「……ぶっちゃけて言うと」
 尚斗は、何らかの歪んだ答えを期待しているらしい紗智に向かって言った。
「怖い」
 そして紗智は、期待を裏切られたのか。
「美人なのは認める?」
「認めるっつーか、上の上だろ、どう厳しく見ても」
「……」
「紗智もかなり可愛いけどな。言っちゃ悪いが、レベルが違う」
「や、そういう意味で黙ったわけじゃないから……っていうか、身の程はわきまえてるつもり」
 ぱちっと、紗智がウインクをよこす。
 ジョークとも愛嬌とも受け取れるのは、紗智だからだろう。
 2人が話題にしている女性が同じ事をやれば……ある意味似合わないだけに、妖しい雰囲気が生まれるだろう。
「あれかな、美人過ぎて気後れするってやつ?」
「それともちょっと違うな……なんつーか、こう…」
 尚斗は目をつぶり、言葉を必死で探す。
「……えっと、あれだ。生まれたばかりの虎って、可愛いじゃん」
「ん、まあ…」
 尚斗の言わんとするところがつかめず、紗智は曖昧に返す。
「その、虎の子供をな、こう、自分の手の中に抱いて……大きくなった虎を想像すると、なんとなく放り出したくなるような気がしないか?うまく言えんが、あんな感じ」
「えっと、それって…」
 紗智はちょっと笑って。
「藤本先生が、虎の子供って言ってる?」
「別に、俺だって最初からそう思ったわけじゃねえよ……つーか、多分、男子校の生徒の責任だと思うけどな。あの先生、ずっと女子校にいたんだろ?」
「うん、純粋培養」
「……この前な、藤本先生がぽつりと言ったんだよ。『私、男の方が、こんなに親切だとは知りませんでした』ってな。いつもの微笑みを浮かべながらだったんだが、俺はあの瞬間、寒気がしたよ」
「……」
「ただの世間知らずのお嬢様だったら、いつか痛い目にあって終了……なんだろうけどな、良くも悪くも、あの人美人過ぎるんだよ。地位が人を作るって聞いたことあるけど、あの人の場合、痛い目にあう前に、そういうのを呑みこむバケモンまで育っちまうような…そういう気がした」
 肯定も否定もせずに、紗智は頷き。
「だったらさ、尚斗は逃げるんじゃなくて、止めなきゃダメなんじゃないの?」
「は?」
「男って生き物は、そんなに甘い生き物じゃねえぜ…ってな気概を見せつけて、藤本先生を、元の道へ戻してあげないと」
「無茶言うな……というより、面白い遊びが見つかったって、その表情がむかつく」
「鉄は熱いうちにうて」
「なんで俺が」
「そりゃ…」
 紗智の指先が、くいっと弧を描き。
「藤本先生のあとをついて回ってるような連中には出来ないでしょ」
「別に、俺だけじゃねえよ」
「いやいや」
 と、紗智は首を振り。
「あのね、尚斗……藤本先生から、そうやって距離を取ることが出来たのは、今のところアンタだけなの」
「……」
「藤本先生に何かを頼まれて、それを断ることが出来たのも、アンタだけ」
 ふふん、と紗智は笑って。
「なにやら、示唆的じゃない?」
「俺は普通だっての」
「人間、その一生においては、誰もが一度は主人公になる時が来るのよ」
「3流RPGのシナリオだな」
 紗智はちょっと作戦を変更することにしたのか、違う方向から切り込んだ。
「男子校の3年に水原って人、いるでしょ?」
「ん、ああ…気さくでいい先輩だよ」
「彼女と別れちゃったって」
「マジで?」
 一瞬、間を置いて…。
「……藤本先生にのぼせて、なんて言わねえよな?」
「その、まさか」
 尚斗は、渋面を作って黙り込んだ。
「……つーか、その彼女ってのが、私の友達なのよ」
「お前、北高にまで、知り合いがいんのか?」
「その娘もね、中学の時、サッカー部のマネージャーをしてたの。県大会で知り合ってね、まあ、気があったって言うか」
 紗智は、一旦言葉を切り……含み笑いを浮かべて尚斗を見た。
「水原って人の彼女が、北高の生徒だなんて、よく知ってたわね」
「……気さくでいい先輩っつったろ。ちょっと、世話になったんだよ」
「見捨てるの?」
「もう、別れちまったんだろ?どうしようもねえよ」
「ま、そりゃそうだけど」
 ちょっとおどけた感じで紗智がいう。
「よりを戻すったって、しこりは残るしね…まあ、2人次第ってやつ?」
「……なんか、他にも2つ3つ、裏がありそうだな」
「あはは」
「ついでだ、話せ」
「その、『ついで』は、引き受けたと解釈してもオッケーかしら?」
