「おはよう!」
すっ、すすっ……
「……イジメ?」
自分と目線を合わそうとしないクラスメイト達を見て、眞美は思わずそう呟いた。
そんな眞美の背中を春歌が軽く叩く。
「……調子に乗って、柔道部員まで腕相撲でなぎ倒してしまったからだと思うんですが」
「だって、アタシ負けるの嫌いだもん」
「柔よく剛を制すというか、剛よく剛を制すというか…」
最初は四葉の捜査(?)の手伝いだったはずが、途中から男子および眞美が共に意地になってしまい、次々と力自慢の男子が眞美に挑みかかり、最後には体重が自分の倍はあろうかという体育会系の男子のプライドを木っ端微塵にうち砕いた姿が春歌の脳裏に鮮やかに甦る。
もちろん捜査の行方はどこへやら、結果として眞美の並はずれた運動能力だけが白日の下に晒されただけに終わった……
「まあ、もうすぐ夏休みだし……休み明けにはみんな忘れてるよね」
「……」
明るく笑った眞美を、春歌はどことなく微妙な視線で見つめる。
「な、何?春歌さん…」
「眞美さん……来週から期末試験なんですけど、下手をすると夏休みがまるまる補習になるって事知ってます?」
「ああ、その事なら……」
心配ご無用とばかりに眞美はグッと胸を張った。
「渉さんが勉強教えてくれたおかげで、多分40点は取れると思う」
「40点……」
確かに中間試験で全教科20点未満だった事を考えるとすごい進歩だが、春歌は小さくため息をついた。
「あの、この学校ってちょっと特殊で赤点ラインが50点なんですけど…」
「なにゆえっ!」
「渉さん、渉さん、渉さーんっ!」
渉の名前を連呼しながら走り回る眞美を横目に、鞠絵はティーカップを傾けながら呟いた。
「眞美さんって随分元気になりましたねえ…」
「メッキがはがれてきた……というと言葉が悪いか」
と、これは千影。
「そうだよ、千影ちゃん……やっとここに慣れてきたって事だから、可憐は嬉しいな」
にこにこと、可憐はヒマワリのような笑みを浮かべる。
「まあ……どっちにしろ、いい子だからね」
口元に微かな笑みを浮かべ、千影はカップを傾けた。
「……ところで、兄上様はいないんですよね?」
「ふふ、それでさっきからどうしようかなって思ってたんだよ、鞠絵」
千影はほんの少しだけ遠い目をして、カップを受け皿に戻した。
「鈴凛かな?」
小さく頷く鞠絵。
「え、でも……」
可憐は少し困ったような表情を浮かべ、ぽつりと呟いた。
「眞美さん、ショックじゃないかなあ?」
「そんな子じゃないよ……」
千影は一旦言葉を切り、そして大人びた表情を浮かべて呟いた。
「それに、鈴凛にも……いい結果を与える気がする」
てきぱきてきぱき…
渉とのマンツーマン指導による教科書とノートにざっと目を通すと、鈴凛は小さなメモ用紙を取りだして何かを書き込み始めた。
なんというか、動作の1つ1つがきびきびしていて『有能です』というオーラを周囲に振りまいている。
「(そういえば……あんまり話したこと無かったな)」
機械いじりが趣味らしく、研究と称して自室にこもっていることが多いだけに、眞美との接触の機会が際だって少ない人間の1人といえる。
『えっ、鈴凛ちゃんって中学生じゃ…』
『大丈夫、冗談抜きで鈴凛はみんなの中で一番頭がいいから……飛び級制度のある外国ならとっくに大学を卒業してるよ』
千影に言われてもちょっとピンとこなかったのだが、今はおぼろげながらその意味を理解し始めていた。
「じゃあ、始めるよ…」
「はい、お願いします…」
眞美は素直に頭を下げた。
そして1時間後……
「……で、ここの公式をあてはめて」
「何故、ここで公式を?」
「えーと公式っていうのはただの決まり事じゃなくて、ここで使う公式は……(中略)……という過程で導かれた計算式なの」
ノート2枚にびっちりかきこまれた計算式を1つ1つなぞりながら丁寧な説明を繰り返す。
