難攻不落の大阪城。
 かつて、徳川家康は大阪城を落とすために、まず偽りの和議を用いて外堀を埋め、内堀も埋めて、それからあらためて決戦に挑んだと言われる。
 勘違いしてはならないのだが、堀を埋めたことによって、徳川家康は人の心の中に溝を掘り、戦意そのものをくじいたのである。
 家康に限らず、戦上手を謳われた人間はみな、人の心を攻めるのが上手であった。
 
「……えーと」
 尚斗は、栞を挟んでから本を閉じて。
「面白そうな内容ではあるんですが…」
 そう言って夏樹の顔を見る。
「いきなりこれを読めという、夏樹さんの真意がどこにあるのか、はかりかねるといいますか…その…?」
「ゆ、結花ちゃんから聞いて…ね…その…」
 夏樹は微かに目元を染め……困ったように視線を泳がせた後。
「な、尚斗君が…藤本先生と、おつきあいを始めたって聞いて…」
「あー」
 尚斗は、頭をかきながら。
「まあ、そんな感じになりました……なんというか、藤本先生も物好きというか、正直、からかわれているとしか思えなかったんですが…」
 直接ではないにしろ、教師と学生だ。
 さすがに、あまりおおっぴらにできる関係とは言い難い。
「お、落ち着いて…考えてみましょ」
「は、はあ…何を…ですか?」
「……」
「……あの、夏樹さん?」
「ふ、藤本先生は…その、大人の女性で…尚斗君はまだ、高校生…よね」
「はい」
「そ、その…尚斗君…藤本先生は…どのぐらい将来(さき)のことを考えているか…わかってるの…かな」
 夏樹の顔が赤い。
 そのまま口にすると、醜い気持ちが見透かされてしまいそうで……夏樹としては言葉を選び選び、自分のあざとさを確認しながら口を開かねばならないのが辛いところだ。
「ふ、藤本先生ぐらいの年齢の女性にとって…誰かとおつきあいを始めるって事は…その…当然、結婚とか…そういうことを踏まえてのものに…なのに…」
「……そうなんですよね」
 ぽつりと、尚斗。
「俺はまだガキで…というか、どう考えてもお先真っ暗で……」
「そん…なっ」
 そういうつもりで言ったわけじゃ…と、夏樹の顔がくしゃっと歪む。
「なのに…」
 尚斗はははっ、と苦笑して。
「何の問題もないって言うんですよあの人。俺が大人になるのを待つし、いざというときは、贅沢はさせられなくても俺1人ぐらい自分が養うとか言い出すし……今つきあいを始めるのは、俺の未来を縛るわけじゃなく、誰か他の女性に心をひかれて、その結果自分から心がはなれてしまったなら、それはそれで仕方ないって…」
「……」
「いや、まあ…そこまで言われたら…なんというか、意気に感ずってやつですよね。今さらですが、勉強とかマジで取り組み始めましたよ、俺」
 夏樹は、口元を手で押さえ……違う、それは、尚斗君をその気にさせるためにわざと、そんな風に言っただけ……という言葉を、ギリギリで飲み込む。(笑)
 そもそも、『意気に感ず』などという言葉を使った時点で、尚斗が綺羅に『ほだされた』のは明らかだ。
 まだ間に合う……というか、今それを指摘したところで、自分が悪者になるだけでしかなくて。
 いや、この少年なら『心配してくれてありがとうございます』などと流してしまうかも知れないが……そこは、夏樹としては惚れた弱みというやつだろう。
 と、いうか……夏樹は夏樹で、新しく劇団を作って尚斗を参加させようか、などという考えを1週間ほど暖めたのだが、少年の親切心を利用する形で取り込もうとするのは恥ずべき行為だと思い定めてそれを見送ったという経緯があるため、余計に綺羅のそれが許せなかったに違いない。
 夏樹は……すっと、手のひらで顔を撫でた。
 仮面をかぶる……そのイメージ。
「……そっか」
 夏樹は微笑みを浮かべて……思い浮かべた役柄になりきった。
 本来夏樹が持ち合わせていない……少なくとも表面には出てこない闘争心を胸に、『そっちがその気ならこっちもやってやるわよ』と決意も新たに、尚斗を見つめる。
「尚斗君…私が、勉強を見てあげるわ」
「え」
 尚斗が夏樹を見つめ。
「あ、いやそれは夏樹さんに悪…」
 にこり、という微笑みで尚斗の言葉を封じる。
 と、いうか……本当に悪いと思ってるなら、今すぐ藤本先生とのおつきあいをやめて……などという本音は、きれいに背中に張り付けて、尚斗への見えないプレッシャーとして転用。
「ねえ、覚えてるかな…あの時、尚斗君が、私や結花ちゃんにしてくれたこと」
「あ、あれは…」
「感謝してるの、本当に」
 自分の言葉を尚斗の言葉にかぶせ……目を見つめる。
「ほんの少しでも、貸せるモノなら返したいと思うの……」
 手を取る。
「ダメ…かな?」
 もちろん、夏樹には尚斗の返事は分かり切っていた。
 