「そうじゃねえ……つーか、お前は、切り札は最後までとっとくタチだろ?」
 世話になった先輩の話がジャブだとすると、他にどんな話が出てくるのやら……それを聞いてからでないと、後悔すると、尚斗は判断したのだった。
「いや、そうでもないけど……」
「話せ」
「やんっ、尚斗ったら強引」
「……」
「ごめん、話す」
 このあたりの見切りは、おそらく天性のモノだろう。
「男子校の1年に沼田っているでしょ?ボクシング部の」
「……名前は知ってる程度だな」
「ウチの…えっと、パソコン部の後輩ね…その娘が、うふん、って感じなの」
「妙な日本語を使うな」
「中学が同じだったらしくて……インターハイ出場を目標にしてたのに、最近は、ろくにボクシングの練習もしてないって心配してるの」
「んなもん…」
「直接言ったら、怒鳴られたって泣いてた」
「……」
「えーと、他は…」
「紗智」
「なあに」
「お前、俺の弱いところとか、嫌になるぐらいわかってるよな?」
「人の情に訴えるだけに、常套手段」
「他の話も、そんなのか?」
 紗智はちょっと真面目な顔になり。
「藤本先生が悪いとは言わないけど……なんていうか、周囲を幸せにはしてないわよね」
「……そうだな」
「私は、もっと陽気で明るい話が好きなの……何年か経って、集まったみんなでゲラゲラ笑えるような」
「男子校の連中が馬鹿を見るだけなら笑える……か?」
「本音はそう」
「……」
「や、私、女だし」
「そりゃそーだ」
 尚斗はちょっと笑い。
「つーか、何をどうしたら、藤本先生が元に戻るのかさっぱりわからん」
「それを言われると…なんだけど」
 紗智は指先で髪をいじくり。
「尚斗と付き合うようになったら、かなりの範囲で丸く収まるわね」
「……実家に帰らせていただきます」
「ちょっと、ちょっと…」
「何、寝言言ってんだ?」
 紗智を冷たくにらんだが、ほとんど効果はないようで。
「藤本先生が尚斗のモノになる。他の男子諦める。そして今日も東海道は日本晴れ」
「すまん、船の時間だ。これで失礼する」
「ちょっと、待って……てば」
 腰に抱きつくような感じで、出て行こうとする尚斗を紗智が必死に引き戻す。
「よく聞け、紗智」
「何よ」
「俺は、生まれてから17年、彼女なんかいなかった」
「藤本先生は、生まれてから24年、独り者」
「……」
 紗智は額に浮かんだ汗をぬぐう真似をして。
「互角の勝負ね…いや、ちょっと尚斗が有利かしら」
 尚斗は、噛んで含めるように。
「紗智、お前は、俺に協力するつもりはないのか?」
「……」
「いや、そこで考えるのはやめてくれよ」
「あのさあ、尚斗」
「何だよ」
「たとえば、尚斗が誰かを好きになって……告白するのに、他人の手を借りる?」
「いや」
 紗智は、ちょっと頷き。
「じゃ」
「待てこら」
 背を向けた紗智の腕をつかみ、こっちを向かせる。
「丸投げか?」
「尚斗が、藤本先生を惚れさせる。そんだけ」
「おまえ、全人類の8割ぐらいにケンカを売ったぞ、今の」
「大丈夫、耳にしたのはアンタだけだから」
 尚斗はため息をつき、紗智の腕を放した。
「……お前なあ」
「生まれてから17年彼女がいなかったっていっても」
 どこか冷めた紗智の口調に、尚斗が顔を上げた。
「好きになった相手もいなかったんでしょ」
「そんな…」
 硬い、というより、どこか思い詰めた表情の紗智。
「本気で、よ」
「……そうかもな」
 渋々と、だが、確かにそうだと思いつつ、尚斗は頷いた。
「すごい美人だからって理由だけで、男子生徒にぞろぞろとついて回られる藤本先生だって不幸だとは思わない?これからどうなるかはともかく、藤本先生が、自分の美貌だけを評価してくれることに満足するような人間ではないわよ」
「そっか……そうだな。確かに、お前の言うとおりだと思う」
「顔とか、頭とか…好みや条件を言い出すときりがないけど、詰まるところ、相手が自分の事を本気で好きでいてくれるかどうかだと思うわ」
「……」
「少なくとも、尚斗は……藤本先生の中身を見ようとしてる。それに気付かないほど、あの人が愚かだと私は思わない」
 そう言って、紗智は去り……。
「それはつまり…あれか…」
 尚斗は、1人、ぽつりと呟く。
「俺に、本気で、藤本先生に惚れろって言ってんのか…」
 
