「由梨香さん、今日はあの人こないんですか?」
 しばしの休憩の時間、何やらもじもじしながら一年の部員が声をかけてきた。
「あの人?」
 由梨香は首をひねりながら聞き返す。おとぼけではなく、本当に誰のことを言ってるのかわからなかったのである。
「あの、いつも練習を見に来てる人で、由梨香さんとよくお話ししてるこの学校の男子生徒で・・。」
「ああ、早川君の事ね。・・別に約束してるわけじゃないから・・また、気が向いたら来るんじゃないかしら・・?」
 何気ない由梨香の口調に対して少女は室内プールの入り口の方に視線を移しながら呟いた。
「・・・早川さんって言うんですか・・。」
 少女の様子を見て由梨香は微笑んだ。
「・・・学校にばれないようにしなさいよ。」
 少女は由梨香の言葉に顔を赤らめて両手をぶんぶんと振った。
「そんなんじゃないです。だって由梨香さんのボーイフレンドなんでしょ?」
 由梨香の頬が微かに赤くなった。
「そんなんじゃないわ・・そう、知り合い。知り合いってとこね。」
 ぴー。
 会話をうち切るように、次の練習の開始を告げる合図がなった。慌てて由梨香と少女はプールサイドへと駆けていく。
 ただ、由梨香の心拍数がいつもより少し高かったのは事実であった。
 
 あの後輩の一言が妙に気になっていまいち調子があがらない。由梨香は1人居残って練習を続けていた。
 全国大会常連の水泳部のキャプテンとしてやるべき事はやっておかないと・・。
 そんな気負いからくるオーバーワークと雑念のせいか、由梨香の足が突然こむら返りをおこした。あいにく助けを呼ぶ相手もいないため由梨香は歯を食いしばってプールサイドまでたどり着く。
 けいれんを長い間放置しておくと筋肉を痛める可能性がある。しかし、這うようにして水から出たものの1人ではどうにもならない。
「水谷さん、どうしたの?」
「あ・・つっ、早川君・・。」
 由梨香の苦しげな表情と不自然な足の位置に大輔は事情を察した。
「けいれんだね?どこ?」
「右のふくらはぎ・・今は太股もそうかも・・。」
「水谷さん、ちょっと触るよ。」
 大輔はつま先と膝を掴んで内側に絞るようにして太股のけいれんをおさえにかかった。続いてふくらはぎの処置にかかる。大輔は由梨香の表情から痛みが消えたのを見て、こわばったふくらはぎの筋肉を軽くマッサージする。
 大輔の指先が自分の太股に触れた瞬間、由梨香の顔に朱がさした。しかし、大輔の真剣な顔つきを見て由梨香は開きかけた口を閉じた。
「とりあえずこんなもんかな・・しばらく横になってた方がいいね。・・・身体が冷えるといけないな、水谷さん、上にはおる服はどこ?」
 由梨香が指さすベンチからパーカーとタオルをとってきて、大輔はそれを静かにかけてやった。
 やっと一息ついた表情で由梨香が大輔の顔を眺めたまま話しかけた。
「ありがとう、助かったわ。・・・でも、何かスポーツやってたの?」
 大輔の目がどうして?という風に由梨香をのぞき込む。由梨香は恥ずかしげに視線を逸らしながら言葉を続けた。
「マッサージとか処置の仕方が慣れた感じだったから・・。」
「昔ちょっとね・・。」
 そう言われてみると大輔の身体は均整がとれていて、見るからに運動のできそうな体つきである。
「何か飲み物でも買ってくるよ・・。」
 落ち着いた様子の由梨香を見て大輔は立ち上がり、入り口に向かって歩き始めようとしたところで由梨香に声をかけられた。
「早川君。」
 呼び止められた形の大輔は由梨香を振り返った。由梨香は大輔をみつめながら幾分弁解的な口調で口を開いた。
「またけいれんがおこるといけないから・・・側にいてくれるかしら?」
 結局、由梨香はそのまま練習を切り上げ、大輔は念のため駅まで由梨香を送っていくことになった。
 
