柔らかな旋律が音楽室に響いていた。
 少女の白い指先の軽やかな動きに、ピアノはしっかりと応えて……ただ、本音を言えば少し力強さの足りない演奏ではあったが演奏者の個性として許される範囲だろう。
 そんな演奏を続ける少女の目の前を薄い桃色の花びらが通り過ぎていく。
 少女は演奏をやめて、おそらくそれが飛んできたであろう窓から外を眺めた。
 視界の中に桜の木は見あたらない。
 どこか遠くから飛ばされてきたのだろうか?
 少女は花びらを自分の手のひらの上に拾い上げ、不思議そうにそれを眺めていた。
 
 美術室の窓から1人の少女が外を眺めている。
 おそらくグラウンドの運動部の練習風景をスケッチでもしているのか……手に持ったスケッチブックの上を、鉛筆が忙しく走り回ってはとまり、止まってはまた走り出す。
 ただ、そのスケッチに描かれている風景には、グラウンドにいないはずの少年の姿が1人紛れ込んでいて……厳密には現実の風景とは呼べないはずなのに、不思議とそれで正しいような気持ちにさせられる、そんな絵だった。
 
 しなやかな肢体が風を切る。
 ポニーテールの髪が、その名の通りに風になびき……その踊りが止まると同時に、それまで厳しい顔つきを見せていた少女の白い歯がこぼれる。
 ストップウォッチ片手に近寄ってきた少女に向かってブイサイン。
 そんな少年じみた仕草が不思議とよく似合う少女は、ふとそこにはない何かを見つけたように空を見上げた。
 西の空がうっすらと茜色に染まり始めている。
 
 鮮やかに染まりゆく西の空を見つめたまま、少女はぼんやりと自転車の側に腰を下ろしていた。
 時折何かを思い出すように自転車のペダルを回そうとするが、ごつごつとした機械的な抵抗に異質なモノを感じて……そしてため息を一つ。
 少女はやがて、自転車を押しながらとぼとぼと河原の道を歩き始めた。
 
 学校指定のジャージに身を包み、少女はコートに向かって声を出す。時折自分の方に転がってくるボールを素早く拾い上げては、不器用にそれを投げ返す。
 西の空はゆっくりと蒼く染まりつつあり、一番星が瞬き始めていた。
 そろそろクラブの練習も終わるだろう。
 
 ぴりぴりと張りつめた雰囲気の進学塾の教室に、どことなく集中しきれていない少女の姿があった。
 勝ち気そうな瞳がレンズの中で揺れている。その瞳は時折遠くを見るようなまなざしになり、そのたびに慌てた様に首を振り少女は机の上に視線を戻す。
 だが、それがポーズだけにすぎないのは誰の目にも明らかだった。それでもこの教室の誰1人として少女を気にかけることはない。
 他人のことを構っている暇があるなら……ここは、そういう場所である。
 少女が再び顔を上げたとき、窓の外は既に暗くなっていた。
 
 
「んーっ、春だねえ……」
 大輔はそう呟いて大きくのびをした。
 些細なことを忘れさせる、春の陽気だ。
 大輔がふっと目をやったのは、通学路の途中に立つ桜の木。
 既に花は散り、いわゆる葉桜の状態だが……この桜の木が、学生達に桜と認識される時間は非常に短い。
 花が散ってしまえば、時折『あの木、毛虫が多いから気を付けて』などと、話題に上るのが関の山。
 無論、大輔もまた、そうした1人であったのだが。
 
『この桜の木は、1年を通して桜の木であるはずなのに、そういうのってちょっと寂しいと思わない…?』
 
 本人は何気なく口にしたのかも知れないが、不思議と大輔の心にその言葉は残った。
 花が咲こうが咲くまいが、花が咲いていようが咲いていまいが、確かに桜の木は桜の木。
 大輔はしばらく桜の木を見つめ……ぽつりと呟いた。
「……元気そうだな」
 もちろん、桜の木がそれに応えるはずもなく、大輔は少々気恥ずかしさを覚えてその場を立ち去ろうと……。
「早川君!何落ち着いてるのよ。走らないと遅刻しちゃうわよ!」
 大輔の右腕をがっちりと抱え込み、走ってきた勢いもそのままに、千春が大輔を引っ張っていく。
 引っ張っていくその先は、もちろん青空高校だ。
「とっ、たっ、危ない、そんなに引っ張ると危ないって……」
「だったら、自分でちゃんと走る!」
「わかった、わかったから放して」
 仕方なく、大輔は走り出す。
 そしてすぐ、右手には自分の鞄、左手には千晴の鞄を持ち、隣を走る少女のペースにあわせて学校を目指すことになったのだが。
「……珍しいね、春日さんにしては?」
「…頼むから……話しかけ…ないで……」
 大輔には余裕でも、千晴にとってはどうやらオーバーペースのようである。
「おっはよー!…おや、珍しい人がいる」
「おや、後藤さん。朝練かい?」
「単なる寝坊だよ、意地悪だなあ」
 と、育美は苦笑を浮かべ。
「でも、春日さんが走ってるって事は……って、やっぱりぎりぎりだね」
「まあ、そんなに慌てなくても、このペースなら、チャイムの2分前には昇降口に突入できるって」
「あはは、でもギリギリには変わりはないよね」
 などと、余裕たっぷりの二人の会話を聞きながら、千晴はちょっとばかり世の中の理不尽さを噛みしめていた。
「とうちゃーく!」
 この時間帯の風物詩らしく、下駄箱に向かって突進する生徒達の群が何ともほほえましい。
「じゃあ、春日さんまたね」
 二年の教室の並びは手前から順番になっているので、まずは千晴が自分の教室になだれ込む。
 ぐったりと自分の席に座り込んだ千晴に向かって綾音が笑いかけた。
「こんな時間に登校するなんて珍しいわね?」
「……お願い…せめて……後、2分待って…」
 ぜいぜいと荒い息をはき続ける千晴がやっとのことでそう呟く。
 その一方で、教室に入ってきた大輔の姿を認めるやいなや、のぞみが不思議そうに口を開いた。
「ちょっと、大輔。あんた何で鞄二つも持ってるのよ?」
「ありゃ?」
 のぞみに指摘されて、初めて思い出したのだろう。大輔は慌てて腰を浮かしかけたが、それを許さぬチャイムの音が鳴り響いた。
 
「うわっきゃ!」
 バランスを崩して階段から転げ落ちそうになった弥生は、危ういところで力強い腕に抱き留められた。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。」
 深々と頭を下げる弥生に対して上級生らしい男子生徒は『急いでるから』と言い残して走り去る。その後ろ姿を弥生はじっと見送っていた。
 さて、その『急いでいる上級生』はと言うと……
 ばたばたという足音とともに、音楽室の入り口に大輔が現れた。
「ごめん。本多さん、桂木さん、ちょっとかくまって」
 そう言い捨てて大輔は窓のサッシに飛び乗って黒いカーテンを身にまとった。そして風に揺れているようにカーテンをふくらませてカムフラージュする。
 それに少し遅れて騒がしい足音が近づいてくる。
 がらっ。
 音楽室の中をぐるっと見回してから、のぞみは二人に向かって尋ねた。
「桂木さんに本多さん。大輔見なかった?」
「ううん、知らないわ」
「さあ、気がつきませんでした」
 などと二人とも言葉だけはかくまっているのだが。
 実際は必死に笑いをかみ殺しつつ、二人が二人とも自分の背後のカーテンを指さしていたりする。
 当然、カーテンの陰に隠れている大輔にそれはわからない。
「そう、ありがとう」
 そう答えて、のぞみは入り口のドアを閉めるだけは閉めた。そしてご丁寧に遠ざかっていく足音まで偽造する。
 それを聞いてカーテンの後ろから大輔が姿を現す。
「ふう、二人とも協力ありがとう」
「そうね、ご協力感謝するわ」
 大輔の表情が、瞬間凍り付いたように見えた。
「う、裏切り者ぉー」
 のぞみに引きずられていく大輔の捨てぜりふを耳にして、智子は隣の綾音に視線を移しながら呟いた。
「裏切り者……と言われてもね?」
「別に何かを契約した覚えもないものねえ」
 綾音はにっこりと微笑んだ。
 
