「もう、夏休みになるとお寝坊さんがいて片づかないですの…」
 全員がお寝坊さんならそれはそれで……なのだが、お寝坊さんの時間の幅が大体2時間
程ある。
 大まかに分けると、夏休みに関係なく規則正しい生活をおくる春歌や可憐などのグループと、モデルの仕事などの都合で毎日起きてくる時間が変化する咲耶とただ単に生活が不規則な四葉などのグループ、そして誰かが声をかけないと自分の部屋で研究にかかりっきりになる鈴凛や、独特の生活リズムを持つ千影のグループの3つ。
 だもので長期休暇の間、朝食は簡単なモノですませることが多い……白雪にとっては、腕の振るい甲斐がないと言うべきか。
「花穂ちゃん、樹にお水をあげるから蛇口をひねってくれる?」
「はーい」
 規則正しい生活組である可憐と花穂の声が庭から聞こえてくる。
「行くよ、可憐ちゃ……きゃああっ!」
 プシャアアァァァッと、まるで蛇口をひねりすぎてホースが外れ、花穂がずぶぬれになったような……って、そのまんまだが。(笑)
「あう……朝からうるさいデス…」
 いかにも寝起きらしい様子で、四葉が瞼を擦りながら階段を下りてくる。
「えっと、四葉ちゃんは野菜ジュースですの?」
「んー……まず胃を起こすデスよ」
 眠そうな糸目のまま、野菜ジュースをつがれたコップを傾ける四葉。
「ひーなは元気、げんげん元気…」
 テレビを見ながら、雛子が怪しげな歌を歌い出す……『ああ、夏休み…』などとタイトルがぶら下がっていそうな夏休みの一風景といえよう。
「あふ…おはよ」
 眠そうな割には、髪をきちんと整えた咲耶が階段を下りてきた。パジャマ姿の四葉と違って、こちらはきちんと着替えをすませている。
 本人曰く、学生モデルとしてのたしなみではなく、愛するお兄様にはしたない姿を見られるわけにはいかないのだとか。
「咲耶さん、今日はお仕事の方は……」
「完全オフ……大体、こんな夏の日に秋物の服なんか着てられないわよ」
「まあ、もう秋物を……私なら絶対倒れます」
「咲耶ちゃんは何を食べるですの?」
「んーと……」
 咲耶はちらりと四葉を見てとりあえず同じモノを頼んだ。
「……今日も暑くなりそうね」
「そうですね…」
 ふと、それまで黙っていた千影が不思議そうに呟いた。
「おや、そういえば眞美ちゃんは?」
「……そういえば、今日はまだ見てないですの」
「クシシシ……ヒナが眞美おねーちゃん、起こしてくるね」
 とててて…と階段を駆け上がっていく雛子の姿を見送ると、鈴凛はゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、私はこれから寝るから……」
「鈴凛ちゃん、昨日もまた徹夜デスか?」
「ん…」
 そんな鈴凛の後ろ姿を、千影はじっと見つめている。
 鈴凛と入れ替わるように雛子が階段を下りてきた。
「眞美おねーちゃん、いないよ?」
「ベッドの下は?」
 雛子は首を振った。
 ちなみに『ベッドの下は?』という言葉は、ここに来てしばらく柔らかいベッドに馴染めずにいた眞美が床の上で寝ていたエピソードによるものであると補足しておく。
「むむっ!眞美ちゃんの靴が無いデス!」
「靴がない?」
 虫眼鏡を片手に玄関の隅から隅までチェキしている四葉の後ろから覗き込むと、確かに靴がない。
「……って事は、どこかにお出かけしてるんじゃないかしら?」
「あの眞美ちゃんが朝ご飯も食べずにかい?」
 
「ぶぇーっくしょいっ!」
「おお、ねーちゃん、おっとこまえなくしゃみじゃねえか」
「んー、最近いい天気で埃っぽいですからね……」
