この地方を襲った30年ぶりの大雪。
 歴史の重みに耐えてきた校舎も、その物理的な重みには耐えられずに瓦解した。
 それは、わずか半年前の出来事なのだが……遠い記憶になりつつある。
 いや、なりつつあるはずなのだが。
 
 8月上旬……夏も終わりだというのに、まだまだ暑い。
 ただ歩いているだけで汗が噴き出てくる……ましてや、前後左右を男子生徒に取り囲まれて、無理やり歩かされるとなれば尚更だ。
 別に答えを求めていたわけではなく、皮肉のつもりで尚斗は自分の右腕を押さえ込んでいる宮坂に言った。
「……何故、夏休みだってのに登校せにゃならんのだ」
「何故って……そりゃお前、女子校との合同イベントについて話し合わなきゃいけないだろ?」
 当たり前だろ……という表情の宮坂に、尚斗は冷ややかな視線を向けて。
「俺は生徒会役員でも、教師でもねえぞ」
「いや、だから…」
 宮坂が、ふうとため息をついて肩をすくめた。
「先方が、有崎をご指名だ」
 
「……あー、イベントについての話し合いはどうなったんですか?」
「あら、そんな難しい話ではありませんもの」
 にこりと笑って、綺羅。
「確かに初めての試みということで、警備を含めた運営のあり方について詰めなければいけない部分はありますが……あくまでも生徒の自主性に委ねるということで」
「……」
「うふふふ……その、困って、泣きそうな表情が、相変わらず魅力的ですのね」
 笑みを浮かべたまま、綺羅が、尚斗との距離を詰めていく。
 生まれたときからお嬢様。
 幼小中高大と、秘密の花園ですくすくと成長し、女子校教諭として就職してしまった……いわば無菌室で純粋培養された藤本綺羅という女性の歯車は、一体、いつ、どこで狂ってしまったのか。
 尚斗は、困惑と言うよりどこか悲しみを覚えながら言った。
「つーか、藤本先生って女子校教師の中では…その、今年で3年目でしたっけ?はっきりいって、下っ端ですよね?」
「……?」
 綺羅が小首を傾げた。
「その、なんで…女子校側の責任者みたいな立場になってんですか?」
「……あぁ」
 尚斗の言いたいことが理解できたのだろう、綺羅は小さく頷き。
「私、あれからちょっと発見したんです」
「発見?」
 綺羅は尚斗の手を取って……少ししゃがむようにして、自分の頬にあてた。
 そして、上目遣いに尚斗を見上げて。
「ダメ…ですか?」
「え、えぇ…?」
「私のお願い…聞いていただけませんか?」
 綺羅の目に涙が浮かんだと思ったら……それがすっとひいた。
 そして、尚斗の手を離して立ち上がる。
「こうやってお願いすると、みなさん私の言う通りにしていただけるんです」
「……」
「……あの、尚斗君?」
 尚斗は、静かに涙を流し……激情のままに、壁を思いっきり蹴飛ばした。
「ぐああああっ、ダメだこの人っ!着々と悪女への道を歩んでやがるっ!」
 2発、3発……壁を蹴って蹴って蹴り倒し……肩で大きく息をしながら、尚斗は綺羅に向き直って言った。
「藤本先生っ!」
 その勢いに驚いたのか、綺羅が目をぱちくりとさせた。
「は、はいっ」
「誰かに助けてもらうのと、最初から誰かに助けてもらおうと思ってるのは、全然違うんです」
「……」
「つーか、その…なんていうか……男って生き物は、基本的に代価を求めるんです。わかりますか?藤本先生にお願いされて、それを聞くだけじゃなく、いつか、どこかで、何らかの形でその代価を求めるというか…たぶん、純粋な親切じゃないんです」
「……ふふ」
「いや、笑い事じゃないんですよ、マジで」
 綺羅は、人差し指で尚斗の唇を押さえて笑った。
「尚斗君…私、男の方はともかくとして、ちゃんと人は見てきましたのよ。今は、教師でもありますから」
「……?」
「それに……私の、男の方を見る目もなかなかだと思いますわ」
 尚斗は、自分の唇をふさぐ綺羅の指をそっとどけて。
「いや、だからですね…」
「じゃあ、今尚斗君は、私に何らかの代価を求めて、忠告してくださってますの?」
 尚斗はちょっと首を傾げて。
「えっと……求めてないとは言えないんじゃないかと」
「まあ、嬉しい」
 綺羅がにこにこと笑う。
「……伝わらねえ…言葉って無力だよなあ…」
 対照的に、尚斗は肩をがっくりと落としている。
 正直、あまりろくでもない目にばかり遭わされているのだが、尚斗は綺羅のことが心配だった。
 あの男子生徒のハーメルン現象によって、綺羅に何か勘違いさせてしまったのではないか……と、男として、また男子校の生徒の1人として、自分にも責任の一端があるような気がしてならないからだ。
 いくら絶世の美女だからと言って、笑顔ひとつで、甘い言葉ひとつで、男共が全員、ほいほいと言うことをきくと思った大間違いで、いつか痛い目に遭ってからじゃ遅い。
 無茶をやって痛みを知るのは子供のうちで、大人になってからそれをやると再起不能に陥る危険がある……などと、これまでにも何度が忠告したのだが。
 今のように、綺羅は楽しそうに微笑みを浮かべて……たぶん、まじめに聞いてはいないんだろうと尚斗は思う。
 ただ、真っ正面から綺羅に見つめられると……確かに、この人なら、男共を手玉にとって人生をわたり終えてしまうのでは……などと考えてしまわなくもない。
 まあ、それはそれで、嫌なのだが。
 そういう意味では、尚斗はかなりまっとうな感覚の持ち主といえるだろう。
「これからイベントに向けて、頻繁にこちらに足を運ぶ事になりますけど、よろしくお願いしますね、尚斗君」
「いや、俺は全く、責任者でもなんでもないんですけど?」
「…よろしくお願いしますね」
 にこ。
「いや、だから…」
「よろしくお願いしますね、尚斗君」
 にこにこ。
「……はい」
 
