「私…兄さんが2人いてね」
 穏やかに、夏樹は切り出した。
 ああ、夏樹さんは末っ子なんですか……と、尚斗は口にしようと思ったのだが、何故だろう、それが声にはならなかった。
「真ん中の兄さん……えっと、次兄ってことよ?」
 などと、尚斗に説明してくれるのだが……夏樹の目が、どこかここではない遠くを見つめていたりするからだ。
「生まれつき喘息持ちで……まあ、大変だったんだと思うの」
 夏樹は一旦言葉を切り……ふっと、息を吐いてから続けた。
「その後、少し年が離れて私が生まれたのね……初めての女の子で、もう、お父さんがすごく喜んだみたいで…それで、真ん中の兄さんのこともあったから、とにかく、元気にすくすく育って欲しいと願って……」
 夏樹は、小さく頷いてから。
「生まれた季節もあるけれど、夏樹…って名前を、私につけてくれたらしいの」
「なるほど」
「そう、夏の樹……すくすくすくすく成長する、夏の樹ね…もう、ホントにね、すくすくすくすく…」
 あぁ。これって、触れちゃいけないボタンだったんだなあ……つーか、知ってやがったなちびっこめ…と、尚斗は心の中で呟いた。
「……幼稚舎に入った頃はもう、周囲から頭ひとつ抜けててね……年長の先輩よりも大きくてね…」
 などと、笑いながら夏樹は語ってくれるのだが、夏樹のそれが突き抜けた上での笑いであることを尚斗は感覚的に悟ってしまったから、軽口はたたけなかった。
 その代わり、心の中で泣きを入れる。
『すんません、夏樹さん……でも俺は、夏樹さんの誕生日を知りたかっただけなんですよう…』
 
「うわーん、ちびえもん〜」
「……」
「いや、軽い冗談だ……その振り上げたモノは、ゆっくりと足下におろすことを、俺としてはお勧めしたい」
「え、これって…有崎さんの頭に振り下ろすためのモノじゃなかったんですか?」
 尚斗は首を振り、大仰な仕草でそれを取り出した。
「まずは、こーひーみるくでございます、姫様」
「うむ、くるしゅうない」
 と、尚斗からそれを受け取るちびっこ。
 もちろん、さっきまで振り上げていたモノは足下に……ただ、またすぐに振り上げることができる位置にある。
「次は、ふわっふわっの、みるくしゅーくりーむでございます」
「……誉めてあげます」
 と、某店1日限定50名のそれも、受け取る。
「後これは、お騒がせしてごめんなさいというか……演劇部のみなさんへの差し入れでございます」
「有崎さんも、なかなかモノの道理がわかってきたようですね」
 と、ちびっこは紙袋の中をのぞき込み…。
「……大丈夫なんですか?」
「一応、バイトはしてるから」
「はあ、そうですか……」
 と、後ろを振り返って。
「藤沢さん…これ、有崎さんからの差し入れです。各自、キリのいいところで、休憩にはいってください」
「はーい。ありがとうございます、有崎先輩」
 と、藤沢さんは結花から紙袋を受け取りながら、尚斗に向かってウインクをひとつくれた。
 