「だいたいだな、人間という生き物は役割分担による効率化を果たすことで今の繁栄を手に入れたんだ。俺に掃除をさせると言うことは歴史の流れに逆らう……」
 頬をかすめるようにして壁にモップの柄が突き立てられ、大輔はゆっくりと開けていた口を閉じた。
「他に言い残すことは……?」
 のぞみの表情に浮かぶ凶悪なものを認めて、大輔は静かに首を横に振った。
 その光景を眺めながら冴子先生は微笑みを浮かべる。
「まあ、なんか新婚家庭を見てるようね……」
 イヤな新婚家庭だなあ……という表情を浮かべた二人に向かって、冴子先生はぱんぱんと手を叩いた。
「じゃあ、広瀬さんお願いね。先生はちょっと用事があるから」
「はい。終わったらそのまま帰っていいんですね?」
「いいわよ」
 にっこりと微笑んで、冴子先生が去り。
 残された2人はちょっと顔を見合わせて。
「……最近、結婚指輪を外してるよね?」
「まあ……妙な詮索はやめとこうぜ」
「そうね…っていうか、ほら、掃除よ掃除。さっさと始めなさい」
「へいへい」
 こうなったら真面目に掃除するのが一番早いと判断したのか、大輔は黙って手を動かし始めた。
 ちなみに、その姿をじっと見守るのがのぞみの役目である。
「早川君、頑張ってねえ」
「逃げたら駄目ですよ」
 などと教室をのぞき込みながら綾音と智子が声をかけていく。
 しかし、大輔は一旦集中を始めるとまわりの音なども聞こえなくなる。
 それを知っているのぞみはじっと大輔の顔を見つめていた。
 それは観察と言うにはやや熱量の過剰な部分があるように思われた。
 
「転校!?」
 大輔とみさきは二人して素っ頓狂な声を上げた。
「おいおい、親父。俺はともかく、みさきなんか高校に入学して1ヶ月も経ってないんだぜ。何とかなんないの?」
「何ともならん」
 大輔の抗議に対して、父親が単純明快な答えを返す。
「……ならないのか?」
「ならんな……単身赴任に対する会社の補助がないんだ」
「別に、お父さんの稼ぎが悪いなんて言ってませんよ」
 と、これは呆れたように母親の言葉。
「お前達には悪いと思うが、5月末の引っ越しは決定事項だ」
「なるほど…どうしようもないって事か」
 大輔は一応頷いて。
「まあ、俺らだけじゃなく、親父も環境変わるんだもんな…」
 そう呟くことで自分を納得させ、もう一度頷いた。
「んじゃ、親父…俺とみさきは部屋に戻るよ。ちょおっと頭冷やすから、詳しい話はまた後でな」
 そう言って、大輔はみさきに視線を向けた。
「みさき、行こうぜ」
「あ、うん…」
 みさきは、大輔の後をついて台所を後にし……そのまま大輔の部屋に入っていった。
「……やれやれ」
「あそこまできっぱりと言い切られると、反論する気にもなれないね」
 みさきと大輔はあきれたようなため息をついた。
「ま、泣く子と親には逆らえんけどな」
「悲しいけど現実よね……」
 二人の間にどこか惚けたような沈黙が流れる。
「んじゃお兄ちゃん、私、部屋に戻るから」
「ん、そうか……まあ、1ヶ月先のことだからな。少しずつ納得していくしかねえだろ」
「……そうだね」
 
 朝のHR。
 冴子先生はなんとも寂しそうにみんなに告げた。
「唐突ですが、早川君が5月末に……」
 そして冴子はちょっと困ったように大輔に視線を向けて。
「早川君、実は私、受け持ちの生徒が転校するのって初めての経験で…。こういう時ってどう言えばいいのかしら?」
「知りませんよそんなの……」
 大輔もまた困ったように冴子先生を見た。
 そんな2人の困惑が伝染したのか、教室の中もまたざわざわとどう反応してよいものか判断を決めかねているようだった。
「ちょっと、大輔……転校なんて初耳だけど?」
「そりゃそうだろ、俺だって昨日親父から聞かされたのが初めてだ」
 自分の席に戻った大輔に顔を寄せ、責めるように囁くのぞみ。
「……アンタとみさきちゃんが残るとかできないの?」
「俺はともかくみさきはな……入学したばっかりだってのに」
「……」
 のぞみの表情が微かに曇る。
「アンタは……寂しくないの?」
「はっきり言うと、まだ実感がない。それに、転校とか引っ越しそのものが初体験だからなあ、イメージ的にも今ひとつというか…」
「そ、そうよね…」
 細く長いため息をこぼし、のぞみは教室の天井を見上げた。
「アンタとの腐れ縁もこれまでか……」
「幼なじみに向かって結構ひどいこと言うな、お前」
 ちなみに、普通、腐れ縁という言葉は悪縁であることを示す。
「腐れ縁以外に、どういう表現のしようがあるのよ」
「家がお隣で同い年……まあ、中学校卒業まではセットでお買い得コースなのは当然だが」
「な、何よ…?」
 大輔の緯線から顔を背けるのぞみ。
「俺が早々とここに進学を決めたのはのぞみも知ってるよな?で、最後までぐずぐずと考えていたのはお前の方だ」
「…っ」
 のぞみの頬が上気する。
「結果的に、のぞみの選択でそうなったんだ……お前がそういうこと言うな」
「べ、別にっ、アンタがいるから、ここの高校に決めたわけじゃないんだからねっ!」
「そりゃ、そーだろ……そんなんで、進学先決めてどうするよ」
「あ…う、そ、そうよ…当たり前じゃない」
 どこか怒りをこらえるような口調と表情で、のぞみが頷く。
「でもまあ…」
 そんなのぞみに気がついているのかいないのか、大輔が椅子にもたれながら呟いた。
「お前と同じ高校通えるのは、正直嬉しかったんだけどな…」
「は、恥ずかしいこと、言うんじゃないわよっ」
 大輔の机をバンと叩き、のぞみはそのまま教室からかけだしていった。
「なんだ…あいつ?」
 などと首をひねる大輔に、教室のあちこちでため息が聞こえた。
「早川のやつ、まぁたフラグを立てるだけ立てて放置だよ…」
「俺、同じ中学なんだけどさ、広瀬の放置歴長すぎ……つーか、それを楽しんでる俺って外道かも」
「と、いうか……早川君って中学の時からアレだったけど、高校に入って磨きがかかったよね」
「えっと…フラグって言うの?乱立しまくり?」
「と、いうか……下心ナシで、ナチュラルに優しいだけだと思うけど…」
「え、もしかして、アンタ…?」
 などと、ひそひそ話でありながら盛り上がり……一段落したところで、大輔が一ヶ月後にいなくなるという現実が、みんなの心にすっと落ちてきた。
「……転校か、あいつ」
 男子生徒のその一言が、ずしりと重い。
「……いつも通りで、いいのかな?」
 と、女子生徒の何気ない一言が、この後の課題をみなに与えたのだった。
 
「は?」
「いや、だから……早川君、転校するって聞いたんだけど」
 転校する……なるほど、それは早川君が、転校するという事よね。
 などと、いわゆる言葉が心まで届かない状態がしばらく続き……。
「なんですってっ!?」
「きゃっ」
 突如立ち上がった千晴に驚いて、少女が尻餅をついた。
「あっ、と…ごめん…」
「び、びっくりした…」
 と、千晴の手を借りて起きあがりながら……少女がぽつりと呟く。
「でも、春日の方が…びっくりしたんだよね…きっと」
「き、聞いてないわよ、私?」
「うん、本人も昨日初めて聞いたらしいよ……お父さんの仕事の都合とか、そんな理由らしいけど」
 父親の仕事の都合……となると、それはもう転校そのものは覆す事が出来ない決定なのだろう。
 ふっと周囲を見渡すと……どこか放心したような感じで、綾音があらぬ方向を見つめていたりする。
「やっぱり……か」
 巧妙に隠していても……こんな時にふっと素顔がのぞいてしまうものだ。
 千春は静かに息を吐き、わざわざ自分のクラスまでそれを教えに来てくれた少女をあらためて見つめた。
「それで……いつ?」
「え?あぁ、うん…5月末だって」
「……そう」
 千春は……もう一度呟いた。
「そう…なんだ…」
 
