2月13日。
 結花は不安だった。
 ……というのも、明日に控えたバレンタイン公演を、失敗するわけにはいかなかったからだ。
 まず第一に、これまでの夏樹様オンステージ……の内容変更が、夏樹の希望を通した形であったから、仮にこれが失敗したならば、夏樹が激しく心を痛めることがわかりきっているから。
 そして第二に、このお芝居が失敗するということは……夏樹が卒業してからの演劇部の未来が暗いモノであることを内外にはっきりさせてしまうから。
 夏樹と演劇部の存在は、結花にとって学校生活の大部分を占めており……その2つを守ることが出来るかどうかがかかっている芝居の舞台に、主役として初めて板を踏む。
 これは、結花ならずとも……プレッシャーを感じずにはいられない。
「うぅ…お腹痛い…」
 キリキリキリ……多分これが神経性胃炎というモノに違いない。
 人生初の経験を冷静に分析したところで、状況は何も変わらない。
 これを相談する相手が、結花にはいなかったからだ……いや、1人、いるはずなのだが。
「…無理なの、無理なのよ〜」
 これまで幾度となく主役を務め、観客の満足を満たし、魅了してきたはずの大ベテラン夏樹からして、完全にてんぱっていて。
 中学生の分際で高等部の演劇部に乗り込み、その後も先輩を相手にして一手に切り回してきた結花にしてみれば、今の夏樹が『わら』以下の存在であることは明白で。
「……ということは」
 明日、公演の下準備というか、裏方の調整および、進行をはじめとして、舞台の上でのフォローまでこなさなければいけないということか。
 主役を見事に演じきるだけでなく、着替えや場面転換で舞台裏に引っ込んだ際に、裏方に矢継ぎ早に指示を出し、混乱を収拾し、他の配役を与えられた人間を落ち着かせて……
「……あは、あははは…」
 ぷしゅー。
 結花は、自分の頭がオーバーヒートする幻聴を聞いたような気がした。
 
