有崎尚斗、高校3年生。
 地域で底辺と呼ばれる男子校に通う、ごくごく普通の……まあ、『人類みな兄弟』の言葉レベルの鷹揚さ(笑)で言うところの普通の少年。
「……こういうのも、遠距離恋愛っていうのかね」
 空を見上げて、しみじみと呟いてみる。
 それは、単なる独り言のつもりだったのだが。
「あー、うん、そうな……今まで内緒にしてたけど、彼女がいるんだよな?それとも、事故で死んじまった彼女が忘れられないとか?」
「……どこから湧いた?」
「こんなに暑けりゃ、頭もわくだろそりゃあ」
 と、尚斗の背中に寄りかかりながら宮坂。
「『実は、彼女がいる』とか、『実は、経験済み』とか、そういうこと言ってると、引っ込みつかなくなるぜ、親友」
「中坊じゃあるまいし、言わねえよ」
「と、すると…」
 宮坂は、しょっぱい表情を浮かべ。
「次元を越えるおつきあいってやつか?真夜中に、ディスプレイに頭をぶつけ始める前に、病院行けよ」
「しねえよっ、つーか、考えたこともねーよ!」
「真っ暗な部屋の中、光るディスプレイを見つめていると、吸い込まれるような気持ちになってこねえか?」
「自分の話かっ!?」
「深夜0時から1分刻みで試してるんだがな…次の満月の、2時22分か、3時33分が怪しいと思うんだ」
「…おい、それ以上引っ張るな。救急車呼ぶぞ」
「それもまた一興。ナースとの出会いがあるかもしれん」
 まじめくさった表情で言う宮坂に……尚斗はふっとため息をついた。
「心配してくれるのはありがたいが、なんでもねえから気にすんな」
「……最後の夏も、終わっちまったなあ」
「そりゃ仕方ねえよ。夏が終わらねえと、秋が始まらねえしな」
「おお、哲学だな」
「始まるもんは、終わるんだよ」
 また、空を見上げて。
「逆を言えば、何か終わらせなきゃ、新しくは始まらねえってこった」
「ああ、新連載とかな……特に、だらだらと惰性で続いてるような連載は老害だな」
「いや、その辺でやめてくださいよ、宮坂さん」
「はっはっはっ」
 ぐだぐだぐだ…。
 宮坂と絡むと、結局はいつもぐだぐだだ。
 でも、尚斗はそれが苦痛じゃないし……嫌いでもない。
「……んじゃな、有崎」
「おう」
 軽く手を挙げ……尚斗は、あらためて空を見上げた。
「……実は俺、天使とつきあってるんだ」
 口の中でもごもごと呟いた後で。
「まあ、馬鹿にされるだけですめば御の字だよな…」
 ため息混じりに吐き捨てる。
「つーか、会いたいときに会えないどころか、携帯はおろか、メールも通じねえっての」
 ぶつぶつ。
「遠距離恋愛以下っていうか……」
 視線を、空から下へ。
 自分の足下。
「すげえ昔だと、こんな感じなのか」
 手紙のやりとりすら困難というか、偶然というか他人の善意やら幸運やらに頼らざるを得なかった時代。
 それを思えば、今を生きる人間は幸せだ……いや、贅沢だ?