「惚れろって言われてもなあ…」
 深夜、自分の部屋で。
 ぽんぽんぽん、と話を進められたおかげで、何故、自分がそうしなければいけないのか……というところを綺麗にすっ飛ばしている事に、尚斗は気付いていない。
「あれだよな…美人だって特徴がひときわ目立ちすぎるから、そのほかに目をやる余裕がなくなるというか…」
 考えてみれば、自分は藤本先生のことを何も知らないよな、と尚斗は思う。
 誕生日とか、血液型とか、そういうことではなく……もっと別の、藤本綺羅が、藤本綺羅であるための構成要素というか。
 
「なあ、麻里絵」
「なに、尚斗くん」
「お前から見て、藤本先生ってどんな人だ?」
「え?」
 麻里絵はちょっと尚斗の顔をうかがう感じで見つめ。
「美人だね」
 びし。
「痛いよ…」
「んじゃお前、仮に藤本先生がものすごいブサイクだったとして、俺に同じ事聞かれたら『ブサイクだね』っていうのか?違うだろ?」
「そ、そんなこと、言わないよぉ…」
 しかしまあ、麻里絵もそう鈍い方ではないから、尚斗の言いたいことはわかったのだろう。
「でも、そうだね…『美人』は一応褒め言葉だからいいのかもしれないけど、結局はその人自身の説明にはなってないね」
「いや、別に…外見全部を否定するわけじゃないんだが……なんつーか、どいつもこいつも『美人』としか答えてくれないから…その、すまん…やつあたりだった、麻里絵」
「いいよ」
 と、麻里絵は笑い。
「でもすごいね、尚斗くん。藤本先生のあとをついていく男子生徒は多いけど、そういう風に言える人はいないんじゃないかな?」
「そんな大した話じゃねえ。ちょっと紗智と話しててな、ふっと、そんなことを考えただけだ」
 どこか言い訳じみた言葉を連ねる尚斗を、麻里絵は柔らかい視線で見つめ続けて。
「そうだね、生徒思いの良い先生…かな」
「ふむ」
「聞いた話、だけどね。生徒からの相談には、嫌な顔も見せずにのってくれるらしいし……優しくて、頼りになるお姉さんってとこかな」
「なるほど」
 さほど付き合いもないのに違和感を覚えなかったというと奇妙な話になるのだが、麻里絵の言葉は、すっと尚斗の心に飛び込んだ。
 おそらく、麻里絵が幼なじみであるということ……軽々しく言葉を口にしないという麻里絵の性質を知っているからという部分も大きいであろう。
 それでも、尚斗は自分の中の藤本綺羅という薄っぺらい風船人形に、いくらかの空気が送り込まれたような、そんな気がした。
 