「この計算はここの対角線、ここの対角線はこの部分の面積を決定するからこの計算式……(中略)……つまり、この公式を使うって言うことは、これだけの過程を経ましたよっていうサインと同じ意味だと考えるの」
「……」
「え、どうかした?」
怪訝そうな表情を浮かべた鈴凛に、眞美は感嘆したような表情で呟いた。
「すごいなあ、アタシあんまり頭良くないから鈴凛ちゃんが羨ましい」
「……」
少し居心地の悪そうな表情を浮かべ、鈴凛は目を伏せた。
「あ、あれ……アタシ、何か気に障ることでも?」
「う、ううん……じゃあ、次は」
ぱらぱらと教科書をめくる鈴凛の手を、眞美は黙って見つめていた。
「ごちそうさま」
「鈴凛ちゃん、もういいの?」
「うん、ちょっと研究が……」
そう言って自室へと戻っていく鈴凛と、それを見送るみんなを見て眞美は小さく首を傾げた。
「……研究?」
「あ、眞美さんは鈴凛ちゃんの部屋に入ったことありませんでしたっけ?」
「あれは部屋と言うより、研究施設よね」
春歌の言葉を受け、咲耶はそう言って笑った。
「研究施設…?」
どことなく自信のなさそうな眞美の呟きを聞き、咲耶はちらりと千影に視線を向けた。
「千影ちゃんのお部屋も結構特殊だけどね……」
「人聞きが悪いな……ごく普通の部屋じゃないか」
千影がそう呟くと、何故かその場の数人が苦笑を浮かべる。
「(なんか、この家で普通とか常識とかいう言葉が通用したことがないような気がするのは何故……?)」
と、喉の所までせり上がってきた言葉を料理と共に飲み下した眞美の服を、隣に座る雛子が引っ張った。
「ねえ、眞美おねーちゃん」
雛子は眞美のことをおねーちゃんと呼ぶ。
どうやら幼いせいか、眞美もまた自分に新しくできたお姉さんだと思いこんでいるのかいないのか。(笑)
「ん、どうしたの雛子ちゃん?」
「ご飯食べたらヒナと遊ぼう」
「んー、そうしたいのは山々なんだけど……」
眞美は困ったように頭をかいた。
「ヒナと遊ぶのいや?」
「雛子ちゃん、眞美ちゃんは大事な用事があるチェキ…」
と、四葉が助け船を出したが、雛子は眞美の袖をつかんだまま放さない。
「……ま、いっか」
鈴凛と約束した勉強の時間まで時間はある。
「わーい、眞美おねーちゃんダイダイダーイ好きっ!」
首筋に抱きついてくる雛子を片手で受け止める……そんな眞美を見て千影と鞠絵は苦笑した。
「眞美ちゃん、勉強は大丈夫デスか?」
「……じゃあ、雛子ちゃん何して遊ぼうか?」
「あーあ、四葉は知らないデス…」
「……寝ちゃったデスか?」
「うん」
眞美は頷きながら雛子の髪飾りをそっと外す。
「眞美ちゃんも人が良いデス……」
「ん…」
眞美は小さく微笑みながら雛子の髪を優しく指で梳いた。
「寂しいんだろうね……雛子ちゃん、渉さんが家を留守にするといつもこうだから」
「……」
「……あ、そうじゃなくて」
眞美は慌てて首を振った。
「両親がいて、兄弟姉妹がたくさんいたとしても……そのうちの1人でもいなくなると寂しく感じるんだと思う」
「眞美ちゃん…」
「人に…代わりはいないから。誰も、誰かの代わりにはなれないと気付いてるから、今までこの家にいなかったアタシに甘えたいんだと思う」
眞美は少年のように笑い、口元から白い歯をのぞかせた。
「なんてね……さて、鈴凛ちゃんお待たせ」
「チェキ?」
四葉が振り返ったドアの影から、鈴凛が驚いたような表情を浮かべて姿を現した。
「むう……相変わらず眞美ちゃんは人の気配を察知する能力が高いチェキ…」
「んー、千影さんだけはどうにもわからないんだけどね」
眠り込んだ雛子を起こさないように、眞美と四葉はそっと部屋から出ていく。
「眞美ちゃん、今度四葉と一緒に帰ってくれないデスか?」
「それはいいけど……どうして?」
「……傘だけで終わらなかったチェキよ」
四葉の呟きを眞美が認識するまでに多少の間があった。
怪訝そうな表情を浮かべた鈴凛に、眞美はこの前の出来事を手短に説明する。
