カラーン。
「いらっしゃいませー!」
 入り口のドアが開いて軽やかなベルの音が鳴ると、こだちはそちらの方を振り向いて声を出す。小さい頃から店番のお手伝いを繰り返してきた反射的な行動だ。
「って、早川君じゃない。どうしたの?」
 大輔は軽く右手をあげて、紙袋の存在をこだちに教えた。
「今日は一応お客様だから・・。」
 こだちはカウンターの上に置かれた紙袋を開いて学生服を取り出した。ボタンの有無や糸のほつれがないかどうかを手早くチェックしながらこだちは大輔に話しかける。
「いつもお母さんか妹さんが持ってくるのに今日は珍しいのね?」
「んー、ちょっと忙しいみたいで・・・。」
 歯切れの悪い大輔の言葉にこだちは少し首を傾げた。衣替えの直後のせいか、最近冬の学生服を持ち込んでくるお客様が多い。間違えないように名札をつけて預かり証を大輔に手渡した。
「一週間ってとこね・・できれば早く受け取りに来てね。・・・別に私が持っていってあげてもいいけど?」
 悪戯っぽくウインクしながら軽く頬を染めるこだちに向かって、大輔は手を振りながら、お構いなく。と呟いた。
「風間さん、今日は剣道部の練習は無かったの?」
「テスト前だからね、一週間の間自主練習にするんだって・・。」
 どちらかというと剣道の練習は1人ではやりにくい部分が多い。1人でやろうとするとどうしても基礎体力方面のトレーニング中心になってしまう。つまるところ実践の勘が養えないということである。もちろん型稽古やイメージトレーニングは必要不可欠ではあるのだが・・・。
 ちょうどお客さんのとぎれる時間帯である。しばらく2人はカウンターをはさんで話し込んでいたが、大輔が時計をちらっと見て腰を上げた。
「そろそろ健太君が帰って来そうだし、帰るよ。」
「あー・・・いつもごめんね。」
 からーん。
 入ってきたときと同じ軽やかなベルの音。
 ・・・同じ筈なのになあ・・?
 こだちは軽く首を傾げた。
 
 こだちが大輔と知り合ってはや半年。いつの間にか2人は二年生になり、お互い弟や妹が新入生として同じ学校に入学してきたのが昨日のことのようである。母を亡くしてから家事やその他をとり仕切る毎日だったのが、いつの間にか季節の移り変わりや時間の経過に敏感になってしまった自分に気付く。
 日が落ちるのが遅くなっている。まだ外はうっすらと明るいのに店を閉める時間になっていて、こだちは店を閉める準備を始めた。
 シャッターを下ろして、結局今日の最後のお客さんとなった大輔の学生服を手にとってぼんやりと眺めた。こだちは自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながら学生服をそっと羽織ってみる。
「・・・やっぱり大きいな・・。」
 客観的に見るとなかなかボーイッシュで似合っているのだが、こだちにしてみれば別にファッションとして羽織ったわけではない。
「ただいまー。あれ、姉ちゃんは?」
 裏口から帰ってきた健太の声に、こだちは慌てて学生服を脱ぎ捨てた。店の方をのぞきこんだ健太に向かって、心臓をばくんばくんいわせながらこだちは口を開いた。
「ああ、お帰りなさい健ちゃん。」
「・・・どうしたの?顔赤いよ?まさか、熱でもあるんじゃ?」
 ほっとくと救急車でも呼びかねない健太をなだめながら、こだちは台所で夕飯を並べ始めた。
 
 いつもながらの学校の廊下が続いている。そしていつもながらの生徒がおしゃべりする休み時間の風景である。
「これ以上姉ちゃんに近づくな!」
 いつもながらの微笑ましい光景である。健太は怒りに顔を赤くして、こだちは困惑と恥ずかしさを含んだ表情、そして大輔は微笑みながらこだちの方を振り向いた。
「風間さん、健太君に一般常識と口のきき方、そして力関係を教育したいんだけど?」
 ごき、ごきん、と大輔の右手が嫌な音をたてて軋んでいる。去年自分の竹刀をあっさりとかわし、ナイフを持った変質者の前歯を一発で聡差し歯にした大輔の戦闘力を知っているだけにこだちはぶんぶんと首を横に振った。
「早めに相手と自分との力関係を把握する機会を与えてあげないと、多分社会に出てから痛い目に遭うよ・・。」
 それはもっともな意見なのだが、今痛い目に(それもとてつもなく)遭うのを黙って見過ごすわけにはいかないのかこだちは再びゆっくりと首を振った。
「・・・優しいんだね風間さんは・・。」
「え?・・やだ、早川君たら・・。」
 自分の存在を無視して2人の世界を形成しつつある大輔と最愛の姉の姿に健太は、ちくしょう。と言い残して走り去っていった。その目には涙が浮かんでたとかいないとか。
 