「やあ、有崎君。藤本先生のことを色々と知りたがっているそうだね」
「……」
「能力の差はあると言っても、人間1人で出来ることは限られているからね。本当に藤本先生のことをしりたいのならば…」
 げしっ。
「……簡潔に要点だけを話せ」
「ぼ、暴力反対…」
「コミュニケーションだ」
「来たれ若人よ、藤本綺羅ファンクラブ会員募集中」
「断る」
「だが、それがいい」
 がす。
「……会話のつながりが、おかしくね?」
「お前が言うな」
「素直になれよぉ」
「悪いが、俺はお前に対して、ものすごく素直に手と足が出せる」
 じり。
「拳で語り合うのも、若さ故の特権か…」
 じり。
「あ」
 ふっと、尚斗が横を向くのにつられて、宮坂がそっちを向いた。
 どふぅっ。
 重くめり込むような感触が、つま先に伝わってくる。内臓破裂まで考えなければいけないずっしりとした手応えだ。
「……ほ、本音で語り合える関係って、最高だよな」
「タフだな、宮坂…」
「でも、語り合ってないよな…俺が一方的に、ぼこられただけじゃん」
 ぺしっ。
「わんっ」
 頬に叩き付けられたあんパンの袋をくわえたまま、器用にも犬の鳴き真似をする。
 ぺしっ。
「わんわんっ」
 吠えた拍子に、くわえていたあんパンの袋が1つ落ち……宮坂は、悲しげにそれを見つめた。
「くぅーん…」
 鳴き真似といい、その姿はまさに犬そのものである。
「宮坂、俺が悪かった…悪かったからやめてくれ、泣けてくる」
「うむ、親しき仲にも礼儀ありと言うからな」
 狂気と暴力渦巻く男子校において、宮坂という男が一目置かれているのは、おそらくこの辺りにあるだろう。
「ちなみに宮坂、お前から見て藤本先生は、どういう人間だ」
「人間?」
 宮坂は、ちっちっと舌を鳴らして指を振り。
「あの方は女神だ」
 5秒ほど間があいて。
「そ、そうか…」
 やっとの思いで、尚斗はそういった。
 女神と来たか……と、心の中で呟く。
 おそらく最上級の褒め言葉なんだろうが……なんだかなあ、と尚斗は思った。
「美しさは、立派な才能だぜ、有崎」
「ん?」
「未来を予測する、力が強い、足が速い、頭がよい……そういった才能を人間の営みにどう活かすか、なんてケチな考えは野暮だぜ」
「……」
「圧倒的な才能の前にひれ伏し、敬い、崇める……つまり、神だ」
「な、なるほど……そこまで割り切って言えるなら、それはそれで、1つの見識だな」
「はは、有崎のそういう懐の広さは好きだぜ」
 と、宮坂が親指を立てて。
「お前って、ちゃんと人の話は聞くよな。そして、頭ごなしに否定したりしないし」
「多分、ちゃんとした自分の考えがないだけと思う」
 誰かの話を聞いてそうかと思えば、他の人の話を聞いて、なるほどと頷いてしまう。
 正しいとか正しくないとか、正義とか悪とか……この世のいろんなモノは、多分1つではないのだろう、という漠然とした考えがあるだけだ、と尚斗は思っている。
「……俺は、何をしたいんだろう」
「有崎?」
「宮坂は、藤本先生が、そういう扱いをやめてくれって言ったらどうするんだ?」
 尚斗の問いに、宮坂は直接答えず。
「そういうのは、夏樹様、に聞いた方が早い…っていうか、お前の参考になるんじゃねえの?」
「夏樹さん、か」
 簡単に言ってくれる、と尚斗は思った。
 
「何か、考え事?」
「そーですね…」
「考えたら、あとは行動するだけって言われた記憶があるけど」
 自分の頭上で、くすくす笑いがこぼれている。
「自分のために、他人をどこまで傷つけていいか……と」
「……難問ね」
 そう呟き、夏樹は尚斗の隣に腰を下ろした。
「でも、それは本当に、有崎君のためなの?」
「はい」
「そうかなあ…」
 と、夏樹は柔らかく微笑み。
「有崎君のことだから、誰かのために…という気がするんだけど」
「そんなことはないです」
「……」
「演劇部の…っていうか、夏樹さんとちびっこの問題に顔を突っ込んだのも、このまま2人の気持ちがすれ違うのを見るのが嫌だったからです」
「……」
「俺のため、だったんですよ……今、夏樹さんが俺に話しかけてくれるのも、運が良かっただけで」
「……まあ、演劇部がばらばらになって、バレンタイン公演そのものがなくなってたって可能性はあったかな、確かに」
「でしょう?」
 沈黙が降りた。
「公演がうまくいくかどうかはともかく、演劇部はまとまった…」
「……ちょっと、きついことを言ってもいいですか?」
「なに?」
「表面上はそう見えますけど、本当にまとまってはいないですよ……夏樹さんが主役の劇さえ見られたらそれでいいのに、なんで……って考えてる人間は少なくないと思います」
 夏樹の顔が見られなくて、尚斗は俯いたままそう言った。
「……有崎君」
「すんません、でも…」
「私は、キミの味方をするから」
 尚斗が夏樹を見た。
「何があっても、キミの味方をするって、約束する」
 笑顔で。
「結花ちゃんもきっとそう」
「あ、いや…そんな、たいそうな話ではなくて…ですね…」
 何か勘違いされてる、そう思いながら……尚斗は、夏樹に要点だけを話すことにした。
 