「……はぁ」
 微かに頬を赤らめて、綺羅はため息をついた。
「今日も、尚斗君に一杯心配していただきましたわ…」
 男がみな善良な存在というわけじゃない。
 それは、女に対しても言えることで……綺羅は確かに、男性にほとんど接することなく育ってきたのだが、あくまでも『ほとんど』で、ある。
 女性とは接してきたし、人に裏表があることも十分に知っている。
 ついでにいえば、大学生から教師となった今現在にいたるまで……お見合い話はもちろん、成人男性の誘いが無かったわけではない。
 彼らを全員集めて、そこに尚斗を立たせたなら……おそらく、少年は身の置き所もなくうつむいてしまうだろう。
 だが、綺羅に言わせると……比べるまでもなく、尚斗が最も好ましいのだ。
 まあ、それを口にすると、誰かさんは綺羅の額に手をあてるのかもしれないが。
 誰も彼もが、美人だ美人だと褒めそやすというか……何事も度が過ぎれば毒になる。
 それは、自分が努力して得たモノではない。
 教師らしく、努力とか誠実とか……そういうモノを尊ぶ精神構造を持つ綺羅に言わせれば、そこにしか目のいかない男も女もお断り、なのである。
 人もうらやむというか、美人には美人なりの悩みがある。
 ましてや、『絶世の』の形容詞がつくレベルだと、同性からの妬みも受けまくる。
 自分が好意を抱いている男に色目を使っただの、美人を鼻にかけて馬鹿にしているだの……まあ、女子校育ちとはいえ、あまり人には言えない苦労をしてきたのだ、これでも。
 そういう意味では、綺羅は自分の母親を尊敬していた。
 彼女に言わせると、こうだ。
『綺羅。本当の美を目の当たりにすると、みな言葉を失います。妬まれて、悪口を言われるのは、所詮それまでのレベルなのですよ。人様に誇れるようなモノではありません』
 そんな母親の薫陶を受けたこともあって……綺羅は、人間の皮の部分の美醜についてはさほど問題にはしない。
 例の、欧米人種の美青年、中年同志の、高貴で崇高な恋愛模様に関しては、ただ単に画面的に映えるという理由でしかない。(笑)
 そっちの趣味に関して、紗智はハッピーエンドを好むが、綺羅は逆に離ればなれになるような……恋愛の終わりを告げるような結末が好みだった。
 そう、薔薇は美しく咲き、美しく散るモノだから。
「……お母様の悟りに至る道のりは遠そうですわね」
 なんとなく、言い訳じみた呟きを口にして、綺羅は顔を上げた。
「7歳差……ですか」
 9月になれば、綺羅は25歳になる。
 今年で18歳、高校卒業の尚斗とは永遠の7歳差だった。
 お互いに70を越えての7歳差は、あってないようなものだろうが……18歳の少年にとっての7歳差は、かなり大きいだろう。
 ……などと考えている綺羅は、やはり男の事がよくわかってないとも言える。(笑)
 
