「……おい、本気かよ?」
「ここまで来て、何言ってんのよ、有崎」
 ほら、早く…と弥生に促されて、尚斗は渋々と…いや、恐々と、ギターを手にして。
「……確かに、しゃーねえか」
 と、自分自身に言い聞かせてから、顔を上げた。
 日曜、午前10時……お昼過ぎならともかく、さすがに目的を持って動いている人間がほとんどだ。
 要するに、『さて、これから何をする?』などと、暇つぶしのねたを探している人間はほとんどおらず、弥生と尚斗の2人が、『これから路上演奏を始めますよ』みたいなポーズをとっても、目を向ける人間すらほとんどいないということだ。
 ただそれは、尚斗にとって予想の範疇。
「弥生、『アレ』からな」
「わかった」
 小さくうなずく弥生の表情にも、ちょっとばかり緊張がうかがえて……それで、尚斗は本当の意味で腹をすえられた。
 自分のギターで人は呼べない……つーか、少しでもかじった人間なら、むしろ馬鹿にするレベル。
 自分のやるべきことは、弥生をその気にさせることと……決して前に出ないこと。
 ツォン、ツォン、ツォン…。
 イントロは、極力静かに入る……道行く人に聞かせる必要はない。
 弥生が、むしろ弥生にだけ届けばよい。
 そんな小さな音を、全身全霊をこめて。
 尚斗の刻むメロディに合わせて、弥生の右足……そのつま先が地面をたたく。
 そして、イントロの最後、1音だけ、強く……同時に、弥生の足が、強く、大地を踏みしめて。
「〜♪」
 弥生の音が、冬の、冷たい風を押しのけていくのが見えるようだった。
 道行く人が、何人か、こちらを振り返る……それをみて、尚斗は口元に笑みを浮かべて心の中でつぶやいた。
『弥生の声を聞いていけよ、お前ら』
 
「有崎、体力なさすぎ」
「うるせ…」
 呟くように答え、尚斗は弥生からペットボトルを受け取った。
 額だけじゃなく、全身がじっとりと冷たいのは、やはり汗のせいだろう……それと対照的に、弥生の表情は涼しげで……。
「で、どうだった…」
「え?」
「気持ちよく、歌えたか?」
「うん」
 あったりまえじゃない、という感じで弥生が頷く……いや、頷いてくれたから。
「そっか…ならいい」
 最低限の仕事は果たせた……と、安堵のため息をついた尚斗に向かって。
「なーおーとっ」
 横から、明るく、からかうような調子で声をかけてくるやつがいる。
「……人違いじゃありませんか?」
 ギターで顔を隠しつつ、そっぽを向いた。
「あら、麻理絵もいるのに」
 追撃の言葉は、ニヤニヤ笑いが目に見えるようで。
「うるせーな……どーせ、お前が連れてきたんだろ、紗智」
「あはは、でもついてきたのは、麻理絵だから」
 はあ、とため息をつき、尚斗はギターを下ろした。
 そして予想通りに、紗智がニヤニヤ笑っていたり……というか、目が、獲物をいたぶる猫を激しく連想させる。
「それにしても、尚斗に、こんな趣味があったなんてねぇ」
「私も、知らなかったよ…」
 と、これは麻理絵。
「そりゃ、そーだろうよ」
 投げやりに答えつつ、尚斗は、なぜ紗智がそれを知っていたのか……に、思いをめぐらせた。
 とんとん。
「ん?」
 振り向けば、弥生。
「あぁ、こいつら、麻理絵と紗智っていって…」
「知ってる。同じ学校の、同級生だもの」
 さらりと、どこか無表情に弥生。
「……まあ、そりゃそうか」
 内部進学組と外部受験組という違いはあれど、1学年4クラスの小規模であるからして、顔見知りでもおかしくない。
「じゃあ…」
 と、尚斗が振り返ると。
「いや、橘先輩と同じで、九条さんを知らない人、私たちの学年というか、学校にいないから」
 と、紗智。
