を並べる存在でいたい気がする……弥生のために、自分の全てを使うこと、それを自分の目的そのものとして受け入れられない……んじゃないかと」
 尚斗はちょっと渋い表情を浮かべて。
「やっぱ、勉強は大事だな……こう、自分の気持ちっつーか、考えを言葉にするのに不自由するというか…すげえ、もどかしい」
 弥生は、そんな尚斗の言葉に苦笑を浮かべつつ……穏やかで、優しい視線を向けた。
「……有崎って、本当はすごく頭がよいのかもしれない」
「だとしたら、もっとわかりやすく言葉に出来ると思うんだが」
「んー、そうじゃなくてね」
 どこか憮然とした感じの尚斗に、弥生は再び苦笑し。
「私、有崎とは相性がよいと思ってたの……でもね、この『相性がよい』って言葉は、好きとか嫌いとか言う話で、むしろ使っちゃいけない言葉かなって」
 尚斗、そして御子に視線を向けてから。
「ああ見えて、温子って頭がよいのよねえ……相性が良いって、『自分にとって都合がいい』って事なんだって」
 弥生は、ただ笑って。
「有崎は、私にとって都合がよい……そう、置き換えてみたら、自分の勝手さが嫌になったの」
「……?」
 今度は、尚斗が首をかしげる番だった。
「有崎といると、私、いろんな事がすごくやりやすいの……でもそれは、多分私が一方的に恩恵を受けるだけで、私は有崎に恩恵を与えられないのね……」
 尚斗から一瞬だけに御子に視線を移し、再び尚斗へ。
「私は、有崎が私の引き立て役になる事は望まないから」
「別に、そんなことは言ってないが」
 弥生は首を振り。
「頭ではわかってないかも知れないけど、多分、ちゃんと有崎は気付いてると思う……私の『好き』って気持ちの根っこには、『有崎がそばにいてくれると便利』って部分があるって事に」
「……考え過ぎじゃねえのか?」
「……さっき、有崎も言ってたよ『私のために、自分の全てを使うこと、それを自分の目的そのものとして受け入れられない』って」
 ちょっと笑って。
「うまく言葉に出来ないとか、そういうところはおいといて……これって、有崎は『私が有崎に何を望んでいるか』って事をわかってるんだと思う」
「仮にそうだとしても…人って、多かれ少なかれ、そういう部分はあるんじゃねえの?」
 持ちつ持たれつ、お互い様……そんな言葉を挙げるまでもなく、人は、他人に迷惑をかけながら生きていく。
 当然、その迷惑にも個人の幅があるはずだ。
 弥生は、尚斗の言葉には応えず……。
「何かのために、自分を殺す……私が家を出るのは、それが嫌だからなの」
 少し寂しげな笑みを浮かべ、弥生は御子を見た。
「理屈じゃないの、御子……自分が殺される、と感じたなら、私はそれを受け入れる事は出来ない。わがままと言われるなら、それは受け入れざるを得ないでしょうね」
「……」
「花も、人も…美しいのは、ただ生きているからじゃなく、生きようとしているから。私は、自分という花を、活かしたい……言葉にすると、それだけなのにね」
「……私には、おねえさまのいう事がわかりません」
 弥生はただ微笑み……ふっと、尚斗に視線を向けた。
「ごめんね、有崎。言ってることが矛盾してるって、自分でもわかってるんだけど」
「……弥生の中で矛盾してねえなら、仕方ねえんじゃねえか?」
「……」
「……」
 尚斗と弥生はしばらく見つめ合ったが、弥生は唐突に笑い声を上げて。
「愛してるぜ、ベイベー」
「……なんだそりゃ?」
「最近は、このフレーズって死語なんだってね」
「……まあ、俺たちが生まれる前からのロックバンドが、ライブにで口にするぐらいだろうなあ」