 そして、夏休みが終わり、新学期が始まった。
 悲しいことに、9月になっても男子校校舎は、仮校舎であるプレハブのままだ。
「……あちい」
 机の上にぐでぇっと身体を投げ出して、男子生徒があえぐ。
「暑いんじゃなく、熱いんだ……わかるかぁ、この違いが…」
 誰かに言い聞かせているわけでもないのに、ぶつぶつと呟き始めるのは、暑さのせいか、それとも精神の自己防衛のためか。
 もちろん、これは局地的な現象ではなくて……生徒のみならず、教師の多くもまた、授業どころではない状態に陥っている。
 ちなみに、教室によって多少の誤差はあるが……現在の室温は42度だった。
 エアコンはない。
 これはさすがに死人が出ると、男子校の理事長がどこかに掛け合って、工場などで使われる業務用の強力扇風機を借りてきたのだが……。
 人間の体温は、35〜37度である。
 体温よりも高い空気は、『体温によって冷やされる』。
 つまり、じっと動かずにいると、自分の身体の周りの空気は、周囲よりも涼しくなるのだ……熱い風呂の中で身体を動かすと、余計に熱く感じる……ああいう感じ。
 と、いうわけで……借りてきた扇風機は、校舎の外に設置された。
 屋外の冷たい空気を、せっせと校舎の中へ送り込むために。(笑)
「……ふっ、心頭滅却すれば、火もまた涼し」
 こんな状況だというのに、色んな意味で人知を越えた変態の宮坂は、見た目は平気そうにしている。
 そして尚斗は……平然と、校舎の外にエスケープして、授業をさぼっていたり。
「つーか、青空学級でいいじゃねえかよ……建物の外の方が涼しいんだから」
 木陰に寝ころんで、ユラユラと揺れ動く校舎を眺めてため息をつく。
「建物の中で授業しなきゃいけないって決まってるわけでもねえのによう…」
 本来建物というのは、外敵の襲撃に備えるとか、雨風をしのぐとか……過ごしやすい環境を提供するために存在するモノだ。
 つまり、建物の中がそうではない状態であるなら……別に、建物の中にこだわる必要はないのである。
 9月になってから、何度か教師に向かってそう言ったのだが……尚斗のそれは、相手にもされなかった。
 プレハブの仮校舎とはいえ、そこに教室がある以上、授業はそこで行われるべき……などと、尚斗に言わせれば『本当に頭が悪いのは俺じゃなくて、こいつらじゃねーの?』としか感じられない理屈の前に、彼らはもちろん、尚斗もまた無力だった。
 まあ、これで尚斗がしおらしく自習などしていたら、多少の説得力もうまれたのであろうが……尚斗はたださぼっているだけだ。
 1学期はまともに授業に出たし、この暑さも精々9月末までだろう。
 1ヶ月まるまる授業をさぼったとしても、出席日数は問題なく足りる……あたりの計算はちゃっかりと済ませているのだ。
「……ああ、そうだ」
 尚斗は、今思い出したようにプリントの束を取り出した。
 勉強を始めるのではなく、女子校との合同イベントにおける取り決めというか提出案やらなんやら……に、目を通し始めたのだ。
 女子校生徒がどう思っているかはわからないが、少なくとも男子校の生徒はそれをものすごく楽しみにしていて、盛り上がっている。
 盛り上がってはいるのだが、ただ楽しみにしているだけ……というと、ちょっと語弊があるのだが、イベントを行うにあたり、いくらでも手伝うつもりがあるのだが、自分が何もすればいいのか、何ができるのか……の部分に思いを至らせる事にできる人間が極端に少ない。
 ついでにいうと、イベント当日は楽しむことしか考えていない連中がほとんどだ。
 つまり、裏方に回るという概念がない。
 飯の材料をいくら調達したところで、飯を作る人間がいなければ、飯は食えないのだ。
 なんとなく、『キミ、作る人。俺、食べる人』などという、大昔のキャッチフレーズが尚斗の頭をよぎった。
 