「……無理です、絶対無理です…」
 周囲に誰もいないことを確認しつつ、小声で弱音を吐く。
 学校の屋上。
 立ち入り禁止ではないが、冬の、こんな季節に凍えるような風を全身で受ける物好きは女生徒にはいないはずで。
「無理です…絶対無理です…」
 人間1人の力には限界がある。
 これは、悲しいけど現実であり、真理であり、宇宙の愛である。
 そもそも、バレンタイン公演にしたって、2週間ほど前まではいろんな思惑ががんじがらめに演劇部そのものの動きを封じ込めていた。
 それが一気に動き出したのは……。
 結花は、ちょっと空を見上げて……明日の公演を失敗することに行かない理由を1つ、心のノートに書き加えた。
「……馬鹿がつくぐらい、お節介な人ですからね」
 公演がうまくいかなかったと聞けば……多分、表情を曇らせ……挙げ句の果てに『おれが、余計なことをしたからだな…』などと、わびの言葉まで口にする姿が容易に想像できた。
「……びーだ」
 口だけで……両手は、屋上の手すりをつかんだまま。
「女子校の生徒でも、ましてや演劇部の一員でもない、貴方1人に何の責任がありますか…」
 そう呟いてみたものの、結花の頭の中の少年の顔は曇ったままで。
 全ては明日。
 明日の朝、起きてから……公演が終わるまでを頭の中でシュミレート。
 5分、10分……。
 結花は目を開き、首を振った。
「……無理です…絶対無理です…」
「夏樹さんだけじゃなく、お前までそんなこと言って…」
「そりゃ、言いたくも……っ!?」
 慌てて振り返り、結花はわけもなく戦闘態勢を取った。
「な、何しに来たですかっ」
「いや、さっき廊下で夏樹さんとすれ違ったら、『無理なの、無理なのよぅ〜』などと、泣きが入ってたから、とりあえず話を聞いて落ち着かせてきたんだが」
「……」
 色々と言いたいことはあったが、それをぐっと呑みこんで。
「それで……落ち着きましたか、夏樹様は」
「落ち着くも何も…」
 少年……有崎尚斗は、ボリボリと頭をかいて。
「なんか、『女性役を演じるのは初めてで、どうすればいいかわかんないの……』とか言われたら、思わず涙が出ちまったよ、俺」
「……は?」
「いや、俺が思うに、夏樹さんって、これまでずっと『夏樹様』であることを求められてきたわけだろ?だから、いざ女性役を演じるにしても、どう演じたらいいのかわからないって事じゃねえの……」
「……」
「……ちびっこ?」
「えっと…夏樹様は、公演がうまくいくかどうか…とか?」
「いや、自分がどう演じたらいいのか……っていうか、ただ緊張してるだけっぽいが?」
「はあ、そーですか」
「ま、そーいう意味では、初めて舞台に立つお前の方がよっぽど緊張するよな」
「う」
「しかも、主役」
「それを言わないでくださいってばぁ」
「はっはっはっ」
「笑い事じゃないですっ」
「いやあ、緊張できるだけ余裕があるって事だろ」
 ぽん、と結花の肩を軽く叩いて。
「本当に一杯一杯の人間は、目の前のことしか見えなくて、失敗したらどうしようとか、そんな先のことまで頭まわらねえもん」
「……そ、そーいう見方もありますね」
「それに、スポーツ選手がよく口にするじゃん『緊張感を持って試合に臨む』とか。あれって、日常生活見たく、リラックスしてたら、きちんと力が出せないって事だろ」
「……」
「俺なんか、緊張感のない生活送ってるからなあ……怒るかも知れないが、そうやって緊張できる夏樹さんやお前が、ちょっとだけ羨ましい」
「……た、他人事だと思って…」
「まーまー。緊張すんなっていわれて、そうできるほど人間は単純な生き物じゃねえし」
 尚斗は再び、結花の肩を軽く叩き。
「緊張するのが悪いわけじゃないだろ?良くないのは、力を出し切れないことっつーか……今ちびっこが考えなきゃいけないのは、緊張しないことじゃなくて、そっちの方じゃねえの?」
「い、いや、だから…緊張してるんです」
「むう、そうか…やっぱ、頭良いな、お前」
「あ、有崎さんが悪すぎるだけですっ」
「はっはっはっ。否定はしない……というわけで、差し入れだ」
 結花の手を取り、その上に紙パックを置く。
「ワンパターンで申し訳ないが」
「……まあ、もらいますけど」
 ちうー。
「……こーひーみるくって、ホットで売ってるんですかね?」
「……聞いたことねえなあ」
 しばらく、2人は首をかしげていたのだが。
「……まあ、せっかくだから…ありがとうございますって、言っておきますね」
「え?」
「な、なんですか、その顔は?人がせっかく素直にお礼を言ってるのに」
「え、あ、あー…そういうことね」
 尚斗はにやりと笑い。
「くっくっくっ、礼には及ばないぜ…明日お前が失敗したら、腹を抱えて笑ってやるからな」
「なっ!?」
「ひょっとしたら、泣いちゃうかも?くくく、デジカメでも用意しとこっかな」
「ばっ、馬鹿なこというなです」
 すうっと息を吸い込んで。
「人が失敗する姿を想像して悦には入るなんて、本当、下劣な趣味をお持ちですこと。残念ですが、貴方のような下劣な人間を楽しまようとは思いませんので…(以下略)」
 ……などと、2分以上にわたる長口舌を繰り出すと、結花は優雅に一礼し、屋上をお後にした。
 そして、後に残された尚斗は小さく頷き。
「うむ、夏樹さんとは逆で、叩かれて伸びる奴だな、やっぱ」
 
