「尚斗さぁ〜ん〜♪」
「どうした、安寿?」
「みなさんにあって、私にないモノってわかりますかぁ〜♪」
「……」
尚斗はしばらく首を傾げていたのだが。
「え、なんだろ……強いて言うなら、家族の記憶…とか?」
「もう〜私の家族は『尚斗さん』です〜♪」
ぽかぽかと、安寿は尚斗の胸を可愛く叩いた。
「ああ、うん…えーと、安寿は、俺の遠縁の親戚で、両親が事故で亡くなって、俺ん家で引き取った…そういう設定だったよな」
「……」
ぷく。
「いや、自分でそう言ったのに、何が不満か?」
安寿は、ちらっと尚斗を見て。
「私は、『尚斗さんの家族』です〜♪」
「いや、それはもういいから」
「……」
ぷくー。
安寿が再び、可愛く頬を膨らませた。
「何故拗ねる…?」
尚斗も再び、首を傾げるしかない。
やがて、安寿は、はあ…とため息をついて。
「私、誕生日がないんです〜」
「え、そうなのか?女子校に通うにあたって、生年月日とか記入して…」
「てきとーです〜♪」
「あぁ…」
「ついでに、私の事は何っにも気にならないようにしておきましたから〜♪」
「……なるほど」
尚斗は曖昧に頷き。
「それで……どういうことだ?」
「誕生日がないと〜困るんです〜♪」
「困るって……安寿が、か?」
「それは、まあ〜確かに尚斗さんに、お祝いしてもらいたいって気持ちがないとはまったく言いませんけど〜♪」
「そのぐらい、いつでも……っていうか、じゃあ、誰が困るの?」
「え〜と、それは〜」
安寿は、少し恥ずかしそうに目をそらし……しかし、何故かカメラ目線で。
「ほら〜全国1200万の〜私のファンのみなさまが〜♪」
「……?」
「ひゃ、120万ぐらいだったかも知れません〜♪」
「……言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信だと言っておこう」
あの、30年ぶりの大雪から8ヶ月が過ぎて……季節は既に秋。
ようやく残暑も峠を過ぎそうで、南の空に頑なに居座っていた入道雲も、いつの間にか姿を消した。
春は綿、夏は巌、冬は鉛……と雲を形容したのは子規だったか、彼の言葉を借りるなら、これから空に現れるのは砂のような雲だろう。
ただ、それまでには、もう少し時間がかかりそうで。
「……暑くないのか、安寿?」
「平気ですぅ〜♪」
「……平気って事は、暑いって事だよな?」
「エプロンドレスは〜メイドの戦闘服ですから〜♪」
「……うん、まあその件については、もう突っ込まないことにしたけど…せめて、半袖とか…」
「半袖は、未熟者の印です〜♪」
「ああ、そう…」
尚斗は、曖昧に頷く。
意外と……というと失礼なのだろうが、安寿はいわゆる家事全般に関して、ひどく有能だった。
まあ、それはいいのだ……それはいいのだが。
尚斗を幸せにするためにここに派遣された……などと、安寿は頑なに言い張ってはいたが、実質は天界を追放されて居場所が無くなったのだろうと、尚斗は思ったのだが……今ではそのことにかなり疑問を覚えているようだ。(笑)
ただ、例によって……まあ、安寿が困っていないならそれでいいか、と尚斗はそれを追求することもなく、知らず知らずのうちに、何人かの少女の心にストレスをかけまくっているのだった。
ただ、尚斗の父親は安寿の存在に幸せそうだったし、優しい微笑みを浮かべたメイド天使(笑)の存在は、近辺住民の一部に幸せを振りまいているのは確かなことで。
最初の頃は、親の制止にも関わらず、安寿を見物するために近辺の子供たちが有崎家の周りをうろつく光景が見られたが……今は落ち着いたモノだ。
時折、スーパーなどでメイド姿の安寿を見てぎょっとした表情を浮かべる人間がいるにはいるが、安寿の存在はゆっくりと、しかし確実に認められつつある。
