その時、麻里絵は夕飯の支度を手伝っていた。
「麻里絵…」
ぽつりと、母親が自分を呼ぶ声がして……麻里絵は、野菜の皮をむく手を止めた。
「何、お母さん」
と、横を向いて顔を見た瞬間、母親が何を言い出そうとしているのか、何故かわかってしまった。
「みちろーくんのご両親……正式に別れることになったそうよ」
「……そう、なんだ」
まだ途中だった、野菜の皮をむいて……次の野菜に手を伸ばすことなく。
「……引っ越すことになるの?」
自分の母親とみちろーの母親が学生時代からの友人であり、まだ付き合いが続いていることを知っていたから……少し、突っ込んだことを聞いた。
「……みちろーくんは、何も?」
「うん……何も」
「そう……強い子なのね」
母親の呟きに対し、麻里絵は首を振ろうとして、やめた。
それを訂正したところで何になる……という、徒労感めいたものに心が支配されたからだ。
みちろーの両親も、自分の母親も……みちろーが、強い子であると思い込みたいだけなのだろう。
あの子は強いから大丈夫。
都合の良い、残酷な言葉。
麻里絵は、野菜を手にとって皮むきを再開する。
「……みちろーくんの親権は、父親の方が持つことになったそうよ。ご両親が、みちろーくん本人に選ばせたらしいけど」
母親の言葉は続いていたが、麻里絵は半分以上聞き流していた。
機械的に野菜の皮をむきながら、麻里絵はただ考えていたのだ。
自分から切り出した方がいいのか、それとも、みちろーから話してくれるのを待つか。
目が痛くなるような、澄んだ空を見上げて。
「……みちろーくんと私は、似た者同士だよね」
「傷の舐めあい…って言いたいのか?」
それには答えず。
「紗智がね、言ったの」
「……何を?」
「尚にー……尚斗君がね、みちろーくんのライバルにしてはレベルが低いって」
風が、鳴った。
「私は、わかるよ…」
「……」
「ライバルと言うより、憧れなんだよね」
「……」
「むしろ、羨ましい?」
怒るのか、と思ったが……みちろーは、しばらく麻里絵を見つめ、笑った。
「ああ、そうだ……羨ましい」
「私もそう…尚斗君が羨ましい」
そう言って、麻里絵も笑う。
「言葉では、うまく言えないんだけどね…なにがどう、羨ましいのか」
「俺や麻里絵と違って、尚斗の心には別の窓があるんだと思う」
「窓?」
きょとんと、麻里絵はみちろーを見つめた。
「俺と麻里絵には、目や口、耳という、自分を主体にした窓しかないんだと思う。だから、自分が何かにぶつかって光が閉ざされたとき、心に光が射さず……暗闇をのぞき込み続けて、ひたすら内に閉じこもる」
「……」
「尚斗の心には、多分自分以外の何か……そんなモノがあるような気がする。何か困ったことがあっても、心が闇に閉ざされない。いつも、新鮮な風が心の中を吹き抜けて、空気がよどまない」
「やぱり、みちろーくんは頭いいね……っていうか、5年も、会ってないのに」
「変わってない、って言ったじゃないか」
2人はしばらく見つめ合い、そして笑った。
別れ話をしに来て、おそらくはもう二度と会うこともない……恋人と言うだけでなく、幼なじみの消滅とも言うべき別れの場面で、こんな風に明るく笑いあえる。
どちらからともなく。
「尚斗君の、おかげだね」
「ああ」
とっくに終わっていた。
嫌いになったわけではないけど、もう続けることが出来ないとお互いがわかっていて、あとはただ、別れるだけという関係のまま。
みちろーも、麻里絵も、自分だけを見つめて……それすらも出来ずにいた。
会わなくなって自然消滅……それが、出来ない2人。
みちろーには、麻里絵を。
麻里絵には、みちろーを。
それぞれ、自分の心から追い出すための、出口がなかった。
