日本では絶滅寸前といわれる濡れ羽色のロングヘアーが風に揺れていた。冬とは思えないやわらかな風を肌で感じてみたくなって智子は眼鏡の蔓に両手をかけると、こくん、と首をかたむけ眼鏡を外した。ひんやりとした、それでいて刺すような冷気でもない風に心が洗われるように感じる。
 智子は冬が好きである。といっても他の季節が嫌いなわけではない・・冬が一番好きだというだけのことだ。
 急に強い風が吹いた。暖かかった気温がどんどんと下がっていく。日没が近い。
「・・・寒いのはちょっと嫌だけど・・。」
 智子は眼鏡をかけ直し、自転車のペダルに足を乗せると夕陽に向かって河原道を進み始めた。
 
 放課後の図書室はほとんど人がいない。静かなのは結構だが、本好きの智子にとっては少々残念な思えるのも事実ではある。智子は手頃な本を見つけると、自分のお気に入りの場所である窓際に向かって視線を向けた。そして、いつもの場所に珍しい先客を見つけて、少しためらった後思い切って声をかけた。
「こんにちわ、広瀬さん。」
 頬杖をついて窓の外を眺めていたらしいのぞみがびっくりしたように智子の方を振り返った。そして、安心したように笑う。
「なんだ、本多さんか・・。」
「誰だと思ったんですか?」
 のぞみの態度に不自然なものを感じた智子は間髪入れずに聞き返した。のぞみは苦笑しながら頭をかく。
「そうじゃなくて、ちょっとぼんやりしてたから虚をつかれたんだよね・・。」
 と話すのぞみの目の前に2・3冊の本が置かれた。のぞみと智子はその本を持ってきた人物の方に視線を向ける。
「やあ、本多さん。・・のぞみ、多分この本ならお前の調べ物が載ってると思うぞ。」
「さんきゅ、大輔。」
 のぞみは、状況ののみこめていなさそうな智子の様子に気が付いて説明してやる。
「美術の調べ物があったんだけど、どこに何があるか良くわからなかったから大輔に探してもらってたのよ。」
 まったく不精者なんだから、とのぞみの髪を両手でわしゃわしゃとかき混ぜる大輔のみぞおちにのぞみの肘がたたき込まれるのを見て智子はふと思い出す。
「そういえば、広瀬さんと早川君って幼なじみでしたよね。」
「単なる腐れ縁(よ)*2」
 お互いの口元を指でびろーんと引っ張り合いながらそう答える2人の様子は何とも微笑ましい。
「いいですね、そういうのって・・。」
 屈託のない智子の笑顔にのぞみと大輔はそうかなあ?という表情で固まっていた。
 
 書を捨てて街に出よ、とは誰の言葉だったか・・・。その言葉が間違っているとは思わない。しかし現実というリアルの中でしか学べない事がある反面、本の中でしか学ぶ機会がないことがあるのも現在社会の現実でもあると智子は思っている。
 本を読むということは仮想体験の積み重ねでもある。当然、わかっているということとできるということは違うということは理解している。また、わかっていると思うことと実際にわかっているということが違うことも・・・。
 仮想の中で積み重ねてきた経験を吹き飛ばすような驚きがリアルの中に存在するのを智子が知ったのはつい最近のこと。
 別に智子は堅い本ばかりを読んできたわけではない。それでも自分は良くわかっていなかったんだなあと実感する。
 想うだけの苦い恋。つまらない本なら読むのを止めればいい、でもこれは現実だから止めるわけにはいかない。荒野に降る雪にも似ていた誰も知らない自分の気持ち。それに智子は気付いてしまった。
 いつ始まっていたのだろう?いつから自分の中に雪は降り始めていたのだろう?以前自転車のチェーンを直してもらったときかもしれないし、駅前通で名前を呼び捨てにされたときかもしれない・・。
 熱心に祈り続ける智子には雪が降り始めていたことに気が付かない。風で吹き流された雪がコートに溶けていく。智子は自分に傘をさしかけられたところで初めてそれに気が付いた。
「ずいぶん熱心なのね・・・風邪ひくわよ。」
 忍が笑いかけることで、智子はやっと目の前の巫女姿の女性が誰かということにきがついたのだろう。慌てて口元をおさえる。
「えっ?草薙先輩。・・なんで・・?」
 きょろきょろと辺りを見回す智子の姿に忍は苦笑した。
「だって、ここが私の家だから・・・。」
 智子は以前、探している本が見つからなくて困っている忍を見かねて助けてあげた事があった。忍とはそれからの知り合いである。
 