それはおそらく、天使としての力だけではないだろう。
人間とか、天使とか……尚斗に言わせれば、そんなことは些細なことだ。(笑)
無論、安寿に言わせれば、尚斗のそういうところは、『とんでもない』のだろうが。
「……」
「……」
尚斗と安寿は、何となく見つめ合い……微笑んだ。
そして、ほぼ2人同時に玄関の方に目を向け……しばらくしてから。
ぴんぽ、ぴんぽ、ぴんぽーん〜♪
けたたましくなるチャイム音に尚斗は苦笑し、安寿は、聞こえない程度に『ちっ』と舌を鳴らした。
がちゃ、がちゃがちゃ。
「今開けるって…」
尚斗が、玄関のカギを開けると同時に。
「やほー」
「『やほー』じゃ、ねえよ」
との尚斗の言葉に、紗智は、ちょっと首を傾げて。
「いただきます…?」
「どの方向のツッコミが、お望みなんだよ、お前は…」
「いいじゃん、別に……アタシだって、ご飯は美味しく食べたいし」
「そりゃ、まあな…」
などと頷いた尚斗の背後で、『や、そこはもうちょっと、押し返しましょうよ〜』などと、安寿が首を振っていたりする。
「ただ、俺や安寿と一緒に飯を食った方が美味いってのは、ちょぉっと、心配なんだが」
「んー、親子ったって所詮は人間だからね、相性ってもんがあるのよ」
と、紗智は、尚斗の背後の安寿に向かってウインク一発。
安寿はにこにこと微笑んだまま、玄関のドアの外を指さす……心温まる光景をといえよう。
「ん?」
尚斗が振り返ると、安寿はさりげなく体操をしてごまかす。
「……っていうか、尚斗。おじさんは?」
「出張」
「うわ、天野さんと2人きりだと、間がもたないでしょ?泊まりに来ようか?」
ぱちん。
紗智の目が焦点を失い……そのまま倒れそうになるのを尚斗が受け止めた。
「……安寿」
「幸せなら、手を叩こう〜♪」
「いや、一応、紗智は安寿のことを心配したんだと思うぞ」
「絶対に、違いますぅ〜♪」
そう、否定しながらも……安寿は微笑んでいた。
「さて…」
と、尚斗が気を失ったままの紗智を背負って……ちなみに、美味しく朝食をいただいたという記憶を安寿に埋め込まれている。(笑)
「……んじゃ安寿…」
「はい、留守はお任せください、ご主人様〜♪」
深々と安寿が頭を下げる。
「……あの時みたいに、学校とか通うつもりないのか?」
「尚斗さんがいませんから〜♪」
「んー」
尚斗は頭をかき。
「俺はさ…その、なんだ…安寿に幸せを感じてもらいたいよ」
「簡単ですよ〜♪」
「そうかな……なんか、安寿はみんなの幸せを考えるばっかりで、自分のことがおざなりになってる気がするんだけど」
安寿が、無言で空ツッコミをいれた。
「……?」
「いえいえ、お気になさらずに〜♪」
「……どうしたの、紗智?」
「……何か、お腹空いた…」
麻里絵は、呆れたようにため息をつき。
「尚にーちゃんのとこで、朝ご飯食べさせてもらったんでしょ?」
「うん、そうなんだけど…なんだろ…食欲の秋?」
お腹をお押さえつつ、紗智が不思議そうに首を傾げる。
「……はい」
麻里絵が差し出したそれを、紗智はちょっと見つめ。
「……なに?」
「尚にーちゃんから」
「……なんで?」
「『食欲の秋だから、念のため』って」
麻里絵は、もう一度ため息をついて。
「尚にーちゃんはそういうの気にしないけど、好きな人の前で、ばくばくばくばく、食べるのって、私は、どうかと思うよ?」
ぱくぱくぱく。
「ん、なんか言った?」
「……別に」
最初の頃こそ色々あったが、安寿の生活はいたってシンプルだ。
一言でいうと、有崎家のメイドさん(住み込み)……である。
洗濯したり、テレビや新聞を見たり、買い物に出かけたり、尚斗の母親の持ち物だった漫画を読んだりゲームをしたり、庭の花壇の手入れをしたり、空の散歩を楽しんだり、……などなど。
……なんか、遊びが多くなかったか?