「……あれ?でも、昔以下…だよな、今の俺?」
 愛しい彼女の写真なり、映像は皆無。
 会えない以前に、連絡方法がない。
 全ては、自分の記憶頼み。
 尚斗は、何となく自分の頬をつまんで引っ張った。
「……ひょっとして、俺、妄想野郎と言われても、反論する材料もないのか?」
 
 夜、自分の部屋で……他でもない、己の正気を確かめるための自問自答など、精神的自殺行為でしかない。
「やめよう、不毛だ…」
 過去の哲学者と呼ばれる連中全てを敵に回す言葉を吐き、尚斗はベッドに寝転がった。
「……」
 尚斗は、さらに転がって、右へ、左へと視線を投げた後、自分の身体の周りを探るようにゆっくりと両手を動かした。
「今、俺が目にしている光景は全て幻で、実は両親やらねーちゃんやら、学校のクラスメイトが『しっかりしろ!』などと声を掛けながら俺の身体を押さえつけようとしていたりしないよな?」
 ……どうやら、重傷のようだ。(笑)
 尚斗はしばらくごろごろと転がり、枕をばんばん叩いたりしていたようだが……『麻里絵は頑張ったなあ』などと、予想より斜め上の結論を出して、心を落ち着けたようだった。 そして、そのまま寝る。
 ああ、若さって素晴らしい。
 
「おう、有崎。女の子達と遊びに行く話があるんだが、来るよな?」
「断る」
「……」
「…いや、別に熱はないぞ」
 額へと伸びてきた宮坂の手をぺしっとはらいのけ。
「可愛い彼女を裏切るわけにはいかん」
「……」
「だから、熱はない」
 宮坂は、しばし尚斗を見つめ……携帯をとりだした。
「……えーと、1・」
「救急車もいらん」
 ふと、宮坂の瞳に哀れみが浮かんだ。
「もう、手遅れ…か。死に至る病というやつだな」
「へいへい。会わせろと言われても会わせられんし、写真もねーよ。精々、哀れんでいてくれ」
 やや投げやりな尚斗の言葉に、宮坂はちょっと肩をすくめて。
「じゃあ、話を戻すぞ。人数合わせのために参加しろ」
「俺じゃなくても、二つ返事で参加するやつが腐るほどいるだろ?」
「はっはっはっ…」
 どこかのご老公のような笑い声を上げると、宮坂は再び肩をすくめた。
 日本人には似合わない仕草のはずだが、鏡に向かって特訓でもしたのか、宮坂のそれは妙に堂に入った印象を与える。
「どういう風の吹き回しなんだかしらねえが、お前が参加すること前提で女の子が遊びに行ってくださるんだよ」
「……なんですと?」
「お前が参加してくれねえと、そもそもイベントそのものが成立しねえんだっつーの。世界が終わる日が近づいてるのかもな」
 尚斗は、パチパチッと瞬きを繰りかえし……首を振り、指先で頬をつまんでひねり上げてみた。
 そして、今一度。
「なんですと?」
「と、いうわけでだな……有崎には是非とも参加してもらいたい。つーか、腕ずくでもさせる」
 と、宮坂が無い袖をまくる仕草をする。
「……死に至る病でも妄想でも何でもいいけどさ、俺はそれに参加するわけにはいかねーの」
 などと、少し投げやりな感じで言い捨てた尚斗を、宮坂がじっと見つめ。
「ふむ……仮に有崎、お前に彼女がいたとしよう」
「おう、つきあってくれてサンキューな。だから俺もつきあってやるよ……俺に彼女がいるとするとなんだよ?」
 約10センチの距離で見つめ合う男子2人。
「このイベントに参加することがはたして裏切りだろうか?」
「は?」
「ここは男子校だが、共学だったらどうする?遠足は裏切りか?修学旅行は裏切りか?文化祭の準備で、クラスの女子と遅くまでの居残り作業が、裏切りと言えるだろうか?」
「いや、それは…」
 ちょっと話がずれて…。
「良く聞け、有崎」
 ばんっ、と、宮坂は尚斗の肩に手を置いて。
「食べるものが何も無くて、結果的に腹一杯食べることができなかったやつと、食べるものが有り余るほどあるというのに、食べなかったやつ……これは、後者の方が漢(おとこ)度が高いよな?」
「だから、断ってんじゃねえか」
 ばんっ。
「良く聞け、有崎」
「痛えっつの」
「食べるものに近づかないことでそれを抑えつけようとするやつより、自分の手の届く範囲に食べるものを置いた上で…」
「挙げ句の果てに、キスまでならセーフとか言い出しそうだよな、その理論」
 冷ややかな尚斗の視線にびくともしないのは、強靱な精神力か、それとも面の皮の厚さなのか。
