後1ヶ月で転校するという事実がありふれた光景を、ありふれた日常を、いつもと違って大輔の目には新鮮に感じさせる。
 そのせいでこのごろの大輔の視線はいつもと違って落ち着きがないのだろう。普段なら気が付かないような所の落とし物を最近よく見つける。
 今日も廊下を歩いていて誰かの生徒手帳を発見した。
 −この学校って結構落とし物が多かったんだな・・・−
 手帳を拾い上げ、ひっくり返して名前を確認する。
「二年A組、桂木?・・って、桂木さんの手帳か?・・へえ、彼女でも落とし物なんかするんだ。そんな風には見えないけど・・。」
 二年C組の大輔とは2つ隣の教室である。ちょうど自分の教室への帰り道でもあるしそのついでに届けてあげようと思い、手帳を持ったまま再び廊下を歩き始めた。
 −桂木さんと話したことはないけど、テスト順位でトップ争いしてるから俺の名前ぐらいは知ってるだろ・・・彼女がいないならいないで柳沢が確かA組だからあいつに頼んどけば間違いないしな。−
 などと考えながらA組の教室に顔を出す。教室を見渡し、ほどなく彼女の姿を発見して座る席に近づいて話しかけた。
「この手帳桂木さんのだよね?」
 話しかけられて初めて大輔の存在に気が付いたのだろう、綾音は大輔を視界に認めると椅子が動くほど身体をのけぞらせた。
 どうも必要以上に驚く綾音の姿に少々納得のいかないものを感じたが、にっこり笑って手帳を差し出してやると綾音もそれに気が付いたのであろう口元に手をやった。
「あ!その手帳私の。」
「廊下に落ちてた。」
 綾音はうつむきながら手帳を受け取り、ありがとう、と呟いた。
 それじゃ、と踵を返そうとした大輔を綾音が呼び止める。
「早川君!あの、中見たりした?」
 いや、とそっけなく首を振りながらも綾音が少なくとも自分の顔と名前を知っていてくれたことに大輔は少し嬉しくなる。
「そう・・・よかった。」
 そう言ってうつむく綾音の顔は微かに上気していたのだが、大輔は大輔で緊張していたためそのことに気が付くはずもなくそのまま教室を後にした。
 
「おはよう、早川君。」
 校門前で綾音と挨拶を交わす大輔を見て、幼なじみの広瀬のぞみが音もなく背後に近寄り大輔の頭をぽんぽんと叩く。
「へえ、大輔もやるもんね。桂木さんとお知り合いとは・・」
「んー?この前彼女の落とし物を拾っただけ。」
 −そういえばのぞみのスケッチブック拾ったときも中を見たか聞かれたな?−
 大輔は先日のことを思い出し、不思議に思ったことをそのまま口に出した。
「女ってのは秘密が多いんだねえ?」
「はあ?何馬鹿なこといってんのよ!」
 あまりに唐突な大輔の台詞に、のぞみはあきれたような声を出す。
「いや、彼女の生徒手帳渡すときに『中を見たか?』なんて聞かれてさ・・のぞみも聞いただろ?この前のスケッチブック。だから女ってのは見られたくない隠し事が多いのかなあ・・なんて思うわけだ。」
 のぞみは激しい心の動揺を隠すため、とりあえず大輔を張り飛ばすことにした。
 何ともほほえましい光景である。     
 ちなみに大輔の生徒手帳は名前の欄以外真っ白である。
 
 のぞみは自分の前に座るいつもより5ミリほど背の高い大輔の頭に視線をやりつつ、先ほどのやりとりを思い出していた。
 −見られて困るんじゃなくて見られるのが恥ずかしいなんて言っても大輔にはわかんないでしょうね・・・。−
 頬杖をついたままため息をつくのぞみに冴子先生の声が飛ぶ。
「じゃあ広瀬さん。次の文章を訳してちょうだい。」
 あたふたと教科書を広げるのぞみの耳に低い大輔の声が聞こえる。
「百聞は一見にしかず。」
 オウム返しのように大輔の言ったとおり答えるのぞみ。
「百聞は一見にしかずです。」
「よくできました早川君。広瀬さんはしばらく立ってなさい。」
 あくまでにこやかに冴子先生はのぞみに言い渡す。
 のぞみは大輔の頭を見下ろしながら、どう考えても逆恨みでしかないのだが休み時間に身長の伸びを5ミリから1センチにしてやろうなどと考えていた。
 大輔には不幸なことにこの考えは実行された。
 
「ん?早川身長伸びてないか?」
 柳沢修一が大輔に話しかけながら教室の中をきょろきょろと見渡す。
「のぞみなら俺をなぐって出ていったからいないぞ。」
 大輔が自分の頭をさすりながらそういうと、修一は顔を真っ赤にしながら首を振る。
「いっ、言ってる意味がよくわからないな・・・。」
 −ばればれだよ・・・。− 
「わからないなら別にいいんだ・・。」
「また広瀬とけんかしたのか?」
 責めるような目で大輔を見る修一に、胸を張って反論する大輔。
「これまではともかく、今日はぜっっっっっったいに俺は悪くない!」
「どうだかな・・・ところで早川と広瀬は・・・・つきあってるのか。」
 こういう質問をしておいてしらを切ろうとする修一の精神構造がなかなか興味深いのだが、大輔は笑いをかみ殺しながらただの幼なじみだ、と答えてやる。
 押さえきれない笑いが大輔の顔に出てしまったのだろう、修一は軽く咳払いなんかをし大輔の視線から目をそらす。
「ん、ちょっと気になっただけでな・・・」
 修一の答えに大輔がほう、と息を吐く。
「へえ、のぞみのやつ人気者だな。柳沢、ご苦労さん。」
「い、いっ、言ってる意味がよくわからないな!」
「わからないならいいんだ・・・お、のぞみが帰ってきたぞ。」
 のぞみと入れ替わるようにそそくさと教室を出ていく修一。
 −柳沢よ、何故逃げる?−
 温かく見守るだけの大輔であった。
 
