照りつけるように眩しい陽差しに微かな潮の香り。璃未はその香りに誘われるように不慣れな街並みを進んでいく。街の中心地をはずれ、みどりに包まれた林の中を歩いていた璃未の視界が急に開けた。
「わあっ、海だわ!」
 数え切れないぐらい転校を繰り返してきた璃未にとって、家のすぐ側に海がある場所への引っ越しは初めての経験であった。
 遊泳禁止の立て札がもったいないくらいに波はおだやかで、青い海に青い空そして白い雲のコントラストがとても美しい。青と白のこの景色に魅せられ、璃未は無意識にスケッチブックを探ったが、どうやら忘れてきたらしい。
 璃未はふとこの街が好きになりかけている自分に気がついた。そんな璃未を歓迎するかのように強い潮風が麦わら帽子を高く舞い上げた。
「あっ、待って。」
 子供が飛ばされた風船を追いかけるように璃未は麦わら帽子を追いかけて砂浜の上を走り始めた。璃未を弄ぶかのように麦わら帽子はゆっくりと璃未から遠ざかっていく。
 あまり広いとはいえない砂浜のむこうに広場のような場所が見えた。帽子は無邪気な子供のように突然空を飛ぶことに興味を無くしたのかふらふらとその広場に立つ人の方に向かって落ちていった。
「すいませーん。それ私のなんです。」
 少年は眩しそうに璃未の方を向き、手に持った麦わら帽子を手渡してくれた。自分と同じぐらいの年頃に璃未は感じた。
 少年は目を細めながら青い空を見上げた。璃未もつられるように視線を上げる。青い空に白い雲。波の音に鳥の声。高さだけを知らされる街の空とは違って、ここの空はまるで包まれている様な暖かな感覚を与えてくれる。
「ありがとう。じゃあ、私はこれで・・。」
 璃未は少年にもう一度礼を言ってその広場から出ていく。
 この街に長くいられたらいいな。
 ふと璃未はそんなことを考えた。
 
 新しい学校の雰囲気は璃未にとってどことなく落ち着きがない様に思えた。それは一月後に夏休みを控えた生徒達の心の浮つきを反映したものかもしれないし、以前通っていた学校とは較べものにならない自由な校風がそう思わせたのかもしれなかった。
 強い陽差しを敬遠してか、昼休みの屋上にはあまり人影がなかった。手すりに身体をあずけるようにして潮の香りを楽しむ。
「沢田さん・・・ひとり?」
 夜道を一人歩きしているときに背後から声をかけられたとしても、あまり驚かずにすむような警戒心を抱かせない穏やかな声だった。
「・・・見てのとおりだけど・・?」
「・・・そりゃそうだ・・。」
 何がおかしいのかわからないが、少年は小さく笑った。その表情にどことなく見覚えがある。どのみち、自分の名前を知っていると言うことは同じクラスの男子なのだろう。
「ごめんなさい、まだ名前とか覚えてなくて・・・。」
「え?そりゃまだ名乗ってないもの。ぼくは早川大輔。・・・一応、昨日沢田さんとは出会ったけどね・・。」
 昨日?