「……最初に聞いたとき、いいなあって、思ったの」
 好きとか嫌いとか、それを自由に口にする……というより、口にする事がはばかられることのない今とは違って、その大仰でもあり、おふざけともとれるフレーズは当時の道徳とか、そういったモノに対する挑戦の意味もあったに違いない。
 だとすると……九条弥生という、ロックンローラーが生まれるのは、ある種必然であったのか。
「ロックは、音楽じゃなくて、生き方だってことか?」
「……やっぱ、いいよね…有崎は」
「ん?」
「こう、打てば響くというか……自分の事をわかってくれるというか」
 何か納得したように頷く弥生。
 対照的に、尚斗は首をかしげ。
「なんか、買いかぶられてるような気がする」
「……ホント、自分自身に対して自信がないんだから」
 と、弥生はため息をついた。
「それよりもよ…御子ちゃんが、『そんなの認めません』的なオーラをまとってるぞ?」
「認めませんって言われてもねえ…」
 弥生は苦笑し。
「私の進路は、私のモノだもん」
「そりゃそーだが、相談も無しってのは、ちょっと寂しいかもな。それこそ、理屈じゃねーだろ」
「まあ……ね」
 微妙な弥生の表情に、尚斗はそれ以上追求することはせず……ぽん、と御子の頭に手をのせた。
「……弥生が御子ちゃんに相談しなかったのはさ、御子ちゃんを軽んじてるワケじゃなく、むしろ重んじていたからこそだと思うぜ」
「……」
「姉妹だもんな、良い悪いは別にして、そのあたりの弥生の気持ちはわかってやらないと」
 何か言いたげに御子が尚斗を見上げてきたが、尚斗は首を振って、ゆっくりと頭を撫でてやった。
 御子は何かに耐えるように俯いて、弥生は、2人を優しげに見守る。
「……つーか、弥生」
「何よ?」
「これから初詣だってのに、どうすんだ、この空気」
「……とりあえず、冷める前に肉まん食べましょ」
 
「有崎は…」
「ん?」
「将来、何をしたいの?」
 尚斗はちょっと困ったように……それを隠すためなのか、空を見上げて。
「弥生と違って、具体的なビジョンはないぞ……」
「もう、18歳なのに?」
「今の時点で、具体的な将来のビジョンを描いてる奴の方が少ないと思う……だから俺は普通って言い方は、弥生は嫌いだろうけど」
「ふーん」
「と、いうか……自分に出来ないことが多すぎるという現実の前で、身動きがとれなくなってるって表現が、正確かもしれんが」
 弥生はちょっと考えて。
「有崎のやりたいと思っていることは、現実的じゃあないってこと?」
「それもちょっと違う気がする」
「……」
「そりゃ、色々と都合のいいことを考えはするがな、それが自分のやりたいことかって言われると、やっぱ違う気がするし」
「色々と、都合のいいこと?」
 それは、何かな…という感じに、弥生が尚斗の顔をのぞき込んでくる。
「格好良い、お金持ち、優しくて美人の奥さん」
「……」
「いっとくけどな、世間の男の半分はそういうこと考えてると思うぞ」
 弥生は、自分の顔を指さして。
「優しくて美人」
「……だーかーらっ、悩んだって言ってんだろ」
「あんまり自慢することでもないけど、九条家は結構お金持ち」
「そういうのは、男としてちょっと複雑って言うか……」
 弥生は、すっと、御子を指さして。
「御子は、優しくて可愛い」
「は?」
「世間は色々というかも知れないけど、九条家の資産は…」
「…やめてください」
 それまでずっと黙っていた御子が、ようやく声を上げた。
「私は九条家の養子で…そもそも、おねえさまに大きく劣る者です」
「……」