 尚斗の話を聞くと、夏樹はしばらく目を閉じて何かを考えていた。
「……有崎君」
「はい」
「ここだけの話、ね」
「はい」
「中途半端が、一番良くないと思うの」
「中途半端…ですか?」
 夏樹が目を開いた。
「何も知らないが故の幸せってものもあると思うの」
「……」
「親に決められた、それも、一度も顔を見たこともない相手と結婚する……それが、普通だった時代だってあったわけじゃない」
「はい」
「そこにね、『自分が好きになった相手と結婚するのが本当の幸せである』なんて価値観を教え込んだところで、その人が周囲に逆らえるわけもないし、そうなると、ただ自分の意志に反して事が運ばれるという、苦痛だけを感じる結果になってしまうと思うの」
 夏樹の言ってることはわかるのだが、夏樹が何を言いたいのかが、尚斗にはピンと来ない。
 どうやら、夏樹もそれに気付いたらしく。
「たとえば、有崎君が藤本先生に…『この連中は、先生が美人だから言うことをきいてるだけですよ』って教えたとすると」
「……ああ、男が女性に対して親切なわけじゃない、と」
「そこで、優越感を覚えるか、失望するか…は、わからないけど」
 夏樹はちょっと考え。
「男性に対する見方を変えるとかじゃなく、目に見えないところで、ひどく傷ついてしまう……そういう人だと、私は思うわ」
「あまり、自分の感情を表に出さない…って事ですか?」
 夏樹が尚斗を見つめた。
「自分が信頼した人にだけ、笑顔を見せる……そんな人だって気がする」
「信頼…ですか」
 そりゃまた、難問だ…と、尚斗は頭を抱える。
 そんな尚斗に、夏樹は優しい目を向けて。
「あのね、有崎君…さっきキミは、『自分のため』って言ったけど、私や結花ちゃんが、キミを信頼したのは、キミが本当に私や結花ちゃんのことを心配していたのがわかったからだよ」
「そんなこ…」
「そうなのっ」
 夏樹の剣幕に押され、尚斗は頷いた。
「……はい」
 
「中途半端は良くない…か」
 つまり、全く関わらないか、とことんまで関わるか……という事だろう。
 結局、覚悟を決められるかどうか。
「別の意味で、覚悟はいるよなあ…」
 ファンクラブの連中に、半ばケンカを売るようなモノだから。
 と、いうか…尚斗はわりと単独で話しかけられることが多かったため、連中の嫉妬混じりの殺気を、ひしひしと感じる機会も多かった。
「……そっちの方が気は楽か」
 自分が傷つくというリスクを背負う……それが免罪符にはならないとわかっていても、ただの傍観者ではないという、言い訳ぐらいになるのだから。
 
「おはようございます、尚斗君」
「あ、おはようございます、藤本先生」
 と、挨拶を返し。
「今日はいい天気ですけど、ちょっと寒いっすね」
「……」
 綺羅はぱちぱちっと瞬きを繰り返し、ふっと我を取り戻したのか。
「そ、そうですね」
 挨拶を返したところで、そのまま足早に離れていくことを繰り返していた尚斗だったから、意外だったのだろう。
「でもまあ、ここは暖房とかあるからいいですよ…男子校には、暖房ありませんでしたし、木造だったから、隙間風がひどくって」
「そうだったんですか…大変でしたねえ」
 ちくちくちくちく。
 背中に突き刺さる殺気はあえて無視。
「まあ、慣れてしまえば、ですけどね……ある意味、ここの環境に慣れすぎると、あとが怖いです」
「尚斗君は、立派ですのね」
「り、立派ですかね…?」
「ええ」
 と、綺羅は頷き。
「与えられた環境を嘆かず、たくましく生きている…そんな感じがします」
「いや、そんな大した…」
「藤本先生。ちょっと質問があるんですけどいいですか?」
「あら」
 綺羅は、尚斗にちょっと頭を下げ、質問があると話しかけた男子生徒と共に、歩き始めた。
 そして(以下略)。
 