 青と白に包まれた昨日の記憶の中から1人の少年の顔が浮かんでくる。
「・・・あ、帽子の・・・。」
 少年は璃未の反応に満足したように頷くと、海の見える方に視線を向けて口を開いた。
「この街はどう?」
「・・・そうね、嫌いじゃないわこういう雰囲気。」
 璃未がそう答えると、少年は本当に嬉しそうに微笑んだ。まるで自分自身が褒められたかのように目を細めている。
「やっぱり新しい学校は不安になるの?」
「別に・・・なんでそう思うの?」
「・・・今日は沢田さんが笑ったところを見てないから・・かな?」
 何と答えていいかわからないときは黙っているに限る。璃未は何も言わずにただ海の方を見つめることにした。
「・・いろんなやつがいるけど、基本的には良いやつばかりだから・・。多分心配ないと思うよ。」
「・・・私、独りでいるのが好きなの。」
「そう?・・・じゃあ、僕もこのぐらいにしとこうかな。」
 軽く右手をあげて自分に背を向けた少年の後ろ姿を見送るのが何となくためらわれ、璃未はそのまま海をみつめていた。
 
「変わってるわね、あなた?」
「なにが・・・?」
 人を遠ざけるための所作ということに対して、璃未にはそれなりの自信があった。そんな自分にかまわないで欲しいというオーラをものともせずに近づいてくる少年。神経が鈍いというわけでもなさそうだし、女の子の後を追いかけ回す軽薄タイプでもない。友達が少ないという風にも見えない。
 海からの風が吹き上げてきた。
 初めてこの街にきたときにはこの潮の香りが特に印象的だったのが今ではほとんど気にならなくなっている。この少年もそれと同じなのか、いつの間にか自分の側にいることが気にさわらなくなった。
 もしもこの街を離れることになったら、この潮の香りをふと懐かしく思い出すようにこの少年のことも思い出してしまうのだろうか?そうだとしたら、この少年は自分がどれだけ残酷なことをしようとしているかきっと知らない。
「翼がある鳥がうらやましい?」
「えっ?」
 少年に話しかけられて、初めて自分の視線が鳥の後を追いかけていることを知った。
「前に住んでたところに帰りたい?」
「・・・もう数え切れないほど転校してるから、別に帰りたい所なんか・・。」
 最初は連絡を取り合っていた『友達』も、引っ越しを繰り返すたびにだんだん疎遠になりこちらから連絡が取りづらくなってしまった。そんなことを繰り返すうちに誰とも仲良くならないようにして・・・・
 いつの間にか、自分がもう一度帰りたいと思う場所は無くなっていった。
 忘れかけていた痛みが心の奥で疼き出す。
「沢田・・さん?」
「・・・ごめんなさい、私ちょっと用事を思い出したの。」
 璃未は少年に背を向けて歩き出した。
 この少年はどんどん自分の心の中に入ってくる。そんな大輔の存在が危険なものに思われ、結局璃未は一度も振り返ることなく誰もいない家を目指した。
 学校でも1人、家でも一人きりのようなものである。
 璃未は、自分がかつて通っていた学校のことを思い出そうとしてそのほとんどが思いだせないことに愕然とした。思い出せるのは友人と別れることになり悲しい思いをした筈の学校のことばかり。
 楽しいことも悲しいことも時間さえ経てばみな想い出になるのかな?だとしたら何の想い出もないこの数年間・・・自分には何もなかったんだ・・。
 不意に自分が荒野の中を1人歩いているような光景が頭に浮かんで、璃未は体を震わせた。
 
「早川君は・・・どうして私にかまうの?」
「気になるから・・・じゃ答えにならない?」
 既に昼休みの屋上は2人の指定席みたいなものになっていた。璃未も少年も購買で買い求めたパンをもごもごと口にしながらの会話である。
「ところで沢田さん、猫にお弁当をあげるのは少し控えた方がいいよ。」
「み・見てたのっ!」
 自分の素顔をのぞかれたような気がして、璃未は少し慌てたように少年の方を振り返った。少年の視線は璃未の手にあるパンの袋に向けられているようだ。しかし、その視線はどこか暖かい。
「あの猫達って、一年の女子を始めとしてみんながお弁当の残りやらなにやらあげてるから最近丸々太ってきててさあ・・・。」