「多分、ありがとうとか言っても、尚斗君にはわかんないんだろうね」
「無理だろ」
「あはは……尚斗君ね、成績とか、ひどいの。びっくりしちゃった」
「いくらなんでも、あの男子校はないよなあ…」
と、みちろーが苦笑する。
「別に、スポーツが出来るってわけでもないし」
「……いいとこ無しか」
「うん、みちろーくんとは大違い」
麻里絵は、ちょっと真面目な表情に戻って。
「会わずに、行くの?」
微かな躊躇い。
「……やめとくよ」
「そっか…」
「会ったら多分、余計なことを言ってしまいそうだから」
麻里絵が、窺うような目を向けた。
「麻里絵を頼むって」
「怒るよ」
「誰が?」
「私が」
麻里絵の言葉に、みちろーは、ただ笑った。
また、風が鳴り……麻里絵が、スカートの裾を押さえた。
「ごめん、麻里絵」
「え、見えた?」
麻里絵の顔が、羞恥に染まる。
「いや、そうじゃなくて……尚斗は、気付いてたと思う」
「……」
「俺が、麻里絵を好きだったこと」
「そうかな…」
「尚斗が…尚斗が、麻里絵のことを、そう思うようになる前に、俺は、尚斗がそれに気付くように振る舞ってた」
目を閉じて、麻里絵は静かに答えた。
「……終わったことだよ、みちろーくん」
みちろーの両親が離婚することが決まったときと同じく、みちろーの気持ち、紗智の気持ちに気付いていながら、麻里絵は待つだけだった。
コップの中にたまっていく水。
溢れるのがわかっていながら、水を止めるでもなく、ただ溢れるのを待っていた……そんな自分が、みちろーを責められるはずがない。
その真偽を問い詰めたところで、決して尚斗は何も言わないだろう……だから、それでいいのだ。
幼なじみだから、恋人だったから、別れてしまうから……そんな理由があるからといって、自分の心の中を、全てさらけ出さなければいけないなんて事はない。
相手に信用してもらうために全てさらけ出す事よりも、まだ良くわかってない相手のことを信じることの方が大事なのだろう。
「いいんだよ、みちろーくん」
涙を流しているみちろーに、もう一度声をかけてやる。
尚斗に、そして麻里絵に、負い目を感じていたから。
もはや、修復不可能な両親の仲を取り持つために。
良い恋人、良い子供。
それに気付いていながら、何もしてあげられなかった。
それに気付いていることを、みちろーに気付かせないために。
臆病で、生真面目な幼なじみを、さらに深く傷つけることを恐れて。
「ほら、みちろーくん……泣き虫なのは、みちろーくんじゃなく、私でしょ」
「……」
俯き、指先で涙をぬぐい、みちろーが顔を上げる。
「ずっと、謝らなきゃって…思ってたんだ」
「真面目だなあ、みちろーくんは……私の周りの女の子なんか、もっとすごいことしてるよ」
「でも…」
「それ以上謝ったら、怒るよ」
「……」
「っていうか、尚斗君に連絡して、ここに来てもらう」
「……わかった、もう言わない」
「よろしい」
麻里絵が笑い、みちろーも、多少歪んではいたが、笑った。
「……」
「……」
麻里絵は、みちろーを見ながら待っていた。
自分から切り出すと、みちろーの心に悔いを残してしまうから。
麻里絵の思いが通じたのかどうか、長い時を経て、みちろーの口が開いた。
「じゃあ、さよならだ、麻里絵」
「うん、元気で、みちろーくん」
遠ざかっていくみちろーの背中に、声をかけようかどうか迷って。
「背中が曲がってるよ」
返事の代わりに、みちろーはぐっと顔を上げた。
「あ」
「よう」
麻里絵は、ちょっと首をかしげ。
「紗智の差し金?」
「半分ぐらいはそうだ」
「……残りの半分は?」
「幼なじみへの心配」
「じゃあ、半分だけ、感謝」
「つってもな、家まで送ってやる、ぐらいのことしか出来んが」
麻里絵は、ちょっと笑って。