 払い小手から面打ち。払い小手から面抜き胴。
 こだちの剣道はどちらかと言えば先の先、つまり速度が命の剣道である。相手に反撃のヒマを与えない剣道とも言おうか・・。
 正面から激しくぶつかり合うガチンコ剣道では、どうしても途中で体格負けしてしまうのである。しかしこだち自身は別にその事を何とも思っていなかった。人には人それぞれの資質というものがあるという風にわりきっていたためである。必ず県大会の上位で顔をあわせ、敗れ続けている中学からの好敵手は、勘の良さと器用さをいかした剣道をしている。去年の新人戦でも延長戦の挙げ句こだちが不用意にくりだした小手打ちをすかされて敗れている。彼女も体格には恵まれていないが堂々と県のトップ選手として名をあげている。もちろんこだち自身もその筋では高い評価を受けているのだが・・・。
 正座して面をはずす。汗にまみれた顔。こだちは深い深呼吸と共に目を閉じる。
 神前に礼をするとはやばやと他の部員達は帰り支度を始める。さっきまでの喧噪が嘘のように静まりかえった道場。その場に人が居合わせたならば、こだちを中心として空気が張りつめていくように感じただろう。それでいてどことなくやわらかな雰囲気に落ち着いたかもしれない。
 最近は我ながらいい集中ができているとこだちは思う。ある部分にだけ意識がむかうのではなく、体の回り全体を掴んでいるような感覚。今なら対戦相手に恵まれさえすればいい剣道ができるに違いないとこだちは思っている。ほんの少し前まではちょっとしたことで心に波風が立ち、それを抑えつけようとすることで余計に乱れていったが今は違う。揺れるに任せてみようとしてわかったことがひとつある。揺れているのは自分ではなく周りであったということ。認めてしまえばこんなにも簡単なことであったかと拍子抜けした部分もある。
 道場の入り口に何かが近づいてくる気配を感じて、こだちは目を開けた。
「早川君、入ってきていいわよ。」
 なんでわかったのかな?という風に入り口の扉に手をかけたまま首をひねる大輔は、ゆっくりと言われたとおり扉を開けた。
「ちょうど練習が終わったところなの。良かったら一緒に帰る?」
 何故自分の存在に気がつかれたのか未だに合点がいかないのだろう。大輔は曖昧に頷いた。
 
「しかし、家事・家の手伝い・部活・・・・て大変じゃないの?」
 ゆっくりと歩きながら大輔が呟くように口に出す。
「ん、慣れちゃったから・・。他人にどう見えようが結局自分がどう思ってるかの問題だからね・・。」
 こだちもまたゆっくりと歩きながら大輔の方に笑顔を向けた。2人で示し合わせたわけでもないのに、普段よりゆっくりと歩く帰り道。
「家事か・・・最近少しやるようになったけど時間がかかるばっかりでいつも君子のやつに怒られてるんだ。」
「まあ、要するに慣れだから・・・でも、ダメな人はいくらやってもダメらしいけど。・・・早川君はどっちなのかな?」
 こだちに顔をのぞき込まれると大輔は照れたように顔を背けた。しばらくそのままの体勢で歩をすすめていたこだちの表情が僅かに曇る。
「早川君・・・何かあったの?」
「何かって何が?」
 興味なさそうに大輔が呟く。こだちは指で自分の顎のあたりを触りながら首をひねった。
「・・・なんで急に家事をやるようになったのかなって思っただけなんだけど・・。」
「・・・・話せば長くなるんだけど・・。」
 ぼそりと大輔が呟いた。
「じゃあ、短くまとめれば?」
 大輔がふうっと大きく息を吐いた。
「お小遣い増額のためにこびうってます。」
「無茶苦茶短いじゃない・・。」
 あきれたようにこだちが声をあげた。
「あ、じゃあこの前のクリーニングもそうなんだ?」
「まあ、そんなとこかな・・。」
 何気ない会話。この何気ない会話を守るために大輔がどれだけ注意を払ったか、今のこだちには知る由もなかった。
 
