注…偽チョコ、およびチョコキスの設定は、一旦リセットしてください。
 
「あーりーさーきー」
「……んだよ」
「なんでお前ばっかり藤本先生に構われるんだよっ!?」
「知るかっ……っていうか、俺は望んじゃいねえよ」
「それがわかるからっ、余計にむかつくんだ」
 などと、藤本綺羅ファン改め、女王様の下僕数人に揉みくちゃにされ……ただではやられなかったが、まあなんというか。(笑)
「……男の嫉妬ってのは、手におえねえ」
 ズルズルと足をひきずり、家路をたどりつつ。
 ひょっとしたら、気に入られてるんじゃなくて、自分の手を汚さない方法で抹殺されようとしてるんじゃ無かろうか……。
 そんなネガティブな考えが、尚斗の胸に浮かんでは消え……消えてはまた浮かぶ。
 成績は、男子校で普通だから、世間一般的には劣等生だろう。
 容姿も普通……いや、願望は抜きにして普通のはず。
 家庭は普通の小市民。
 冴えない平凡な少年が、可愛い女の子に囲まれて……なんてのは、今時漫画でも流行らない、それ専用のギャルゲーの世界の中だけで。
 美人の前に『絶世の』という形容詞をつけてもさほど違和感を覚えずにすむ女性の存在は希だが、そんな女性と出会えた幸運を噛みしめることに関してはやぶさかではない。
 が、そんな女性がやけにかまってくる……となると、なんか裏があるんじゃなかろうかと疑ってしまうぐらい、年齢相応に世間ってやつを経験してきたから。
「ただいま」
 『おかえり』の言葉が返ってこない事ぐらいは何とも思わない。(笑)
「ん?」
 靴を脱ぎかけ……普段は無い靴がそこにあるのを発見し。
「ねーちゃん、帰ってきてんの?」
 と、台所へと向かう。
 姉や妹などがいる奴とそうでない奴を比べると、前者は確実に後者より夢が1つ少ないと尚斗は思う。
 7つ違いの姉。
 年が結構離れているから、深刻な仲違いというモノは経験しなかったが……いわゆる1つの『ひどいやねーさん』に関しては経験豊富だ。
 まあ、弟と違って成績は割と……いやかなり優秀だったから、名を聞けば誰もが知っているような大学を出て、名を聞けば誰もが頷くような企業に就職し……そこから1人暮らしを開始。
 会えるのが、年に一度か二度……の家族となると、都合の悪いことは忘れて、懐かしい気分にさせられてしまう。故郷は遠きにありて想うもの……ってのはこういうことだな、などと微妙に間違った認識を持つ尚斗である。
 尚斗が台所に入っていくと、母と向かい合わせに座っていた姉が、白い歯を見せて手を振った。
「あぁ尚斗、お帰り」
「そりゃこっちの台詞……?」
 母親の反応がない。
「どうしたんだよ、かーちゃん」
「ん、ちょっとショックだったみたい」
「ショックって、何が?」
「いや、会社やめることになったから」
「マジで?」
「マジで」
「一体、何やっ〜っ!」
 テーブルの上の湯飲み(中身無し)をぶつけられ、尚斗は床をのたうち回る。
「アンタね、何で不祥事とか、そういうものに結びつけるわけ?」
 今の行動だけで十分にその素質はあるだろうがよっ……などと反論できるはずもなく(痛みで)。
「つーか、まあ…」
 床の上でのたうち回っている弟の様子は眼中にないのか、姉がちょっと照れくさそうに呟いた。
「結婚…とかいうものをすることになってね」
「母さん、何も聞いてないわよっ」
「そりゃ、今日初めて話したし」
「父さんだって、なんて言うか」
「だから、一応帰ってきたんじゃない。無断で結婚してたとか、そんなんじゃないのに、何をぐだぐだと…」
「いいかい真琴、結婚ってのは、当人同士だけの問題じゃなくて…」
「はいはい、父さん帰ってきてからね」
 手をひらひらと振って、姉というか真琴は、立ち上がって尚斗の背中を踏みつけた。
「結婚おめでとう、おねーさま。さん、はい」
「……」
「……何、アンタ。姉の結婚を素直に喜べないわけ?」
 ぐりぐりぐり。
「……か、顔に、湯飲みぶっつけられて…すぐに、立ち直れるわけないだろ…」
「しばらく見ない内に、ひ弱になったわね…」
 家に帰ってきた時点で、身体にダメージを負ってたのもあるだろうが……説明するのが面倒なので、尚斗は曖昧に頷いた。
「じゃ、母さん。姉弟水入らずで語り合うから、また後でね」
 尚斗の腰の後ろのベルトをがっちりつかみ、引きずるように階段を…。
「いたいいたいいたたたっ」
「だったら、自分で歩きなさいよ…」
 かわらねえ。ホント、この姉だけは、かわらねえ。
 99%の否定的な感情と、1%の親しみをこめて……尚斗は呟いた。
「ひどいや、ねーちゃん」
 
「おや、DVDプレイヤー」
「去年買った……って、ベッドの下を漁るなよっ」
「と、見せかけて、前にはなかった本棚の辞書〜♪」
「あああああっ」
 理解しすぎているっ、この女は俺のことを理解しすぎているっ!
「つーか、結婚するんだろ、ねーちゃん。弟のエログッズ漁るより、そっちの話をしてくれよ」
「……」
「……?」
「……」
「……けっこんおめでとうございます、おねーさま」
「よし」
 真琴は小さく頷いた。
「つーか、この正月に帰ってこなかったのは、結婚より、会社を辞めるって絡みか?」
「ま、そういうこと……なかなかに、察しがいいね」
 などと、業務の引継ぎやら何やらで、正月休みも無かった旨を愚痴混じりで説明し。
「有給休暇使って、年度末までってのが王道だけどね……正直、そういうのは性に合わなくて」
「まあ、会社やめるのに、有休使い切る…ってのは、俺もちょっと違うと思う」
「なんだけどね……まあ、社会にでてみると少数派になっちゃうのよ。実際は結婚退職なのに、それまでの間に失業保険支給手続きに行く(詐欺行為)とかね」
「ふーん」
 などと、近況報告に似た会話が30分ほど続いただろうか。
「つーか、結婚するのがどんな相手か、興味はないの?」
 などと、真琴の方から切り出してくる。
「いや、興味はあるけど…俺の知らない人だろ?ねーちゃんが選んだなら、別にそれでいいんじゃね?」
 真琴は尚斗の顔をじっと見つめ。
「ふむ……何も聞いてない、か」
「……」
 なんだろう、予感がした。
 
「尚斗くん、おはようございます」
「……おはようございます」
 美人教師の微笑みだけならまだしも、ぎらつくような嫉妬まみれの野郎連中の視線までついてくる。
「清々しい朝ね」
「騒々しい朝でした」
 夜中の一時頃まで階下から父親の声が響いてきた事から、いわゆる姉の結婚相手は、両親にとってあまり受け入れがたい相手なのだろう……などと、思いながら眠りにつき。
 朝の6時に、体重がきっちりのったフライングニールキックで起こされた。
 久しぶりに家族4人そろった朝の食卓は無言で……たまりかねて『ねーちゃんの好きにさせてやれば?』などと口にしたところ、成績不振に始まって、努力が足りないからあんな男子校に通うことになったなどと説教が始まり、それを受けて今度は真琴が『今更すんだことをぐだぐだ言うな』などと父親に喧嘩を売り……とどめに、母親が泣き出した。
 お年頃の、男子高校生にとっては最悪に近い朝……そう言っていいだろう。
「久しぶりに姉が帰ってきましてね」
「……」
 綺羅の瞳に、何とも形容しがたい複雑なモノがよぎった。
「あの…?」
「あら、尚斗くんにはお姉さんがいらっしゃるのね」
「ええ……7つ上の」
 などと補足しつつ、尚斗は微妙な居心地の悪さを感じた。
 なんというか……自分が責められているような、そういう気配が綺羅にある。
 なのに、それを表情や、口調には出さずに。
「あら、尚斗くんの7つ年上って事は……私と同い年なのね」
 にこにこにこ。
 その笑顔が、微妙に怖い。
 姉の……真琴の結婚相手が、何らかの形でこの美人教師と関わっているのではないかという予想は間違っていないとは思うのだが。
「……ん?」
 今になって気付く。
「先生、この学校の卒業生って言ってましたよね?」
「ええ、そうですわ」
 にこにこにこにこ。
 やべえ、笑顔がちょっとパワーアップした。
 などと、多少動揺しつつ……尚斗は、おそるおそる切り出した。
「ねーちゃんの……同級生…ですか?」
 微かな沈黙。
「……何故かしら」
 と、憂い顔でため息混じりに綺羅が呟く。
「たった今、尚斗くんをひどい目に遭わせてやりたくなりました」
「えええっ?」
 何やった?何やった、俺…いや、ねーちゃんがやったのか?
 江戸の仇を長崎で……とか、意味はよくわからないがそんな言葉が脳裏をよぎる。
「真琴さんは真琴さんで……なんと言えばいいのか」
 うわ、ねーちゃんじゃなくて、俺だ。よくわからないけど、俺が何かやってるよ。
 などと、尚斗は頭をフル回転させたが……その答えは見つからなかった。
 
