「……で、ここを曲がると職員室。じゃあ、次はどこを…」
 案内しようかなあ……などと呟きながら、今歩いてきた廊下を後戻りし始める麻里絵に向かって尚斗は声をかけた。
「コラ、ちょっと待て」
「ん?」
 麻里絵は小首を傾げながら振り返る。
「さっきから思っていたんだが……」
「なあに?」
「図書室とか化学実験室とか案内してくれるのはありがたいんだがな、なんでいちいち一旦教室に戻るんだ?」
 自分が何故飼い主に怒られたのかわからない犬のような表情で、麻里絵はぽかんと尚斗の顔を見つめた。
「ここが職員室……で、左手の階段昇って右に曲がれば……って説明した方が空間的な把握もしやすいし、何より手間が省けると思うんだが?」
「えい」
「おうっ」
 腰のあたりを横からけられ、尚斗は怒気も露わにそちらを振り返る。
「何しやがるっ……って、なんだ弥生か」
「まったく有崎は女心がわかってないと言うか……」
 肩をすくめて呆れたように首を振りながら弥生が囁いた。
「アンタと一緒にいたいからに決まってるでしょ」
「ちがいます」
 少々ムッとした感じで、麻里絵は近づきすぎた弥生と尚斗の間に割り込んだ。
「……って、尚兄ちゃん。九条さんと知り合いだったの?」
「いや、昨日の授業中ふらふらっと彷徨っているうちに知り合ったって言うか…」
「ふふーん、私の美しい歌声に惹かれてふらふらっと…」
「サボりはダメです」
 小学校の委員長みたいな口調でピシッと言い放ち、麻里絵は口を尖らせた。
「もう、気分が悪いって言ってたから心配してたのに」
「いや、気分が悪かったのは事実なんだが……」
 この学校の雰囲気に馴染めない……とは尚斗も言わない。どうせ一ヶ月という気分もあるが、麻里絵に対する気配りぐらいはできる。
「……私も聞きたいんだけど、椎名さんと有崎って?」
「5年ぶりに再会した幼なじみだ……全米が泣くほどの感動の再会だったぞ」
「泣いたりしません」
「……ふーん」
 きーんこーん……
「あっ、予鈴が鳴っちゃった。教室に戻ろ」
「予鈴だからまだ大丈……」
 尚斗の腕を引きぱたぱたと廊下を駆けていく麻里絵の後ろ姿を見送ると、弥生は小さくため息をついた。
 
「……尚兄ちゃん、どこぉ?」
 飼い主に見捨てられた犬のような表情であたりをきょろきょろと見回しながら人混みの中を彷徨う麻里絵を発見し、尚斗はこめかみのあたりにじんわりとした痛みを覚えた。
「ちょいとお嬢さん」
「ひゃあっ!」
 肩に手を置かれて跳ね上がる……が、尚斗の顔を認めてすぐに安堵のため息をつく。
「良かった……このまま死ぬまでひとりぼっちかと思った」
「大げさな……って、どうして二回曲がるだけで迷子になるかな?」
「紗智が言うには、私、凄い方向音痴なんだって」
「方向音痴にも程があるだろ……って、この前学校を案内してくれたとき、いちいち教室まで戻ったのは、そうしないと自分が迷子になるからじゃないだろうな?」
「うん、実はそう」
 コクリと頷く麻里絵に、尚斗はこめかみのあたりを指で揉みほぐす。
「じゃあ何か?職員室からトイレ……とか考えると混乱してわからなくなるのか?」
「ん、学校なら見覚えのある場所が多いからなんとかなるけど…」
 麻里絵は自分達の脇を通り過ぎていく通行人に視線を向け、寂しそうに呟いた。
「こうやって街に出ると……自分の知らない場所以外は恐くて歩けないかな」
「おいおい…」
 冗談だろ……と続けようとした言葉は尚斗の口の中で消え去り、ただ冬の風に白い息が紛れて飛ばされていく。
「……迷ったらどうするんだ」
 どこか透明なベールに包まれたかのような麻里絵の表情がちょっと動き、尚斗の方を振り向く。
「自分が知ってる場所に出るまで彷徨うの……」
「……」
「仕方ないよ、方向音痴だから…」
 じっと自分を見つめてくる麻里の瞳が耐えられなくて、尚斗は顔を背けた。
 それは……多分、自分の役目じゃない。
 