 璃未は以前のことを知らないから何とも言えないが、そう言われてみると最初から餌をねだるようにしてすり寄ってきた気がするのも確かであった。人から餌を貰うのに手慣れている野良猫集団。それはそれでしたたかに生きる知恵なのだろうが、ぷくぷくに太るというのも問題有りかもしれない。
「それで、もうすぐ夏休みだろ。ちょっとは自給自足させとかないとあれじゃない。・・・まあ、沢田さんは夏休みでも毎日お弁当持って学校に行きそうだけど・・。」
「早川君て・・・結構ドライなのね。」
 少年は黙って両手をあげた。
 もちろん璃未自身そんなことは全く思っていないが・・・。
「・・・・早川君は太った猫が嫌いなの?」
「できればしなやかな体型でいて欲しいとは思うけど・・?」
「男の子が猫に求める体型は自分が理想とする女の子の体型なんだって。」
「ふーん、そうなんだ。」
 つまらないリアクションである。もう少しアクティブな反応が返ってくるかと思っていた璃未にとってはちょっと物足りない。
「沢田さんは動物には優しいし、通りすがりのおばあさんに対しても親切だし・・・もう少し自分に対して優しくなったらどうかな?」
「・・・良く意味が分からないけど?」
「ん・・ちょっと無理してるように見えただけ。・・・それじゃ。」
 メロンパンをくわえたまま背を向けた少年に向かって、問い質したい気はあったのだが結局声が出せなかった。この少年はいつもそうだ。別れ際に一番言いたいことを璃未の心に突き刺してくる。自分の心の中を読まれているような感じを受けることは、不思議なことに璃未にとって不快ではなかった。
 
「ちょっと早川!波多野見なかった?・・・・ん、見ない顔ね。」
「なんだ安藤か、彼女はこの前うちのクラスに転校してきた沢田さんだよ。・・んでこいつはこの学校の陰の支配者安藤桃子だ。怒らせるとおぉ!」
「質の悪い冗談ね。」
 いきなり裏拳をかます安藤の姿そのものが本当に質の悪い冗談の様なのだが・・。璃未は心の中でそう呟いた。
「沢田璃未です。」
「安藤桃子、三組よ。よろしくね。」
 桃子はその場にうずくまる大輔には目もくれずにその場を走り去っていった。
「大丈夫?」
「あいつは基本的に凄いいいやつなんだけど・・・怒らせるとこうなる。まあ、うちのクラスの波多野と安藤の2人と仲良くしてたらほぼ全部の女子とは話が通じると思う。」
「へえ、顔が広いんだ。」
「2人ともある意味目立つし、特に安藤は仕切りやさんだから。」
 自分の身体のダメージを確かめるように首を左右に振りながら立ち上がると、大輔は辺りを窺うように小さな声でそう呟いた。
「いいえ、私が言ってるのは早川君のこと・・。」
「同じ中学なんだよ。・・・まあ俺の場合は友達に恵まれただけでね・・。」
「そうかしら?」
 ぱたぱたぱた。
 背後から走り寄る足音に気がついて璃未が振り返ると小柄でショートカットの女の子が大輔の方を見つめている。足元を見ると緑の上履きを履いていた。
 ・・・一年生の娘ね。
「お兄ちゃん、今日ちゃんとゴミ捨てしてくれた?」
 大輔はどこか芝居がかった仕草で窓枠に両手をつくと、青い空を見上げた。
「いい天気だ・・・。」
「もうっ、この季節は生ゴミが臭うんだからね!お兄ちゃんの部屋に置くんだから!」
 璃未の口元が自然とほころんだ。
「君子・・・家庭の恥をふりまいて楽しいか?」
「えっ?」
 大輔にそう言われて、笑いをこらえている璃未の姿に初めて気がついたのだろう。
「くすくす、早川君の妹さん?」
「僕と違って自慢の妹でね・・。」
「あっ、早川君子です。いつもお兄ちゃんがお世話になってます。」
「沢田璃未です。貴方のお兄さんにお世話して貰ってるの。」
 学校の中で笑ったのは初めてかもしれない。そんな自分を満足気に見つめる大輔の視線も気にはならなかった。
 しばらく談笑して、再び大輔と2人きりに戻ると璃未は声をかけた。
「いいわね、兄妹って。」
「妹なんて邪魔なだけだよ・・。」
 下手な嘘というより照れ隠し以外のなにものでもないだろう。しかし、自分がこの少年のことを何も知らなかったことに気がつき、ちょっとショックだった。
 