 宮坂は、尚斗の首に腕を回して訴えた。
「友人のために一肌脱げよう……つーか、二次元だか妄想だかの彼女に連絡とってさあ、了承もらってくれよう」
「ほう、二次元やら妄想やらの彼女は寛大なんだな……つーか、連絡とれねえから、お前にいくらからかわれても仕方のないところではあるんだが」
「有崎ぃ、お前の惚れた女は、そんなに心が狭いのかぁ?」
「広いと思うぞ」
「なら…」
 尚斗は、視線を窓の外に向けて。
「……そういう問題じゃないっての」
「そうか…」
 ふーと、宮坂がため息をつく。
「悪いな、有崎」
「まあ、嘘か本当かともかく、俺が目当てなんて奇特な女の子がいるぐらいだからな、そういう機会は他にもあるだろうさ」
「いや、そういう意味じゃねえよ」
「は?」
 ごっ。
 衝撃。
 それが、何を意味するかは、記すまでもないだろう。(笑)
 
「あの…大丈夫ですか?」
「それは、俺に対してか?」
 尚斗は一旦言葉を切って、倒れている宮坂に向かって顎をしゃくった。
「それとも、この馬鹿に対してか?」
「えっと…」
 女の子はちょっと考え込み。
「有崎さんについては、精神的な意味で、宮坂さんに対しては肉体的な意味合いで……というところでお願いします」
「……むう、すげえな、あんた」
 尚斗は感嘆の呟きを漏らし……あらためて女の子を見つめた。
 好みは人それぞれだろうが、容姿においては平均点以上であろう。
 ただ……はっきり言って、尚斗には見覚えのない顔だった。
「えっと……どこかで、会ったこと…あったかな?」
「あー…はは…」
 少女が、曖昧な笑みを浮かべる。
「……ごめん」
「あ、いえっ…そのっ…」
 少女は何か言葉を探したようだが、見つからなかったのだろう。
 小さなため息を1つ吐き「まあ…そういうものですよね」と、呟いた。
「……」
 さて、ここでどういう言葉をかければよいのやら……と、尚斗は思案に暮れていたのだが、ふっと少女は顔を上げた。
「み、宮坂さんにおうかがいしたのですが、有崎さんには彼女さんがいるとのことで」
「あ、はい…」
「おつきあいは順調でしょうか?」
「……すげえこと聞くね、キミ」
 それ以前に、『彼女がいる』ときいて、なおも退かなかったあたり、なかなかの強者であることは確か。
「わ、私もそれなりに必死ですので」
「……そのようで」
 尚斗は、ちょっと頭をかいた。
「今から遊びに行くって話じゃないよな?」
「……」
 女の子はちょっと宮坂に目をやって。
「いえ、私は有崎さんとお話しできればそれで…」
「……なるほど。ちなみに、この馬鹿に対する報酬はいかほどで?」
「チョコレートパン4つです」
 どがあっ。
 倒れている宮坂の身体を蹴り上げた尚斗を見つめ、女の子は感心したように呟いた。
「ワイルドなんですね」
「いや、キミのその反応はおかしい」
 暴力沙汰を目の前にして、眉の1つもひそめるでもなく……微笑みすら浮かべているそれは、尚斗には異常としか思えなかった。
「……えっと、わざと嫌われようとしてるんですか?」
「いや、今のは割と日常的。つまり…」
「弟が2人いるんです」
「は?」
「クッキー1枚で、殴り合いができる……それが、男の子ですよね?」
「……ちなみに、そのクッキーは」
「私が食べました」
「おいおい」
「それが、『ねえさん』という生き物です」
「わははは。その通りだぜ、チクショー」
 姉のいる尚斗は投げやりに同意し……そして笑った。
「なかなかいいな、あんた」
 少女はにこりと微笑んで。
「相性は、かなり良いと思います」
 尚斗は頷きかけ……ふっと、気を引き締めた。
「あらためて言うが、彼女がいるんだ」
「……はい」
「ごめん、としか言えない」
 そう言って、頭を下げる。
「……じょにーさんの情報によると」
「よるな」
 なかなかに手強い……というか、最近やたら宮坂の馬鹿が絡んできてたのは、ここに原因があったのか、と尚斗はあらためて納得する。
「……ひとまず2次元の彼女さんはそのままで、私と3次元のおつきあいを…」
「ツッコミどころが多すぎて、俺の手に余るわっ!」
 尚斗はとりあえず宮坂を蹴り……深呼吸をしてからあらためて少女に向き直った。
「つーか、2次元の彼女がいるような男とつきあいたいのか、あんたはっ!」
「2次元の彼女と張り合っても仕方ありませんし」