 ブレザーが制服の青空高校の廊下で場違いなセーラー服が歩いている。
「水・・谷さん?」
 大輔の声に反応して振り返った姿は間違いなく由梨香であった。あら、こんなところで?と言いたげな表情の由梨香に大輔は思わず苦笑する。
「練習はどうしたの?」
「長くやれば良い、というわけでもないから・・。」
 由梨香は一旦言葉を切って小さく笑った。
「・・なんてね。本当はちょっとここの水泳部の先生とお話ししてたのよ。その後、物珍しさも手伝って校内を見物してただけなんだけど・・。」
「僕は見慣れてるから良くわからないな・・。」
 首をひねりながらあちこちに視線を泳がせる大輔の姿を見て、由梨香は楽しそうに声をたてて笑った。
「多分、あなたが私達の学校に来れば同じようにすると思うわ・・。」
 女子校の中に大輔1人だけが放りこまれた光景を想像して由梨香は笑ったのだが、大輔は同じ想像をして眉をひそめた。
「多分・・落ち着かないと思うよ。・・・水泳部の先生って事は冴子先生かな?三上先生なら僕の担任だよ。」
 大輔は話題を変えようとして冴子先生のことを持ち出したのだが、由梨香もそれにのってくるところをみると、どうやら冴子先生は由梨香の好感を得ているらしい。
「ええ、そうですってね。あなたが練習の邪魔をするなら蹴り出してもかまわないという許可をくださったわ。」
 由梨香はそう言って右足をぶらぶらさせる。
 初対面の時はいかにも育ちの良いお嬢様という態度だったのが、最近は時折お茶目な態度を見せてくれるようになった。
 ・・・この前の休日の出来事が原因かもしれないけど。
 大輔は密かにそう考えていた。また事実そうでもあったのだが・・。
「確か・・この学校まで1時間以上かかるんだよね?」
「ええ、でも私の住んでる場所からならこの学校の方が少し近いのよ。帰り道も新鮮だからいろいろ散歩してまわってるの・・。」
「なるほど・・。」
 休日に由梨香が駅前通をうろついていたことに納得がいき、大輔はゆっくりと頷いた。
「あら、いけない。」
 由梨香は自分の腕時計を見て口元に手をあてた。
「私、練習に行くから。・・・見物に来てもかまわないわよ・・。」
「そうさせて貰おうかな。」
 2人は肩を並べるようにして室内プールの方へと歩き始めた。
 大輔と由梨香。ブレザーとセーラー服の一見奇妙な取り合わせがやけに馴染んで見えたのは気のせいだったのかもしれない。
 
 にゃあー。
「ひっ・・。」
 思わず身をすくませる由梨香の様子には気が付かないで、大輔は塀の上で眠そうに自分をみつめる猫ののどのあたりを指先でくすぐっている。
 気持ちよさそうに目を閉じてのどを鳴らし始めた猫に、大輔は優しげな視線を送っている。そんな大輔の制服の袖を由梨香が引っ張っていこうとする。
「は・早川君。帰りましょ・・。」
「ああ、ごめん。僕猫が好きだからつい・・。」
 頭をかきながら振り返った大輔の肩越しに猫が見えて、由梨香は慌てて視線を逸らす。
「そ・そう・・。早川君猫が好きなの?」
 由梨香のぎこちない反応に猫好きの大輔にはぴんとくるものがあった。
「ひょっとして・・・猫が嫌いなの?」
「え・・嫌いというか、苦手なの・・。なんかひっかかれそうで・・。」
 冷たい北風に追い立てられるようにその場を後にする2人。
 ・・小さい頃、猫にでもひっかかれたのかな?
 などと思いながら、大輔はじっと由梨香の横顔をみつめていた。おそらくその視線を感じたのだろう、由梨香が大輔の方に首を傾けることでお互いの顔を見つめ合ったまま2人は黙って歩いていく。乾燥防止のためにリップでも塗っているのか、つやつやとした由梨香のやわらかそうな唇が開いて言葉を紡ぎだした。
「そんなに真っ直ぐ私のことを見つめたのはあなたが初めてよ・・。・・・自信家なのかしら?」
 静かな、それでいて不愉快さを感じさせない空気の中で2人は駅にたどり着いた。
 軽く挨拶を交わして背を向けた大輔に聞こえないように由梨香はため息をついた。
 由梨香は自分という人間の魅力を充分に承知しており、また必要以上に打算的と思われる人間を数多く目にしてきたために、人間観察についてある程度冷めた目を持っていた。
「・・・自信家なんて柄じゃないようね・・。」
 今まで自分に言い寄ってきたタイプとは違う。由梨香に見つめらると気圧されたように目を逸らしたりするでもなく、自意識過剰のタイプでもない。
 今まで由梨香があまり見かけなかった自分を飾ることのない、それでいて相手に迎合するところもない少年。
 それらの要素が由梨香に大輔という少年を一層好ましく感じさせた。
 