「私をまこうだなんて……やってくれるわね」
「他人のデートについてくる方がよっぽど悪趣味だろ」
「面白そうな話ね」
 話に割り込んできた弥生を紗智と尚斗が同時に振り返る。
「……家出娘がそんな余裕あるの?」
「アンタと有崎のお節介程じゃないと思うけど…」
「なんだよ、2人とも知り合いか?」
 紗智は器用に肩をすくめた。
「こういうエスカレート方式の学校ではね、内部進学と外部からの編入者のグループに別れがちなのよ……部活とかで多少の交流はあるけど」
「……弥生は内部進学だろ?」
「弥生」
 紗智が尚斗の肩をがしっと掴んだ瞬間、弥生の手が尚斗の脳天を痛打した。
「……お前ら」
「まあ早い話……私は内部進学のグループの中では浮いちゃってるから」
「…わりい」
「気にしないで、私の方が有崎にはよっぽど無神経なことしてるし」
 さばさばとした表情で弥生が告げる。
 だったら、何故殴られなきゃならん……とは口にしない尚斗。
「どうでもいいんだが、これ以上話をややこしくするなよな」
「5年ぶりに再会を果たした幼なじみ、そして2人の間に燃え上がる愛……全米中が手に汗握る展開だと思わない?」
「手に汗握ってどうする…」
「あははっ……アンタ達ってどことなく似てるね」
 弥生の言葉を聞いて、紗智と尚斗の2人は、苦虫をまとめて噛みつぶした表情を浮かべた。
 ただし、表情は同じでも胸に去来した思いが違うことに気付いているのは3人のうちで1人だけだったが。
「……ったく、自分のまわりを飛び回る虫さえ追い払えない人間が集まって」
 尚斗の頭部で鈍い音が2つ。
「アンタに言われたくないわよ!(*2)」
「俺は……」
 頭をさすりながら2人の顔を見、尚斗は開きかけた口を一旦閉じた。
「……でも弥生、お前は違うだろ?」
「……」
「お前は……少なくとも真っ直ぐ歩こうとしてるだろ?よそ見をしてる暇なんて無いだろ?」
「だったらどうして…」
 尚斗は小さく息を吐き、椅子の背に身体をもたれかけさせた。
「真っ直ぐ歩けねえ……そんな人生音痴だからな、俺は」
 ちょいと照れたような仕草で頭をかき、ぽつりと呟く。
「まあ、真っ直ぐ歩けるヤツを応援したくなるもなるさ…」
 弥生の頬のあたりが微かに紅潮する。
「……幼なじみの麻里絵より、弥生が大事?」
 凍り付くような冷たい口調に弥生が息を呑む……が、尚斗は半ばそれを予想していたかのように顔色1つ変えずに振り向いた。
「紗智が思ってるような色っぽい話じゃないんだけどな…」
「……」
「知らない場所を歩くのが恐い……だからって、ずっと同じ場所ばっかり歩いているわけにもいかないだろ」
 放課後の教室の中を、尚斗はゆっくりと見回した。
 麻里絵にとってみちろーと尚斗達と過ごした子供の頃の思い出はこの教室のようなモノなのか。
 必ずここに立ち戻る……
「……俺が、手を引いてやったとしても同じだろそれは」
「冷たいこというのね……5年もほったらかしにできるだけあるわ」
「ちょっと、紗智…」
「いいさ…」
 尚斗は弥生が何かいおうとするのを制し、窓の外に視線を向けた。
「5年もほったらかしてたのは事実だ…」
 
「尚兄ちゃん……紗智と喧嘩してるの?」
「むー、そんな深刻なモノじゃないんだがなんと説明すればいいものか」
「……どことなくぎくしゃくしてるから」
 寂しそうに麻里絵が呟いた。
 2人一緒に家路を歩む……そこには5年の空白と、みちろーがいないという事実が横たわっている。
「……紗智は、どうして私と友達でいてくれるのかな」
「麻里絵……若いくせにそんなディープな事をさらっと口にするな」
「……気付いてる?」
「つかみ所のないヤツだけど……『みちろー、今側にいないじゃん…』って呟いたときの表情でな……でも、そういうヤツじゃないだろ」
「そっか…」
 麻里絵は小さく呟き、夕暮れの蒼の中にまたたく星を見あげた。
「やっぱりそういうこと考えちゃう私って……ひどいよね」
 他人だけでなく自分自身さえも突き放したような笑みを浮かべる麻里絵。
「みちろーくんは私のそういうとこ……」
 麻里絵の思考がまた同じ場所に立ち戻る……
 肩が触れ合いそうな距離にいるのに、麻里絵が遠くへ行ってしまったような感覚に襲われた。
 それなのに、どうして麻里絵は助けを求めるような目をしているのか。
「……無駄だろ」
「……」
「自分の脚で歩こうとしない人間には……どんな手助けをしても」
 そして、麻里絵は悲しそうに目を閉じた。
 
