あら?
 麻衣子の目の前を見覚えのある少年が通り過ぎていく。名前を思い出せないのと見覚えのあるということからおそらく最近知り合った人に違いない。麻衣子は首を軽く右に傾けて右手の人差し指をあごにあてて考えた。
「そうだわ、君子ちゃんのお兄さん!」
 思い出すと同時に麻衣子の人差し指が先程まで少年のいた場所を指さす。当然、そこにはもう誰もいない。
 あら?
 麻衣子はきょろきょろとあたりを見渡したのだが少年の姿はどこにも見あたらない。
「香坂先輩何してるんですか、みんな待ってますよ?」
「あら、君子ちゃん。あのね、今さっき君子ちゃんのお兄さんがいてね・・。」
「え、お兄ちゃん?」
 君子がきょろきょろと辺りを見渡したが兄の姿は見つからなかったのだろう。
「いませんよ?」
 きょとんとした君子に向かって麻衣子はまたもお得意のポーズ、首を軽く傾け人差し指をあごにあてた。
「そうなのよ、困っちゃうわよね?」
「香坂先輩・・・お兄ちゃんと何か約束してたんですか?」
「いいえ、ただ通りかかったのを見つけたから声をかけようと思ったんだけど名前が思い出せなかったの。」
 君子の顔が急に老け込んだように麻衣子には見えた。
 次の日。
「君子ちゃんのお兄さん!」
 発見してから0.5秒。しかも右手人差し指のおまけ付き。麻衣子にしては上出来の部類に入る。ただ、指さされた本人がどういう気持ちになるのかを考えないのが麻衣子の欠点である。とりあえず大輔の顔には黒マジックで所狭しと『勘弁してください』と書き殴られていたのだがそれに気がつかないのが麻衣子の長所でもあった。
「早川です・・・。」
 ん?と麻衣子は首を傾げた。自分の中で『早川』という固有名詞と『君子ちゃんのお兄さん』という名詞が上手く結びつかないのである。『君子ちゃんのお兄さん=早川君』何となく納得のいかない部分があるように麻衣子は思った。麻衣子にとってはどうということもない時間が耐えきれなかったのかもしれない。少年は観念したように呟いた。
「・・・君子の兄です。」
「そうよね、君子ちゃんのお兄さんよね・・。」
 麻衣子は安心してうんうんと頷くと『君子ちゃんのお兄さん』も昨日の君子のように急に老け込んだように見えた。
 この一週間後に『君子ちゃんのお兄さん』は麻衣子に初めて『早川君』と呼ばれることになる。
 
 家庭部は通常学園祭の終了をもって3年生が引退することになっている。とは言っても名目上そうなっているだけで、学園祭が終わっても顔を出す三年生も毎年いるし、学園祭の遙か前から受験勉強に専念するためにほとんど顔を出さなくなってしまう三年生も珍しくはない。
 そんなわけで、麻衣子は家庭部の部長として、また数少ない3年生のひとりとして最後の大仕事である学園祭の準備に取りかかっていた。家庭部はここ数年続けてクレープ屋をしているため、特に困ることや悩むことは無いのだが、それでも準備にかかる手間暇は変わらない。麻衣子も例年の部長のように後輩にあれこれ指示しながら自分もまた忙しく働きまわっていた。だから忘れていたというわけでもないのだが・・・。
「香坂さん、進路希望を提出していないのはもうあなただけなのよ。」
「はあ、そうなんですか?」
 ちっとも緊迫感を感じさせない麻衣子の表情を見て、麻衣子の担任である女性教師は思わず苦笑した。
「あなたらしいといえばあなたらしいんだけど・・。焦る必要はないけど、時間が経てば経つほど選択肢は狭まっていくわ。それだけは覚えておいてね。」
「選択肢・・・ですか?」
「あなたは成績もいいからそれだけ選択肢の数も多いわ。とりあえず大学に行ってそれから考えるという人も多いけど・・・真面目なあなたにはそれはできないでしょうね。」
 一礼して担任と別れた麻衣子は歩きながら自分の進路というものを考えた。漠然とした希望を持ってはいるが、進路というのは自分自身の最終目標を決定してから歩み始めるものだと麻衣子は思っている。
 もし自分がある進路を適当に選んで運良く合格したとする。すると自分の合格の陰に1人の不合格者が出る。自分よりもその進路を強く願っていた誰かの進路を遮ることになってしまっては申し訳ないと思うのだ。
 今の世の中では、優しいというよりお人好しともいえる麻衣子の性格も災いしてるのかもしれなかった。
 麻衣子が家庭室まで戻ってくると、途端に後輩達が学園祭の模擬店のことについて尋ねてくる。少なくともこの騒ぎが収まるまでは、麻衣子にゆっくりと物事を考える時間は与えられないようであった。
 それに最近、麻衣子にとっては自分の進路よりも気懸かりになりそうなことが心の中に芽生えつつある。考えるなら1つずつ、そう思うと今はこの学園祭を無事に終わらせることだけが麻衣子にとって重要であり、また逃げ道でもあった。
 