等というツッコミは早計だ。
つまり、そんなことができるぐらい、安寿の家事の腕前が優れていると前向きにとらえていただきたい。
そして今は、尚斗の帰りを待ちつつ、夕飯の準備。
「……新婚夫婦みたいです〜♪」
ぴんぽーん。
「……邪魔さえ無ければ〜」
安寿はため息をつき、ガスの火を一旦止めた。
「はいは〜い〜♪」
がちゃ。
「ただいま」
ドアを開けるまでもなく、そこにいるのが誰なのかを安寿はわかっていたが……まあ、一応の礼儀というやつだ。
「お帰りなさいませ、一ノ瀬さん」
「いやあ、アタシは女だけど、メイドさんに迎えられるのって、結構いいわよね」
「お帰りなさいませ〜♪」
「……なんで、二回?」
紗智の後ろで、麻里絵がため息混じりに。
「……自分の家に帰れ、の『お帰りなさいませ』じゃないのかな」
「いらっしゃいませ〜椎名さん〜♪」
「なんで、麻里絵は歓迎ムードなのよ」
「椎名さんは、有崎さんの大事な幼なじみですから〜♪」
「ア、アタシだって、尚斗の大事な友達よ?」
安寿は、ちょっと紗智を見つめ。
「……軽々しく口にすればするほど、言葉は軽くなっていきます」
「……」
「尚斗さんは、私にとっても大事な人ですので〜一ノ瀬さんの逃げ道に使われるのは、ちょっと不愉快なんです〜」
にこにこと微笑みながら、らしからぬ辛辣な言葉を安寿が口にする。
「まあ、一時的に逃げ場所が必要な場合もありますけど〜一ノ瀬さんは逃げ続けているだけではありませんか〜?」
「くっ」
平手打ちにいった腕を抱え込まれ、あっという間に肩固めで押さえつけられて、紗智は自由な方の手でばんばんと玄関口を叩いてギブアップを宣言した。
「見た目で判断しちゃいけません〜♪」
ばんばんばんっ。
「お返事はどうしましたぁ〜♪」
ばんばんばんばんっ。
「……天野さん、その辺で」
「椎名さんが、そう仰るのでしたら〜」
と、安寿が紗智を解放した。
「……薄々感じてたけど、強いんだね天野さん」
「それはもう〜尚斗さんの親戚ですから〜♪」
「ああ、うん……たぶん、おばさんの方の血筋なんだね、きっと」
と、麻里絵が、曖昧に頷いた。
「はあ〜」
ため息をつきつき……安寿は考えた。
さて、今日は、何人分の夕飯の準備をしなければいけないのかと。
「椎名さんはともかく、一ノ瀬さんは、食べる気満々ですし〜」
ぴんぽーん。
「は〜い〜♪」
てってって。
がちゃ。
「あぁ、これは九条さん……姉妹お揃いで〜」
「これ、頂き物だけど良かったら」
「まあ、ありがとうございます〜♪」
「これは、私が作ったモノですが…」
「美味しそうですねえ〜♪」
それぞれ弥生と御子から、果物と総菜を受け取る安寿。
両親を亡くした安寿のことを気遣って、事あるごとに声をかけてくれる九条姉妹の心遣いが……。
「それで、有崎は?」
「あぁ、まだ帰ってません〜♪」
「ふーん、どこうろついてるんだか…」
「また、いつものように、困っている誰かを助けていらっしゃるのではないかと」
……まあ、多少は口実と思えなくもないが。
ことことこと。
「あ、あの…天野さん、もう1品作っていいですか?」
「お料理好きなんですねえ〜御子さんは〜♪」
「は、はい…」
恥ずかしげにうつむき……少し遅れて、ぽつりと。
「あ、有崎さんに…食べて欲しくて」
「ああ〜なるほど〜♪」
御子がますます顔を赤くする。
ぴんぽーん。
「あ…」
「残念ですが、尚斗さんじゃないですねえ〜」
そう言って、安寿はてててっと、玄関に向けて走っていった。
がちゃ。
「こんばんわ、入谷さん〜」
「帰り道の途中で、有崎さんが現れて……ちょっと遅くなるって伝言を頼まれました」
「はあ、それはご丁寧に〜」
「それで、その…ついでに夕飯食べていけって言われたんですが…」
結花の視線が、玄関に並んだ靴へと。
「今日は、何の集まりですか?」
「ああ、おじさまが出張なんです〜」
「……なるほど」
「ですから、入谷さんもご遠慮なさらずに〜」
安寿の言葉に、結花はちょっと自嘲的な笑みを浮かべて。
「せっかく2人きりになれるのに、邪魔されたくはないでしょう?」
「それがなかなか、その段階までは〜」
「ああ、鈍いですもんね、あの人」
「鈍いですねえ〜」
屈託のない笑みを浮かべながら、うんうんと頷く安寿を結花はしばらく見つめ。
「……でも、大変ですね天野さんは」
「……?」