 麻理絵も、こくこくとうなずいている。
「と、すると…?」
 尚斗は、あらためて弥生を見つめ。
 さっきの、『とんとん』、および、もの問いたげな表情は一体何なのか……と、口にした。
「……えーと」
 弥生には珍しく、どこか逡巡するように。
「……誰?」
「だから麻理絵と紗智……知ってるって、言ったじゃねえか」
「椎名麻理絵さんと一ノ瀬紗智さん、でしょ?そのぐらい、知ってるっていってるでしょ?」
 怒ったように、弥生が言う。
「いや、わけわかんねえんだが…」
「尚斗、尚斗…」
 苦笑いを浮かべつつ、紗智が助け舟を出した。
「あのね、九条さんは、尚斗と私たちの関係を聞いてるの」
「か、関係って…そんな…」
 と、大げさに思えるぐらいに恥らう弥生。
 なんだそりゃ、と、思いつつ、尚斗は簡潔に説明した。
「……麻理絵は、俺の幼馴染。紗智は、麻理絵の友人」
「あら、尚斗ったら…」
 すすすっと、尚斗に近づき、紗智はその腕を抱いた。
「そんなつれない紹介は、い・や・よ」
「はぁ?」
 二の腕にあたる…麻理絵や弥生ほどではないにせよ、やわらかいふくらみの感触に尚斗はどぎまぎする。
「もう、別に隠さなくても、いいじゃない…ね?」
 ばしんっ。
「痛ぁーっ」
 悲鳴を上げ、紗智が尚斗から離れた。
「怒るよ、紗智…」
「うう、戦場では後ろから弾が飛んでくる…」
 ねじれた姿勢で背中を押さえつつ、うめく紗智を放置して。
「それとっ」
 麻理絵が、ぎっと尚斗をにらみつけた。
「尚斗くんっ、鼻の下伸びすぎ…格好悪い」
「男のサガだ、無茶言うな」
「我慢してっ」
「努力はするが、約束はでき……」
 口を閉じ、尚斗は……ゆっくりと、そちらに視線を向けた。
 弥生は笑っていた。
 そして、器用にも、その笑みを動かさないまま言った。
「へえ」
 いうなれば、真冬。
 何も悪いことはしていないはずなのに、尚斗は、なぜか言い訳をしなければいけないような気分に陥った。
「今の、紗智の冗談だぞ?」
「へえ」
 春は遠かった。
「……何を、勘ぐってんだが知らねえけど、俺とあいつがそういう仲だったら、こんな風に弥生のために演奏したりしねえっつーの」
「……どうかな、有崎って、誰にでも優しいし」
 雪解けの気配。
「うん、尚斗って優しいよね…だからアタシも…」
 恥らいつつ、潤んだ瞳の紗智が言う。
 ばしぃん。
「痛ーぁ!」
「紗智っ!」
「うう、親の心、子知らずってこのことよね…」
 再び、ねじれた姿勢で背中を押さえて紗智がうずくまる。
 さすがに、弥生も気づいたようで。
「……えっと、椎名さんは、有崎の…」
 麻理絵に、そして尚斗に視線を戻して。
「幼馴染…?」
「麻理絵には、付き合ってる相手がいるってーの。妙な勘ぐりはするな」
「…別れたよ」
「……」
 尚斗は、麻理絵を見て……あらためて、見つめた。
「そっか、そうなったのか…」
「うん…」
「……なんか、やらしい」
「あ?」
 眉を吊り上げ、尚斗は弥生を見た。
 何か言いかけたはずの弥生が、尚斗の顔を見て口をつぐむ。
「麻理絵も、みちろーも、俺の幼馴染なんだよ。高校にあがってからは、遠く離れて……俺にそんなこと言う権利もないけどな、色々あって……とにかく、お互いが嫌いになって別れたわけじゃねえよ。好きな相手と別れて、悲しくないわけないだろ?それを…」
「尚斗くんっ」
 尚斗の手を握り、麻理絵が、首を振った。
 麻理絵の顔を見つめ……尚斗は、ふーっと息を吐いた。
「悪かった…細かいことは説明しないけどな、俺にはそんなこと言う資格がないし、何もできなかったって後ろめたさがあったんだ…だから、きつい言い方になった」
