誰かを想い、眠れなくなる夜。
 ガラスに映るのは、恋する乙女。
 窓を開ければ、想いが夜空を駆けていく……そう、あなたの元へ。
 
「……くしゅんっ」
 くしゃみと寒気が、夏樹を現実へと引き戻す。
 首を振り、窓を閉め……無意識につづっていたらしい、他人には決して見せられない乙女チックなポエムに気付くと、慌ててぐじゃぐじゃに塗りつぶし、念を入れてビリビリに破いてからゴミ箱へ捨てた。
 夏樹は再び首を振り、次に赤面し、罪のないぬいぐるみを手荒に扱うことでやつあたりしたと思ったら……今度は、部屋の中には誰もいないのに、ぶつぶつと言い訳じみた独り言を開始する。
 そして最後に。
「も、もう…私ばっかりこんな気持ちにさせて…ずるいんだから…」
 これでワンセット終了。
 そしてまた気がつくと、窓辺で夜空を見上げていたりするのだ。
 寒さも厳しい2月だというのに、よく風邪をひかずにすんでいる。
「……はぁ」
 ため息をつきつき、結婚式でたまに見かける2人のなれそめイメージビデオよろしく、出会いから現在に至るまでの、思い出の反芻を始めたところで、夏樹の夜は第二ステージへと移行する。
『横倒しにしてもでかい女だな』
 などというひどい言葉も、今となってはよい思い出。(笑)
 あばたもえくぼというか、恋は盲目というか、『うん、裏表のない人柄の証拠よね』などと、ポジティブというより、アグレッシブな解釈に終始していたり。
 時折、『きゃー』などと顔を赤面させて、罪のないぬいぐるみをばんばん叩き付けたりするのは、一体何を思いだし、何を想像しているのやら。
 女子校生まれの女子校育ち。
 夏樹は、いわゆる異性への免疫がないだけでなく、例の『夏樹様』を強いられる日常生活を続けてきたことで余計に、乙女コスモの絶対量を増大させてきた節があった。
 女子校の生徒達の白馬の王子様を演じる夏樹自身が、誰よりも白馬の王子様に憧れるようになっていたのは皮肉と言えよう。
 まあ、それはそれとして……高校も卒業間際のこの時期になって、夏樹は目一杯、恋する自分を楽しんでいた。
 
「ああ、ちょうど良かったわ。聞きたいことがあったの」
「ありゃ。なんすか、夏樹さん」
「ここの、この台詞なんだけどね…なんか、男の子の口調としては不自然かなって…ほら、私…」
 女子校育ちで、女だから…。
「あー、そりゃそうすね」
 呑みこんだ言葉を、そのまま受け取ってくれる……ただ、それだけのことが、こんなにも嬉しい。
「でも、俺の場合、ちょーとばかり、柄が悪くなっちゃいますよ?それでも、いいんですか?」
「いいの。ちょっと伝法な感じの…ほら、ぶっきらぼうな感じが出るかなって」
「なるほど…だったら」
「あ、廊下で立ち話も何だし…」
「そっすね」
 さりげなく、尚斗の手を取って……夏樹は、図書室へと歩き出す。
 
「はあ…」
 ため息。
 恋する乙女のテンションは、まるでジェットコースターのよう。
 その姿を目にするだけで、会うだけで、話をするだけで。
「……多分、脳内物質とか、どかどか出てるのよね、これって…」
 もう一度ため息をつき、夏樹は自分の頬を手のひらで押さえた。
 さっき、ほんのついさっき……尚斗の手に触れ、肩を叩いた、自分の手。
 その手を頬に当てたまま、ふっと窓の外に視線を投げる。
 今日は、もう……会えない。
 明日も、確実に会えるという保証もない。
 1日24時間のうち……運が良くて、30分。
 48分の1の幸福が、今の夏樹の全て。
 まあ、それの何倍もの時間を、色々と費やしているのは敢えて言うまい。
「知らなかったな…」
 ぽつりと、意識することなく夏樹の口から漏れた呟き。
 幸せを知った瞬間、人は、不幸をも知るのだと。
 