 コンコン、コンコンコン。
「おーい、まだ起きてる?」
「まだ12時前だぜ?」
 などと言いながらドアを開けると、『子供は12時前に寝る』などと、ボディに膝が飛んでくる。
 つーか、なんでこう、流れるように、暴力を振るえるのか、この姉は。
 自慢にもならないが、男子校の生徒はちょいと問題のある生徒が多く……いわゆる暴力行為なんかも珍しくないわけで。
 そんな学校で、一応それなりの生徒だったりする尚斗なのだが。
 女だからとか、身内だからとか……そういうのを抜きにして、この姉は、掛け値なしに強い。つーか、この女より強い奴を見たことがねえ。
 と、いうか……この姉に鍛えられたせいで、間違いなく強くなった部分がある。
「……で?」
「いや、父さんがうるさいから逃げてきた」
「まあ、多少上まで聞こえてたけど……優しいよな、ねーちゃんは」
「は?」
 いきなり何を言いだしたという表情で、真琴が尚斗を見る。
「親父を、言い負かそうとしてないじゃん」
「まあ、それやると父さんが傷つくし……最後の手段かな」
「つーか、ねーちゃんの結婚相手って、なんか問題ある人なのか?」
「んー」
 真琴はちょっと考えるような表情で。
「格好良い、経済力ある、優しくて思いやりがある…」
 などと指折りながら挙げるモノだから。
「それ、ものすっごく、いい相手じゃん」
「まだ続きがあるの」
 と、折った指を戻しながら。
「年齢が私の約2倍で…」
「おい」
 反射的にツッコミを入れた。
「倍って……50ぐらいか?」
「49」
「うわお…」
 つーか、その歳まで独身ってのは、何か問題を内に秘め…
「……なんか、ものすっごく失礼なことを考えてなかったか?」
「……す、推測で…モノを投げつけるのは…」
 痛みを感じるよりも、涙が出て……あ、鼻血もか。
「アンタと、何年姉弟やってると思ってるのよ」
 と、今度はティッシュの箱……それを受け取りつつ。
「……悪い、考えた」
「と、いうか……まあ、2回目だから」
「なるほど、それなら……」
 両親の反応も含めて、ある程度は理解できる。
 と、尚斗は出るだけの鼻血を出してから丸めたティッシュを鼻に詰め込んだ。
「…離婚?」
「いや、病死」
「むう…」
「で、それから苦労しながら男手1人で子供を育てて…」
「おいおいおい」
 いきなり、花嫁をすっ飛ばして、母親か?
「……」
「……どうしたの?」
「いや、もうすぐ50で、一度結婚してて、奥さん亡くしてて、子供がいて…」
「うん、そう」
「その子供…いくつ?」
 真琴はにこっと微笑んで。
「私と同い年」
 
「どうしたぁ、有崎ぃ。真っ赤な目をして、徹夜でエロビでも見てっ」
「……ぁ」
 手を出した後で、気付いた。
「すまん、宮坂…今ちょっと精神的にナイーブなんだ」
 まあ、平気だよな、宮坂だし。
 つーか、女子生徒がいるってのに、平然とそういうこと言えるのはある意味すげえ。
 ……真似しようとは、おもわねえけどなっ。
「うわぁんっ、有崎のくせにっ!綺羅先生に言いつけてやるぅっ」
 などとわかりやすい嘘泣きをしながら教室を出ていく宮坂。
「つーか、『有崎のくせに』って、なんだよ」
「……尚にーちゃん、宮坂君、泣いてたよ…」
「おまえもっ、騙されるなよ、あんな嘘泣きにっ!?」
「え、嘘泣きだったのっ?」
 そうだったかなあ…と、宮坂が出ていったドアの方に、麻理絵が不思議そうな視線を向けた。
「いや、宮坂は涙も自由自在だからな……実際に涙を流してたとしても、本当に泣いてるとは限らないって話だ」
「ふ、複雑…なんだね」
 と、麻理絵は曖昧に頷き……じとっとした視線を尚斗に向けた。
「……何か、あったの?」
「んー」
「あ、別に…無理に聞こうとか…」
「いや、ねーちゃんが帰ってきててな」
「…マコねーちゃん?」
「おお、覚えてたか。感心感心」
「わ、忘れるわけないでしょっ…」
 と、麻理絵は一旦言葉を切り……粘着質なモノを感じさせる口調で、ぶつぶつと聞こえよがしに呟き始める。
「……そーだよね、幼なじみを、5年もほったらかしにしてる誰かさんなら、きれいに忘れちゃうモノなのかもね…」
「そーいわれると反論できんが……その、小さな頃から、俺はねーちゃんにぼこぼこ殴られてきたからなあ。多分脳細胞が人の倍以上死んでるせいだと思うんだが」
 半分は言い訳だが、実際に自分の記憶力にあまり自信がなく……子供の頃は真剣にねーちゃんのせいだと思いこんでいたりした尚斗だったり。
「それで、マコねーちゃんが…?」
 案の定、麻理絵が綺麗にスルー。
「いや、なんか、こう…結婚することになったっぽい」
 尚斗もスルー。
「そうなの?」
 麻理絵の目がきらきらと。
 あれか、やっぱり女子にとっては、結婚とか、花嫁とかいう言葉は、無条件で心が躍ってしまうものなのか。
「で、どんなひと?もう、会った?」
「いや……俺も、まだ」
 と、言葉を濁す。
 実際にあってもいない人間を、他人の言葉そのままに伝えるというのは、なんかちょっとよろしくない気がして。
 つーか、同い年の子供とか……どう説明していいのか。
 麻理絵に気付かれない程度にため息をつく。
「……」
 ……同い年。
「今、なんか……不吉なキーワードが存在したような」
「え、なになに?」
 多分、無意識にその答えを拒否しているのだろう……尚斗の思考は、収束せずにばらけていくばかり。
 ぜんぶ明日。面倒くさいことは、ぜーんぶ、明日考えろ。
 一体誰の言葉だったか、それは呪文のように尚斗の頭の中で鳴り響き。
 きーんこーんかーん…。
 チャイムの音がなり、尚斗は考えることから逃げた。(笑)
 
 放課後、帰宅、夕食、ゲーム、風呂、就寝……。
「いや、待て待て待てっ!」
 布団をはねとばして、尚斗は起きあがった。
 部屋の電気をつけ……頭を抱えながら、部屋の中をうろうろと歩き回る。考える必要はなく、ただそれを受け入れる覚悟を決めるだけの準備運動だ。
 寒さがまるで気にならない。
 そして、5分後……尚斗は、姉の部屋をノックした。
 