 そして放課後。
 尚斗は、宮坂ら男子生徒に腕を抱え込まれて女子校まで連行されていく……なんとなく、例の宇宙人を連想してしまう光景だ。
 そして、女子校生徒の代表と話し合う。
 そうして話し合いに参加していると、綺羅は尚斗にちょっかいをかけてこない……まさに一石二鳥。
「んーと、今さらなんだけど……合同イベントってのが、ちょおっと有名無実になってる気がするんだよね」
「……?」
「えーと、こちらの女子校とうちのガッコって、お隣さんとはいっても、実際は隣り合ってるわけじゃなく、結構距離あるじゃん」
 尚斗は言葉を選び選び、男子生徒ではなく女子生徒に伝わるように話していく。
 つーか、紗智がこの場にいれば話が早いのだが、3年生は受験生というか……女子校の代表者は2年生が中心だ。
 そう、現在の女子校の2年生の中心的存在というと……当然、そこにいるはずの人物がそこにはいないのも、尚斗としては残念だった。
「正直ね、ウチと女子校が同時に文化祭っつーか、体育祭っつーか、イベントをやったところで、人が集まるのは女子校だけだろ……だったら、そっちには合同でイベントをやるメリットがまるでないって事になるよな?」
「……あぁ」
「それで、だ…」
 尚斗はちょっと身を乗り出し……綺羅の視線を感じながら、口を開いた。
「実際にできるできないは、後から検討するとして……ウチと、女子校の距離をつぶすというか利用するイベントを盛り込もうと思うんだ」
 女子校から男子校へ、もしくはその逆に……競技のひとつとして、リレーというか、駅伝のようなモノを取り入れる。
 もちろん、周辺住民の理解というか、そのあたりは色々とルートを考えて……たぶん、ネックは、実況中継できないことだと、付け加えることも忘れない。
 それと似たような感じで、仮装行列など。
 お互いから意見が出やすいように、まず尚斗は自分が考えていたアイデアを3つほど出した。
 とにかく、周辺地域の住民を巻き込んだ、ひとつのお祭りみたいな感じで盛り上げた方がよい……と、尚斗は熱く語った。
 その後、双方の生徒から色々と意見が出て……最後に、綺羅が口を開いた。
「私にもひとつアイデアがあるのですが、聞いていただけますか?」
「あ、はい…何でしょう?」
「その、仮装行列の一種と考えていただいていいのですが……」
 その場にいた連中のテンションの高さもあっただろうが、綺羅のアイデアは受け入れられ……というか、今のところ何も具体的な形にはなっていないのだが、『面白いですね』などという好意的な雰囲気に包まれた中、何故か尚斗は1人、綺羅の浮かべる微笑みに、微妙な不安感を覚えていたのだった。
 