「ううん、ごめんなさい」
「相手は俺じゃねえだろ」
「うん」
 弥生はあらためて、麻理絵に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、椎名さん」
「いいよ」
 麻理絵はちょっと目を閉じて……小さく。
「あながち、外れてもないから…」
 
「あはは、尚斗のギター、ひどすぎ」
「そう?」
 2人からは少し離れた場所で、紗智と麻理絵。
「何とか、ぼろを出さずにすんでるってレベル」
「そう?」
「……」
 紗智は、ちょっと困ったように。
「正直、ちょっと妬ける…」
「……だね」
 と、麻理絵は微笑んだ。
「いやいや、その微笑み、負けフラグだから、麻理絵」
「あはは…」
「っていうか、あの2人、付き合うとなると、結構障害だらけと思うのよね」
「……?」
「庶民とお嬢様っていうか……九条流って言ったら、この国の華道の世界で最大の流派だしね……しかも、実力を備えた跡取りときてる」
 麻理絵はちょっと笑い。
「私にわかるのは、美人で、性格もよいってことぐらいだよ」
「つりあわなーい」
「私とみちろーくんも、そう言われたよ」
「……」
「私は、つりあわないとは思わないけど」
「あばたもえくぼ」
 麻理絵は、笑みを消し。
「必死だね、紗智は」
「何が?」
「尚斗くんを、好きにならないように」
「あはは、友達としてはいいと思う」
「……私には、『素直になれ』って言うくせに」
「商売の基本はね、他人にリスクを負わせることなの」
 この話はもう聞きたくないな…という感じに、紗智は、弥生と尚斗に視線を向けた。
「あらら、結構集まってきてる」
「尚斗くんの、演奏だもん」
「や、贔屓目に見ても、九条さんだから……まあ、美人だしね」
「……素直にほめてあげようよ」
「……いろんなものを持ってるって、妬ましい」
「あはは…それはわかるけど」
 紗智は、麻理絵を見つめて。
「麻理絵、ゴー」
「な、何を?」
「略奪愛」
「……九条さんもだけど、尚斗くんには嫌われたくないよ」
「じゃあ、爆竹投げ込むぐらいにしとく?」
 と、ポケットからそれを取り出した紗智に、麻理絵はちょっと呆れて。
「用意、してたんだ…」
「世の中、ひどい人もいるもんよねー」
「自覚してるなら、やめて」
「……九条さんは、割と古風な道徳観念の持ち主だと思う」
「い、いきなり、何かな?」
 あんまり続きを聞きたくないなあ、という表情で麻理絵。
「スカートとか短いけど、アレはいわゆる型から入るというか……たぶんね、本当の意味で自分から積極的には動けない人だと思うの」
「……」
「……何よ?」
「いや、人って、案外自分のことはわからないものかなって…」
 おそらく、紗智にも自覚があったのか、麻理絵の言葉を軽やかにスルーして。
「麻理絵、女の武器は、使いどころを誤っちゃいけないわよ」
「……自分でやれば?」
「私がやってどうするのよ……っていうか、ほら、私スレンダー美人だし」
「なんだろう……馬鹿にされてるような気がする」
 
「……やっぱり、体力ないよね、有崎」
「うるせー」
 自分でもそう思ったから、尚斗は何も言い返さなかった。
「まあまあ、それだけ集中してるってことでしょ」
「まだ、いたのか…」
「ほら、ギャラリーの顔がわからないぐらいに」
 そう言って、紗智がへらっと笑った。
「尚斗くん、差し入れ」
「さんきゅ」
 尚斗が、麻理絵の手からペットボトルを受け取った。
「はい、九条さんも」
「え、いいの?」
「いらない?」
「う、ううん…ありがとう、椎名さん」
 と、弥生が麻理絵の手からペットボトルを受け取った。