「ぴんぽーん」
 深夜だというのに、調子っ外れの明るい真琴の声に、尚斗は頭を抱えて。
「やっぱり、そうか…」
「いやあ、綺羅の奴が口をきいてくれなくてさ……女の友情ってのは脆いね、どーも」
「そら……自分の同級生を、義母と呼ぶのは抵抗あるだろうよ」
「……と、いうより」
 真琴はちょっと考えるように眉をひそめて。
「綺羅の母親って、子供の頃に亡くなっててね……まあ、綺羅を見ればわかるだろうけど、美人だったのはもちろん、おしとやかで…(以下略)」
「……」
「いいよ別に、正反対って言っても」
「そりゃ、正反対かもしれねえが、劣るって事じゃねえだろ」
「……」
 口をへの字に曲げた真琴が、指をちょいちょいっと動かして尚斗を招く。
「…なんだよ」
 と顔を近づけたら。
「……は?」
 頭を撫でられた。
 しかも、愛しげに。
「……え?」
 状況の認識、過去の記憶の検索と、起こりうる状況への対処方法……ヒット件数が0をはじき出した瞬間、尚斗は飛び退るように距離をとった。
 それを怒るでもなく。
「いや、生まれて初めて、弟がいて良かったと思ったね、たった今」
「今まで一度も思ったことねえのかよっ!?」
「……聞きたい?」
「いや、いい…」
 それ聞くと、とても精神衛生的に悪そうだから。
 というか、それよりも聞きたいことが。
「ねーちゃん、ひょっとして俺って、藤本先生と会ったことあるのか?」
「……」
「やっぱ、あんのか?」
「アンタ、全然覚えてないの?」
「まったく」
「あの時、ちょぉっとやり過ぎたからかな…」
 などとため息混じりに真琴が呟く。
「ねーちゃんが俺を殴るのなんて日常茶飯事だったじゃねえか」
「あ、いやいや」
 真琴がちょっと手を振って。
「アンタ、子供の頃に自転車でこけて頭打って入院したことあったじゃない」
「ああ、あれか…それも、あんまり覚えてないんだけどな」
 自転車に乗って壁に激突……したらしいが、正直、目を覚ましたときにねーちゃんと麻理絵が泣きながら喜んでくれたことぐらいしか覚えてない。
 まあ、髪で隠れる程度だけど頭頂部付近にちょっとしたハゲがあるのは、そのせいらしいが。
「今だから言えるけど、アレ、自転車でこけたんじゃなくてアタシがやったのよ」
「はぁ?」
「あんまりアンタがむかつくこと言うからさ、2,3発殴ってから、壁に向かってどーんと」
「おぉいっ」
「こりゃまずいと思って、自転車を壁にぶつけてから救急車呼んで…」
「弟が死にかけたのに、随分冷静だなおいっ」
「いや、死んだら死んだで、とーさんかーさんに次の弟を…」
 やべえ、今ねーちゃんの結婚に心の底から反対したい。相手のためにも。
「まあ、なんの後遺症も残らなかったし、結果オーライ」
「たった今、俺の心に癒えない傷を負わされたんだが…」
「まあ、男って生き物は、心に2つ3つの傷を抱えて生きていくもんよ」
 などと明るく笑い。
「なんか文句ある?」
 軍事力を背景に、自分の主義主張を押し通すというのはこういうことなのか。
「……つーか、藤本先生の話はどうなったんだよ?」
「だから、あの日、アンタは綺羅に会ったのよ」
「……」
 検索開始……ヒット数0。
「そりゃもう、お年頃の姉を前にして、『ねーちゃん、俺こんな綺麗な人見たこと無いぞ』とか、『ねーちゃんとはえらい違いだ』とか好き勝手……あ、思い出したらなんか腹立ってきた…」
「ちょっと待て」
 唸りをあげる右フックに備えて、左側頭部から顎にかけて完全ガード……そんな尚斗が最後に目にしたのは、真琴の左足だった。
 
 しかしまあ、なんというか、藤本先生の女子高生姿ねえ……生徒に背を向け、板書しながら教科書を読み上げる姿を眺めつつ。
 まあ、どう考えても……美人だったろうな、などと。
 いや、でも、髪が短かったとか、くくってたとか、そういう可能性もあるのか……条件付きで検索を開始するも、やはり記憶にございませんとしか言いようがなく。
 そもそも、それを覚えていなかったからと言って、恨まれる覚えはないよな……などとため息をつく尚斗。
 えーと、入院したのは10才の時だから……藤本先生は17才、高2か。
 友人の弟……7つも下のガキと会って、それから7年経って……そりゃ、覚えて無くて当たり前というか、そもそも藤本先生の方がそれをしっかり覚えているという方が不思議なぐらいだ。
 つーか、ねーちゃんと藤本先生の父親が結婚するって事は、俺と藤本先生が親戚になるって事か……男子連中には黙っておいた方が良さそうだ。
「……ちゃん、尚にーちゃん」
「ん?」
 麻理絵の方を振り向く。
 麻理絵の視線が、自分ではなく少しずれたところに向けられていて、それをたどる……と、悲しそうな表情の綺羅が尚斗の席の前で立っていたり。
「……尚斗くん、私の授業はそんなにつまらないですか?」
「あ、いえ、そーいうわけではないですが、少し考え事というか……」
「……」
「すんません、廊下にでも立ってます」
 と歩き出した尚斗の脚に向かって男子生徒の足が次々に。
 どーせろくに授業も聞いてないのは同じくせに……とか思うと腹が立ち、尚斗はこれ見よがしに足を引っかけようと伸ばされていた宮坂の足を踏みつけた。
「あうちっ」
 足の甲の急所にまともに入ったせいか、宮坂が飛び上がるように立ち上がって机の中身をぶちまけた。
「何すんだっ?」
「うるせえ、黙れ、つぶすぞ」
「……」
 あ、やっちまった。
 中学の時もこれで……。
 男子はともかく、女子の半数ほどがどんひきした気配に尚斗は舌打ちし……そのまま教室を出ていった。
 
「なんかあったの、そこの青少年?」
「んー?」
 面倒くさそうに、紗智に視線を向け。
「まあ、色々とな」
「うわ、心配して声をかけてるのに、その態度」
「心配半分、冷やかし半分って所だろうが」
「まーね」
 などと、悪びれもせずけろりと紗智。
 麻理絵の、中学からの友人らしいが……まあ、悪い奴じゃないのは確かだし、あんまり女子って感じを受けずにつきあえるから、嫌いじゃない。
「藤本先生がらみ?」
「まったく無関係ってわけじゃないが……なんか、色々と考えることが多くてな、ちょっとイヤになっただけだ」
「はっ、ガキね」
「ガキにガキって言っても、意味ねえぞ」
「うわ、開き直った、さいてー」
 などといいつつ、紗智がバリアをはる仕草をする……どっちがガキだか。
「……あのさ」
「んだよ?」
「藤本先生って、尚斗の知り合いだったりする?」
「俺のねーちゃんの同級生って言うか、友人」
「あ、そうなの?」
 と、1つ疑問が解けたと言う感じに紗智が頷く。
「じゃあ…」
「つーか、昔7年ぐらい前に一度会ったことがあるらしいけど、それだけ」
「……って事は」
 くふふ、と笑い。
「一目惚れ?」
「するかっ」
 17才の女子高生が、10才のガキに一目惚れする要素がどこにある。微妙に犯罪臭いというか、性別が逆なら間違いなく手が後ろに回るぞ、それ。
 紗智はじっとこっちを見つめ……肩をすくめた。
「それもそうね」
 別に腹も立たない。
「要するにあれよね……藤本先生が美人過ぎるから、尚斗としてはその好意を素直には受け止められない、と」
「藤本先生に関してはその通りだが、俺がいらついているのはそれだけじゃねえよ」
 
「……っ!……っ!」
「久しぶりに、綺羅の方から連絡が来たと思ったら……」
 ギブアップの意思表示のために、尚斗は何度も床を叩く……が、真琴は完全にそれを無視して。
「高校生にもなって、反抗期か、こら?」
 チキンウイングフェイスロックを元にした極め技とと、おそらくは変形の膝がための複合技……しばらく会わないウチに、新技を開発したらしい。
 何故だ、何故この女はこんなに強いんだ……という尚斗の無言の叫びは、どこに届くのか。
「言っとくけど……完全には極めてないからね、今」
 そ、その心は…?
 という尚斗の心の問いかけはどうやら届いたらしく。
「アンタを気絶させないため」
 あの父親と母親から、どういう経緯でこの姉が……。
「ちなみにこの体勢から、背中に膝を当ててひっくり返ると…」
 ごろん、と視界が反転して天井が見えた瞬間。
「っ!っ!っ!っ!」
 首と呼吸と膝と背中と、痛みと痛みが痛みが…。
 目の前がすっと暗くなった瞬間、ああ、これで楽になれる……と思ったのだが。
「はい、回転」
 と、先の体勢に戻って意識が引き戻される。
 鬼か、いや、鬼だ。
 そうだよ、もうすぐ節分じゃん…この鬼を、この鬼を家から追い出さないと。
「……なにやら、おねーさまに対する敬意が足りないような」
 
 ……などとたっぷり1時間。(笑)
 
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
 尚斗の精神は一時的に退行をおこしたらしく。
「ちょっと、尚斗」
「ひぃっ、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「まったく、軟弱になったわね…」
 いや、アンタが強くなっただけだ……などと、まともな状態の尚斗なら口にしただろうが。
 