「香坂先輩、やっぱり降ってきましたよお。」
「そうね、困ったわね。」
 明日の家庭部で使うための材料を買い出しに、君子と商店街にやってきたのだが・・・秋の空だけあって気まぐれな雨に降られてしまった。今日は気温も低く、濡れて帰るのはちょっと風邪をひきそうでやりたくない。傘を買おうにもさっき材料を買い込んだせいで麻衣子も君子もお財布の中はほぼ空である。
 冷たい霧のような雨が降る中、商店街のアーケードの下で身を寄せ合い、ひたすら雨が止むのを待っていたのだがどうも止みそうにない。近頃、的中確率がぐんと上がったと言われる日本気象観測の敗北は火を見るより明らかなようであった。
「おや、香坂さん・・・と君子。」
「お兄ちゃん。私は香坂先輩のおまけなの?」
 2人の前を傘を差して通りかかったのは運が良かったのか悪かったのか・・。妹思いの大輔はレディーファーストなる欧米発祥の文化の前に敗北を喫して、冷たい雨の中を仲の良い姉妹のように傘を差して歩いていく2人の背中を見送ることになったのである。
「君子ちゃん・・あれで良かったの?」
「大丈夫ですよお。別に後で迎えに行くんだし・・そうだ、私の家によって行きましょう。そうすれば予備の傘もあるし。この荷物だって置いていけるし。」
 確かに麻衣子は電車通学であるからして、こんな大荷物を抱えて帰るのも学校に行くのもちょっとやっかいである。しかし、これだけの荷物を君子1人が持てるのかどうかというと首を傾げてしまうのだ。
「大丈夫です。お兄ちゃんに持って貰いますから。」
「いっそのこと、お兄さんに家庭部に入部してもらうのはどうかしら?」
「・・・多分、役に立ちませんよ。」
「困っちゃうわよね・・。」
 この寒空の下で待つ1人の少年のことを忘れたようなゆっくりとした足取りで2人は君子の家に到着した。さすがに男物の傘とはいえ2人、しかも身長差のある麻衣子と君子では多少とはいえ濡れてしまうのは仕方がない。
「香坂先輩、今お茶いれますから。」
 とりあえず身体を温めてから帰って貰おうとしてか、君子は部屋の暖房をいれちょこまかと台所を走り回っている。
「君子ちゃん。私ちょうどこんなものを持ってるんだけど・・。」
 麻衣子は鞄の中をごそごそとかき回し、紅茶の缶を取り出した。それを見て、君子はポットとお菓子を棚から取り出してきて気分は既にハイティー(夕方から軽食とともにゆっくりと時間をかけていただくお茶のこと)である。
 ぷるるるるるる・・・。
「はい、早川です。」
 怪訝な顔をして受話器を握ったままの君子を不思議に思って麻衣子は声をかけた。
「どうしたの、君子ちゃん?」
「えっ?・・・なんか間違い電話か悪戯だと思うんですけど・・切れちゃったんです。」
「あらあら・・。」
 2人とも気を取り直すと、紅茶を飲みながらクラブのことや学校のことを話して、実に優雅な時間を過ごしていたその時、
 ぴんぽーん。
「あら、お客様みたいね。」
「もう、こんな時に誰なんだろ?」
 がちゃ。・・・がちゃ。
 君子は一旦ドアを開け、また閉めたようである。そして、慌てたように麻衣子の方にやってきてその手を引っ張り、玄関へと連れていく。
 がちゃ。
「あら早川君、お帰りなさい。」
「・・・ただいま。・・・君子、忘れてたな?」
 ずぶぬれになっていて、見ているだけでも寒そうな様子の大輔だったが、その眼光はやけに鋭い。
「そのままじゃ風邪をひくわよ。君子ちゃん、お風呂沸いてるかしら。」
 君子は恨めしげな大輔の視線を避けるようにして風呂場へと走っていった。この後麻衣子は君子によって半ば無理矢理晩ご飯の時間までつき合わされることになる。
 