「唐辛子とタバスコをブレンドして、一口飲めば、のどが焼け爛れて…」
 ばしぃんっ。
「〜〜っ!?」
「そんなこと、しませんっ!」
「後ろからしか、弾が飛んでこない戦場って、どうなの…?」
「知らない」
 ぷいっと、そっぽを向き……麻理絵は、弥生に視線を向けた。
「尚斗くんと違って、九条さんは汗もかいてないね」
「ま、有崎とは体力が違うもの」
「そりゃ、気持ちよく歌ってるだけじゃね」
「……どういう意味?」
 弥生が、紗智をみる。
「そりゃ…」
 背中の痛みを紛らわせるように、大きく伸びをして。
「言葉通りの意味だけど?」
「……」
「いちゃもんつけてると思われるのも嫌だから…」
 と、紗智は……財布からコインを取り出して。
 チンッ。
 乾いた音を立ててはじかれたコインが落ちてきたところを、紗智は、両手を交差させるようにして握りこんだ。
「どっち?」
「え?」
「右」
「やるじゃん、尚斗」
 そういって、紗智は右手を開いた。
「男子は、そういうのよくやるからな」
「九条さん、『ちゃんと』見てね」
「おっけー」
 チンッ。
 凝視する弥生の目の前で、紗智が1度フェイクを入れてからそれを握りこんだ。
「左っ」
「残念」
 と、紗智は右手を開き、もう一度コインを上にはじいた。
 2度、3度と弥生ははずし続け、4度目の前に、紗智がからかうように言った。
「九条さん、汗かいてるわよ」
「え?」
 弥生が、指先で額に触れる。
「体力ないのね、九条さん」
「こ、これはっ、真剣に…」
 弥生は、言葉の続きを失った。
「真剣にやれば、誰だって汗ぐらいかくし、疲れもするわよ…慣れてなければ、特にね」
「……」
「尚斗と違って、汗もかかない自分を恥じるのが先じゃない?」
「ちょっと、紗智…」
 麻理絵が、紗智の服の袖を引っ張った。
「いや、だってさ…ちょっと腹立つじゃん。尚斗の友達としては」
「紗智」
「なにー?」
 どこかふてくされたように、紗智が尚斗を見る。
「気、つかってくれてさんきゅ」
「……うん」
 予想していなかったのか、紗智はただうなずいた。
「でもな、それでいいんだ」
「……」
「俺、弥生が、気持ちよく歌ってるの好きなんだよ……つーか、演奏してるとき、それしか考えてねえ」
「有崎…」
「俺、素人だけどさ、弥生の歌って、なんかこう……妙な重荷を背負ってないほうがよいと思う。えっと、なんていうか…」
「はいはい、ごちそーさま」
 もういい、と紗智は右手を上げ、尚斗に背中を向けた。
「麻理絵、映画の時間」
「え、あ、うん…」
 紗智に話をあわせ、麻理絵は、尚斗と、弥生にちょっと頭を下げて、紗智の後を追いかけた。
「……」
「……俺、なんか変なこと言ったか?」
「変な事は言わなかったよ、有崎は」
「だったら…」
「ねえ、有崎」
「ん?」
 何も言わず、弥生はただ、尚斗を見つめ続ける。
 どこか居心地の悪さを感じて尚斗が目を逸らそうとすると、弥生がしなやかな指先を伸ばして、それを押しとどめる。
「え、えっと…」
「見てるから」
「え?」
「私、有崎を、ずっと、見てる」
「……え?」
「……なんで、わっかんないかなー」
「な、何をだよ…?」
 目を逸らそうとした尚斗を、やや乱暴に弥生が押しとどめ。
「人の目があるから、何もできないと思ってる?」
「あの…な、弥生」
「なに?」
「勘違いしそうになるから…その、あんま…近寄んな」
 一瞬の間。
「ふふふ…」
 弥生の指がすっと伸び。
「ふふふふふ…」
「にゃ、にゃにを…?」
「有崎ぃ、勘違いも何も、あなたが私を捕まえたの。ここ大事、すっごく大事」
「ふ、ふぇ?」