 指先で鼻を擦ると、眞美はヘルメットの顎紐を締め直して電動ドリル片手に地面に穴を穿っていく。
「……にしても若いねーちゃんが珍しいな、こんな仕事」
「どうも最近運動不足で」
「がっはっはっ、運動不足とはたいしたもんだ……おい、雅!このねーちゃんお前よりよっぽど力があるぜ」
「そりゃねーですよ……」
 などと工事現場で汗を流しているなどと千影達は知る由もない。
 ちなみに、眞美は夏休みに入ったからバイトを始めたのでない。夏休みに入ったから日中の間はずっとバイトをしようと思っただけである。
 これまでも、早朝や夕方にちょくちょくとバイトはしていたのである……生活費を入れようとして渉に怒られたというイベントも経験済みということでよろしく。(笑)
「おーし、ちっと早いが昼飯にすんぞ……こう暑いと、休むときは休まないとへたばるからなあ」
 現場責任者である監督の言葉は、眞美を気遣ってのことだろう。
 世間一般に荒々しい印象を持たれがちではあるが、この手の仕事に従事している人のほとんどは細やかな気配りがきき暖かい心根の持ち主である。
「麦茶、まわしまーす…」
 新入りの眞美が、麦茶とぶっかき氷の入ったヤカンを持って仕事仲間の弁当箱の蓋に注いで回る。
「あ、ちくわの天ぷらだ…」
 と、配られた弁当を嬉しそうに食べ始める眞美に、何人かは娘を見るような眼差しで唇のあたりをほころばせていたりする。
 ちくわの天ぷらをくわえたまま、眞美はふと空を見上げて呟いた。
「……こうしてると夏休みって感じがする」
 
 夕焼けに背中を押されながら、眞美は家路を歩んでいた。
「んー、工事現場はやっぱりこの季節よね。年度末の工事現場はどこか殺伐とした雰囲気があるし…」
 ここちよい疲労が身体を包んでいた……が、それはこの数ヶ月でちょいと身体が鈍っていることも示している。
「……1人で生きていくなら身体が資本だし」
 そう呟きながら、肩に手を当てて腕を大きく…
「…随分と寂しいことを言うんだね」
 腕を回しかけた状態のまま、眞美の身体が硬直する。
「前に言わなかったっけ、眞美ちゃんは家族だって」
「そりゃそーですし、みんなアタシによくしてくれますけど…」
 眞美は大きく息を吐き、腕を下ろした。
「最近ちょっと重荷に感じる時もあって…」
「……」
「アタシが家に帰るとみんながお帰りなさいって出迎えてくれて……それが嬉しいのと同時に、冗談じゃないってちょっぴり思ったりするんですよ」
 眞美は申し訳なそうな表情を浮かべ、言葉を続けた。
「本当の意味でのアタシの家族は……もう、いませんから」
 ひどく傷つけられたような表情を渉が浮かべている事に気づき、眞美はいささか戸惑う。
「ただ渉さんには知っておいて欲しかっただけですから、二度と口にするつもりはないです」
「……ふう」
 渉が大きく息を吐いたことで、漂い始めていた緊張感が完全にとまではいかないものの消えた。
「ところで眞美ちゃん。今日はどこに行ってたの?」
「あ、バイトです……道路工事の」
 それを聞いて、渉が少々呆れたように苦笑する。
「まさか、夏休みの間中ずっと?」
「……アタシが希望すれば」
 
「眞美おねーちゃん、真っ黒…」
 と、眞美の腕を珍しそうに雛子が見つめている。
 雛子が驚くのも無理はなく、小麦色……なんてレベルを超越した黒さ。
「いや、陽に焼けたワケじゃ……」
「雛子、濡れるから離れて……ほら、眞美ちゃん」
 千影が持つホースから水がこぼれ出した。
「バケツでざばーっとかぶった方が早いのに…」
「そうかい?じゃあ、頭から…」
 千影が遠慮なく水を浴びせかけると、汗でまとわりついた埃が洗い流されていく。