「いや、論点をずらさないでくれ、頼むから」
「私、ジャ〇ーズ・ジュニアとか好きですから」
 少女は、にこっと微笑んで。
「おあいこ、ということで」
「いや、だからそもそも、論点がずれてるんだっつーの…」
 顔を手で覆いつつ、尚斗はこの微妙に話のかみ合わない感覚が、なんとなく懐かしいモノがあるよなあと思った。
 そして……そうか、と腑に落ちた。
 安寿。
 彼女との会話が、こんな感じだったのだ。
「……」
「……あ、すまん」
 自分のことを好きだと言ってくれる少女を前に、他のことを……安寿のことを考える。
 それが、ひどく失礼なこととしか尚斗には思えなかったから。
「悪かった……ちょっと、別のことに気を取られて…その、ごめん」
 頭を下げた尚斗の上から、ごくふつーの口調で投げかけられる言葉。
「彼女さんのことですか?」
「…っ!?」
 おそるおそる、顔を上げる。
 少女は笑っていた。
 しかしまだ、油断はできない。(笑)
 微笑みながら毒をはき、手を出し、足を出す……そんな女もいるからだ。
「相変わらず、真面目な人ですねえ…」
「……」
 『今』ではなく、『昔』を懐かしむ言葉……残念なことに、尚斗にはそれが思い出せない。
 そしてそれは、少女もわかったようで。
「あなたの、そういうところが好きです」
 まっすぐな瞳。
「……」
 尚斗の反応を楽しむように微笑んで。
「放っておけばいいのに、関係ないってしらんぷりしてればいいのに、きちんと向き合って、悩んで、逃げようとしない有崎さんが好きです」
「……いや、お、俺はそんな格好良い生き物じゃないぞっ!?」
「そうですねえ」
 少女は、ちょっと困ったように笑った。
「顔も普通だし、運動部で活躍してるってこともないし……勉強の方は、さっぱりらしいですし…」
「……いいことを教えてあげよう、人は図星を指されると腹を立てるんだ」
「見栄を張らないんですね」
「見え張ったところで、元が元だからな。しれてる」
 少女はまた、尚斗を見つめ。
「私、運動はダメですが、成績は割といいんです」
「え、語るの?」
「それはまあ、有崎さんに、私のことを知ってもらう必要もありますし…」
「都合の悪いことはスルーする耳の持ち主か?」
「みんなそうですよ」
「ああ、いや、それはそうかもしれんが…」
「……えっと、みんなには秘密なんですけど、聞いてくれます?」
「自分の秘密を、軽々しく人に話しちゃいけません」
「有崎さんって…」
「うん?」
 会話のつながりが読めず、尚斗は曖昧に頷いた。
「私の運命の人なんです」
「……」
 尚斗は、精神的に3歩ほどよろめいた。
 深呼吸。
 そして、あらためて少女に向き直り。
「その根拠は?」
「ぴぴぴっと、来ました」
「古い」
「ナウなヤングにバカ受けです」
「さらに古い」
 ツッコミをいれながら、尚斗は微かな恐れを感じていた。
 やべえ。楽しい。
 いや、これはきっと……相手が女の子だから。
 頭の片隅で、麻里絵と紗智の2人が抗議の声を上げた。(笑)
「実は私、以前に彼氏がいたんです」
「……それは、あんたなら、別におかしくも何ともないだろう」
 少女はちょっと上目遣いに尚斗を見つめて。
「嫉妬とか、しません?」
「……どう答えるのが正解なんだ、それは?」
「それは、二次方程式のように、私の最適解と有崎さんの最適解の2つが…」
 尚斗はため息をつくことで、ちょっと間を取り。
「俺は別に、世界が平和でありますように…なんて事は言わないけど、こうやって知り合った以上、あんたが悲しんだり、泣いたりするような事になって欲しくないなと思うし、なんていうか…その、『幸せ』になって欲しいとも思うけど…」
「2人で幸せになりましょう」
「気軽に、幸せとか口にすんな」
「真面目です」
 真面目な顔と、口調だった。
 だから、余計に…。
 ……できることなら。
 彼女。
 好きな人。
「俺は…」
 そこにいたのに、自分だけしか覚えていない…幻のような存在。
「安寿と、幸せになりたい…」
 ぽつりと、口に出してしまっていた。
 そしてすぐに、ああ、何言ってんだ俺……と、尚斗はその場を繕うために、顔を上げて……。
「……何がおかしいっ!?」
「ああ、これは失礼しました」
「…っ?」
 口調が別人。
 からかわれた?騙された?