 二年C組の教室の廊下。
 偶然(?)通りかかった綾音は大輔と修一のやりとりを耳にして、ぼんやりと教室側の壁にもたれたまま先ほどの会話を反芻していた。
 −つき合ってなかったんだあの2人・・でも幼なじみなんだよね。−
 せいぜい挨拶を交わすだけの自分と違って、好きなときに冗談を言い合ったりふざけ合ったりすることのできるのぞみの存在に綾音は軽い嫉妬を感じていた。
「あーやーねーちゃん!、何してるのこんなところで?」
 背後から突然声をかけられ、綾音は慌てて振り返る。そこには元気よく笑いながら綾音を見つめる天野みどりが立っていた。
「みどりちゃん。・・・・・何で鞄なんか持ってるの?」
 みどりは綾音の肩に手を置き、沈痛な面もちで答える。
「綾音ちゃん、それは言わない約束でしょう。」
 −また遅刻したのね・・・−
 軽くため息をつく綾音をものともせず、みどりは教室の中の大輔に気が付くと窓越しに呼びかけて鞄を持った手をぶんぶんと振る。
「おーい早川くーん、おっはよー。」
「おっはよーじゃねえだろ、おはようじゃ・・・。また、塀をよじ登ってきたのか?」
 苦笑いしながら大輔はみどりの方に顔を向け、廊下側の窓際の席に移動してきた。
 みどりはわざとらしくスカートを押さえ、にやにやと悪戯っぽく笑った。
「もうパンツは見せてあげないよー。」
「見ようと思って見た訳じゃないだろ・・・塀から落ちてきたのを助けてやったんじゃないか。ん、と・・・天野さん、桂木さんがなんか困ってるみたいだぞ。」
 2人に挟まれた綾音はその場から移動しようとしていたのだが、みどりが体重を預けてきていたので壁との間に挟まれもがいていた。
「あ、ごめんね綾音ちゃん。」
「桂木さん、大丈夫?」
 みどりが離れてくれたおかげで物理的な息苦しさから解放されたものの、心理的な息苦しさに見まわれやっとの思いで大輔に答える綾音。
「え、ええ大丈夫よ。」
 大輔から視線を逸らすと、自分の方を見てにやにやと笑いながら口元に手をやるみどりの姿が目に入り、漠然とした不安におそわれる綾音であった。
 
「綾音ちゃん、一緒にお昼しよっ!」
 昼休みに入るとすぐにみどりが綾音を誘いにやってきた。
「いいけど、私お弁当よ?」
「じゃあ、食堂で食べようね。さあ、さあ、さあ。」
 引きずられるようにして食堂についてきた綾音を振り返り、みどりが笑う。
「綾音ちゃん、私きつねうどんが食べたいな。」
 状況が把握できずにぼんやりと突っ立っている綾音に、みどりがゆっくりと話す。 
「私と早川君の出会いはきつねうどんだったなあ。」
 どうやら漠然とした不安が、今はっきりとした形となって綾音の目の前に立っているようである。
「・・・・・・今日だけだからね。」
 にっこりと笑うみどりの顔が綾音には悪魔のように見えた。
 
「ごめんね、今月ちょっと金欠だったの。」
 実に屈託のない笑顔でみどりがだし汁をたっぷりすったおあげにかぶりついていた。屈託のない笑顔に薬味のネギがついているのはご愛敬。
 綾音は身体ごとみどりから横を向き、ただ黙々と箸を動かしている。もちろん窓の外の景色を楽しんでいるわけでは決してない。 
「綾音ちゃん、ちゃんと協力してあげるから機嫌なおして。」
「言ってる意味がよくわからないわ。」
 彼女がここまで不機嫌をあらわにすることは珍しい。おそらく、脅迫に屈した自分への後悔などを含めていろんな感情が心に渦巻いているのだろう。
「だからね、私は少なくとも綾音ちゃんよりも早川君と仲がいいからいろいろお手伝いできると思うよ。」
 少なくとも目に見える範囲で、綾音の反応はない。
「昔から言うじゃない、据え膳食わぬは浪人の見栄って。」
 最後の一本となったうどんをちゅるんと吸い込みながらお気楽に言ってのけるみどりを綾音はきっと睨みつける。
「それをいうなら武士の恥よ!それとも私が浪人だって言うの?」
「浪人も片思いも似たようなもんでしょ。」
 みどりはきっちりとだし汁まで飲み干しながら綾音にとどめを刺す。実に男前な食べっぷりである。
 しばらく沈黙が続いたが、やがて綾音はみどりの方に向き直り頭を下げることになった。
「そーそー、人間素直にならないと。特にこういうことは・・・。」
 にっこりと笑うみどり。基本的に彼女の根は善人なのである。
 ま、善人だからといってうまくいくとは限らないのが人生なのだが・・・・
 
「おっと・・。」
 棚の本に伸ばした手が横合いから伸びてきた誰かの手に接触し、大輔は反射的に引っ込めてしまう。それは相手も同様だったようで2人の視線がお互いの顔に釘付けになったまましばらく時間が経過する。
「・・・・・・・・・・・・・」
 我に返った大輔はもう一度本に手を伸ばし、その本を彼女に渡してやる。
「桂木さん、この本でいいの?」
「あ、ありがとう。」
 にっこりと大輔から本を受け取る綾音。よく観察すれば笑顔がぎこちなく見えるのだがあいにく綾音のリラックスした笑顔なんか近距離で見たことのない大輔にしてみればいつも通りの綾音である。
「なんか最近桂木さんとよく会うね。」
「え?ええっそうね、偶然ね。」
 偶然が聞いてあきれる。
 図書室で本を探す大輔の背後に音もなく近寄り、タイミングを見計らったように手を伸ばす少女。その少女を棚の影から声もなく応援するおそらく少女のお友達。
 そんな一種異様な光景の一部始終を目にして首をひねる草薙先輩こと忍は、別の本を手にして座席に戻る大輔に話しかける。
「早川君・・・最近誰かにいつも見られてるような感覚ってないかしら?」
 しばらく考え込むような素振りの後、大輔は言い切った。
「いや、別にないですね。・・・・・・・・どうかしたんですか草薙さん?」
 机に突っ伏してしまった忍を大輔は不思議そうに見つめる。
 忍はがばっと起きあがり、両手で大輔の両肩を掴んだ。そしてそのままがくがくと揺さぶりながら忍は大輔に向かって力説する。
「早川君、合気道は自分の身を守るための技なの。悪いことは言わないから合気道部に入部しなさい。あなた、あまりに無防備よ。」
「言ってることがよくわかりませんが、ちょっとクラブには入れない事情があって・・。」
「・・・・まあ、危害はないでしょうけどね。」
 何となくほほえましい思いで忍は目の前に座る後輩に呟くのであった。
 