 そして、また陽が昇る。
 
「どうしたの、結花ちゃん」
「ああ、夏樹様」
 くるっと、あらためて振り返り。
「男子生徒の引っ越し、来週の木曜日に決まったそうですよ」
「……引っ越し?」
「仮校舎、来週の頭に完成するそうです」
「あ、そうなんだ…」
「……」
「……えっと、どうか、したの?」
「……まあ、夏樹様が良いなら、それはそれで構わないんですけど」
 ぺこっと、頭を下げ、結花が再び忙しく立ち働き始める。
 今度のバレンタイン公演では主役を務めるというのに、相変わらずというか、これまで以上に大車輪の働きを見せている。
「……劇の内容変えちゃった、私のせい、とも言うけど」
 その点、今回に限っては夏樹は随分と楽だ。
 もちろん、脚本の手直しやら何やら色々とやることは多いが、役者としての負担が目に見えて少ない。
 なにせ、夏樹様オンステージだと、ほぼ舞台の上に出続けるというか、演技と台詞の量が半端じゃなくなると言うか、そもそも台詞の一つ一つがやたら言い回しが難解で(以下略)。
 
 さて、その一方で。
 
「……平気なんですかね、夏樹様」
「え?」
「あ、すみません、独り言です」
 あらためて指示を出し直し、結花は脚本を片手に椅子に腰掛けた。
 夏樹様の親衛隊員であり、ガードドッグ『ぽち』を自称する結花としては、やや心境は複雑だ。
 もちろん、自分の尊敬する夏樹様が誰かのモノになってしまうのは嫌だというのが偽らざる本音なのだが、尚斗には世話になったという恩義を感じているのも事実であり、顔とか能力はおいといて、平穏さを愛する夏樹を裏切らず、大切にしてくれそうな気はするんですよね……などと、いつか来るかも知れないその日のために、心の準備を始めていたりもする。
 そもそも、自分よりも夏樹様が大事という親衛隊員の思想を体現しようとすると……まあ、夏樹様のやりたいようにしていただくのが一番……そんなところに、心を着地させたりもする隊員もいなくはないだろう。
 もちろん、『我々の夏樹様を、男の手に委ねるなんてとんでもない』という過激派が出てくることも想像に難くない。
 ……簡単に言うと、今の結花は、『忙しい』という理由をたてに、親衛隊員の連中に対して、本当の報告をしていないのである。
 ちなみに、先のやりとりからもわかるように、結花の、夏樹に対する印象は、クロ。
 
 そう、夏樹様は、恋をしている。
 
 もちろん、指摘されるまでもなく、夏樹自身がその自覚があるわけで。(笑)
『男子生徒の引っ越し、決まったそうですよ』という、いわば探りの言葉に対して、夏樹が無反応だったわけはいたって簡単である。
 
「え、引っ越しって…え、ええっ!」
 夏樹がそこに気がついたのが、その日の夜だったからだ。
 
 夏休みの最終日に、子供達は、日常が脆く、唐突に終わりを告げるモノであることを知る。
 あれが、モノの哀れとか、そういったモノを教え込む教育としての狙いがあることはあまり一般的に知られていない。
 そして今、夏樹は、タイムリミットの存在に否応なく気付いてしまったわけで。
 高1の夏。
 人が減り、廃部寸前だった演劇部。
 このままじゃ、演劇部が無くなってしまう。
 どうすればいい、何をすればいい、そもそも、自分には何が出来るのか。
 気ばかり焦って、問題点が目についてもその解決策が見いだせなくて……上級生は負い目からなのかどこか投げやりに、下級生は不安とあきらめで、何かを投げ出していた。
 そこに…。
『お話があります』
 分厚い資料を手に、演劇部の部室に乗り込んできた少女。
 その分厚い資料は、現役部員に対するプレゼン。
 誰が何をすべきか……彼女は、自分たちに道を示し、役割を与えてくれた。
「……」
 夏樹は無意識に、原稿の詰まった紙袋を抱きしめていた。
 落とした紙袋を拾われて、中の原稿を読まれて…『面白かった』と、言ってくれたあの日、あの時。
 夏樹は、尚斗に向かって言った。
 
『笑わないでね…結花ちゃんが、私の憧れの存在なの』
 
「あぁ……そうか…そういうこと、なんだ」
 紙袋を抱きしめたまま、夏樹が呟く。
 演劇部で、学校で、ずっと、与えられた役割を演じ続けてきた。
 ようやく、それとも、望外に、というべきだろうか。
 夏樹は、『自分が結花になれるチャンス』を与えられたことを知った。
 動かなきゃ…。
 自分から動かなきゃ、何も始まらない…。
 