「あやねちゃんっ。たいへんたいへんっ!」
 などと騒ぎながらみどりが教室に駆け込んできたのは、2限目の授業が終わってすぐのことだった。
 ……おっと、よく見れば右手に鞄が。(笑)
 どうやら、遅刻してきたようだった。
「な、なに…?」
「早川君、転校するって」
 情報、遅ぇよっ……などと、教室内のいた生徒の大半は、心の中でツッコミをいれたのだが、青空高校のトップアイドル桂木綾音は、静かに、控えめに同意することで、それを友人のみどりに伝えることにしたようだった。
「あ、うん…そうみたいだね。朝から、話題になってる」
「そうみたいだねって…あやねちゃん」
 どうしてそんなに反応薄いの……と、みどりは綾音の顔をのぞき込んで、ようやく気付いた。
 表情こそ平静を装っているが、目が必死だ。
 みどりだけにわかる程度に左右に視線を投げ、『わかるでしょ?』とばかりに、ぱちぱちと瞬きを繰りかえす。
 綾音のそれを知っているのはごくごく親しい人間だけで、気付いているのもごくわずかの範囲に限られる。
 ちなみに、のぞみのそれはほとんど周知の事実(笑)であり、彼女を哀れんで誰もそれを指摘しないが故に、のぞみ本人はきちんと隠せていると思いこんでいる。
「ぁ…あぁーっ。そうだよね」
 オーバーアクションで、みどりはうんうんと頷き。
「早川君と私は仲良いけど、綾音ちゃんはそうでもなかったもんねぇ」
「…っ」
 一瞬だが、綾音に睨まれてみどりがひるんだ。
「え、えっと…私、ちょっと早川君と話してくる」
 そして逃亡。
「あ、ちょっと。みどりちゃん、せめて鞄は置いていって…」
 と、少々不自然な形で、綾音がそれに付いていく。
 まあ、あれはあれで、いいコンビなのだ……たぶん。
 綾音が教室を出ていってから、千春は小さく息を吐き……窓の外に目を向けた。
「仲がよい……とはいえないよね」
 ちょっとした知り合い。
 いや、友達?
 少なくとも、周囲はそれなりの交流があると見てくれている。
 でもそれは……さっきの、天野みどりと同じ程度の……に、過ぎないはずだった。
「転校……しちゃうのね」
 いなくなる。
 会えなくなる。
 
「お兄ちゃん、たまには一緒に帰ろ」
「……ああ」
「何よぉ、今の微妙な間は」
 と、みさきがむくれた。
「いや、珍しいというか……やっぱ、へこんでんのかなと、心配になってな」
 みさきはちょっとうつむき、そして顔を上げ。
「お兄ちゃんは、へこむと優しくなるのよねー」
「……なんだそれ?」
「あ、自覚ないんだ…」
 みさきは、少し呆れたように笑って。
「いっつもそうだよ。なんかへこむことがあるとね、周囲の人に優しくなる」
「……そうだったのか」
「あははは。だから私、小さい頃は、お兄ちゃんが毎日嫌な目に遭えばいいのにって、思ってたよ」
「そりゃ、あんまりだろ…」
「ほんとにね…」
 そう呟いて、みさきがさりげなく大輔の手を取って……。
「うわ、ダメだやっぱり」
 と、振り払った。
「いきなり何を…?」
「無理無理。いやあ、今さらお兄ちゃんと手をつないで帰るとか、絶対に無理」
「…?」
 みさいは、ちょっと照れたようにひらひらと手を振って。
「あははは。子供の頃みたいに手をつなげば、時間も戻ったりしないかなーなんて」
「みさき…」
 大輔の言葉を封じるように、みさきはもう一度笑って言った。
「時間が戻っても、結局また引っ越ししなきゃいけないもんね」
「……そうだな」
 大輔は、空を見上げて。
「高校に入学して1ヶ月も経ってないもんな、みさきは……俺より大変だ」
「……そう?」
「ちょうど、クラスや部活で友達とかできはじめた頃だろ?高校生活を左右する、重要な時期だぜ、たぶん」
 みさきが、困ったように俯いた。
「ねえ、のぞみお姉ちゃん、何か言ってた?」
「ん、まあ…こっちに残れないのか、とか……後は、俺との腐れ縁もこれまでか、とか…」
「そっか…」
 なにやら感情のこもった、深い深いため息をつくみさき。
「……転校すること、内緒にしとくってのもアリだったかな」
「それはそれで、切り出すタイミングとか難しくなりそうだけどな」
「……」
「……」
 しばらく無言で、2人は家路を歩んでいたのだが。
「実はね」
「ん?」
「お兄ちゃんのこと紹介して…なんて言ってた女の子がいたの」
「むう、それは間の悪い…」
「……」
 みさきの視線を感じて、大輔はそちらを見た。
「何だよ?」
「紹介されたかったの?」
「そりゃ、まあ…男として、悪い気はしないよ」
「やめてよね。うまくいけばいいけど、何かあったら、私ともぎくしゃくしちゃうんだから」
「むう、なるほど…難しいな」
「そうよ、難しいんだから…色々とね」
「……」
「……」
「やめよう、不毛だ」
「……そうね」
 
「くそう、悩みと睡眠との間に密接な関係はないってことかっ」
「ええっ、私はなかなか眠れなかっただけなんだけど?」
 大輔とみさき、早川兄妹が、通学路を駆け抜けていく。
「……っていうか、のぞみっ。お前までどうしたっ!?」
「うっさいわね。あんたの転校のこと考えてたら、なかなか眠れなかったのよっ!」
「ほほう、そいつは幼なじみ思いな事で」
「ええ、そうよ。もっと感謝しても罰は当たらないんだからっ」
 走りながら首を傾げるという、なかなかに器用なことをしながらみさきが呟く。
「……結構きわどいこと言ってるけど、いいのかな、のぞみお姉ちゃん」
 一見平和な通学光景といえよう。
 ……絶望的に間に合わないことを除けば。
 
「……桂木さんと本多さんの遅刻はきわめて珍しいよね」
「あ、あはは…間に合うはずだったんだけど…」
 駅のホームでぼーっとしてたら、電車を乗り過ごした……などとさすがに言えず、綾音は曖昧な笑みでごまかした。
「わ、私は自転車のチェーンが…」
「え、また?」
「え、ええ……そろそろ、買い換えの時期なのかしら」
 微妙に目を逸らして、智子が笑った。
「修理できなかったんでしょ?後で見てあげるよ」
「え、ええっ?」
 智子が狼狽えた。
「と、いうか…自分で修理できるようにならないとね」
「あ、そ、そうね……早川君、転校しちゃうから」
 こけの一念、岩をも通すと言うが……チェーンの外し方に関しては、智子はバッチリ会得したのだ。
 帰り道で、大輔の姿を見かけた瞬間にさささっと……。
 ちなみに、今朝の遅刻の理由は単なる寝坊だ。
「おやあ、みなさんお揃いでぇ」
 などと陽気に現れたみどりをじっと見つめ。
「いつも通りだな」
「いつも通りね」
「少し、気を付けた方が…」
「あれ?私ひょっとしてイジメに遭ってる?」
 
「ところで大輔、引っ越すのはわかったけど、今住んでる家ってどうなるの?」
「……どうなるんだろう?」
「ちょっと…」
 大輔は首を傾げて。
「こっちに戻ってこられるって保証はないらしいから、手放すことになるのかなあ…ちなみに、引っ越し先はマンションらしいけど」
「……そう」
「つーか、今住んでる家って、まだローン残ってるらしいんだよな」
「そ、そんな生々しい話しないでよっ」
「ああ、すまん」
 と、大輔は一応謝り。
「まあ、貸すにしても売るにしても、変な人間がのぞみのお隣さんにならなきゃいいんだがなあ…」
「……」
「……どうした、のぞみ?」
「あ、うん…なんていうか…心配してくれてありがとうっていうべきなのか、それとも怒るべきなのか、ちょっと考えちゃって」
「……怒られる要素があったのか、今の?」
「……さあね」
 そう言って、のぞみがふいっとそっぽを向く感じで立ち上がった。
 そしてそのまま教室を出ていく。
 大輔が首を傾げるのをよそに、教室内のクラスメイトがひそひそと。
「いつもなら、手が出てるよね」
「出てる出てる」
「……あれ、泣くんじゃね?」
「…そうかも」
「やべえ、広瀬の泣き顔想像したら、萌えた」
「外道だな、お前」
 