「麻生先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど?」
「あら、沢田さん。なにかしら?」
 大したことではない。大体転校生というのは、どの学校も一組から順番に組み込まれるものである。ただし、それは他のクラスの人数の同数以下だったときである。しかし、璃未の場合は一組だけが他のクラスより1人多いところにさらに璃未が加えられたのである。自分の転校回数が多いだけに気がついたほんのちょっとした疑問にすぎなかった。
「ああ、そのこと。理由は簡単。うちのクラスは沢田さんと入れ替わるようにして1人転校しちゃうのよ、今学期一杯で・・・。」
「あ・・そうなんですか。」
「そう、だから同じ手間ならうちのクラスに・・というわけ。」
 初耳であった。というかほとんど誰とも話さないのでそういう情報が耳に入らないだけかもしれない。自分と入れ替わるようにこの学校から転校していく人物というのに少し興味を覚えた。
「誰・・・なんですか?」
「ん・・その子からぎりぎりまで内緒にしててくれって言われててね・・。」
「・・・・なんとなく、その人の気持ちはわかります。」
 璃未の呟きを耳にして、麻生先生が首を傾げた。
「・・・そうかもしれないけど、本当にそれでいいのかしらね?」
「先生は話した方がいい、と思うんですか?」
「まあいろいろあるとは思うんだけど・・聞かされなかった方はね、どうして教えてくれなかったのか?という気持ちが先に出るから・・。」
 にこやかに話すその表情が、璃未には理解しがたくてついそのことを口に出すと、
「うん?何か若い感じがして楽しいから・・・もちろん私もまだ若いけど。」
 最後だけ妙に力をいれる先生に対して何か言い返そうと思ったが、会話そのものをうち切るようにして職員室を出た。
 放課後、クラブもない生徒はほとんどが下校を始めている。璃未も自分の鞄を持ち直すようにして校門の方へと向かった。
 校門の向こうには長い下り坂がある。この坂が『さくら坂』と呼ばれていることを知ったのはつい最近のこと。春になると道の両側に植えられた桜は、見てるこちらが息苦しくなるほどに花を散らしていくのだそうだ。ただ、自分がその光景を見られるかどうかはわからないのだけれど。
 璃未の父は、赤字部門の建て直しを主に全国を飛び回る仕事をしている。その赤字部門に赴き、詳しく調査して更正案を提出するだけの時もあれば、軌道にのるまでその手腕をふるう時もある。後者の時は比較的長くそこにいられることになるが、今回はまだ何とも言えない状態らしい。小さい頃から引っ越しと転校を繰り返してきた一人娘の自分に対していつもすまなさそうに背中を丸める父を恨む気持ちはない。
 誰にだって仕方のないことがある。その事を璃未は一番最初に学んだ。
 今日も父は家には帰らない予定の筈だ。自分一人のために夕食を作るのも少し面倒だったので、帰り道に見つけたコンビニの中で璃未は適当に総菜なんかを買い込んだ。
「ありがとうございました・・。」
 事務的な店員の挨拶を背に受け、店から出た瞬間に見知った顔を見つけた。向こうもまた璃未のことに気がついたらしくこちらに近づいてきた。
「なんか意外そうな顔してるわね。」
「いや・・沢田さんがコンビニで買い物する姿がちょっとぴんとこなかったもので。」
 苦笑いする大輔の口元から白い歯がのぞいている。
「褒め言葉なのかしら・・?」
「単なる感想だよ。深い意味はないから・・。」
「・・・自分の分だけご飯作るのも味気ないから、たまにこうしてるの・・。」
 怪訝な顔をする大輔に向かって璃未は言葉を継ぎ足した。
「・・・私の家、父と2人なの。今日はお父さん帰ってこないから・・。」
「ふーん。じゃあ、うちに夕飯食べに来ない?僕の家もしばらく君子と2人なんだ。」
 璃未は自分の手に持ったビニール袋に一旦目を落とし、それから大輔を見つめた。
「今日はちょっと。・・・そうだ、明日七夕祭りの約束してたじゃない。その時はどうかしら?」
「ん、・・・でも夜は浜辺で花火があるからなあ。」
「へえ、花火まであるの。じゃあ、大分遅くなるからダメかもしれないわね。」
