冬の空は高くて蒼い。
 こうして眺めていると、自分が吸い込まれてしまいそうな……そんな感覚にとらわれることが、御子にはある。
「御子せんぱーい」
「はい、どうしましたか?」
 大抵は冬の寒さによって現実に引き戻されるのだが、今日、御子を引き戻したのは、後輩の言葉だった。
「せんぱいの言うとおり、下(地面)、かんっぜんに、凍ってます」
「今朝は、冷え込みましたから」
 にこっと、微笑み、御子は後輩の手を取った。
「あ、汚れて…」
「そういう部活です、ここは」
 もう一度微笑み。
「怪我は、してませんね…」
「え?」
「あなたのことだから、スコップを地面に突き刺そうとした……違いますか?」
「そ、そうです…」
 御子に手を取られたまま、後輩は恥ずかしげに俯いた……いや、それまで以上に下を向いた。
 後輩と言っても、御子より20センチ程も背が高いのだ。
「ごめんなさい」
「え?」
「口で言い聞かせるよりも、1度痛い目にあった方が薬になると思って……少し、意地悪でしたね」
「い、いえいえ、そんなこと…」
 頭を下げる御子を、後輩が慌てて押しとどめる。
「……っていうか、寒いです」
「冬ですから」
 にこ。
「まあ、そーですけど…多分、温暖化とかいってるの、嘘ですよね。絶対嘘ですよ」
「また、始まりました…」
 御子が笑うと、後輩は少しムキになって。
「本当ですって。世の中の情報は嘘にまみれてるんです……だって、全てを確かめようがないんですから、嘘だってみんな言えないだけなんですよ」
「……野菜には、栄養なんてありません、ですか?」
「そうですよ。ビタミンなんて、それっぽい名前をつけて…栄養があるから食べなきゃいけない、野菜を食べなきゃ健康が損なわれる、とか、全部政府とか、利害関係者の陰謀なんです」
 聞き慣れているので、御子はくすくすと笑うだけで相手にしない。
「人間の身体は、必要なものがちゃんとわかっているって言うじゃないですか……身体に必要なモノは、美味しいんですよ。野菜は美味しく無いじゃないですか、だから必要ないし、栄養なんて無いんです、全部嘘なんですよ」
 情報を信用しない、といいながら、自分に都合の良い情報はそのまま利用しようとするのはおかしくないですか……などと指摘することはせず、御子はちょっとそっぽを向いた。
「この前…美味しいって言ってくれたのは嘘だったんですか?」
「えっ、あっ…いや、あれは…美味しかったです…せんぱいの料理は、プロ級ですよ、本当に」
「あの料理にも、お野菜は使われてますよ」
「たっ、たまたまです…あのときはたまたま、私の身体は、野菜を必要としてたんです。だから、美味しかったんです」
 言い訳にもならない言い訳を口にして…。
「え、何の野菜が使われてたんですか?」
「秘密です」
 にこ。
 後輩の顔に、少しおびえが走った。
 ちっちゃくて、おとなしくて、可愛い……年上とは思えない先輩ではあるのだが、ただ、ちっちゃくておとなしくて可愛いだけで無いことは、この1年足らずの間にきっちり理解させられている。
 もし、本当に野菜が使われていたのなら、一番嫌いだと自分が公言してはばからない、あの悪魔の食材が使用されていたのはほぼ間違いない。
「…うう」
「あんまり嫌っては、お野菜さんがかわいそうですよ」
「……はい」
 この後輩、高等部からの入学者ではあるのだが、幼稚舎からこの学校に通っていてもおかしくはないお嬢様……というか、いわゆる世間的に上流階級と判断される出自である。
 今の世の中、しなやかな強靱さが必要である……と、ふつーの学校に通わせたのはよいのだが、自分たちの教育方針に多少疑問が走るような育ち方をしたもので、あわてて多額の寄付金を持参金にこちらの女子校につっこんだ……というのが、実情である。
 実際、この後輩は、いわゆる問題児として当初は扱われた。
 多忙にもかかわらず、いや、多忙だからなのか、隙を見て理事長室を抜け出そうとする美貌の新理事長……敢えて名前は挙げない……は、教師の悲鳴を聞きはしたモノの、実際に自分で会い、話を聞き……下した判断は早く、処置は正解だった。
 いや、正解だった……というのは、時間を巻き戻すことの出来ない身として傲慢であろうか。
 少なくとも、この後輩には御子という名の重しが出来……教師を含めた、周囲が、彼女を扱うことに、それほどの苦労を伴わなくなったのは確かである。
 