 授業が終わり、明日の支度を済ませ、そして帰り道。
「……」
 昼間の、尚斗の言葉が本心からのモノではないことぐらい、結花にだってわかっている。
 明日の公演がどうなろうとも……多分、自分は、あの少年に世話になった……それは間違いのないことで。
 そして、日本には……義理チョコという文化があるわけで。
 いままで、ずっと女子校に通っていて……父親にも、渡したことはなく。
 多分、生まれて初めて……というところに、心のどこかが、抵抗を示しているのだ……結花はそう自分に言い聞かせて。
「……仕方ないですねえ」
 だめ押しのためにそう呟き、結花は少年のために、『義理チョコ』を買った。
 
「馬鹿にされたっ、馬鹿にされたっ、馬鹿にされたぁっ!」
「あ、あの…結花ちゃん?」
「義理だって言ったのに、言ったのにっ…」
「ごめん、ちょっと話が見えなくて…ね?」
 もうちょっと説明してくれるかな、と夏樹が促す。
「頭撫でたんです、あの男」
「……?」
「『可愛いな、お前』とかいって、にやにや笑って頭撫でてきたんです、あの男ってば」
「……???」
 結花らしからぬ支離滅裂な言葉を拾い集めて、夏樹は、自分が持つ情報と合わせてその光景を想像する。
 
 公演終了後、後片付けもそこそこに結花は尚斗の元へと急ぎ、『へへーんだ、ご期待に添えず悪かったですね、うまくいきましたよ、公演』などと報告を済ませ。
 ここからどういうやりとりがあったのかは不明だが、結花は尚斗に向かって綺麗にラッピングされたチョコレートを差し出した。
 
「……?」
 義理チョコと断りをいれて渡した。
 少年はそれを受け取り、『可愛いな、お前』といって結花の頭を笑いながら撫でた。
 夏樹は首をかしげて、子供のようにじたばたとだだをこねているとしか思えない結花にちょっとだけ視線を向け。
「……『馬鹿にされた』?」
 子供扱いされたから?
 義理チョコなのに?
 夏樹はちょっと考え。
『本当は義理チョコじゃないから…馬鹿にされたと思った?』
 そして夏樹は大きくため息をついた。
「……してやるです」
「え?」
 なにやら不穏な言葉を耳にした気がして、夏樹は結花を見た。
「どーせ子供ですよ……子供なりに復讐してやるです…」
「ふ、復讐って…結花ちゃん」
 そもそも、結花ちゃんが色々と勘違いしてるだけのような…。
 そんな夏樹の言葉は、結花の耳には届かなかった。
 
 2月16日(土)。
 新しくできたばかりのプレハブ校舎だったが、男子生徒のほとんどは女子校を懐かしく思う病気にかかっており。
「この校舎、ぶっ壊したらいいのか…」
 などと、不穏な事を口走る生徒もいる。
「あれ?」
「どうした?」
「いや、あの校門の所にいるの、女子校の生徒じゃね?」
 教室内がざわつき、男子生徒数名が窓が裸子に張り付いた。
 それは間違いなく、女子校の制服。
「……」
「……」
「……俺、あの娘と待ち合わせてる奴を殺すかもしんね」
 などと、物騒なやりとりが各教室でされている中。
「有崎」
「んあ、HR終わったか?」
 目を擦り、宮坂を見る尚斗。
「いや、終わってねえけど、あれ」
 と、宮坂が指さす先。
「……ありゃ、ちびっこじゃん。なにしてんだ、あいつ?」
「……誰かを待ってるというなら、有崎以外の該当者はないような気もするが」
「……」
 尚斗はちょっと考え。
「特に約束を交わした覚えはないが……ホワイトデーの催促ってわけでもないだろうし」
「まあ、行ってみればわかるんじゃね?」
 