「え?」
 結花はまず、自分の耳を疑い……やがて、夏樹の顔を見つめた。
「本気ですか、夏樹様?」
「うん」
「そーですか……まあ、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言いますしね」
「うん?」
 夏樹が首をかしげる。
「いえ、なんて言うか…」
 結花はちょっと口ごもり……それでも、今それを言わないと、二度とそんな機会が無いと思ったのだろう。
「有崎さんとそーなった以上、夏樹様は、夏樹様という立場を受け入れてはくださらないだろうと、思ってましたから」
「……バレンタインの日って、何のためにあるのかわからなかったの」
「……」
「好きな人が出来て、どうすればいいのかって思ったとき……『それ』に気がついて、すごく嬉しかった」
 夏樹は、結花にちょっと笑いかけ。
「結花ちゃんなら、そんな口実、必要ないかも知れないけど」
「どうですかね」
 結花は、笑いもせず。
「そういう意味では、私、恋をしたことなんてありませんから」
「結花ちゃんは、何も困る事なんて無いと思うわ」
「……まあ、有崎さん曰くちびっこですからね。恋愛対象には…」
「そんなことないっ、そうじゃないのっ、結花ちゃん」
 夏樹の口調の激しさに、結花はびくっと身体を震わせ……夏樹を見つめた。
 そこを、ふわりと…夏樹に抱きしめられる。
「うぁ…」
 意味不明な呟きと共に、結花が身体を硬直させる。
「結花ちゃんを、好きにならない人なんていないと思う…」
「……有崎さんもですか?」
「……えっと」
「好みじゃないんです。夏樹様には申し訳ないですが」
「う、うう…」
「すみません、ちょっとした意地悪です」
「そ、そうよね、有崎君、素敵よね、結花ちゃんもそう…」
「いえ、そっちではなく…」
 はあ、とため息をつき、結花は、夏樹の抱擁から逃れた。
「じゃあ、話を戻しますけど……夏樹様が有崎さんにチョコを渡すまでは、ファンからのプレゼントは受け取らない。それを、みんなに通達して徹底させるってことで、本当にいいんですね」
 夏樹は顔を赤らめて俯き。
「そ、その時まで…女の子の気持ちでいたいの…」
「はあ、出来れば午前中に済ませてください」
 ため息混じりで、どこかぶっきらぼうな言葉遣いでありながら……結花は、そんな夏樹を、どこか眩しげに眺めていた。
「う、ん…頑張る」
 夏樹は顔を上げて。
「ほとんどの子はお祭り感覚かも知れないけど、好きって気持ちをないがしろにはしたくないの……だから」
「……断られても、引きずらないでお願いします。公演もありますし」
「う、うう…そ、そうかな?結花ちゃんから見ても、やっぱりそう見える?期待薄なのかしら?」
「どうですかね」
 と、結花がそっぽを向いた。
 そこまで、譲歩するつもりはない。
「あのね、結花ちゃん……一度聞きたいと思ってたんだけど」
「何ですか?」
「ほら、演劇部の…結花ちゃんが中等部の時に、演劇部に乗り込んできた…」
「はい」
「演劇部の立て直し……失敗するとか、考えなかったの?」
「可能性は考えました」
「……」
「無責任な言いぐさですけど、失敗して、廃部になったら…私は、新しく演劇部を作ろうと思ってました」
 夏樹は、結花を見つめ……そして、微笑んだ。
「ありがとう、結花ちゃん」
「……?」
「いいから」
 笑って、夏樹は、結花に背を向けた。
 今、夏樹は、結花からこれ以上ない勇気をもらったのだ。
 そして、残された結花は……ぽつりと呟く。
「……ひょっとすると、わかってないのかも知れませんね」
 夏樹が、尚斗にチョコを渡すまで……渡すまでは、女の子の気持ちでいたい。
 それを、ファンの人間に通達して、徹底してもらう。
「……有崎さん、無事に済むんでしょうか」
 