「早川君、昨日はごめんなさいね。私が覚えていれば良かったんだけど、すっかり忘れちゃってたから。」
 翌日、どうやら風邪もひかずに元気良く登校している大輔を見かけ、麻衣子はすまなさそうに声をかけた。
「いや、いいんですよ。それより君子の奴が先輩を遅くまでつき合わせてしまって・・・迷惑じゃなかったんですか?」
「そんなこと無かったわよ。それより、早川君のご両親はいらっしゃらなかったのね。」
「えっ?・・ああ、今2人とも旅行に行ってるんですよ。」
「どうりで・・君子ちゃんたら寂しかったのね。」
 昨日君子が自分を遅くまで引き留めようとした理由はそこにあったのかと、麻衣子は1人納得していたのだが、それは完全に見当違いであることをここに明記しておこう。
「そうそう、昨日御馳走になったお返しに今日は君子ちゃんの分も会わせてお弁当つくってきたの。お昼休みは家庭科室にきてね。」
「えっ、本当ですか?」
「ええ、一緒に食べましょうね。」
 約束もなしに、勝手につくってきたためひょっとすると・・・と多少麻衣子は不安に思っていたようだったが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。目の前の少年は純粋に喜んでくれているように見えた。
 きーんこーんかーんこーん。
「さあ、君子ちゃんに早川君。どうぞ。」
 家庭科室の机の上に並べられたお弁当を前にして、君子と大輔の2人はどこか呆然とした表情でそれらを眺めている。
「香坂先輩・・・。これ・・・3人分ですか?」
 君子の口から漏れ出たため息のような小さな呟き。それもそのはず、机の上にはお重3段重ねにいろいろなおかずを詰め込んだタッパーが数個。
「ええ、2人とも育ち盛りだからこのぐらいは必要かと思って・・・ひょっとして足りないかしら?」
 君子と大輔は『横幅を育てるおつもりですか?』とばかりに呆れた表情を見せていたのだが、麻衣子相手では致し方ないと判断したのか、あきらめて顔の前で両手をあわせて呟いた。
「・・・いただきます。」
「どんどん食べてね。」
 にっこりと微笑む麻衣子の姿が2人の目にどう映ったのかはみなさんの想像に任せることにしたいと思う。
 
「量はともかくとして・・・香坂さんって料理が上手なんだな。」
 学校の帰りがちょうど一緒になった君子と大輔は、2人並んで帰り道を歩いていた。あまり一緒に帰る機会はないのだが、たまにこうして帰るときにはお互いに共通する話題を選びながら仲良く帰っている。ただ学校生活に関して言うと、2人に共通した話題といえば最近では麻衣子のことばかりであった。
「うーん・・。料理をつくってる最中はとてもそんな風には見えないんだけどね。お砂糖いれすぎたり、ちょっと焦がしちゃったりして・・。」
 君子は心底不思議でたまらないと言った表情で呟く。
「え、そうなの?」
「うん。それなのに出来上がってみるとおいしいの。・・・不思議だよね。」
「そうか・・かすみとは逆のタイプなんだな。」
 大輔は幼なじみであるかすみが料理する手順を思い出す。とにかく人に教えられたら教えられたとおりに、本を読んで作るなら本に書いてあるとおりに作ろうとする。そんな生真面目な作業だけに失敗したときは不憫以外のなにものでもない。
 大輔から見ると、君子はどちらかといえば要領のいいタイプに属しているようだった。
「・・・ところでお兄ちゃん。今日夕飯食べる?」
「・・・いらない。」
「私もいらない。」
 あれだけの量を3人でたいらげたというささやかな奇跡の代償は、兄妹2人そろっての胸焼けであった。
 