「……それで、なんですか?」
「かくかくしかじか」
「なるほど…そうでしたか」
「……」
「……」
 見つめ合う尚斗と結花。
 ちなみに、尚斗の『かくかくしかじか』は、文学的表現ではなく、ただの言葉だ。(笑)
「ちびっこ…お前、夏樹さんの名前の由来っていうか、地雷の存在を知ってたな?知ってたよな?」
「ええ」
「だったら…」
「聞かれませんでしたから……おほほほほ」
「さーきーにーおーしーえーろーよー」
「でもまあ、夏生まれって事はわかったんじゃないですか?」
 ちうーと、こーひみるくを飲み干して結花は言った。
「よかったですね」
「よかねえよ。もう、夏なんだよ…つーか、夏休み目前なんだよ。単純に2分の1の確率で、夏樹さんの誕生日過ぎてるじゃねえかよっ」
「……『教えてあげましょうか?』って言ったら、そのぐらいは自分で直接聞き出さないと、男のメンツが廃るとかいって拒否したのは有崎さんじゃないですか」
「ま、まあ、それはその通りなんだが…」
 結花が、はあ、とため息をつき。
「…このしゅーくりーむって、結構トラップだらけなんですよね」
 と、尚斗にもらったみるくしゅーくりーむを手に、結花が何度も頷く。
「男の方の前で、大きく口を開けてかぶりつくわけにはまいりませんし…だからといって、ちまちまと食べてると、くりーむがこぼれてしまうことも」
「俺なら一口だな」
「……」
「……」
「今から食べるから、あっち向いてろって言ってるんですっ」
「ああ、それは失礼」
 と、尚斗は携帯をとりだし。
「ぜひ、一口でぱくりといってくれ。待ち受け画面に設定して……姫様、お身体が弱いのですから、そのようなモノを力いっぱい振り上げてはなりませぬ」
「……だいぶ、滑舌が上手になりましたね」
 『それ』をおろしながら、結花。
「まあ、ちゃんと練習もしてるからな」
「バイトに、演劇ですか……学校出てます?」
「出席は今ひとつだが、ちゃんとお前のアドバイス通り勉強はしてるぞ」
「それ、誉めるべきなんですかね?怒るべきなんですかね?」
「うむ、難しい問題だ」
 尚斗は小さく頷いてから。
「つーか、冷えてる方がうまいと思うぞ、それ」
「ま、それはそうですね」
 ぱく。
「あまーい」
 結花が、幸せそうに笑った。
 かしゃ。
「……っ!」
「俺じゃねえっ」
 ものすっごい目つきで睨まれた尚斗が、即座に首を振る。
「……っ!?」
 背後。
 てててーっと、ドアから逃げていく誰かのスカートがかろうじて見えた。
 少し遅れて、『きゃー』とか『結花先輩、可愛いーっ』とかいう声に混じって、『やっぱり、有崎さんが来たときは、シャッターチャンスですよっ!』などと。
「……」
「あきらめなされ、結花様」
 結花がふう、とため息をつき。
「ま、因果応報ですね、これも…」
 
「……んじゃ、忙しいところ悪かったな」
「まあ、同じ劇団に所属する仲間でもありますから」
「いや、ちびっこにちょっと甘えすぎかなーという自覚はあるんだが」
 少し呆れたように、結花が言う。
「あるんですか?」
「つーか、他にそういうことを相談できる相手がいない事にあらためて気付いた」
「はあ…」
 結花は一瞬宮坂の顔を思い浮かべ、首を振った。
 確かに、あれに相談したくない尚斗の気持ちは分かったからだ。
「んじゃ、帰るわ……これからバイトだから」
「はあ、身体はこわさないでくださいよ」
 と、尚斗を見送り……結花はあらためて、演劇部の練習を再開した。
 いや、しようと思ったのだが。
「結花ちゃぁーん」
『ふたりそろって、私をからかってるんですかっ!』などという叫びを何とか飲み込みつつ、結花は『夏樹様のなれの果て』に目を向けた。
「有崎さんと喧嘩でもしましたか?」
「け、喧嘩じゃないけど…ちょっときまずい…というか…」
 夏樹は、ハッと顔を上げて。
「な、なんでわかるのっ!?」
「いや、夏樹様がそうやって泣きを入れてくるの、ほとんど有崎さんがらみじゃないですか」
「あ、うん…そうだけど…そうなんだけどぉ」
 夏樹はちょっと目を伏せ……思い出したように、手にしていた紙袋を2つ、結花に向けて差し出した。
「これ、差し入れなの…みんなで食べて」
「……休憩多すぎ」
「え?」
「いえ、何でもないです」
 