「……おかしい」
「顔が?それとも頭が?」
 じろり。
「なんか知ってるって面だな、紗智」
「まあねん」
「……しゃべるつもりはねえって事か」
「そういうこと」
「て、ことは……」
 尚斗はちょっと目をつぶり。
「あれはやっぱりおかしいって事だよな」
「あははは、謙虚ね」
「17年生きてりゃ、自分が女からどう見られてるかぐらいはわかるっつーの」
「ちなみに、さっきの娘は、1年の中では5本指にはいるという美少女で、お嬢様」
「1年なのかよ、ますますもって、接点がねえな……」
「一目惚れよ、ひーとーめーぼーれ」
「あり得ん」
 尚斗はそう断言し、紗智の方を見た。
「つーか、その前には別の女子からラブレターというモノをもらった」
「あらま」
「にらみ付けるような目をしてたが」
「あー、緊張してたのね」
「絶対違うと、断言してやろう」
「……何でそこまで卑屈になるかな」
 と、これは、それまでずっと黙っていた麻里絵だ。
「卑屈じゃねえ、現実だ」
「尚斗くん、悪くないと思うよ」
「それは、幼なじみの優しさとして受け取っておく」
「……もう」
 呆れたのか、麻里絵がため息をついた。
「でもさ、尚斗って、藤本先生にも気に入られてるじゃない」
「異性じゃなく、オモチャとしてな」
「あははは…」
「言っておくが紗智、お前も半分ぐらいはそんな感じだぞ」
「否定はしない」
「……ったく」
 尚斗はちょっと、自分の机を見つめて。
「あの男子校に通ってるってだけでな、そもそもこの界隈じゃまともな目で見てもらえねえんだよ……麻里絵も、紗智も、近所だから思い当たるだろ」
「……まあ、ね」
 紗智は曖昧に、麻里絵は返事もしない。
「ずっと、そういう目で見られてるとな……なんというか、他人の顔色とか、視線には随分敏感になるんだよ。賭けてもいいがな、あの2人、俺に対して好意どころか、持ってるのは悪意だっつーの」
「……じゃあさ、橘先輩は」
「たち……あぁ、夏樹さんか。夏樹さんは普通って言うか、わりと好意を持たれてるっぽいな」
「……」
「……」
 麻里絵と紗智が、無言で視線を交わしあい。
「何だよ」
「悪意は言語を越えるって言うけど」
「いや、違うぞ。夏樹さんには、悪意をもたれてないはずだぞ……わざわざ話しかけてくれるし、ちょくちょくからかわれるけど、俺を見る目がホント、優しいんだって」
「尚斗、尚斗」
 紗智が、麻里絵を指さす。
 振り返り、尚斗はちょっとたじろいだ。
「……あの、麻理絵さん?」
「なに」
「目が、少し怖いんだけど」
「いつも通りだけど」
「そ、そーかー?」
「5年も会わなかったからね」
 ちくちく。
「紗智、俺、なんかしたか?」
「あのさあ、尚斗。私、麻里絵の味方だから」
 
 そして、連休が過ぎ、バレンタインの前日。
 
「……これは…洒落に…なんねーだろ」
「大丈夫か、有崎?」
 右手、左手、右足、左足、腰、膝、肘……。
「……多分な」
 痛みに顔をしかめ、尚斗はようやく身体を起こした。
 宮坂の他、女子生徒がちらほら……無事のようだと思ったのか、男子生徒は既に背中を向けている。
「とろくせーなー、有崎」
「そう、見えるか?」
 さすがに、これだけでピンときたのか。
「顔は?」
「いや、見てない」
「……」
「……それ以上は言いたくねえ」
「なるほどね」
 と、宮坂は口元に奇妙な笑みを浮かべ。
「……怖いモノ知らずもいるもんだな、男子校の生徒に手を出すとは」
「おい、よせよ。俺はそんなつもりで、お前に言ったわけじゃ…」
「ばーか。俺や有崎が言わなくても、そういうのは絶対どこからか漏れるんだよ。いくらここではおとなしくしてるからって、そこまで出来るって事は、ほぼ100%、世間知らずのお嬢様ってこった。わざわざ、自慢してるかもな」
「宮坂」
「お前は、俺のダチ」
「……こういうときだけ、友情を振りかざしやがって」
「逆よりは、マシだろ?」
 
「おーい」
「あ、宮坂さん……何か?」
「ちょいとお話が」
 結花はちょっと眉をひそめ。
「あの、一体…?」
「有崎が、階段から突き落とされた」
「えっ!?」
「俺は、その辺りの理由も知ってるけど…」
 その先は、キミならわかるよね…という宮坂の視線を受けて。
「……わかりました、こちらへ」
 と、結花が宮坂を空き教室へと誘った。
 
「夏樹様、ちょっといいですか?」
 と、結花に連れて行かれた教室には。
「あれ、宮坂…くん」
「どーも」
 夏樹は、微笑み。
「あの時は、ありがとう…ちゃんとお礼を言ってなかったわね」
「いえいえ、俺は有崎に頼まれただけですよ。その感謝は、全て有崎にどーぞ」
 夏樹はぱちぱちっと瞬きし。
「……え、えっと」
 もじもじ。
「わ、わかる…の?」
「はっはっはっ。自分に縁はなくとも、それなりに見てきたので」
「あ、あ、有崎君には…わ、私から、私から言うからっ」
 わかってます、と夏樹をなだめ。
「と、いうか、今日は別の話がありまして」
 と、宮坂が結花を見る。
 結花と、そして宮坂の表情から……夏樹は、口元を引き締めた。
 