「……ひどい目にあったね」
 と、麻里絵が尚斗の怪我の手当をしながら言う。
「いや、自業自得と言ってしまえばそれまでだが」
「そうかな…」
「つーか、あのぐらいの話をしただけで、こういう目にあわされるって事は…藤本先生は、男子生徒とろくに話しもしてないって事か?」
「んー」
 麻里絵は首をひねり。
「……藤本先生、尚斗くんにはよく話しかけるよね」
「比較対象がないので、よくわからん……が、麻里絵が言うならそうなんだろな」
「……なんでだろう?」
「……ある意味、男子生徒の中では浮いてるからか?」
「……」
「教師が気に掛けるのは、自分のお気に入りか、問題のある生徒だろ」
「お気に入り?」
「ちげーよ」
「そうかな?」
「なんか、麻里絵の中で俺の評価はやたら高そうだが、俺のどこに、教師に気に入られる要素があるよ?」
「顔が好みとか」
 びし。
「……ごめん」
「そういう冗談は嫌いだ」
「好みは人それぞれって言うけど…」
「そりゃそーかも知れんが……そういう先生かよ、あの人」
「んー、違うと思う」
「だろ」
「でも、ちゃんと生徒のことを見てる先生だよ。特に話をしたわけじゃないのに、『何か心配事でもあるの?』って、話しかけられて、相談に乗ってもらった娘がいるんだって」
 尚斗は、ちょっと頭を下げた。
「……サンキューな、麻里絵」
「何が?」
「色々と、藤本先生のこと、聞いて回ってくれてるんだろ?」
「別に、友達と話をしてるだけ」
「そっか…」
「そうだよ」
 
「あの、尚斗君…日を追って、生傷が増えてるような気がするんですが」
「野山が、俺の遊び場ですからね」
「はあ…」
 わかったようなわからないような、綺羅の返事。
「斜面を駆け下りるとですね、木の枝なんかが当たって、皮膚が切れるんです。特に、乾燥するこの季節は」
「まあ」
「笹の葉も、何気なく伸ばした腕なんかを切ったりしますし」
「うふふ、尚斗君は腕白小僧というものなのですね」
「腕白かどうかはともかく、色々と馬鹿はやってます」
「藤本先生、ご相談が…」
「あら」
 綺羅はちょっと頭を下げ(以下略)。
 
「……傷がふさがる暇もないってこのことだね」
「腕白坊主だからな、俺は」
「あはは…」
 麻里絵はちょっと笑い。
「でも、顔の傷以外は見えないはずなのにね」
「え?」
「だって、生傷が増えていくって、藤本先生は言ったんでしょ」
「むう」
「……足とか腕とかお腹とか、目に見えないところばっかり、殴ったり蹴ったり……そういう姑息な人、私は嫌いだな」
 
「……好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは誰なんだろうな…」
「関節を極められながら、そういうとぼけた事を言えるお前をちょっとだけ尊敬するぞ」
「馬鹿にしないでやってみろよ、良いゲームなんだぜあれは」
「また今度な」
「……で、何が聞きたいんだよ?」
「いや、お前…藤本先生に余計なことを吹き込んでないか?」
 ぎりぎり。
「……手渡したテレフォンナンバーが、始まりになるなんて気付かなかったんだ」
 ぎりぎりぎり。
「痛っ、たたたたっ…ネタがわからないからって、怒るなよ」
「いちいち古い上に、ひねりすぎなんだよお前のネタは」
 と、尚斗はそこで宮坂を解放し。
「ふいー」
「まあ、手荒なまねをしたのは一応謝る」
 宮坂は、ちょっと肩を回し……尚斗を見た。
「お前、ちょっと右足を引きずってるよな」
「え?」
「椅子に座るとき、立ち上がるとき、ちょっと顔をしかめてる」
 それは、ちょっとばかり尚斗も自覚があった。
「むう」
「見る目があれば、気付くもんだぜ」
「なるほど」
 尚斗は、もう一度頭を下げた。
「疑って悪かった」
「まあ、それを俺が教えたんだけどな」
 ぎりぎりぎりぎり。
「かけぬけてゆーく、私の、走馬燈ぅー」
「まだ余裕あんのか、てめえ」
「まてまてまてまて」
 宮坂の手が尚斗の膝にかかる。
 反射的に腰を浮かした尚斗の隙を突いて、宮坂は鮮やかに脱出した。
「ぜいぜいぜい…痩せても枯れても、俺は情報屋だっつーの」
「あぁ?」
「聞かれなきゃ答えない」
「……というと?」
「綺羅先生は、お前の異変にはちゃんと気付いてた」
 『ちゃんと生徒のことを見てる先生だよ』という麻里絵の言葉を、尚斗は思い出した。
「……なるほど」
 