「千影ちゃん、ヒナも、ヒナも頭から!」
 何か楽しげな遊びだと勘違いしたのか、雛子が水を催促する……が、千影はそれにのらない。
「……今日は早かったんだね」
「思ったより進捗状況が良好で……後は、証明写真とかの作業だから昼過ぎに15日分のバイト料貰ってお払い箱」
 そう答えると、眞美はホースの水を手ですくってごしごしと顔を洗った。
「……」
「ど、どうしたの千影さん?」
「いや、別に……」
 眞美の目には一瞬千影の口元に微かな微笑が浮かんだように見えたのだが、今はいつも通りにすましている。
「シャワーでも浴びてきたらどうかな?」
「え、面倒だからこれでいいよ」
 ホースをTシャツの首筋に突っ込んで気持ちよさそうに水浴びをする眞美を見て、珍しいことだが千影はぽかんと口を開けて呆れかえっている。
「眞美おねーちゃん、ヒナにも」
 眞美はちらりと千影の表情を横目で窺う。
「んー、雛子ちゃんは別に汚れてないし、汗もかいてないから」
「……えい」
 雛子がいきなり止めるまもなく眞美の足下に寝転がった……もちろんそこは水でビチャビチャの土の上。
「クシシシ…はい、ヒナも汚れたよ」
 泥だらけにした顔から白い歯がのぞく。
「あーもう……仕方ないな、目をつむって」
 眞美は小さくため息をつき、雛子の頭を抱え込んでホースの水で泥を洗い流していく。
「わ、何か楽しそうなことやって…」
 こけ。
 可愛らしい擬音が聞こえてくるようなつまずきッぷりで天然をアピールする花穂を見て、雛子が嬉しそうに笑った。
「花穂おねーちゃんもまっくろ」
「ふえええ…」
 泥だらけになった白い服を見て涙目になった花穂の髪の毛を、眞美はくしゃくしゃっと掻き回した。
「泣かない、泣かない……洗濯すれば綺麗になるから」
 
 流麗に過ぎて見る者に冷たい印象を与えかねない千影だけに、考え事でもしているのか、少し眉根を寄せるだけである種の近寄りがたい雰囲気を漂わせる。
 いつもは人が集まっている居間に誰もいないのはそのせいなのか、それとも他に誰もいないから千影が相違タッ表情を見せているのかはわからない。
「……千影さん、どうかしたの?」
「ん……ああ、大したことじゃないんだけどね」
 そう呟くと、千影はちらりと窓の方に視線をむけた。
 時刻は既に10時を回っていて、外は闇の中にある。
「眞美ちゃんは……」
「え…?」
「鈴凛に随分と優しいね」
 言いよどむ眞美には構わず、千影は言葉を続けた。
「……夏休みの間、ずっとバイトを続けると思っていたよ」
 含むような視線を向けられ、今度は眞美は小さくため息をつく。
「夏休み中、鈴凛ちゃんが部屋の中に閉じこもるよりはマシだと思ってたんですけどね……」
「優しいな、眞美ちゃんは…」
「衣食住を与えられて……そのぐらいの気を遣わないと罰が当たります」
「ははっ、じゃあきっと私は地獄に堕ちるね……」
 千影の笑顔ははっとするほど暗かった。
「……家族である事って、そんなに苦労しなくちゃいけないモノなんですか?」
「兄くんがみんなの兄であるように……」
 千影は一旦言葉を切り、囁くように言葉を続けた。
「姉だからね、私は……」
 かつて春歌が呟いた言葉が眞美の脳裏に甦る。
「でも、渉さんにとっては千影さんも大事な妹でしょう」
「眞美ちゃんは時々残酷なことを言うね……」
 千影の視線がじっと眞美の顔に注がれる。
 ただ、千影の表情からは何の感情をもうかがい知ることはできない。
「眞美ちゃんは……犬は好きかい?」
「犬……ですか?」
 千影の瞳が閉じ、口調に何かを懐かしむような響きが加わる。