「ねえちゃん、早川先輩のこと好きなのか?」
 がっちゃん。
 弟の健太と2人で夕食をとっている最中に突然そんなことを聞かれてこだちの手から箸が落ちて皿にぶつかった音である。
「け・健ちゃん!」
 こだちは自然と声がうわずってしまうのを感じた。顔も熱い。おそらく赤くなっているのではなかろうか?
 自分をじっとみつめる健太の瞳が冗談ですまされることではないことを物語っている。こだちは軽くため息をつくと、自分の右手を胸のあたりにあてて頷いた。
「そうか・・・。」
 健太はそう呟いたきり、黙って夕食を口に運び続けた。そうして早々と食べ終わると、自分の分の食器を重ねて立ち上がった。
「ねえちゃんがいいなら、もう何も言わない・・。」
「・・・健ちゃん・・。」
 こだちは健太が自分に母親の姿を求めていたのを薄々感じ取っていた。友人は健太のことを重度のシスコンなどと笑っていたが、決してそんな単純なものではない。小さい頃から甘えることのできる対象が姉のこだちしかいなかったのだ。自分は健太より一年間余分に母親に接することができた。そんな重荷が心のどこかにあったせいなのか、こだちは健太には甘かった。誰の責任でもない、生真面目なこだちならではの感情。
 夕飯後、自分の部屋から一歩も出てこない健太の様子にこだちはどことなく寂しさを感じた。自分が母親の役を演じることで、単に何かを得ようとしてあがき続けていただけなのかもしれないということに気がついたせいかもしれなかった。
 翌朝、サッカー部の朝練があるからと慌てたように出ていく健太の目が少し赤く見えたのもこだちの感傷にすぎなかったのかもしれない。
 
『・・・わかってるだろ、俺の気持ち?』
 木地本の告白を受け、正直驚きはしたもののどきどきはしなかった。知らなかった、という心の中のどこか冷めた部分はこだちの想う人物からではなかったからだろうか。
 自分に寄せられる好意、言い換えれば他人が自分のことをどう思っているかなんて言葉にしなければほとんどわからないものばかり。もちろん、自分がその人をどう思っているのかというのも伝えようとしなければ伝わらないのかもしれない。
 木地本が教室を出ていき、こだちは一人残された教室でそんなことを考えた。
 自分の気持ちを伝えて断られるのは怖い。彼は断られるとは思っていなかったのか、それとも結果はどうなろうとも伝えずにいられなかったのか?
 こだちはゆっくりと教室を後にして道場へと向かった。
 決して心が揺れているわけではないが、木地本に対してどう返事すればいいのかという思いが澱のようにたまっている。そんな僅かな心の動きに気がついてくれる人だから、それについ甘えてしまう。
「あのね、私告白されちゃったの・・・。」
 目の前の大輔の顔から何かでぬぐい去ったように表情が消えたように見えた。大輔の口が何かを言いかけてまた閉じられる。
 蝉の声が遠くから聞こえる。それに後押しされるように大輔が再び口を開いた。
「木地本はいいやつだよ・・。」
 押し殺した声。
「聞いてたんだ・・・。」
 こだちがそう呟くと、蝉の声がうるさいぐらいに鳴り響きだした。大輔は無言で道場から立ち去っていき、こだちもまた引き留めるようなことはしなかった。
 
 元々誰かの力をあてにするようなことではない。次の日こだちは木地本に対しておずおずと頭を下げた。こだちの口からはっきりとした断りの返事を聞いて、木地本は意外にも明るい表情をしていた。
「人を好きになるのに整理券なんてないからなあ・・。じゃあ風間さん、早川のやつによろしくな。」
「えっ、な、何のこと?」
 木地本は片目をつぶるとこだちに背を向けて歩き出す。と、そのあゆみが止まった。
「そうだ、最近あいつ何か悩んでるみたいだから相談にのってやってよ・・。」
 今度こそ本当に立ち去っていく木地本の背中を見て、こだちはふと昨日大輔がもらした言葉を思い出す。その言葉がこだちの胸にしみた。
 誰もいない屋上。
 たった1人の先客はまるで風景の中にとけ込むようにして空を眺めていた。
「なにか悩み事?」
「・・・わかる?」
 こだちは少々悔しくなり手を後ろに回して空を見上げた。青い空。海の方角には夏を告げる入道雲が顔をのぞかせている。
「昨日の話だけど・・・断っちゃった。私他に好きな人がいるから・・。」
「そうなんだ・・・。」
 強い陽差しに一瞬暗くなった視界の隅で大輔の口元が微笑んだように見えたのは気のせいか。
「悩み事、少しは楽になった?」
「・・・どうかな。」
 お互いの気持ちを探り合うようなきわどい会話。ほんの少し手を伸ばせば届く場所にあるのに手を伸ばせない。あまりにも夏の陽差しが強かったから。その時のこだちはそう思っていた。
 