「……ふむ」
「のんびりしてられるほど、残された時間は長くないと思うんだけど」
「うむ、最近のプレハブって、本当にあっという間に建つんだよな」
「……」
「……」
「……ねえ」
 という言葉と共に、紗智が背中にのしかかってきた。
「どした?」
 背中に感じるやや控えめな柔らかさにどぎまぎしながらも、尚斗は、平静を装って紗智に声をかけた。
「アタシ、尚斗に無理を言ってるの?」
「なんだ、それ?」
「……なんとなく」
「決めたのは俺だっつーの、しょうもないこと考えんな」
「……アタシ、人を見る目、ないのかな」
「あんなもん、漫画や小説の中だけの話だと俺は思うがな」
「……」
「理由もなく人をぶん殴る奴が、捨てられてる猫を拾って帰ったりするんだよ。こっちから見ればいい奴で、別から見ればひどい奴……まあ、それは極端にしても、人って生き物は、良いことをしながら悪いこともする、そんな存在だろ。白黒で分ける、二元論ってやつを、人間に当てはめようとは、俺は思わないけどな」
「……」
 必死に抑えているようだったが、泣いている気配に気付いて……尚斗は、黙った。
 こういうときに、気の利いた言葉もかけてやれない……と、いうか、紗智が何を泣いているのかわからない。
 いや、何となくはわかっているのだ。
「……アタシが、みちろーの背中を押したの」
「……だろうな」
「あはは……わかるんだ」
「優柔不断な奴だったからな、みちろーは」
 多分、紗智にはそれが我慢出来なかったのだろうし……それ以上は、言わせるべきではなかった。
「…って言うか」
「悪役は男が引き受けるもんだ…みちろーだって、そのぐらいの根性はあるさ」
 全部ぶちまけることで楽になる事もあれば、それを他人に聞かせる事で、余計な重荷を背負うことになる事もある……尚斗にも、そのぐらいの分別はある。
 もちろん、それが、間違っているかも知れないが。
「……それは…ずるい」
「聞きたくねーもん」
「……」
「麻里絵の友達でいてやってくれ」
「うわ……惚れちゃいそう」
「明日になれば、気が変わってると思うぞ」
「ははは」
 と、紗智は笑い。
「アタシ…藤本先生のこと、嫌いなんだ」
「むう」
「意外だった?」
「意外と言えば意外だし、そう言われればそういうモノかな、とも思う」
「……」
「なんつーか、訳知り顔で『何か心配事?』とか聞かれるの、嫌なタイプだろ、お前」
 紗智の重みが、背中から離れていった。
「やっぱ、アンタのこと、嫌い」
「別に、俺は嫌いじゃねえ…そんなもんだろ」
「……願わくば、藤本先生のこと、手ひどく振っちゃってよ。で、アンタはみんなに恨まれて、ぼこぼこにやられちゃえばいい」
「無茶言うな」
 