「今、HR中だって、言ってるだろうが、ごらあぁぁっ!てめえら、教師なめてんのかっ!」
 
 各教室で、黒板を叩く竹刀の音がこだました。
 
「……遅いですね」
 時刻を確認し、結花はちょっと首をかしげた。
 女子校では、男子校よりも朝の開始が30分早い……つまり、女子校のHRが終了してから、男子校のそれが終わるまで30分の余裕がある。
 加えて、今日は土曜日……バレンタイン公演を終えて、演劇部の活動はそれほど活発ではないし、元々各自で昼食を終えてから集まるという形態のため、学校を抜け出して男子校に足を運ぶ程度の余裕はある。
「……と、出てきました…か?」
 どどどどどど…。
 男子生徒が校門の方に向かってやってくるものすごい勢いに、結花は思わず一歩退いた。
「な、何ですか…?」
 注目されることを目的としてやってきたモノの、まさか自分の行動がそこまでの波紋を呼んでいるとは思い浮かばず……このままの勢いで、みなが帰ってしまうならとんだ無駄足になります、と内心で舌打ちをする結花。
 どどどど、ざざー。
 男子生徒全員が、校門手前で急ブレーキ。
 そして、ぎらついた目で結花を見る。
「……」
「……」
「……ガキじゃん」
「だ、誰がガキですかっ!?」
 つい2日前の心の傷を抉られた気がして、結花が声を荒げた。
「あれ、でも、高等部の制服だぜ、やっぱり」
「むー?」
「あ、えーと、あれじゃね?なんか演劇部にちっちゃいのがいるって、誰かが言ってただろ?」
「ちっ、ちっちゃいのっ?」
 失礼なっ、と声を裏返らせた結花には、もう見向きもせず。
「おい、あいつ呼んできてやれよ…あいつなら、守備範囲だろ、これ」
「どうかな…あいつ、7歳以上はゴミだ、とか言ってるし」
「マジで?やべえよな、あいつ」
「こっ、こっ、こっ…」
 この連中、女子校では借りてきた猫みたくおとなしくしてたくせに、ホームに戻った途端にこれですか。
 困惑と言うより、怒りのあまりに言葉の出せない結花。
「ありゃ、やっぱりあの子じゃん」
 む、聞き覚えのある声…と、結花がそっちを向いた。
「有崎ぃー、やっぱ演劇部のあの子だぜ」
「つっても、俺に用事って決まったわけじゃ…」
 と、尚斗が姿を見せた瞬間。
「尚斗さ〜ん♪」
 猛ダッシュ、からタックルではなくて、尚斗の身体をぎゅっと抱きしめる。
「もう、遅いですよ、尚斗さん…私、結構待っちゃいました」
「……はい?」
 最高の笑顔を浮かべたまま、結花は周囲に視線を巡らせた。
 花も咲かない男子校。
 出る杭は打たれる。
 たった1人だけの幸せな人間が、周囲のやっかみによって地獄にたたき落とされるのは歴史の常だ。
 そう、歴史の常のはずなのに……。
「なんですか、その反応」
「いや、それはこっちの台詞というか…何の冗談だよこれ」
「冗談なんて…わたし、尚斗さんに会いたくて…」
 慌てて尚斗に視線を戻し、可愛い彼女を演じる結花なのだが……状況は結花の思惑とは別のベクトルを走り始めていた。
「どう思う、宮坂?」
「……」
「……何故、距離を取る」
「いや、ロリコンって、伝染するから」
「は?何言ってんだ、宮坂」
 宮坂の表情は、まさしくこの状況をおもしろがっているのが明確で、尚斗は周囲に注意を向けた。
「あいつって、そーいう趣味だったの?」
「やべーのが、また1人…」
「いやいやいや、待てよお前ら」
 ぶんぶんぶんと首を振り。
「こいつ、高1。16歳」
「……」
 なにやら、自分が侮辱されている気配はあったが、それ以上に尚斗の立場が危うくなっている感触があったので、結花は敢えてそれに乗っかることにした。
「周りの視線なんて気にしちゃダメって、尚斗さんも言ってたじゃない」
「って、おい!?」
「がんばれよ、元親友」
 などと、明らかに状況を悪化させることを目的に、宮坂が周囲を煽る側へと回る。
「みんな、有崎は世間に顔向けできない道を選んだんだ…せめて俺たちぐらいは祝福してやろうぜ」
 他人の不幸は蜜の味。
 薄っぺらい共感意識など既に無く、弱った犬をたたきのめす、日本のジャーナリズムよろしく、歩調を合わせて有崎を叩くことに何の躊躇いもない。
「がんばれ」
「がんばれよ」
「でも、連絡はしないでくれ。関わりたくないから」
「てめえら、いい加減にっ…」
 蜘蛛の子を散らすように、でもはやしてることは忘れずに散っていく男子生徒。
 その光景に、満足げに頷いて結花は女子校へと帰っていった。
 