 しゅかっしゅかっしゅこしゅこっ。
「香坂さん、これが最後の風船です・・。」
 大輔の手から風船を受け取り、麻衣子は2人の子供の前にしゃがみ込んだ。大輔の言葉が聞こえていたのだろう、妹の方が自分は貰えないのかとべそをかいている。
「・・・ごめんね、これが最後なの。兄妹2人で1つだから、ケンカしちゃダメよ。」
 男の子は自分の手に持った風船をしばらく眺め、やや乱暴に妹の手にそれを握らせると麻衣子に向かってにかっと白い歯を見せた。
 麻衣子がご褒美に頭を撫でてやると、男の子は少し恥ずかしかったのか妹の手を引っ張りながら校舎の方へと走り去っていった。
「子供・・・好きなんですね。」
 2人の後ろ姿を見送っていた麻衣子に、額の汗を拭いながら大輔がそう声をかけた。
「ええ、だから今年はわざわざ風船のサービスをつけたのよ。・・・・それにしても、あの2人ってどことなく早川君と君子ちゃんに似てたわね。」
「・・俺があのくらいの頃は、君子を泣かせてよく親に怒られたものですよ。」
「あらあら、本当かしら?君子ちゃんには甘いお兄さんと聞いてるわよ・・。」
 そう言って麻衣子はいたずらっぽく大輔に微笑みかけた。何か含むところのありそうな麻衣子の表情を見て、慌てたように言葉を取り繕おうとする大輔が麻衣子にはおかしくてならない。
「あいつは・・・自分にとって楽しいことしか覚えてませんから。」
 どこかすねたように言う大輔の姿に麻衣子はただ微笑んだ。
 大輔と麻衣子は2人肩を並べ、べたべたとちらしの貼られた廊下を歩いていく。
「でも、学園祭が12月にあるなんて珍しいですよね・・。」
「そうね・・・きっと新設校だから変わったことがしたかったのかもね。」
 青葉台高校ができてから今年で16年。麻衣子は14期生、大輔は15期生にあたる。
 確かに他の学校の日程と重ならないせいか、結構人の出入りの多い学園祭として近隣では有名である。年の瀬ということで先生も忙しく、比較的生徒に自主裁量権が多く与えられているのも生徒達にとってはありがたい話であった。
 しかし出し物はみな似たり寄ったりで、広場を使った各クラブの屋台やグランドを使った運動部の練習試合、後は校舎内で各クラスがお化け屋敷やら喫茶店、文化系クラブによる展示等の変わりばえのしない学園祭であることも事実ではあった。
「あ、早川だ。」
 背後からかけられた声に大輔が振り向くと、麻衣子もそれにつられるようにして振り向いた。
 こすぷれ?
 目の前に立つ少女の格好はどうみても水着である。麻衣子はぼんやりとした思考の中で寒くはないのだろうかと思った。
「お、お、丘野さん?何その格好。」
「これから水泳部有志による寒中水泳があるんだよ。良かったら見に来てよ。」
 そう言って廊下を駆けていく少女を、一体何の出し物なんだろう?という目でまわりの人間が眺めている。
「チャレンジャーな人ね・・。」
「はあ・・・僕もそう思います。」
 どこか放心した様に呟く大輔の手を取るようにして、麻衣子は残された時間を大輔と2人でいろいろ見て回った。
 