 一方、図書室から借りたくもない本を抱えて教室に戻った綾音はみどりと机を挟んで話し合っている。
「みどりちゃん、さっきの行動にどういう意味があるの?」
「意味なんてないわよ。」
 綾音はぱちぱちと瞼を上下させ、きょとんとみどりを見つめる。
 そしてその態勢のまま約十秒が経過した。
 みどりは、にこにこと屈託のない笑顔を見せつつ、綾音はなんで本を振りかぶったりするのだろうなどとのんきに考えていた。
 ・・・・・とりあえず一言だけ言わせてもらいたい。
 −本は大切に扱いましょう。特に図書館の本は・・・
 
 くどいようだが屈託のない笑顔であった。屈託のない笑顔に絆創膏が貼られていた。
 その向かい側に座る綾音の顔は、みどりとは対照的に胃に穴でもあきそうな表情である。事実この瞬間にも2,3個の穴があいているかもしれない。
 この二日間大輔の後をつけまわし、廊下でぶつかったり、同じ本に手を伸ばしたりしたことを今さらのように恥ずかしく思い出す。
「綾音ちゃん、ああいうお約束ってやっぱり恥ずかしい?」
「あ、た、り、ま、え、よ!」
 綾音とは対照的ににこにこと笑顔のみどり。
「でも、早川君と普通に話しかけたりするのは平気になったよね?」
 えっ?といった表情でみどりを振り返る綾音。
「こういうのって周りが頑張るよりも本人の勇気が一番だからね。」
「みどりちゃん・・・・。」
 自分を見つめる綾音から視線をそらすと、みどりが頭をかきながら照れ隠しのように言葉を続ける。
「まあ、いろいろ笑わせてもらったし頑張ってね綾音ちゃん。」
 逃げるみどりを追いかけながら綾音は久しぶりに心おきなく笑った。
 
 などとハートフル(?)な物語が進行している一方で、大輔はなかなかつらい思いをしていた。 
 目の前に顔を真っ赤にしてスカートを押さえながら大輔を睨みつけるのぞみがいた。
 非常に空気が重かった。
 幸か不幸か辺りに人影はない。誰が悪いというわけでもなく強いて言えばこの場に居合わせた大輔の運が悪いのであるが、気まぐれな風のために放課後のぞみの買い物の荷物持ちを余儀なくされた大輔にしてみれば声を大にして叫びたいところである。
『見えてない!』と。
 
「いつもより余計に買ってんじゃねえよ。」  
「なんか言った?」
 大輔の前を足取りも軽やかにのぞみが歩いている。
 その後ろを袋が張り裂けんばかりの大荷物を2つ抱え、大輔がぶつぶつとのぞみに聞こえない声量で文句を言い続けながらよたよたと歩いていた。
「何処まで運ばすつもりだ?」
「あんたの家の台所までよ。」
 不思議そうに立ち止まってしまった大輔を振りかえるのぞみ。
「おばさんから何も聞いてないの?」
 玄関先でみさきがのぞみを出迎えた後、台所でのぞみとみさきが楽しそうに夕飯を用意するのを眺めながら、そういえば両親が今日はいないとか言う話を聞いたような気がするなあなどとぼんやりと大輔が考えているとのぞみの怒声が飛んだ。
「大輔!ぼんやりしてないで食器ぐらい並べなさいよ!」
 今日は厄日に違いないと思いながら大輔はのろのろと立ち上がった。
 食事の後、早々に部屋に戻り寝ころんでいるとドアがノックされた。
「大輔、入るわよ。」
「返事する前に入ってくるなよ。」
 のぞみは何も言わずに椅子に腰掛けながら大輔をじっと見つめる。
「大輔、あんたさあ私に何か隠してることがない?」
「のぞみ、人間というのは他人に隠し事を持って初めて人間となるのであって・・・」
 大真面目な顔で身振り手振りを交えながら力説する大輔に対してのぞみは机の上の消しゴムを投げつけた。
「ふざけてんじゃないわよ!」
 どうやらのぞみを煙に巻こうとした大輔の試みは失敗したようである。大輔は寝ころんでいた身を起こすと改めて口を開いた。
「のぞみ、実は小学生の時おまえの上履きを隠したのは俺だったんだ・・・・」
 突然視界が暗転し、綺麗な星がまたたいた・・・・。
「くう、ラリアットとはまた通な技を・・・・。」
 この期に及んでもへらず口を絶やさずに顎をさする大輔を見て、のぞみはため息をついた。
「あんた昔からそうよね。何があっても知らん顔して、欲しいものがあってもそんな素振りも見せないでさ・・・ま、いいわ。何を隠してるかは知らないけど、自分が大切だと思う人ぐらいには伝えた方がいいんじゃないの?とりあえず私はあんたにとってどうでもいい存在みたいね・・・・」
 そういいながら、部屋から出ていくのぞみの横顔は寂しげに見えた。
 その晩、大輔の部屋からのぞみの部屋の電気が遅くまでついているのが見えた。
 
 実力テストの結果が張り出された掲示板の前で大輔は綾音から話しかけられた。
「また負けちゃったわね。」
「んー今回は運が良かったから・・・おーいのぞみ。どうだった?」
 大輔はのぞみの姿を見かけ声をかけたのだが、のぞみは大輔達からぷいと顔を逸らして立ち去っていく。
「早川君、最近広瀬さんとなにかあったの?」
 綾音が心配そうな顔で大輔をのぞき込む。
「ちょっとけんかしちゃってさ・・・まあいつものことだよ。」
 にっこりと笑いかけながらそういいながらも、もう一週間ほどのぞみとまともに口をきいてない事実に大輔は自分の言葉を信じることができなかったのだが。
 大輔と別れて綾音は自分の教室に向かおうとし廊下を歩きだした。しかし、2・3歩も歩かないうちに綾音は後ろから声をかけられた。
「桂木さん、ちょっと時間あるかな?」
 どことなく棘のある言葉に綾音は首を傾げながらも振り返った。
「あら?広瀬さん・・・いいけど。」
「ここじゃなんだから屋上に行きましょ。べつにかまわないでしょ?」
 綾音の手を取って歩き出すのぞみは、綾音の知るのぞみとは別人のような雰囲気を漂わせていた。
 のぞみの雰囲気とは裏腹に心地よい風と陽差しに包まれた屋上はのどかさに満ちあふれていた。のぞみは気だるげに手すりに身体をもたれかけさせると、くるりと綾音の方を振り向き何気ない口調で口を開いた。
「桂木さん、最近大輔と仲がいいみたいだけど大輔のこと好きなの?」
 ちょうどその時雲が太陽を横切り、それまでの明るさに慣れた綾音の目には突然電気を消されたように感じる。
「それが・・広瀬さんに何か関係あるの?」
「ないわ。でももしそうなら大輔には近づかない方がいいわよ。」
 理由はわからないが、自分に対してよくない感情を抱いているとしか思えないのぞみの振る舞いに温厚な綾音も少々むっとして言い返した。
「ごめんなさい、はっきり言ってくれないと私にはよくわからないわ。」
「私は親切で言ってあげてるつもりだけど。あなただって悲しい思いはしたくないでしょう?」
 のぞみが綾音を小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「特に用がないなら私教室に帰るね・・・。」
 踵を返し、屋上から出るドアを開けた綾音の背中に、のぞみの声が浴びせられる。
「後二週間もすればわかるわよ・・・。」
 綾音は後ろ手に屋上へのドアを閉めながら、のぞみの行動と寂しそうな声のどちらが彼女の本心なのだろうかと考えながら階段を降り始めた。
 