 後に、新理事長は親しい人に対して『昔、似たような話を聞いたから』と語っているが、これはまた別の話である。
 
「寒いのは冬だから仕方ないとして、来てるの、私と、せんぱいだけですか?」
「お正月ですからね」
 と、御子は笑い。
「みなさん、留守をされてるんですよ」
「留守…ねえ」
 後輩はちょっと皮肉な表情を浮かべたが、気を取り直したように。
「せんぱいは、正月に、海外とか行かないんですか?」
「九条家は、お正月は忙しいんです…いろんな人がお年始にやってきますし、それが終われば終わったで、初稽古など、全国を回ることになりますから」
「ふーん、家元…じゃなくて、宗匠ってのも、面倒なんですね」
 御子はちょっと笑って。
「だから今日は、部活を言い訳に、息抜きなんです」
「正月が息抜き、じゃなくて、正月に息抜きですか……はー、大変なんですね」
「あ」
「え、どうかしたんですか?」
「あけまして、おめでとうございます…」
 と、御子が深々と頭を下げるモノだから。
「あ、おめでとうございます」
 後輩も頭を下げる……もちろん、自分が頭を上げても、御子の頭はまだ下がったままだ。
 ゆっくりと頭が戻り。
「ことしもまた、よろしくお願いいたします…」
 と、再び頭を下げていく。
「いや、1度に言いましょうよ」
 と、苦笑しながらも、後輩ももごもごと口の中で『今年もよろしく』と呟きながら頭を下げる。
 ちゃんと言葉にならなかったのは、『今年と言っても、春が来たら、せんぱいは卒業じゃないですか…』という気持ちがあるからだ。
 去年、背中に片腕をねじ上げられた状態(笑)で、理事長に連れて行かれたのが、園芸部の部室だった。
 まだ出来て1年も経っていないという園芸部には、中等部の生徒も混じっており……園芸部と言いながら、お茶を点てたり、花を活けたり、料理を作ったりする不思議なところで、一部の間では『花嫁修業部』と呼ばれていることも、あとで知った。
「……」
 後輩は、あらためて御子を見つめ……不思議な人だなあと思った。
 園芸部が不思議な部活なのではなく、何よりもこの人が不思議な人で……おそらく、この人が卒業したら、園芸部はただの部活になってしまうのだろうと思う。
 双璧と謳われてはいるが、下級生に人気があるのは、御子の友人の方である。
 もちろん、後輩自身も御子を通じてその友人と会話したことがあるのだが……園芸部設立にあたっては色々と力になってもらったらしいし、すごい人だとは思ったのだが。
 その、すごい人を協力させてしまう方が、本当はもっとすごいのではないかと後輩は思うのだ。
 仮に自分が、園芸部ではなくて演劇部に連れて行かれたとして……マスコット的な外見とは裏腹に豪腕と称されるあの人に自分が逆らえないのはわかるが、あの人のために何かをしてあげようという気持ちにはならなかったのではないか、と。
「あの、どうかしました?」
 御子が心配そうに顔をのぞき込んでいることに後輩は気がついた。
「あ、いえ…せんぱいは…すごいなあって」
「え?」
「いや、入谷先輩も、すごいなあとは思うんですけど、私は、その、御子せんぱいの方が、すごいと思うんです」
「……」
「え、わ、私、変なこと言いましたか?だったら、すいませんっ」
 後輩が頭を下げる。
 そうして頭を下げながら、後輩は御子に初めて怒られたときのことを思い出していた。
 自分のせいで、一時、部員がかなり減った……他の連中はどうでもよかったが、その時は既に御子のことが好きになりかけていたので、これ以上迷惑は掛けられないと思って退部届を出したときの事。
 今と同じように、頭を下げた……が、退部届を破り捨てられる音で頭を上げた。
 そして今度は。
 ぽす。
「…っ!?」
 頭を撫でられた。
「な、ななな、なんですか、いきなりっ!?」
「あ、ごめんなさい」
 御子はにこっと笑って。
「ちょうどいい位置に、頭があったから……ほら、私、背が小さいから、撫でられることはあっても、撫でることが無いから」
 ぐいぐいぐい。
「あ、あの…?」
 御子が、後輩の腕をつかんで引っ張る。
「ほら、頭を下げて…」
「え、いや…な、撫でるつもりですか?」
「嫌なら、下げちゃダメです」
 にこ。
「あう…」
 