「私、雪って大好きなの・・。」
 鉛色の空から舞い落ちてくる白い使者を手のひらですくい取りながら、由梨香は子供のように空を見上げたままくるくると身体を回転させる。
「自分の目の前で少しずつ雪が積もっていくのも、朝カーテンを開いてびっくりさせられる雪の積もり方も好き。」
 コートのポケットに寒そうに手を突っ込んでいる大輔の首には、由梨香の編んだマフラーがさりげなく巻かれている。
 由梨香は大輔と初めて出会ったときのことを思い出す。あの時からゆっくりと積もっていく思いをみつめていた自分。
 今思うと、本当に目に付いたから声をかけただけなのかな?と首をひねってしまう。
 大輔もまた自分に好意を寄せてくれている事がわかるだけに、由梨香は安心して自分の思いに心をゆだねられる部分がある。
 伝えてはいないけど通じている思い。由梨香のそんな確信めいた思いと、大輔というキャラクターがそろって自分はこんなにも素直になることができる。
 もうすぐ青空高校に来て練習する毎日は終わるけれども、これから何かが始まりそうな予感。
 そんな幸せな予感に身を任せていた由梨香は次の日自分の耳を疑うことになる。
 
「・・・三上先生にも大変お世話になりました。」
 後一週間もすれば自分たちの高校の施設工事が終了するため、早めにその旨を伝えておくことにしたのである。
「そうなの・・でもなんか水谷さんと会えなくなるなんてちょっと寂しいわね。早川君も転校しちゃうし、教え子が2人いなくなるみたいだわ・・。」
 自分の頬に手を当てながら呟く冴子先生の言葉。
 由梨香はその後何を話したのか覚えていない。ただ一つだけわかっていたことは、大輔がいなくなるということ。
 由梨香は今まで積もっていく大輔への思いを観察していたと思っていた。しかし、今回のことで思った以上に深く積もった自分の思いに驚きと共に感じることになった。
 それは何も知らずにカーテンを開け、白い視界に対して抱く子供のような感情。
 由梨香は練習もそっちのけで大輔の姿を探した。
 自分に好意を寄せてくれていると思ったのは自分の錯覚だったのか?その答えを求めて由梨香は人もまばらとなった校内を移動する。
 いた。
 少し困ったような、ぎこちない微笑み。
 由梨香は大輔の表情を見てこれは夢ではないということを実感した。それでも、言わずにはいられない言葉がある。
「・・あなたが転校する・・なんて噂が流れてるけど・・?」
「・・・そうか、知られちゃったか・・。」
 寂しい笑顔。あきらめ。いろんな感情の入り交じった表情。
「まさか、前からわかってたの?」
 大輔は黙って目を閉じた。
 由梨香にはそれで充分であった。彼は自分に教えてくれなかったのだ・・。
 由梨香の右手が無意識にはしっていた。
 乾いた音。
 そして由梨香は駆け出した。
 