「私は……好きだよ。優しくされたら尻尾を振ればいい……そんな真っ直ぐな感情表現をとても好ましく感じることがあるよ」
「……」
「眞美ちゃんも、そんな風にははなれそうにないね」
 
「山はいいですね」
「は?」
「高原をわたるさわやかな風の中、大自然の息吹を感じずにはいられませんもの…」
 うっとりと目を閉じた鞠絵のおでこに、眞美はそっと手のひらをあてた。
「……熱はないよね」
 眞美のツッコミを無視し、滔々と山の素晴らしさを語り続ける鞠絵の声を聞きつけたのか白雪がやってきてしきりとそれに同意する。
「姫も、夏は山が一番だと思いますの」
「はあ、そーなの…?」
 と、ひとしきり洗脳を終えた鞠絵と白雪がその場を離れると、次にやってきた春歌と四葉は海の良さを語り始めた。
「やっぱり、夏は海です。ほら、『女は海』とか言うじゃありませんか…」
「春歌ちゃん、それちょっと違うと思うデス…」
 そして二人が出ていった後、入れ替わるようにやってきたのは千影。
「……『夏は夜』とかいうオチですか、千影さん?」
「……眞美ちゃんは時々ワケの分からないことを言うね?」
「千影ちゃん、ほら、例のアレだよ…」
 それまで我関せずという感じでテレビを見ていた衛がぽつりと呟くと、千影はほんの微かに頷いた。
「ああ……そういうことかい」
「どーいう事でしょう?」
「うん……まあ、すぐにわかるよ」
「……?」
 と、眞美が首をひねってから数時間後……
「ところで眞美ちゃん」
「はひ?」
 パスタを口一杯に頬張った眞美を見て四葉と雛子は何故か大喜びなのだが、控えめに可憐が口を挟んだ。
「眞美ちゃん、モノをお口に入れたまま話すのはお行儀良くないと思うの……お兄ちゃんも、眞美ちゃんが食べ終わってから話した方が」
「それもそうだね」
「……(全力で咀嚼している)……んっ、オッケーです、渉さん」
「眞美ちゃん、おかわりもあるですの…」
 にこにこと微笑みつつ眞美のお皿に手を伸ばす白雪が、何やらいつもより愛想がいいことに気付いて眞美はぐるりと周囲を見回した。
 と、何やら数人の熱い視線が自分に注がれている。
「来週みんなで旅行に行くつもりなんだけど……海と山、どっちがいい?」
「……ほへ?」
「うん、こんな事は今年が初めてなんだけど票が割れちゃってね……どっちでもいいという意見を除くと、今のところ山と海が同数だから」
「アタシが最後ですか?」
「いや、千影と咲耶がまだだけど…」
「まあ、お兄様ったら……私、お兄様と一緒ならどこでも構わないって事ご存じのくせに」
「フ、兄くんと一緒ならば世界の果てまでもご一緒するよ…」
「……と言うことだから」
「はあ、そーなんですか」
 眞美は曖昧に頷きながら、何故今年に限って票が割れたのかななどと考える。
「えーっと、海がいいのは春歌さんと四葉ちゃん…?」
 と呟きながらみんなを見回すと、花穂と雛子がひょこっと手を挙げた。
「じゃあ…」
 山は…と言葉にする前に、白雪と鞠絵、亞里亞と鈴凛が手を挙げる。
「1、2……8人の、千影さんと咲耶さんで10人」
 残りの二人、衛と可憐に視線を向けると
「ボク、どっちでもいいから」
「可憐、お兄ちゃんと一緒に旅行に行けるだけで幸せだから…」
 本当にどちらでも良さそうな衛はともかくとして、うっとりさんの幸せさん状態の可憐は既にあらぬ妄想にトリップしているようだ。
「……それはともかく、来週って結構急な話だと思うんですけど、宿の手配とか間に合うんですか?」
「いや、どちらも別荘だから」
「……」