「いえ…有崎さんに…その……もし断られたら、ものすごく居づらくないですか?」
その言葉の意味をとらえかねたのか、安寿は小首を傾げ……やがて、ぽんと手を叩いた。
「それは考えてませんでしたぁ〜」
安寿の物言いに、結花は少し呆れたように。
「……て、てっきり…それを計算して慎重になってるのかと…」
「う〜わたしって、そんな計算高く見えますでしょうかぁ〜?」
「と、いうか……それを隠そうとはしないんですね?」
「隠したところで意味無いです〜♪」
結花は、ふっと小さく息を吐いて……微笑んだ。
「まあ……そっちに余裕が出てくるぐらいなら、安心ですね」
「いつも、お気にかけていただきまして〜」
安寿が深々と頭を下げると、結花は困ったように狼狽えて。
「べ、別に…ついでですから。有崎さんに会いに来る…その、ついでなんです」
「それはどうも〜」
にこにこと、微笑みで結花を見つめる安寿。
なんとなくだが、結花は安寿のそうした視線が苦手だった……どことなく、尚斗のそれを連想させるからかも知れないが。
「……その格好、暑くないんですか?」
「長袖は有段者の証であり、誇りでもあるんです〜♪」
「なんで、メインディッシュが帰ってこないのよ?」
「不服なら、帰ってください〜♪」
「……天野さんって、なんで一ノ瀬さんにはきついのかしら?」
「…相性ですかね?」
ひそひそひそ。
まあ、それはともかく、少女だらけの夕食会。
ぽろり。(笑)
「あ、もったいない」
と、麻里絵が落とした煮物を、紗智が指でつまんで口の中にひょいっと。
「……」
「……」
「3秒ルール。全然平気」
と、九条姉妹に向かって首を振る紗智。
なんだかんだで食事はすすみ……食後のデザートをすませてから、紗智がぽつりと呟いた。
「……っていうか、他人ん家でなにやってんだかアタシ達(ら)」
「……」
それは、そこにいる人間を現実へと引き戻す冷めた口調だった。
「まあ、尚斗さんはみなさんのことを他人とは思っていませんよ〜♪」
と、安寿の言葉に、数名が微かに頬を染めるも。(笑)
「そりゃ光栄…といいたいけど、『人類みな兄弟』のレベルの、他人じゃないって、感じよね?」
紗智が、無表情で再び冷めた言葉を吐く。
「……一ノ瀬さんは、今日は随分尖っていらっしゃいます〜」
「別に。いつも、こんなもんよ」
「そういうときは〜♪」
と、芝居がかった仕草で立ち上がると、安寿はふわりと床の上に座って、自分の膝をポンポンと叩いて見せた。
「どうぞ、こちらへ〜♪」
「……はぁ?」
「耳掃除です〜♪」
「……」「……」「……」「……」
自分に注がれる無言の視線をどう勘違いしたのやら、安寿はちょっと恥ずかしげに頬染めて。
「先日、尚斗さんにしていただいて〜もう、とろけちゃいそうでした〜♪」
ぷち。
「……ケンカ売ってる?」
「紗智。やってもらったら?」
「あ?」
紗智のきっつい視線をさらりと受け流しつつ、麻里絵がお茶をすすって。
「紗智が断ったら、『じゃあ、尚斗さんに〜♪』なんて、言い出しそう」
「……」
紗智は、しばらく視線を泳がせ……憮然とした表情ながら、安寿の膝の上へと頭を転がした。
「……うまいですね、椎名先輩」
「つきあい、長いもん」
結花に視線を向けるでなく、しれっと答える麻里絵。
まあ、麻里絵は麻里絵で、紗智のことを心配してはいるのだ。
「……と、言うか…本当にうまいのは、天野さんだよ」
「え?」
麻里絵はそれ以上結花に言葉を与えず、再びお茶をすすった。
そして、1分後。
紗智は、母の胸に抱かれて眠る赤子のように安寿の膝の上でオチていた。
「また、あっけない…」
「うふふ〜テクニシャンなんです〜♪」
などと、頭上で得意げに語る安寿の言葉に気づきもせず、紗智は安らかに眠り続けていて。
その眠りの深さに疑問を感じる者も……少なくとも、それを表には出さない。
「それで、椎名先輩」
「ん?」
麻里絵が鼻先で返事をする……それを無礼と言うでもなく、また感じるでもなく結花が言った。
「一ノ瀬先輩は、何を荒れてるんですか?」
「んー」
麻里絵は、ここでようやく結花に視線を向けて。
「進路が決まらないからだと思うよ」
「ああ、そんな時期ですね、確かに」
と、結花が頷くのに……麻里絵は少し訂正を求めるかのごとく、言葉を足した。
「紗智はね、好きな人と離ればなれになるなんて考えられない…って人だから」