 潮の香り。デートの帰りに何気なく寄った浜辺を2人で歩く。
 さくさくさく。
 振り返ると2人の足跡が寄り添うように続いていた。
「なんだ?」
 素っ頓狂な大輔の声にこだちは慌てて振り向いた。大輔の指さす方向の海面に黒い影が浮いたり沈んだりしている。
「・・・ゴミにしては動きが変よね・・。」
「ひょっとすると・・おーい、丘野さん!」
 大輔の呼びかけに黒い影がびくりと反応した。黒い影がこちらに向かってぐんぐんと近づいてくる。
「早川君だ!どうしたの?」
 びっくりしたように両手を上げて人なつっこい笑顔を見せる少女は見覚えがあった。確か隣の組の女の子の筈だ。
「ここ泳いじゃいけないんだよ・・。」
「だーい丈夫だって・・・。」
 突如現れた女の子にせっかくのいい雰囲気をぶち壊されたような気分になって、こだちは2人から離れてしゃがみ込んだ。そうやって2人の姿を眺めている討ちにこだちの指が無意識に砂の上を動いていた。
「ごめんね、風間さん。話し込んじゃって・・。」
 背後から大輔に声をかけられこだちは我に返った。そして自分の足下に書かれた文字を目にして大慌てで消そうとしたところに気を利かせた波の消しゴムがその文字を洗い流していってくれたことにほっとした。
「・・・ひょっとして、悪口でも書いてたの?」
「そ・そんなことないわ。」
「慌てるところが怪しいなあ・・でも確かに俺が悪かったから商店街でかき氷でもごちそうしようか・・。」
 会話が違う方向にいきかけたのでこだちはほっとため息をついた。そして何かに気がついたようにあたりをきょろきょろと見渡す。
「早川君、丘野さんは?」
「また、泳ぎに行っちゃった。」
 大輔の指さす方向に小さな黒い点がある。
「丘野さんの所も、兄弟2人で生活してるんだって・・。」
 大輔の顔に浮かぶあからさまにしまったという表情を見逃すこだちではなかった。
 キョウダイフタリ・・・。
 その言葉を理解するのにいくらかの時間がかかった。そして楽しいはずの休日はこだちに問いつめられた大輔が後数日で引っ越しするということをうち明けることで台無しになった。
 表情にでていたのだろう、健太は家に帰ってきたこだちの顔を見るなり口を開いた。
「ねえちゃん、あいつに何かされたのか?」
 こだちは弱々しく首をふるとぽつりと呟いた。
「・・・何も喋ってくれなかったの・・・それがちょっとね・・・。」
 