 傘を持って3年生の教室のあるあたりをうろうろする。忍がどのクラスにいるのかなんて知らないのだから無理もない。端からA,B,・・と続く教室を次々とのぞいていく。そして、3つ目の教室の廊下で忍と大輔の姿をみかけてどきりとする。
 智子は逡巡の後2人に声をかけることにした。
「あの・・草薙先輩、昨日は傘ありがとうございました。」
 どのみち自転車だったので役に立たなかった傘を忍に差しだした。忍は智子の堅苦しい様子に苦笑する。
「あら、いつでも良かったのに・・。帰り道なんだから・・。」
「草薙さん本多さんと知り合いだったんですか?」
 ちょっとね、という感じで忍が頷くのを見ながら智子は気が気でなかった。幸い昨日のことにはふれなかったというか忍が気を回したのかもしれない。縁結びの神様に学業成就を願いに来る参拝客はあまり多くないだろうから・・・。
 2・3会話をかわして去っていく大輔の後ろ姿を見送る智子を見て、忍が呟いた。
「本多さんの相手ってひょっとして・・・」
 智子の耳にその呟きが入ることはなかった。ただ、忍の哀れむような表情が智子の心臓を大きくうたせた。予感だったのかもしれない。
 
 もっとお話ししたいな・・。
 智子が見かけるたびに違う女の子と話をしている大輔。たまに独りでいるかと思えば、声のかけられない雰囲気をまとっていたり、と話をする機会がない。
 何か心配事があるのかもしれない・・。
 以前に較べると少し快活さを失ったように感じる大輔から智子はそんなことを考える。
 自然と鍵盤の上で細い指先が踊り出す。音楽部の人の許可を取って時折こうしてピアノを弾かせてもらっているが、子供の頃少し習ったきりで後は自己流である。
 短いピアノソロの曲を弾き終えて智子は顔を上げる。
「上手いものね・・。」
 肩越しに声をかけられて智子が慌てて振り返ると、そこには窓の外を見つめている忍の姿があった。
 いつの間に、などと思っている智子の方を見ないで忍は言葉を続けた。
「・・・ショパンは独りで練習する曲じゃないわよ・・。」
「草薙先輩は音楽に詳しいんですか?」
 ここで初めて忍は視線だけを智子の方に向けた。だがそれも一瞬で、再び窓の外へと視線を戻した。
「一般教養レベルなら・・。良くわからないけれどショパンって人は別れの中にしか現実を見いだせなかったのかもしれないわね・・。」
 忍の話の飛躍に智子はついていくことができない。ただ、曖昧に頷くだけである。忍は急に笑顔になって声の調子もがらりと変えて智子の方を向いた。
「私はこの春で卒業するけど、思ったより時間っていうのは足がはやいものよ。」
「はあ・・・。」
 智子の顔は相変わらず理解しているとは思えない顔つきである。
「好きな人のことを神頼みするぐらいなら、さっさと告白しなさい。・・・まあ、お賽銭自体はありがたいんだけどね。でも、時間は思っているほどないからね、これは本当。」
 智子の顔が赤く染まるのを見て忍が微笑む。
 夕焼けに照らされた教室が黄金色に染まっていた。
 