「……中継の問題なら、ネット回線使えばいいんじゃないですかね?」
「そりゃ考えたが、会場の全員が見られるモニターなんか用意出来ねえだろ?」
 演劇部で、もちろんそれ以外でも忙しい、某ちびっこはちょっと首を傾げ。
「有崎さん。女子校の人脈、なめてません?」
「でっかい、オーロラビジョンみたいなのは無理だろ?」
 場所もそうだが、電力とか…。
「ちっちっ、常識的な発想に捕らわれすぎです」
 結花が指を振って。
「地元のケーブルテレビを巻き込みます」
「はぁ?」
「ウチの学校に、編成局長の親を持つ生徒がいますから…」
「いや、待てよテレビって…」
「都会ならともかく、地方のケーブルテレビなんて、コンテンツ不足でいつも四苦八苦してるんですよ。むしろ渡りに船だと思いますね」
 結花が、『我に勝算あり』みたいな表情を浮かべて。
「もちろん、失敗はできませんが……学校の宣伝にもなるように見えますからね。まあ、ぐだぐだ言うようなら、私が話を付けます」
 『学校の宣伝になる』ではなく、『学校の宣伝になるように見える』ってところに、ちびっこのしたたかさを感じて、尚斗は息を吐いた。
「……ホント、嫌になるぐらい頼もしいよな、お前って」
「ははは、当然です」
 忙しいのは承知だが、お前が女子校側の代表者になった方が話が早えだろ……という考えを、尚斗の表情から読みとったのか。
「私だけ苦労するのは、ヤ、です」
「……ごもっとも」
 尚斗は、深く深く頷いた。
「と、いうか…それに合わせて演劇部も舞台を仕上げなきゃいけませんからね。あんまり余裕ないんです」
「むう、それもそうだな…」
 夏樹さんから引き継いだ……というか、ちびっこの、演劇部に対する思い入れを知ってるだけに、これは尚斗も引き下がるしかない。
 まあ、何はともあれ……そんなこと可能なのかという話が、周辺地域の、女子校に対する信頼感なども手伝って、進んでいく。(笑)
 
「宮坂」
「よう、有崎」
「目的が目的だけに、お前のやることに何の不安も覚えてはいないんだがな。他の連中、ちゃんと動いてるか?」
「おう、動いてるぜ。自分が下手こきゃ、女子校とのイベントがパーになると思えば、必死にもなるって」
「んー、そうか…そうだな…」
 と、尚斗は頷いた。
 まあ、本当に大変なのは当日なんだが……ちびっこも、人出と共に手伝ってくれるっていってるし、何とかなるか、と尚斗は心の中で呟いて。
「あ、そういや…」
「ん?」
「例のイベント、男子校の代表とか決まったのか?」
「おお、なんとか」
「……やっぱ、揉めたか?」
 宮坂はニヤリと笑って。
「そりゃあ、揉めた。揉めまくりだっての」
「だよなあ…」
 尚斗はため息をついた。
 その光景がたやすく想像できたというか、激しくも醜い争いを見たくなかったため、尚斗は代表者選びの件について、すべて宮坂に任せたのだ。
「つーか、お前じゃないだろうな?」
「はっはっはっ」
 宮坂は笑って。
「さすがに、さらし者になる趣味はねえなあ」
「……まあなあ」
 尚斗が曖昧に頷く。
 地方ケーブルテレビとはいえ、自らの姿をテレビ画面に映し出されるのは……地元住民の尚斗だけに、その恐怖はさらに倍、だ。
「つーか、馬って……道路を走っていいのか?」
「一応、軽車両扱いらしいぞ」
「……まあ、向こうの代表者が嫌な思いさえしなきゃ、それでいいんだけどな」
 尚斗の言葉に、宮坂は小さく『お優しいことで』と呟いた。
 
「……私の記憶が確かなら、最初は『馬鹿馬鹿しい』などと鼻で笑っていたように思うのですが…」
「私の記憶が確かなら、『学校行事は、生徒の自主性に委ねて…』という事を、口にしていましたよね?」
「そ、そうですよ…そもそも、代表者は生徒から選ぶべきじゃないんですか?」
「……」
「ですが……周辺地域のみなさまに、おそらくは強烈な印象を残して、覚えられてしまいますが、よろしいんですの?」
「……っ」
「そ、それは先生だって…」
「望むところ、です」
「ちょっとぉっ…」
 あえて多くは書かないが、女子校の代表者選びは揉めに揉めていた。
 本当は、色々と極秘裏に事を運ぼうとしていたのだが、男子校の代表者が決定したことがどこからか漏れて(以下略)。
 
