「これが、エンゼル手帳です〜♪」
「……ほう」
 と、尚斗はちょっと顔を近づけて。
「なんか、表紙に見たこともない文字が書かれてるけど」
「はい、エンゼル語です〜♪」
「……」
 今そこにある中2というか、おそらくはいろんな設定が安寿の中でできあがっているのだろうと尚斗は納得し。
「なるほど……外国語はおろか、日本語すらままならない俺にわかるわけ無いよな」
 などと、その場をさらっと流したつもりだったのだが。
「いえ…本当なら、ここに何か書かれている事がわからないはずなんですけど〜」
 安寿から絡んできた。
「へえ、そーなんだ」
 と、一応同意し……まあ、そのぐらいなら相手になってやっても良いか、と。
「じゃあ、案外、俺って選ばれた存在だったり」
 中2病だろうが、電波っ娘だろうが……安寿が可愛い女の子であることは紛れもない真実で。
 多少の下心を認めつつ、そんな発言をしてしまったわけなのだが。
「人は、神の下、みな平等です〜」
「……そうだね」
 意外にもノリが悪い……というか、どうやら彼女の電波設定に、自分という存在はそぐわないようだと諦めた。
 時は平成、人類の未来を照らすはずの民主主義と資本主義の強力タッグは、21世紀に入るなり、いや、入る前からその足並みはやや乱れがちのようで。
「あなたの幸せを祈らせてください〜♪」
 少女の訴えに、道行く人は時折うさんくさげな視線を向けるのみ。
 冬空の下、雑踏の中、少女の美しい声は、誰の心も震わせるでもなく…風に吹かれて消えていく。
 それは意味のない行為であり、資本主義が忌み嫌う非効率につながる。
 なのに、少女はそれをやめない……以前に、そもそも疑問を抱かないようで。
 そこから少し離れて、ぽつんと少女を見守る自分は何なのか。
 正直、関わりたくない相手だと思った。
 ついさっき、見返りというか下心らしきものも否定されたっぽい。
 自分が、これ以上少女に付き合うメリットはどこにある。
「……わかってはいるんだが」
 少女の……いや、外見とかそういうものではく、少女の存在そのものの行方が、気になった。
 理由は良くわからないが……多分、自分はこの結末を……見届けなければいけない。
「……なんだよ結末って」
 少女は高校2年生で……驚くほど世間知らずで……大雪のせいで、尚斗が知り合う前から、ずっとこういう風に日々を過ごしてきたはずで。
 今までずっと変わらずに繰り返してきたことの結末が、突然やってくるとでも。
「……やべえな、俺も中2かよ」
 自分は特別。
 そんな膨れに膨れた自意識とは無縁の精神構造だと思っていたのだが。
 自称天使の少女に目を向ける。
 漫画や小説、アニメではおなじみの存在だ……ついでにいうと、一般人より遙かに聖書に親しんでいるカトリック系お嬢様学校の生徒ともなれば、現実って奴から多少足を踏み外すのも無理はないのか。
 恥ずかしながら尚斗は、この前辞書で天使という言葉を調べてみたわけで。
 天子の使いやら、比喩的表現のやさしく清らかな人ってのはおいといて…。
 
『神の使者として天界から人間界に派遣され、神と人間の仲介をし、神の真意を伝え、人間を守護するモノ』
 
 はあ、そーですか……としか、尚斗には言えなかった。
 神ってモノが実在し、安寿が本当に天使だとしたら……神の真意は、人間の幸せにあるとでも言うのか。
 まあ、確かなのは……少女がどこまでも真剣で、道行く人間は誰も少女の言葉に耳を止めないということだけだった。
 