 トン、トトンと綾音の指が鍵盤の上をリズムよく叩き続ける。
「二週間後・・・・・何が起こるんだろ?」
 のぞみの真意はともかく、少なくとも嘘を言ってるようには見えなかった彼女の様子を思い出しながら綾音は呟く。
 注意がそがれたせいでミスタッチしてしまい、綾音は大きくため息をつき伸びをした。
 ふと、人の気配を感じてそちらを振り返るとちょうど戸口から顔を出した大輔と綾音の目があった。
「こんな遅くまで誰がいるんだろと思ったら桂木さんだったのか・・。」
「早川君こそクラブにも入ってないのにどうしてこんな遅くまで残ってるの?」
 大輔は、少し考えるような素振りを見せ答えた。
「冴子先生に呼び出されてね、・・・進路のことで。」
「気が早いのね、まだ二年生になったばかりなのに。」
 そうだね、といいながら大輔はピアノの鍵盤を人差し指で叩く。思っていたよりも強い鍵盤の抵抗にあい、大輔は驚きを顔に出す。
「結構力がいるもんだね・・・知らなかったよ。」
「ふふふっ、もっと強く叩かないと大きな音は出ないわよ。」  
 笑いながら綾音は本当に自然に大輔の手に自分の手を添え鍵盤の上に導く。反対に身を固くした大輔を感じて初めて自分の行動に気が付いたぐらいである。
 実際にはほんの一瞬のことではあるが、2人にとってはかなり長く感じた時が過ぎ綾音の指に誘われ大輔の指がたどたどしく鍵盤の上を滑り出す。
「なんていう曲?」
「初心者のための練習曲で『おはようカノン』っていうのよ。」
 何気ない会話を交わしているが、2人の手はじっとりと汗ばんできている。指先から感じ取れるお互いの鼓動が徐々に互いのリズムに近づき、その鼓動を同じくさせたその時である。
「あっやっねちゃーん。おっまったせー。」
 ガーン!(ちなみに効果音ではなく不協和音が鳴り響いた音ですんでよろしく。)
 何となく硬直している大輔に、心なしか下唇をきゅっと噛みしめて自分を恨めしそうに見つめる綾音。
 放課後綾音と一緒に帰る約束を果たしにやってきた自分は何か悪いことをしたのだろうかと、通常の3割程度の思考力で思い悩むみどり。
 しかし、理由はどうあれこの局面をどうにかするためにみどりは何かをしなければいけなかったのである。
「お、お呼びでない?」
 失礼しましたー、とばかりにドアを閉めその場から何も考えずに全速力で離れるみどりの足音が聞こえなくなった頃、大輔がぽつりと呟いた。
「帰ろうか、桂木さん。」
 どことなく虚ろな表情で綾音は頷いた。
 
 帰り道。
 大輔は動揺していた。先ほどのアクシデントのせいか、楽しげに隣を歩いている綾音を妙な具合に意識してしまうのである。
 あのみどりの反応からして、そういう関係かと勘違いされたんじゃないかなーとか、綾音相手なら勘違いされてもいいかなーとか、浮ついた考えが頭の中にみっしりと充満していた。要するに地に足がついてないわけだこれが。
 多分そのせいであろう、会話がとぎれ不思議そうに自分をのぞきこむ綾音に向かってこんな事を言ってしまったのは。
「月末の日曜に、どこか遊びに行かない?」
 言った瞬間大輔は激しく後悔していた。
 −あほか俺は!桂木さんが俺の誘いなんか受けるわけねーだろが!−
 と内心悶えまくる大輔をよそに、当の綾音はぱあっと顔を輝かせ拍子抜けするほどにあっさりとOKする。
「ええ!いいわよ。・・・・それで何処に行くの?」
「え?・・・・・・・・・・・・・・・・水族館なんてどうかな?」
 さくさくと待ち合わせ時間が決まり、見るからに楽しそうな綾音の様子にまあ彼女が喜んでくれたからいいかと大輔はとりあえず現実として受け止めることにした。
 もう少しでバス停にたどり着こうというところで、綾音がふと思い出したように大輔に向かって尋ねる。
「早川君、二週間後に何かがあるとかいう話知らない?」
「二週間後?」
 どっくん。
「さ、さあ?なんのことだか・・・・」
「やっぱり早川君もわかんないよね、なんか広瀬さんがそんなこと言ってたんだけど。」
 どっくん、どっくん。
「あ、俺ちょっと用事思い出しちゃった。ごめん桂木さん、俺先に帰るね。」
「え?うん。」
 自分の質問が大輔のどきどきハートのゲージを振りきらせてしまったことに気が付かない綾音は、あっけにとられ大輔の後ろ姿を見送るのであった。
 
「私、誰にも転校のこと話してないよ・・。」
「そうか、・・・・とすると。」
 みさきが帰ってくるなり、聞いてみたのだがどうやらみさきではないようだ。
「ごめんねお兄ちゃん、私のせいで・・・。多分のぞみお姉ちゃんはおにいちゃんから直接聞きたかったんだと思うよ。」
 うなだれるみさきの頭をゆっくりと撫でてやりながら大輔は慰めてやる。
「みさきのせいじゃないよ、みんなに転校のことを話さなかったという行動はあくまで俺自身の責任なんだから・・・。みさき、おまえにも直接話さなければいけない友達がいるんじゃないのか?俺の失敗をみさきが生かしてくれたら俺はそれでいいよ。」
「うん・・・ありがとうお兄ちゃん。」
 