 弥生は渋い表情を浮かべたが、尚斗はあれっという表情を浮かべて、弥生と、御子の顔を交互に見比べた。
「……どうしたの?」
 弥生の問いかけには答えず、尚斗はまた御子を見て、弥生を見た。
「……や、弥生さん、ちょっとこっちに」
「え?」
 尚斗は弥生の腕をとって、物陰へ。
「……考え直してくれた?」
「いや、そーじゃなくて」
 と、尚斗はややぎこちない動きで手を振り……落ち着きなく、視線を彷徨わせたあげくに。
「あのな、弥生…俺、今、ものすっげー自意識過剰って言うか、弥生に怒られそうな考えが浮かんだって言うかひらめいたって言うか…」
「……言ってみて」
「え?」
「怒らないから、言ってみて」
「いや、既に怒ってないか、弥生?」
「あははは」
 と、弥生は声と口だけで笑って。
「これ以上は怒らないから、言ってみようか、有崎ぃー」
「すまん、調子に乗ってた。今の無し」
「……ったく」
 やや、軽蔑のはいった眼差しで尚斗を見つめつつ。
「惚れた弱み、といっても、御子と二股とか、お妾さんは嫌」
「へいへい、わかって……」
 尚斗の動きが一瞬止まり。
「…わかってねえよっ!」
「え?」
「み、御子ちゃんと弥生の二股って、お前の中で、俺ってどんだけけだものなんだよ?」
 尚斗の剣幕にたじろぎつつ、弥生が呟く。
「でも、温子が…『男の子は、いくつも愛を持ってる生き物だから』って…」
「そ、そら、持ってるかも知れんが、姉妹相手に二股とか……いや、そういう問題じゃねえよ」
 尚斗は微妙に視線を逸らしつつ。
「どーも、根本的に話がかみ合わないというか…その、なんだ…」
「なによ?」
「いや、なんつーか、弥生の言いぐさからすると、その…、御子ちゃんが、俺に好意を持ってるっていうか、好意よりもうちょっとレベルの高い気持ちを持ってるような、感じに聞こえるんだが」
「……」
「……悪かった、自意識過剰だったな。うむ、弥生が俺に付き合ってくれ、なんて言ってくれるだけでも一生に1度の機会だってのに…」
「……有崎」
「ん?」
「10円玉持ってる?」
「ん、ああ…さっきの買い物でもおつりもらったし」
 と、財布を引っ張り出し、尚斗は10円玉を3枚ほどつまみ出した。
「それ、ぎゅっと、握りしめてみて」
「……?」
「いいから、握るの」
「あ、ああ…」
 弥生に言われたとおり、10円玉を握りしめる尚斗。
「じゃあ、今度はその手を上下に動かして……こう、自分の目の前で止める感じ」
「えっと…こう…か?」
「そうそう…」
 弥生は尚斗に近づき、顔の前で止めた尚斗の手を下から思いっきり突き上げた。
「ぶがっ…」
 10円玉を握りしめた手で、顔面を痛打した尚斗は、ジンジンと痺れる鼻筋を、親指で強く擦って意識を引き戻した。
「いきなり、何しやがる?」
「ホントは、もう3回ぐらい、やっときたい感じ」
「弥生がシスコンなのは、ちゃんとわかってるっつーの……悪かった」
「……わかってない」
 ため息。
「御子の相手として認められないような人を、好きになれると思う?」
「……」
「まあ…多少複雑なところが無くもないけど」
 尚斗は指先で鼻のあたりをさすり……どうにも納得がいかないとばかりに、言った。
「前にも言ったけどよ…なんで俺?」
 また、ため息。
「私に言わせれば、有崎がそれをわからないって方が不思議」
「……ちょいと、下種な言い方になるけどな。美人…って言い方はあれか、いい女に男が寄っていくし、いい男には女の方も惹き寄せられるんじゃねえの?」
「だから、私と御子が」
「いや待て。誰かに好きとか言われたの、弥生が初めてだっつーの」
 これはどういうことだ?