 プロレタリアートの血の騒ぎを押さえつつ、眞美は小さく頷く。
 別荘、という行き先が決まっているのならばある程度票が割れるのも納得できた……どちらかというと家族として過ごした年数が長い人間がどちらでもいいという意見に偏っているのもその要因があるのだろう。
「亞里亞……暑いのキライ…くすん」
「ヒナ、おにいたまと眞美おねーちゃんと一緒に泳ぐの、クシシシ…」
 すがりつくような視線に途方に暮れる眞美。
「この状況でアタシに選択させるんですか、渉さん」
「そんなに難しいことかな?眞美ちゃん自身が、海と山、どちらに行きたいかって選択するだけのことが」
 普段通りの柔和な表情……眞美は、俯くことで渉の視線から逃れた。
「眞美ちゃん……選びたくないときでも、選択を強いられることは少なくないよ」
 このような状況で12人の利害が一致することなどあまりあるまい。一体この人は、どうやってそれをきちんと処理してきたのかという疑問が脳裏をよぎった。
 それはともかくとして、眞美にとって一番解せないのは、何故みんなの前で自分に選択させようとするのかと言うことなのだが。
「……?」
 ふと、服の裾を引っ張られる感触に気付く。
「眞美おねーちゃん……旅行いくのイヤなの?」
「……」
 正直、どっちでもいいのだが。
「眞美おねーちゃんがイヤなら……ヒナ、行かなくてもいいよ」
 おそらく、眞美だけに聞こえるぐらいの小さな呟き。
 言葉だけではなく、本当に何でもない事のように冷めた表情を浮かべている雛子。
 その子供らしからぬあきらめの早さと冷めた表情が、眞美の心の中のある部分を刺激した。
 顔を上げ、眞美は口を開く。
「じゃあ、アタシは海に行ってみたいんですけど……」
 
「……あの時、雛子に何を言われたんだい」
「ん……まあ」
 千影の問いに、眞美は曖昧に言葉を濁す。
 乗客のほとんどいない電車、車両はまるで眞美達の貸し切りの様相を呈している……もちろん、どういう集団なのか見ただけで見抜くことのできる人間もいないだろうが。
「雛子は小さいから……」
「…?」
「多分、私達の中で一番何かをあきらめてきたんだろうね」
「そうは……見えませんけど」
 少なくとも眞美の目には、年少の雛子が大事にされているように映っていたのだが。
「いや、そうじゃなくて……」
 開いた窓から吹き込んでくる風に髪をなびかせながら、千影は微かに微笑んだ。
「15才の時に我慢できるモノをね、6才や7才の段階で我慢しなくちゃいけなかった……私の言いたいのはそういうことさ」
「……」
「そんな雛子だから、私には見えないモノを眞美ちゃんに見ているのかな……ふと、そんな風に思ってね」
「それは…アタシが居候だからでしょう。大事な相談は親しい人間にはできないけれど、通りすがりの人間には話せたりするって事はありますし……」
 千影が何気なく周囲に目を向けたので、眞美もまたつられるようにそちらを向く。
 列車の窓から外の景色を見つめている者、自分達のように席に座って話をしている者、兄である渉にまとわりついている者。
「眞美ちゃん……1つ聞いていいかな?もちろん、答える義務はないけど」
「な、何ですかいきなり?」
 その表情を見て、千影がさっき周囲を見回したのは誰もこちらに注意を払っていないことを確認するためだったと何故か確信する。
「眞美ちゃんは一体……いや、やっぱり今はよそうか」
「そ、そう言われると気になるんですけど…」
「いや……」
 と、千影は首を振り、言葉を続けた。
「眞美ちゃんは眞美ちゃんさ……それでいい」
 
「行くよ、眞美ちゃん」
「おっけー」