「私が泣いてたら、どうするつもりだったの?」
「泣き止むまで待って、肉まんでも食べさせる」
「……4分の1だけ感謝」
「泣いてる女をスマートに慰めるスキルなんか持ち合わせてねえっての」
「……何か食べさせればいいって考えが不愉快」
「じゃあ、高めのスイーツとか?」
麻里絵はちょっと考えて。
「……ね、値段の問題じゃないよ」
「へいへい……で、みちろーは?」
「帰った…って言っていいのかな」
「そっか……まあ、男だから、自分で何とかしねえとな」
「……厳しい」
「しゃーねえだろ、母ちゃんなんか、『男は一生働くようにできてんだよ』っていつも俺に言うぜ」
「あはは…」
麻里絵が、乾いた笑いを漏らす。
「さて、陽が沈むし、さっさと帰るぞ…」
「うん…」
てくてくてく。
「……何か話してよ」
「寒いな」
「……」
「えーと……肉まんでいいか?」
と、尚斗がコンビニを指さすものだから。
「何か食べさせて解決するって考えしかないの?」
「わりと、万能だと思うんだがな」
「……」
「食ってみろ。それから文句を言え」
と、尚斗が素早くコンビニに飛び込んだ。
「あっ」
そして、袋を下げて尚斗が戻り。
もぐもぐもぐ。
「……ちょっと悔しい」
「ほらな」
寒いときに、温かいものを食べるというのは、なかなかに気分がいいことを実感しつつ、麻里絵は、それでも反撃の言葉を口にした。
「太っちゃう」
「太ってから考えろ」
「太ってからじゃ、遅いの」
「寝る前は食べるな」
「問題がすり替わってる」
「じゃ、走るか?」
「……もう」
麻里絵はため息をつき。
「当たり障りのない会話より、口げんかしてる方が気が紛れるって思ってる?」
「実際そうだろ?」
「私、尚斗君にのせられたりしないもん」
「別に、のせようとは思ってねえよ……自然にそうなるだけだっつーの」
「昔は、ちゃんと、慰めて、笑わせてくれたのに…」
「麻里絵の記憶は、多分美化されてるな」
「そんなこと、ない」
「泣いてる麻里絵を無理矢理段ボールに座らせて、河原の土手を滑らせたら川に落ちた……とか、そういう記憶ばかりあるんだが」
「……確かにあったけど」
「隠れんぼの最中に、麻里絵を置き去りにしたとか」
「……あったね」
ほらな、という感じに麻里絵の顔をのぞき込み。
「美化されてねえか?」
そして麻里絵は、尚斗に向かって首を振った。
「普通、自分に都合の悪いことを忘れていくと思うんだけど、尚斗君は、自分が何かいいことをしたとか、そういうことを忘れていくよね」
「……つーか、俺の記憶の中で、とにかく、麻里絵は良く泣いてた。半分以上俺のせいだと思う」
「そういうこともあったけど、そういうことばかりじゃないよ」
「まあ…なんつーか」
尚斗は、麻里絵の頭に手を乗せて。
「わ」
「人の記憶ってのは、わりといいかげんだからな……時間が経ちゃ、みちろーとのことも悪いことばかりじゃなくなるぜ、きっと」
「……」
「今のお前、自分を責めてるだろ……そういうときは、良くないことばっかり思い出すんだよ」
「……」
「みちろーに、何もしてやれなかったとか……麻里絵のことだからそういうこと考えてるんだろうけど、それは違うとだけ言っとくぞ」
「……なんで?」
「5年のブランクがあっても、幼なじみだっつーの」
「……」
「くそ。やっぱり、また泣かしちまったじゃねえかよ…」
舌打ちし、尚斗は麻里絵の背中を軽く叩き……頭を撫でる。
それ、逆効果だよ……と、心の中で呟きながら、麻里絵は、尚斗の胸に顔を埋めた。
「あーもう、無理に我慢すんな……泣け、いいから泣け。泣き止むまで、待っててやるから」
涙を流しながら、麻里絵は、ひょっとすると今自分は笑っているのかも知れない、と思った。