 学園祭の後片づけも終わってひっそりとした校舎。麻衣子はそんな教室の窓際の席に座って静かに夕焼け空をみつめていた。
 はっきりと時間を計ったことはないけれど、麻衣子には冬の夕焼けは他の季節よりも時間が短いような気がした。
 そのせいか、冬の夕焼けは刹那的で美しく見える。
 みしっ。
「・・・早川君、女の子の後ろから無言で近寄るのはだめよ。」
「すいません。なんか声がかけづらい雰囲気だったもので・・・。」
 日の射し込む窓際とは違って、教室の中程は薄暗い。麻衣子に手招きされて窓際に腰掛けた大輔の顔が光線の具合で陰影をくっきりと浮かび上がらせた。
 何かを言いかけた大輔の口が静かに閉じられた。2人とも黙ったままで、ただ夕焼け空をみつめていた。
「・・・時間が・・」
「えっ?」
「このまま時間が止まればいいのにね・・。」
「・・俺もそう思いますよ。」
 まだ終わってはいないとはいえ、残された僅かな時間を考えると素敵な高校生活だったと思ってもいいのではないかと麻衣子は思う。
 ただ残された時間が僅かであればあるほど、人はそれを貴重に感じるのかもしれなかった。そして麻衣子もまた・・・。
 そんな麻衣子の願いを拒否するように夕陽が沈んでいく。手を伸ばせば届く位置に座っている大輔の表情が読みとれないぐらいに教室の中は薄暗くなっていた。
「ごめんね・・もうすぐ卒業だと思うと少し感傷的になってしまって・・。」
「いえ、いいんです。」
 残された日々の貴重さは3年生と2年生では根本的に受け取り方が違う。無論、個人的な違いもある。それでも何故か大輔が自分と同じように感じてくれているのではないかと麻衣子は思っていた。
 そう・・・思っていた。
 
 学園祭を終え、家庭部にどことなく弛緩した空気が流れていた。もうすぐ冬休みと言うこともあり全体的に部員の集まりは悪い。
「香坂先輩、今日は何をするんですか?」
「あらら、もう私は部長じゃないのよ・・。」
「あっ、そうでしたね。」
 君子がこつんと自分の頭を叩くのを見て麻衣子は微笑んだ。それなりの人数が集まったところで、新部長の二年生がこれからの計画を発表している。
「今日からしばらくは中断してた編み物をします。・・・クリスマスまで後一週間足らずです。渡す相手のいる人もいない人も頑張っていきましょう。」
 何故か妙に力んでいるのが楽しい。当の本人に誰か渡したい相手ができたのかもしれなかった。
 編み物は指先さえ作業を覚えてしまえば、後は黙々とそれを続けるだけである。それでもたまにうっかりすると編み目をはずしてしまったり数を間違えたりして、実に独創的な作品を完成させてしまうことになるので油断はならなかった。
 自動的に糸のほどけていくセーターや、末広がりベストに三角マフラー。数え上げればきりがない。(笑)
 麻衣子は、かんしゃくを起こしたように毛糸をほどき始めた後輩のところに行ってどうすればいいかを教えてあげたりする。どうやらこの後輩はちまちまとした作業が性に合わないらしい。
 一通り指導してまわってから麻衣子は自分の編み物に手を伸ばした。基本部分はほとんど出来上がっている。後は襟まわりや袖口の処理、脇の始末だけである。
 最初は父のために編むつもりだったのだが、父のセーターはクリスマスまでということで今はすっかり当初の目的がすり替わっている。さすがに明日までというのは少し厳しいのかもしれない。
 そんなことより受験勉強はどうした?などという心の内からの声はあっさりと黙殺することにした。元々成績はいいので試験当日に何か大ポカをやらかさない限り大丈夫だという確信がある。・・・その代わり大ポカをしないという確信はあまりない。
『じゃあ、俺の分も編んでくれませんか?』
『ええ、いいわよ。』
 おそらく守らなかったとしても何も言われない束縛のない口約束。それでも麻衣子は約束だと思っている。
「香坂先輩、このセーター誰にあげるんですか?」
「・・・・・・・ひ・み・つ。」
 見る人が見れば麻衣子が自分のために編んでいるのではないことはサイズでわかる。後輩達の追求を軽やかにかわしながら麻衣子は慎重に仕上げの作業を進めていった。
 ・・・・この夜、麻衣子は結局徹夜した。
 