 そう、それは4月……冗談のようだが、エープリルフールの日のこと。
 
「あら…」
「あ」
 互いが互いを認めて、微笑み合う。
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね、藤本先生」
「世間で思われているほど、教師は楽な職業ではありませんから……」
 口元の笑みはそのままに、綺羅はスッと目を細めて。
「家と職場との往復、後は愛しい恋人の元へ足を運ぶぐらいしかできません」
「……ええ、よくわかります」
 夏樹が、それを柔らかく受け止めて。
「時間がないから、まず、『型からはいった』ということですよね?」
 鋭く切り返す。
「それが、何か?」
 しかし、さらりと受け流す綺羅。
 はっと目を引く美女2人が、ニコニコと微笑みながら歓談している……そのはずだが、何故か猫が逃げていった。
「そういえば、橘さんにはお礼を言ってませんでしたわね」
「…?」
「尚斗君と私の2人の将来のために、わざわざ骨折ってくれてるようですね。ホント、お礼の言葉も見つからなくて…」
「いいえ、私自身も『好き』でしてることですから」
 にこりと笑って。
「藤本先生も、お辛い立場ですよね。教師として、誰か1人をひいきするのも憚られるような世相ですし」
「そうですわね…」
 と、綺羅がわざとらしくため息をつき。
「モノの軽重をわきまえない方が、横やりを入れてきたりして…嘆かわしい時代になりましたわ、確かに」
「それは、言葉だけはしおらしく、その実、人の心を縛り付けるようなお人のこと…でしょうか?」
 ぴく。
 綺羅は、夏樹をちょっと見つめた。
「……」
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……人の第一印象というものは、意外と正確にその本質を捉えることが多いと聞きますから」
「……?」
「確か…」
 綺羅は、何かを思い出すような仕草をして。
「ああ、『横倒しにしてもでかい女』でしたかしら?」
 ぴくぴく。
「さすがは尚斗君。図々しくてふてぶてしい、誰かさんの本質を見事にとらえていたようですわね」
 夏樹は、ばっと顔に手を当て……静かに滑らせた。
 綺羅はぎょっとした表情を浮かべた。
「先生…ひどい……私が、背が大きいことを気にしてるって知ってて…そんな…」
 ぽろぽろと涙をこぼし……耐えかねたように顔を覆って、その場にしゃがみ込む。
「……ちっ」
 小さく、だが確かに、綺羅は内心のいらだちを示すように舌打ちした。
 この場を尚斗君に見られたら完全に自分が悪者……?
 綺羅の視線が……夏樹のポケットからのぞく携帯に吸い寄せられる。
「…っ」
 いや、違う。ブラフに違いない……少なくとも、今の今までそんな動作はなかった。
 綺羅は動揺を一瞬でねじ伏せ、ため息をついた。
「橘さん…お互い尚斗君を失望させるような物言いはやめにしませんか」
「……そうですね」
 夏樹が静かに立ち上がる。
 綺羅はちょっと夏樹を見つめて。
「尚斗君にただ勉強を教えるだけじゃなく、色んな事に興味がもてるように心がけてくださってるようですね……嫌味でも何でもなく、感謝の言葉もありません」
「……どうせなら、好きで、勉強して欲しいと思ったんです」
 夏樹は、ちょっと笑って綺羅を見た。
「何となくですが……彼、専門家向きですね。テストの点を取る資質というか技術の取得なんかは不向きだと思います」
「ああ、それは…でしょうね…」
「私は彼に歩き方を教えはしますけど、好きなように歩かせるつもりです」
「ええ、もちろん」
 笑みも浮かべず、綺羅は静かに頷いた。
 