 ネガティブな感情が、尚斗の心を埋め尽くす。
 しかし、彼女はぽんと尚斗の肩を叩いて言った。
「私は天使です」
「……は?」
「いえ、正確には……天使の私が、人間であるこの少女の身体を借りて…」
 尚斗は、少女の胸ぐらをつかみ上げていた。
 アニメ世代だ。
 ラノベ世代だ。
 尚斗は、天使の説明よりも早くそれを理解し、それを誤解した。
「てめえ…」
「ああ、重ね重ね失礼しました…」
 と、優しく尚斗の手を取り……少女とは、人間とは思えぬ力で放させる。
「さっきまで有崎さんと話していたのは、私ではなく、正真正銘、人間である少女ですよ」
「……どういうことだ?」
 少女は……いや、天使はにこっと微笑んで。
「嘘でも冗談でもなく、この少女は、あなたの運命の相手です」
「…??」
 天使は、ぴっと顔の横に手を挙げて真面目くさった顔で言った。
「天使、嘘つかない」
「つくだろ、結構」
「あ、ちょっと古すぎましたか…」
 少し残念そうに呟くと。
「安寿と一緒にしないでください」
「えーと、ここで俺は怒るべきなんだよな…?」
「安寿はどうしようもない落ちこぼれの天使ですが、私も含めてみんなあの娘の事が大好きですよ」
「……えーと、ここでもやっぱり俺は、怒るべきなんだよなあ?」
 固く握りしめられた尚斗の拳の行き先に興味がないのか、天使はふっとため息をつきながら言葉を続けた。
「落ちこぼれのあの娘が、あれ以来ますますダメになって…」
「なあ、俺を怒らせようとしてるだろ?正直に言えよ」
「天使と人間が結ばれるはずないでしょう」
 とすっ、と……胸を刺されたような気がした。
「可哀想に、あの娘は毎日毎日泣き続けて……そんなこと、わかっていたはずなのに」
「……っ」
「いくら落ちこぼれでも、天使と人間が結ばれないことぐらい、わかってますよ。当たり前でしょう」
 言葉が、刺さる。
 だったら、何故…。
「……それを忘れさせるぐらい」
 優しい……ただそれだけで、天使であることを納得してしまう声で。
「あなたを好きになってしまったんです、有崎尚斗さん」
 そう言って天使が笑い……尚斗は、泣いた。
 天使はそれを優しく見守り……やがて、尚斗は涙を拭った。
「それで、どういうことだ?俺は、何か期待したりしていいのか?期待してしまうぞ?いいのか?」
「人間が、運命の相手と出会い、結ばれる確率は、およそ10億分の1です」
「……?」
 天使は、ぐっと親指を立てて。
「らっきー」
「そ・う・じゃ・な・く・て…」
「探し出すのに、2時間42分もかかったんですよ?」
「軽っ!いきなり軽くなったっ!」
「あなたの2時間42分と、私の2時間42分を、同じレベルで考えないでいただけますか?」
「あんたホントに天使か?微妙に腹黒いモノを感じるぞ?」
「安寿よりはるかに有能な天使ですが、ぐっときます?」
「俺は天使に惚れたんじゃねえ。安寿に惚れただけだっ!」
「……」
「……反応してくれよ、恥ずかしいんだよ」
「今、天使の一部では、クールジャパンが大人気」
「は?」
 天使は、ちょっと視線を彷徨わせて。
「ほら、天使って人間の裏も表も知り尽くしちゃうから……夢と希望に満ちあふれたクールジャパンにはまっちゃう天使が多くて…」
「……要するに、娯楽に飢えてるわけだ」
「そうともいいます」
 しれっと、天使が言う。
「つーか、忙しいんだろ?回りくどい話はやめたらどうだ」
「有崎さん」
「はい」
「この少女は、間違いなくあなたに幸福をもたらします」
「その娘の意志は無視かよ」
「……運命の相手だと言ったでしょう」
 天使は呆れたように笑って。
「あなたが、この少女に幸福をもたらすんです」
「無理やりじゃねえか」
「今、ここにいることはそうですけどね……以前、あなたと出会っているのは嘘じゃないんですよ。まあ、結ばれるかどうかはわかりませんが、それだけでも、あなたとこの少女が、生まれながらに強い運を持っているのは明らかです」
「……」