 次の日。
「早川、おまえ転校するっんだってな?」
「やなぎさわあっ!おまえがはんにんかあっ!」
 わけもわからず屋上まで引きずられていく修一の疑いは2分後きっぱりと晴れた。
「柳沢君、ズボンにほこりが付いているよ。」
 と自分がつけた汚れを卑屈そうにはらってやる大輔を冷たい視線で眺める修一。一通り修一のズボンを綺麗にしてやった後、見たくもない空を見上げる大輔の背中にちくちくとした視線がつき刺さる。
「人類の歴史は間違いの積み重ねといっても過言ではないよなあ・・・」
「・・・・・言いたいことはそれだけか?」
「会話というコミニケーションの手段が完全なものであるならば、それ以外の手段は発展はおろか現在まで生き残ることはできなかったと思わないか柳沢君?」
「ごちゃごちゃぬかすなあっ!」
 うん、暴力はいかんよ暴力は。
 二昔前のドラマならここで友情が芽生えたりするんだろうが、元々友人同士の2人の間にできたのはお互いの顔の傷だけだったようである。
 
「なるほど・・・最近広瀬さんがおかしかったのはそういうわけか。」
「多分どこかから俺の転校のことばれたんだろ・・・・。」
 お互い傷だらけで授業に出るわけにもいかず、保健室で顔の腫れが引くまではさぼることにした大輔と修一の会話がひそひそと響く。
「早川、おまえ広瀬さんの気持ちわかってるんだろ。だったらさ・・」
 修一の言葉を大輔が手で制する。
「おまえは・・俺とのぞみがくっついてほしいのか。」
「・・・・・・・・」
 黙ってうつむいた修一に、大輔は言葉を続ける。
「俺もいろいろ考えたんだけど、のぞみは俺にとって幼なじみでしかないよ。ただあまりに近くにいたから肉親に対する愛情のようなものはあるけどそれ以上の感情はない。」
 ぽんと修一の肩に手を置き大輔は笑う。
「だから、これからが君の腕の見せ所という訳よ・・ま、がんばんな。」
「い、言ってる意味がよくわからないな!」
 この期に及んできれないしらをきろうとする修一であった。
 
 何気ない会話を交わして走り去っていくおさげ頭を見送ると、綾音が入れ替わりに話しかけてきた。おそらく遠慮していたのであろう。
「さっきの女の子って早川君の知り合いなの?確かテニス部で見かけたような気がするけど・・・?」
「え?ああ、妹だよ。みさきっていうんだ。」
 みさきの去っていく方角を眺めて綾音は目を見開いた。
「え?あの女の子が早川君の妹さんだったの。・・・かわいいこね。」
 なんと答えていいものかわからない大輔はただ曖昧に頷いた。そんな大輔の顔に綾音は目をやると頬の辺りに手を伸ばした。
「顔の腫れがもうわかんなくなちゃったわね・・最初はびっくりしちゃった。」
「・・・柳沢とふざけるんじゃなかったよ、あいつにも悪いことをした。」
 大輔と修一は2人がふざけてて階段から落ちたとみんなに説明していた。
「とかいって案外2人でけんかでもしたんじゃないの?」
「俺はともかく、柳沢が他人に恨まれるとは思えないな。」
 笑いながら頷く綾音に、俺に対してのフォローはないんですかと心の中で綾音につこっみをいれる大輔であった。
 
 キャンバスに向かって早1時間。のぞみの心を映すかのようにいろんな構図の線がいくつも走り、その中の一本の線が見いだせずにのぞみは手をおいた。
 いらいらと落ち着きのない様子ののぞみ。
 突然自分のスカートを遠慮がちとはいえ誰かの手に引っ張られ、のぞみはいらただしげに振り返った。振り返ったのぞみの目が大きく開かれ、口からつぶやきが漏れた。
「みさきちゃん・・・・・。」
 そこには黙ったままのぞみのスカートを掴んで離さないみさきが立っていた。
「みさきちゃん・・・・どうしたの?」
 うつむいたままでのぞみから視線をそらそうとするみさきの姿に、久しぶりに優しい気分を喚起されのぞみは優しくみさきを促した。
「何かあったの?みさきちゃん。」
 それを受けて重かったみさきの口が開いた。
「ごめんのぞみおねえちゃん、私がお兄ちゃんに頼んだの。転校のこと誰にも言わないでって。だからお兄ちゃんが悪いんじゃないの、私が、私が悪いの。」
 まだなにか言いたげなみさきの頭が、ゆっくりとのぞみの胸元に抱えられる。
「そんなことだろうとはわかっていたんだけどね・・・」
 のぞみの声がとぎれ、ぽたぽたと何かが続けてみさきの頭に落下してくる。
「・・・でもね、それでも私は大輔から、大輔から直接聞きたかったの・・・。大輔にとって私が特別な存在であって欲しかっただけなの・・・それだけなのよ。」
 みさきを抱える両腕に力がこもるが、みさきは抵抗するでもなくのぞみのしたいようにさせたままでいた。
 しかし、自分の頭を抱え涙を流し続けるのぞみに触発されたのか、みさきものぞみの背中に両腕をまわしてのぞみの制服の胸元をぬらし始める。
「のぞみおねえちゃん・・私本当は今でも転校したくない!おねえちゃんやみんなと離れたくないの。もしかしたらお父さんが転校しなくてすむぞって言ってくれるんじゃないかって、だからみんなに話すと絶対に転校しなきゃいけなくなるような気がして・・・。」 このときのぞみとみさきの2人には、美術室の外で息をのみ立ちつくす少女がいたことに気が付くはずもなかった。
 少女はやがて取り落とした自分の鞄を拾い上げると、何事もなかったようにその場を静かに立ち去った。
 