「あー、いいですね、温室は…」
 風を感じない、という部分が大きいのかも知れないが、温室の暖かさは、暖房器具の暖かさとは、何かが違うように感じる。
 ずいずい、ずりずり…。
 重いモノは、まず段ボールの上に乗せて、それから引っ張る……この作業をしているとき、後輩は、何故かエジプトのピラミッドを連想してしまう。
「……大丈夫ですか、せんぱい」
「ごめんなさい…私、力が弱くて…」
「あー、いえ、私、身体おっきい方ですから」
 後輩の見たところ、御子は言うほど力が弱くはない……というか、活動内容のせいなのか、園芸部の部員は、わりかし力の強い人間が多いのだ。
「つっても、こういうのは、無理ですけど」
 後輩は、大物(大きい鉢植え)に目をやった。
 上も含めて、おそらく100キロは超えているであろう……部員4人で傾けつつ台車に乗せて、という代物だ。
「そうですね…1人では…」
 御子の呟きに、後輩はなんとなくそちらを見た。
 ここにはいない誰か……御子の呟きに、なんとなくそれを感じたからだ。
 ずいずい、ずりずり。
 感じはしたが、なんとなく、そこに触れてはいけないような気がして……後輩は、黙々と、植物たちの場所替えにいそしんだ。
 上着を脱ぎ、それでも額に汗が浮かび始めた頃。
「休憩しましょう」
「はい」
 いつもなら、わっと部員が集まる場面なのだが、2人きりである。
「……せんぱい、多いです」
「ごめんなさい、つい、いつもの量を…」
 園芸部の休憩時間は、わりと本格的だ。
 さすがにお茶を点てはしないが、御子手製のおやつがつく……これが楽しみで、という部員もいるぐらい。
「……」
「……どうしました?」
「せんぱいが卒業したら、このおやつってどうなるのかなあって…」
「……」
「すみません…でも、私が言いたいのは、おやつだけじゃなくて…」
 後輩は言葉を濁した。
 この学校では一大勢力を誇る、演劇部も同じ悩みを抱えていると聞いている……いや、部員数が多いだけ、演劇部の方が深刻かも知れない。
 ただ、後輩にとって演劇部のそれは重要ではなかった。
「……このおやつは、人集めの手段でした」
「え?」
「さっきあなたは、入谷さんより私の方がすごいと言ってくれましたが、そもそもこのおやつは、入谷さんからヒントをもらったんです」
「……」
「私が、新しく部を作るといっても、人が集まるモノではありません」
「そんなことは…」
 御子は首を振り。
「集まった人を、もてなす自信はありました……でも、集まった人を放さないことと、人を集めることは、全然別のことなんです」
「えーと、そうなんですか?」
 御子はちょっと笑って。
「理事長先生に連れてこなければ、あなたは、園芸部に興味を持たなかった…違いますか?」
「それは、まあ…そう…ですね」
「そこにいるだけで人を惹きつける人、触れ合うことで人の心をつかむ人……私は、後者なんです」
「そう…かもしれません」
 でもそれは、優劣で語られるような…という後輩の言葉を抑え込むように、御子は笑った。
「入谷さんも、どちらかと言えばそうなんです」