 そんな表情の尚斗に向かって、弥生。
「んー、多分、顔が普通だから……いや、ちょっとひいき入ってるから、もしかすると、平均以下?」
「……」
 自分で理解しているということと、美人の弥生に面と向かって言われることはやはり別であり、尚斗は微妙な表情を浮かべるしかない。
「付け加えると、華道とかやってるとね、わかるの。口ではえらそうなこと言っても、見る目がある人間なんて、ホント一握りしかいないから」
 つまり、私と御子は、見る目があるの……とでも言いたげに、弥生が胸を張る。
 その、底なしの自信がちょっと羨ましいと思いつつ。
「なんつーか…すげえな、弥生は」
 特に、自分が間違っているとは思わないところが。
「……余計なことかも知れないけど、有崎が鈍いってところも、原因の1つだと思う」
「え?」
「知らない」
 自分で言っておきながら、弥生がぷいっと横を向く。
「思わせぶりなこと言うな」
「そうね、ごめんなさーい」
 と、弥生のそれは完全に棒読み。
「……ったく。自分の事は、自分が一番わかってるっての」
 そっぽを向いていたままの弥生の肩の辺りに、微妙な緊張が走ったのは、何かの感情を表情に出さないための努力だったのかも知れない。
「で、御子のことはどうする?」
「どうするもなにも、全部弥生の推測だろ?」
「……推測でもいいから、どうする?」
「つってもなあ……俺が、御子ちゃんにしてやれる事って何だろ」
「……」
「……ホント、俺って、何も出来ないからなあ」
 優しい表情で、そんな尚斗を見守る弥生。
「……なんだよ?」
「好きだよ、ベイベー」
 尚斗は弥生をちょっと見つめ……そして、申し訳なさそうに視線を逸らした。
「悪い」
「うん、仕方ないね」
 そう言って、弥生は空を見上げた。
「御子じゃなくてもいいからさ、将来、私を振ったことを後悔せずにすむぐらい、いい相手を見つけなよ」
「友人ではあり続けたいんだが、むしのいい話か?」
「……4年後も、同じ事を言えたらね」
 尚斗はちょっと考えて。
「弥生、お前家を出るって、まさか、大学進学の際に一人暮らしを始めるってオチじゃないだろうな?」
「……」
「こら」
 弥生は、尚斗を振り返り。
「とうさまが、有崎をにらむのってねえ、他にも理由があるの」
 そういって、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……まさかと思うが、自分が振られたって話でもしたのか?」
「んー、もう一声」
「おい?」
 弥生が、尚斗の背後に向かって声を出す。
「出てきなさい、御子」
 がさっ。
「……」
「……隠れてない、隠れてないよ、御子ちゃん」
 手と、スカートが丸見え状態。
「怒らないし、御子、あなたにも関係のある話だから、聞きなさい」
「待て、御子ちゃんにも関係ある話って言ったか?」
 弥生は、まだ隠れているつもりらしい御子に向かって。
「有崎は、私じゃなく御子を選んだってとうさまに話したの」
「ど、どーいうことですかっ?」
 隠れていた天照の神様、一瞬で撃沈であった。
「お、お、おねえさま?」
 焦点の定まらぬ瞳で、弥生の袖をグイグイと引っ張り続ける姿は、まさに幼子を思わせて。
「御子と有崎の、幸せそうな姿を見てるのが辛いからって……それを、家を出る口実にしたの」
「やーよーいー」
「あはは、こうやって、外堀を埋めなきゃ、2人とも進展なさそうだし」
 尚斗が弥生を振った時期などを冷静に考えると、どこかおかしなロジックであることに気付くはずだったが、御子はそれどころではなかったし、尚斗もまた、そこに回すだけの余裕がなかった。
「有崎には友人として、御子には姉として命令します…とりあえず、付き合ってみなさい。ダメなら別れる…それだけのことだから」
「命令という言葉が出てくる時点で、友人じゃねえよ」
 弥生はちょっと首をかしげ。
「じゃあ、『義姉』として」
「気が早すぎますっ」
「……」
「……」
「……ぁ」
 口元を手で押さえ、真っ赤になって座り込む御子。
「……有崎、御子は完全にその気になってるけど」
「なんか……弥生だけの考えじゃないって感じがするんだがな」