「……うーむ」
「どうした、大輔?」
「おお、スカか」
「区切んなよっ!続けて呼べよっ」
「悪ぃ、悪ぃ」
 と、大輔は申し訳程度に頭をかいてみせ。
「みさきに言わせると、俺はへこんでいるらしいんだが……お前から見て、そんな風に見えるか?」
 そう問われて、大須賀はちょっと大輔を見つめ。
「いや、冷静というか落ち着いてるように見えるぜ」
「うむ……ただ単に実感が湧いてないだけかと思ったんだが、そうなんだよな。妙に冷静なんだよな、今の俺」
「……?」
 大須賀が、首を傾げた。
「いや、転校が決まってからな……こう、いろんな人間と話してると……まあ、その、俺はもうちょっと、自分の転校について思い詰めるというか、悲壮感を覚えなきゃいけないのかな、なんて思うわけだ」
「……難儀な性格してんな」
「自分が生まれ育ったこの街を離れることが寂しくないってわけじゃないんだぞ?」
「そりゃそーだろ」
 と、大須賀が呆れてため息をつく。
「……?」
 今度は、大輔が首を傾げる番だった。
「ああ、つまりだな、早川……お前がこの街を離れるって事は、お前の周りの人間にとって、お前と離れなきゃいけないって事だぜ?」
「ああ」
「お前の転校は、周囲の人間にとって他人事じゃねえよ……どうせ、当事者じゃない人間がこんなに寂しがっているのなら、自分はもっと……とか、面倒くさいこと考えてるんじゃねえの?」
 そう言って、大須賀が肩をすくめた。
「……」
「……今の俺、なかなか決まってなかった?誰か、今のを見てて、俺に惚れたりしてくんないかな?」
「とりあえず、みさきがお前のことを馬鹿にしてるのは確かだ」
「みさきちゃんかぁ…可愛いのになあ」
 そう呟いた大須賀が、ひやりとした気配を覚えて口をつぐむ。
 そして、大輔を見た。
「可愛いのに…なんだ?」
「優しくて、素敵な女の子だよね」
「うむ。いくら友人でも、家族の悪口は許さん」
「へいへい……じゃ、俺は、練習に戻るぜ」
「おう。頑張って、女の子にモテモテになれよ」
「まかせとけ」
 びっと、親指を立て……大須賀が去っていく。
「さて……と」
 大輔は腰に手をあてて、周囲を見まわした。
 グラウンド、体育館、校舎…。
 思い出深い青空高校の……。
「……冷静に振り返ると、それほど思い出深いとも思えないんだよな」
 妹のみさきはテニス部に入ったが、大輔はずっと帰宅部。
 青空高校に入学してから1年ちょっと……自分が何かを打ち込んだとか、熱意を傾けた対象は、やはりそこにはない。
 慣れ親しんだと言うより、ただ単に慣れた場所。
 もし、青空高校以外の学校に通っていたら……それはおそらく、同じように感じていたのではないか。
「……特別ってワケじゃないよな」
 ぽつりと、大輔は呟いた。
 進路を選ぶ際も、単純に家から近いからという理由。
「んー、でもなあ…」
 大輔は、がしがしと髪の毛をかき回した。
 自分が生まれ育ったこの街を離れることが寂しいのは確か。
「……要するに、過ごした時間の問題ってことなのか?」
 はあ、と背後でため息をつかれ、大輔は振り返った。
「のぞみ…」
「だったら、幼なじみと離れなきゃいけないことも寂しがりなさいよね、ったく」
「思ってるぞ」
 のぞみは、ちら、と大輔を見て、すぐに目を伏せた。
「それなりに、でしょ」
「それなりに、と言われたらそうかも知れないけど…」
 大輔は、ちょっと首を振って。
「街は動けないけど、人は動けるだろ?」
「は?」
「離れたらそこでおしまいってワケじゃなく、その気になればまた会うこともできるし、電話やメールで連絡を取り合うこともできるだろ?」
「……あたしと、連絡を取り合うつもり、あるんだ?」
「電話代高そうだから、まあ、メールって事になるだろうけど」
「どうだか…」
 目を伏せたまま、のぞみがまたため息をついた。
「あんたの事だから、新年メールだけのつきあいになりそうよね」
「かもなあ」
 そう言って大輔が笑った瞬間。
 どん。
「お?」
 大輔の身体が傾く。
「おぉっ?」
 手が、空をつかみ。
「おおおおぉっ!?」
 あわれ、大輔はグラウンドに向かっての傾斜面を転がっていくのだった。
 そして。
「……そういうのはさ、連絡を取り合うつもりがあるとは言わないのよ」
 冷めた目で、のぞみがそう呟く。
 
「ボク、見てたよ、広瀬さんが、早川君を蹴り落としたとこ」
「……後藤さんは気楽でいいわね」
「いじめ、格好悪い」
「あたしなんかにいじめられるタマじゃないわよ、あいつは」
「それもそーだね」
 育美はあっさりと認め。
「でも、ケンカは良くないかな」
 と、釘を刺す。
「……」
「ケンカしたままさよならは、後味悪いよ、きっと。早川君、引っ越しちゃうんだし」
「……っ」
 ぶんっ。
 渾身の平手打ち……力が入った分だけ大振りになったのもあるが、育美はそれを予測していたかのように軽くかわした。
「肩に力が入りすぎ。力めば力むほど、速さってのは失われちゃうんだよね」
「……」
「あはは、広瀬さんは文化系じゃなく体育系向きだと思うよ」
 のぞみは、きっと育美をにらみつけてから、走り去った。
 そして、残された育美は。
「あれ、ボク…なんか間違ったかな?」
 などと、不思議そうに首を傾げたり。
 どうやら、根本的な事情に気付いていないご様子だった。(笑)
 
「あーやねっちゃんっ!」
 がし。
 ああ、このパターンはあまり歓迎できないときの……と、綾音は警戒しつつ、肩越しに振り返った。
「……何か用?」
「クールっ!ナイスクールっ!」
 一体何がナイスなのか、みどりが綾音に向かって、びっと親指を立てて。
「早川君と、広瀬さんがケンカしてるって」
 綾音はちょっと眉をひそめ……しかし、目の前のみどりの表情と口調が、場にそぐわないような気がしたので、ここはひとつ先を促すことにした。
「……それで?」
「綾音ちゃん、大チャンスっ!」
「……」
 綾音は、小さく息を吐いてからみどりを見つめた。
「みどりちゃん」
「ん?」
「正座」
「なんでっ!?体罰反対だよっ!?え、ちょっとっ!そんなっ、体重かけないで…あっ、ああぁっ!」
 
「……くすん、くすん」
「嘘泣きはやめてね」
「嘘泣きじゃないよっ!?マジ泣きなんだからねっ!?」
 涙目のみどりが、綾音に向かって抗議の声を上げる。
「人の不幸を喜ぶ娘に育てたつもりはありません」
「またまたぁ…綾音ちゃんだってわかってるくせにぃ」
 口元に手を当てて、みどりがいやらしい笑みを浮かべた。
「広瀬さんのは、幼なじみの名を借りた囲い込みだよね。早川君にアタックするには、あのガードをいかに無効化するかが…ああああっ、痛っ、痛いからマジやめて、綾音ちゃんっ!」
「……みどりちゃん、1つ言っておくけど」
「『早川君のことは、良いお友達だと思ってるの』なんてのは無しだからね」
「今さら、みどりちゃんに隠すつもりはないわよ」
 綾音は、そう言って笑い……目を伏せた。
「私、早川君に告白するつもりはないから」
「なんでっ!?」
 律儀に正座していたままだったみどりは、思わずという感じで立ち上がった。
「だって、早川君引っ越しちゃうよ?転校して、会えなくなるのに?」
「だから…かな」
 顔を上げ、綾音がみどりに笑いかける。
「みどりちゃんに話した事あったよね?私、転校の経験があるって」
「あ、うん…小学校だったけ」
 微笑みで、綾音は肯定した。
「……遠恋は嫌ってこと?」
「……それ以前の問題、かな」
「……?」
「うまく説明できないけど…転校する時って、頭の中がグチャグチャになるの」
 何かを思い出そうとするかのように、綾音は目を閉じた。
「きっと…ね。いろんな事を考えなきゃいけないと言うか……入ってくる情報量が、頭というか心の処理能力を超えちゃうんだと思う」
「んー、テスト前の一夜漬けみたいな感じ?」
「……そ、そういう感じかも。認めることに抵抗はあるけど」
 綾音はちょっと苦笑を浮かべたが、すぐに真面目な表情に戻って。
「今告白しても、たぶん、ちゃんと応えてもらえないと思うの」
「……綾音ちゃん、プライド高い」
「そ、そういう話になるの?」
「つまり、どさくさは嫌ってことでしょ?」
「そ、そうじゃなくて…ちゃんと見て欲しいだけ」
「……」
「ほ、ほら。私って…その…なんか、みんなから過大評価されてる気がするの。私は…別に…普通の女の子なのに」
 みどりは、ちょっと綾音を見つめ。
「また、告白でもされたの?」
「……」
「なるほどねー」
 と、みどりは頷き。
「綾音ちゃんは、可愛い」
「な、なに…いきなり?」
 綾音の戸惑いをスルーして。
「でもまあ、ただ逃げているだけのような気もするなぁ」
 ぴく。
「あ、反応した。自覚はあるんだ」
 みどりが、笑みを浮かべる。
「べ、別に…逃げてなんかないわよ。そ、それに、告白を断るのって、心の負担がすごいんだから」
 綾音が、小さく頷いて言葉を続けた。
「そ、そう…早川君にね、そんな負担をかけたくないの。わかる?わかるよね、みどりちゃん?」
「うんうん…断るのもつらいけど、断られるのもつらいよね」
 みなまで言うな……とばかりに、みどりが綾音の肩に手を置いた。
「〜〜〜〜っ」
 綾音の顔が真っ赤になり。
「みどりちゃんっ!」
 爆発した瞬間、みどりは既に綾音に背を向けていた。
 