「尚斗、アンタ麻里絵に何したの?」
「……なんか行動のパターンが似てるなお前ら」
「は?」
「いや、こっちの話……で、さっきの質問の答えだが別に何も」
 そう答えた尚斗を、紗智はジト目で見つめた。
「信用できないなら俺に聞いても意味無いだろ」
「そりゃそうだけどさ……」
 尚斗は大きくため息をつき、ぺちぺちと頬を叩いた。
「何してんの?」
「ちょっと覚悟を決めてるだけだ……」
「?」
 首を傾げる紗智の前で尚斗は深呼吸し、そして幾分真面目な表情で紗智に向き直った。
「みちろーを悪者にするとつらくないか?」
「……麻里絵から聞いたの?」
「いや、悪いけどばればれだお前」
 紗智は尚斗の視線からほんの少し顔を背けると、自嘲的な笑みをこぼした。
「じゃあ……麻里絵を悪者にしていいの?」
「誰が悪いわけでもない……という結論では納得できないか?」
 紗智は机の上に腰掛けると、目を細めて遠くを見るような目つきをして呟き始めた。
「……いい雰囲気だったのよ、あの2人。見てるこっちが羨ましくなるぐらいにね……アンタにはわかんないかも知れないけど」
「見てないからな」
「それで……あ、恋愛っていいなと思った」
 唇をかみ、肩を震わせながら俯く。
「麻里絵の言いぐさじゃないけど、全部嘘になっちゃうのは耐えられない。だから、認めたくない……誰かを悪者にしなくちゃやりきれない」
「だったら……俺が悪いって事にしておけよ。その方が気も楽だろ」
「アンタって妙なところは鈍いね…」
「?」
 紗智は腰掛けていた机から降り、尚斗に背を向けた。
「それじゃあ、私がみちろーをあきらめきれないじゃない…」
「……」
「みちろーはいい加減だわ、そして身勝手。麻里絵にはふさわしくない……というのが私の結論」
 そういって振り返った紗智の表情は、麻里絵が時折見せるそれと同じように見えた。
 そして、尚斗の頭の中で何かがつながる。
 みちろーは麻里絵にふさわしくない……それは、等しく紗智にもふさわしくないという事なのだろうか。
 そう思いこむことで精神の安定を得ようとする一種の防御作用。
「……真っ直ぐ歩かないのと、真っ直ぐ歩けないのは全然違うよね」
「せめて1つは勝たなきゃいけない……と思う」
「甘えるな……って?みちろーにも同じ事が言えた?」
 紗智の語尾が微かに乱れた……様な気がした。
 静まりかえった教室の中に、夕日が射し込んでいる。
 
「……辛気くさいギターひいて」
「ギターとメロディーが可哀想……か?」
 ギターをつま弾く手を止め、弥生の方を振り返る。
「有崎でも落ち込むコトあるのね」
「ま、たまにはな…」
 そう呟きながらギターを壁に立てかける。
「あの2人……御子に似てるね」
「盗み聞きか、趣味が悪いな」
「聞こえちゃったの!」
 弥生が声を荒げたのをさらりと聞き流し、尚斗はぽつりと呟いた。
「この学校、静か過ぎるもんな……女の子がいるのはともかく、俺はここが好きになれないよ」
「……ここが好きって子は少なくないみたいだけどね」
 奇妙な静寂が2人の間を埋め尽くし、そして弥生の声がそれを振り払った。
「……久しぶりに自分で作らないご飯を食べたわ」
「料理、得意なのか?」
「一通りはね……御子のためとはいえ、家に帰ってみると正直うんざりしたわね」
「…?」
「全然変わってなかったから……変わらないこと、それが伝統の重みだって言うのなら……たまんないわね」
「一度脱ぎ捨てた服は……窮屈で着られないだろ」
「まあね…」
 頭の後ろに手をあて、弥生は椅子の背にもたれながら天井を見上げる。
「でも……御子は、歩き出したわよ」
「……そうか」
 尚斗の口元に微笑が浮かぶ。
「背中を押した甲斐があった…」
「私の妹だもの……当然よ」
 傲慢な弥生の言葉に尚斗は苦笑し、弥生は尚斗の表情を見て笑った。
「有崎ってさ……自分の身内には厳しくするタイプだよね」
「は?」
「んーと、身内って言うか……自分に近しい存在に対してかな。私がそうだったから、何となくわかる」
「そう……かも知れないな」
 麻里絵に対して厳しすぎる……と言いたいのだろうか。
「……嘘でもいいから違うぞって言ってくれればいいのに」
 弥生はそう呟きながら立ち上がった。
 そして、手のひらで尚斗の目を覆う。
「……今までありがと」
 やわらかな何かが唇に触れた。
 
「さて……今日の行き先だが」
 麻里絵が行ったことがない場所へ、麻里絵が入ったことのない路地を曲がって、あてもなくうろつき回ろうと決めていた。
「え……でも、それじゃあ」
「俺がいる、心配するな」
 今日一日だけ……そう決めた。
 麻里絵に向かって手を差し出すと、麻里絵がその手を握り返してきた……あの頃のように。
 でもそれは後戻りするためではなく、前に向かって歩き出すため……そう信じたい。
 ふと空を見上げる。
 季節は確実に春に向かっている。
 氷はいつか溶ける。
「尚兄ちゃん、こっちに行ってみたい…」
「いや、いちいち断らなくていいから」
 手を握っているというのに、何度も何度も尚斗の方を振り返りながら麻里絵が歩き出す。
 願わくばその一歩が、明日に向かっているように……
 
 
                    完
 
 
 ……タイトルを間違ったか。(笑)
 こんなの紗智じゃないっ!と抗議が寄せられそうな気もしますが、穿ってみればこういう解釈も可能かな、と。
 ただこれを書きながら気がついたことと言えば……高任は麻里絵があんまり好きじゃないのかもと。(笑)

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