「……私の見込んだとおり、尚斗君には人を動かす力がありますのね」
「は?」
 尚斗は瞬間きょとんとし……慌てて首を振った。
「いやいやいや、ほっとくとウチの連中は誰もやらないからですよ」
 そしてため息。
「つーか、女子校の生徒みたいに、普通は2年が率先してやるもんですよ、こういうの」
「あら、女子校の代表のみなさんは、尚斗君のこと、頼りにしてましたよ」
「俺が3年だからですよ……いわせてもらえば、藤本先生も、何か言ったんじゃないですか?まあ、仕事がやりやすかったのは、否定しませんけど」
「うふふ…」
 綺羅は微笑んで。
「彼女たちに何かを言ったのは、入谷さんと九条さんですよ」
「へ?」
「……情けは人のためならず、です。尚斗君」
「……ちょっと、お節介をやいただけですよ、俺は」
 そう言って、尚斗は綺羅の視線から逃れるように作業を再開した。
 綺羅は、穏やかな笑みを浮かべて、ただ尚斗を見つめている。
 尚斗がそれに慣れたというより、綺羅は良い意味で自分の気配を消すのがうまかった。
 ただ…。
 ふっと、尚斗が振り返る。
 綺羅がにこりと微笑む。
 そんな風にして、『ここに私がいるのを忘れないでね』と確認するような、子供っぽい悪戯心を発露させるのは、果たしていいことなのか、悪いことなのか。
「……つーかですね」
「はい?」
「なんか……周囲を巻き込んで、イベント規模がもりもり大きくなって……今さらですけど、問題起きたらどうしましょうか?」
「あら」
 綺羅は何でもないように笑った。
「問題は、いつでも起きるモノですわよ、尚斗君」
「……」
「初めてのイベントなら、尚更ですわ」
「……」
「問題は起きます。大切なのは、それにどう対処するか……違いますか?」
「あ、そう…です」
 このあたり、やはり綺羅は教師として心構えが違っていたと言うべきか。
 少なくとも、年の功ではない……人間、いくら年をとってもダメな人間はダメなのだから。
 そして、綺羅は、にこりと笑って。
「それについて、私は特に心配はしてませんけど…」
 尚斗は、そんな彼女の余裕を羨ましいと思った。
 
 そして、9月の最終週。
 初の試み……というか、女子校、男子校合同の、体育祭、文化祭などを含めた3日間にわたる合同祭が始まった。
 
「……便利な世の中になったもんだよなあ」
 女子校と男子校の校舎が離れているため、互いが互いに瞬時の連絡を取れるように、専用の回線を臨時に増設というか。
 このあたり、地元ケーブルテレビの人間の経験やら機材は非常に役立った。
 ちなみに、初日は体育祭。
 メイングランドは女子校のそれを使用……これは、両者の通信のやりとりや運営のあり方の試運転も兼ねた日程だ。
 ……にも関わらず、尚斗は初日から目も回るような忙しさの中に放り出された。
 地元住民との一体感を出すために、一般参加の競技を取り入れたのはいいのだが、連絡の不行き届きというか、警備の人間とちょっと揉めたり、通信のやりとりにやはり支障が出てケーブルテレビの人間と善後策を話し合い……。
 体育祭が終わった後も、明日に向けての準備やら対応やら、その他諸々……尚斗がようやくに一息ついたのは、夜の11時過ぎだった。
「……ひとまずは、お疲れさま」
「あー…残ってたんですか、先生…」
 幽鬼のような表情で振り返り……ホットティーを口にした。
 砂糖か、蜂蜜か……優しい甘みが、身体に染みこんでいく。
「尚斗君を残して、帰れるはずがありません」
 そう、いいながら…綺羅は尚斗の前に、軽食を置く。
「いや…夜も遅いんで…女性だから…」
「このまま、宿直室に泊まります……尚斗君は?」
「テレビ局の人と、まだちょっと話し合いがあって…寝袋を貸してくれるって言うんで…そのまま、車の中ですかね…」
 尚斗は、礼を言うのも忘れて…もそもそと、それを口にする。
 ちなみにそれは、尚斗にとっての昼飯だ。(笑)
「くはぁ〜うめぇ…」
 何を食べて美味しいと感じられるなら、それはまだまだ限界にはほど遠い(笑)のだが……尚斗の動きに活気が出てくる。
 そう、もそもそではなく、がつがつだ。
 あまり人様に見せられた行儀作法ではないが、綺羅は微笑んで、楽しそうに尚斗が食べるのを見ている。
 残ったホットティーを飲み干し、尚斗は立ち上がった。
「んじゃ、ちょっと行って来ます」
「はい、行ってらっしゃい」
 微笑みで見送る綺羅。
「あ」
 尚斗は振り返り。
「ごちそうさまでした」
 ようやくに、礼を言った。
 