「おう、みさき」
「あ、おにいちゃん…」
「どうした、俺に何か用事か?」
「え?」
 何の話…という表情のみさきに。
「いや、この廊下…2年の教室しかねえぞ?」
「あ、いや…なんていうか…」
 みさきは困ったように俯いて。
「ちょっと…ね。その、教室に居場所がないって言うか…」
 大輔はみさきの手をつかみ、歩き出した。
「えっ?」
「みさき。相手教えろ…俺がしめてやる」
「ちょっ、ちょっとおにいちゃん?なんか勘違いしてない?」
「人をイジめる連中はクズだ。折り畳んでゴミ箱に捨ててやる」
「違っ、違うからっ!」
 足を踏ん張って、みさきは大輔を引き留めた。
「……?」
「不思議そうな表情しないでよ…ホントにもう、おにいちゃんは…バカなんだから」
 バカと言いつつ、みさきはちょっと表情を緩ませて。
「ほら、転校しちゃうから…周囲から妙に気を遣われちゃって……それでちょっと気詰まりって言うか…」
「あぁ…うん、それは…仕方ない…よなあ」
「……やっぱ、転校すること…内緒にしてた方が良かったかも」
「まあ、言ってしまったもんは仕方ないというか…」
「……おにいちゃんは、平気?」
「平気というか、なんというか……まあ、周囲の雰囲気がいつも通りじゃないのは確かなんだが、のぞみのやつがすげーいらついてるのが気がかりといえば気がかりだな」
「……」
「……今の沈黙は何だ?」
「あ、いや…さっきもそうだけど、ちょっと教育方針を間違ったのかなって」
「教育方針…?なんだ、それ?」
「ああ、いやいや、こっちの話。こっちの話だから」
 と、慌てて手を振るみさきの後ろから。
「あ、あの、みさきちゃん?」
「へ?」
 振り返る。
「あ、弥生…」
「今日は、お昼ご飯…どうするの?」
 弥生は上目遣いにみさきを見つめつつ……ちら、ちら、と大輔に視線を向けてくる。
「みさき。友達か?」
「あー……うん」
 友達じゃねえのかよ、とツッコミの入りそうな間を空けてから頷き。
「クラスもそうだけど、同じテニス部なの」
「あ、わ、私、南弥生って言います。よろしくお願いします」
 食いつき気味に自己紹介し、がばっと頭を下げる動作が、体育会系というよりも、どこか不器用さを伝えてくる。
「あ、うん。みさきの兄で、早川大輔です。えーと、よろしくお願いします…?」
 この挨拶でいいのかと疑問を抱きつつも、大輔は差し出された手を握った。
 どことなく死んだ魚の目を連想させる瞳で、みさきはそれ眺めて。
「……悪いんだけど弥生。今日はちょっとお兄ちゃんと一緒に、職員室に呼ばれてるの。ほら、転校手続きの件で」
「あ、そ、そうなんだ…」
 弥生は、再び大輔に頭を下げて。
「そ、そうとも知らず、お邪魔しましたっ」
 頭を上げ、ぎこちなく回れ右をして、たたたっと廊下をかけていく弥生を見送りつつ……大輔は、何となく呟いた。
「みさき…前に言ってた、『紹介してくれ云々』の相手って、あの娘か?」
「あぁ、うん…」
「かなり可愛いじゃないか」
「ちょっ、ちょっとっ!?」
 みさきが動揺も露わに大輔の顔を見つめる。
「いや、俺がどうこうという話じゃなくてな…わざわざ紹介なんか頼む必要あるのか、あの娘」
 みさきは、ため息をつき。
「弥生、人見知りなの」
「そうか?」
「なんていうか…」
 みさきは、ちょっと言葉を探すように目を泳がせ。
「こう、気持ちとかそういうモノを自分の中にため込むだけため込んで、いきなり暴走させるタイプだと思う」
「あぁ…」
 大輔は曖昧に頷き。
「そういう人、俺にも1人心当たりあるなあ…」
 
 2年D組。
 智子は、静かに本を読んでいた。
 いや、視線は活字を追っているのだが、頭には入っていない。
 その証拠に、智子が持っている文庫本は上下が逆さまだった……カバーが掛けられているため、周囲の人間にはそれがわからない。
 まあ、1人静かに読書を楽しむという彼女のスタイルは周囲に好意的に受け入れられており、それを敢えて邪魔しようというクラスの人間はいないのだが。
 ぶっちゃけていうと、智子には友人が少なかった。
 まあ、交友関係を広げたいという欲求を持っているわけでもないから、智子本人がそれを苦にしているわけではない。
 友人が少ないというのは、あくまでも数の上での統計的比較に過ぎない話である。
「……」
 優雅ささえ感じさせる仕草で本を閉じ、智子は小さくため息をついた。
 大輔の転校が決まってから……自分が何をすべきなのかはさておき、何かをしなければいけないという気分に智子の心はじわじわと追いつめられ始めている。
 智子と大輔との出会いは、ちょうど1年ほど前のこと。
 河原沿いの道で、チェーンが外れてしまった自転車を前に途方に暮れて…(以下略)。
 恩にきせるでもなく、ごく自然に、そして爽やかに去った少年に対して、もう一度接触してみたい……などと、らしからぬ衝動を抱いた智子は、2週間ほど思い悩んだ。
 そして、考えついた手段が……また、自転車のチェーンを外してしまうことだった。
 と言っても、自転車のチェーンが外れたのを直せない智子であるから、自転車のチェーンを外す事も簡単ではなかった。
 自転車の本を読み、歯車に関する本も読み……知性と努力と情熱をあさっての方向にまき散らしながら、ついに智子は自転車のチェーンを外すコツを見いだした。
 大輔の帰り道というか、行動パターンをそれとなく調べて……まあ、ツッコミどころは多々あるが、智子の努力は一応報われたと言うべきだろう。
 大輔と知り合うことで、のぞみとも知り合い、ちょっとした縁で綾音やみどりとも知り合った。
 青空高校に進学してからの智子にとって、大輔の存在はドアのようなものだと言っていいだろう。
 もちろん、智子にとってのドアのような存在が大輔ただ1人というわけでもないが。
「……」
 本を開き、また閉じる。
 残された時間は、そう多くない。
 
「悲しいほどお天気…ってやつか」
 晴れた空、そよぐ風。
 ゴールデンウイーク後半の、振り替え休日含めて4連休。
「……何故俺は、荷物の整理をしなきゃいけないんだ」
 大輔はため息をつきながら、イ〇バの物置の中身を庭に引きずり出していく。
「あ、あはは。ごめんね、おにいちゃん。ほら、私にテニス部の練習があるから」
 などと、愛想笑いを浮かべながら、逃げていったみさきに向かって、軽い呪詛を放ちながら、大輔はがらくた同然の荷物をまた1つ引きずり出した。
 ちなみに、父親は仕事の引継などの関係で休日出勤、母親は引っ越し先の掃除やら手続きやら……まあ、決して遊んでいるわけではない。
「……で、この箱は何だよ?」
 箱を開けて中身を確認し……メモを取る。
 大輔の私物ならまだしも、物置の中身の処分については、明らかに不要品とわかるもの以外は父親なり母親の判断を仰がねばならないからだ。
「……?」
 ふっと、顔を上げた。
「…っ」
 二階の部屋の窓から大輔の作業を眺めていたのぞみと視線がぶつかる。
「よう」
 軽く右手を挙げてそう声をかけたのだが。
 のぞみは慌てて窓を閉め、カーテンまで閉じたではないか。
「……おーい」
 挙げた右手をわきわきと動かし、大輔は大きく息を吐いた。
「なんだってんだ、のぞみのやつ…」
 もう一度大きく息を吐き……大輔は作業を再開した。
 ここの次は、家の中の物置の整理が待っている。
 