「あなたと、この少女だけの話ではなく……あなたたちが結ばれることにもたらされる幸福は、周囲の人間に対して良い影響を与えるんです」
 天使は、ちょっとため息をついて。
「正直、天使としては……ね」
「……」
 ちらっ、ちらっ。
 視線でアピール。
「……たぶん、あれだよな。あんたは、人間全体の幸福とか、そういうでっかい目線でしゃべってるんだよな」
「そう…ね」
「悪いけど、俺にはそういうのわかんねえ」
「……」
「世界のためとか、社会全体のためとか……頭ではわかんなくもないけど、俺は…俺は、自分の身近な人間のことしか考えられない」
 尚斗の言葉を、天使はただ黙って聞いていた。
「たぶん…俺が特別ってワケじゃなくて、人間って生き物はきっと…自分の身の周り、自分の目が届く範囲、手の届く範囲のためにしか、生きていけないんじゃないかって思う」
 言いたいことを、必死で頭の中でまとめながら……尚斗は、時々言葉に詰まりながらも、一応は言い終えた。
 そして、天使は……。
 
「……」
「よう、浪人生」
 尚斗は、馴れ馴れしく寄りかかってきた宮坂の首をつかみ、締め付けた。
「うぐぐ…苦しい」
「訂正しろ。勤労浪人生だ」
 そうすごんでから解放する。
「バイトじゃねえか」
「仕事は仕事だ……つーか、ほぼ休みなしだぞ?1日8時間以上労働だぞ?忙しくて忙しくて勉強する暇がない…って、どこの落語だよ、マジで」
「……有崎の両親は厳しいよなあ」
「……まったくだ」
「で、彼女はご機嫌斜めか?」
「音沙汰ねえなあ…」
「……有崎、妄想ってのは自分に都合良くするものだぞ?」
「現実も、仮想も、そうそう都合良くできてねえんだよ」
「逃げ道無しか」
 そう言って、宮坂が空を見上げた。
「19の夏が終わったなあ…」
「予備校に、ロマンスはないか?」
「ああ、無いこともないが……まあ、現実逃避のたまものだな」
 と、宮坂が肩をすくめた。
「しかし、宮坂が進学希望とはな…」
「はっはっはっ。遊べる内は遊ぶぞ俺は」
「そりゃそうだ」
「つーか、有崎よう……勉強はできてんのか?」
「ま、それなりに」
「……ま、頑張んな」
「おう」
 手を挙げて、別れる。
 昼に寝て、夜仕事。
 まあ、進学希望そのものを、両親があまり信用していないからだろうと尚斗は思う。
 1人暮らしの予行演習とかなんとか……バイト料から食費やら家賃やら家に入れてなお、尚斗の通帳の残高は、もりもりと増えていく。
「…使ってねーし」
 貧乏暇無しというか、金を使うためには暇が必要なことを尚斗は知った。
 つーか、貧乏暇無しという言葉よりも、小人閑居して不善を為すという言葉の方に、真実を見いだしつつある。
 学力と違って、目に見えて増えていく貯金残高は説得力がある。
 資本主義が世の中を席巻するのは、案外こういうことだろう……と。
「つまり、あれだ……ガキってのは、ゆとりを与えちゃイカンな、たぶん。特に中学から高校にかけて」
 中学、高校と、たっぷりとゆとりを与えられた自分が言うのだ、間違いない。
 うんうんと頷き、尚斗は大きくのびをして……腰をとんとんと叩いた。
 
『天使と人間が結ばれるはずがないでしょう』
 
 当たり前のことを、当たり前に言われた……それを思い出す。
 天使であることに、誇りを持っていた安寿にとって、それは……。
 尚斗は、空を見上げて呟いた。
「無理すんなよ、安寿」
 自分は元気にやっている。
 高校生ではなくなったが、それはただ単に年をとっただけだ。
 年齢相応の、以前と変わらぬ生活を送っている。
 自分の呟きを聞いているかどうかもわからないのに、もう一度空に向けて。
「しょーもないこと、気にすんな」
 自分は、元気でやっているから。
 
「エントリーシートを目にした瞬間、笑われたことがありますか?俺はあります」
「お前、大きな会社とか狙い過ぎなんだよ」
 就職氷河期だなんだと人は騒ぐ。
 しかし、いわゆるサラリーマンの求人数は、景気の影響を受けはするが、昔とそれほど変わらないのだ。