「ああ……有崎さんの進路が決まらない…ですか」
呟きにも似た結花の返事に、御子はちらと、弥生に視線を向けてから。
「有崎さんは…進学なさるんでしょうか?」
「さあ……と、いうか、有崎の進路が、なんで一ノ瀬さんの進路に関係してくるの?」
などと、不思議そうに弥生が答える。(笑)
「……」
「え、あれ…なに、私、何か変なこと言った?」
「……知りません」
やや拗ねたように御子。
「…?」
見かねたのか、結花が助け船を出した。
「……九条先輩は、妹さんと離ればなれに暮らすことになっても寂しくありませんか?」
「そりゃ寂しいわよ」
「つまり…」
「でも、それで何が変わるってわけでもない」
「……」
「昔と違って、会いたくなったら会いに行けばいいし、手紙だってある」
ただ静かに、弥生の言葉が続く。
「大事に思う気持ちと、依存は違う」
「さすが、秋谷先輩のご友人ですね」
「……何か棘を感じるけど」
「強さは、まわりを傷つけることもありますので」
「……」
「九条先輩に何かをあらためろと言うお話ではありません。ただ、そういうこともある…と知っていて欲しいと思う人間もいると言うことです」
弥生は、結花の目を見つめて。
「……できれば、御子自身に言って欲しかったけど」
「……失礼しました」
と、弥生と結花、2人が頭を下げあった。
麻里絵は小さくため息をつき、安寿に声をかけた。
「天野さん」
「はい〜♪」
「尚にーちゃん、最近家を空けること多くなったんじゃない?」
「そう、ですね〜」
「子供の頃もそうだったの……おばさんが死ぬまでは」
「……」
「おじさん、家のこと何もできないでしょ?」
「はい〜♪」
何故か嬉しそうに安寿が答える。
「放っておくと、パスタをそのままかじってたりしますから〜♪」
麻里絵は、微苦笑を浮かべて言った。
「私の言ってる意味、わかるよね?」
「はい〜♪」
にこにこにこ。
「どういう意味ですか?」
麻里絵が、結花を見る。
「つまりね……おじさんの面倒を見てくれる人がいるなら、尚にーちゃんをこの家っていうか、街にとどめる理由は……まあ、ないってことだよ」
「……」「……」
結花と、御子の視線を感じながら…麻里絵が呟く。
「困ってる人を助けてる内に、ふらふらとあてどもなく彷徨っちゃうの。子供の頃からそうだった」
「なるほど〜」
どこかのんきな安寿のあいづちが、虚ろに響く。
「私の予想を言わせてもらえば、尚にーちゃんはふらっとこの家に帰ってきて……気がつけばまたどこかで誰かを助けてる……そんな生活になると思う」
「うわあ…」
どこか呆れたように、弥生が声を上げ。
「……あ、でも…それって…何か想像できちゃう」
と、納得したように頷く。
「……某浅草出身の風来坊ですか、それは」
と、これは結花だが、言葉を選ぶようにしてそれに応える麻里絵。
「近い……っていうか、別の意味でもすごく近いかもね」
「と、いうと?」
「あの映画の主人公って……なにが『つらい』んだろうね?旅先で好きになった人ができて、でもそれを口にはしない。もし、それが『つらい』っていうなら、正直私は笑っちゃう。好きな人ができてもそれを口にしない。居心地の良い故郷はあるのに、また旅に出てしまう……『つらい』のはきっと、映画の中で語られる何かではなくて、映画の中で語られない『そこにいられないこと』……当たり前の光景に埋没できない何かが、『つらい』んじゃないかな?」
「そんな…」
それに続くはずの言葉は、御子の口の中ではらりとほどけ……結花もまた、同じようにうつむいた。
麻里絵の、毒にも似た『それ』は、たやすく否定できない説得力をもって彼女たちの心を浸食していたのだろう。
弥生もまた例外ではなく、やや硬い表情で無言のまま。
……ただ1人、安寿だけが微笑んで。
「私は〜尚斗さんを幸せにするためだけにここにいますから〜♪」
「……」
「できる限りのことは〜させていただきます〜♪」
麻里絵が、少し呆れたように呟く。
「…強いんだね」
「椎名さんほどでは〜♪」
との安寿の返答に、麻里絵はちょっと口元だけで笑って見せた。
「ありがとうございます、秋谷さん〜」
「別に」
そっけなく世羽子。
「や、子供じゃないんだから、お迎えなんていらないってば」
弥生の言葉に、御子がこくこくと頷く。
「お二人にもしものことが有れば、秋谷さんと尚斗さんに申し訳が立ちませんので〜」