「え?」
 いや、あの人目立ちますよ?
 と、目で語る。
「人が集まったから、そう見えているだけです……入谷さんは、自分に何が出来て何が出来ないか、それをきちんと理解して、出来ない部分をどうやって補うか……そこまで考えて、それを実行できるところがすごいんです」
「そう、ですかね…」
 後輩はちょっと拗ねたように呟いた。
 自分の好きな人より、上がいる……それが面白くないのだ。
「入谷さんにそう言えば、多分、こう言うと思いますよ…『あのですね、私なんかよりよっぽどすごい人が、いるんです。あなたが知らないだけで』って」
「…それは、せんぱいじゃ、ないんでしょう?」
 御子は小さく笑って。
「入谷さんの言う『すごい人』は、多分、私の知ってる人です」
「……ってことは、せんぱいのせんぱい?」
「……その可能性もありますが、多分、入谷さんの先輩じゃない人です」
「せんぱいから見ても、すごい人なんですか?」
「すごい人…なんでしょうね」
 歯切れの悪い言葉に、後輩が首をかしげた。
「違うんですか?」
「周りは確かにすごい人だらけでしたけど……その人本人がすごい人かと言われると、ちょっと違う気がするんです」
 御子はちょっと目をつぶり。
「そうですね…不思議な人、でしょうか」
「不思議な人…ですか」
 よくわからない、そんな表情で後輩が呟く……が、別のことに気付いた。
「せんぱい、その人のこと好きなんですか?」
 ガタッ。
「……」
 取り落としたカップを拾い上げ、表情を取り繕い、後輩を振り返る。
「いきなりそんなこと言われたから、驚きました」
 まあ、このあたりが成長の証と言えなくもない。(笑)
「ありゃ、違いましたか」
「そうですね…でも、素敵な方だと思います」
 などと、さらりと言ってのけるあたりは、かなりコミュニケーション能力のレベルアップをうかがえる。
「あ、でも男なんですね」
「この話、入谷さんには、内緒ですよ」
「え?」
「その人、入谷さんの憧れの方ですから」
 と、御子は唇の前に指を立ててみせた。
 などと、嘘ではないにしても、疑惑を他人に押しつけてしまうあたり、多少汚れたと言えなくもないが、これはこれで成長であろう。
「はー、あの入谷先輩が、憧れる人ですか…なんか、それだけで、すごい人って感じですね」
「入谷さんだけじゃなく、みんなにも内緒ですよ」
「はーい」
 元々、他と違って人の色恋話にさほど興味を持つタイプではないので、後輩は素直に頷いた。
「……せんぱいにはいないんですか?」
「え」
「いや、好きな人…とか」
「います」
 平然と、御子。
「……いるんですか」
「ダ、ダメでしょうか…?」
 ちょっと困ったように御子が言うのを。
「あ、いや…せんぱいは、みんなのせんぱいでいて欲しいって言うか……すいません、独占欲って奴ですね、これって」
「独占欲ですか…」
 後輩の言葉を受けて、御子がしみじみと呟いた。
「ど、どうしたんですか、せんぱい」
「いえ、なんでもありません」
 と、御子は笑ったが……後輩には、その目がどこかうつろに思えた。
 