 そして、夏樹が帰っていく。
 そして結花は……大きく息を吸い込んで。
「あの2人、どこからどう見ても両想いじゃないですかっ!、とっととくっつけってんですよっ!」
 王様の耳は、ロバの耳〜♪
「……のわりには、核心をつかないアドバイスに終始してるね、入谷さん」
「……2人そろって、自力で何とかしたいって言い張ってますから」
「……自力?」
「そこは突っ込まないであげてください、藤沢さん」
「あはは…」
 藤沢さん……演劇部2年生……は、ちょっと笑って。
「まあ、長所と短所はコインの裏表といいますから……ぎりぎりのぎりぎりまで追いつめられるまで悩んじゃうのって、優しさの裏返しだと思わない?」
「……あの人に対する肯定的な意見を、夏樹様以外から初めて耳にしましたよ」
「あはは」
 藤沢さんは再び笑って。
「それは……入谷さんも、他人のことは言えないかも」
「何の話です…?」
「ああ、もしくは……入谷さんの場合、距離が近すぎるのかな?」
「……?」
「……仮に、有崎さんに好意を抱いていたとして、夏樹様の手前、それを表には出せないでしょう?」
 藤沢さんがそう言った後、しばらく間が空いた。
「……は?」
「もちろん、『素敵』とか『格好良い』とかいう騒がれ方はしないけど……それなりに隙があって、親しみのもてる相手ぐらいに思ってる人は結構いると思うわよ」
「はあ…そういうもの…ですか?」
 結花は首を傾げつつ、1年生の稽古を見るために部屋を出ていった。
 そして、藤沢さんはぽつりと。
「……つまり、私は入谷さんよりはるかに距離が遠いから、よく見えちゃうの…か」
 
「……この成績はどうしたんだ相棒?」
「ん、おお……なんせ、生まれて初めて勉強というモノをしているからな」
「ほう?」
「2ヶ月ちょいになる……つっても、1日2時間ぐらいだが」
 そりゃ大したモノだ……と、言いかけて、宮坂はちょっと尚斗の顔を見つめた。
「……したこと無かったのか?」
「自慢じゃないが、小学校と中学校の教科書、まったく折り目がついてなかったからな」
 授業中でもページを開いた事が無いのは明らかだ。
「…あ、いや、体育の実技本は読んだな。体操服にブルマの女子生徒が、開脚前転とかやってる写真とかあったし……つーか、何の写真かまでは言わないが、ものすっげー折り目のついてるページがあってな、『これが若さか…』などと呟いちまったよ」
「うむ、誰だって若い頃はそうだ」
 などと、宮坂が頷く。(笑)
「これも自慢にもならないが、夏休みの宿題だって俺はやったことねえぞ……夏休みが終わって2ヶ月も経てば、教師の方が折れるしな」
「むう、別の意味で強者だな、有崎」
「と、まあ…そんな俺が、勉強をしているのだよ。他の学校なら相変わらず底辺なんだろうけどな……ウチの連中だって、勉強なんかしねえだろ?そりゃ、成績だって上がるに決まってる」
「そりゃ、まあ…」
 あがる、あがるだろう……という言葉を飲み込み、宮坂はもう一度尚斗の成績表に目をやった。
「……有崎って、実は頭いいんじゃねえの?」
「頭が良かったら、毎日毎日、髪の毛をかきむしらなくてもすむっての」
 
『えーと、状況を整理しましょう』
 結花が、そう言ったのはゴールデンウイークだった。
『仮に有崎さんが、イケ面で、お金持ちで、頭が良くて、将来有望って言うか、輝く未来が保証されているような存在だったとしたら、夏樹様に告白しますか?』
『するっていうか、できる』
『……じゃあ、有崎さんには自信がないって事ですね』
『自信も何も、どう考えても俺が夏樹さんとつり合いがとれるとは思えないし、夏樹さんを幸せにするというか、そういうことができるとは…』
『ああ、はいはい…』
 結花は、尚斗に最後まで言わせず。
『有崎さんは馬鹿ですからね。私がひとつ目標を与えてあげましょう』
『目標?』
『まずは、勉強してください…学歴云々はさておき、知識は力ですから。場所もとらず、ちょっとしたメンテナンスで一生モノの宝になります』
『勉強は全く自信が…』
『自信がないからやるんです。夏樹様だって、私だって勉強してるんですよ?それを、有崎さんごときが、何を夢見てるんですか』
『むう』
『ああ、いきなり引きこもって勉強するなんて言わないでくださいね。1日1時間か2時間、毎日家でやってください、筋トレと同じですよ』
 