「え、それって……」
「ちょっと神経が過敏になっているせいかもしれないデスが、最近は妙な視線も感じるし……四葉、ちょっとへこんでるデス」
ちょっと疲れた…という感じに苦笑を浮かべる四葉を見て、眞美は眉をひそめた。
「心当たりは?」
「まあ、四葉は可愛いデスから…」
それもそうか、と頷く眞美。
「ま、アタシには無縁のことだけど…」
そう言って笑った自分を鈴凛がじっと見つめているのに気付き、眞美は尋ねた。
「ん、どうしたの鈴凛ちゃん?」
「え、別になんでも…それより、お勉強」
「あ、忘れてた……というか、忘れたかったのかな」
眞美は笑い、四葉の肩を軽く叩いて言った。
「じゃあ、四葉ちゃん。帰るときは誘いに来て」
「ありがとデス!」
四葉は安心したように笑みをこぼし、眞美と鈴凛をその場に残して走り去った。
「やれやれ……元気良く走るだけの廊下がある家ってのも考えてみればすごいか」
眞美は肩をすくめながら呟くと、鈴凛を振り返っていった。
「じゃあ、鈴凛ちゃん先生。今日もよろしく」
「そ、その呼び方はヤだな……」
なんとも複雑な笑みを浮かべた鈴凛に対し、眞美は困ったように頭をかいた。
「あ、それと……雛子ちゃんが寝てるから、鈴凛ちゃんのお部屋でいい?」
「え……それは、かまわないけど」
鈴凛は戸惑ったような視線を眞美に向ける。
「あ、駄目だったら応接間にでも……」
「応接間はみんなが居るから……」
ぽつりと呟いた鈴凛の表情を見て、眞美はおや、と首を傾げた。
「いいよ、私の部屋で……」
「あ、うん……」
鈴凛の後を付いて歩きながら、眞美はこれまでのことを思い出していた。
研究のせいだかは知らないが、鈴凛がみなと一緒に過ごしている時間はあまり多くない……それも、兄である渉が居ないときは自分の部屋に閉じこもって何かの研究をしていることがほとんどである。
『多分、私達家族の絆は眞美さんが思っているほど強いモノじゃないんですよ……』
春歌の言葉が耳に甦る。
水曜日はみんな集まって一緒に昼食を取る……『こうして集まるのが決まりなのさ』……それは千影の言葉。
「そう、なのかな…」
「え?」
「あ、なんでもない…」
両親のいない、兄と妹だけの空間……眞美はぬきにして。
そうした観点から振り返ると、今眞美のいる場所はちょっとした奇跡なのかもしれない。
「眞美さん」
「え、あ。ゴメン、ちょっとボーとしてて…」
いつの間にか鈴凛の部屋の前を通り過ぎていた眞美は、苦笑いしながら後戻りした。
ガチャ……
「……」
「……」
「……か」
「か?」
「格好いい!すごい、なんか秘密基地みたい!」
興奮してきょろきょろと部屋の中を見回す自分の背後で、鈴凛がこっそりとヘッドスライディングをカマしたことに眞美は気付かなかった。
なんというか、何かのディスプレイが3台程並び、作業台や工作機械、とにかく部屋の中がメカメカしいのである。
唯一の例外としては、部屋の中を仕切っているカーテンの存在か……おそらく、カーテンの向こうには鈴凛が寝起きする場所があるのだろう。
「うわっ、うわっ、なんかワクワクする!」
「あ、あの、眞美さん?」
「鈴凛ちゃん、すごいねこの部屋!うわあ…」
「やめてよ!」
「え?」
きょとんとした表情で振り返る眞美の目に、どこかいたたまれない様に唇を噛みしめている鈴凛の姿が映った。
「どうせ、私は……私はみんなと違って女の子らしくなんか……」
「……?」
「いいよ、別に……アニキだけだもん、私を女の子扱いしてくれるのは」
どこか自棄的な呟きを耳にし、眞美は自分の顎のあたりを手のひらで撫でた。
「ああ……そういう事か」
眞美は苦笑しながら床の上に落ちていた廃材を拾い上げた。
「鈴凛ちゃん、これってもう使わないよね?」
「……うん?」
「はあっ!」
廃材の両端を手で持ち、顔を真っ赤にして眞美は力んだ。
ミシ…ミシミシミシッ!