「晴れたね」
高い空に向かって、麻里絵は両手を広げた。
寒い、が、我慢する。
「つーか、最近ずっと晴れてたけどな」
「ホント、雨ぐらい降ればいいのに」
「また、雪になったらどうすんだよ」
麻里絵は振り返り、尚斗を見て。
「もう一回、校舎潰しちゃおうよ」
「あんなのは、一回で十分だ……つーか、今更だろ」
「あはは、そうかもね…」
「つーか、授業中に、いきなり崩壊なんて事にならなくて良かったよ、ホント」
「……そっか、そういう可能性もあったんだよね」
「まあ、色々とラッキーだったって事だ」
「そうだね」
麻里絵は頷き、笑いながらもう一度。
「そうだね、ラッキーだったね」
「……何だよ?」
「別に」
「別に、って表情じゃねえよ」
「何個もらった?」
「は?」
「チョコレート」
「……何個って答えたら、満足するんだよ」
麻里絵はちょっと困ったように俯き。
「……えっと、私の気持ち、ばれてる…のかな?」
「隠すつもりがあったのか?」
「いや……その、気が多いな、とか思われそうで、なんかやだなっていうか…」
「1年経てば、十分だろ」
尚斗はちょっと言葉を切り……手を伸ばし、俯いている麻里絵の顎をついっと持ち上げた。
「みちろーにも、紗智にも……文句は言わせねえよ」
「……」
「つーか、俺が、我慢出来ん」
「……」
「また、俺が泣かせるのかよ…」
麻里絵が、それは違うよと言いたいのか、何度も首を振る。
「同情とか、そういうのじゃねえって……いつからか、はわかんねえけどな、麻里絵は、俺の中で幼なじみから、女の子になっちまってた」
麻里絵が、また首を振る。
「あー、訂正する。可愛い女の子」
「そうじゃ、なくっ…てっ」
麻里絵は、しゃくり上げながら。
「嬉しくっ…てっ…泣いてる…の…」
「……じゃあ、泣け。泣き止むまで、待っててやるから」
「待つっ…て、何…を?」
「キスしたい」
「…待たなくてもっ…いい…」
「いや、涙だけじゃなく…鼻水まででてんだ、お前…俺にも、多少、ロマンティックな願望ってのがあってだな…」
がん。
「…っ」
「尚斗…君っの…馬鹿…」
そう言いつつ、麻里絵は尚斗に背を向けて、涙をぬぐい、鼻の辺りの処理を済ませ……ちょっとした準備を整えてから、振り向いた。
「はい」
「はい、じゃねえよ、はい、じゃ…」
足の痛みに顔をしかめながら、それでも尚斗は、目をつぶった麻里絵に顔を寄せていく。
「ん」
「…んう?」
ややムードに欠けたモノの、甘いキスを終えてから。
「……チョコ味?」
「うん、甘かったね」
麻里絵が笑い。
「口直し…する?」
「……そうだな」
再び、尚斗は麻里絵に顔を寄せた。
「……残ってる」
「あはは…じゃあ、もう一回」
「きりねえぞ、これ…」
そんなことをいいながら、またまた尚斗。
「毎年、バレンタインの日は、こうするから」
「……こんな風に盛り上がれるのは最初だけだぞ、多分」
「……夢がないね、尚斗君は」
ため息をつき、そして今度は麻里絵から尚斗に顔を寄せていった…。
儀式がこの先何年続くのか……それは、2人だけの秘密である。
完
これも、同じ話を書き直すのが嫌だったので、違うネタで書き下ろしましたよ。
原作のラストも、あれはあれであれなんですが(日本語って素晴らしい)……尚斗に心を惹かれてみちろーと別れるような描き方に、ちょっと首をかしげたり、もしくは妙な興奮を覚える人もいるでしょうが、1年後だと、また印象が変わるのではないでしょうか。
ラストのキスシーンは少々照れが入って、逃げたところがあります。(笑)
精神力の鍛え方が足りない、と反省してます。
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