 そして、夏休みに突入。
 夏樹の主宰する劇団……団員の中ではひそかに『夏劇団』と呼ばれているが、夏樹はそれを知らなかったりする。
 もちろん、メンバーはほとんど女子校演劇部の(元含む)メンバーなのだが、わずかに尚斗と宮坂の存在が色を添える。(笑)
 
「……やっぱり、男の子だよね、尚斗君」
 演劇部において、体力づくりは基本中の基本だ。
 夏の炎天下、もりもりと走り込み、腹筋背筋などのトレーニングはもちろん、発声練習まで……下手な体育会系部活が裸足で逃げ出すほどだ。
 とはいえ、尚斗も、宮坂も、専門競技者でもない女子に後れをとりはしない。
「つーか、もう1周してきます。いくぞ、宮坂」
「へーい」
 返事はだらけているが、宮坂は宮坂で元気いっぱいだ。
 今度は、自分たちのペースで走り出す。
「いやあ、女の子に囲まれてトレーニングなんて、幸せすぎて怖いよ」
「つーか、時々目のやりどころに困るが」
「汗で肌に張り付いたシャツが、もう、たまらんっというか…」
「俺も男だから気持ちは分からなくもないが、あんまりエロイ目つきはやめとけよ」
「はっはっはっ…まあ、追い出されるようなまねはしないさ」
 しばらく2人は黙って走り。
「しかし、宮坂ってダンスとかうまいよな…俺はどうも、リズム感が無いというか」
「リズム感じゃなくて、有崎の場合は照れの問題だろ」
「……ふむ」
「恥ずかしがらずにすべてをさらけ出せば、後は勝手に身体が…」
「お前が口にすると、犯罪的なひびきが…」
「はっはっは」
 宮坂は笑い。
「つーか、仕事やら練習やら、充実してるよなあ、高校最後の夏は」
「去年も似たようなモノだったじゃねえか」
「去年は周りに女がいなかった」
「なるほど、それは重要だな」
「つーか、有崎よぉ……そろそろ、どうにかしちまえよ」
 ばしいいんっ。
「……な、ナイスキック…」
「勉強だけじゃねえからな……つーか、俺やべえ。マジやばい。成績はともかく、1日1日、逞しくなってるのが実感できる」
 宮坂は顔をしかめつつ立ち上がり。
「つーか、中学高校と、何もしてこなかっただけだろ、それ」
「そうなんだよなあ…何もしてこなかったんだよなあ、俺……つーか、今さらだが、毎日毎日飽きもせずに練習に明け暮れる連中の気持ちがちょっとだけわかったというか……だあああ、もったいねえ、ものすごくもったいねえぇ」
 髪の毛をかきむしりながら、それでも器用に尚斗は走り続ける。
「まあ…しばらくすれば、停滞期ってやつが来る。そこがひとつの壁らしいぞ」
「ほう…つーか、仕事に練習に勉強に……結構きついスケジュールのはずなんだけど、飯はうまいし、よく眠れるし、なんなんだ、これ」
「教えてやろう、これが青春だ」
「そうか、これが青春だったのか…知らんかった」
 一呼吸置いて、尚斗が跳躍し、上半身をねじる。
 宮坂が頭を下げた……その空間を、尚斗の右足のかかとが薙ぎ払うように通り過ぎていった。
「おお……ガキの頃から、憧れてたんだよな、この技。やっぱあれだな、腰のキレだよな、腰の」
「あ、有崎君?」
「なんだよ、俺は今しみじみと感動を味わってるんだが」
「い、今の…当たったら、やばかったぞ?」
「避けたじゃん…つーか、こんな大技、フェイントも無しに、あたらねえって」
「いきなり仕掛けることこそがフェイントじゃないかぁっ?」
 