 笑っているのに、微妙に怖い……。
「……つーか、弥生ちゃん。演奏まだ?」
「まあ、これはこれで、見世物ではあると思うけど」
 からかうのではなく、冷たいわけでもない……ふつーの口調。
「……」
 弥生の表情から、何かがおちた……たぶん、憑き物が落ちたという表現が一番近いように尚斗は思ったのだが。
 ぎゅうううう。
「痛ててててっ!」
「気づいていたなら、どーして早く言わないのっ!」
「気づいてねえっ!つーか、そんな余裕、これぽっちもねえっ!」
「……こほん」
 尚斗の頬をつまんだまま、弥生は肩越しに振り返った。
「あれ、温子に世羽子…どーしたの、こんなところで?」
「うわ、この状況を素で流せると思ってる…」
「流してよっ。っていうか、ここは流してくれるのが友情じゃないっ?」
 元に戻したはずの顔色は、一足早く桜色。
「友情?」
 何、それ…という表情で温子が、世羽子を見る。
「えっと…」
 世羽子がかすかに眉をひそめ。
「私、一応弥生を預かっているという形だから、この証拠写真とともに、弥生のお母さんに不順異性交遊の報告はしなきゃいけないとは思うんだけど」
 などと、さりげなく携帯をちらつかせるあたり、おとなしそうでいて、実はこの3人の中で、もっともしたたかなのではないかと、尚斗は怪しんでいたりする。
 が、弥生は気づいているのかいないのか。
「不純、違う。絶対違う」
 などと、抗弁のポイントがややはずれ気味な感じ。
「弥生ちゃん」
 残念そうに、温子が首を振り。
「この国は、未成年の人格が認められてないの。すなわち、未成年の交際は、すべて不純異性交遊だから」
「彼氏もちの、温子に言われたくないいいいぃっ!」
「あ、私達は、両親公認だから良いの」
 しれっと、温子。
「ど、どーせ、親にはいえないようなお付き合いしてるんでしょ、やらしいっ」
「あー、ちょっと、落ち着け、弥生…」
 弥生の慌てている姿を見て、尚斗はようやく冷静さを取り戻せた。
 そして、それが見ていてわかったのだろう。
「有崎君」
 短く呼びかけて、世羽子が尚斗を見る……別に怒っているわけではなく、むしろ優しい感じのする表情なのだが。
「何か、おごった方が良い?それとも、おごってくれるのかしら?」
「え?」
 意味を理解できなかった尚斗に、温子が言葉を足した。
「邪魔されて迷惑だった?それとも、良かった?」
「……あー」
 尚斗は、頭をぼりぼりとかいてから。
「おごらせていただきます」
「素直だね、有崎君」
「押しが弱い、とも言う」
「……つーかさ」
 尚斗は、弥生に視線を向け。
「弥生、この2人となんか約束してたんじゃないのか?」
「えっ?」
 きょとんとした表情を浮かべた弥生に。
「最低…」
「ないよねえ、友情は」
 世羽子はさめた視線を向け、温子は首を振ったのだった。
 
 尚斗におごってもらった、コンビニ中華まんと、ホットココアを手に……温子と世羽子は、少し離れた位置で、尚斗の演奏で歌う弥生を見つめている。
「ふむ、悪くない…」
「そうね」
 温子はちょっと世羽子に視線を向け。
「演奏の話だよね?」
「演奏の話よ?」
 何を言ってるの…と、世羽子がため息をついた。
「そっちは、もう、弥生が決めちゃってるんだから、私たちがあれこれ言っても仕方のないことだもの」
「そりゃそーだ」
 もぐもぐ。
「有崎君、自分がどれだけ恐ろしい相手に捕まったのかっていう自覚ないよね、たぶん」
「ないでしょうね」
 もぐもぐ……と、中華まんを食べ終えると、自分で買ったコンビニおでんを温子が取り出して。
「世羽子ちゃんも、食べる?」
「大丈夫」
 と、世羽子が控えめに、ココアの缶を持ち上げた。