 求人数は変わらないのに、サラリーマン指向が……つまり、希望者が増えた。
 競争倍率の高い業種と、人の集まらない業種との格差……それが、就職難の全てとまでは言わないが、一面ではある。
「つーか、宮坂。お前に会社勤めは無理だ」
「人は未来を見て、生きていくんだ……そう思うだろ、有崎」
「……」
「つーか、自分で何かをやるにも、まずは資金が必要じゃねえかっ」
「バイトしろ」
「してる」
「貯金は?」
「少々」
 宮坂の言う『少々』が、自分のそれとは桁が違う事を尚斗は知っていたから、具体的な金額には触れなかった。
「起業支援とか…」
「調べた。足りないし、申請そのものが却下される可能性が大だ」
「むう…」
 尚斗はうなった。
「面白いアイデアだと思うんだがなあ…」
「みんなそういう」
「でも、金は出してくれない、と」
「こうなったら、株か、FXあたりで一発…」
「やめとけ……素人が戦える場所じゃねえよ」
 ふう、と宮坂はため息をつき。
「ところで有崎、妄想彼女は元気か?」
「お前も、大概引っ張るよな」
「引っ張られたくなかったら、『彼女がいるから』とかいって、誘いを断るんじゃねえっ!」
「一番角がたたねえだろ?」
「そりゃそーだがなっ」
 気が付けば、いつもの馬鹿話。
 男子校の時から、嫌になるほど変わらない。
 くい。
 袖を引かれた。
 尚斗が、そして、宮坂が視線を下げる。
「見つけました…」
 子供らしからぬ、大人びた口調だった。
「やっと、見つけました」
「有崎。この子、お前の…」
 宮坂が口をつぐんだ。
 かまわず、尚斗は聞いた。
「安寿か…?」
「はい、尚斗さん」
「……」
 安寿はポケットから丸眼鏡を取りだし、空に向かってかざした。
「私は、天使であることをやめるぞぉぉっ」
 そういって、すちゃっと装着する。
「……」
「……えっと、外しましたか?」
「じゃ、そういうことで」
 他人の顔をして、宮坂がその場を去った。
 たぶん、年端もいかない女の子に悪戯している男がいるんですよ……などと警察に通報するのが、目に見えるようだった。
「……」
「あの、尚斗さん。感動の再会を祝して、ぎゅっとしてくれたり…しませんか?」
「あ、いや……たぶんそれは、ものすごいまずいことになるから…」
「私は平気ですぅ〜」
「安寿…今いくつ?」
「今日、4歳になりました」
「ああ、うん…まずいな。すごく、やばいな、それは…」
「一応、年齢相応の女の子を装っているんですけど〜」
 安寿は少し恥ずかしげに言葉を続けた。
「その〜にじみ出るといいますか、隠しきれない知性のせいで、天才少女と呼ばれたりもしてます〜」
「そっか……相変わらずだなあ、安寿は」
「変わりませんよ〜変わるわけがないです〜」
 いや、ちょっとばかり常識がないところとか。
 でもそれは、天使だった彼女に言っても仕方のないことだ。
 そして、尚斗は肩を叩かれた。
「ちょっと、いいですか?」
 警官が2人。
 宮坂もそうだが、日本の警察はいい仕事を、迅速にこなす。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「あまのあんじゅ、4歳」
 うん、そこはもうちょっと大人びた発言を必要とする所じゃないかと、尚斗は思った。
「で、お前は?」
「ありさきなおとさん、23歳です」
 尚斗と、警官2人の視線が安寿に注がれる。
「わたし、なおとさんのおよめさんになるんです」
 警官2人の視線が、キリのように刺さってくるのを尚斗は感じた。
「ちょっと、こっちに来てもらえるかな」
「はい、いきます」
 面倒なことになるのがわかっているのに、これから後も、色々と苦労するのが分かり切っているのに……それでも、尚斗は幸せだった。
 
 
大丈夫
 
 
 ちょっとなげやり。
 と、いうか……正直、安寿のネタはあまりない。
 イベントではなく、ストーリーのネタがね。
 

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