「……おっと、もう昼じゃねえか」
 お駄賃というワケでもないだろうが、好きなモノを食べなさいと母親から昼食代を渡されていた。
 まあ、好きなモノと言っても、限度があることぐらいは大輔も百も承知で……おそらく、許されるギリギリのラインは1500円だろうと推測している。
 ほこりまみれの服を着替えて、大輔は昼食をとるために出かけようとした。
「あ」
「え?」
 大輔が玄関のドアを開けた瞬間、ちょうど智子はインターホンのスイッチを押そうとしていたところで。
 ぴんぽーん〜♪
 遅れて響いたチャイムの音が、どこか滑稽だった。
「本多さん?」
「あ、あのあの…きょ、今日は早川君、1人で荷物の整理をするって言ってたから」
「え、まさか手伝いに?」
「そ、そういうわけではなくて…その、私、力仕事とか苦手だから…」
 ばっと、智子は持っていた包みを大輔に差し出した。
「お、お弁当ですっ」
「……」
「作ってきたの」
「……」
「……あ、あの…迷惑…だった?」
「あはははは…」
「え、えっと…?」
 大輔はひとしきり笑うと、智子にそれを謝ってから言った。
「あ、いや…やっぱ、本多さんって時々突拍子もないことするから面白いなって」
「……わ、私、何か間違えましたか?」
「いやいや、何も間違えてない、間違えてないよ」
 と、大輔は手を振って。
「気を悪くしたらごめんね。ただ、こっちの予測を越えるって言うか、それが面白いってだけなんだ」
「そ、そうなんですか…?」
「別に迷惑じゃないし、嬉しいし、実際これから外食するつもりだったからありがたいよ……ただ、俺の昼食が用意されてるとか、全然想像しなかった?」
「……え?」
 大輔の言葉の意味を理解し……智子は、赤面した。
 
 連休も終わって。
「うわぁ…」
 家の前に積み上げられた不要物の山を見て、みさきがあらためて感嘆の声を上げた。
「……すっごい量」
「つーか、処分する料金も結構かかるのな」
 不要物1つ1つにぺたぺたと貼られた処分票。
 地区によっては1度にいくつまで……という決まりがあるのだが、大輔の住むこの街の規則範囲内の量にとどめて、この量だ。
「残りは来週と再来週にわけて……みさきも、雑誌関係とか早めにまとめとけよ。引っ越し先のマンション、一応俺達の部屋はあるけど、狭い上に収納スペースも限られてるらしいから」
「……うん」
「……悪い。ちょっと配慮に欠けた言い方だった」
「ううん」
 みさきは、笑って首を振った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今度の休み、私と弥生の3人で、どこか遊びに行かない?」
「……」
「可愛い妹と友達、両手に花だよ。それとも、何か用事でもあるの?」
「いや、用事はないんだが…その、それは…弥生ちゃんのリクエストなのか?」
 みさきは、可愛く首を傾げて。
「どっちだと思う?」
「いや、なんていうか…みさきは、それでいいのか?」
「今さらお兄ちゃんと2人でデートってのも気恥ずかしいし。まあ、弥生を利用してみようかなって」
 大輔はみさきの顔を見つめたが、別に無理をしてるとかそういう気配を感じることはなく……まあ、そういうものなのかと、納得することにした。
 
「あははは、みさきちゃん、こっち、こっち〜」
「あん、ちょっと待ってよ、弥生〜」
「……やべえ、あの2人元気すぎだろ」
 いわゆる、スポーツとか、運動面で言うところの体力に関して、決して大輔はみさきに劣るわけではないはずなのだが。
 大輔はベンチに腰を下ろし、良く晴れた空を見上げた。
「……歳かな」
 高2とは思えない台詞を大輔が呟く。
 そうしてしばらく、空を流れていく雲を見つめていた大輔だったが……あの2人が無理をしてはしゃいでいるのではないかという可能性にたどりつく。
「……ふむ」
 どこかの地方の盆踊りか何かのフレーズ、『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々〜♪』をなんとなく思いだして、大輔は立ち上がった。
 どうせなら、やるだけやりきった楽しい記憶を。
 それが、間違っているとは、大輔には思えなかった。
 ……なのに。
「……なんか、はしゃいでたね、お兄ちゃん」
「いや、どうせなら楽しんだ方がいいかな…と」
 じとー。
 帰り道で、みさきから疑惑の視線を向けられてしまったりする。
「可愛いもんね、弥生」
「そうだな」
 下手にひねると墓穴を掘りそうなので、素直に同意してみる。
「……お兄ちゃん、ちょっと自惚れたりしてない?」
「してない」
「何度も言うけど、お兄ちゃんは、勉強もまあまあ、運動もまあまあ、顔もまあまあの、これという取り柄のない平均人間なんだからね」
「いいじゃねえかよ、まあまあなら」
 そもそも、世の中の半分以上はまあまあ以下の人間になるんだから……とは言わずにおく。
「まあまあじゃ、ダメなんだってば。女の子にはモテないの」
「お前だけじゃなく、のぞみからも何度も聞かされたよ。2番以下じゃダメなんだろ、2番以下じゃ」
「そうよ、女の子はシビアなんだから」
 みさきは、腰に手を当てて。
「柳沢先輩とお兄ちゃんとの間には、越えられない壁があるの」
「だから、なんで柳沢を引き合いに出すんだよ…あいつがモテるのは中学の頃から知ってるっての」
「そうそう……勉強も、運動も、それぞれに大きな差は無いけど、女の子はお兄ちゃんじゃなく、柳沢先輩に目を向けるんだから」
「……まったく」
 大輔は額に手をあてて呟いた。
「お前も、のぞみのやつも、中学にあがった頃から二人して、俺じゃモテない、女の子には相手されないって、何度も何度も繰り返しやがって…」
「勘違い人間は見苦しいもん」
「はいはい」
 大輔はそっぽを向いて適当に返事した。
「……だから、弥生のことも勘違いしちゃダメだからね」
「しねえよ」
「……どうせ、すぐに引っ越して会えなくなるから、適当に遊んじゃっても問題ないとか思ってない?」
「ひどい誤解だ……というか、俺をそんな目で見てたのか、お前は?」
「でも…人の本性って、いざというときに現れるって言うし」
「みさきの友達だろ?そんなことできるかっ」
 みさきは、真顔になって大輔を見つめた。
「……」
「……お、おい…」
「じゃあ、お兄ちゃん…のぞみお姉ちゃんのことはどうするつもり?」
「へ?」
「『へ?』じゃないよっ!のぞみお姉ちゃんは、私にとって、大事な人だよ?」
「……ああ、そのことか」
 大輔はため息をつき。
「そりゃ、俺だってケンカしたままじゃあ良くないとは思っているんだが…というか、そもそもアイツが勝手に怒ってるって言うか、目すら合わせようとしないんだぜ?これ、ケンカじゃないよな?一方的だぞ、一方的」
「……」
「いくら幼なじみていっても、怒ってる理由ぐらい教えてくれって言うか……まあ、『言わなきゃわかんないのっ!?』って怒鳴られるのがオチなんだろうけどよ…」
「……」
「……みさき?」
「……この鈍さは、やっぱり教育方針の誤りとしか思えないよ、のぞみお姉ちゃん」
「何をぶつぶつと…?」
「あーもうっ。お兄ちゃんのバカ」
「はい?」
「知らないっ」
 大輔としては理不尽きわまりない言葉を残して、みさきは1人走っていった。
 
「せんぱーい」
「おお、弥生ちゃんか」
 入学したばかりの1年生が、2年生の教室までやってきて……これは、弥生の神経が太いわけではなく、ただ単に周りが見えていないだけ。
「昨日は楽しかったです、ありがとうございました」
「うん、俺も楽しかったよ」
 ぴしり。
 その時教室にいた生徒の数人は、空気が凍り付く音を聞いたと後に語っている。
「じゃあ、せんぱい。また遊びに行きましょうね」
 そう言って、弥生はちょっと恥ずかしげに俯き。
「できれば、今度は2人きりで…」
 囁くように告げて、弥生はバタバタと教室を出ていった。
 そして、残された大輔は。
「『また』って……気軽に言うなあ、弥生ちゃんは」
 苦笑混じりに呟くしかない。
 ざわざわざわ。
「え、ちょっと待って…あの子、1年よね?」
「怖い、怖い怖い怖い、広瀬さんの顔が怖い」
「目、あわせんな…馬鹿、見るなって」
 
 そして、昼休み。
 
「早川君、3年の先輩が呼んでるけど?」
「え?」
 さあ、昼飯だ……の出鼻を折られた感じで、大輔は困惑した。
 直接ではなく、わざわざ人を介するあたり親しい相手じゃない……というか、そもそも部活動をしていない大輔に、3年の先輩の知り合いはほとんどいない。
 興味と不安をない交ぜに、大輔は教室の入り口に視線を向けた。
 廊下側で、うつむき加減に立っている女子生徒。
「……って、佐川先輩…だよな?」
 大輔のそれがやや自信なさげなのは、同じ中学出身とはいえ、さほど親しくしていたワケでもないからだ。
 と、いうか……高校に上がってからは、廊下で出会えば、目礼する程度。
「……良くわかんないけど、行った方がいいんじゃない?」
「あ、ああ、そうだな…サンキュ」
 と、大輔は取り次いでくれたクラスメイトに礼を言って、立ち上がった。
 