 などと、宮坂と尚斗が青春を語っている一方で。
 
「……わ、すごい…」
 周囲から思わず声が漏れる。
 夏樹が、体操選手のようにY字バランスをとったのだ。
 身長があるだけに、映える。
 その隣で、結花もまた同じように……バランスを崩すでもなく、ポーズをとっているのだが、何故かこっちは周囲を自然に笑顔にしてしまうのは何故だろう。(笑)
「みんな…演劇は身体そのものを使った表現を求められることが多いから、自分の身体をイメージ通りに操る訓練を疎かにしちゃダメよ」
 夏樹に怒られ、他のメンツもバラバラと……思い思いのポーズをとるというか、模索する。
 それを、誰かに撮影してもらって、自分の目で確認して、イメージと現実との乖離っぷりに愕然とするのだが。(笑)
 夏樹は、みんなの練習ぶりに満足げな笑みを漏らし……こそっと、結花に話しかけた。
「ねえ、結花ちゃん」
「なんですか、夏樹様?」
 Y字バランスをとったまま、結花が応える。
「尚斗君…最近格好良くなったと思わない?」
「……っ」
 バランスを崩し、結花が慌てて立て直した。
「いきなり、なんですか…?」
 半ば呆れつつ、結花が問う。
「うん、あのね…前から素敵だったけど、最近、なんか…顔つきが精悍というか…なんて言ったらいいのかな…とにかく、格好良いの」
 『それは、あばたもえくぼって言うんじゃないですかね…』と心の中で呟き、結花はいささか意地悪な気分になって言った。
「それより夏樹様…いつ、有崎さんに告白するんですか?」
「……っ」
 真っ赤になった顔を、手で隠す。
「だ、だって…私…こんな、背がおっきくて…女らしくないし、結花ちゃんみたいに可愛くもないし…」
「……自分に自信がないとこだけは、似てるんですよね…」
 と、聞こえない程度に呟き。
「放っておくと、とられちゃいますよ」
「……え?」
 指の隙間から、夏樹の目がのぞいている。
「私もこの前初めて聞いたんですけど、有崎さん、結構人気あるみたいですから」
「そ、そうよね、そうよねぇ。尚斗君、素敵だもの…優しくて、男らしくて」
 いや、ここは、のろけるとこじゃないんですけど……と、結花の顔に、縦線が入り。
「はあ…優しいのは認めます」
 そう言って、結花はバランスを解いた。
「でも、夏樹様は、頭が良くて運動もできて、優しくて素敵な方なんですけど」
「私…可愛いだけで良かったのに」
「……」
「尚斗君が、振り向いてくれるような…」
 傲慢かつ、面倒くさい発言だが……結花はスルーすることにした。
 行き着く先は『結花ちゃんがうらやましい』だからだ。
 と、いうか……その理論でいくと、『尚斗は結花を好きになる』という事になるのだが、夏樹にはその自覚があるのかどうか。
 いや、夏樹ではなく、結花はどうだろう。
 もちろん、気付いてはいるのだが『馬鹿らしい』の一言で片づけてしまっている。
 ただ、そうやって『片づけた』のは、何ヶ月も前のことで……一度結論づけてしまったせいか、それ以後、結花は真面目にそのことについて考えたことはない。
 まあ、何にせよ……結花は、尚斗が夏樹に告白するために色々と努力していることを知っていたから、思考の深みにはまることはあるまい。
 