 そして次の週の土曜日。
 
「尚斗さん」
「……おまえのとこ、今日は休みだろ?」
「演劇部の練習にも休み時間はありますから」
 ひそひそ。
 ざわざわ。
「あの、尚斗さん…」
「なんだよ?」
「お弁当作ってきたんです、良かったら」
「え、マジで……じゃなくて」
「迷惑…でしたか」
「いや、迷惑っつーか……」
 尚斗は一歩近寄り。
 ひそひそ。
 ざわざわ。
「……お前、腹たたねえの?」
「え、何がですか?」
「……そうか、俺は結構むかつく」
「……」
「ま、いいや……弁当は有難くもらう。理由はどうあれ、女の子に、弁当作ってもらうのなんて初めてだから」
「そ、そうですか…それは…その…なによりです」
 気がつくと、尚斗が自分の指先を見つめていて。
「……あ、違いますからね。これ、料理でケガしたんじゃなくて…」
 ひそひそ。
 ざわざわ。
「もう、今日は帰れ、お前」
「え、あ…はい」
 
 そして次の土曜日。
 校門で待つ結花を見て、男子生徒がひそひそと何かを囁きながらそのまま帰って行く。
「お」
「あ」
「有崎なら、こねえぞ」
 ある程度事情を知りつつも、煽る側に回った宮坂が相手なら問題はないだろうと判断して。
「……なるほど、そう来ましたか」
「じゃ、なくて…くくっ」
 と、宮坂は笑いをかみ殺しつつ。
「あの馬鹿、停学中」
「て、停学っ!?」
 結花のツインテールが大きく揺れた。
「な、なんですか、停学ってどういうことなんですかっ!?」
「先週の、あの後、周りではやし立ててた連中を殴り飛ばしたから……馬鹿だよな、教師が見てるってのに」
「……」
「あれ?」
 宮坂が、突き放すような冷たい視線を向けて。
「望んだ事だろ?」
「わ、私は…そんな…」
「あの馬鹿と違って、頭良いもんな……ずっと学年トップなんだろ?自分がこうしたら、どうなるか…なんて、簡単に想像つくよな?」
「……う…」
「良かったな、思い通りになって」
 その言葉がだめ押しとなったか、結花は顔をくしゃっと歪め……それでも涙はこぼさずに、その場から走り去った。
「……ま、楽しませてもらったからな」
 遠ざかっていく結花の背中を見送りながら、宮坂はそう呟いた。
 
「あの、結花ちゃん…噂で聞いたんだけど…」
「……おおむね間違ってないと思います」
「その、これが…結花ちゃんの言う、復讐なの…かな?」
「そうですよ、馬鹿にされましたからね。子供ですから、怖いモノ無しですよ、私」
「いや、その……言いづらいけど、自分自身を傷つけている…としか、私には思えないんだけど」
 おそるおそる、と切り出した夏樹に視線を向けて。
「……夏樹様」
 頼りない先輩だという自覚はそのままに、精一杯の気持ちを込めて結花に問い返す。
「……なあに、結花ちゃん?」
「……いえ、何でもないです」
「そう…」
 夏樹の瞳に、哀しみの色が浮いた。
 