「別に、将来を約束しろとは言ってないから」
 弥生はちょっと笑い。
「立場が人を作るって言うでしょ……御子はね、いい例だと思う」
「……弥生」
 尚斗の表情から、自分の嘘がばれたことに感づいたのだろう……弥生は、尚斗の唇にそっと自分の手を押しつけた。
「御子は、自分の逃げ道を持ちすぎだと思うの……私としては、御子の逃げ場所を有崎だけにしておこうかなって」
「……」
「そんなこの子を、落ち着かせて、立ち上がらせて…そして、歩き始めるためにそっと背中を押す……そういう役目を」
 押しつけられた弥生の手をそっと外し。
「……すげー、都合のいいこと言ってんな」
「私は、御子の代わりにやっちゃうから……多分、ううん、きっと、私は御子をダメにすると思う」
「……」
「御子は家族だけど、私の所有物じゃない……御子が御子であるためには、私の存在が邪魔になる時期なの」
 座り込んだまま、弥生のお言葉を聞いているらしい御子にちょっと視線を向けて。
「有崎が私を振ってくれたおかげで、良い姉でいられそう」
「なんか、微妙にとげを感じるぞ」
「含ませてるもの」
 弥生はふふっと笑って。
「女の恨みは一生モノだから」
 尚斗は大きなため息をつき。
「わかった…お前が家を空けてる間、御子ちゃんは預かったことにする」
「……っ」
 座り込んだまの御子の耳が赤い。
「けど、付き合うのは別の話だからな」
「は?」
「他人に言われて、はいそうですか、なんて言えるか……つーか、俺の気持ちが、そこまで割り切れねえっての」
「……私の時と違って、『自信がない』とは言わないんだ」
「まだ、ちゃんと考えてないからな…しかも、将来の話じゃねえし」
「有崎」
「なんだよ、これは譲れないラインだぞ」
「……御子が地味に拗ねてる」
「むう…」
 
 
 ちゃりーん。
 ぱんぱん。
 最初に顔を上げたのは尚斗で、次に弥生。
 そして、それからかなり遅れて御子が顔を上げた。
「……ねえ、御子」
「はい」
「歩きにくくない?」
「大丈夫です」
「そう」
 弥生は頷き、それ以上は追求しないことに決めたようだった。
「ところで、弥生」
「なに?」
「お前、内部進学じゃないんだよな?」
「うん、京都の大学…まあ、自分を見つめたり、色々と見聞を広めるにはいいところかなって」
「俺が言うのもなんだが……受験勉強、大丈夫なのか?」
「それはこっちの台詞」
 弥生はちょっと笑って。
「今日のことだって、きっかけは御子なのよ……多分、有崎の受験とか、都合とか、何にも考えてないんだろうけど」
「……」
「御子、さっき私は言ったわよね『いつまでもこのままでいられると思ってる?』って」
「……」
「有崎は、高校3年生で、春には卒業。女子校と違って、内部進学もないから、就職か受験か、色々と進路を決めなきゃいけない時期というか、他人に構ってる余裕なんか無い時期なの、本来は」
「俺の問題だっつーの、御子ちゃんを責めるなよ」
「……尚斗さん」
 尚斗の手を、『両手で』ぎゅっと握りしめ。
「進路は…どうされるんですか?」
 そして、涙目で尚斗を見上げる。
「えーと、とりあえず、地元にいます」
「……御子はずるいなあ」
 と、少々呆れ気味に弥生。
「つーか、俺が弥生と付き合うって言ってたら、どうするつもりだったんだよ?」
「別に、距離は関係ないでしょ、距離は」
 けろっと。
「……おねえさまは強いと思います」
「そりゃ、会いたいと思ったら、会いに行くけど」
 そんな弥生の言葉に対して、御子はまたしても。
「おねえさまは…強いです」
「え、なんで?」
「……」
 御子は何も言わず、尚斗の身体を押すようにして、弥生から距離を取らせようとする。
「ちょっ、ちょっとちょっと…なんで私から離れようとするの?」
「……会いたくなったら会いに行く、欲しくなったら奪おうとする……つまり、おねえさまが言ってるのはそういうことではありませんか」
「そーそー、だから油断しちゃダメよ、御子」
「……俺は、既に御子ちゃんのモノなのか?」
 ぎゅ。
「ダメ…ですか?」
「表情と主張が、これほど矛盾してるのも珍しいと思う」
「世羽子が言ってたわ、『魔性の女ってのは、弥生の妹さんのみたいなのをさして言うのよ』って」