「ほぉあちゃあー」
 奇声を上げ、尚斗と宮坂が距離をとった。
 演舞というか、スタントというか、過去の名作の動きを再現してみよう……などと、娯楽アクション映画を題材にしてみたのはいいのだが。
 他の団員はもちろん、結花までもが目を丸くして驚いていた。
「おーい、ちびっこ……映像見せてくれ」
「あ、はい…」
 結花から受け取ったそれを、尚斗と宮坂はのぞき込み。
「むう、結構いけるもんだな」
「いやいや、足先とか細かいところがまだ甘いって…ほら、こことか…」
「なるほど…もう一回やってみようぜ」
「おう」
 などと、2人は再び組み手を開始。
「あちゃぁ!」
「ほおぉぉ〜」
 2人の足が空中で交差し、弾かれる……が、実際はぶつかっていないし、触れてもいない。
 2人のアクションの再現性の高さと、身体能力はかなりのモノだと言えるだろう。
 もちろん、素人目には……であるが。
「……あー、こう見ると、速さと高さが決定的に足りねえな」
「まあ、素人に毛が生えたレベルだしな」
「いや、宮坂はもっといけると思うぞ…俺にあわせてくれてるだろ?」
「まあな」
 などと、向上心溢れるというか、現実を知りすぎてる2人の会話を、少女達がまぶしそうに見つめていたりするのだが。
「それはそれとして、劇団でこういうアクションってあるんですか、夏樹さん?」
「んー」
 夏樹はちょっと困ったように。
「実はないの」
「座席の前と後ろとじゃ、見え方が変わってきますからね。アクションと言うより、動作のひとつひとつを、観客に理解させる……という方向が重要ですから」
 と、これはちびっこ。
「あ、あの宮坂先輩。空中でくるって、後ろに回転するのできますか?」
「へ?あ、ああバク宙ぐらいならお安い御用」
 後輩の女の子に頷いてみせ、宮坂は軽やかに伸身でバク宙をきめてみせた。
「わあー」
「次は、半回転ひねってしんぜよう…とうっ」
 すたん。
 これも伸身で、着地も乱れない。
「おお、すげえ」
 と、これは尚斗だ。
「宮坂、やっぱ、お前ってすげえよなあ…」
「下が普通の地面だと、さすがに2回転は厳しいな…」
「やれば出来そう…ってとこがすげえよ…?」
 じー。
 尚斗が、夏樹に見られていた。
 何かを期待されていた。
「ま、まあ、バク宙ぐらいなら…」
 と、尚斗が飛ぶ。
 宮坂の伸身と違って、ごくごく普通のそれだ。
「わぁ」
「いや、男子は小学校高学年から中学にかけて、ひたすらこういうの練習しますから。あんま珍しいもんじゃないですよ」
「そ、そうなんだ…」
「……夏樹様、この2人、絶対に男子の標準生活じゃないですからね、価値観も含めてですけど」
 結花が控えめにツッこんだ。
 