「くあぁ…」
 あくびをしながら、尚斗は教室のドアを開けた。
「おつとめ、ご苦労様です」
 どごっ。
「……いきなり、ヤクザキックは勘弁してくれよ」
「これでチャラな」
「へいへい、お優しいことで」
 停学などというとおおげさだが、男子校でこの程度の暴力沙汰は日常茶飯事だ。
「停学中、色々考えたんだがな」
「何を?」
「あいつを…あのちびっこを怒らせた理由がこれっぽっちも思い浮かばねえ」
「まあ、人の心ってのはそんなもんだろ」
「……と、いうわけでだ」
「と、いうわけで?」
「やり返すしかないだろう」
「やり返すって…」
 宮坂はしばし呆れた表情を浮かべたが…何か合点がいったようで。
「……なるほど、それはお優しいことで」
「何のことだ?」
「いやいや、俺が女なら惚れるね、その優しさに」
「だから、何のことだよ?」
「相手に気付かれちゃ意味がないってか」
 じろり。
「わかってる、わかってるって……友達だからな」
 
「来てる?」
「来てる来てる、マメだよねー」
 きゃいきゃい。
「入谷さーん。また彼氏来てるよ」
「校門の前で待っててくれてるよ」
「早く行ってあげなきゃ」
 きゃいきゃい。
「か、彼氏なんかじゃないって、何度言ったらわかるですかっ!」
「またまた、ほんとはまんざらでもないんでしょ?」
「そーそー。先月のバレンタイン公演の前だって…ねえ」
「うんうん、いい雰囲気だったよね」
「か、からかわないでくださいっってば……そもそも、まだ仕事が終わ…」
「あ、入谷さん。こっちの仕事終わらせておいたから」
「こっちの仕事、私やっておくね」
「……ああもうっ、みんなして何ですかっ!?」
 
 ずんずんずんっ。
「ちょっと有崎さんっ!」
「ああ、もう演劇部終わったのか?今日は早いんだな」
「話をそらすな、です」
 腰に手を当て、仁王立ち……でもちびっこ。(笑)
「校門の前で待ち伏せするなって、何度言ったらわかるんですかっ!」
「いや、毎日毎日帰りが遅いと聞いてな……最近物騒だし、これは是非、俺が送っていってやらねばなるまいと思って」
「人の話を聞けっ、です」
「心配すんな、お前のためなら別に苦労でも何でもないから」
「ああ、もうっ…このストーカー、ストーカー、ストーカーっ!」
「はっはっは、照れるなよ……あ、毎日お疲れ様です」
 守衛というか、警備の人間に尚斗は頭を下げた。
「はは、今日も微笑ましいねえ、君達は」
「ほほえましいって、どこを見て…もごごご」
「すんません、こいつ照れると口が悪くなって」
「むー、むー、むー」
「ははは、藤本先生からも事情は聞いてるから…ま、気楽にやりなさい」
「ありがとうございます…さって、帰るか」
「……」
「どうした?」
「1人で帰ります」
「別にいいよ、俺はちゃんと後ろから見守ってやるから」
「それは、1人じゃないですっ!」
「きにすんなよ」
「気になるに決まってるじゃないですかっ!」
 だが、少しずつ2人の声は校門から遠ざかっていく。
 そして、守衛部屋の影から、2人の女性が姿を現した。
「……んー」
「どうかしたの、橘さん?」
「あ、いえ……何がどうなったのか…ちょっと良く、理解できなくて」
「……尚斗君は、優しいってことですよ」
「……?」
「入谷さんは、自分のせいで尚斗君を停学にしてしまったと自分を責めていましたよね」
「…はい」
「気にするな、と尚斗君が言ったとしても、入谷さんにとって何の意味もないこともわかりますね」
「はい」
 綺羅は、結花と尚斗が歩いて行った方角にちょっと視線を向け……微笑んだ。
「仕返し……という子供っぽい手段をとることで、尚斗君は入谷さんに免罪符を与えようとしたんです、きっと」
「……あ」
 全部……ではないにせよ、それは夏樹の心に緩やかな理解を与えた。
「藤本先生にだけ…言います」
「……なんでしょう?」
 夏樹が何を言うか……わかっていながら、綺羅はそれを促す。
「私、彼に…有崎君に惹かれてました」
「ダメです」
「……そうですね、遅かったです」
 そう呟き、夏樹はちょっと俯いて……顔を上げた。
 おそらくそれを見ていたのだろうが、ちょうどそのタイミングで綺羅が口を開いた。
「今は逆効果ですからね、ここは1つ、しばらく待ちましょう」
「ええ、そうですね…って、ええっ!?」
 慌てて、綺羅を振り返る。
「橘さん、これはと思う相手には必ず競争相手がいます」
「い、いえ、そういうことではなくて…その…」
「うふふふ…」
「いや、うふふって…」
 