「大げさだってば、天野さんは」
と、苦笑する弥生に向かって世羽子がぴしゃりと。
「そういう台詞は、フル装備の機動隊員5人を鼻歌交じりで相手できるようになってから言いなさい」
「……」
「この国に、何人いるんでしょうか、それ〜」
安寿のツッコミに、ぼそりと麻里絵。
「……この街には、何人もいるけどね、たぶん」
もちろん、世羽子はそれをスルーだ。
「そもそも…」
ちょっと口を閉じ……ふいっと、そっぽを向きながら言葉を続ける。
「私が友人を心配してはいけないの?」
「……世羽子」
弥生が微かに頭を下げ、御子もそれにならった。
世羽子、弥生、御子の3人が有崎家をあとにして……。
「それにしてもねえ…なんで、今日に限って天野さんは世羽子に連絡なんかいれたのかしら?」
「……」
世羽子はさりげない仕草で、先ほど使用して回収してなかったそれを拾い上げ、袖の中にしまい込んだ。
「……世羽子?」
「まあ……彼女は彼女で、なかなかに『できる人』なのよ」
「?」
その後、弥生と御子の2人は何事もなく駅から電車に乗って帰っていった。
「じゃ、紗智のことよろしく」
「椎名さんも、泊まっていけばよろしいのに〜♪」
「私は、送ってくれるとは言わないんだ?」
「あぁ、もう大丈夫ですので〜♪」
にこにこにこ。
「じゃあ、今度会ったら秋谷さんにお礼言わなきゃ」
にこにこにこ。
安寿は微笑むだけで何も答えない。
「ところで、紗智の眠りって奇妙に深くない?」
にこにこにこ。
「わかった。邪魔はしないから、紗智のこと、よろしく」
「……お任せください〜」
「……」
「何か〜?」
「綺麗事、なんだけどね」
「はい?」
「尚にーちゃんにそれを与えることができるなら、そこにいるのが私じゃなくてもいいという気持ちが無くもないの」
安寿はちょっと笑って。
「私1人では荷が重いので〜できれば手伝っていただきたいです〜はい〜♪」
「……」
麻里絵の視線を微笑で受け止めながら。
「私は〜尚斗さんを幸せにするためにここにいますから〜」
「……」
わずかな間。
「……ここに、いるの?」
麻里絵の問いに、安寿は何も答えなかった…。
「……それで、私は邪魔にならないって事でしょうか?」
「私がみなさんを見送っている間に〜洗い物を片づけた上に、お布団の用意までしてくださった方の台詞とは思えません〜♪」
「……じっとしてると、落ち着かないんですよ」
「いっそのこと、一緒に住みませんか〜♪」
「……」
「ほら、下宿みたいな感じで〜♪」
「それ、有崎さんにも言われたんですけどね」
結花は、ちょっと笑って。
「自分がダメになりそうで、怖いんです」
「そ、そうでしょうか〜?」
首を傾げる安寿に、結花は真面目な表情で。
「天野さんは…私とは違うんですね」
「それは〜私と入谷さんは、別の存在ですし〜」
「困っていれば、有崎さんにかまってもらえるんですかね」
「……」
「さっきの、椎名先輩の言葉で気付きましたよ……天野さんが、一ノ瀬先輩にきつく当たるのは、そのせいでしょう?」
「えっと〜それはなんと言いますか〜」
言葉を探す安寿を見て、結花は笑った。
「有崎さんと一緒にはいたいんですけどね……ただ、助けてもらってるだけじゃ、自分で自分を許せなくなると思いますので」
微かに、ほんの微かに、安寿の眉根にしわがよった。
それに気付いた結花は、何か気に障ったのかと謝罪の言葉を口にしかけたが……それを飲み込み、別の話題を選んだ。
「……あの」
「……」
「天野さんは…本当に事故でご両親を亡くされたんですか?」
「いいえ」
「……即答ですか」
「私〜嘘をつくの苦手でして〜」
結花は、一瞬ぽかんとした表情を浮かべ……笑った。
「あの〜ここは、笑うのではなく怒る場面ではないでしょうか〜?」
「有崎さんは、知ってるんですよね」
「はい、それはもちろん〜」
「なら、事情があるって事じゃないですか」
「あります〜すっごく、ありますぅ〜」
そう言うと、しょぼぼんと、安寿は沈み込み。
「あるんですよぉ〜」
……ここで結花は首をひねり。
「あの、ひょっとして…有崎さんもしらない事情があるって言ってますか、それ?」
「だってぇ〜尚斗さん〜おかしいってわかってるはずなのに〜なにも聞かないんですよぉ〜」
「ちょっ、ちょっと…」
結花は、口を閉じ……首を振った。