 自分は、結花にはなれなかった。
 その哀しみが、尚斗の顔を見た瞬間に吹っ飛ぶ。
「夏樹さん」
「ごめんね、有崎君…こんな時間に」
「いや、まだ宵の口ですよ」
「……」
 夏樹が手を伸ばして、尚斗の手を取った。
 尚斗が微かに顔を歪めたのは、痛みか。
「……ごめんなさい」
「え、えっと、何の話ですか?」
「有崎君が、階段から突き落とされたのは、私のせい…なの」
「……」
「隠さなくても、いい」
 夏樹は、ちょっと無理をした感じに笑い。
「隠すってことは、薄々、わかってたのよね?」
「いや、まあ…夏樹さんのファンがらみかなあ、ぐらいは」
「それだけ?」
「え?」
「それだけ…かな?」
「えっと…」
「……じゃ、なくてっ」
 相手から、答えを引き出すのなら、今までと変わらない。
 今日が、今この瞬間が、私のバレンタイン。
「大好き」
「……え?」
 違う、主語と目的語が抜けてる。
 夏樹は、尚斗の目を見つめて、もう一度言い直した。
「私、有崎君のことが、大好きなの」
「……」
「……」
「……」
「え、えっと…」
「あ、すんません。ちょっと意外だったというか、現実感がなかったモノで」
「……」
「嬉しいです」
 夏樹の心の中に、テンションの計器があり、針が、ゆらゆらと蠢いている。
 まだ、わからない。
 このあと、続く言葉に『でも』が入れば、それまでだ。
「俺はですね…」
「うん」
「自分に、自信がないんです」
「……」
 尚斗は、ばちっと、自分の頬を叩き。
「夏樹さんは、美人で可愛くて、スタイル良くて成績も良くて…(中略)…なのに、俺って、大したことのない奴なんですよ」
「ごめんなさい、もう一回」
「え?」
「い、今その…最初の方、もう一回、言って?」
「…美人で、可愛くて」
「か、可愛い?私、可愛いの?」
「あ、はい、可愛いですよ」
「本当に?嬉しい…」
 手のひらで顔を覆い、夏樹は声にならない声をあげ続ける。
 尚斗は、やや置いてけぼりにされた気分で。
「あ、あの…夏樹さん」
「大好き、有崎君、大好き」
「うわっ」
 夏樹に抱きつかれ、尚斗は痛みに顔をしかめた……が、それ以上に戸惑いが強い。
 何故、自分なのだろう。
 夏樹の口から、正当な、自分が納得できる理由を聞きたい……そう、思っていた気持ちが、本当に幸せそうに笑っている夏樹を見ているうちに、どうでも良くなった。
 別に、理由を聞いて自分が安心したいわけではない。
 夏樹を幸せに……突きつめると、笑顔に出来るのかどうか。
「……いいのかなあ、俺で」
 控えめに、尚斗は夏樹の身体に手を回した。
「俺も、ずっと夏樹さんのことが気になってました…」
 