「有崎さーん」
「……よう」
「……そんな顔されたら、悲しいです」
「いや、だから…」
 ざわざわ。
 ひそひそ。
「うるせ…」
 怒鳴りかけた尚斗を制して。
「有崎さん、この人達羨ましくって仕方ないんですよ。許してあげてください」
 ざわわ。
「お、おまえみたいなガキ相手に、羨ましくも…」
「俺はロリコンじゃねーし」
 と、言い返してきた連中に目を向けて。
「ま、0は何を掛けても0ですからね」
「ど、どういう意味だ、てめえ」
「いえ、私はあなたたちみたい連中、願い下げですから」
「だから、てめえみたいなガキに興味はねえと…」
「女子校の生徒、100人に聞きました」
 と、懐かしいフレーズで切り出した結花は、その後、周りの男子生徒の精神を滅多切りにし、塩をすり込み、二度と癒えぬ呪いをかけ……。
「はっ、えらそうなこと言って、この程度ですか…」
「……忘れてたわ。そういやお前、結構毒吐くんだよな」
「毒も何も、事実です」
「ごふっ…」
 と、周囲の男子生徒がさらに追い打ちを食らう。
「……地獄へ堕ちろ、です」
「まあ、呪いの言葉はそのぐらいにしとけ」
「そうですね」
 と、結花は尚斗に振り返り。
「お弁当です」
「……」
「嬉しくないですか?」
「いや、嬉しいんだが、もらってばかりだとちょっと気が引けるというか」
「じゃあ、何かで返してください。家まで送り届けるのは無しで」
「……」
「……なんですか?」
「いや、そもそもお前……何を怒ってたんだ?」
「まだ怒ってます」
「すまん、理由が良くわからん」
 5秒、10秒、と時間が過ぎ……ちびっこがぽつりと呟く。
「……真剣でした」
「は?」
「義理チョコじゃなくて真剣でした…なのに、頭撫でられました…にやにや笑って馬鹿にされました」
「あー」
 尚斗はちょっとこめかみに手をやり。
「多少、誤解がある」
「聞きます」
「頭を撫でたのには他意はない」
「……」
「つーか、義理チョコでも何でも、チョコをもらえたのは嬉しくて、顔がにやけてたのは間違いない」
「……」
「そもそも、俺自身がガキだってのに、お前を子供扱いすることに意味もない」
「……」
「……」
「……返事」
「……え?」
 結花は顔を真っ赤にして。
「し、真剣だったって言ってるじゃないですか……その返事を、早くよこせです」
「……お前のことを馬鹿にされて、腹が立った」
「……」
「努力家で、いろんな相手に気をつかって……そんなお前のことを、何も知りもしないで、外見だけであーだこーだいう連中に腹が立って腹が立って…」
 尚斗はちょっと言葉を切り。
「その、なんだ…」
 ぽりぽりっと、指先で頬をかき。
「惚れてるだろ、これは」
「……ほ、惚れてますですか」
「うむ、間違いない」
「ま、間違いない…ですか」
「何度も言わせんな」
「な、何度も言わせんな…ですか」
「おい…」
「…わ、私は真剣で…有崎さんは、私に惚れてて……つまり、物理学的に…私達は両思いって事じゃないですかね」
「ぶ、物理学的かどうかはわからんが…そ、そういうことだと思う…」
「……だ、だったら…どうしますか」
「いや、どうするも何も…」
「わ、わわ、私が思うに……社会心理学的には、私と有崎さんは…その、おつきあいを始めるべきではないでしょうか…」
「社会的心理学はよくわからんが…そういう流れ、かなあ」
「な、なな、何か問題ありますか?」
「いや…ここ一カ月ばかり、2人してさんざんお互いの学校で待ち伏せして、周囲に『俺たち付き合ってます』みたいなポーズを装ってたから、今ひとつピンとこないっつーか」
「……たしかに、そうですね」
「……だろ?」
 結花が俯き……何か、意を決した感じで勢いよく顔を上げた。
「だったら、し、しますかっ」
「し、しますって……お前、いきなり…?」
 尚斗の顔が赤くなったのを笑う無かれ。
 そのあたりの行き違いは、思春期の少年にありがちの若さ故の過ちなのだ…多分、きっと。
 