 教師は多忙である。
 その合間を縫って愛しい少年に会いに行き、癒される。
 そう、それは綺羅にとって大事な時間……のはずなのだが。
 
「橘さん」
 綺羅はにこりと微笑んで言った。
「その香水、貴女にはあってないのではないかしら?」
「え、あ…その…気温も上がってきましたし、大学が終わってから急いで向かうから…」
 夏樹は少し恥ずかしげに目をそらし。
「汗くさい…とか、思われると嫌で…」
「……ああ、他意はなかったんですか」
「他意…と、いうと?」
「想像してみて……自分の大好きな人に、2週間ぶりに会ったの……そうしたらね」
 綺羅は、微笑みを絶やさずに告げた。
「……彼の身体から、他の女の香りがするの」
「……」
「ふ、ふふふふ…」
「あ、あぁ…なんか…すみません」
 夏樹は素直に謝った……このあたり、その善良さを隠せないのもあるが、どうやらリアルに想像してしまったようだ。
 そりゃ、怒りもするか、と。
「……あ、いや」
 夏樹はふっと顔を上げ。
「そ、そんなこと藤本先生に言われる筋合いはありませんよね?」
「え、ですが…」
 綺羅は少女のように頬を染め。
「私は、尚斗君と結婚を前提としたおつきあいを…」
「そう、仕向けたんじゃないですか」
「いけませんか?」
「いけないもなにも…」
「だって…いくら言っても、尚斗君、本気に受け取ってくれないんですもの…」
「……」
「私の本気を理解してもらうには、ああするしかなかったとは思いませんか?」
 綺羅の訴えに、夏樹は沈黙する。
「ま、まあ…お互いがお互いを切実に求め会って…という形ではないかも知れませんが、私が尚斗君の良き妻となり、母となり……最期に、私の手を握って『いい人生だった』と囁いてくれたなら、すべてオッケーではないかと。私、そのための努力は惜しみません」
「それは…まあ…」
「ですよね?」
「あ、しかし…その…尚斗君の意志とか…」
 綺羅は、夏樹を見つめた。
 それは、自分が失った何かを懐かしむようでもあり、年長者としてそれを教え諭すような優しさに満ちた眼差し。
「橘さん……自分の意志で自分のことを決めるという事は、立派なようですが、その実、孤独な事ですわよ」
「……?」
「人の人生は、誰と、もしくは何に出会うかということで決まります……自分で決めるというのは、その何かとであった後のことです」
「そう……でしょうか?」
 ふっと、綺羅は空を見上げて。
「……不思議だと思いませんか?」
「……?」
「あの、大雪がなければ……男子校の校舎が壊れなければ……男子校の生徒を女子校で受け入れるという選択がなければ……」
 綺羅が、夏樹を見る。
「私も、橘さんも……おそらく、尚斗君と出会うことはなかった」
「……はい」
「尚斗君は、演劇部のことというか……橘さんや入谷さんのことが気になって、放っておけなくて色々と関わることを選択して…」
「そうです…それで、私は…」
「最初は、あまり愉快な出会いではなかったでしょう?」
「ええ、それは…まあ」
 夏樹が、目を伏せる。
「人が生きるというのは、そんな風にちょっとしたことの積み重ねなのだと……私は思います」
 綺羅は微笑み。
「人生において、大きな出会いはありません。小さな出会いの積み重ねの中で、何を大きくするかを、自分が決める……そういうことなのだと、私は思うのです」
「でも、それは…」
「ええ、そこだけをとらえると『自分で決める』事がとても重要なモノのように思えるのでしょうけど……出会いそのものを、人は、自分では決められないとは思いませんか?」
 綺羅の眼差しを受け止め……夏樹は頷いた。
「つまり……尚斗君は、今のところ藤本先生を受け入れているのだから、文句を言うなって事ですね」
「……言葉の端々に棘を感じますね」
「私の質問に、何一つまともに答えてない方が言う言葉じゃないです、それ」
「ああ、気付いてましたか…」
 にこ。
「ええ、もちろん」
 にこにこ。
 2人は微笑みあい、軽く会釈してから別れた。
 