「みさきちゃんと2人で帰るなんて久しぶりね・・・。」
 お互い人前には出られない顔だったのでいろいろしているうちに遅くなってしまった。のぞみにとっては通い慣れた、みさきにはまだ目新しい帰り道を2人で帰る。
 口を開くと言わないでいいことがあふれそうになり、本当にぽつりぽつりとした会話を繰り返す。やがて、家の近くまでくるとのぞみがみさきの方を振り返る。
「みさきちゃん。大輔に今日のこと喋ったら刺すからね。」
「のぞみおねえちゃん、笑いながら言う台詞じゃないよ・・・でも本当にそれでいいの?」
 みさきはのぞみのこんな表情を初めてみたように思う。
 悲しそうでいて寂しそうな、それでいてどこか微笑んでいるような不思議な表情だった。
「私にも・・・まあいろいろあるから・・。」
 そう言い残して玄関のドアを開けるのぞみの後ろ姿をみさきはただ見送るだけしかできなかった。
 
 −なんか1人で帰るのは久しぶりのような気がするなあ。−
 最近の帰り道はほとんど桂木さんと一緒だったせいか、大輔は何か物足りない気分で歩いていた。
 今日は誕生日だというのに寂しいもんである。家に帰っても荷物の整理ぐらいしかやることがない。自分の部屋の段ボールを見ると転校という現実に直面せざるを得ず、あまり真っ直ぐ帰る気はしないのだがそうもいかない。なぜなら、一週間後に引っ越しを控え荷物の整理を急がなければいけない時期がきているのだから。
 一つため息をつくと、仕方なさそうに大輔は歩調を速めた。
 味気ない帰り道の終点間際、大輔は家の前にたたずむ人影を認めて目を凝らす。大輔より先に人影が大輔を認め駆け寄ってきた。
「早川くーん、今日誕生日でしょ。学校で渡せなかったから先回りしちゃった。」
 ぺろっと舌を出す綾音の顔を見てふいに、自分が転校することを知ったら彼女はそれをどう受け止めるのだろうと言う思いが大輔の胸に去来する。
 リアクションのない大輔の態度に綾音がたじろいで不安そうに口を開く。
「ひょ、ひょっとして迷惑だった?」
「え?ああ違うそんなわけないよ!嬉しかったもんでつい黙っちゃって。」
「そう?よかった。」
 本当にこれを渡すためだけに逆方向のここまできたのであろう、そそくさと帰っていく綾音を温かい気持ちで見送りながら大輔はある疑問を感じた。
 −なんで俺の家を知ってるの?−
 
 放課後の音楽室で1人演奏を続ける綾音をきりのいいところで迎えにくる大輔。そんな日が続いていたせいか、綾音は物音の主を当然のように大輔だと思い笑顔で振り返る。
「ごめんね、大輔じゃなくってさ・・。」
 自分の姿を認めて綾音の顔から笑みが消えたのを見て、のぞみは入り口のドアにもたれながら冷ややかに呟く。
「昨日は大輔の誕生日だったものねえ・・・できれば私の家の玄関先でああいうことしないで欲しいわ。でもおあいにくさま、残念だけど大輔からおかえしは貰えないわよ。」
「別に早川君のお返しが欲しくてプレゼントした訳じゃないから・・・。」
 真っ直ぐにのぞみをとらえてはなさない綾音の視線にのぞみは訳もなくかっとし、抑えきれない衝動がこみ上げる。
「知ってる?・・大輔は来週転校するのよ。」
 そう吐き捨てるように言い捨て、のぞみは綾音の様子をうかがう。
 しかしのぞみの意図とは違って、綾音の顔には悲しみの感情が伺えるだけで、驚きの感情は認められなかった。
「何よその反応?・・・・なんで?・・・驚かないの?なんでよ?」
 ふらふらと綾音に近寄るのぞみの顔に突然朱がさした。
「はは、あははははっ。なーんだ知ってたんだ。・・・そうよねえ、仲良しだもんね!大輔に教えてもらったんでしょ!いいわね、自分だけ教えてもらっていい気分でしょ!」
 何かが壊れてしまったかのようにヒステリックに叫び続けるのぞみに駆け寄り、綾音がのぞみの身体を揺さぶりながら呼びかける。
「ちょっと、広瀬さん!大丈夫?しっかりして!」
 そんな綾音の手を振り払ってのぞみは叫び続ける。
「あんたなんかに心配されたくないわよ!なんで?なんでよ?どうしてあなたなの?どうして私じゃないのよ?ねえどうして?どうしてなの大輔?どうして・・」
 乾いた音が音楽室に響いた。
 左の頬を押さえて呆然と綾音を見つめるのぞみ。
 綾音は泣いていた。といっても頬を伝わる液体がのぞみにそう認識させただけで、口調や表情はやや固いものの普段通りにのぞみの目には映った。
 ただ、それだけにのぞみにとって綾音の気持ちが痛かった。
「・・・・・私は、偶然あなたと早川君の妹さんの会話を聞いただけよ。」
 綾音の視線が床に向けられたのは一瞬で、すぐにのぞみの顔の方にに向き直り綾音は、言葉を続ける。
「それよりどうして早川君を責めるの?広瀬さんより転校する早川君の方が悲しいに決まってるじゃない。お別れを言わなきゃいけない早川君の方がつらいに決まってるじゃない。誰よりも彼のことを知っているあなたがどうしてわかってあげられないの?」
 何かを押し殺したような綾音の言葉がとぎれると、音楽室を支配していた狂乱は去り、代わりに沈黙がおとずれた。静寂の中で2人の呼吸する音だけが響く。
 やがてその呼吸音も小さく静かになっていき、のぞみが口を開いた。
「桂木さんは、大輔が何も言ってくれないことがつらくないの?」
「ちょっとね・・・でも大切に思う人ほどさよならは伝えにくいから。そう自分をごまかして我慢してる。」
「強いのね・・・。」
 綾音は静かに首を振る。
「そんなんじゃないの、私転校したことあるから・・・。早川君の気持ちが少しだけわかるの。ただそれだけよ。」
 のぞみがため息を1つつく。
「私、素直には言えないけれど・・・ごめんね。」
 そう言って立ち去ろうとするのぞみの背中に綾音の声がかけられる。
「今度広瀬さんの知ってる早川君の話聞かせてね。」
 それを聞くとのぞみは振り返って舌を出した。
「ライバルには教えてあげない!」
 明るくはずむようなのぞみの口調に綾音は苦笑いしつつ、安堵のため息をはいた。
 