 その数日後。
「安寿」
「はい〜♪」
「世界の幸せを、安寿1人が祈るというのは、これは随分と傲慢な考え方じゃないかと思うんだ」
「傲慢……ですか〜」
「うむ、世界は広く、嫌になるぐらい多くの人間がいるわけで……それを、安寿1人が支えようというのは、どうだろうと思う」
 ああ、何言ってんだ俺……などと思いながら。
「人が集まって街が出来る。街が集まって国が出来る、国が集まって世界が出来る……つまり、街は世界の一部分であって、世界そのものとも言えるんじゃないかと」
「おお〜」
 ぱちぱちと、安寿が手を叩く。
 からかっているんじゃなくて、本気で感心しているのだ。
「そして安寿はこの街にいる」
「はい、います」
「いきなり世界を幸せにするのではなく、まずは自分のいるこの街を幸せにするというのはどうだろう。言ってみれば、幸せによる世界征服の第一歩という奴だな」
「せ、世界征服ですか〜なにやら、胸が躍る言葉の響きですね〜」
 いや、胸を躍らせてどうする、自称天使さんよ。
 などというツッコミは飲み込み。
「だが敢えてもう一歩」
「もう一歩っ」
「この街を幸せにするための、さらにもう一歩として、この学校を幸せにしてみようじゃないか」
「おお〜♪」
「しかもだっ」
「しかもっ」
 安寿は何故かノリノリで、楽しそうだった。
「いきなり、幸せというのもどうかと思う」
「……?」
「俺が思うに、大きな幸せは小さな幸せが集まって発生する」
「小さな幸せ?」
「今日の夕飯俺の好物じゃん…とか、ラッキー、500円拾った…とかの小さな幸せ…」
「500円を無くした人が可哀想です」
「あ、そうだな……えっと、だからだな…」
 尚斗はちょっと考え。
「小さな事からこつこつと」
「こつこつと」
「朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた…朝食がうまかった…遅刻しなかった…そういう積み重ねが人幸せにするのではないかと」
「さ、ささやかすぎる気がします〜」
「む、そうか?」
「でも〜有崎さんの言いたいことはなんとなくわかります〜♪」
「うむ、そうか…わかってくれたなら、今この時から、作戦を決行したいと思う」
「らじゃ〜♪」
 
 安寿と一緒に、困っている人を出来る範囲で手助けしてやり、『美味しいものを食べると幸せですよね〜♪』などと、安寿と2人でカレーを作り、みなにそれを振る舞ったり。
 高校生にもなって……とも思うが、結局それはおままごとに過ぎなくて。
 いや、おままごとのはずだったのに。
 夕暮れの屋上で……夕日に照らされた安寿の横顔にしばし見とれた尚斗はぽつりと呟いた。
「……本当に天使みたいだな、安寿は」
「え…?」
 嫌な顔1つせず、誰かのために、自分の身を尽くす。
 辞書で調べた、小難しい説明はともかく……何の欺瞞もなく、目の前の少女を、天使だと信じた一瞬。
「あ…」
 微かに、安寿の表情が曇った。
「……あ」
 自分の失言に気付き、尚斗は慌てて首を振る。
「あ、いや…安寿の言ってることを信用してなかったとかじゃなく…」
 自分の事を天使だと信じて疑わない少女に、しかもそれに同意して行動を共にした相手から発せられた『本当に天使みたい』などという言葉が、どれだけ侮辱的で、裏切りに満ちた表現であるか、それに気付くのが遅すぎた。
「……」
「……」
 2人の間に沈黙がおち……夕日は、容赦なく光と影のコントラストを描き出す。
「かぐや姫の話……竹取物語をご存じですか〜?」
「ん、まあ、一応…」
「かぐや姫は…月の世界の住人で、罪人でした」
「……そーだったっけ?」
 安寿はちょっと微笑んで。
「罪人だったんですねえ〜♪」
「むう、悪い…あんまりご存じじゃないかも知れん」
 安寿は再び笑って。
「罪人だったんです〜だから、この世界で過ごすことは、かぐや姫にとって罰だったんですよ〜♪」
「それはまた、ひどいいいぐさだ」
 この世界で過ごすことが罰だとしたら、この世界に住んでいる自分達人間は一体何なのか。
「まったくです〜♪」
 安寿は大きく頷き……言葉を続けた。
「この世界は、こんなにも美しく、幸福に満ちているのに」
 いや、それは世界の幸せを祈る設定とちょっとばかり接触不良を起こしているような…と思ったが、尚斗は別の言葉を口にした。
「いや、そういう意味じゃないんじゃないか?」
「……?」
「この世界がどんなに美しくても…その、かぐや姫にとっては、故郷じゃないじゃん」
「……」
「懐かしい景色も、知り合いもいない……そんな場所で、1人過ごすことを強要される……それはきっと、罰になるんじゃないか」
「……っ」
 安寿が少し俯いた……見ると、指先で涙をぬぐっている。
「あぁ、えっと…」
 一体何と言葉をかければいいのかと迷う尚斗に向かって。
「罰ではありませんでした」
「え?」
「罰を受けに来て……罰を受けに来たはずなのに…こんなに、こんなにも暖かい気持ちになれるなんて、夢にも思っていませんでした、私は」
 新たな設定と思えぬ、抗いがたいリアリティが、尚斗の目の前に出現しつつあった。
 夕日をはじき、神々しい光に包まれて。
 安寿の背中で、一対の白い翼が大きく広がる。
「罰では、罰ではありません…だから、私は…帰れないはずなんですっ」
 伸びやかに羽を広げる翼とは裏腹に、安寿は自らの顔を両手で覆う。
「何かの間違いです…間違いなんです…だって、私は…罰を…罰なんか受けていません」
 翼がはためき、安寿の身体が、足が、地を離れ……安寿は、手を伸ばして屋上の手すりをつかんだ。
 そして、あらわになったのは、安寿の瞳から止めどなくこぼれる涙。
「安寿…」
 珍しく持ち合わせていたハンカチを取り出して、尚斗は安寿の涙をぬぐってやった。
「尚斗さん…」
 手すりを放し、安寿が尚斗の身体を抱きしめた……と、安寿の足が地に戻る。
 5分、10分……そして、夕日が沈むまで。
「1人は、寂しいよな」
「……はい」
「だから…安寿はちょっとばかり、勘違いしてるかも知れないぜ」
「……そうかも、しれません」
「帰らなきゃいけないなら…ちゃんとお別れしようぜ」
 涙に濡れた目で尚斗を見つめ……安寿はそっと指先で尚斗の涙をぬぐってくれた。
 