 朝、6時……有崎家。
 台所で、朝食の準備をしているのは、綺羅である。
 そして、片づけを済ませて静かに立ち去るのが6時30分。
「……」
「……」
 尚斗の姉と父親は、綺羅の用意した朝食を食べながら……母親に視線を向けた。
「……何よ?」
「いや、今さらなんだが…冷静になって考えると……家の合い鍵とか渡して良かったのか?」
「だって、しょうがないじゃない……毎朝、暗い内から家の前で立って待ってるんだもの」
「……朝食の準備の手伝いが、いつの間にか……こう、と」
「だって、楽なんだもの……食器の片づけ方1つとっても、私好みになってるし…文句のつけようがないっていうか…」
「……たぶん、家の中のモノのあり方を分析して、そういうやり方を構築したのね」
 娘の呟きに、母親は口をとがらせ。
「何もしないアンタに言われたくないわ」
「そりゃ、まあ…」
 姉は、みそ汁をすすって。
「これもそうだけど、完璧にお母さんの味をコピーしてるよね……初めの2、3日はわかったけど、今は言われなきゃ絶対に区別が付かないもん」
 父親が無言で頷いたが……母親は、特に気を悪くした風でもなく。
「どーせ、大した腕でもないわよ、母さんは」
「……私が言うのも何だけど、あの人、恐ろしい人よ」
「そうか?」
「……男って、美人ってだけで鼻の下伸ばすから」
 と、父親に向かってため息をつく。
「いや、あのバカ息子のことをここまでかまってくれるなんて、ありがたい話じゃないか」
 今度母親がため息をつき。
「家庭教師してくれてる、橘さんが、またいい娘なのよ…」
「私、正直なところ、あの娘の方が好き」
「……しかし、あのバカ息子のどこがいいんだ?」
「さあ?」
 父親の呟きに、姉が肩をすくめた。
「……っと、もう、ごちそうさま」
「お父さんも…これからまた、トイレでしょ」
「ああ、うん…」
 父親はお茶を飲み、立ち上がる。
 父と姉……会社勤めの2人の朝は早い。
 徒歩通学の尚斗とは違って、通勤に結構時間がかかるからだ。
 そして、1人残された母親はため息をついて……天井を見上げた。
 勉強だけが全てとは言わないが、我が息子ながら最近はよく頑張っていると母親は思い……つまり、それは今までの環境が悪かったと言うことなのだろうかと、首を傾げるのだった。
 
「う、ふふっ、ふ〜」
 上機嫌で、思わずスキップ。
「ふ〜、っ!?」
 その瞬間を見られた夏樹は、思わず固まった。
 綺羅は、武士の情けでもあるまいが微苦笑を浮かべ。
「ご機嫌ですね、橘さん」
 敢えて、ストレートに切り込んでやる。
「……ええ、まあ」
 そして、夏樹は気まずそうに頷いた。
 夕暮れ時である。
 風はなく、気温も高い……が。
「夏の終わりは、夕暮れ時に感じるといいますわね」
「……私の役目は終了とでも?」
「深読みしすぎですよ、橘さん」
「そうでしょうか?」
「せっかくの誕生日……良い気分のまま、一日を過ごしたらどうです」
 夏樹の視線が和らぎかけたが……すぐに、さっきよりも鋭くなった。
「……『普段お世話になっているんだから、ちゃんと感謝の気持ちを形にしなければいけませんよ』とでも、言ったんですか?」
「……ですから」
 綺羅は、深く深く息を吐き。
「そこまで私を敵視する事はないでしょう?」
「その、自分の優位性を自覚した、表情とか、態度が、ものすごく不愉快です」
「……」
「尚斗君が、先生のことを好きになって……じゃなく、そう追い込んでから、関係をスタートさせた事が、私にはどうしても許せません」
「……」
 綺羅は、ちょっと夏樹を見つめ。
「信じる信じないはともかく、私は橘さんのことが好きですよ」
「……」
「こうして話していると、心が安らぎます」
「えっ?」
 どこか窺うように、夏樹が綺羅を見た。
 綺羅は、柔らかく微笑んで。
「だって、橘さんだけは……『尚斗君のどこがいいの?』みたいなことを言いませんもの」
「……」
「ふふ…みんながみんな口を揃えて『本気?』とか『もっといい相手がいる』とか……それはもう、耳をふさぎたくなるようなことを言ってくれますの」
 綺羅の表情から、笑みが消えた。
「それを聞きながら、笑って反論するのがどれほど辛いことか……ですから、私は、こうして橘さんとお話ししていると、心の底からほっとします」
 綺羅の言葉を聞いて、夏樹の脳裏に浮かぶのは…。
『ああ…まあ…人の趣味は、色々ですよね』
 などと、顔を背けた結花の姿。
 尚斗に対して理解のある彼女でさえアレだ。
 もちろん、夏樹がそれを言いふらすことはなかったが……こうして献身的に尚斗の元へと通っていることを知っている人間は知っているわけで。
 当然、それに対する反応は……。
 あらためて、綺羅を見る。
「……競争相手かも知れませんが、同じ人を想うという意味で、私と橘さんは、仲間であると言えませんか?」
 どこか寂しげに、綺羅が笑って。
「それも、他人に理解されない、という意味でも貴重な」
「そうかも…知れません」
 