「あー、なんというか…昨日は、すみませんでした」
 姉に諭されて(笑)という部分はあったが、いらぬストレスをかけたという意味で申し訳ないという気持ちは確かにあったので。
 尚斗は、思ったより素直に綺羅に頭を下げることが出来た……綺羅だけにかよ、というツッコミはさておき。
「……真琴さんから聞いたのですが」
「は?」
「尚斗くん……本当に何も、覚えてないそうですね」
「人は頭に強い衝撃を受けると、記憶が飛ぶそうです」
「…っ」
 ねーちゃんがポンポン殴るから……と続けることが出来なかったのは、キュッと唇を噛んで、何かをこらえるような綺羅の表情が、なんとも異常に思えたから。
「えっと、あの…先生?」
「ん…ちょっと気分が、悪く…」
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です…けど、ちょっと1人に…」
 いや、そんな青ざめた表情で『1人にさせて』とか言われても…。
 そう思ったが、もう一度綺羅に言われ……尚斗は、教官室を後にしたのだが。
 ドアが閉まる寸前、『ごめんなさい』と綺羅が呟いたような気がしたのは……空耳だったのだろうか。
 
「そこの愚弟」
「なんだよ、ぐていって」
「……」
 髪をかすめたラリアットが頭上を通過した瞬間、尚斗はすかさず右側頭部を完全ガード……一呼吸遅れてやってきたとんでもない衝撃で、両腕が完全に馬鹿になる。
「だいぶ、勘が戻ってきたようね…」
 と微笑みながら、ヘッドバット。
「おぅっ!?」
 目の前に星が飛ぶ……つーか、女がヘッドバットはないだろ。
「女子プロレスでも目指そうかしら…」
「……天職だ」
「まあ、冗談はおいといて」
「今度はなんだよ……つーか、藤本先生も、なんで直接俺に言わねえんだ?」
「さて、何でだろうね」
 などとわざとらしく首を傾げる真琴。
「まあ……今日はなんか様子が変だったしな」
「……それはそうと、愚弟」
「だからなんだよ、そのぐてーってのは?」
「……はあ」
 呆れたように真琴が説明する。
「愚かな弟と書いて、ぐてい……アンダースタン?」
「ちなみに、ねーちゃんみたいなのは…」
「賢姉かしら?」
「けんし…って、どう書くんだ」
 どーせ、ぶんぶん剣を振り回すとかそういうのじゃないだろうな…と思いつつ。
「賢い姉」
 ねけぬけと。
「まあ、ねーちゃんが頭いいのは認めるけどよ」
 こう、暴れるとか、そういう漢字が使われた言葉で……。
「話を戻すけど、愚弟」
「なんだよ、鬼姉」
「……アンタが望むなら、なってあげてもいいけど」
 やべえ、背中のあたりが寒い……つーか、自分が鬼って自覚無いのか、こいつ。
「まあ、いいわ……アンタ、彼女とかいないの?」
「いねえよ」
「……ふーん、身近で気になる相手とか」
「男子校っ、俺の通ってるのは、男子校っ」
 身近に、気になる相手がいたら、まずいって。
「ふーん…」
「……何の話だよ?」
「ほら、中学の時のあの娘は…」
「その話はすんな…ぶっ殺すぞ」
「ほう…」
 真琴の目がすっと細まる……が、知ったこっちゃねえ。
 人間誰しも触れちゃあいけない傷ってもんがあって、そこに触れたら爆発するしかねえし、そもそもそれがわからないような奴じゃねえはずで。
「ふむ、悪かったね」
「……」
 ごんっ。
「悪かったねって言ってんだろ…反応しろ、こら」
 そう遠くない日に、自分が流した血でダイイングメッセージを残すことになるんじゃないか……そんなことを尚斗は考えた。
 
「……むう」
「どうしたの、尚にーちゃん」
「いや、弁当忘れた……っかしーな」
「……あげないよ?」
 と、ちょっと逃げ腰で自分の鞄を隠そうとする麻理絵。
「とらねーよ……パンでも買って…」
 ……右ポケットから左ポケット、尻ポケットから制服の内ポケットへ。
「……あれ?」
「……お金、貸そうか?」
「いやいやいや、おかしいだろ?」
 麻理絵に向かって、とりあえずツッコミ。
「そもそも、今朝ちゃんと弁当箱を鞄に入れたんだぞ?財布だって、昨日帰ってからポケットに入れっぱなしだってーの」
 便所いって、学校に……。
「……」
「……?」
「……ねーちゃんか」
「え?」
 なんでマコねーちゃんが……という感じの麻理絵を無視して、尚斗は断定的に呟く。
「理由も、証拠もないが、ねーちゃんだ」
「そ、それは、あんまりじゃないかなあ……」
 などと首を傾げる麻理絵の背後から、恥ずかしげに……俯いたまま綺羅が声をかけてくる。
「あ、あの…尚斗君」
 みなまで聞かずとも、その手に持った大きな包みが用件を雄弁に語っていたわけで。
 
 冬の中庭、昼休み。
 人気はないけど、やたら視線を感じるのは気のせいじゃないよな……つーか、殺気まじりだし。
「え、えっと……尚斗くんの口に合えば、いいんだけど」
「口に合うも何も、ねーちゃんに連絡取って、俺の好物とか聞いたりしたんじゃないんですか?」
「……」
 綺羅の手がちょっと止まり。
「えっと、こっちはデザートなの…」
 うお、スルーだ。
 っていうか、この人……結局何がしたいんだろう?
 自分の父親が、高校の時の同級生と結婚云々ってのは……本当の意味で理解は出来ないけど、かなりショックなんだろうなってのはわかる。
 とととと……と、水筒からコップに注がれた琥珀色の液体から、良い香りが周囲に広がる。
「紅茶?昼飯に紅茶ですかっ!?」
「え?」
 綺羅はちょっと狼狽えたように、尚斗の顔を見て、コップ、そして水筒に視線を移し……かああああっと、顔を赤らめた。
「あ、あぁ、こ、これは…その…」
 綺羅は手で顔を覆い……ぽつりと呟いた。
「ま、間違えました…ごめん…なさい」
「あ、いや、別にそんな大したことじゃ…」
 女ってのはずるいよな……そんな態度をとられると、守ってやらなきゃとか、そんな気持ちにさせられる。
「……うまいですね、これ」
 紅茶を飲んで、安心させるように綺羅に向かって笑ってみせ……手間暇かけたんだろうなって感じの弁当をつまんで……こっちの方は、笑ってみせるのに努力は必要なかったけど。
「うまいですよ、冗談抜きで」
「……」
 もりもりもりもり。
 本気でうまいな。
「……食べないんですか、先生?」
「……」
「ねーちゃんから聞いたと思いますが、俺はまずいときはまずいと言います」
 もりもりもりもり。
 紅茶も飲んで、おかわり要求……ちょっと慌てたように、綺羅が水筒を傾けて注いでくれる。
 俺の好物ばかりのおかずだから、ある意味風味の強い紅茶は口直しにいいのかも……それを計算してたのなら、悪いことをしたな。
「……藤本先生?」
「……今、胸がいっぱいなんです」
 自分の胸元に手をやり、目を閉じながら綺羅。
 何を大げさな。
「……夢が1つ叶いました」
 夢…?
 そして綺羅は空を見上げ……何とも言えない幸せそうな微笑みを浮かべたのだった。
 
「ねーちゃん」
「ほら、返すよ」
 ぽーんと投げられた財布を受け取り、尚斗は『説明を要求する』と姉の真琴に視線で訴えた。
「アンタのお弁当なら、おねーさまのお昼ご飯になったけど?」
「いや、そうじゃなくて…」
 尚斗は髪の毛をばりばりとかきむしり。
 でも結局言葉が見つからなくて。
「……むう」
「……別に、女って生き物はアンタが思ってるほど、腹黒い奴ばっかりじゃないわよ」
 と、真琴はちょっとポーズをとって。
「おねーさまをみればわかるでしょ?」
 まあ確かに、腹黒くはないけどな。
「……何か言った?」
「何か聞こえたか?」
 ごんっ。
「……聞こえたらまずいモノを聞いてきたぞ、さっき」
「死なない程度に、手加減はしてるわよ」
 腹黒くはなくとも、その拳は間違いなく血の色に染まってるだろ……主に俺の血で。
「つーか、ねーちゃん」
「何?」
「結婚って……いつぐらいになる予定?」
「4月……っていうか、もう式場は押さえてあるし」
「おい」
 それじゃあ、もう親の反対もへったくれも…つーか、招待客に招待状とかそういう時期なんじゃ…。
「まあ、ギリギリまで話し合いは続けるわよ」
「ギリギリを越えたら?」
 ……愚問だった。
 