「今朝は、一ノ瀬さんの顔つきが変わってました」
「はあ」
 曖昧に答えた尚斗に向かって、綺羅が頭を下げた。
「いやいやいや、何ですか?」
「謙虚ですのね、尚斗君は」
「謙虚も何も…」
「教師になってみてわかったことですが、意外と、教師という立場は不自由なモノなんです」
「いや、教師に限らずそんなフリーダムな人間は…」
 宮坂の顔が浮かび、尚斗は慌てて首を振った。
「いないでしょう……つーか、本当に、何の話かわかりませんです、はい」
「……」
 綺羅はしばらく尚斗を見つめ……そして笑った。
「藤本先生、質問が…」
「あら」
 と、綺羅は一度そちらを振り返り。
「今、尚斗君と、大事な話をしていますの。あとでよろしいですか?」
「……」
「よろしいですね?」
 退散した男子生徒の背中を見送り、綺羅は再び尚斗と向かい合った。
「…良かったんですか?」
 背中にぶすぶすと突き刺さる殺気に耐えながら、尚斗は綺羅に問いかけた。
「何度も続けば、本当の用事かどうか私にだってわかります」
「まあ…そりゃそうすね」
 俺の命の心配にまでは、思いが至らないんだろうな……と、苦笑しつつ。
「ところで…」
「はい?」
「尚斗君は、私の何を心配してくださっているんですか?」
「……」
「教師として至らぬ所があるのは百も承知なのですが、尚斗君の心配は別の所にあるようですし…」
「ちょっ、ちょっと待ってください…」
「はい、待ちます」
 尚斗は呼吸を整えて。
「何の話ですか?」
 綺羅は、じっと尚斗を見つめ。
「最初は、1年の九条御子さんでした」
「……」
「恥ずかしながら、九条弥生さんが家を出ていることなど、ちっとも知らなかったんです」
「えーっと、ですね」
「教師としての至らなさを、思い知らされました」
「いや、その…あれは、偶然というか」
「九条さんは、偶然で、口を開くような生徒ではありません」
「いや…」
「謙遜が過ぎると、嫌味になります」
 と、綺羅は尚斗の口を封じ。
「次は、3年の橘さんでした」
「あー」
 見てるよ、確かにこの先生、生徒のことよく見てるよ、麻里絵…と、心の中で尚斗は叫ぶ。
「少し特殊な事情を抱えているせいで、自分を見せず、誰に対しても構えたところのある生徒だったのに、いつの間にか尚斗君に対しては…」
「ちょっと、相談に乗っただけです。つーか、無神経に、顔を突っ込んだというか…」
「誰かのために汗をかける……素敵なことだと思います」
「……」
「尚斗君は、照れ屋さんでもありますのね」
「いやもう、ほんっと、勘弁してください…」
 100%善意で解釈された、自分の行為をいちいち説明されるなんて、拷問以外の何ものでもない。
「その、つまり、尚斗君は…」
 綺羅はちょっと頬を染め。
「私のことを、心配してくださっていると推測したのですが…」
「いや、それは…」
 綺羅の瞳。
「…そうなんですが」
「まあ」
 手で口元を押さえ、綺羅の表情が輝いた。
「教師として、それではいけませんのに……ひどく、幸せな気分になってしまうんです」
「……」
「尚斗君のような方が、本当の殿方なのですね、きっと」
 その瞬間、綺羅に感じていた怖さ……それが、消えていることに尚斗は気付いた。
 もちろん、それがただの錯覚かも知れないという気持ちもあるのだが……それよりも、自分が誰かに一杯食わされたような、そんな腑に落ちないような気持ちが心の片隅で存在を主張しているのがわかる。
 今の話が本当だとすると、綺羅は、わりと最初から、自分に対して好意を抱いていたことになりはしまいか。
 『私、男の方がこんなに親切だとは知りませんでした』
 え、ひょっとして俺が隣にいるときに言ったあの言葉って…。
 じゃあ、あの時感じた恐怖って、一体…?
 あれ、あれあれあれ…?
「尚斗さん」
 気がつくと、綺羅が尚斗の手を握っていたりする…呼び方が変わったことには気がつかなかった。
「な、なんすか?」
「今度、尚斗さんの進路について、少しお話がしたいのですが」
 ぞくり。
 背筋を寒気が走った。
「し、進路って…俺、まだ2年ですよ」
「春が来たら3年ですし…」
 つーか、学校が違います……という言葉が出てこない。
「そりゃそーですが…その、勉強には自信がないもんでして…」
「私も、25歳になります」
 先生の歳が、何か関係あるんですか……と尚斗に言わせない何かが、ある。
 女は魔物…というどこかで聞いた言葉が、頭の中を、ぐーるぐーる回り出したような気がした。
「尚斗さんにあまり心配を掛けないように、私も頑張らねばと思います」
 ちがうよ、何か違うよ…。
 綺羅が、にこりと笑い。
「そろそろ、教室に戻りましょう、尚斗さん」
 そして、綺羅は尚斗の手を引いて歩き出した。
 
 幸せの形は様々である。
 それを受け入れる事で、人の一生は、多少楽なモノになるだろう。
 
 
 
 
 ふう。
 手前味噌になりますが、この綺羅もなかなかに高任を苦労させてくれるキャラですが、なんかいい話が書けた……そんな感じです。
 まあ、高任の評価と読み手の評価が一致するとは限りませんが。
 
 いや、本当は、美人過ぎるが故の孤独……みたいな話を考えていたのですが、一応原作準拠だしな、それはまずかろうと構成を練り直し。
 だよね、やっぱり綺羅はこうだよね。(笑)
 
 
 
 ……同じ話を書き直すって、つらい。

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