「先生、プリント集めてきました。」
 D組の担任教師がご苦労さん、といって机の上を指さした。おそらくそこに置けと言うことだろう。C組の担任である冴子先生と何やら話し合っているようである。一礼して、その脇を通り過ぎようとする智子の耳に聞き捨てならない言葉が飛び込んでくる。
「そう言えば、早川の転校ももうすぐですね。」
 智子は何事もなかったようにそのまま歩き続けて、出口のところでまた一礼し扉を閉めた。身体の動きこそ普段と変わらなかったが、眼鏡の奥の瞳には何も映っていないようであった。
 屋上の金網に背中をもたれかけさせて空を見上げた。
 つまるところ先輩はそのことを知っていたのだと智子は思った。そうでなければあの不自然な会話の説明がつかない。
 ・・じゃあ、なんで先輩はその事を知っていたのだろう?
 智子の視線が足下へと落ちた。あまり意味などないのかもしれない、自分も偶然その事を知ったのだから・・。
 大輔がいなくなるという現実があまりに大きすぎてまともな思考ができない自分に智子はあらためて驚く。そして、その事に気が付いてしまう心の中のどこか冷めた気持ちを悲しいと思った。
 
「そう・・・知っちゃったのね。」
 忍の言葉にはどこかため息を思わせるところがあった。忍の話が始まった。忍の強引な勧誘に耐えかね大輔がその事を喋ったこと、そしてこのことは黙っていて欲しいと言われたことなど・・・。
「じゃあ、早川君は誰にも告げずに転校していくつもりなんですか?・・なんで・・。」
 忍は静かに首を振った。どこか遠くをみつめる目つき。
「早川君にも都合があるんでしょ・・。それ以上彼に踏み込むのならそれなりの覚悟と資格が必要じゃないのかしら・・。」
「・・・資格?」
 智子がその言葉に反応する。
「資格って何ですか?・・友達だからって理由じゃいけないんですか?・・・好きだからという理由じゃいけないんですか?」
 忍の瞳が真っ直ぐに智子を見つめている。綺麗な瞳、智子はそう思った。
「転校したことはないけど・・転校する人が一番悲しいものじゃないのかしら?あなた、それを直視する勇気はある?・・・それが覚悟って事・・。」
 忍の瞳にふとよぎった感情。智子はそれに気が付いて一旦閉じかけた口を再び開いた。
「あの、もしかして・・・。」
 忍がにこっと笑いながら右手の人差し指を立てて、自分の口にあてた。
「早川君は大事な後輩よ・・。それ以上でもそれ以下でもないわ・・。」
「・・・それでいいんですか?」 
 なおも食い下がろうとする智子の耳元に唇をよせ、忍はそっと囁いた。
「それを我慢できない人だけが資格を貰えるのよ・・。」
 軽く右手をあげるようにして自分から離れていく忍の後ろ姿を、智子はじっと見送った。
 
 大輔の驚きはすぐに悲しみを含んだ表情の中に消えていった。元々完全に隠しておける事柄ではない、その事がわかっていたのかもしれない。
 夕焼けに包まれた河原を眺めながら2人で帰る途中のことだった。ついに我慢できなくなった智子がその事を口に出したのだ・・。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「関係ないだろ本多さんには・・。」
「関係あります!」
 ぶっきらぼうな大輔の答えに対して、智子は間髪入れずに叫んだ。眼鏡の奥で智子の瞳が揺れている。自転車から手を放したせいで、ガタンと音をたてて倒れるのにも見向きもせずに大輔を見つめている。
「私、早川君のことが好きです。・・・だから、だから・・・。」
 冷静に考えると、それはそれで全然関係のないことかもしれないのだが、智子の必死さが大輔の心にその余裕を与えない。それに大輔自身がみんなに伝えなくていいのだろうかという疑問を持っているから尚更である。
「・・最初はどうでもよかったんだ。ただ、しばらくすると伝えなきゃいけないなと思う相手ほど伝えにくいことに気が付いてね。」
 大輔はここで一旦言葉を切り、足下の石を拾い上げると川の方に向かって投げた。風による波と波紋が重なり合って水面が太陽の光を複雑に反射する。
「それでも何人かには伝えたよ、偶然知られちゃったのも含めてだけど。例えばのぞみのやつも知ってる。そうだなあ、親しい人間の中で伝えてないのは・・・本多さんぐらいかな。」
 大輔の言葉に対して智子は判断に苦しんだ。自分だけがのけ者にされたということだろうか、それとも一番伝えにくい相手だったということだろうか?大輔の表情からそれを読みとることはできなかった。
「その人と別れなきゃいけないというのは当然悲しいけど、もしも伝えてみて『ふーん、そうなの。』なんて気のない返事をされたらどうしようなんて考えると・・・・やっぱり怖いよね。」
 大輔はもう一度石を拾い上げた。それを投げ込もうとして途中で気が変わったのか石は力無く河原へと落下した。
「・・・だからさ、本多さんは凄い勇気があるんだなあって感心した。」
「そんな・・私はただ夢中で・・。」
「俺は本多さんが好きだよ・・。だから、・・・意気地がないだろ俺って・・。」
 沈黙が2人の間におりた。
 大輔は倒れた自転車を起こすと智子を見た。智子が黙ったまま荷台に横座りに座ると大輔がゆっくりとペダルをこぎ始める。2人は何も喋らない。口を開くときっとその話題にふれてしまうだろうから・・。今はお互い幸せな気持ちの中にいたかった。
 