「……そうか?」
「……『相手にそれを自覚させないからこそ、魔性なの』って」
「なるほど、そういうものかもしれん」
 尚斗はため息をつき……自分の右手を両手で握り、ちょこちょこと横歩きを続ける御子に視線を向けて。
「そういえばさ…御子ちゃんって、なんで、最初に俺に声をかけたの?」
「……おねえさまと、話をしてるのを見てました」
「ああ、なるほど…」
 そりゃ、家出について意見するなら、弥生の知り合いでないと、話にならないよな……と、尚斗は納得したのだが。
「御子」
「……嘘ではありません」
 尚斗は弥生に視線を向け。
「何の話だ?」
「今の理由なら、有崎じゃなく、学校の先生でもいいって事じゃない」
「そりゃ、九条家のお嬢様が家出してる…なんて話を、周囲に広めたくはないだろ」
「じゃあ、温子でも世羽子でもいいってことよね?」
「そりゃ、そうだな…」
 弥生の言うことにも一理ある……というか、そっちの方が自然だ。
 いかにも人見知りしそうな御子にとって、温子や世羽子という姉の友人で、同性、同じ学校の先輩後輩……に対して、異性、自分と接触無し、年上の尚斗の、どちらがハードルが高いかは、明らかに思える。
 ぎゅうううう。
 御子の手が、尚斗の手を握りしめている。
「弥生、なんか御子ちゃんは、そこには触れて欲しくないみたいだぞ」
「……私は余計に気になったけど」
 弥生は、尚斗と御子、二人を見比べて。
 ぎゅうううう。
「弥生、御子ちゃんがものすっごい嫌がってる」
「んー、じゃあ…今はやめとく」
 納得したわけではなく、今はひいとく…そんな表情で、弥生が矛を収めた。
 そして、御子はちょっと尚斗を見上げ……恥ずかしげに俯いた。
「さて、屋台も出てるし…なんか食べるか?」
「え、いいの?」
 さっきも、買ってもらったのに…という表情で弥生。
「まあ、今年で最後だろうが、お年玉ももらったしな」
 まかせとけ、と御子に握られていない左手で胸を叩いた尚斗に。
「あ、そうじゃなくて…ほら、お祭りの屋台とか、買い食い以前に、見たことさえなかったから」
「……ってことは、何が食べたいって聞かれても、わかんねえってことか」
「そうね」
「じゃあ、俺が定番をいくつか…」
 
 焼きそば、イカ焼き、リンゴ飴、わたあめ……。
 
「……あんまり、美味しいってワケじゃないわね」
「ストレートな感想、ありがとう」
 苦笑しつつ尚斗がそう言うと。
「多分、みんなでわいわい言いながら、雰囲気を味わうモノなんでしょ」
「……」
「……どうかした、御子ちゃん?」
 御子は、ちょっと困ったように尚斗を見上げ。
「あ、あの…たこやきは…ないんでしょうか?」
「え?」
「たこやきって…この、イカ焼きみたいな?」
「……」
「何よ?」
「いや、たこやきを知らない人間って、日本に存在するんだな、。勉強になった」
 弥生はちょっとむっとして。
「仕方ないじゃない、そもそも……」
 弥生は口をつぐみ、視線を御子に。
「御子、あなたは知ってるの?」
「えっ」
 御子は狼狽し……弥生、尚斗と視線を巡らせてから。
「が、学校のお友達に…聞いて、気になって」
「……へえ」
「う、嘘ではありません…」
「まあ、いいや…じゃあ有崎、悪いけど、そのたこやきってモノ、買ってきてよ」
 
「これがたこ焼きだ」
 弥生は、それを凝視して。
「たこは?」
「中に入ってる」
「ああ」
 弥生はぽんと手を打ち。
「ちっちゃいタコが、中に入ってるってわけね」
「いや、タコの切り身が……弥生、お前の京都の大学行くんだよな。大丈夫か?」
「だから、見聞を広めに行くって言ってるでしょ」
「聞いたところによると、ある店ではタコの足がはみ出した、巨大なたこ焼きがあるそうだ」
「……食べにくくない?」
「お前、京都はともかく、関西では苦労するぞ」
「はぁ?」
「まあ、とにかく食え、話はそれからだ…中、熱いから気をつけろ」
「はいはい」
 と、弥生が爪楊枝を手に取った。
「御子ちゃんも」
「……」
 御子は恥ずかしげに視線を彷徨わせ……尚斗に向かって口を小さく開けた。
「……」
「ダ、ダメ…ですか?」
「いや、構わないけど」