「おーい、有崎くーん」
「おお、温子か、どうした?」
「いや、借りてたCD……」
「どうだった?」
「もう…」
 温子はぐっと手を握りしめ。
「さいっこぉ」
「だろだろ?いやあ、これの良さをわかってくれる奴がいて、俺も嬉しいぜ」
「っていうか、どこで手に入れたの、これ?とっくの昔に廃盤でしょ?」
「おう、中1の時にな……ほら、繁華街の裏路地に怪しげな中古屋があるんだけど」
「むむう?」
 と、温子が首をひねる。
 ぽっちゃりした体型だけに、そのすがたはちょっぴりユーモラス。
「まあ、普通の奴はちょっと二の足踏むような場所だしな……とにかく、そこで見つけてな、慌てて家に戻って、貯金箱叩き割った……プレミアついて、1万3千円」
 変かな……と問うような尚斗の視線に、温子が首を振る。
「出す出す、私も絶対その金額なら出すってば」
「……同感」
 と、声を出すまで気配を感じさせなかったのは、秋谷世羽子……香神温子とは、軽音部の仲間らしい。
 物静かで……なんというか、頭良さそうな雰囲気。
 体型に関しては、温子とは好対照……と言うことで。
「正直、ウチの学校に男子校の生徒が来るって聞いたときはひいたけど……今なら許せる気がするわ」
「なんかちょっと物言いがひっかかるが、よし、とにかくよし」
 などと盛り上がっているネタ元のCDは、海外アーティストの……ものすっごいマイナーな歌手の(以下略)。
 当然、理解者はごく少数に限られる……まあ、プレミア価格がつくあたり、例の中古屋の店長は少数の1人である。
「……」
「どうした?」
「いえ、私はこれで失礼するわ…」
 と、唐突に会話を切り上げ、世羽子がその場を立ち去る。
「……俺、なんか失礼なこと言ったか?」
「はて?」
 と、今度は温子が首を傾げ……ちょっと気まずいような表情を浮かべた。
「じゃ、私も失礼するね」
「え?なんだよ、いきなり」
「あはは、馬はゴメンだもん」
「馬?」
 どういう意味だ……と、左右に視線を飛ばす尚斗。
「…っ」
「……」
「……」
「……あの、何か用ですか、藤本先生?」
「いえ、楽しそうに…何の話かな、と思いまして」
「音楽の話です」
「まあ、音楽ですか」
 その話なら、私も……という感じに、綺羅は表情を明るくさせた。
 もちろん、10秒後には、また暗くなったのだが。
 
 よく登校拒否にならずにすんでるよなと思いつつ、尚斗は保健室のドアに手をかけ……しばらく躊躇した。
 例によって、やっかみによるイジメ……というレベルを過ぎているのだが、その怪我の治療のためにやってきたわけで……そこに誰がいようとも、やはりドアを開けざるを得ない。
 がらがらがら。
「……なんで、ねーちゃんがいんだよ」
「おお、噂をすれば」
 などと、楽しげに声をかけてきたのは、女子校の校医である水無月先生……ああそうか、この人藤本先生の2つ上の先輩って言ってたっけ…と尚斗は納得する。
「有崎の弟だったとはなあ…」
「愚弟ですからねえ…おはずかしい」
 と、先輩後輩の関係……というよりは、友達関係に近いノリで真琴。
「……姉がご迷惑をかけて、すんません」
 半分皮肉で下げた頭に衝撃が走り、尚斗はそのまま床にダイブする。
「なんか、言った?」
「……おい有崎、もうちょっと手加減してやれ…怪我人だぞ」
「手加減はしてますよ。それに薫先輩も言ってたじゃないですか、人間の身体ってのは、甘やかすとつけあがるって」
「いや、限度があるだろ……つーか、保健室で怪我を増やすな」
「薫先輩がそういうなら」
「さて、と…」
 尚斗を椅子に座らせ……水無月が、てきぱきと消毒やら、絆創膏やらを。
「しかし、似てねえよなアンタら」
「両親曰く、残りカスなもので」
「……ひどい言われようだな、そりゃ」
 と、水無月がちょっと顔をしかめた。
「まあ、両親の期待に応えよう……という意欲が減退したのは確かですが」
 それを理由にするのはあまりにも情けないですから、と肩をすくめる尚斗の頭を、ぱしこーんとしばいたのは真琴。
「生意気言わない」
「い、いえっさー」
「そもそも、両親の期待に応えようとして頑張る時点で軟弱よ、軟弱」
 そうでしょ、と胸を張る真琴に聞こえないように、水無月がぼそぼそと呟く。
「まあ、アレはかなり変人だから、気にするな」
「言われなくても」
 ごんっ。
「……だから、保健室で怪我を増やすな」
「怪我の内に入りませんよこのぐらい。怪我って言うのは…」
「お、おいっ…」
 そして、尚斗は気を失った。
 
 目が覚めると、目の前に綺羅がいた。
「……?」
 状況を確認するため、視線を動かそうとするより早く。
「保健室よ、尚斗くん」
「……はあ」
 それは全然状況説明になってないんですがと思いつつ、尚斗は曖昧に頷いた。
「……ちなみに、もう夜なの」
「うそおっ?」
 などと慌てて起きあがり、窓の外に視線をやる尚斗。
「……」
「水無月先生と、真琴さんは…その、飲みに行くと」
「……」
「あ、でも、尚斗くんをほったらかして、とか、そういう意味じゃなくて、私が見てるって言ったから…」
「いやまあ、『ほっときゃ目も覚ますし、子供じゃないからどうにかして帰るだろ…』とか言ったんじゃないですかね?」
「……」
 沈黙は、時として言葉以上以上に雄弁で。
「あの、お家の方にはちゃんと連絡はしたから…」
「……どうも」
 綺羅に向かって頭を下げる。
「……」
「……」
 じゃあ、帰りますから……ともいいづらい雰囲気の中で、尚斗はようやく口を開いた。
「藤本先生は…」
「は、はいっ」
「いや、その…なんつーか、ねーちゃんの結婚というか、父親の再婚つーか…どう、思ってるんですか?」
「……どういう意味、なのかしら?」
 どこか微妙に硬い表情で、綺羅が呟く。
「いや、まあ……ねーちゃんと、話してる感じでは、ちょおっと反対っぽいのかな、と」
「……真琴さんは、素敵な相手だと思いますよ」
 と、綺羅はちょっと口をつぐみ……苦笑混じりに呟いた。
「義理の母親になるのが、自分の同級生という点でとまどいは覚えますけど」
 あのねーちゃんじゃなくて、同級生って部分が引っかかってるなら、まあ、問題のないレベルだよな……と、尚斗は心の中で安堵のため息をついた。
 と、同時に……『反対してる』という事を否定してないことにも気付く。
「……」
「……私は」
「え?」
「尚斗くんを、『叔父さん』と呼ぶつもりはありませんから」
 そう言い残し、綺羅は逃げるようにして保健室を出ていった。
 
 ちなみにこの後、尚斗は家へ帰ろうとして校内の警備システムにひっかかって、ちょっとした騒動になってしまったり。(笑)
 