 何かを忘れるように休みの日には2人で遊びに行った。それでも楽しい時間はいつか終わりを告げる。誰も流れゆく時間を止めることはできないのだから・・。
 そして朝が来る。
 寝ぼけ眼をこすりながら大輔は家を出る。この家に帰ることはもうない。それでも昨夜ずっと考えていた。その答えを智子はどう受け止めてくれるのだろうか?
 普段ならすぐに会えたのに今日は見つからない。無意識のうちに2人ともお互いの姿を探していたのかもしれない。だとすると今日は会いたくないと思っているのだろうか?もしそうならここにはいないかもしれないなと思いながら大輔は図書室の扉を開けた。
 普段誰も寄りつきそうにない哲学書の一角で声を殺して泣く少女。いつからここで泣いていたのだろう。大輔は少女の方に向かって一歩を踏みだした。
 
 ・・あの人が転校するとわかってからの10日はとても早かったのに、あの人のいない日々はとても長く感じる・・。
「もうすっかり春だねえ・・。」
 この春3年生になって智子はのぞみと同じクラスになった。のぞみは何となく大輔と智子の関係に気付いていたのか、沈みがちな智子に良く声をかけてくれていた。
「本多さんはどの季節が好き?」
「・・・・冬が好きです。」
 へえ、珍しいねとのぞみが呟く。
「じゃあさ、どの季節が一番嫌いなの?」
「私の嫌いな季節は・・・・」
 智子は一旦言葉を切り、窓の外に視線を向けて再び口を開いた。
「・・冬が嫌いです。」
 あの人は約束を守ってくれるだろうか?そんな思いがふと頭をよぎることがある。毎週のようにやりとりしている手紙がどんどんと少なくなるのではないか?そんな不安が智子の胸にはあった。
「大輔ってさあ・・」
 のぞみの口から突然出た名前に智子はどきりとする。
「・・・ちょっとだらしないところもあるけど、約束は破らないよ・・。」
 智子は瞳を閉じた。のぞみの何気ない一言がこんなにも自分の心を軽くしてくれる。
「ありがとうございます。」
 桜の花びらの舞う頃、2人が再び出会う頃には私は春が大好きになるに違いない。そんな確信を抱く智子の目の前を桜の花びらが風に吹かれて高く高く舞い上がっていった。
 
                   完
 
 

 もう、この話の草薙さん最高!(自分でいってどうするかな・・)ってこれは本多さんのお話でしたね。(笑)とりあえず告白シーンをひとひねり。コンセプトは大胆な本多さんということで・・。いや、マジで真っ赤な水着には驚きましたが・・。
 このゲームに関しては心のランキング上位に眼鏡さんは食い込むことはできませんでしたが、嫌いじゃないです。ただ、相手が強かったというだけで・・・。ちなみに草薙さんはNO2です・・。口の悪い友人達は本多さんのことをちょっと電波系の怪しい魅力とか好きなこといってましたが、世間でいうところの眼鏡さんの王道キャラだと思ってます。
 ところどころ話に破綻をきたしているけど、個人的には気に入ってます。読後感も悪くないと思いますし・・。(自分で言うところが卑屈ですな・・)
 みなさんが楽しんでいただければこれ幸いですが・・。
 ただ、本多さんって最初主人公の名前を覚えてない様な態度なのに、自転車のイベントでなんじゃそらあとか思いませんでしたか? ・・・思いませんか、そうですか・・。

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