 カーテンを開けるとまぶしいくらいの陽差しが目をくらませる。この街での最後の休みはとてもいい天気で、大輔の目には少しだけ悲しい色に見えた。
「待ち合わせは11時だったっけ?」
 荷物がほとんど整理されがらんとした室内に置かれた時計。その秒針の動きがいつもより早く動いているように見えた。
 身支度を終え、かなりはやめに大輔は家を出ようとした。待たせるのが嫌だったのとゆっくりと周りの景色を眺めていたかったからだ。
 玄関に腰掛け、靴ひもを結んでいると静かにドアが開けられた。
「もう、荷物は片づいたの?」
 何気ない口調。
「・・・・・・・ああ。部屋の中なんか殺風景なもんだぜ。」
 2人だけの空間にいつのまにか沈黙という名の第三者がわって入った。大輔は靴ひもを結び終えると顔を上げ口を開いた。
「のぞみ。」
「・・・・・何よ。」
「俺転校するからな。明日学校行ってその足で引っ越し先に・・・・・・帰る。」
「そう・・・あんたの帰る場所はこの家じゃなくなっちゃったんだ・・・。」
 のぞみは初めて寂しそうな表情を浮かべて、玄関から廊下の方へと視線を泳がせた。
 やがて大輔が立ち上がると、のぞみは自然と後ずさり入り口を塞ぐような形になる。
「・・・のぞみ?俺は外に出たいんだが。」
「大輔、あんた幼なじみに今までの感謝の気持ちとして今日一日どこか遊びに行こう位のことは言えないの?」
「すまん、今日は先客があってな。」
「桂木さん?」
 のぞみは大輔が顔を赤らめるのを見て笑った。
「へえ、あんたでもそんな顔するんだ。知らなかったわ、ずっと幼なじみしてきたけどあんたのそんな顔初めて見た様な気がするわ。」
「・・・・悪いか?」
 ばつが悪そうに顔を背ける大輔の方にのぞみは身体を預けてくる。
「え?お、おいのぞみ。」
 のぞみを抱きしめるわけにもいかず、大輔は両腕を所在なげに宙に浮かしたままのぞみに話しかける。
「ごめん、もうちょっとでいいからこのままいさせて。」
 もうちょっとというのがどれだけの時間かよくわからないが、台所・居間・階段の踊り場の3カ所から時を同じくして咳払いが聞こえてきたところからだいたい一分ぐらいが世間の相場であるようだ。
 2人とも顔を赤らめてお互いから離れた。
「ここがあんたの家の玄関ってこと忘れてたわ。」
「お互い様。・・・ところでのぞみ、おまえ誰から転校のこと聞いたの?」
「え?あんたのお母さんよ。」
 大輔は何となく疲れた表情で台所の方を振り返った。
 
 久しぶりに見たのぞみの笑顔に見送られ、待ち合わせ時間より半時間ほど早く待ち合わせ場所についた大輔だったが、綾音は大輔より一枚上手だったようだ。
「早川君、まだ待ち合わせ時間には早いわよ?」
「じゃあ、桂木さんはなぜここにいるの?」
「なぜかしら?・・早川君が早く来た理由が私のと同じだったら嬉しいな。」
 くるりと大輔に背を向けながら綾音が呟いた言葉を聞き逃し、大輔は、慌てて聞き返してしまう。
「え?何?聞こえないよ。」
「何でもないの。ちょっと早いけど行きましょ。」
 
 まんぼうのうつろな目。
 よくわからないこだわりをみせる大輔を伴って、ケーキ屋さんで綾音はちらちらと大輔の表情をうかがう。
「ねえ、私と一緒にいて楽しい?」
「もちろん。楽しくないならここにいるわけがないだろ。」
 大輔の答えを聞いて、綾音はストローの袋を指先でもてあそびながら続けて大輔に尋ねる。
「この後ちょっと行ってみたい場所があるんだけど、早川君別にかまわないよね?」
 綾音にそう言われ、林を抜けたところにある高台にたどり着いた。
 大輔が長年暮らした街が一望できた。
「こんな場所があったんだ・・・。」
 この街にはまだまだ自分の知らない場所がある。そんな思いが自然と口をついて出る。
 大輔が腰を下ろすと、綾音も同じように腰を下ろした。
 しばらく言葉もなく眼下の風景に見入っていた大輔の隣で、綾音が唐突に口を開いた。「私、小さい頃転校したことがあるの。」
 綾音は急に振り向いた大輔を気にするでなく、ただ街を見下ろしながら話し続ける。
「みんなと別れるのが嫌でね。またそのことをみんなに言わなきゃいけないのがもっと悲しくてね・・・・」
 大輔は綾音の表情をうかがったが、綾音の様子には特に変わったところはなく淡々と喋り続けているだけのように見えた。
「・・・それでこの街に引っ越してきて、やっぱり最初はなじめなくて泣いてばかりいたの。そんなときよ、この場所を見つけたのは。それからかな、この街が好きになってだんだん周りにとけ込めるようになったのは。」
 自分の感想を求めているようでもない綾音から大輔は再び視線を街へと戻した。そうすれば彼女の見ているものが見えるかもしれないと思ったからだ。
「・・・・だから私はつらいことや悲しいことがあるとこの場所に来るの。」
「桂木さんは今つらいことや悲しいことがあるの?」
 思わず口を挟んでしまった大輔の言葉に綾音は目をつぶって静かに肯いた。
「ひょっとして今日つまんなかった?」
 綾音は首を横に振って答える。
「ううん、今日はすごく楽しかった。・・・だから余計に悲しいのかもしれない。」
 どうして?という言葉をやっとの思いで飲み込む大輔。このとき大輔は初めて自分の気持ちを自覚した。
 2人は黙ったまま夕日が地平線に近づいていくのを眺めていた。
「ひょっとして桂木さんは・・・・・・」
「何?」
「・・・・・・何でもない。」
 日が地平線へと沈み始め、風が吹いてきて肌寒さを感じたのか綾音がぶるっと体を震わせる。
「冷えてきたね・・・そろそろ帰ろうか。」
「うん・・・・。」
 綾音は大輔の声に従い、立ち上がった。そして高台から立ち去る前に一度だけ振り返り沈もうとする夕日をもう一度みつめその場を後にした。
 