 自分は勘違いしていたのだ。彼は自分のことなど何とも思っていなかったのに・・。
「でも・・」
 由梨香は目の前の賽銭箱を見つめながら呟いた。言葉にならなかった自分の思いは勘違いではない。それは由梨香自身が一番良くわかっていたことである。
 昨日とは違い、西の空が真っ赤に燃えている。
 そして、白く息をはずませながら近づいてくる黒い影。由梨香はその影に気付いて慌てて指先で涙を拭った。
「ごめん、水谷さん・・。」
「謝る必要なんか・・・私とあなたは関係ないんだから。」
 一旦由梨香は言葉を切った。
 お互いの思いがあって、初めて人間関係が築かれる。だから、自分とこの少年は無関係なのだ・・。そう自分を納得させて由梨香は再び口を開いた。
「わ・私は・・そう、あなたのことなんか何とも思ってないんだから・・。」
 自分では上手く言ったつもり・・。でも、大輔の目には明らかに無理をしているように見えた。
「・・それでも、僕は水谷さんが好きだよ。・・だから余計に伝えられなかった。」
 にっこりと笑う大輔の口元に血が滲んでいる。由梨香はそれを見て自分の右手へと視線を落とす。
 素直になれる自分。
 伝えなくてもわかると思っていた。でも伝えてみて初めて伝わる思いがあるのかもしれない・・。
 由梨香の唇がゆっくりと開かれていく。
「私も・・・」
 
 気持ちを通じ合った冬は駆け足のように去っていき、色鮮やかな色彩が春の訪れを由梨香に告げている。
 にゃあー。
「ひっ・・。」
 春の日溜まりを満喫するかのように大きなあくびを繰り返す猫が由梨香の方をじっと見つめている。
「・・・子猫・・よね?・・・・平気だよね?」
 腰の引けたまま由梨香はゆっくりと猫の方に手を伸ばした。かなり人に懐いているらしい猫は、由梨香の震える指先を見つめている。
 ぺろっ。
「ひいっ。」
 猫に指先をなめられて由梨香は慌てて手を引っ込めた。猫は不思議そうに由梨香を眺めているようだ。
 以前大輔が猫ののどのあたりをくすぐっていたのを思い出して、由梨香は再び手を伸ばした。
 やわらかな毛の感触が自室のぬいぐるみを連想させて少し安心する。ぎこちない由梨香の愛撫にのどを鳴らしながら猫は目を閉じた。
 しばらくすると猫は由梨香に対する興味を失ったのか、大きなあくびをして歩き去っていった。
「嫌われたわけじゃないんだよね・・。」
 由梨香は空を見上げ、今夜は大輔にあてて手紙を書こうと思った。
 伝えたいことはいっぱいあるけど、とりあえず結びの文章だけは決まっている。
 −私、少し猫が好きになったのよ。
 
 
 

 いやー、このキャラたまりません。(笑)そのせいか文章に関しては独りよがりな気がしますが自分が幸せだから良し。(笑)
 一体、誰から転校の噂を聞いたんですか?とか、なんで休日に駅前通をうろうろしてるんですか?とか青空高校の水泳部と合同練習しないんですか?とかいろいろ不思議なところはありますが・・。好きだから良し。(笑)
 個人的に、主人公が転校のことを話すときに平手打ちの欲しいキャラだと常々思っていましたのでそうしてみました。なんというか、雪のシーンが好きなのでそれをひとひねりしてつながりを持たせたりして、ラストの猫に至るまでイベントの原型をとどめずにシナリオ通りというパターンにしてみました。
 ラブラブ一歩手前の台詞『そんなに真っ直ぐ・・・』とかも好きですが、『そう、妹』が一番のお気に入りとか知り合いに話したら変な顔されました。悔しいのでちょっといれましたけど・・。
 しかし、白百合女学園から青空高校まで2時間(?)主人公の引っ越し先がどこに行ったのかはしりませんが、ある会社員の通勤地から二時間の場所に家を建てた直後に転勤食らったら転勤場所にも通勤二時間だった、というお話しを思い出しちゃいました。
 案外以前より近かったりして・・。でも会えない距離だったら最低でも東京・大阪間位の距離を連想しますけどね・・。

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