テーブルの上に頬杖をついてじっと尚斗を見つめる夏樹の瞳は微かに潤んでいて。
 そんな夏樹の視線に少しとまどったような表情こそ浮かべたが、顔を背けたりすることもなく尚斗もまた夏樹を見つめ返す。
「……いつもごめんね、尚斗くん」
「いや、別にそんな…」
「だって…大学受験直前なのに、私ったら…つい、尚斗くんに甘えて…」
「いや、だからですね…別に迷惑とか思ってないですから。つーか、そんなに人間出来てませんから、迷惑なら断ってます」
 嘘は言ってないものの、どことなく本心を語っていない感じが見え隠れする尚斗の態度に、夏樹は微かに眉をひそめて。
「迷惑じゃない…だけなのかな?」
「……え?」
 夏樹の手が頬から離れ……ゆっくりと尚斗の方にのばされる。
「迷惑じゃないとか、気分転換になるとか……女の子に縁がない男子校生だから、どんな形であれ女の子と接することが出来るのは嬉しいとかいう、理由以外の理由は……ないのかな?」
 夏樹の指先が尚斗の手に触れ……拒否されることを恐れてでもいるのか、そっと握りしめていく。
「あ……れ?」
 尚斗の視線が、テーブルの上に置かれた台本と、夏樹の顔を往復する。
「あの…夏樹さん?」
「あら、もうこんな時間」
 さっきまでの潤んだ瞳はどこへやら。
 握っていた尚斗の手を放し、いつもと変わらない表情で。
「いつもありがとう、尚斗くん」
「あ、いや…」
 曖昧に応えつつ、尚斗の視線は台本を追って……さっきの台詞が間違っていることを認識したのだろう、ちょっと心配そうに夏樹を見つめた。
「……どうかしたの、尚斗くん」
「えっと……さっきの台詞がちょっと間違えてたような……公演も近いし、ちょっと気になりまして」
「ん、ちょっとからかってみただけ」
「そ、そうですか…というか、登場人物の名前を自分の名前に置き換えて練習とかしてまずくないんですか?」
 いざというとき間違えたり…
「大丈夫よ」
「……はい」
 夏樹に断言されてしまっては頷くしかない。
 演劇に関して、尚斗は素人なのだから。
「あ、夏樹様……と、有崎さん」
「結花ちゃん、迎えに来てくれたの」「おっす、ちびっこ」
「いいかげん、『ちびっこ』言うのやめてくださいってば……と、夏樹様。そろそろ時間まずいですよ」
「ええ、わかってるわ……じゃあね、尚斗くん」
 やわらかな微笑みを残し、夏樹は結花と共にその場から去っていった。
 