「あ、私…聞きませんから。これ以上聞きませんからねっ」
「聞きたくないと言われたら〜♪」
「だから、聞きませんって」
と、耳をふさいだ結花の目の前で。
ぱちん。
「ちっちっちっ」
安寿が得意げに一本立てた指を振って。
「持ち上げて落とす〜テレビは勉強になりますねえ〜♪」
テレビ鑑賞を通じて身につけつつある安寿のユーモア感覚は、すこしばかりはた迷惑な方向にベクトルがむきかけているような気がしないでもない。(笑)
「さて…」
紗智と結花を寝かしつけ(笑)、安寿はいそいそと玄関前へ。
スカートをふわりとふくらませて座り込むと、編み物を開始する。
「着ては〜もらえぬ〜セーターを〜♪」
歌のチョイスに問題はあったが、安寿は楽しそうに……実際に楽しんでいたのだが、そうして尚斗の帰宅を待ち続ける。
あみあみあみあみ…。
「完成してしまいました〜」
安寿は、セーターを広げてしみじみと眺め。
「むう〜いい出来です〜」
そして、ため息。
それは何故かというと。
「えーい♪」
ぴー。
……また、解いてしまうからだ。
そして解いた毛糸についているくせを、わしゃわしゃと揉むようにして修正し……また、毛玉に戻してしまう。
「涙こらえて〜編んで〜ますぅ〜♪」
あみあみあみあみ。
まるで、賽の河原である。(笑)
いや、それをしている安寿はいたって楽しそうではあるのだが。
尚斗の帰りが遅いとき……安寿はいつも、玄関先で尚斗の帰りを待っている。
それは、早く帰ってこいというプレッシャーをかけるためではなく。
……決してそういうわけではなく。(笑)
『お帰りなさい』と、声をかけるためだ。
それはそれで重いと思うかも知れないが、尚斗と別れ、そして再会し……安寿は、日々の生活の中でそのことを決めた。
あみあみあみあみ…。
「……」
ふっと、安寿の手が止まる。
先の麻里絵の言葉。
『私の予想を言わせてもらえば、尚にーちゃんはふらっとこの家に帰ってきて……気がつけばまたどこかで誰かを助けてる……そんな生活になると思う』
「それが…今夜ではない保証はないんですよね〜」
あみあみあみ…。
編み物を再開し……また手を止める。
元々得意分野だったのだが、最近はさらに磨きがかかって……というか、セーターを編み上げるのまでに2時間とかからなくなってしまった。
「……別の時間つぶしを考えた方がいいんでしょうか〜」
あみあみあみ…。
あみあみあみ…。
あみあみ…。
あみ……。
……。
…ふわり。
身体が浮き上がる感覚…。
『あ、落ちちゃいます…』
ばっさ、ばっさ、ばっさ…。
「うわ、待て、こら…安寿」
「……はい〜?」
目を開く。
「……お帰りなさいませ〜」
「ただいま……っていうか、玄関前じゃなく、布団で寝ろ」
「ね、寝てませんよ〜」
「……」
「だって、天使には睡眠は必要ないです〜」
尚斗はちょっと首を傾げ。
「そうなの…か?」
「そうです〜」
「……んーと、必要がないってのと、寝ないってのは…別、なんだよな?」
「ん〜難しいことはわかりません〜♪」
わさわさわさ…。
「いや、その…安寿。羽が、くすぐったいんだけど」
「くすぐってますから〜」
「なるほど……っていうか、じゃあ、安寿はここに来てからずっと寝てなかったのか?」
「……えっと〜」
安寿は、自分をのぞき込む尚斗の視線からちょっと顔をそむけて。
「そういうことに〜」
「あー」
尚斗は困ったような表情を浮かべ。
「そりゃ…悪かった」
「な、何がデスか〜?」
「いや、退屈だったろ……俺が寝てる間」
「いえいえ〜それほどでも〜」
安寿は、自分の頬に手をあてて恥じらって見せた。
「尚斗さんの寝顔とか、寝顔とか、寝顔とか〜じっくりたっぷり堪能してましたから〜♪」
「……俺の寝顔は、そんなに興味深いのか?」
「見ていて、飽きません〜♪」
「えーと…それは、何より…なのか」
まあ、安寿がいいというならそれはそれで……と、やはり割り切ってしまう尚斗。
「おっと。忘れるところでした〜」
「ん?」
「はい〜一ノ瀬さんと入谷さんが〜」
「あ、わかってる。泊まってるんだろ」
「おや」
「いや、玄関に靴があったし…つーか、なんとなく気配で分かる」
「気配で分かりますか〜」
安寿は、ちょっと考え。
「そこに、愛はあるのか〜?」
「いや、そういうんじゃなくて、慣れに近いんだが…」
「……」