「ああ、そういや…前に夏樹さんが薦めてくれた本があったっけ…」
 気分転換というか、尚斗はそれを手に取った。
 
 一戦し、手強いとなればこれは無理に争う必要はない。
 形ばかりの和議であろうが、何らかの共通する立場を見いだすことができれば、人の心は自然に和んでいくモノである。
 有名どころでは、これは豊臣秀吉がよく使った手であった。
 あの手この手で自分の中へと取り込み、無力化、もしくは無害化させる…
 
「むう…よくわからん」
 こういう心理戦よりも、尚斗は実際の戦闘とか、戦術の方に興味をもつ性質であった。
 
 根が善良な夏樹は、ひたすら綺羅の言動を悪意的にとらえることで自分の中の圧力を高めていたのだが、一度穴が開いてしまうともういけなかった。(笑)
 どこからともなく(笑)、綺羅が両親からも尚斗との交際を反対されて孤立無援の状態である話を聞くと、同情してしまう始末。
 まあ、綺羅が両親から反対されてるのは嘘ではないのだが……こうなると、本当に孤立無援なのは、尚斗の方だ。
 家族をはじめ、周囲からすればここまでしてもらって……というか、尚斗に自覚はなくとも、もう拒否権そのものが消失してしまっている。
 綺羅としては、後は慎重に、袋の口を閉じて、はい、おしまい……である。
 
「ただいま」
「あ、お帰りなさい、尚斗さ……何かありました?」
「あ、うん…お義父さんからちょっと連絡があって…」
 綺羅はちょっと目を伏せて。
「また、嫌味でも…」
「あ、いや…」
 尚斗は首を振って。
「明日、綺羅の誕生日だろ……その、お祝いに行っても構わないかどうか、聞いて欲しいって」
「まあ…」
 綺羅は口元を手で隠し……。
「尚…斗さん?」
「ずっと…気になっててさ…」
 ぽつりと。
「俺は…本当の意味で、ずっと…綺羅を幸せにはしてこなかったんじゃないかって…」
「尚斗さんったら、また…」
 綺羅は、笑って尚斗を抱きしめた。
「私が、望んだことなのに」
「それでも…さ」
 ぽつり、ぽつり、と。
「恋愛ならそれもアリかもしれないけど……家族に祝福されない結婚ってのは…さあ…」
「お義父さん、お義母さん、お義姉さんには、いっぱい祝福していただいたわ…」
 そう言って、幸せそうに綺羅が微笑む……その微笑みに、尚斗はさらに涙をこぼした。
「それは綺羅の力で……俺の力が足りないから、お義父さん、お義母さんに祝福してもらえなくて…」
「尚斗さんの良さを知るのには、時間と、ちょっとした幸運が必要なの」
「……」
 とんとんと、愛しい人の背中を叩きながら、綺羅が囁く。
「私は、運が良かったわ…」
 最初は、その他大勢の男子生徒の1人。
 困った顔が可愛いことに気付いた。
 少し意地悪もした。
 無茶も言ってみた。
 気がつくと、その姿を視線で追うようになっていて……だから、気付けた。
 他人の悲しみや喜びを自分のことのように感じ取れる人。
 他人のために一生懸命になれる人。
「私は…運が良かったの…」
 とんとん…。
 とんとん…。
「……ねえ、尚斗さん」
「……ん?」
「私の誕生日まで、ずっとこうしてるつもり?」
「え、もう、そんな…むっ」
「ん…」
 唇を離し。
「尚斗さん、私を抱きしめたまま何時間もじっとしてた事があったじゃない」
「あ、あれ…は…」
 綺羅は、微苦笑を浮かべて。
「もう、あの時は…なかなか袋の口が閉じなくて…」
「え、袋の口…?」
「あ、いえ…こっちの話」
 にこにこにこ。
「……?」
「じゃあ、あらためて尚斗さん。ご飯にする、それともお風呂…」
「ご飯」
「……最後まで言わせてくださいな」
 綺羅はちょっと頬を膨らませ……しかし笑って台所へと歩いていった。
 
 
 
 
 昔ラオウさんに言われましたし、高任にも自覚があるのですが……基本的に高任が悩みながら書いたお話は(以下略)。
 つーわけで、この1本、1ヶ月迷走しましたわ。
 たぶん、別の話を書いた方が早かったでしょうね。
 つーか、綺羅の話は、基本難産です…。

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