「風間さん・・・終業式の日に早川の送別会をやろうと思うんだけど・・・。」
「送別会・・・・やっぱりいなくなるのね。」
 こだちは木地本の提案に力無く頷いた。
 ここ数日、朝目を覚ますと何もかもが夢でいつも通りの日常があって・・・と期待するのだが、2つ隣の教室にはまるで大輔の存在自体が夢であったかのように空席がひとつあるだけであった。
 こだちの様子が目に余ったのかもしれない。木地本がおずおずと口にした言葉。
「早川はいいやつだよ・・・。」
 そんなことは知っている。でも、誰かを悲しませたくなくて黙っているなんて本当の優しさなんかじゃない。
「木地本君、勇気ってどうすればでてくるの?」
 展開についていけなかったのだろう、木地本は一瞬きょとんとした表情を見せた。そして何かを悟ったのかふと優しい目をして呟いた。
「他人のことを気にしないで自分に素直になればいい・・。あいつは他人に優しすぎて自分に対して優しさを向けられないやつだから・・。」
 中学からの親友。そう聞いたことがある。こだちはふと木地本は断られるのを知っていて自分に告白したのではないかと思った。
 こだちはいろんな思いを胸に秘め終業式の朝を迎えた。
 送別会に出席した人数の多さは大輔の人柄かそれとも木地本のそれか。おそらく両方であろう。わかっていることはただ一つ。大輔が今日を限りにこの街をでていくことだけ。こだちはふといたたまれなくなって教室を後にした。
「あんなところで泣いちゃったらみんなに迷惑だもんね・・。」
 こだちにとって木地本のアドバイスは難しかった。こだちのように優しい人間は往々にしてその優しさが報われない事が多い。しかし、ときたまそんな優しさを持った人間に対して気まぐれな神様は機会を与えてくれることがある。
 ぎいっ。
 屋上の扉が軋む音。こだちは慌てて目元を拭おうとして手を下ろした。本人を目の前にしてこの涙が止まるはずもない。こだちの涙を目にしたのか、大輔は少々困惑した表情を見せている。それでもゆっくりと近づいてきた大輔にこだちはあふれる涙を隠そうともせずに正面から対峙した。
「私ね、早川君のことが大好き。」
 その言葉を口にした瞬間、時間が止まったように感じた。それが錯覚であることを微かに潮の香りを含んだ風が教えてくれる。
「これから転校していくのに迷惑かもしれないけど・・でも、好きになって欲しいから誰かを好きになるんじゃないよね、きっと。」
 大輔が微かに笑ったような気がした。
「そうだね・・。でも好きになった相手が自分のことを好きになってくれたら嬉しいよね。だから俺も凄く嬉しい。俺も風間さんのことが大好きだよ。」
 頬にあたる風の感覚が消えた。風が止んだのかそれとも時間が止まったのかはわからない。こだちは自分の頬を流れていた涙がいつの間にか止まっているのに気がついた。
 無言の暖かい空間。
 夕暮れの涼しい風がふとその空間を浸食する。止まっていた時間が動き出す感覚。
「離ればなれになるのね・・。」
 こだちがふともらした言葉は2人を現実へと引き戻す。いつまでも夢の中にいたかったがそうもいかない。しかし、大輔の呟くような言葉はこだちを再び夢へと誘った。
「帰ってくるよ・・。卒業したらこの街に。」
 こだちは俯いていた顔を上げた。目の前に少し照れたような大輔の顔がある。夕陽の赤かどうかはわからない。
「・・・その、風間さんが迷惑じゃなかったらだけど・・。」
「迷惑なんかじゃないわ・・。待ってるからね・・きっとよ。」
 こだちは自分の身体をあずけるようにして大輔に抱きついた。
 2人の陰が誰もいない屋上に長く長く伸びていた。
 
 春は名ばかりに風はまだ冷たい。それでも、穏やかに晴れた卒業式をこだちは迎えた。
学校の敷地内に名残を惜しむ卒業生がそこかしこにうろうろしている。
「風間さん、それ何持ってるの?」
 こだちが右手に持っている大きな紙袋に気がついて木地本が話しかけてきた。こだちは左手に持った卒業証書でぽんと軽く紙袋を叩いた。
「これ?うっかりやのお客さんの忘れ物・・・。でも、私の勘だと今日あたり取りに来てくれそうなの・・。」
 強い風が吹いて砂埃が舞った。その砂埃をまた別の風が吹き払っていく。砂埃が吹き払われて視界の開けたむこうに人が立っている。それを見てこだちが、言ったとおりでしょ、という風に隣に立つ木地本に笑いかけた。一年半以上も風間クリーニングに忘れさられていた学生服。その持ち主が大きく手を振りながらこだちの方にやってくるのを見てこだちは微笑んだ。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
 風こそ冷たいものの、2人を包むそのやわらかな陽差しは間違いなく春のそれであった。
 
 
 

 自分で言うのも何ですが、これ気合い入ってます。(笑)さすが攻略可能キャラの中のナンバーワンというところでしょうか?ちょうど大きな流れの中で気分がのってたというのもありましたが・・。思うところがあってあくまで設定は夏です。ラストのための伏線と丘野さん登場のために夏にせざるを得なかったですが・・。他にもいろいろ考えてたんですよ・・例えば君子の口から健太君に引っ越しのことがばれるとか、シスコン健太君大暴走とか、かすみとからませた人間関係とかいろいろあったんですがとりあえず木地本の評価が自分の中で高いのでそれを一本書こうとしたらやはり風間さん。・・というわけなんです。
 ところで、『木地本はいいやつだよ。』を選んだ人ってどのぐらいいるんでしょう?こんな熱い台詞速攻で選んじゃいましたよ。これを書いてみたかった。それに対するこだちの反応がこの文章では意見が分かれるところでしょう。別パターンとしては『なんでそんなこと言うの?』とか言わせて、後で主人公の思いを知って愕然とするとかいうのが黄金パターンでしょうね。それも考えないではなかったですが、いろんな理由でそれはだめなんです。別に同人誌でコンテきってるとかそんなことは秘密です。(笑)

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