 もう今日限り袖を通すことのない制服、もう二度と帰ってこない家、もう二度と通うことのない並木道、そして最後の授業が始まり、最後の授業が終わった。
 −この一ヶ月何かやり残したことはなかっただろうか?あるとしたら多分それは自分が一番大切に思う人に真実を伝えられなかったこと・・・・でも、まだ遅くはないかもしれない。−
 足は自然と音楽室に向かっていた。
 音楽のことは良くわからないけれど、明るくはずむようないつもの音色と違って、今日は悲しい音色に聞こえた。
 大輔が見つめる先には、一心に鍵盤に指を踊らせる綾音の姿があった。
 そうしていつものようにきりのいいところで演奏がやみ、・・・・いつもと違って綾音はうつむいたままであった。
「もう、俺の転校の話は聞いた?」
 大輔は顔を上げようとしない綾音に話しかけた。
「・・ってたから。」
「え?」
「私、前から知ってたから・・・。」
「やっぱりそうか・・・・。」
 再び綾音の指が鍵盤の上を滑り出す。大輔の言葉を遮るように、拒否するようにピアノの音が音楽室を包み込む。
「桂木さん。」
 演奏をやめない綾音には聞こえないのかと思って大輔は声を張り上げる。
「聞いてくれ、桂木さん!」
 大輔に抵抗するように激しく鍵盤を叩き続けていた綾音の指が不協和音を響かせ静止する。綾音のどことなく虚ろな瞳には大輔の姿が映っているのかどうか疑わしい。
「だめね、私って。広瀬さんに偉そうなこと言って、いざとなるとやっぱりどうして自分に教えてくれなかったのかなんて考えちゃうもの。昨日だって・・・」
「桂木さん!」
 大輔の横をすり抜け、音楽室を飛び出し走り去る綾音。
「廊下は走っちゃだめ!」
 廊下に出て追いかけようとした大輔の腕をがっしりと掴んではなさない千春。
「春日さん、ごめん。」
 大輔は千春の眼鏡を取り上げ、壊れないように窓枠にそっと置いた。
「え?ええっ?」
 横山やすしよろしく眼鏡を探してその場をうろつく千春を後目に大輔は綾音の姿を探して高台に向かって走り始めた。
 
「桂木さん・・・。」
「あ、早川君?・・・どうして。」
 後ろから大輔に声をかけられ、目元をふきながら綾音は振り返った。
「桂木さん言ってたじゃないか、悲しいことがあるとここに来るって・・。」 
 うつむいてしまった綾音に向かって大輔が口を開く。
「桂木さん、聞いて・・・」
「いや!今になって言うぐらいならどうして昨日話してくれなかったの?」
 綾音の言葉が大輔の胸をえぐる。昨日この場所で言いかけて言えなかった言葉。あのとき自分は、何故彼女に伝えることをためらったのか?
「違うんだ!昨日話さなかったのは、君の悲しむ顔が見たくなかったから・・・。俺にとって大切な人に・・・楽しい気分のままで一日を終わって欲しかったんだ。でも、結果的に君を悲しませることになってしまったようで・・・ごめん。」
 綾音がおずおずと顔を上げる。
「早川君にとって大切な・・・・人?」
 大輔は息を大きく吸い込んだ。
「俺、桂木さんが好きだ。見境なく自分の気持ちをぶつけるのはわがままだってわかってる。それも転校してしまう自分なんかに告白されても迷惑なだけだってわかってるんだけど・・・言わずにはいられなくて・・・。」
 吸い込んだ息を全部吐き出すかのように自分の気持ちを吐き出してしまい大輔は思わずうつむいてしまう。今、彼女はどんな顔をしているのだろうか?
 うつむいた大輔の顔を綾音の両手がはさみこみ、静かに持ち上げる。
「迷惑なんかじゃないよ・・・私嬉しい。だって私も早川君のこと、多分早川君のずっと前から想ってたから。」
 夕暮れ前特有の優しい風が吹いた。
「でも、せっかく想いが通じ合ったのに離ればなれになっちゃうのね・・・。」
 大輔の手が綾音の手に重ねられ、ぎゅっと握りしめられる。
「戻ってくる。・・大学生になって戻ってくるよ。だから・・・」
 しばらくの沈黙。
 大輔の気持ちを確かめるように綾音の手が大輔の手を握り返してくる。大輔はそれに応えるように綾音の手を強く、それでいて綾音に痛みを与えないように包みこむ。
「ほんと・・・信じていいのかな?」
 大輔はただ黙って、綾音の小指と自分の小指を絡ませた。
「うん・・・私、待ってるから。・・だめなら私が行く。」
 夕日に照らされた長い影が1つにとけあい2人は固く誓い合った。
 
「のぞみさん。大輔君から手紙きたわよ。」
「ちぇっ、大輔ったら綾音にはまめに返事出すのね・・まあ、仕方ないか。」
 のぞみは綾音が見せてくれた手紙を読む。
「ふん、汚い字だけど元気でやってるようね・・・しかし大輔ったらまだ『桂木さん』なの?あれ・・・綾音、この手紙途中できれてるけど・・・」
 綾音は顔を赤くしてもじもじと指先を絡め合わせている。
「あ、その先はちょっと・・・恥ずかしいから・・・ね。」
「あ、言わなくていい、みなまで言わなくて。」
 のぞみはぶんぶんと手と首を振る。が、いたずらっぽくにやりと笑う。
「ふーん、綾音の生徒手帳見せてくれない?」
 なんで?と言いかけながら綾音がつい自分の鞄に目をやるのを確認するとのぞみは手紙を指から滑らせ床にばらまく。
 それらを拾い上げようとした綾音がのぞみから目をそらした瞬間、のぞみが綾音の鞄に飛びつく。
「あ?のぞみさん!だめよ。」
 鞄を奪い合う2人の目にみどりの姿が目に入る。
「ちょっと!みどり(ちゃん)手伝って(助けて)!」
 みどりが綾音の片腕を抱え込むその隙をついて、生徒手帳が取り出される。綾音は自由な方の手を使ってのぞみの手から取り返そうとした時、手帳から一枚の写真がこぼれだす。
 いち早く拾い上げたのはみどり。
 再び乱戦の渦に巻き込まれたが、みどりの目には見たことのない制服に身を包んだ大輔が笑っている姿が焼き付いていた。
                              −完−
 
 

 ヒロインなのに地味、とか結構な言われようでしたが、私はこのゲームのキャラにはほとんどに対して好感を抱いてます。
 そういうわけでヒロインの綾音には王道を歩んで貰うことにしました。しかし、この話書いてるとのぞみに愛着がわいちゃって危なくヒロインが交代するところでした。(笑)
 それなりにボリュームもあって、それなりにまとまったお話になったと自分では思っているのですがどうでしょうか?ただ、ラストが余分だったかもしれません。(笑) 

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