「……なんだかなあ」
 ため息混じりに大輔は呟いた。
 空を見上げてみる……夕暮れにはまだ早い。
「生まれて初めての…って事になるのになあ」
 
 『中学の頃から、ずっと好きだったの』
 
 昂揚はまるでなく、ただ戸惑っただけだった。
 戸惑いのまま発した疑問に対する答え……それが、ちょっとばかり、大輔には納得いかなかったというか、まあ一言でいえば青春だ。(笑)
 もちろん、大輔としては、そんな一言ですまされたくはないだろう。
「……帰るか」
 まっすぐ家に帰ったところで特にやるべきこともないが、こうやって放課後の屋上で空を見上げていても気が晴れることもないだろう。
 重くもなく、軽くもなく……さりとて、いつもの足取りというわけにもいかず、大輔は校門を抜けた。
「……」
 大輔は足を止め、鮮やかな黄緑色の毛虫に目をやった。
 やや白雉じみた仕草で、顔を上げる。
 足下の毛虫とそっくりな桜の葉の色を、大輔はしばらくぼーっと眺めていた。
 ふと、子供の頃に祖母から『桜の木には虫が付きやすい』と聞いた事を思い出す。
 それが正しいのかどうか確かめようとも思わなかったが、もしそれが事実であるなら、桜の木には毛虫が好む何かがあるのだろう。
「まあ……花の時期は、人が群がるわけだよな」
 花を咲かせば人が群がり、葉を生やせば虫が群がる。
「人気者じゃん、お前」
 どこか皮肉な呟きがきっかけとなったのか、大輔の心は多少柔軟さを取り戻した。
 ちなみに、葉を生やせば虫が群がるのではなく、その時期に毛虫になるだけの話で、基本的に桜の木は一年中、虫が付きやすい。(笑)
 まあ、その勘違いを指摘する者もなく、大輔はあらためて少女のことを……先輩の事を考えた。
「……やっぱり、『後悔したくなかった』って言い草はおかしいよな」
 引っ越してしまうから。
 もう会えなくなってしまうから。
 自分の気持ちを伝えずにそうなってしまったら、後悔するような気がしたから。
 それが、彼女の心を正確に伝える言葉ではないにしても……やはり彼女の告白は、自分のための行為でしかなかったと、大輔は思うのだ。
 下世話な言い方をすれば、自分がすっきりしたかったから告白した……と。
「俺が転校しなければ、なかった告白って事か…」
 呟きと共に、大輔の視線は、桜から足下の毛虫へ。
 踏みつぶそうとは思わないが、拾い上げて木に戻してやろうとも思わない。
「……頑張れ」
 そう言って、大輔は帰路についた。
 
「早川ぁっ、先輩に告白されたって本当かっ!?」
 ざわ。
 大輔は、多大な努力を払いつつ、いつものように大須賀を見つめ、いつものように対応した。
「……何の話だ?」
 この手の話は良くも悪くもネタにされる。
 自分がいじられるのが嫌なのも確かだったが、大輔は先輩がネタにされることを避けようと考えたのである。
 まあ、所詮ははかない抵抗だが。(笑)
 
「……納得いかねえ」
 ぶすっとした表情で、大輔が呟く。
 独り言、ではなく聞かせるための呟き。
「……」
「なんか言えよ、のぞみ。おい、こら」
 ぴりぴりぴり…。
 大輔のクラスは、緊張感に包まれていた。
「中身つまった鞄の角を、いきなり横殴りで顔面たあ、どういう了見だよ。おい、聞いてんのか、のぞみ?」
「……」
 ひそひそひそ…。
「……やべえ。早川のやつ、キレてるぞ」
「そりゃキレるだろ、ふつー」
「やっぱ、広瀬さん、怖ぇよな…」
「ガキの頃、ここら一帯のガキ大将だったのは伊達じゃねえ…」
「いや、本当に怖いのは早川の…」
 ひそひそひそ…。
 
「お兄ちゃん」
 みさきの、自分を責める眼を見て、大輔は思わず声を荒げた。
「俺か?悪いのは俺か?納得できる説明を要求するぞ俺は?」
「……」
「だからそこで黙るなよ……説明できない理由があるのは察することができるがな、ワケわかんないし、納得できねえっつーの」
「……」
 何も言わずにうなだれるみさきに、大輔がとりあえず折れた。
「……声を荒げて悪かった」
「……ん」
 涙ぐみながら、みさきが頷く。
 
 放課後、美術室に現れた大輔にのぞみは視線さえ向けなかった。
 大輔は椅子を手に近づき、のぞみのとなりに椅子を置いて、背もたれを抱えるような姿勢で座る。
 そのまま、何も言わずにのぞみの横顔を見つめ続ける。
 大輔も、のぞみも何も言わず……当然、そのとばっちりを食ったのは、他の美術部員連中だ。
 1人、また1人と、緊張感に耐えかねて部屋を出ていく……が、何故かドアの外に張り付いて、中をのぞき込んでいるのだから、人間という生き物は思っているよりも強いのに違いなかった。
 そして、美術室に2人きりとなってしばらく……大輔が、のぞみの手元をのぞき込んで呟いた。
「うまくなったよな」
「……」
 くじけそうな心を支え、大輔は言葉を続けた。
「中学にあがって、お前が美術部に入るとかいいだしたときは正直、何か悪いモンでも食ったのか思ったけど…」
 もう一度、のぞみの絵を見つめて小さく頷いてから、短く言った。
「うまい」
「……散々笑ったくせに」
「おう、笑ったぞ」
 力強く答えた大輔に、のぞみはちょっと眼をとがらせ……そして笑った。
「……まいった?」
「ああ」
 大輔は頷き。
「美術部員としてのレベルは正直わからねえが、立派なもんだと俺は思う」
「……一言多いのよ、あんたは」
 呆れたように、しかしそれ以上に安心したようなのぞみの呟き。
「俺はてっきり、のぞみは剣道部か柔道部でやっていくもんだと…」
「また、殴られたい?」
「正直に話しているだけだ」
「それはそれで、腹立つわよ。あんた、あたしのことを、そういう風にしか見てなかったって事でしょ?」
「……お前、ガキの頃『鬼姫』って言われてたんだぞ?」
「姫でしょ、姫?大したものよね」
「……」
「何よ?」
 言っていいことと悪いこと、大輔にも多少はその分別があった。
 2人の雰囲気は悪くない。
 ただ、それは……今までの貯金のようなものだ。
「それで、のぞみ」
「何よ?」
「俺は、お前に何かしたか?」
「……別に何も」
 のぞみの口調は素っ気ない。
「……何もってことはないだろ」
「何もしてないわよ。ええ、ホントに、嫌になるぐらい、何もしてないわ」
「……」
 
 さて、美術室の外。
 美術部員連中が、好奇心の塊となって耳をそばだて、ドアの、そして窓の隙間から中をのぞき込んでいたりする。
 それを見て、美術部員以外の人間も、多少それに加わっていたりするのだが、まあ、些細なことだ。
 
 それから数十分後。
 首をひねりひねり、『さっぱりわからねえ…』などと呟きながら美術室を後にした大輔の背中を見送る連中の視線は、6対4程度の割合で、やや非難の色が濃かった。
 しかしこれは、女性の割合が高いことと、見物人のほとんどがのぞみとの関係が強いことと無関係ではあるまい……。
 
「……正直、今はそういうこと考えられないって言うか、ごめん」
「あ、うん…大変なときに、ごめんなさい。でも、聞いてくれて嬉しかった…」
 そう言い残して、少女は大輔に背を向け……駆け足で去っていった。
「……ふぅ」
 不謹慎という思いも拭いがたいが、大輔としてはため息をつくしかない。
「……これが、モテ期だとしたら、嫌な巡り合わせだよな」
 そう呟き、大輔もまたその場を……。
「……」
「の、のぞいてたわけじゃなくて…ごめんなさい」
「あ、うん」
 大輔は、千春の荷物に目をやって頷いた。
「持とうか?」
「あ、ありがと…」
 限界が近かったのだろう、ぷるぷると震える千春の手から、大輔は荷物を受け取った。
「……はぁ。近道なんて考えるんじゃなかった…」
「ああ、戻るに戻れず、地面に置くわけにもいかず?」
「ええ、まさに、そう…」
 千春はもう一度ため息をつき……大輔の手から、半分荷物をとり返した。
「ま、運が悪かったと思ってね」
「どこまで?」
「……素直よね、早川君は」
「重い荷物を持った女の子を助けないと、幼なじみと妹に怒られる」
 千春は、大輔を見て言った。
「何、それ?」
「え、ああ…俺って子供の頃はガキ大将というか、のぞみと一緒に暴れ回ってたんだよ。それで、女の子に怖がられてたんだ」
「…?」
 千春は、首を傾げることで続きを促した。
「まあ、それで中学にあがる直前ぐらいから、女の子に怖がられないためのレッスンを…」
「あぁ…」
 千春は、ひとまず曖昧に頷き……しばらくしてから、小さく頷いた。
「……なるほど」
 