「そうだね・・。」
 などと、主に明日の七夕祭りのことを話しているうちに別れ道にやってきた。
「じゃあ、私はここで。早川君、また明日ね。」
 大輔と別れてから5分ほどで璃未は自分の家についた。キッチンのテーブルの上にコンビニの袋を置き、ついため息を吐く。
「・・・一緒に食べた方が良かったかしら?」
 
「ただいま・・。」
 花火大会の余韻を味わいながらマンションのドアを開いた。
「おかえり、璃未。」
 キッチンから父の穏やかな声が聞こえてきて、璃未は少し意外に思った。
「お父さん、帰ってたの?」
「日曜ぐらいは帰らせてくれるさ・・。」
 この時間に自分が家にいることに対して、本当に意外そうな娘の反応に父は苦笑いしているようだ。
「おや?その浴衣は・・。」
「あ、これ?」
 璃未は父の前で浴衣を見せびらかすようにくるりと身体を回転させた。
「今日ね、お祭りがあったの。その後には花火大会もあったから遅くなっちゃった。」
 はずむような娘の声に何か感じるところがあったのだろう。父は満足げに頷きながら、穏やかな声で璃未に確認するように尋ねた。
「今度の学校は楽しいようだね・・。」
「・・・・・うん。」
「今度のお父さんの仕事は結構やっかいでね、数年がかりの再建になる。」
 厄介な仕事というわりに父の表情は何故か明るい。
「え・・・?それってここには長くいられるってことなの?」
「お前が卒業するまでは、間違いなくここに住むことになるだろうな。」
 父がやっかいな仕事に当たった事を喜んでいいのか、璃未は判断に苦しみ黙っていることにした。
「嬉しくないのか?」
「でも・・・お父さんの仕事、面倒なんでしょ?」
 父はため息をついて娘を優しい視線で見つめ、やがて口を開いた。
「お前は母さんに似て・・・他人のことばかり心配するんだな・・。」
「他人だなんて・・・お父さんは家族じゃない!家族の心配をするのは当たり前のことでしょ。」
 少し興奮気味の璃未をなだめるように、ことさら穏やかに父は娘を見つめた。
「なら・・・たまにはお父さんにも娘の心配をさせなさい。・・・いいね?」
「・・うん。ありがとう、お父さん。」
 父の愛情を感じながら、璃未は少し考えていた。
 ひょっとすると近い将来にこの父を大いに心配させる事になりそうな予感。一人娘に好きな人ができたと知ったときどんな反応をするのだろうか?
「お父さん。」
「ん、どうしたんだ?」
「覚悟しといてね・・。」
 訳が分からないといった表情の父をそこに残したまま、璃未は自分の部屋に逃げるようにして駆け込んだ。自分で言った言葉に照れてしまった。そんな気恥ずかしさが彼女にそう言う行動をとらせたのだが、キッチンに一人残された父はそんなことを知る由もない。
 
「早川君は・・今日がとても楽しかったら明日はどうなると思う?」
「・・・・さあ?」
「質問が悪かったかしら?じゃあ、楽しいことの後にはつらいことが来ると思う?」
 璃未は質問の仕方を変えてもう一度尋ねてみた。
「それは・・わからないと思うけど。沢田さんはどう思うの?」
「私は・・・つらいことが来ると思うの。」
 目の前の少年は少し納得がいかない様に自分を見つめている。璃未は青い空に一杯に広がろうとしている入道雲に視線を移しながら再び口を開く。
「いいことや悪いこと。それとどちらでもない取るに足らないこと。・・・・楽しいということは普通じゃないことだもの。普通じゃないことはいつまでも続かない・・そうは思わない?」
 今こうしていることを楽しいと感じる自分。この楽しさもいつかは壊れる・・・そう思っていた。
「沢田さんって時々そういう目をするよね・・。でも、楽しいと思うことを我慢してつらいことは減ったの?転校するからって・・・独りでいるのも・・・と、ごめん。」
「・・・・・・減らなかったわ。でも不思議ね、早川君って。なんか私の言いたいことがみんなわかってるような感じで。転校なんかしたこと無いんでしょ?」
「・・・まあね。」
 璃未はふとわけもなく不安に襲われた。自分は卒業するまでこの学校にいられる。この少年と一緒にいられるはずなのに何故不安になるのだろう?