「つまりだ」
 一晩考え、辿り着いた結論。
「俺みたいな人間が身内になるのは恥ずかしい、そういうことではないかと」
「……」
 珍しく真琴がこけた。
「ど、どーしたねーちゃん?」
「……ど」
「ど?」
「どこをどうやったら、そういう結論に達するんじゃっ!」
 地面を這うような位置からの超アッパーから、返しの打ち下ろし。
 文字通り叩きのめした尚斗に目もくれず、こめかみのあたりを押さえて首を振る真琴。
「ダメだこいつ、早く何とかしないと…」
「うん…ちょっとまずい…かも…救急車…呼んでくれ…」
「え?」
 首のあたりが、あり得ないぐらい痛い……っていうか、意識ははっきりしてるのに、少しずつ手足の先から感覚が消えていくのが、すげえ怖い。
「ありゃ、意外とこれは…」
 ちょいと慌てた感じで尚斗に駆け寄り…首筋、背中、腰……真琴の手が忙しく尚斗の身体をさぐる。
 こきっ、こきこきっ……ぐりぐりっ、めききっ。
「ふんっ」
 ごききっ。
「……あ、なんか、あったかくなってきた…」
 手足に血が通っていく感覚とでも言うのか……自分がまずい状態から回復してる実感を覚えて、尚斗は安堵する。
「……これでよし」
「……まあ、つっこみたいところだが、一応礼を言う」
「うん、感謝の気持ちは大切だからね」
 と、さすがに悪いと思ったのか……真琴の返答に、いつものキレがなかった。
「……で?」
「ばらしたら、絶交のあげくに、どんな手段を使っても結婚を阻止するって脅されてるから言えない」
「あぁ…結構たくましいところもあるんだ、藤本先生」
「……これでも気付かんか」
 と、真琴が大きくため息をつく……が、多分馬鹿にされてるんだろうと判断して、尚斗はそれを無視した。
「つーか、口だけにしてもねーちゃんに逆らえるだけで、たくましさ抜群というか」
「まあ……なんつーか、綺羅は、みんなのアイドルだったからな」
「は?」
「だから、あの女子校、いいとこのお嬢様が割といるの」
「そのぐらい知ってるが」
 さて、なんと説明すればいいのか……という感じに、真琴がため息をつく。
「早い話……綺羅の人脈ってのは、なかなか強力なんだ」
「人脈…?」
 尚斗が首を傾げた。
「まあ、そういう頼み事をする性格じゃないけど……綺羅が頼めば、『そのぐらい、おやすい御用ですわ』などと胸を叩いて、その知り合いの父親やら、祖父やら、ものすっごい連中が動き出しかねないと言うか」
「……」
 なるほど、ねーちゃんとは別の意味で、怒らせちゃいけない人なのかも、と尚斗は曖昧に頷いた。
「……まあ、私も別の意味でアイドルだったから、多少の人脈はあるけど」
「……そういや、女子校なのに、バレンタインのチョコとかかなりもらってたな」
 紙袋2つ下げて、学校から帰ってきてた……そんな光景をおぼろげに思い出しながら、尚斗が呟く。
「あの1年分だけで、俺は一生追いつけん」
「……数だけもらってもね」
「いや、馬鹿にするかも知れないけど、チョコの数は男のステータスっつーか、正直ああいうのはちょっと憧れる」
「……へえ」
 そういうものか……という感じに、真琴が頷いた。
「と、こんな時間か……学校、行ってくる……とと?」
 足がよろけて、尚斗は壁に手をついた。
「悪いことは言わないから、今日は一日安静にしてな…」
 
「有崎の野郎、ついにばっくれやがったっ!」
「許すまじ」
 太陽の光のように、乾いた大地を潤す慈雨のように……それを独り占めすることなどもってのほか……と、特別に綺羅に目をかけてもらっているように見える尚斗に制裁を加え続けて早半月。
 毎日毎日飽きもせず、尚斗に暴行を加えていた(多少の反撃あり)男子生徒連中が、意気天を衝く感じに雄叫びをあげる。
 もちろん、水に落ちた犬はとことんまで沈めてやろうじゃないか……という、暗い情念の漂うあれなのだが。
 連帯感を抱いた多人数の気分が昂揚すると、大抵はよろしくない方向に暴走するモノだが、この連中……よせばいいのに、学校をサボって尚斗の家へと向かったり。(笑)
 そして彼らは、恐怖の深淵をのぞくことになる。
 
 次の日。
「……今日は、欠席者が多いようですね」
 出席を取り終え、綺羅は生徒達に向かって語り出す。
「皆様方も、健康には十分に注意して…」
「……ってゆーか、休んでるの男子ばっかじゃん」
 などと、紗智が呟く。
「……今年の風邪は、タチが悪いって言うからな…」
 名付けるなら、真琴風邪……と心の中で尚斗が呟いたり。
 
「よーう、有崎の弟」
「ども、ご無沙汰してます」
「保健室だからな、ご無沙汰するに越したことはないね」
 そう言って、薫がちょっと笑い。
「有…えーと、真琴のおかげだろ?」
「……結果的には」
「そうかい?」
 仲の良い姉弟だねえと冷やかすような笑みを浮かべて。
「お前が毎日どんな怪我をしてるか詳しく話を聞いて、どんな連中が関わってるか……とか、色々調べてたみたいだぞ」
「……なるほど」
「……曲がりなりにも男なんだから、ちょっと鍛え直さなきゃな、とも言ってたが」
 と、この言葉は少し気の毒そうに。(笑)
「まあ、まがりなりの野郎ですからね」
「拗ねるなよ……つーか、本当は、綺羅がきちんとやらなきゃいけないんだがな、仮にも教師なんだし」
「おとなしく教師の言うことに従うような連中ばっかじゃないですからね」
「ふむ」
「相手が藤本先生だから、言うことをきく……のもちょっと違うでしょう。そもそも、そういうのが嫌いな人だと、俺は思いますし」
「まあ、良くも悪くも純粋だからなあ、綺羅は……そのせいで、有崎は……ああ、お前じゃなくて姉の方だ……つかなくてもいい嘘を、色々とついてたな」
「……ねーちゃんと、藤本先生って、高校の頃から、そんなに仲が良かったんですか?」
「まあな……2人が出来てるとか言う噂が流れたぐらいだし」
「……はあ」
「あはは、まあ、女子校ってのはそういうのがあるんだ」
「……男子校でもありますけどね」
「いや、男子のそれはイジメだろ、多分……女子のはもうちょっと明るい感じの…って、別に力説することでもないか」
 と、薫が苦笑した。
「つーか、ねーちゃんの友達とか、ほとんど知らないんですよ……家に連れてくるとか、そういうのは全くなかったんで」
「……」
 薫がちょっと、妙な表情を浮かべて……視線を逸らした。
「……水無月先生」
「なんだ?」
「藤本先生が、俺にちょっかい出す理由とか、知ってます?知ってますよね?」
「残念、ちょっと遅かったな」
 と、薫が片目をつぶって。
「この前、ちょっと口止めされた」
「むう…」
「綺羅も怖いが、約束を破ると真琴が怖い」
「なるほど……じゃあ聞きません」
 それは、無理強いも出来まい……と、尚斗がため息混じりに呟くと。
「まあ、なんだ……真琴の弟ってだけでも、すごいと思うぞ、私は」
「……ものすごい複雑な誉められ方なんですが」
「ふむ、人生経験が不足しているな……まあ、高2じゃ仕方ないか」
「は?」
「『真琴の弟ってだけでも』って言っただろ、今。それはつまり、それ以外にすごいと思えることがあるって事だ」
「……?」
「ちなみに、さっきの質問に対するヒントな、これ」
 
「尚にーちゃん、昨日マコねーちゃんに会ったよ」
 と、嬉しそうに麻理絵。
「おお、変わってないだろ?」
「うん」
 と、頷き……5年前までは見たことの無かった笑みを浮かべて。
「色々聞いちゃった」
「い、色々?」
「うん、色々」
「……あのー、麻理絵さん?」
「尚にーちゃん、私甘いモノとか好きだよ」
 にこにこにこ。
「みちろー…こいつとは別れた方がいいぞ」
 と、小声で呟いたのだが、聞こえたようで。
「残念でした……みちろーくんとは、遠恋でもらぶらぶです」
「臆面もなくらぶらぶときたか…」
「ちょっとしたきっかけがあれば、相手は尚にーちゃんだったかも知れないのに」
「男っ、俺もみちろーもっ、男だからっ」
 尚斗がそういい返すと、麻理絵はちょっと拗ねたように。
「私、尚にーちゃんのそういう無神経で鈍いところが、昔から嫌いだったよ…」
「え?」
「ふん、だ…」
 すたすたっと、尚斗から離れていく麻理絵に代わり、背後から紗智がぽんと肩を叩く。
「なんだよ?」
 ぽん。
「だから、何だよ?」
「そっか、アンタのせいか…」
「は?」
「アンタと麻理絵がくっついてれば……いやいや、人生は皮肉よねえ」
「何の話だ?」
 紗智は呆れたような表情を浮かべ、口元だけでへらっと笑った。
「ホントに、鈍いのね……友達づきあいするには、悪くないとは思うけど」
 