 10秒後。
 
「馬鹿じゃないですか、馬鹿じゃないですか、何を考えてるんですか、この変態っ」
「あー、いや…俺もちょっとおかしいなとはわかっていたんだが」
 ぺちぺちと頬を叩き、尚斗は素直に頭を下げた。
「悪かった…ちょっと浮かれすぎてた」
「……う、浮かれてたんですか」
「そりゃ、浮かれるだろ…誰かと付き合うなんて、初めてだし」
「そ、そーですか……じゃ、じゃあ、許してあげてもいいです」
「そっか…サンキュー」
「……」
「……」
「……だ、だから、許してあげるって言ったじゃないですか」
「え?」
「ああ、もう、じれったいですね…」
 すっと尚斗の身体により沿い、結花は目をとじて……目一杯背伸びした。
「え、ああ、あぁ…」
 尚斗が上体をかがめ、あと一息というところで。
「お二人さん、状況わかってる?」
「邪魔すんな」「邪魔するなです」
 二人同時に気付き、宮坂からお互いに視線を戻し……おそるおそる、周囲に視線を巡らせた。
「うあああああっ」「きゃあああああっ」
 尚斗と結花の悲鳴……それに遅れて。
「くっそう、羨ましくなんか無いぞっ!」
「死ね、リア充は、死ねっ!」
 などと、それぞれ思いの丈をぶちまけながら、それぞれの幻想のなかの夕日に向かって全力ダッシュ。
「……バカップルのお二人さん」
「……っ」「……」
 結花と尚斗、二人とも宮坂に何か言い返そうとしたが、それにまるで説得力がないことに気付いて自重せざるを得ない。
「おめでとう」
「……」「……」
 顔を真っ赤にして俯く二人。
「記念写真でも撮ってやろうか?」
「うるせえっ」「黙れですっ」
「ま、仲良くやれや…」
 宮坂の呟きを、春風が優しくくるんで運び去る。
 二人の春は、どこまで続いていくのか……それは二人のこれからの努力次第と言うしかない。
 
 
 
 
 校門での待ち伏せ。
 ドキドキのイベントのはずが、何故かこんな事に。(笑)
 いや、最初は『そっちがその気なら、こっちもやり返してやらあっ!』の馬鹿話の予定だったのですが。
 男子校では周囲にちびっこを馬鹿にされて尚斗が腹をたて、女子校では尚斗を馬鹿にされて結花が腹をたて……ある日不意に、互いの気持ちに気がつく……な、黄金パターンだと、どうなるか、などと話が横道にそれ。
 
 こうなりました。(笑)
 
 個人的には。
『ま、待ち伏せしてたわけじゃないんですからねっ、たまたま通りがかっただけなんですからねっ!』
 などと、顔を真っ赤にした結花に言わせてみたいもんです。
 
 ……勘違いした尚斗は、何をしようとしたんだろう。(笑)

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