「どうしたの?」
「えっ?ううん、なんでもないの。」
 そう、なんでもないはず。なんでも・・・。
「・・こんな事聞くのもなんだけど、転校するってどんな気持ちだった?」
「最初はつらかった・・。友達がね、距離が離れると心の距離も離れていくみたいで。」
「・・・離れても友達なんじゃないの?」
 璃未は目を閉じた。
 その瞼の裏にはっきりと思い出せる顔はもうない。平均すれば八ヶ月に一回の割合で転校を繰り返すうちに、友達といえる存在を拒否してきた自分には、幼い頃の友達の姿ももはやうっすらとした幻のようなものだった。
「・・・みんなそう言うけどね。」
「そんなことないよ。・・・きっと。」
 少年の強い口調の陰に何かが見え隠れしていた。それが少年自身の願望であることに気がついた璃未にはわかってしまった。この少年は転校してしまうんだなということを。
「ねえ、海に入っちゃおうか?」
「えっ?水着なんか持ってないよ。」
「別に泳ぐわけじゃないわ。」
 璃未はスカートの裾を押さえながら、踝ぐらいまでの波打ち際に駆け出した。ゆっくりとそれに続こうとした少年の顔をめがけてすくい取った水をひっかける。
「どうしたの?やり返してもいいわよ!」
「でも・・・制服が濡れちゃうよ。」
「いいの!」
 璃未の頬を伝う水滴は、潮の香りと混ざり合うようにしてきらきらと光を反射しながら落ちていった。
 
 ぴんぽーん。
「おにいちゃーん。沢田さんがきてるよ。」
 眠そうな目をこすりながら玄関先までやってきた少年の姿を見て苦笑した。
「早川君・・・ひょっとして寝てたの?」
「いや・・一度は起きてたんだけど、ついうとうととして。」
 言い訳がましくくどくどと繰り返そうとする少年を妹が遮った。
「おにいちゃん、それは普通寝てたっていうんだよ。」
「沢田さん、今日はどうしたの?」
 旗色の悪さを感じ取ったのか、見事な話の逸らし方である。
「借りてた数学のノート持ってきたの。昨日、返すの忘れてたから・・。」
 少年の様子からして、どうも忘れていたようである。宿題も出ているというのに、いつでも良かったのになんて呟いているのがこの少年らしいといえばらしいのだが・・。
「沢田さん、もうすぐお昼ができるんですけど一緒に食べていきませんか?お兄ちゃんも別にいいよね。」
「え?でも・・・。」
 躊躇する璃未の様子を見て、少年は隣に立つ妹の頭を軽く押さえながら説明を始めた。
「こいつ、自分の料理を人に食べて貰うのが好きなんだ。沢田さんさえ良かったら批評してやってよ。」
「えへへー。お願いします、沢田さん。お兄ちゃんだと張り合いがなくって・・。」
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな・・?」
 台所でてきぱきと料理の仕上げにかかっている少女の様子を見て、璃未は内心目を丸くした。
「君子ちゃん・・・凄いのね。」
「そんなこと無いですよ。それに、これを食べてから褒めてください。」
「ほう、既に褒められると思ってるのか。凄い自信だな。」
 2人のそんな様子を見ていると、璃未は自分にも兄弟がいたらなあと思うのだが、それはそれで違う悩みもあるのだろうと考えている。
「・・・おいしい・・。」
「でしょー。それなのにお兄ちゃんたらいつも『まあまあだな』とか『いつもと変わらない』ぐらいしか言ってくれないんです。」
「ふっ。海原大輔と呼んでくれ・・。」
「あんなのただの嫌な人だよう。」
 2人の会話についていけない璃未は料理を片づけることに専念した。
 璃未は食器の片づけを手伝おうとしたのだが、少女に明るく『沢田さんはお兄ちゃんの相手してあげてください。』と断られ、テーブルを挟んで少年と向かい合っていた。