「いや、中華まんの新作は珍しくないけど、おでんダネの新作は、珍しいからね、つい」
 微妙にいいわけくさいことを呟きつつ、新作のおでんダネ以外のものが、もりもり詰まった容器を抱えて。
「つーか、なんだろ、これ?」
「……チャレンジャーね」
「何も知らないほうが面白いからね」
「わからなくも、ないけど」
「……世羽子ちゃん」
「……なに?」
「……混ざりたい?」
「別に」
「……演奏の話だよ?」
「演奏の話よ?」
 もぐ。
「……食べる?」
「美味しくなかったの?」
「新しく買ってきて、弥生ちゃんに食べさせるというのもありかな」
 世羽子はため息をつき。
「何が言いたいの、温子?」
「んー、内角の和が180度」
「温子の彼氏は、私の趣味じゃないわ」
「ごめん、もう言わない」
 
「おつかれー」
「お疲れ様、有崎君」
「ああ、さんきゅ」
「……あ、あの、私には?」
 何もないのかな、という表情で弥生。
「弥生も、お疲れ様」
「ありがと、世羽子」
「……大人だねえ、世羽子ちゃんは」
「弥生の保護者だもの」
「や、同い年だから、私たち」
 と、弥生のツッコミ。
「そっか、保護者じゃしかたないね」
「ヨーコさん、これからも弥生のことよろしく」
「ええ、それなりに」
「ちょっと」
「約束ひとつ守れないどころか、約束そのものを忘れてしまうような娘ですが、仲良くしてやってね、有崎君」
 などと頭を下げ、弥生のツッコミをスルー以前の問題にしてしまう世羽子。
「むう…今日は、世羽子が、なんか冷たい」
「約束すっぽかせば、そーなるだろ」
「んー、そーなんだけど…」
 いまひとつ納得がいかないのか、弥生が首をかしげる。
「ねーねー、有崎君」
「ん?」
「金を要求するのは強盗、じゃあ、金と命を要求するのは?」
「あ、それ知ってる。『女』だろ」
「正解」
「つーか、いきなり何故それを?」
「んー、なぜだろうねえ」
 と、温子は腕組みし、せいぜい難しげな表情を浮かべて見せた。
「次に奪われるのは、人生なのだよ、たぶん」
「温子」
「はーい」
 と、返事だけは元気よく。
「じゃ、弥生ちゃん。私たちは行くね」
「ん、今日はごめんなさい」
「そうね、海よりも深く反省して」
「う、うん」
 もう一度頭を下げた弥生に背を向け、温子と世羽子が歩き出す。
「……しかし、まあ、そのことに何の不満もないんだけど…あれだよね」
「何?」
「私たち、気がついたら軽音部を『立ち上げさせられてた』よね」
「私や温子と違って、計算じゃなく、天然なのが、弥生の怖いところよ」
「……ちなみに、世羽子ちゃん」
「なに?」
「本気で阻止しようと思ったら、どうする?」
「弥生の妹さんを利用するしかないわね……弥生の唯一の弱点だし」
 さらり。
 温子はため息をつき。
「有崎君の前途に、幸あれかし」
「……弥生に捕まったことが、不幸みたいな言い方はやめなさい」
「前門の狼、後門の虎…」
 そう呟いてから、温子は、先の2人の姿を思い出して。
「四面楚歌?」
 と、首をかしげるのであった。
 
「ん、ん〜〜っ」
 弥生が大きく伸びをして。
「やっぱ、気持ちいいよね、空の下で歌うのって」
「まあ、人の目があるという条件を除けば、わからなくもない」
 ギターを片付けながら、尚斗。
「え?人の目があると、気持ちにハリが出たりしない?」
「……まあ、弥生の場合、小さいころから他人の視線にさらされるのが日常だったわけだしな」
 それとは別に、人の目がなくても緩んだりしないのがこいつのすごいところだが……と、尚斗は心の中で呟く。
「有崎ぃ」
 微かに、語尾を延ばした呼びかけ。