「……結花ちゃん」
「はい。なんですか、夏樹様」
「あのね、最近気付いたんだけど…」
 と、前置きしてから、夏樹はちょっと声を潜め。
「あのね、尚斗君って……ちょっと、みんなから避けられてない?」
「……」
「みんなね、宮坂君には、話しかけてるような気がするんだけど…なんか、尚斗君にはほとんど声もかけないし、なんか、よそよそしい感じがして…何かあったのかな?結花ちゃんは知らない?」
「……」
 そりゃあ、夏樹様の手前、みんな色々と遠慮しますよ。
 などと、正直に答えられたら楽なのだが……そういうわけにもいかない。
 つまり、結花は今、何とかうまい言い訳を必死で考えているのだった。
「そう、ですねぇ……単純に劇団員として見れば、宮坂さんの方が、有崎さんより頼りになるというか、学ぶべきところが多いように思えるからじゃないでしょうか」
「……そうかしら?」
「夏樹様がどう思うかではなく、あくまでも、みんながどう思うか…ですよ?」
「……そう、なんだ…」
 うあああ、面倒くさいなあ…と、結花は心の中で叫びながら、今度はフォローの言葉をひねり出そうと考えた。
「……夏樹様としては、自分だけに優しい有崎さんの方が、精神衛生的によくないですか?」
「えっ」
 夏樹は、意表をつかれたように目を見開き……顎に手をあて、考え始めた。
「……そうかも」
「なら、いいじゃないですか」
「あ、でも……そんなことを願ったりするのって…ひどい人間のような気がするの。尚斗君にはふさわしくないって言うか…」
「……あの…ですね」
 結花は、髪の毛をきーっとかきむしりたくなる衝動を抑え込みながら言った。
「ふさわしいとか、ふさわしくないとか、つり合いがとれないとか……誰かを好きになるって、そういうことなんですかね?」
「……自分のことしか考えないよりは、いいことだと思うわ」
「それはそうですね……自分のことだけを考えると、確かに自分勝手だと指さされますよそれは。でもですね、相手のことだけしか考えないのも、私はどうかと思います。まず、自分の気持ちじゃないんですか?」
「……」
「さらに言えば、相手を思いやるって気持ちも、自分の気持ちの中にあるモノだと私は思います。自分の気持ちの一部を見つめすぎて、自分の気持ち全体を見失うなんて、ばかばかしいと思いませんか?」
「……」
「……」
「……」
 夏樹に抱きしめられて、結花は真っ赤になって慌てた。
「……ぅわわわっ、な、夏樹…様っ?」
「結花ちゃんは凄いな…尚斗君から聞いたかも知れないけど、結花ちゃんは、私の憧れなのよ」
「……光栄ですけど、私は、私のことを、あんまり好きじゃないです」
 夏樹は、結花を抱く手に少しだけ力を込めた。
「……こんな事言ったら、結花ちゃんが呆れちゃうかも知れないけど…私は、臆病で、嘘つきで、それなのに、見栄っ張りなの」
「……」
「前に言われたけど、私は尚斗君に告白しないのは、臆病だからなの」
「……」
「……断られたらって考えると、足が震えて声が出なくなる」
「そういうのは、夏樹様だけじゃないと思います」
「……色々言ってるけど、私、尚斗君が告白してくれるのを待ってるの」
 短い沈黙が降り……やがて、結花がぽつりと呟く。
「気付いてるなら…両想いじゃないですか……何も怖いこと無いんじゃないですか」
 微かな、息を呑む気配。
 結花は、それで自分が夏樹にカマをかけられたのを悟った。
「…夏樹様」
 静かな怒り。
「…尚斗君、結花ちゃんにそこまで話すんだぁ…」
 …は、夏樹にいきなり泣きが入ったので鎮まった。
「……ひとつ勉強になりました。恋をすると、人は情緒不安定になるんですね」
「結花ちゃん、怒ってる?」
「ははは、どうしてくれましょうかねぇ」
「……えーと」
 引きつったような笑みを浮かべる結花に、夏樹は愛想笑いを浮かべるしかなかったのだが……。
 