「……ねーちゃん」
「あ、おかえり……どーしたの、いきなりへたりこんで?」
 学校から帰ってきて、自分の部屋で姉がえっちなDVDなぞを鑑賞している光景など見たらそういう事もあるだろう。(笑)
「つーか、アンタが持ってるえっちなの、これだけ?」
「持ってるつーか、知り合い経由で回ってくるんだよ」
「……〇姦?」
「……考えようによっては、間違ってないかも知れないけど、女の口からそういう言葉は聞きたくねえっての。一応、俺にだって、多少は女性に対する願望っていうか希望っていうかぐらいは…」
「ああ、そういう話はいいから」
 と、真琴は面倒くさそうに手を振り。
「で、アンタはどういうのが趣味なの?女教師モノとか、ないわけ?」
「半年前ぐらいまでは、流行ってたな」
「……で、今は、金髪モノと?」
「悪かったなっ、回ってきたらそりゃ見るよっ!そのためにDVDまで買ったさっ」
 少年特有の純真さが故の逆ギレに、真琴は付き合うこともなく。
「……写真集とか、ないわけ?」
「弟の下半身事情を暴いて、楽しいのかよっ!?」
「まあ、楽しくないと言えば嘘になるけど」
「でてけっ、今すぐでていけ」
「アタシの部屋よ」
「俺の部屋だっ!」
「ほら、よく言うでしょ。お前のモノは…」
「ねーちゃんに与えられてる権利を、俺から奪おうとするなよっ!」
 
 そんな次の日。
 
「皆様方、おはようございます」
 などと挨拶する、綺羅の髪型がちょっとばかり変化していて。(笑)
 先生、髪型変えたんですか……などという生徒からの質問に、『ええ、少し気分転換に』などと答えながら、ちらちらと尚斗の反応を窺っていたりする。
 良く見れば、化粧の仕方がほんの少し変わっていたりもするのだが……当の尚斗は。
「……眠い」
 ゲーム疲れで、ろくに前を見ていなかったりする。
 こん。
「……ん?」
 頭に何かぶつけられた感触で、尚斗は身体を起こした。
 こん、こん、ごん、どか、どす、ぐしゃ。
「何しやがるっ!」
 筆箱から鞄まで、男子生徒の投げつけたモノを払い落として(いくつかは命中)尚斗が立ち上がった。
「うるせー、有崎のくせに」
「どういう理論だ、そりゃっ!?」
 などといきり立つ尚斗の隣で、被害を受けぬように頭を低くした麻理絵がため息混じりに呟いた。
「席替えして欲しいな、ここ」
 
 2月13日。
 明日は引っ越しでろくに見ることも出来なさそうな、女子校の校舎を眺めながら、尚斗が呟く。
「やれやれ」
「どうしたの、尚にーちゃん?」
「ん、いや……明日からは、また男子校通いかと思ってな、ちょっと」
「……尚にーちゃんとも、明日でお別れだね」
「家は近所じゃねえか」
「……」
 尚斗をジト目で睨みながら。
「へえ、あの尚にーちゃんが、そういうこと言うんだ……うわあ、どの口で、そういうこというのかなあ…」
「すまん、悪かった…」
 形勢の不利を悟って、尚斗はおとなしく頭を下げた。
 中学校で、新しい知り合いが増えて……にしても、ちょっと歩いて『よう、久しぶり』などと会いにいくぐらいの事がどうして出来なかったのか。
 確かに薄情者と言われても……。
「……あれ?」
 頭を下げたまま、尚斗はちょっと首をひねり。
 だったらそれは、麻理絵だって同じ事が言えるような…。
「女の子の方から、会いに行くのはちょっと勇気がいるよ…」
「……そういうもんか」
「そういうものだよ……」
 と、これは少し寂しげに。
「……え?」
 勇気って…。
「……」
「それって、まさか…」
「尚斗君、それ以上言ったら、ひっぱたくからね」
 と、右手を構えた体勢で麻理絵。
「いや、でも…」
 ぺち。
「尚斗君のばーか、鈍感、無神経」
 小学生のような悪口を残して、麻理絵が駆けていく。
 『尚にーちゃん』から『尚斗君』への変化が、2人の間に出来た壁のようなモノを意識させ……追いかけた方がいいという気持ちと、追いかけちゃいけないという相反する気持ちが尚斗の身体をその場に縛り付けた。
「……麻理絵に口止めされてたけどさ」
「うおっ」
 慌てて振り返る……と、ちょいと元気のない紗智が、麻理絵の駆けていった方向を見つめながら言葉を続けた。
「みちろーとあんまりうまくいってないみたい」
「え、でも、あいつ…らぶらぶって」
「さあね、自分で考えたら」
 と、紗智もまた尚斗に背を向けかけたが……あらためて尚斗に向き直った。
「あのさ、わざわざ麻理絵が今になって、そういうこと言ったって意味わかってる?」
「え、いや、みちろーとうまくいってないっていったって…」
 ちょっぷ。
「自意識過剰……でもないのかな」
 と、紗智はため息をつき。
「私は麻理絵じゃないから違うかも知れないけど、アンタにはうまくいって欲しいって思ってるんじゃない、きっと」
「うまくいくも何も、相手が…」
 右前蹴り。
「……あら、かわされた。ショックだなあ、これでも空手2段の腕前なのに」
「身内に、格闘名人がいるもんでな」
「ふーん」
 興味なさそうに紗智は頷き、今度はちゃんと背を向けて。
「じゃ、帰るね…」
「おう……気をつけてな…」
 
 こんこん。
「……開いてる」
「……まだ起きてるの?」
「起きてるも何も、まだ12……」
 真琴に示そうとした時計の針は、既に3時を過ぎていて。
「あれ?」
「何か……あったの?」
「あ、いや…」
「話しな…楽になると思うなら」
「……麻理絵って」
「まりちゃんが、何?」
「……俺のこと、好きだったのかなあ」
「……」
「……」
 時計の秒針がきっかり1周。
「……い、今更、何言ってんの?」
「いや、あの頃、そんな気配なんか、これっぽっちも感じなかったからさ……なんだよ?」
 麻理絵の家のある方角に向かって合掌している真琴に、尚斗はちょっと苛立って。
「言ってくれなきゃ、わかんねーだろふつー」
「わかれ。男ならわかれ」
「紗智は紗智で、俺がうまくいくように、麻理絵がわざわざそう言ったとかなんとか、わけわかんねーつーの……だからなんだよ?」
 尚斗を無視するように、麻理絵の家のある方向に向かって合掌し、真琴は何度も何度も頭を下げて。
「その、紗智って子の家はどっちにあるの?」
「しらねー」
「……我が弟ながら情けない」
「だからぁ…」
「アンタは明日に備えて寝てな」
 
 2月14日。
 
「……なんだ、ありゃ」
 大荷物を抱え、ふらふらと危なっかしい足取りの綺羅を見かけて、尚斗は首を傾げるより先に駆け寄って、それを支えた。
「あ、ありがとうございま…尚斗くん?」
 ずざざっと、さっきまでのあぶなかっしさはどこへやら、見事なバックステップで、尚斗との距離をとる綺羅。
「いや、重そうだったので……余計な手出しして、すんません」
 ちょっと頭を下げ、尚斗はその場を…。
「いえ、そうではなくて…これは、その…私が、運ばなきゃいけない荷物なんです」
「……はあ?」
 なんのこっちゃ、とは思ったが、尚斗はもう一度頭を下げた。
 プレハブとはいえ、男子校の新校舎に色々と荷物を運び込んだり……今日一日、男子生徒は色々と忙しい。
 手出し無用というなら、余計なことに頭をツッコム必要もない。
 
「……やっと終わった…けど」
 教室やら、専門教室やら、職員室やら…業者に頼む金をけちって、生徒をこき使ってんじゃねえの、と勘ぐりたくなるような重労働のすえ、引っ越し作業が終わったわけだが。
 尚斗はあらためて、教室の中を見渡し、床をばんばんと踏んでみる。
「すっげえ、プレハブだな」
 大雪でつぶれた前の木造校舎はぼろだったが、少なくとも、ちょいと敬意を払いたくなるような存在感だけはあった。
「おーい、作業の終わった生徒は一旦、女子校にもどれってよ……校舎を貸してもらった礼って言うか、なんか、式っぽい事やるんだってさ」
「……一旦じゃなくて、ずっと戻りたい…」
 などとぶつくさ言いながら、男子生徒が足を引きずりながら歩き出す……既に時刻は夕方だ。
 
「……なるほど」
 自分のクラスで受け持った男子生徒達に、綺羅がチョコレートを配っているのを見て、今朝の大荷物はアレか……と、尚斗は頷いた。
「……義理チョコもらっても、むなしいだけだしな」
 名残惜しそうに女子校を眺めている男子生徒連中に背を向け、尚斗は歩き出す。
「まあ、学校ってのは……ただの入れ物だよな」
 男子校とか、女子校とか……結局、そこに誰がいるか……が問題で。
 男子校と違って、女子校には女子がいた……それは確かだけど、でも女子がいたってだけじゃあ、意味がない。
 考えてみれば、姉の結婚話とか(まだ根本的な問題は棚上げ中)、男子連中に毎日毎日嫉妬による暴行を加え続けられたとか……女子がどうのこうのとかいう以前の日常だけで一ヶ月が過ぎただけで。
「……くんっ」
「そういや……結局藤本先生はなんだったん…」
「尚斗くんっ」
「うおっ」
 背後からまともにタックルをくらい、尚斗は校門の支柱に思いっきり頭をぶつけた。
「お、おおおお…」
「な、尚斗くん、大丈夫、尚斗くん?」
「い、いきなりタックルは…やめた方がいいと思います…」
 