「……魔性の女」
 弥生の呟きに多少同意したくもあったが、尚斗はそれを無視して、御子の口にそれを近づけた。
「えっと、かじるもんじゃないから、一口でぱくっと」
「……」
 御子が口を大きく開けた。
「はい」
 ぱく。
「…有崎」
「ん?」
「これ、タコが入ってなかったけど」
「タイ焼きに、タイははいってねえよ」
「なんだかなあ…」
 首をかしげながら、弥生はさらに1つ。
 もぐもぐ。
「……なるほど、歯ごたえの変化を楽しむ食べ物なのね」
「祭りの食べもんに、理屈臭いこと言うなっての」
「美味しいです」
「そーそー、御子ちゃんを見習え」
「ふーんだ」
 と、弥生はさらに1つ。
 そして尚斗も、御子にもう一つ。
 ぱく。
「あ、あの…尚斗さん」
「ん?」
「尚斗さんにも…はい」
「あ、さんきゅ」
 と、口を開けた尚斗に、御子がたこ焼きを食べさせる。
「のこりっ、全部もらうからっ」
 ひょい、ぱく、ひょい、ぱく、ひょい、ぱく。
「おい、弥生」
「ふーんだ」
 
「なんか、初詣って言うより、屋台巡りって感じになったわね」
「まあ、花より団子が、この国の文化だからな」
「それは、少し寂しいかな」
「俺は頭良くねえからわかんねえけど……文化とか、そういうのって、結局は、腹を空かせてない連中がつくったもんじゃねえの?」
「……時々、有崎は鋭い事をいう」
「はい…」
 こくっと、御子も頷く。
「あまり、真剣に受け取られても困るんだが」
「惚れた男の言うことに、真剣に耳を傾けない女なんていないわよ」
 はすっぱな口調で言ったところを見ると、多生の照れはあるらしい。
 そして御子は、『わざわざ口に出すことではありません』みたいな感じで、特に表情を変えないまま尚斗を見ている。
 多分、表現方法が違うだけで、この姉妹の思想、価値観は、ほぼ同一に近いのだ。
「……家の近くまでなら、送るぞ」
「んー」
 尚斗の提案に、弥生はちょっと考えて。
「今日は、遠慮するね」
 と、弥生は御子の手を取り。
「姉妹水入らずで、話すこともあるから」
「ん、そうか…まあ、気をつけて帰れ」
 
「……怒ってる?」
「……怒ってないと言えば嘘になります」
「そっか…」
 弥生は空を見上げ、御子は俯く。
「尚斗さんに…知られてしまいました」
 そういや、温子が『女の友情は儚い』って言ってたなあ……と、弥生は笑い。
「ああ、そっちの方」
「……私が、何を言っても、おねえさまは、やり遂げてしまうでしょうから」
「……」
 どうやら、想像以上に御子の怒りは深そうな事に気がついて。
「いや、私がこっちにいる間に決着つけてあげたいなって…」
「……それは、その方がおねえさまが楽だからでしょう」
「……」
 弥生はちらっと御子を見て。
「えっと、ものすごく怒ってる?」
「……違うと言ったら嘘になります」
「うわ…」
 御子が弥生に対してここまで言う……それは極めてレアなことである。
 だが、弥生はそれがどこか嬉しくて。
 1年前の、あの時まで……少なくとも、自分と御子は、姉妹ケンカすら出来なかったから。
 以前は、控えめながらも、御子が弥生の意見を否定するようなことを口にする……そんな当たり前のことも出来なかった。
 歌舞伎の女形は、女ではないが故に、女という存在の本質を抽出してそれを演じようとする……女よりも女らしいと言われる所以であろう。
 父と母、そして御子。
 御子が養子であるということを自分だけが知らず……家族の中で、ただ一人、家族である苦労と努力をしてこなかった。
「……悔しいなあ」
「……?」
 ものすごく怒っていると言っておきながら、どこか心配げに御子が弥生の顔を見上げている。
「……愛してるぜ、ベイベー」
 言葉では伝わらない想い。
 それでも、言葉にせずにはいられない。
「……私が、赤ちゃんのような存在…という事ですか?」
「あははは」
 弥生は笑った……というか、笑うしかない。
「あの、何が…」
 御子の言葉を遮って。
「御子、私が大学を卒業する4年後までには、有崎と決着をつけておきなさい」
「……」
「いや、4年あったら十分でしょ?」
 御子は、ちらりと隣の弥生に視線を向けた。
 十分だろうか?