「早川君、いよいよ来週ね」
「ええ」
 大輔は頷き……ため息混じりに、呟いた。
「来週なんですよねえ…」
「は、早川君?」
 大輔は、冴子先生にちょっと目をやって。
「すみません、ちょっとだけ愚痴ってもいいですか?」
「せ、先生でよければ…」
「いや、実はですね…」
 大輔はちょっと遠い眼をして。
「転校が決まってから、今の今まで……その、なんというか、誰も言葉にして、俺のことを心配してくれないんです」
 冴子先生はぱちぱちっと瞬きをして……すぐに、大輔の言葉の意味を理解した。
「あぁ、そうなの…」
「いや、別に海外に引っ越すワケじゃないんですけどね……環境が変わっても、たぶん大したことはないと思ってるんです。思ってるんですけどね…」
 大輔は、苦笑を浮かべて言った。
「誰も俺のことを心配してないとか、そういうネガティブな事を考えてるわけじゃないんですけどね……それでも誰か、俺のことを心配する言葉をかけてくれよ、と」
「えーと、ここで先生が口にしてもダメなのよね?」
「だから愚痴です。ちょっとすっきりしました」
「ああ、うん……早川君、しっかりしてるから、余計にそうなのかも…」
「別に、ふつーですよ」
「んー」
 冴子先生は、含み笑いを浮かべて大輔をじっと見つめるのだった…。
 
 最後の1週間は、穏やかに過ぎた。
 もちろん、大輔にとってそれは普通のことで、これまで過ごしてきた日々が波瀾万丈だったというわけではない。
「みさき」
「ん」
 校門を前に足を止めたみさきの肩に手を置いて、大輔はほんの少しだけ力を込めた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
「ああ、俺もみさきは大丈夫だと思う」
「…?」
「おまえみたいな、可愛くて良い妹が、引っ越し先でうまくやっていけないなんて事はあり得ないだろ、どう考えても」
「……な、な、な、何言ってんのよ、お兄ちゃんは。ホントにもうっ」
 顔を真っ赤にして、みさきはぐいっと涙を拭った。
「……新しい街に慣れちゃったら、この街のことを忘れちゃうのかな」
「そんな簡単な生き物じゃねえよ、人間は」
「……」
「遠くなることはあるかも知れないけど、消えたりはしないな、きっと」
「そっか…そうだね」
 みさきは、確かめるように何度もそう呟き、頷き続けた。
 やがて……みさきは、『いつもの』まなざしを大輔に向けて、ため息をついた。
「結局、お兄ちゃんは、最後まで何もしなかったね…」
「ん?」
 
 
「春日さん」
「あ、桂木さん…足下気を付けて」
「足も…ひっ」
 悲鳴を共に、綾音は飛び退いた。
「け、けむ…毛虫」
「刺されると、ちょっと面倒よ」
 綾音は毛虫を大きく避けて、こわごわと桜の木を見上げた。
「え、えーと、『こんなところ』で何をしてるの?」
 『こんなところ』呼ばわりに少々むっとしたが、千春はそれを表情に出さずに言った。
「ちょっと懐かしくなって…」
「懐かしいって……早川君?」
 千春は綾音を見つめ、綾音もまた千春を見つめた。
「まあ、そうね…」
 根負けしたように千春が呟いたのを、綾音はちょっと髪を掻き上げて。
「ちょうど、去年の今頃だったもんね…」
「そういうわけじゃ…」
「……」
 何が楽しいのか、綾音がニコニコと微笑む。
「ああ、もう……私、この桜の木の下で、初めて早川君と話したの。それだけ」
「ふーん、そうだったんだ…」
「まあ、向こうは覚えてないけど」
「……?」
 千春は、指で眼鏡を示して。
「その時、眼鏡をかけてなかったの、私」
「え、まさか…」
「そんなもんよ、男の子って。眼鏡、髪が長い、胸が大きい、背が低い……その程度のイメージで、女の子を認識するんだから」
 千春の言葉に綾音はちょっと考えて。
「……そ、そうかも…」
「そんなもんよ…」
「う、うう……早川君は、私のことどういうイメージでとらえてたのかしら…」
「さあ、それは…」
 直接聞くしかないでしょう……その言葉を、千春は飲み込んだ。
「…この前、久しぶりに広瀬さんの笑顔を見たわ」
「え?あぁ…」
 話の転換に戸惑い、それでも千春は頷いた。
 大輔がいなくなってからののぞみの様子は、まさに落魄といった感じで……綾音や育美がそれとなく気をかけていたのを千春は知っていた。
 気にかけなかったわけではないが、自分にはそういう役回りはできないだろうと……千春はむしろ、のぞみとは距離を置いてきた。
 ただ、その心底にどこか冷えたモノがあったことも否定はしない。
「ホント、早川君は罪作りな男の子よねえ…」
「……それに関しては、私には異論があるけど…」
 自分や綾音のことを、大輔がどういうイメージで認識していたかはともかく、のぞみに関してはわかるような気がした。
「……ピアノと、絵画なんだって」
「え?」
 自分の思念に心を委ねていた千春は、思わず聞き返した。
 それを気にした感じもなく、綾音が、のぞみから聞いたという話を繰りかえす。
「早川君の女の子のイメージって、ピアノを弾いたり、絵を描いたりすることなんだって」
「あぁ、それで広瀬さんも…」
「そうみたい……まあ、早川君本人は、自分がそんなこと言ったなんて覚えてないんだろうけどね…」
「へえ、桂木さんはピアノ弾けるのよね」
「あ、うん…」
 綾音は頷き……慌てて否定した。
「昔の話よ、昔の話なんだからね…」
 何が『昔』なのかを敢えて問わず、千春は視線を逸らすようにして呟いた。
「本多さんも、確か…」
「……春日さんって、時々意地悪だ…」
 綾音がため息をつく。
「時々なら、大した問題でもないでしょ」
 千春の切り返しに、綾音は困ったような表情を浮かべた。
「えっと、広瀬さんだけじゃなく、私のことも嫌ってるのかな?」
「男子3日会わざれば…というでしょう」
「……?」
「もしも…」
 千春は一旦口をつぐみ、あらためて桜を見上げた。
「もしも彼と再会することがあったなら、思い出に引きずられて自分の目を曇らせることはしたくないだけよ」
「……」
 綾音は、しばらく千春を見つめていたが……やがて、ゆっくりと目を閉じた。
「強いね、春日さんは…」
「逆よ。弱いから、何かを決めないと前を向けないの……桂木さんとは違う」
 目を閉じたまま、綾音は口元に笑みを浮かべた。
「格好良い男の子になってるよ、きっと…」
「どうかしらね…」
 そう言って、千春は綾音に別れを告げた。
「じゃあ、さようなら」
「ええ……早川君の事、話せて楽しかった」
 千春は、ちょっと振り返って。
「広瀬さんにも、少し別の事に目を向けるようにしてあげたらいいんじゃない?」
「……簡単に言わないでよ」
 綾音の浮かべた苦笑に、千春は、深々と頭を下げた。
 
「あ、急がないと…」
 少しのつもりが、綾音との立ち話が過ぎた。
 受験生という現実を、予備校はいつも強く突きつけてくる。
 それが良いとも悪いとも、千春は思わない。
 受験が終われば終わったで、現実というモノはまた別の剣を自分に突きつけてくるだろうから。
「とうっ」
 かけ声と共に、小さくジャンプ。
 千春は、駅に向かって走り始めた……。
 
 
                  完
 
 
 そういや、知人の一周忌が近づいてきたなあ……。
 
 ……などと、知人の好きだったTLSを、懐かしさのままに長々と。
 特にオチもないから、最後までつきあってくださった方は、さぞかし胸のあたりがざわざわしてしまったことと思います。
 のぞみの設定のほとんどは、知人の作品から拝借、アレンジしたモノです。
 鬼姫のぞみと、爆弾主人公2人(子供の頃)の天下統一4コマは、忘れられません……といいつつ、もううろ覚えですが。
 
 それにしても、懐かしいなあ、TLS。
 水谷さんと、草薙先輩の出番がなかったのが残念だ。
   

前のページに戻る