「くちゅん」
「…大丈夫、結花ちゃん」
「ああ、夏樹様…大丈夫です」
 結花はちょっとうなずいてみせ、バレンタイン公演の後かたづけの指示に走り出した。
 
「それで…なんですか、一体?」
 まあ、今日で最後と思えば……つーか、男子連中が色々やるだけの話で、別にこの人が悪いんじゃないよなと思えば、別にこのぐらいは何でもない気がして。
「あ、あの…」
 綺羅はちょっと恥ずかしげに俯き……ぽつりと。
「き、今日は…その2月の14日ですので…」
「ああ、チョコなら別に…」
「ちょっとこっちへ…」
「え?」
 腕をとられ、綺羅にひかれるままついていく尚斗……というか、自分の手を握る綺羅の手の熱さが妙に印象的で。
 
「あ、あの…真琴さんから…聞いたんですが……」
 放課後の、誰もいない教室。
 教壇に綺羅。
 教卓を挟んで尚斗……そして、周囲の大きな紙袋の数々。
「では、あらためて…」
 ぎゅっと目をつぶり……恥ずかしそうに、紙包みを1つ尚斗に向かって差し出す綺羅。
「えっと、ありがとう、ございます…」
 上気した顔で目をつぶられると、紙包みがなかったら別の意味に勘違いしそうだよな……などと、どぎまぎしながら尚斗はそれを受け取った。
「えっと、じゃあ、次の…」
 と、大きな紙袋からまた1つ、さっきとは別の紙包みを取り出して、また尚斗に向かって差し出す綺羅。
「……えっと、ねーちゃんから何をきいたんですか」
「あ、その……いっぱい、チョコを…もらうのに、憧れる…と」
「……」
 尚斗は、周囲の紙袋を見渡して。
「え、ちょっと待ってください。まさか、これ、全部…?」
「た、足りませんでしたか…?」
「いや、足りるも足りないも…」
「お、お給料3ヶ月分は無理でしたが…なんとか1ヶ月分で…この前の連休に、手作りも…」
「1ヶ月分って…」
 10万?20万?
 全部チョコに?
「な、なんで…?」
「それは…その…」
 恥ずかしげに俯いてしまう綺羅。
『女の子の方から会いに行くのは、ちょっと勇気がいるよぅ…』
 昨日の、麻理絵の言葉が思い出されて。
「え、あ、う…」
 それはつまり、これまでのは冗談でも何でもなくて……アレなんでしょうか?
「な、何で…」
「ですから…その…」
「じゃなくて…藤本先生、美人じゃないですかっ。いや、滅多にお目にかかれないぐらい美人ですよ」
「…ぁ」
 かあああっと、綺羅が赤面、耳まで赤く。
「なんで、俺みたいな相手に…」
「……こ、高額で取り引きされた絵画に対して、誰もが同じ価値を認めるわけではありませんよね」
「…?」
「な、尚斗くんや周りの人が、尚斗くんに対してどういう価値をつけようとも、私にとっての、尚斗くんは…その、素敵な、王子様です」
「王…子?」
 聞き慣れないメルヘンチックな言葉に、尚斗は精神的にちょっとよろめいた。
「……」
 教壇に立っている分、綺羅の方が少しだけ尚斗より目線が高くなっているのだが……その綺羅がいっぱいに背伸びして、尚斗の頭に手を伸ばした。
 白魚を思わせる指先が、尚斗の髪の毛を探り……頭頂付近の、傷痕を愛しげに撫でる。
「私を、守ってくださった…証です」
「……へ?」
「尚斗くんが、覚えてなくとも……私は、覚えています」
「……」
「尚斗くんは……私より、背の小さかった、貴方が……体を張って私を守ってくれました」
「いや、その…」
 記憶が…。
 そう言いかけた尚斗の唇を、綺羅のそれがふさいだ。
 違いはあれど、2人にとって永遠とも思える時間が過ぎ……綺羅は恥ずかしげに微笑んで、唇を指で差し。
「この、責任…とってくださいますね」
 
 がらん、ごろん、がらん…。
 
 祝福を告げる教会の鐘に送られ、真琴と、綺羅の父親が、拍手の中歩んでいく。
 ライスシャワーやら、ブーケトスやら……結婚式に、色々モノを投げる行為が多いのは、結婚という行為が、人生をそのものを投げるモノだからだ……そんな悪意に満ちた一文を思い出した尚斗だったが、少なくとも目の前の光景からはそれが正しいとは思えず。
 まあ、結局……尚斗の両親は、真琴の実力行使によってこの結婚を認めざる得ないようにされたのだが、それはまた別の話である。
「……綺麗ですね、真琴お義姉さん」
「……お義母さんでは?」
「でも…尚斗くんの、お姉さんですから」
 間違ってませんよね……と微笑む綺羅の笑顔。
 最近、真琴や、女子校校医の薫の言う、綺羅の怖さが、少しずつわかってきたような気がする尚斗だが……それは既に手遅れとも言う。(笑)
 中学校の時のちょっとばかり女性不信に陥った経験や、その他諸々を含めて……綺羅という存在が、尚斗の心を優しく癒し、支え……真琴曰く、『洗脳されたか…』とため息をつく感じに(以下略)。
「……ブーケトスが、始まるみたいだけど?」
 尚斗が促すと、綺羅はちょっと拗ねたように。
「必要…ですか?」
「え?」
「これからの、私達2人にとって……必要になるんですか?」
 そんなモノが無くても、この先、2人の歩んでいく道は決まってますよね……そういわんばかりの視線。
「あ、いや、そういうわけじゃ…」
 弁明を始める尚斗から、顔を背ける綺羅。
 気分を損ねたのを知らせると同時に、それは、尚斗に仲直りの行為を求める意思表示。
「あの、周りに人が…」
「私は、構いません」
「えっと、今日の主役は、ねーちゃん達…」
「大丈夫です…」
 などと、既に目をつぶって、準備オッケーの綺羅……でも、やっぱりちょっと恥ずかしげに頬を染めてたり。
 しゃーねえ、覚悟を決めるか……と、尚斗は素早く周囲を確認。
「じゃあ…」
「はい…」
 かこーん。
 花嫁のハイヒールが、尚斗の頭部を直撃する。
 周囲の人間は平然としているため、まさしく目にも止まらぬ早業だったのか。
「ねーちゃんが、角を立ててます」
「……真琴さんってば」
 残念そうに呟き、綺羅がため息をついた。
 
 
                   完
 
 
 1月はちょっとばたばたしていて(日記参照)、2月に入り『さて、チョコキス…何周年だっけ』などと、いつもの創作に取りかかろうとして。
 『ちびっこばっかだからなあ…綺羅とか、御子あたりをメインで行きますか』などと考え、キーボードの前で沈思。
 最初に思いついたのは御子のネタでしたが、『これは、本編(偽チョコ)で使おう』と思い、再び沈思。
 考えてみたら、偽チョコでは綺羅とか、麻理絵とか汚れ役で可哀想だよなあ……純粋で可愛い綺羅とか麻理絵とか、久しぶりに書きたいなあ……などと。
 それなら、『裏チョコ』の設定で書けばいいじゃん。
 
 などと、書き始めたのはいいのですが……2月14日までに書き上がるはずもなく。
 
 前にちょっと対談で『裏チョコは、主人公の姉と綺羅が知り合い』などと語った記憶がありますが、その設定で綺羅ルート一直線というか、あまり他の設定に触れないように話を進め、後半は後半で、結局尚斗は綺羅をどうやって助けたのか……あたりはすっ飛ばして書きました。
 量が、半端じゃなくなりますから……偽チョコの有様を見ればわかると思いますけど、『2009年』のタイトルが偽りありになりますから。
 まあ、5月になったけど……読み手のみなさんが楽しんでいただけたなら幸いです。ピュアな(?)綺羅とか、可愛い麻理絵に新鮮さを感じてくれたなら、これも幸いです。
 
 しかし、給料3ヶ月分のバレンタインチョコって、何のネタだったかなあ……。(笑)

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