 春が過ぎ、夏が来て…。
 
「ちょっと、尚斗」
「なに?」
「このクソ暑いのに、またボランティア活動に出かけるとか言うんじゃないでしょうね?」
「んな、大したこっちゃねえよ」
「やめてよね…宗教とか言い出したりするのは」
「あほか」
「だったら、なんでボランティアとか、慈善活動とか…」
「今まで、そういう連中と知り合ったこと無かったからだっつーの」
「は?」
「だから、いろんな人間がいるじゃん。そのいろんな人間に会ってみたいって言うか……きざったらしい言い方をすれば、自分の世界を広げてみたいってこと」
「自分の世界…ねえ」
 わかったようなわからないような、尚斗の姉の呟き。
「つーか、あんた受験生でしょ?」
「全然やってねえってわけじゃねえよ」
「あーまあ……アンタの生活態度が改まったって、母さんの機嫌もいいから、あんまり言いたくはないけど」
 姉は首を振り、尚斗に向かってきっぱりと言い放った。
「なんか、キモイ」
「うるせえっ」
 玄関のドアを閉め、尚斗はうだるような暑さの中歩き出す。
 最初こそ、安寿の面影を求めて……などという不純な動機があったが、夏になってようやく、自分以外の誰かのために……という気持ちで、いろんな活動が出来るようになってきたような気がしていた。
 まあ……誰かにお礼を言われるのは、ちょいと照れくさいが、純粋に嬉しい。
 夏休みが終われば、本格的な受験勉強が始まる……が、これまでの怠惰がたたって、いわゆる有名大学に進学できると言うことはないだろう。
 それでも、半年前までは絶対に無理と思われていた大学が、頑張ればあるいは……ぐらいに、変化が見られるのだ。
 
 そして秋が過ぎ、冬が来て……また、春が来る。
 
「夢にまで見た一人暮らし、決定っ」
 拳を握りしめ、尚斗は盛り上がっていた。
 無事に、呆れるぐらい無事に、希望校に合格。
 両親は素直にというかむしろ手放し状態で、姉は控えめに喜んでくれた……それを、素直に喜べる自分がいる。
 入学手続きのついでに、新しい下宿を決めて……などと、まだ見ぬ新生活に、尚斗の夢は広がっていく。
 男子校に行き、恩師に合格を告げ……その帰り道。
 あまり人通りのない……というか、地元住人でもほとんど利用しない、細い裏通りを歩いている尚斗の耳に。
 