 尚斗はちょっと息を吐き、ゆっくりと振り向いた。
 弥生の目が、ただ自分を見つめている……口元には微かな笑み。
 それは、弥生が時折御子に向ける表情とよく似ていて……でも、何かが違う。
 尚斗は、こんな風に弥生に見つめられるたびに、少し怖いような気分になる。
「……なんだよ?」
「……今日は、ありがとう」
「別に…ほかにやることもなかったしな」
「さびしー」
「うっせえ……つーか、あの2人にもう一度謝っとけよ」
「うん、そうする」
 弥生がうなずく…いや、うなずいたように見えただけなのか、視線は尚斗に注がれたままだ。
「…陽が落ちる前に帰ろうぜ」
「うん、わかった…」
 ここでようやく、弥生の視線が外れた。
「ギター、がんばってるんだね」
「誰かさんのせいで、買っちまったからな……やらなきゃ、もったいねえだろ」
 お年玉と、宮坂の馬鹿がどこからかもって来るバイトでためた金の半分ほどが吹っ飛んだ……が、今のところ、尚斗はそれを後悔していない。
「もったいないって…そういうのは、ギターがかわいそう」
「弥生に弾かれるよりはマシ」
 弥生は怒らなかった。
「……悪い」
「え、なんで?」
 意外そうに、弥生。
「なんでって…そりゃ、今の…お前の悪口じゃん」
「……私のことを知らない人間が言えば、ね」
「誰が言おうと、悪口は悪口だろ?」
「そうかな、悪口には聞こえなかったよ」
 そして弥生がにこりと笑って。
「ほら、一緒にかーえろ」
 ぎゅ。
「おわっ」
 反射的に、それを振り払う。
「……腕ぐらい、組んでもいいでしょ」
「いきなりはやめろ、いきなりは」
 と、首を振りながら、尚斗は、ギターケースを肩に担いだ。
「じゃ、宣言してからなら…」
「丁重にお断りしてやる」
「……なんで?」
「……なんで?」
「……?」
「いや、その…弥生は、俺と腕を組んで帰りたいわけ?」
「したくなきゃ、やらない」
 きっぱり。
「……えーと」
「私、有崎が嫌なことはしない……だから、有崎がそうやって、嫌がるフリをしてる理由がわからない」
「フ、フリ?」
「じゃあ、有崎は、私と腕を組むの嫌なの?」
「そりゃあ…」
「本当に?」
 尚斗は、頭の中でぐるんぐるん回転してる何かを、ひたすらに問い詰め。
「嫌じゃない…けど、恥ずかしい…」
「そっか…」
 弥生はちょっと笑って。
「じゃあ、人のいないところならいいよね…それまで我慢する」
 何かするりとすり抜けられたような気がしたが、尚斗は、ただうなずくしかできなかった。
「あ、ああ…」
「じゃ…」
 ぴょんっ、と一歩跳ねるように踏み出して、尚斗を振り返り。
「帰ろう、有崎」
 今から、弥生と一緒に、同じ場所に帰る……弥生の表情は、尚斗にそんな錯覚を覚えさせた。
 
 
 
 
 さて、原作において軽音部を作る原動力になったのは誰なのか……などと考えたりはしませんでしたか。しませんでしたか、そうですか。(笑)
 なんというか……弥生が、細かい実務をこなすイメージが浮かんでこない。
 少なくとも、音楽に接している弥生と、実務は相反するような気がして……まあ、世羽子と温子だよな、などと思ってしまうのです。
 エンジンが弥生、タイヤというか、両輪が温子と世羽子……そういう感じですかね、高任のイメージは。
 
 まあ、熱量保存の法則というか、他人をその気にさせる人間は、口がうまい……じゃなくて(笑)、大抵熱量が豊富なように思われます。
 と、いうわけで……弥生に侵略されていく……という話もありかな、などと。

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