 空一面に低く垂れ込めた灰色の雲にぽつりぽつりと白い染みが浮き上がってきたかと思うと、瞬く間に視界が白くなるほどの雪が舞い落ちてきた。降水現象には変わりないものの、あまり雪の降らないこの地域だと雪というだけで何故か心がわくわくしてしまう。
 廊下の窓ガラスに額を押しつけるようにして外を眺めていた麻衣子の制服の袖がくいっと無言で引っ張られた。
「・・・君子ちゃん、どうしたの?」
「香坂先輩、ちょっといいですか?」
 麻衣子を見上げる君子の顔はどことなくいつもの元気がない様に見えた。ひょっとするとこの寒さに風邪でもひいたのかもしれない。
「この前まで香坂先輩が編んでたセーターって・・・あの・・お兄ちゃんに?」
「あらっ、早川君着てくれてるの?」
「あ・・・はい。」
 奇妙な沈黙の中で麻衣子は窓の外に視線を向けた。気まぐれな冬空は白い使者を送りつけるのに飽きたのか、先程まで真っ白だった視界はちらほらと数えるほどの白い染みを残すのみとなっていた。
「君子ちゃん、屋上に行きましょうか。」
 この寒さでは屋上に行こうとする物好きは1人もいないだろう。だから麻衣子は君子を屋上へと誘った。
 冬の曇り空に今日のような風のない日は珍しい。時折思い出したようにひとひらの雪がゆっくりと空から落ちてくる。
「雪・・・止みそうね・・。」
「あのですね、香坂先輩。手編みのセーターなんかあげたら誤解されますよ・・。」
 一枚のセーターを編み上げるまでの手間暇の消費を無償で行う人間はそうはいない。無論麻衣子がその例外でないとは言えないが・・。
「・・誤解?」
 麻衣子は首を軽く右に傾けて君子に聞き返した。
「え、・・・だから香坂先輩がお兄ちゃんのこと・・・好きだとかなんとか・・。」
 顔を赤くしながら、もじもじと照れたように君子が小さく呟く。その様子が何とも微笑ましくて麻衣子は優しく見守っていた。
「それに・・もしそうでも、これから受験や卒業で大変じゃないですか?会えなくなるってつらいと思うんですけど・・。」
「君子ちゃん?卒業しても別にこの街から離れるわけじゃないからそんなことは・・?」
「・・・会えなくなりますよ。」
 また空から次々と雪が舞い降りてきた。さっきの粉雪とは違って今度の雪は落ちてすぐに崩れてしまう涙雪。
「・・・どうして?」
 自分が何かまずいことを喋ってしまったかのように、君子は慌てて麻衣子から視線を逸らした。
「な・なんでもないです。・・先輩には関係ないことですから。」
 麻衣子はそんな君子の両頬を手で挟みこむと、ゆっくりと自分の方を向かせ、優しく言い聞かせた。
「君子ちゃん、私ね・・・君子ちゃんのお兄さんのことが好きよ。それに君子ちゃんのことをとても大切に思ってるわ。・・・それなのに私には本当に関係のないことなの?」
 どこかでせき止められていた雪が一気に地上に向かって送り出されたかのように、周囲はいつの間にか白く染まり始めていた。うっすらと雪を積もらせた身体を微かにふるわせながら君子は麻衣子の胸にすがりつく。
「私も・・転校・・・いや・・・ごめんなさい・・・・・。」
 とぎれとぎれに君子が嗚咽しながら話す内容が麻衣子の心を白く塗りつぶしていく。
 いつの間にか風が吹き始めていた。横殴りに吹き付ける雪の中で2人はしばらくそうしてただ立ちつくしていた。
 