『募金お願いします〜♪』
 
 足が止まる。
 すぐに歩き出す、急ぎ足で。
 人通りのない、近くに民家もない……言ってみれば、募金活動に最も非効率な場所で、少女は、歌うように、呼びかけていた。
「……よう」
 自分でもどうかと思うぐらいぶっきらぼうな声が出て、尚斗は苦笑する。
「募金お願いします〜♪」
「……募金ってのは、もっと人通りの多い場所で、やるモンだと思うぞ」
「募金お願いします〜♪」
 と、少女がようやく、尚斗を見た。
「小さな事から、こつこつとです」
「ああ、そうね…そうだね」
 尚斗はポケットを探り、財布を取り出して……。
「むう」
 1万円札と、50円玉。
「募金お願いします〜♪」
 にこにこにこ。
「いや、その前に何の募金なんだよ、これ?」
「生きていくには、お金がかかるんです」
「……は?」
 にこにこにこ。
「どこかの誰かの幸せのために?」
「いえ、これは私の生活のために〜」
「募金じゃなくて、カンパっつんだそれはっ!」
「お願いします〜」
「はいはい、こつとこつと頑張ってくれ」
 と、尚斗は50円をとって、箱に入れた。
 とすん。
 当然というか、それは悲しい音だった。
「……いきなり開けんのかよ?」
 箱を開け、中をのぞいた安寿がぽつりと呟く。
「……50円」
 どことなく、寂しそうな口調だった。
「お、俺の知ってる安寿は、金額の多寡で、判断するような奴じゃなかったぞ?」
「私、50円で買われるんですか…」
「いまなんか、ものすごく刺激的でデンジャラスなことを言わなかったか?」
 尚斗の言葉を無視して、安寿はちょっと頬を染めた。
「仕方ないですねえ、他ならぬ尚斗さんですし…」
「じ、人身売買は、国際条約において…」
 自分の煩悩を知られたくなくて、敢えて人身売買という表現を使ったのだが、安寿はさらりとそれを流す。
「私は人じゃないから問題ありません〜♪」
「おおおおいっ、そういう問題じゃなくてっ!」
「私、尚斗さんに買われました」
「だーかーらー、そういう表現やめろってっ!」
 1年ぶりに再会できたってのに、なんでいきなりカオスコントを繰り広げなければいけないのか。
 再会。
「……あれ?」
 ふっと、尚斗が首をかしげた。
「……安寿」
「はい、ご主人様〜♪」
「すまん、ちょっと煩悩がとろけそうになるから、その呼び方はやめて」
「……しょぼーん」
 残念なのかよ…というツッコミを呑みこんで。
「えっと……安寿は、この世界に、何の目的でやってきたんでしょうか?」
「天界追放されました〜♪」
「天界追放……ああ、追い出されたのか」
「はい、天界史上最悪の重罪人として、天使の力をほとんど奪われた上で、永久追放です〜♪」
「そっか……永久追放か…そりゃ、大変だよな…」
「大変です…一応、戸籍と住民票は用意しましたが、生きていくだけでも大変ですねえ…」
 しみじみと。
「でも、良かったです〜尚斗さんに買われたから、これからずっと尚斗さんと一緒に生きていけますねえ〜」
「あ、そうなんだ……それは確かに嬉しいな」
 安寿と、共に生きていける。
 その喜びはじわじわと尚斗の心の中に広がり……そして、正気を取り戻させた。
「永久追放っ!?」
 安寿の肩をつかみ、グラグラと揺すぶる。
「なにやった、なにやった、何をやったんだよ、安寿?」
「いやー大したことでは…」
 安寿がちょっと目をそらした。
「天界史上最悪の重罪人とか言ってなかったかさっき?」
「過去ではなく、現在と未来を見つめて生きていきませんか〜♪」
「いやいやいや、だって…追放って、永久って、天使の力をほとんど奪われてって……安寿、お前、なんでそれで笑っていられるんだよ?」
「尚斗さんと一緒にいられます〜♪」
「それはっ、俺だって嬉しいけどっ」
「……良かった」
「いや、だからっ…」
 安寿が、尚斗を見つめる。
 1年前とは違い、そこに涙はもちろん哀しみの色はない。
「尚斗さんを…貴方を好きになりました」
「え、う…」
 さすが天使の破壊力と言うべきか、状況を忘れ、尚斗が赤面する。
「……人の幸せを祈る天使にとって、誰か特定の人間に心を奪われる事は、許されない罪なんです」
「……」
「天使は、自らを省みず、人の幸せを願います……私は天使の、天使たる資格を失いました……今の私は、それが罪だと思いませんし、悲しい事とも思いません」
「……あ」
「そんな顔…しないでください」
 安寿が、笑う。
「天使じゃなくなっても…私は、尚斗さんの幸せを祈ることが出来ます…いえ、尚斗さん以外の方の幸せを祈ることだって出来ますよ…ただ、力がないだけで」
「でも…」
「小さなことから…です」
 安寿の手が、尚斗の頬を撫でた。
「私は、尚斗さんを幸せにします…いえ、したいんです…だから、笑ってください」
 
 これで良かったのか、他に道はなかったのか……はたまた、ふたりにとって、これが最善と言える道だったのか。
 人は、過去を、今を、未来を迷い続ける生き物である。
 
 
 
 
 安寿。
 10年前に、中二というか厨二という言葉がはたしてあったのか……言葉の移り変わりは激しいなあ。
 少なくとも、原作では電波という表現でした。
 安寿にとってのハッピーエンドとは……はたしてどういう光景なのか。

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