 作業再開……といっても、場所は温室ではなく、寒風にさらされる花壇に移っている。
「せんぱい、ここ、まだ霜柱が残ってますよ」
 さくさくさく…。
「……潰したらかわいそうです」
「大丈夫ですよ、明日になればまた起き上がりますから、こいつら」
 御子の薫陶よろしく、霜柱をさりげなく擬人化する後輩なのだが……その上で、ひたすら潰し続けるのはどうか。(笑)
「っていうか、動いてないと、寒いです、せんぱい」
「我慢です」
「我慢ですか」
「それと、辛抱です」
「我慢と辛抱ですね、わかりました…」
 と、素直に後輩。
 この後輩に限らず、園芸部の部員は、御子に弱い。
 先輩なのだから、弱い、という表現は変かも知れないが、弱いという表現がむしろぴったりなのだ。
「ここ、春になったら何を植えるんですか?」
「なんでもかまいませんよ」
「え?」
「私ではなく、あなたたちが決めることです」
「……」
「……」
「そ、それはそーですけどっ」
 沈黙に耐えかねた後輩の言葉には、どこかやりきれないような感情が滲んでいた。
「せんぱいが、せんぱいが卒業したら…」
「園芸部は、元々私のわがままで作ったんです」
「……?」
「だから、本当に…なんでもいいんです」
 御子の手が、花壇の土を握る。
「ここに、何か植えられている……それだけで、嬉しいんです」
「……」
「本当に、そうなんです……」
「せんぱーい…」
 涙ぐむ、後輩の頭を撫でてやりながら。
「私が卒業したあと…園芸部で嫌なことがあっても、何か、たった1つでも楽しいことがあったら我慢しなさい…嫌なことだけで、何1つ楽しいことがなければやめても構いません」
「……はい」
「嫌なことから逃げてばかりではダメですが、何も楽しいことが見つけられないのなら、仕方ありませんから……ただ、何かに遠慮して、楽しい事があるのに諦める事だけは許しませんよ」
「はい、覚えてます、覚えてますから…せんぱい…」
 退部届を出した日に、言われたこと。
 何故この人はここまで……という疑問も、全ては涙に溶けて流れた。
 誰に何を言われるでもなく、離れていった部員1人1人に頭を下げて回った。
 戻ってきた部員もいたが、戻ってこなかった部員もいた。
「でも、私、せんぱいにもらうばっかりで、何も…何も返せないんです…」
 頭を撫でる手が、より優しくなった。
「……私が倒れていたとき、手をさしのべてくれる人がいました」
 耳元で、独り言のように囁かれる御子の言葉。
「本当は、その人だけじゃなく、たくさんの人が手をさしのべてくれていたんです……私は、目を閉じ、耳をふさいで、それに気付かないふりをしていました」
 本当だろうか、と後輩はいぶかった。
 御子が、人を傷つけるためではなく、その優しさから良く嘘をつくことを知っていたからだ。
「でもその人は、私が気付かないふりをしていても、構わずに手を押しつけてきて、強引に私の手をとり、立たせてくれました」
「……ただの、お節介じゃないですか?」
 御子が首を振る気配を感じた。
「その人は絶対、さあこっちへ……と引っ張っていこうとはしないんです。私を起き上がらせて、さあ、これからどっちに進みたい……と、私自身に選ばせました」
「……」
「迷いに迷って進みたい道を選ぶと、そこでようやくその人は背中を押してくれたんです……」
 頭を撫でる手がしばらく止まり……また動き出した。
「その人は私に、何も求めませんでした……たくさんのモノをもらいすぎて、感謝の気持ちで、胸が張り裂けそうになって……今のあなたのように気負って、何が何でもお返ししなければと思い込みました」
 そこでようやく、後輩は話の流れに気付いた。
「何て、言われたんですか?」
「……」
 なでなでなで。
「あ、あの…?」
「……人には手が2本しかない、と」
「は?」
 なでなでなで。
「え、えっと…?」
 後輩の軽い困惑をよそに、ただひたすらに頭を撫でる時間が過ぎ。
「ふう……えっと、続きです」
「は、はい…」
「その人は、倒れている私のために手を差し出し、私はその手を取りました。そうして助けられた私が、その人に手を差し出し、その人が私の手を取ったなら……互いに手を取り合った2人しか残りません」
 後輩の脳裏に浮かんだのは、フォークダンスだった。
「人の手が2本あるのは、誰かを助けるために差し出す手と、誰かに助けを求める手の2つが必要だから……助けられた人間に助けの手を差し出すと、そこで世界が閉じてしまいます」
「……」
「……その人にもらったもの、それをそのまま返す必要はないんだよ、と。もらったものを、私が、私の出来る範囲で、他の誰かに渡す……そうして、人の手はつながっていくモノだからと」
「……」
「私は、卒業することで園芸部を残していきます。あなたが私から何かを受け取ったというなら、新しくやってくる誰かに、もしくは、部活や学校とは関係ない、どこかの誰かに、あらためてあなたが渡してあげたらいいんです」
 さっきとはまるで違う、頭を撫でる優しい手つき。
「でも…」
「そうしてあなたが渡したモノが、巡り巡って、いつか私の元へ届く……そう考えると、楽しくなりませんか?」
「……そう…ですね」
 綺麗事だと思いつつ……それでも後輩は頷いていた。
 他の誰でもなく、御子の言うことだからだ。
「……じゃあ、今からあなたを立たせるけど、いいかしら?」
「え、えっと…」
「顔を見せたくないなら、私は後ろを向いてます」
「す、すいません…そうしてもらえますか」
 御子に背中を向けて立ち上がり、後輩は顔を洗うためにその場をあとにした。
 