 海を背にすると、眞美は中腰の体勢のまま両手を組んで身体の前に固定した。
 砂に足を取られながらも、衛はそんな眞美に向かって走っていき……眞美とぶつかる直前に軽くジャンプしながら足を大きく振り上げて眞美の手の上に片足を置く。
「ッァッ!」
「とうっ!」
 衛の体重がきちんと乗ったと感じた瞬間、眞美は大きく胸を反らしながら重たい荷物を後ろに放り投げるように衛の身体を後方に放り投げた。
「わわわ……」
 自分の踏み足と眞美の力の方向が少しずれたせいか、空中に高く飛び上がった衛のバランスが崩れた……が、それでも衛はなんとか空中で姿勢を制御して海面へと飛び込んだ。
「……ぷぁっ!」
「深さ、大丈夫だよね?」
「うん、平気平気……眞美ちゃんの言うとおり、このあたりは急な深みになってるから十分余裕があったよ」
 海面から顔を出したまま、衛がすいすいと平泳ぎで寄ってくる。
「……やっぱり、タイミングがちょっと難しいね」
「んー、こういうのは度胸の問題もあるから」
「でも、タイミングが合えば二回転ぐらいできそうだよ…」
「あ、それは高く飛ばなきゃいけないから危ないの。足から着水するならともかく……」
「そーか、そーだよね」
 などと、既に気分は悪戯小僧と化していた眞美と衛を呆れたように見守る数名と、瞳をキラキラさせながら見守る数名。
 もちろん普通の海水浴場なら血相変えた監視員がすっ飛んでくる、良い子は絶対に真似をしてはいけない遊びではあるが……生憎この砂浜はあまり規模が大きくなく、急な深場があったりして海水浴場指定されていないだけに、プライベートビーチ状態なのである。
 地元の少年が数名、この集団を不思議そうに遠巻きになって眺めているだけだ。
「眞美ちゃん、花穂もやってみたい!」
「あ、いや……えーと」
 花穂がやると非常に危険ですと書きなぐった表情を浮かべ、眞美が何か上手い言葉を探していると衛が静かに首を振った。
「花穂ちゃん……多分、走る途中でこけちゃうと思う」
「あ、衛ちゃんったらひどい。花穂、そんなにドジじゃないもん」
 いや、ドジだろう……と、その場のやりとりを聞いていた大半が心の中でツッコミを入れる。
 数分後、花穂は眞美に辿りつくことなく砂浜にヘッドスライディングをかますことでそれを証明することになったのは余談である。
「……眞美ちゃん、休憩かい?」
「いや、波打ち際でぱちゃぱちゃやるのはどうも…」
 波打ち際で水を掛け合う者、砂浜で身体を焼く者、大きなパラソルの下でみなを眺めている者とそれぞれだが、泳いでいる者は何故か1人もいない。
 そんな渉と言えば、穏やかな表情で妹達が危険な場所に近づいたりしていないか、様子がおかしな妹はいないか、監視員のようにあからさまではないが、油断無く周囲に目を配っているようだ。
「んー、眞美ちゃんなら沖の島まで泳げそうだね…」
「島?」
 言われて、沖の方に目をやる……と、それらしき島影がぽつんと小さく浮かんで見えた。
「……えーと、5キロぐらいありそうですけど」
「うん、距離は大したこと無いけど潮の流れがちょっと厄介でね」
「渉さんは泳いだことあるんですか?」
「ん……何年前だったかな。鈴凛の発明した『ぷかぷか君』が沖に流されてね。それを回収するためにちょっと……まあ、回収して戻ったら鈴凛が何故か泣き出して」
「はあ、何となくわかる気もしますけど……じゃあ、鈴凛ちゃんが海に行きたくないって言ってたのはそのからみですか」
 そう呟きながら、眞美の視線は自然と鈴凛を追う。
「いや、鈴凛は海が好きで……山に行きたいって言ったのは今年が初めてかな。なんか発明のテーマがあったのかも知れないけどね」