「香坂さん、少し歩きませんか?」
「じゃあ・・浜辺の方に行きましょう。」
「浜辺・・・寒くありませんか?」
 麻衣子の提案に大輔は12月の寒空を見上げてそう呟いた。麻衣子はふふっと小さく笑って大輔の腕をゆっくりと抱きしめ、下から顔をのぞき込む。
「これなら、寒くないわ。・・ね?」
 さくさくさく・・。
 まるで恋人同士のように寄り添って歩く2人の影が背後に長くのびていた。
「香坂さん・・・何かあったんですか?」
「私ね、ちょっと怒ってるの。」
 麻衣子は敢えて微笑みながらそう口にした。そして大輔から離れて波打ち際にしゃがみ込む。そして引き波にあわせてコートのポケットから取り出した小瓶を投げ入れた。
「この前早川君と2人で散歩したときのこと覚えてる?」
「ええ、あの外国からの手紙ですよね?」
 麻衣子の視線は先程投げ入れた小瓶を追っていた。ちょうど潮の具合が良かったのか、小瓶は見る見るうちに沖の方へと運ばれていき、やがて波間に紛れ込むように見えなくなってしまった。
 それでも麻衣子は小瓶の見えなくなってしまったあたりを目で追い続ける。
「きっと早川君の引っ越し先にも届く筈よね。」
「・・・・すいません。」
「後で謝るぐらいなら・・・最初から話してくれれば良かったのに。」
「信じたくなかったんですよ・・。口に出してしまえば・・もう引っ越すことが決まってしまうような気がして。変ですよね、もう決定してることなのに・・。」
 さくっ。
 自分のすぐ側で砂を踏む音に麻衣子が振り向いた。いつの間にか大輔が自分の左側に立って海の方を眺めている。
 麻衣子は再び海の方に視線を向け、ゆっくりと目を閉じた。
「私ね、早川君のことが好きなの。」
 沈黙が非常に痛い。
 おそるおそる目を開けて大輔の方を見上げると、非常にわかりやすい表情をしている。夕陽とは違う赤い色。麻衣子はどことなく安心して大輔に向かって返事を促した。
 
「麻衣子、今日時間あいてる?」
「ごめんなさい、今日は人を迎えに行かなきゃならないの。」
 大学の友人にそう言い残して麻衣子は駅へと急いだ。
 大輔本人からはいつこちらに来るかということの連絡はない。しかし、君子の手紙から大輔のたくらみを知った麻衣子はそれを逆手に取ろうと考えていた。
 ひどくウキウキとした様子で電車から出てきた大輔の後をこっそりとついていく。何度も声をかけそうになる自分を戒める。
 これからは一緒にいられるのだから・・。
 青葉台教育大学。
 その校門の辺りでうろうろと中を窺う大輔の後ろにそっと近づいた。記憶よりも少し高くなった大輔の両目をさっとふさいで声をかける。
「だーれだ?」
「ただいま、香坂さん。」
 
                  完
 
 

 放漫な胸ってどんな胸やねん!・・・ってなんの話しをしてるんだ俺。(笑)
 この話、途中でどうやら自分が完全に何かを見失っていることに気がついたけれども、どうにもならないうちにどうにかしようという気持ちだけが働いたらしくこうなりました。・・って頭の悪そうな言い訳だなあ。(笑) 
 なんつーかこういうふにふにした性格をメインにした文章は私にとって自殺行為ということを何回経験すれば懲りるのか?途中から少し性格変わってるし・・・。
 さて香坂先輩ですが結構好きです。攻略可能キャラの中では・・・えーと3番目。(笑)個人的には主人公の台詞『もちろん年上ですよ!年下はガキだし、同い年は生意気だし・・・・』が好きですけど。まあ、学生ならではの感覚ですよね。
 私は学校生活で先輩と知り合うということが皆無だったもので(中学は田舎で封建社会ばりばり、高校は野球以外何もしてないので知らない)良くわからないです。そういや、ろくに話しもしてない気がするなあ。(笑)高校は他のクラスから隔離された場所にあったから同級生との交流もほとんどなかったし。3年間同じクラスだった人間がクラス全体の3分の2だったから結構特殊な高校生活でした。(一学年550人もいたのに)
 しかし、このキャラ無意識だけに結構小悪魔ですよね。まあ、それがいいのかもしれないけど・・・。
  

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