 そして2日目。
 一応は文化祭……の初日。
 今日のメインは、演劇部の公演をはじめとした、各部、各クラスの出し物なり展示の数々。
 体育会系のクラブは、他校を招いて練習試合を催したり……もちろん、スケジューリングは必須。
 だれが、というと当然……。
「有崎ー、寝るなぁ」
「ね、寝てへんでっ!?」
 寝ぼけていたのか、それとも昨夜遅くまで語り合ったテレビ局の人間の出身が関西の某地域だったからか、尚斗の返答が妙だった。
「有崎君、『ピン〇ンパン』の時間だけど、画面きりかえて大丈夫かな?」
「うえぃ」
 尚斗は慌てて画面に目をやった。
「……えーと、すんません。ちょっと待ってください」
 尚斗は、回線を開いて…。
『ピンポン〇ン言うなっ!』
「……」
 どうやら、別の回線が開いていたらしい。
 いや、俺が言ったわけじゃねえぞ、と尚斗は頭を振って。
「あのな、ラグビー部の試合がちょっと長引いてて……5分、いや、10分ほど、のばせるか?」
『そりゃ、のばすのはできるけど…』
「んー、そっちのモニターにラグビーの試合だすから…『みんな応援してね』とかいって、つないでくれ、頼む」
『私、ボーカルで、アナウンサーじゃないのに…』
 などとぶつぶつ言いながら、それでも了承してくれた。
 尚斗は、頭の中のスケジュールの修正を……危険だったから、紙に書き出して確認した。
「んーと、あれがこうなって…こっち、回して……吉成、ちょっと頼む」
 鉄オタ……それも、ダイヤ編成に並々ならぬ熱意を持つ男子校の生徒に声をかけた。
 芸を身を助けるとは言うが、およそ日常生活には役に立たないようなスキルでも、それなりに役立てようはあった。
「ん、ここを解いてやれば、渋滞解消っス」
「そうかぁ、サンキュ」
『有崎先輩。ちょっといいですかあ?』
 別の回線…女子校の運営本部からの連絡だ。
「ん、どうしたの?」
 声だけでなく、表情も優しく。
 そうしないと、彼女たちが萎縮するのがわかっているからだ。
 聞けば、他愛もない問題……だが、尚斗はいらだちを出さない。
 自分一人では回せないことが、よくわかっているから。
 自分を殺してでも、他人を活かす……それでようやく、このイベントは回っていく。
「宮坂、俺ちょっと出…」
 みなまで言わせず、宮坂が尚斗の肩を押さえた。
「俺が行ってくるよ〜ん」
「え、いや…」
「いま、有崎が動くとヤバイ」
 そう言って、宮坂は原付にまたがって……。
「お前、いつ免許とったぁ?」
「細かいこと、気にすんなあっ」
「あ、今のカットね…自転車に編集しといて」
 尚斗が後ろを振り返ると、テレビカメラが自分を狙っていた。(笑)
 ああ、『生徒達が自主運営する、合同イベント』……ね。
 生放送とは別の、後日放送用のドキュメントというか……裏方として多忙を極めながら、尚斗は、役者としての演技も要求されているのだった。
 
 そして、2日目が終わり…3日目の早朝。
「ん……」
 ふっと目を覚まし、尚斗は、自分が新しいTシャツを身につけていることに気付いて周囲に視線を投げた。
「ん〜?」
「あ、尚斗君が寝ている間に、着替えさせて、身体も洗って…」
「あ、そうすか…」
「もうちょっと、寝ていたらどうかしら?」
「あぁ…そうすね」
 尚斗は起こしかけていた身体を横たえておとなしく目を閉じた。
「……んん?」
 何か、気になる情報が通り過ぎていったような気がしたが、尚斗は眠気に負けた。
 昨夜も遅かったのだ。
 だから仕方がない。
 世の中、泣く子と地頭と眠気には勝てない。
 