「2つの手……か」
 顔を洗って、鏡で確認して……後輩は花壇に向かっていたのだが。
「ん?」
 なにやらそちらの方が騒がしい。
「せんぱーい…?」
 そっと、物陰から顔を出す。
 
「何をぺらぺらとしゃべってますかっ!」
「私の経験談です」
 さらりと御子。
「な、何を言ってますか…さっきのは、九条さんじゃなくて…わ、わたっ、私のっ…」
「私の経験談です」
「嘘つくな、です」
 双璧の片割れ、入谷結花が、顔を真っ赤にして、九条御子にくってかかってる……ように、後輩の目には見えたのだが、何を話しているかまでは聞こえない。
「な、何が、『目を閉じ、耳をふさいで、それに気付かないふりをしてました』ですかっ…人の気持ちを勝手に…」
「いえ、ですから、あれは私の経験談です…入谷さんは、そうだったんですか?」
「ぬっ、くっ…」
 ぎりぎりぎり、と歯ぎしりの音が聞こえてきそうな表情の結花に、御子は頭を下げて。
「あの子との会話を、邪魔しないでいただいたことは感謝いたします」
 はあ、と結花はため息をつき……ちらりと、後輩が潜んでいる方向に視線を向け。
「図太くなったわね…」
「鍛えられましたから」
「まあ、ね」
 結花と御子はお互いに微笑みあい。
「じゃ、またね」
「はい。受験、頑張ってくださいね、入谷さん」
「別に油断はしないけど、頑張るほどのもんじゃないです」
 と、一旦背を向けかけた結花は振り返り。
「一応言っときます、誕生日おめでとう」
「……はい、ありがとうございます」
 頭を下げた御子に、結花はちょっと困ったように前髪をかきあげて。
「嘘とか本当とか関係なく、誰かにおめでとうって言われる日が、誕生日って事でいいじゃないですか……『その人』とやらも、そういう事言いますよ、きっと」
 恥ずかしげに、御子が口元を手で隠した。
「はい…」
「……ったく、じゃあね」
 ぷいっと、照れたように背を向けた結花に、御子はまた頭を下げた。
 御子に見送られて……結花は、後輩が立っている場所とは逆方向に去っていく。
 そして、後輩はゆっくりと御子に近づいていき。
「えーと……仲良いんですよね?」
「はい、入谷さんとは仲良しです」
 にこ。
 
 2年前の冬、誰かさんが残していった何かは、今もいろんな場所で生き続けているのだった。(笑)
 
 
 
 
 さて、やや実験的な内容なのですが……。(そわそわ)
 いや、誕生日イベントなのはいいんですが、冷静に考えると、偽チョコ設定で誕生日イベントって、書けないじゃなくて、まだ書いてない部分多すぎませんか……などと今更ながら気がついてしまったモノで。(笑)
 まだ、書いてない部分には触れないように……などと書いてみたのはいいんですが、チョコキス10周年記念だからして、これがアップされるのは来年なのか。(これを書いてるのは、2011年の10月です)
 
 主人公、見事なまでに出てきません……そういう意味でも、かなり実験的。
 実験に対して、どういう反応が返ってくるか……と待つのは、やはり辛いモノがあります。
 まあ、ノーリアクションも、辛いといえば、辛いのですが、ある意味楽ではあります。(笑)
 
 そわそわ。
 そわそわ。
 
 あんまり、そわそわしないで〜♪
 
 などと、安寿に歌わせてみたい。
 ちなみに、後輩の『野菜に栄養はありません』理論は、高任のモノではありません。あと、『御子が首を振る気配を感じた』あたりの、無言の攻防をあとで理解して、にやりと笑っていただけると嬉しいです。

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