「すまん、ちびっこ。ちょっと勉強でわからねえところがあってな、面倒だろうが、ちょっと教えてくれないか?」
「プライドの意味が分からないんですか?」
 尚斗はちょっと首を傾げ。
「何言ってんだ?自分より優れた相手に、年齢なんか関係あるかよ」
「…有崎さん」
「ましてや、身長なんか関係……っ」
「……あのですね、日常会話にオチは必要ないんです」
 腹を押さえて、尚斗は呻くように言った。
「いや、場を和ませてみようかと…」
「だとしたら、センスが最悪ですね」
「すまん……つーか、参考書とか読んでみたんだが、今ひとつ、きちっと理解できないと言うか。ここは、ちびっこ先生の出番しかないだろうという結論に至ったんだが」
「……良く、続いてますね」
「自分でもそう思う」
「勉強が、好きになったとか?」
「いや、それはない。わからなかったことがわかるようになると、多少充実感みたいなモノは感じるんだが、やっぱ、勉強は好きになれねえな」
「はあ……面白いんですけどね、数学とか、外国語とか、歴史とか、法律とか、経済とか……」
「んー、ちょっと俺には理解できない世界だ、それは」
 と、尚斗が首を振った。
「……嫌いなことを続けられる方が凄いのかも知れませんけど」
「どうでもいいんじゃねえの?」
「……と、いうと?」
「いや、どうせ、好きなことだけやって生きていける人間なんていねえだろうから」
 あっけらかんと尚斗が言うので、結花はやや反発する思いで口を開いた。
「そうですかね?」
「んー、そりゃ、例外はあるぞ…みたいな話は聞くけどさ、本当の本当に、嫌なことをひとつもせずに生きていけた人間なんか、俺はいないと思うなあ」
「……」
「つーか、嫌なモノがなけりゃ、好きなモノの価値が安くなるじゃん……俺はそう思うって言うか、それでいいと思ってるぞ」
 結花は、しばらく尚斗を見つめ……唐突に切り出した。
「で、わからない所ってどこです?」
「ん、ああ…ここのな…ここの部分が…」
「んーと、ああ、ここはですねえ……えーと、有崎さんには、こういう説明の方がいいかも知れません…」
 と、多少苦労しながらも、結花は尚斗の疑問を解消してやった。
「…ところで、ですね」
「ん?ああ、今日はサンキュー。えーと、季節のデザートかなんか…」
「ああ、いや……」
 多少心をひかれたが、結花は手を振った。
「有崎さんが、バイトしてるのってあれですよね…夏樹様に誕生日プレゼントしたいとかそういう…」
「まあ、それもあるが…劇団って、金かかるだろ?」
 実際の公演はさておき、普段の練習場の確保やら活動費やら……大きなスポンサーがついたり、よほど興行的に優れた劇団でない限り、劇団員が身を削って持ち出しに終わるのがほとんどだ。
 いや、ほとんどなんだけど…。
「……忘れてたよ……お前ら、全員ブルジョワジーだったもんなあ…」
「あ、いや…なんか、すみません…」
 などと、泣きの入った尚斗に、結花は何となく頭を下げた。
「いや、いいんだ…人間が平等だなんて綺麗事を信じちゃいねえし。それを恨んだところで虚しいだけだし」
「……あの、素朴な疑問なんですが……それで、いいんですか?」
「は?」
「いや、だから…その…有崎さんは、夏樹様のそばにいたいというか…誘われたから、この劇団にいるわけですよね」
「はっきり言うなよ、照れるから」
「……」
 勉強して、練習して、バイトして…。
 結花は、ふと気がついた。
「……はぁ」
「な、なんだよ、いきなり…」
「……いや、すみません。しょうがないことですね、それは」
「……?」
 
 その夜、結花はぼんやりと考えていた。
 自分の憧れである夏樹様を奪った憎い存在……だと、思いこめなくなったのはいつからだったか。
 周囲のめざとい人間からからかわれるような、甘酸っぱい感情では決してない。
 その謎が、今日、解けたような気がしたのだ。
 勉強にバイト、そして練習。
 今、あの少年の生活は……夏樹を中心に回っている。
 能力とは別に、それだけのエネルギーを注ぎ込める……その原動力が、夏樹なのだ。
 つまり、あの少年が……形は違っても、自分のやってた事と全く同じ事をしている事に気付いたのだ。
「……だから私、協力とかしちゃったんですね」
 敵のようで敵ではない。
 もちろん、味方とは言い難い。
「仲間って言うか…同志ですよ」
 ただ、やり方が違った。
 それは、少年が男だからなのか……それとも、有崎尚斗だからなのか。
「はは…」
 自然と笑みがこぼれた。
 心の中のちょっとしたもやもやが晴れていく感じ。
「……どうなるんですかね、あの2人」
 てらいもなく、そう言えた。
 
 
 
 
 友情エンドは初めてでは無かろうか。(笑)
 いや、何か無性に書きたくなったというか……。
 書き終えて首をひねり、もう一度読み返してみたら……なんとなく、すとんと、『こういうのも、ありだろ?』みたいな感じに、収まってくれました。
 まあ、高任だけの意見で終わることは少なくないですが。
 
 いままで、ひたすら書き込んできたのは『尚斗を、異性として認めていくちびっこ』の様々なパターンだったんですよね。
 異性じゃなく、何か他の存在として認めていく……もしくは、認める瞬間。
 そういうものを、表現してみようかと思ったのですが……まあ、10周年イベントとは別の、10回目のチョコキス記念日というか。
 そういう作品として……読むというか、認めていただけたら、嬉しいです。

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