 さあ、泣いても笑っても、最終日。
 後片づけの計算が入ってないが、それはそれ。
 さすがに3日目ともなると、尚斗ではなく周囲の人間が手順を飲み込む……つーか、本当はリハと言うか、前日までにある程度飲み込んでいて欲しかったのだが。
 ついでにいうと、今日は女子校の運営本部にちびっこがいた。
「あー、今日はよろしく…お前も色々忙しいだろうに、すまん」
 尚斗がそういうと、ちびっこは何故かため息をついて。
『仕方ないじゃないですか……有崎さんの代わりができそうなのは、私ぐらいしかいなさそうですし』
「……あ、いや…まだ、なんとか生きてるぞ?」
 勝手に殺すなよ、と苦笑を浮かべる尚斗。
 まあ、ある意味、昨日までにはなかった心の余裕だ。
『えーと…』
「どうした?」
『あ、いえ…なんでも…』
 ちびっこにしては、歯切れの悪い……尚斗は、そう思っただけだった。
 
 この三日間、尚斗以外のメンツは、入れ替わり立ち替わり休憩をとってイベントに参加してるのだが、尚斗はイベントの進行状況というか全体図を把握して、それを確認する作業に徹した。
 まあ、その代わりに…知り合いの方から尚斗のいる場所にやってくる。
「はぁい、尚斗」
「よう、紗智」
「…忙しそうね?」
「昨日までほどじゃねえよ…今日は、そっちの本部にスーパーユニットが配置されたからな。ロ〇ット対戦のガオ〇イガーみたいなもんだぜ」
「何それ…?」
 紗智は眉をひそめたが、再び笑みを浮かべて。
「まあ、陣中見舞いって言うか、差し入れ……みんなの分も」
「おお、悪いな…」
 尚斗はそれを受け取り、近くの男子に声をかけてみんなに配らせた。
「じゃあ、いただくぞ、紗智」
「どうぞ……いい絵、期待してるからねん」
「は?」
 
 それからしばらくして。
『お節介さんの業務、権限はすべて、移行済み』
 という、謎の符丁が回線を飛び交った。
 
「あー」
「自分が汗を流して作り上げたイベントを、まさか自分で壊したりはしませんわよね、尚斗君」
 にこり。
 その瞬間に、あの時感じた微妙な不安の正体はこれだ、と尚斗は理解した。
「イベントとはいえ、先生みたいな女性がこんな姿をさらされたらまずいんじゃないですか?」
「私は一向に構いませんよ」
「……」
 ウエディングドレスに身を包んだ綺羅は、掛け値なしに美しかった。
 まあ、それはそれで一目はすべて綺羅に集中し、自分を見る人間などいないだろうから多少は気が楽だな……と尚斗がため息をつく。
「つーか、すんませんね…馬に乗れなくて」
「ああ、あれは冗談です」
「……そうすか」
 なるほど、このイベントに関して宮坂がほとんどしきっていたのはそのせいか……と、尚斗がまたため息をつく。
「その服、お似合いですわよ、尚斗君」
「……目が覚めたら、髪型までセットされてて…」
「素敵な尚斗君を、みなさんに見て欲しかったんですの」
「……今度、眼科を紹介します」
 綺羅はちらりと尚斗を見て。
「わかる人にはわかるんですけど……ほら、ここから先はテレビカメラに撮られますから、顔を上げて、胸を張って…素敵な旦那様を演じてくださいな」
 尚斗は、さらにため息をつき……せめてもの抵抗というか仕返しを試みた。
「そういや、誕生日おめでとうございます」
「まあ」
「……」
「知っててくださいましたの…嬉しい」
 ……仕返しになるどころか、喜ばれた。
「つーか、藤本先生のファンに何をされる事やら…」
「ああ、大丈夫です」
「……」
「私、一生懸命、『お願い』しましたから…」
「……」
 
 近い将来、自分は何か『お願い』されるのではないだろうか……尚斗は、そんなことを考えながら綺羅の手を取って歩き出した。
 
 
 
 
 ん、今ひとつ舞台をうまく活かせなかったか。
 気が向いたらリベンジしよう。
 と、いうわけで、男子校と女子校の合同イベントというか……。
 
 

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