「……ちょっと待ってください」
「え?」
「いや、それはですね……なにやら、第三者の悪意を感じるというかですね」
「でも……みんなをきっぱりと諦めさせるのは、これしかないって…」
「お、俺の貧弱な脳みそによると、それは、火に油を注ぐとしか思えないんですが?」
「……」
 夏樹はちょっと考えて。
「あのね、有崎君は……怒ってないの?」
「へ、何が、ですか?」
「階段から…突き落とされて」
「まあ…無事、でしたし」
「……」
「よーするに、俺が相手だと納得できないって事ですよね。それはつまり、俺が、みんなを納得させられるぐらいに頑張って…」
 などと口にしながら、実際にどれだけ頑張ってもみんなを納得させられるかどうか怪しいよな、などと思っていたりする。
「私、怒ってる」
「え?」
「あのね、私、ものすごく、怒ってるの」
「……」
「私の大好きな有崎君をね、階段から突き落としたり、他にも色々…ハニートラップって言うの?そういうことをした人、そそのかした人、全員に対して、ものすごく怒ってるの」
「えーと」
 尚斗は指先で耳の後ろをかき。
「光栄です」
「だったら…」
「でも、俺は…笑ってる夏樹さんが好きです」
「……」
「夏樹さんが落とした原稿を拾って……返すときに、『面白かった』って、答えたときの夏樹さんの笑顔が、本当に綺麗で可愛くて……もう一度、あの笑顔がみたいなと思って」
 尚斗は、ちょっと笑って。
「夏樹さんの脚本じゃないですけど…『一瞬で、あなたを好きになったってわかったの』ってやつですかね、これ」
「……」
「あの、だから……ですね」
「じゃあ、私が先かも」
「え?」
「私は多分……『面白かった』って有崎君が答えてくれた瞬間に、あなたを好きになってたと思うから」
「そ、そうなんですか…?」
 それは、あまりにも単純では……と、自分の事は棚に上げた尚斗を制するように。
「あのね、本当は、印象最悪だったの……『横倒しにしてもでかい女』だから」
「……すんません」
「それがね、オセロみたいに、多分、あの瞬間に……」
 夏樹は、笑って。
「結花ちゃんにも言ったけど、私ってずるいの」
「え?」
「私、いつも、何かを待ってるから……有崎君に面白いって褒められて、『夏樹様オンステージ』みたいな劇じゃなく、この脚本でやりたいって…有崎君に愚痴をこぼした」
「……」
「有崎君が、結花ちゃんにも働きかけて……全部やってくれたの。本当は、私がしなきゃいけない事を」
「いや、そんなたいそうなことではなく、事情も知らずに、闇雲に…」
「……」
「いや、その目は…ですね。何も言えなくなるんで…」
「……尚斗君、って呼ぶね。今、この瞬間から」
「あ、はい…どうぞ」
「ずっと、ね」
 夏樹が、尚斗を見つめる。
「あまり先走ると、後悔することに……いや、すんません」
 尚斗は、がしがしと頭をかき。
「夏樹さんに、後悔させないように精一杯努めようと思います」
「うん、私も…尚斗君に捨てられないように」
 微笑んだまま、夏樹が一歩近づいた。
「ごめんなさい、本当は、今夜手作りチョコに挑戦するつもりだったから」
「……公演前に余裕ですね、夏樹さん」
「いつもは、脚本の8割が私の台詞なの」
「……なるほど」
 そしてまた一歩。
「えっと…」
 身を退こうとした尚斗の背に手を回し。
「背が、高いのも悪くないかな…」
「それは…ん」
「……」
「……」
 やや名残惜しげに唇を離して。
「背伸びしなくても、キスできるから」
「そ、そうです…ね」
 尚斗につられて、夏樹もまた、顔を真っ赤に染める。
「……わ、私もっ…初めてなのっ…必死に、澄ましてるだけだから」
「べ、別に、平静を装わなくても…」
「仕方ないのっ。ずっと…夏樹様、だったんだから…」
 
 
 校門をくぐった瞬間、バッグと、パンチと蹴りに襲われた。
「……」
 地面は冷たかったが、空は青くて綺麗だった。
「思い知ったか、有崎ぃ!」
「……ふ」
「な、何がおかしい…」
 尚斗はすっと立ち上がり。
「幸せだから痛くねえ」
「こ、このぉぉ…」
「くくく、お前は俺を殴っているようでいて、本当は自分自身を殴っているんだ」
「う、うるせえっ」
「リア充、爆発しろ」
 と、朝からこんな場所で、醜い争いをしていて、人目にとまらないわけはなく。
「死ね、この、死ね」
「1人だけ幸せになりやがって」
「……つーか、なんでお前らが知ってんだよ」
 パンチをかわして回り込み、尚斗は男子生徒の背中をついた。
「うるせえ、嫌味かっ!」
「わざわざ、メール回して来やがって」
 などと、携帯片手に口々に罵られて……尚斗は、こめかみの辺りに鈍痛を覚えた。
「……み・や・さ・か・の・野・郎」
「おおおおぉぉぉぉ…」
「……っ」
 尚斗が振り向いた瞬間、自転車ごと宮坂が突っ込んだ。
「バイシクル、シュートっ!」
「意味がちげーよっ!」
 自転車と宮坂に絡まり合ってごろごろと転がり、壁に激突。
「1人だけ幸せになろうって恥知らずは、お前かっ、お前かっ、お前かぁっ!」
 尚斗の身体に馬乗りになって、パンチを振るう。
「……?」
「馬鹿、やられとけ」
 小声で。
 そしてパンチ。
「てめえなんか、もう親友でも友人でもねえっ。父ちゃん情けなくて涙出てくらあ」
 などと、聞くに堪えない罵声と共に、ひたすら尚斗に攻撃を加え続ける宮坂の姿はあまりにもあまりで、他の男子生徒がひいてしまうぐらいに醜悪だった。
 そして、もちろん、女子もそれを見ていた。
 