 一寸先は闇というように、1年後のことだってわからない。
 いつの時代も、確実なのは、過去だけだ。
「……努力はしてます」
「それはそうでしょうけど…」
 弥生はちょっと呆れたように。
「さっきも言ったけど、この一年、まるで進展してるようには…」
「春の花は春に、秋の花は秋に咲きます」
「……はいはい」
 弥生は肩をすくめて。
「ちなみに、御子の中では…何年ぐらいの計画なのよ?」
 それはどこかからかうような口調だったが、御子はまっすぐに受け止め。
「せめて、8年は…」
「長っ…っていうか、それは有崎がかわいそう」
「ま、まずは、尚斗さんにふさわしい自分に…鍛練を重ねて…」
「あのねえ…」
 これは本当に、呆れた感じで。
「ですが、おねえさまの言うように、自信が持てない自分をもって、尚斗さんの元へまいるのは、良くないと思います」
「……御子」
「はい」
「あなた、有崎の家に嫁ぐつもり?」
「はい……そうなれば、ですが」
「いや、ちょっと待って」
「尚斗さんは、有崎家の長男です」
「有崎には、お姉さんが…」
「尚斗さんのお母様には『ウチの子になんなさい』というお言葉を頂いておりますし」
 にこ。
「……えっと」
「おねえさま。生意気を申すようですが、私は、努力をしてこなかったわけではありません」
「いやいやいや、その理屈はちょっとおかしい」
「おねえさまは、安心して九条の家をお継ぎください」
「いや、だからそれは…」
「……冗談です」
「……え?」
「おねえさまが、あまり意地悪をするものですから、仕返しをしたくなりました」
「あ、あぁ…そうなんだ…」
 にこ。
 御子が微笑み、弥生も笑う。
「おねえさま、日が暮れます」
「そ、そうね、帰りましょう」
 と、弥生が指しだした手を、御子が取り。
 血ではなく、心でつながった姉妹が歩き出す。
「……おねえさま」
「なに?」
「……」
 言葉はなく、ただ視線で問いかけてくる。
「振られたら、仕方ないじゃない」
「……あらためて、育てようとは思わなかったのですか?」
「有崎を困らせるだけ、そんな気がしたの」
 この話はおしまい、と弥生が目で促して。
「ねえ、御子」
「はい」
「ひょっとして……だけど、あなた、昔に、有崎と出会ってた?」
「……どうでしょうか」
「……」
「……」
 弥生はちょっと笑って。
「かあさまも、大ばばさまも、私も……九条家の女は惚れっぽいのかしらね」
 微妙な間を置いて。
「そうかも、知れません」
 ふっと、いつも俯き加減の御子が、珍しく空を見上げて。
「尚斗さんには、お慕いしているのとは別に……伝えたいことがあるんです」
「……」
「言葉では足りない気がして…いえ、1度言葉にしてしまうと、ずっと同じ言葉を繰り返してしまうんじゃないか……そんな気がして怖くなるぐらいに」
 弥生は、御子の横顔を見つめ……そして、同じように空を見上げた。
「ありがとう……じゃ、とても足りないわよね」
「……はい」
 言葉は、つまるところ心を飾るモノでしかない。
 弥生だけではなく、御子もまたそれに気付いていた。
 華道名門の九条流。
 今の2人は、九条流の娘という存在でしかないが……将来、立場が逆転するかも知れないし、そのまま肩書きとしてついて回るかも知れない。
 ただ、彼らの未来がどうなろうとも……変わらない何かは、きっとあるのだ。
 
 
 
 
 いや、想像以上に御子は動きませんね。(笑)
 まあ、それはそれとして……『偽』の方では別の設定がこしらえましたが、やはり原作における『何故、御子は主人公に相談を持ちかけたか?』という部分に対して、高任は色々考えたいなあ、と。
 
 ギャルゲーの主人公だから。
 
 と、いう風情のない答えもあるでしょうが、そこはそれ……御子の性格的に、ものすごく納得のいかない七不思議の1つだと思っているのですが。

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