「……」
「……まあ、白雪は泳げないし、鞠絵は泳げないのもあるだろうけど単に山が好きで、亞里亞は……うーん、山でも暑いんだけど」
 微妙に首を傾げる渉……どうやら、亞里亞が山に行きたいと言った理由は渉にも良くわからないらしい。
「……こういうのも何ですが、ここってちょっと危険ですよね。急な深みはあるし、あっちには岩礁もありますから」
 眞美が指さす方向にだけ、白い波が立っている。
「うん…確かに」
 渉は頷き、しかしさらりと言った。
「でも、大丈夫」
「……みんなを、家族を、守る自信があるって事ですか」
 眞美のやや固い口調に気付いた風でもなく、渉は口を開いた。
「自信は5割」
「…?」
「不安が5割……合わせて僕かな」
「お兄様ぁ〜!ビーチバレーをしましょう!」
 手を振りながら砂浜を駆けてくるのは……と、ここで眞美は素朴な疑問を口にした。
「あの、みんなの渉さんの呼び方って……区別するためですか?」
「どうなんだろうね?千影や可憐、鞠絵や咲耶あたりが子供の頃に相談したのかな……別に、声を聞けばすぐわかるんだけどね」
「お兄様ったら…ほら、こっち、こっち!」
 まるで恋人のように渉の腕を取り、引っ張っていく咲耶。もちろん、眞美は置いてけぼりだ。
「……ふむ」
 沖に浮かぶ島影に視線を向ける。
「5キロなら往復3時間弱かな……」
 それだけの時間、眞美が姿を消したとなれば心配する人間がいるだろう……そう考える自分を、眞美は少し滑稽に思った。
 
「眞美おねーちゃーん…」
 雛子が浮き輪を掲げ、眞美の太腿をつついた。
「一緒に泳ご」
「……雛子ちゃん、浮き輪無しで泳げる?」
「クシシシ…」
 どうやら泳げないらしい。
「んー……」
 眞美はせっかく海に来ているのだからと、雛子に対してちょいとスパルタで臨むことに決めた。
「大きく息を吸って…」
「ふぇ?」
 首を傾げながらも、眞美の言うとおりに雛子は大きく息を吸い、ハムスターのようにほっぺまで大きく膨らませた。
「はい、上を向く…」
 雛子が上を向いた瞬間、眞美は浮き輪の栓を抜いた。
「ぁっ」
 沈みかけた瞬間、眞美の手が雛子の身体をグッと水面まで持ち上げた。
「大丈夫、力を抜いて」
 支えてるから、と言うように雛子の背中をグッと持ち上げると、雛子はおずおずと力を抜いた。
 そして数分後。
「ヒナの身体、何かふわふわしてるよ」
 何の支えもなく、ただ波に揺られる感覚が面白いのか、雛子は力を抜いたまま小さく笑った。
「じゃ、そのままゆっくりと腕を広げて……」
 雛子の両腕が体側から離れる。
「ゆっくりと閉じてみて」
 雛子の腕が閉じていく……と同時に、雛子は自分の身体が波に逆らって少し動いたのを感じたらしい。
「ありり?」
「続けてごらん?」
 言われたとおり、雛子は腕を開いたり閉じたりを繰り返す……。
「眞美おねーちゃん、ヒナ、泳いでる?」
「ん、大きく分ければそうかも」
「クシシシ…」
 嬉しかったのか、雛子は腕を動かす速度を上げた……もちろん沈むが、眞美は手を出さない。
「……ぷぁっ」
 雛子はすぐにさっき教えられたとおりの姿勢を取り戻し、再び波に揺られ始めた。
「そうそう、とりあえずその姿勢は忘れちゃダメ」
「……何で力を入れたら沈むの?」
「んー、アタシに聞かれても」
 苦笑する眞美……ちなみに、眞美は女性としては珍しいが水に沈む。
「さて……」
 眞美は大きく息を吸い、水に浮いている雛子のすぐ側で思いっきり海水をかき混ぜ始めた。
「わ、わわ…」
 バランスがとれなくなって沈んだ雛子を抱きあげ、眞美はその顔をじっと覗き込んだ。