「……大した怪我もなく、何よりです」
「ありがとな、気をつかってくれて」
 結花は、説明するまでもありませんかという表情を浮かべ。
「それは、どうぞ宮坂さんに」
「宮坂はあとでな……つーか、ああいう役があそこまで似合う奴も珍しい」
 と、尚斗は身体を起こして手を伸ばした。
「わ」
「……俺、頭悪いから、そういうのに、気が回らなくてな」
 なでなで。
「わるかった…みんなのってことは、お前の、夏樹様でもあったんだよな」
「そう、ですね」
「なんつーか、頑張るとしか言えねえわ」
「少なくとも、無責任な人とは思ってませんよ」
「責任を背負わされたことがないからなあ…」
 と、苦笑する尚斗に。
「浮気する相手がいないってのも、加えておきます」
「まあ、それは言うな……ホント、夏樹さんはモノ好きだよな」
「……」
 結花はちょっと俯き。
「じゃあ、私はこれで……午後からは、引っ越し作業なんですよね」
「ああ」
 尚斗は頷き。
「机とか椅子とか、全部生徒で教室に入れていくんだと……暖房冷房無し、学校の掃除も、再開ってわけだ」
「掃除ぐらいは、業者任せにしなくてもいい、とは思ってるんですけどね」
 そして結花は顔を上げ。
「バレンタイン公演、見られなくて残念ですね」
「そうなんだよなあ……」
 残念そうに、尚斗。
 結花はもう一度頭を下げ。
「……有崎さんを突き落とした相手、知りたいですか?」
「探しちまったのか?」
「……誰も見ていないと思っても、誰かが見てるモノなんですよ。現場そのものじゃなくても、その前後も含めて、ですけどね」
「俺は許すって言っといてくれ」
「気にするな、じゃなく、許す、ですか?」
「ああ」
「……気の弱い娘なんです、到底、そんなことをやらないような」
「じゃあ、余計に、自分で自分を責めてるだろ……気にするな、といっても無駄だろうからな。褒められた事じゃねえけど、そんな大事でもねえよ」
 一瞬の間をおいて。
「そうですね」
 と、結花は笑って言った。
「じゃあ、有崎さん……浮気したら殺しますよ」
「しねえ。つーか、できねえ。お前もそう言ったじゃないか」
「……誰も見てないと思っても、誰かが見てるんですよ」
「だから、浮気はしねえって言ってるだろ」
 結花は、じろりと尚斗をにらみ。
「国語の勉強、してくださいね」
 そう言い残して、結花は保健室をあとにした。
「誰も見ていないと思っても、誰かが見てるんです…」
 そう呟き、歩き出す。
「……夏樹様が、見ていたように」
 