 自分の記憶にはほとんどないと言っていい家族の団らんに少し油断していたのかもしれない。
「早川君、引っ越しの準備はできたの?」
「・・・ほとんどね。」
 目に見えるような感情の動きはなかった。少年がそれを抑えつけているのかもしれなかったし、ここ数日の自分の態度から悟っていたのかはわからない。
「ごめん、私帰るね。」
 こんな事を言うつもりはなかった。せっかくの楽しい雰囲気を一瞬にして壊してしまったことを今さら後悔してもどうにもならない。
「あれ、沢田さん帰っちゃうんですか?」
「ええ、少し用事を思い出したから。君子ちゃん、今日はご馳走様。」
 挨拶もそこそこに団地を後にする。
 とてもこんな気持ちのままで家に帰る気がせず、璃未は臨海公園へと足を運んだ。
 璃未の好きな入道雲は、そのやんちゃぶりを発揮して青い空を支配しようとし、青い海は強い陽差しに応えるようにしてきらきらと輝いていた。夏の本番を迎えて輝くような景色が今日はなぜかくすんで見えた。
 次の日、少年は自分が転校することをみんなの前で告げた。みんなにはそれぞれの波紋を呼んだその言葉も璃未にとってはあまり意味のない言葉としか思えなかった。
 
 何年ぶりにか出したかつての友人への手紙。
 小学校の時に別れて中学に入る時まで連絡があった一番息の長い友達だった。何故そんなものを出す気になったのかはわからない。もう自分のことなど忘れている筈なんだけど、返事が来るかどうかがやはり気になってしまう。
 転校することを告げたあの日以来、少年の姿を学校で見かけることなく終業式の日を迎えた。麻生先生の話によると転校の手続き等で引っ越し先に行っているらしい。それでも、さすがに今日は学校に来ると言っていた。だとすると、今日しか彼に会うチャンスはないのだろう。
 だけど、今自分の目の前には綺麗な夕焼け空だけがある。今頃、送別会であの人は友達に囲まれどんな思いを胸に抱いているのだろうか?
「この街はどう?」
「・・・・ちょっと嫌いになったわ。」
 主役の1人が抜けた送別会は、今頃君子ちゃんだけの送別会になっているのだろうか?
 会いたいけど会いたくなかった。この人は私の笑顔が好きだといってたから・・・泣くわけにはいかないもの。
「俺は・・離れても忘れないよ。」
「・・・・・・友達なの?」
 背後に立つあの人の困惑した雰囲気が伝わってきた。
「私ね、早川君のこと大好き。」
 そう言って璃未はくるりと振り向いた。一ヶ月ほどの短い間だったが、彼のこんな驚いた顔を見るのは初めてだ。
「僕も・・・好きだよ。」
「そう・・・友達ならダメでも、恋人なら大丈夫なのかな?」
 距離とともに心の距離を離さないように・・・何かの保証が欲しい。そんな璃未の心を見透かしたように彼が呟いた。
「戻ってくるよ・・。」
「えっ?」
「卒業したらこの街に・・・いや、沢田さんの側に戻ってくる。それまで・・・」
 いつの間にか冷たい涙が温かいそれにとって代わり始めていた。
「・・・ホントに・・早川君にはなんか心の中をのぞかれているようで・・。」
 璃未は一旦言葉を切った。
「信じて・・・いいの?」
 彼が小さく、それでいて力強く頷いたのを目にした瞬間、璃未は彼の胸に飛び込んでいった。
 腕の中にあるお互いの身体がしっかりとした現実感を伴っていた。
「待ってるからね・・・きっと。」
 そう呟いた瞬間、自分の身体がぎゅっと抱きしめられるのを感じて璃未は安心感の中で目をつぶった。
 
 夏休みの終わりに璃未は思いもかけない手紙を受け取った。もう来ないと思っていたかつての友人からの手紙である。