「つーか、気配云々と愛は関係ないと思うぞ。青山なんかどうなるよ?」
「……尚斗さんは、あんまりドラマとか見ないんですか〜?」
「ああ、すまん…なんかのネタだったのか」
「いいんですけど…」
わさわさわさ…。
「何故、くすぐる?」
「それは〜くすぐりたくなったからです〜はい〜」
「なるほど…っていうか、身体を落としちゃまずいからやめなさい」
「はい〜」
安寿の翼が、とけ込むようにして消えた。
「……消えたように見えても、ここにあるんだよな?」
「はい〜」
「で、ここにあると思えば……触ることが」
「……はい〜」
「天使にも眠りは必要だ」
「はい〜?」
「そう、思いこめば、寝られるんじゃねえの?」
「……」
「いや、言ってみただけだから」
「……」
「安寿…」
「ぐー、ぐー」
「おーい」
「このまま、尚斗さんが一緒に添い寝してくれるなら寝られるかも知れませんよ〜ぐーぐー」
「おいおい…」
「……で、眠れそうか?」
「絶対に無理ですねえ〜♪」
1つ屋根の下。
1つ寝具の中。
よくわからないが、明日はホームランだ。
「あ、そうだ」
「なんでしょう〜♪」
「10月4日でどうだ?」
「……意味不明です〜」
「いや、安寿の誕生日」
「……その心は〜?」
「10月4日は、天使の日なんだそうだ」
「…おお〜」
ぱちぱち。
「でもそれは〜『私』の誕生日ではないですねえ〜」
「あ、そうか…ちょっと無神経だったな。悪い」
「いえいえ〜」
安寿は、微笑みながら顔を横に傾けた。
天井を見ていた尚斗の顔が、少し遅れて……向き合う形になる。
「……2打席連続ホームランです〜」
「悪い。ちょっとネタがわからない」
「あはは〜です〜♪」
「そういや、安寿の名前って言うか、安寿って…フランス語で、天使だよな」
「はい〜」
「安寿以外の天使も、名前があるわけだろ?みんな、そんな感じなのか?」
「……」
「……安寿?」
「えっとですね〜その〜名前持ちの天使って、実はほとんど…その〜いないんです〜」
などと自称下っ端天使が言うモノだから、尚斗はあらためて安寿を見つめた。
「……さ、3打席連続…です〜」
薄い掛け布団の中から、尚斗の手が伸びてきて……安寿の前髪をふわりと撫でた。
「よ、よ、よよ…4打席連続…なるんですか〜?」
「…安寿ってさ、やっぱ、天使の中ですっげえ、重要人物というか天使なんじゃねえの?」
「……あわわ…(聞こえてない)」
「いや…まあ、言いにくいことなら無理には聞かないよ…ごめんな」
「ふわわわ…」
「……安寿?」
「……こ、心の…準備が…」
心配げに、尚斗が顔を寄せる……その瞬間、安寿の心のブレーカーが落ちた。
早い話、気絶である。(笑)
「きゅぅ〜」
「……安寿、おい、安寿?」
「……おはよ、尚斗」
「おお、起きたのか、紗智」
「おはようございます、一ノ瀬先輩」
紗智は、じろりと結花を見て。
「……尚斗が帰ってきたとき、起こしてくれなかったんだ」
「私が寝た後、ですよ。有崎さんが帰ってきたのは」
「……あ、そう」
そして、紗智は椅子に座った。
「……天野さんは?」
「寝てる」
「珍しいわね……なんか、いつでも一番早起きみたいなイメージがあったけど」
「確かに」
結花は尚斗に視線を向けて。
「と、いうか……昨夜遅かったんですよね、有崎さんは」
「うん、まあ…」
「……それで、いつも早起きの天野さんが寝坊ですか」
「……何だよ、奥歯に物が挟まったような言い方だな」
結花は、ずず、と音を立ててお茶を飲み。
「昨夜、何時に帰ってきたか知りませんけど……どこで寝ました?」
「んー、安寿と一緒に寝た」
「ごぶっ」「ぶぁっ」
共にお茶をふき、結花と紗智はふたりして朝食の準備を続ける尚斗の背中を見つめる。
「なんか、眠くないから添い寝してくれとか頼まれてな…色々話とかしてた」
がたっ、がたた…。
「んっ?」
振り返ったとき、既に紗智と結花の姿は台所から消えていて。
「おい…?」
「ひゃあああぁ〜なんですか〜」
素っ頓狂な、安寿の悲鳴がこだましたのはすぐ後のこと。
特別ではない日常。
それは、自称下っ端天使が望んだものなのだが……はてさて。
完
……終わらん。(泣)
10月どころか、もう12月だぜ。
この一本で、どれだけ迷走したのやら。
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