「終わった…」
 夕日に浮かぶプレハブ校舎。
 まあ、結局の所、1人3セットも運べばいいだけで。
 最初こそ混乱があったが、バケツリレーよろしく、きっちりとした指示系統さえできあがれば、それほど苦労はしなかった。
 特別教室や、職員室をのぞいて……だが。
「くそう…明日からは…もう…」
 どこかで、誰かが呟く。
 女子のいない学校生活……それは、ほんの一ヶ月前までの、日常だったはずで。
 元通り、といってしまえばそれまでだ。
「……」
「どうした、有崎?」
「いや、別に……つーか、今朝はサンキュー、宮坂」
「はっはっはっ。汚れ役なら、俺に任せとけ」
 客観的にあの醜悪さを見せつけられ、まだ表立って尚斗に何かしよう……とするのは、よほどの強者だろう。
「つーか、俺だけ幸せになりやがって……ってのは本音だろ?」
「まあな」
「まあ、帰り、コンビニでなんか奢るぜ」
「おう、すまんな…」
 と、2人並んで校門へと……。
「いけね」
「ん?」
「俺、今日は用事あるんだった……すまん、有崎。おごりはまた今度で」
「ん、そっか…」
 と、走り去る宮坂の背中を見送り。
 沈みゆく夕日に向かって、ぽつりと呟く。
「美人で可愛い彼女が出来ました」
 白霧が、一瞬揺らぎ……風に飛んで消える。
「明日から、夏樹さんのいない学校か…」
 幸せ者と人は言い、自分もまたそう思う。
 案外、幸せは日常の要素が偏って発生するのかも知れない。
「いやいや」
 手を振り、がらじゃねえと呟いてから、歩き出す。
 朝、駅で待ち合わせて女子校まで行って、そこから男子校に。
 帰り、女子校の校門で待って、駅まで一緒に帰る。
「……ウザイとか思われると、死にたくなるな」
 何をどうやったら、夏樹さんは笑ってくれるだろうか。
「尚斗君っ」
「むう、幻覚まで聞こえてきた」
「尚斗君ってば」
「違う、聞こえるのは幻覚じゃなくて幻聴だよな…」
 やれやれと、肩をすくめて尚斗はため息をついた。
 ぎゅ。
「お」
「尚斗君」
「おおおぉ?」
「な、何かな?どこか、変だった?」
「い、いや…ちょうど、夏樹さんのことを考えていたので…その、気付かずに、すんません」
「ううん」
「つーか、バレンタイン公演の後片付けとか、忙しいのでは?」
「……」
「いえ、明日からは学校に夏樹さんがいないんだな…なんて考えていたから、こうして会えて、話が出来るのは嬉しいんですが、夏樹さんが、自分の生活を犠牲にしたりするのは、あんまり、嬉しくないです、はい」
 沈んだ夕日の、残滓とも言うべき明かりが、ほのかに夏樹の顔を照らす。
「うう、またそんな目で俺を見る…」
「ありがとう、尚斗君」
「いや、答えになって…」
「結花ちゃんが、全部取りしきってくれたの……今日はバレンタインだから、待ってる人がいる人は、さっさと帰れって、追い出されちゃった」
「……追い出されちゃいましたか」
 そこでようやく、尚斗は、夏樹が抱えてる大荷物に気がつき。
「あ、すんません。持ちます…つーか、この荷物って…」
「今日は、バレンタインだから」
「ああ、相変わらず大人気ですか」
「ちょっと減ったかも……明日と明後日で、全部持ち帰れそうだから」
「な、なるほど…」
「生チョコとか、足の速いモノは演劇部のみんなで分けてね…あ、でも、一口だけはちゃんと私が食べるの」
 そうやって、とりあえず選別したモノが、この荷物なのだ、と夏樹の説明が続き。
「尚斗君…甘い物、好き?」
「好きですが、さすがに俺がそれをもらうわけにはいかないです」
「……太っても、いい?」
 どう反応すればいいのかわからなかったので、なおとはとりあえず曖昧な言葉で誤魔化した。
「えーと…」
「去年は、5キロ太ったの」
「そ、それは…大変でしたね」
「太ったからって、嫌ったり、しない?」
「これだけスタイルがいいんだから、5キロぐらいじゃ、ほとんどかわらないのでは?」
 夏樹はちょっと恥ずかしそうに。
「あのね、油断してるとお腹のお肉って、すぐに友達を連れてくるの」
「あははは」
 お腹のお肉の友達という表現がおかしくて、尚斗は笑った。
「わ、笑い事じゃないんだから…」
「いや、すんません…なんか、可愛いなあって思って」
「……」
 見えなかったが、夏樹が真っ赤になったのが雰囲気でわかった。
「笑ってすんません。そりゃ、スタイルがよいのは嬉しいですよ。でも、夏樹さんには健康でいて欲しいです。無理なダイエットとかやめてくださいね」
「……」
 あ、多分、あの目で俺を見ている…と、尚斗は思った。
 そして、なんとなくだが、自分が尻に敷かれるという予感があった。
「……まあ、いいか」
「え、何が?」
「いや、なんでもないすよ……帰りましょう、夏樹さん。駅まで、ですけど」
「うん…」
「明日はどうしますか?」
「え?」
「駅で待ってましょうか?それとも、帰りに駅まで送りましょうか?」
「え、えっと…」
 ちらり、と夏樹がこちらを窺っている。
「まあ、俺がそうしたいだけなんですけどね。ほら、学校じゃ会えませんから、どこかでどうにかしないと、電話とメールだけになりそうですし」
「え、えっと…あのね、尚斗君」
 恥ずかしそうに、夏樹は尚斗の耳元に口を寄せ。
「両方で」
 そう言って、尚斗の頬にキスをしたのだった。
 
 もちろん、春が来れば夏樹は卒業……2人の状況は大きく変わるのだが、何とかなるのではなかろうか。
 むしろ、時間の経過が、2人ではなく、2人を取り巻く周囲を変化させ、馴染ませていく……そんな、気がしてならない。
 
 
 
 
 さて、夏樹の本質は乙女娘(おとめっこ)だと、高任は思っているのですが。
 その辺りをちょっとばかり前面に押し出してみたところ、こんな感じの話になりました。
 偽の方では、仮面をかぶらせまくっているので、書いててちょっと新鮮。(笑)
 こういう、ほんわかした感じのお話を読んで、ほんわかした気分になっていただければ、これ以上の喜びはありません。
 
 まあ、読みようによっては、尚斗を突き落としたのがちびっこなどと、解釈できなくもないですが……くくく。(笑)
 公式見解(笑)としては、尚斗が何故突き落とされたかを説明すると、夏樹が尚斗に対してどういう気持ちを抱いているかを説明する必要が生じるので、そこは夏樹本人に決断させるべきだろうという判断をしたから、です。
 

前のページに戻る