 友人も中学にあがる頃引っ越ししたらしく、間違っていた住所に住んでいた人がその友人家族と知り合いだったので親切にも届けてくれたらしい。その友人をはじめとして数人の手紙が一緒に同封されていて、昔の面影を残す写真を見るとほとんど忘れかけていた当時のことを懐かしく思い出すことができた。彼女は引っ越した後もきちんと友人達と連絡を取り合っていたらしく、その連絡に時間がかかっていたそうである。
 また彼女たちに返事を書こうと思う。
 でも、その前にあの人に手紙を書くつもりだ。安藤さんや波多野さん、七瀬さんを通じて夏休みの間に友達がたくさんできた。街中での偶然としか思えないような彼女たちとの出会いが本当に偶然なのか彼に一度聞いてみたいと思っていたからちょうどいい機会だと思う。
 それと、この前彼からの手紙がお父さんに見つかった。口ではなんでもないようなことを言っているが、一体誰からなのか心配している様子でちょっと楽しい。
 
 今年は例年よりも暖かく、桜の開花がいつもの年よりかなり早いらしい。他の学校より遅めの卒業式といえ、桜の花が舞うさくら坂をこうして歩いていることが少し奇妙な気がする。
「沢田。遅かったじゃない。」
「うん、ちょっとさくら坂の桜を見てたら・・・ね。」
 安藤さんが何故か楽しそうににやにやと笑っていた。
「じゃあ、沢田さんはどっちに賭ける?今のところ全員が、今日早川は姿を見せないの方に賭けてるんだけど・・。」
 木地本君、波多野さんが安藤さんの後ろでにやついている。
「一口500円。・・・まあ、若い2人に対するご祝儀みたいなものね。当然沢田さんは来る方に賭けるんでしょ?」
 と、肩を叩くのは森下さん。最初は結構キツイ視線を送られていたのだが、その理由を知ったのはつい最近のこと。
「いいの?私が全部貰っちゃって・・。」
 私がそう言うと、まわりにいた友人がどよめいた。
「ちょっと奥さん、聞きましたか今の発言?」
「愛があるのね・・。でも大輔君こういう大事なときによく遅刻するから・・。」
 などと馬鹿をやっているうちに、卒業生の体育館入場を告げられた。
 同じ式でもあまり堅苦しさを感じさせないのが卒業式のいいところ。
「あっ!」
「どうしたの?」
 波多野さんの指さす方向に人影が見えた。彼が気付かないうちに私のまわりからみんなが離れていく。ちょっと恥ずかしいかもしれない。
「沢田さーん、ただいま。」
 途端にまわりからわき起こる大爆笑に私は恥ずかしさをこらえながら、それでも大きな声で良く聞こえるように・・・
「お帰りなさい!」
 

 
 
 んーん。ちょっと既成のイベントを追いすぎたかもしれない。あとはちょっと会話を多めにしてみたのだが読み返してみると『無様』の二文字が脳裏に浮かんでしまった。まあ、趣味の問題かもしれないけど・・。しかし、相変わらずリズム感のない文章で申し訳ないです。文章毎にぶつ切りになっていてながれもへったくれもないですね。(笑)
 まあ、後の反省は自分の心の中ですることにします。
 さて、沢田さん。心の上位です。(笑)個人的には照れたように言う『勝手にすればいいわ!』が大好きです。ひまわりのイベントもいれたかったし、アップルパイを作ってきたかすみと鉢合わせとかやってみたかったんですが。ただ、このキャラって主人公に対して心が傾いていくのがちょっと不自然ですよね。このお話ではさらに不自然に感じる人もいるかもしれませんけど。(笑)
 しかし、高2の段階で転校十三回って・・・僕にはこういう仕事しか思いつきませんでした。(笑)後は知り合いが2年に1度、東京・大阪間を転勤させられているのとか。(それは嫌われているのでは?)
 

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