「……ところで夏樹様」
「なに?」
 劇団……一応、夏樹の名字から橘劇団という名前ではあるが、団員の間では夏樹様クラブと呼ばれていたりする……の集合場所へと向かいつつ、結花が妙に平板な口調で呟く。
「いつから、次の公演は恋愛モノになったんでしょうか」
「ゆ、結花ちゃん?」
 うわずった声をあげ、微かに頬を染めた夏樹が結花に視線を向ける。
「すみません、1時間ほどこっそりと見てました」
「ほ、ほとんど最初からじゃないっ」
 文字通り顔を真っ赤にして夏樹。
「さすがは夏樹様……劇団員のみんなは公演の準備で必死なのに、ご自身は別の脚本を書き上げる余裕まであるとは」
「いや、あれは…その…」
「まったく、有崎さんも不甲斐ないというか…夏樹様にここまでさせておいて」
「ゆ、結花ちゃん…」
「というか……芝居と思わないとああいうこと言えない夏樹様も、不甲斐ないですよ」
 夏樹の唇が、何か言いたげにあうあうと動く。
「だ、だって…」
「まあ、有崎さんも受験前ですし」
「そう、そうよね。大事な時期なんだか…」
「夏樹様、それはただのいいわけです」
 ぴしゃりと言い放つ結花……彼女にしては、しかも夏樹相手にこういう言い方は非常に珍しいと思うかも知れないが、演劇部なり劇団運営において結花の手腕は夏樹のそれを遙かにしのいでおり、夏樹をいさめるためとしてのこういう口調は実際問題、そう珍しくもない。
 結花はちらりと夏樹を見上げ、言葉を続けた。
「というか……今度の公演、有崎さんが見に来たらどうするんです?」
「……ぁ」
 やっぱりそこまで考えてなかった…とばかりに、結花が小さくため息をついた。
「まあ、その気になればいくらでも言いくるめられますけど……去年のバレンタイン公演だって、土壇場で脚本変更しましたし」
「……そっか、もう一年経つのね」
 さっきまでおたおたしていた態度が嘘のように、夏樹が空を見上げながら穏やかに呟いた。
「……そうですね」
 同意の言葉と共に唇からこぼれた白霧が、結花にまとわりついたのはほんの一瞬で、すぐに霧散する。
「結花ちゃんにだから言うけど……もうあの時にはね、私、尚斗くんの事好きになってた」
「……知ってます」
「だからね……新しく劇団を作ろうと思ったとき、彼を誘ったんだけど……ちょっと強引すぎたのかな」
 ほんの少し後悔するように。
「……そういう事じゃないと思います」
 空を見上げた夏樹とは対照的に、結花は少しうつむいたままで。
「あの人は、普段はそんな真面目じゃないですけど……他人が困っているときと言うか、人として大事な瞬間に誠実になれる方なんですよ……演劇に対して自分が素人ってのをわきまえて……だから、参加しなかった」
「……そうかしら」
 顔を動かさずに横目でちらりと夏樹を見上げ、結花は言った。
「部外者ですから、私は……よく見えますよ、夏樹様のことも、有崎さんのことも」
「……」
 ふっと夏樹は足を止め……どうかしたのかと振り返った結花の顔をじっと見つめた。
「結花ちゃんを傷つけちゃうかも知れないけど……部外者なの?本当に部外者だったの、結花ちゃんは?」
 そんな夏樹の言葉に耐えかねたように、結花はすっと視線を逸らした。
「……部外者でしたよ。部外者だったんです…あの頃は」
「そう…良かった」
「良かった……ですか?」
 おそるおそると言った様子で振り向いた結花の目に、本当に喜んでいるような夏樹の表情が映る。
「だって…結花ちゃんが好きになるぐらいなら、私の目も捨てたものじゃないって」
「……」
「……結花ちゃん?」
「いえ…ちょっと悩んでたのが馬鹿馬鹿しくなっただけです」
 ため息混じりの結花の言葉に、夏樹はちょっと驚いたような表情を浮かべた。
「そんなことで悩んでたの?」
「そんなこと…って」
「公演前だって言うのに、余裕があるのね」
「な、夏樹様ぁ…」
 さっきのお返しをされたことに気づき、結花は困ったように呟く。
「それに……私は、どうやったら尚斗くんに好かれるかの方で、悩んでばかりだもの」
「……公演を控えた劇団長としてそれはどうでしょうか」
「そうね…劇団運営を任せた誰かがしっかりしてれば問題はないと思うけど」
「……」
「……」
 お互いの顔をしばらく見つめ合い、結花と夏樹は同時に歩き出す。
「とりあえず、ミーティングですね」
「そうね」
 そんな二人の表情からは、先ほどまでの甘さはきれいに消え去り……それでも、二人のそれはどこか幸福を感じさせていた。
 
 
                    完
 
 
 偽チョコじゃなくて、一応チョコキスの一年後という設定で。
 修羅場が好きな高任ですが、この二人の場合どうしてもそういうシーンが浮かばないというか……いや、やれといったら出来ますけど。(笑)
 それに比べて、麻理絵の場合は……どのキャラ相手でも、浮かんでくる浮かんでくる。
 なんだろう、一体何が原因なんだろう……などと、思いつつ5周年。
 
 
 
 
 

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