「いい、雛子ちゃん……ここからちょっと向こうに行けばこんな波が休み無くやってくるの……だから、絶対に1人で泳いじゃダメ、約束できる?」
 雛子は多少困惑しつつ、それでも眞美の中の真剣さを見て取ったのか大きく頷いた。そして、眞美に向かってそっと小指を突き出してくる。
「ヒナ、約束するよ……だから眞美おねーちゃん」
「ん?」
「ヒナに……みんなに内緒で、遠くに行っちゃダメだよ」
 微かな衝撃。
「……なんで、そう思ったの?」
「だって……眞美おねーちゃん、みんなを見てすごく悲しそうな、怒ってるようなお顔をするときがあるもん……鈴凛おねーちゃんと一緒」
「……」
「鈴凛おねーちゃんが昔みんなに内緒でどこか遠くの国の学校に……えーと、リューガクしようとしたときと同じようなお顔」
 そう聞いて、眞美の視線は無意識に鈴凛の姿を探す。
「ヒナね、おやつも我慢するし、わがままも言わない……でも、おにーたまやおねーちゃん達と離れるのはイヤ」
「雛子ちゃん、アタシは別に雛子ちゃんの……」
 ぽちゃ。
 眞美と雛子のそばにビーチボールが飛び込んできた。
「眞美ちゃーん、拾って〜」
 砂浜で衛と千影が手を振っていた……が、距離と風向きを考えるとえらく恣意的に投げ込まれたように眞美には感じられる。
 雛子を抱えたまま、ビーチボールを風に乗せて高く高く打ち上げた。
「ありがとー」
 それに応えようとした眞美の手が掴まれ、小指に雛子の小指が絡みつく。
「約束は破ったらいけないんだよ…」
 
「……ふう」
「どうかしたのかい、眞美おねーちゃん?」
 眞美が振り返った先に、ひどく意地悪い微笑みを浮かべた千影がいた。
「……随分と地獄耳ですよね、千影さん」
「風の精霊とは仲良しなんだ…」
 そう呟き、千影は眞美の隣に腰を下ろした。
 雲一つない夜空に浮かぶ月が砂浜を白く染めている……が、対照的に海は全てを呑み込むかのように暗い。
「雛子ちゃんって、ある意味反則ですよね」
「子供には子供の武器がある……それをわかっている賢い子だよ」
「……」
「ただ、いつも悲しいぐらいにささやかな事にしか使わない」
 夜風が優しく二人の間をすり抜けていく。
「そうですか……」
「それがわかっているのに……私は、敢えて眞美ちゃんに聞くよ」
 千影がそう呟いた瞬間、風が止んだ。
「眞美ちゃん、君は一体誰だい?」
「……随分と哲学的な質問ですね」
「言葉通りの意味で受け取って貰って構わないよ……」
「アタシは眞美です……それ以上を気取るつもりも、それ以下に自分を貶めるつもりもないです」
 寄せては返す波の音を幾度耳にしただろうか、再び千影が口を開いた。
「眞美ちゃん……でいいのかな?」
「ええ……少なくとも名前だけは」
 その返答が半ば問いに答えていることに千影は少し驚いたようだった。
「わかった、信用するよ…」
「アタシを?」
「いや、眞美ちゃんを受け入れた兄くんを…」
「なるほど…」
 そんな二人を月だけが見守っていた。
 
 
                    完
 
 
 うあー、話の筋はもう決定してるだけにそれを12人分に引き延ばすのがかなり苦労しますなあ。(笑)
 でも、あんまり雛子の出番なかったな。
 というか、誰かさん曰く『そういう話を求めているんじゃないんだよ』とのことらしいです……そういう話はゲームをプレイしてくださいな。
 さて、次はお兄ちゃん大好きっ娘の可憐。 

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