目の前で真っ二つにへし折れていく廃材を見て、鈴凛は目を丸くする。
「うー……ちょっと鈍ってるな」
強ばった筋肉を揉みほぐしながら、眞美は硬直した鈴凛に視線を向けた。
「鈴凛ちゃん、アタシのこと女らしいと思う?」
「……」
どう答えていいのかわからず、戸惑う鈴凛。
そんな鈴凛に向かって、眞美は白い歯を見せて少年のように笑った。
「まあ、そうよね……でも、アタシって女の子なんだ、今は眠ってるけど」
「…?」
「鈴凛ちゃんにはそんな人いない?自分が女の子なんだなって思うような人」
「うわわ…」
顔を真っ赤にして狼狽える鈴凛を見て、眞美は小さく微笑んだ。
「大体、自分が女の子……なんて、その人だけに分かってもらえればいいんじゃないの?アタシはそう思うけど」
「ま、眞美さん……それって、ちょっと男らしいかも」
呆れたような面もちでそう呟いた鈴凛の目の前で、眞美は得意そうに人差し指を振って見せた。
「違うよ鈴凛ちゃん、それは男らしいんじゃなくてアタシらしいって言うの」
「眞美さん……らしい?」
「まあ、多少は猫かぶってたりもしたけど、アタシ、ここに来てから自分が少しずつ変わってるのが分かるよ……でも、アタシが自分の心の波に従っている限りアタシなんだって思う」
鈴凛の肩を軽く叩く。
「例えば、千景さんや咲耶さん、春歌さんや鞠絵さん……(中略))……さらに、鈴凛ちゃんみたいになれって言われても、アタシには無理、絶対不可能。みんなはみんなだし、アタシはアタシだから」
「……」
「まー、アタシ馬鹿だから……どこかで聞いたような事しか言えないんだけどね」
眞美はにかっと笑い、話題を切り替えた……すぐに答えの出るモノでもない。
「じゃあ、鈴凛ちゃん先生、勉強教えて」
「さっきも言ったけど、その呼び方は…」
学校の屋上を吹き抜ける風は、湿気をはらんで重かった。
梅雨の合間の青空は、夏でありながらどこか薄い膜が掛かっているようで、今ひとつすっきりとしない。
「さて、どうしたもんだか……闇討ちで痛い目でも」
「誰をだい?」
「…っ!」
眞美は慌てて屋上の手すりに背中をへばりつかせた。
「……そんなに驚くことかい?」
少し傷ついたような、それでいて何かを楽しんでいるような微妙な表情を浮かべる千影がそこにいる。
「け、気配を消して近づくのは…やめて」
ばくばくする心臓をなだめながら弱々しい声で呟くと、千影は小さく笑った。
「人の気配を感じない人間にとっては平気なんだけどね……」
千影は一旦言葉を切り、そして優雅な動きで右腕を肩の高さまで上げた。
「人の気配を察知する能力……それに自信を持っているから大げさに驚くんだね、眞美ちゃん。何かを信じることはいい……でも、信じすぎることは良くないのさ、何事もね」
バサバサバサッ!
一羽のカラスが、千影の右肩にとまる。
「……使い魔?」
「眞美ちゃんは、時々おかしな事を言うね…ほら、おかえり」
バサバサッ!
空高く舞い上がる……まるで、カラスではないかのように。
カラスの姿が見えなくなるまで空を見上げていた眞美は、はっと我をとり戻して千影に向き直った。
「え、えっと……?」
「四葉をつけ回している相手が分かったのかい?」
「……あ、うん、なんとか」
「……殺すのかい?」
「何をおっしゃいますっ!」
眞美自身、かなり物騒なことを考えていたのだが、さらりとそれを上回る物騒な言葉を聞かされて、眞美の声が思いっきり裏返った。
「じゃあ、呪うのかい?」
「それも、ちょっと……」
こめかみのあたりにじんわりとした痛みを覚え、眞美は指先でその部分を揉みほぐしながら呟く。
「ごめんなさい、物騒なことは考えません」
「分かればいいさ…」
千影は穏やかに微笑み、眞美に右手を差し出した。
「たまには一緒に帰ろうか、眞美ちゃん」
「……51点、57点、52点、55点……く、くふふっ、ア…アタシ、今なら大統領にだってなれそう」
「それはちょっと不可能かと……」
春歌は呆れたように……しかし、笑みを浮かべて呟く。
「と、いうわけで春歌さん!アタシ、鈴凛ちゃんに報告がてらイチゴサンデーでも奢りつつ帰るから!」
びしっと右手を挙げてから教室を飛び出していく眞美。
そんな眞美の後ろ姿を見送りながら、春歌は楽しそうに呟いた。
「クスクス、眞美さんって本当に楽しい人……と、何か忘れているような」
「……チェキ?」
「あ!」
きょときょとと教室を見回しながら首を傾げる四葉を見て、春歌は忘れていた事を思い出した。
「春歌ちゃん、眞美ちゃんは?」
「えと、補習を自力で免れた喜びに溢れて、鈴凛ちゃんに報告がてらイチゴサンデーでも奢りながら帰るとか……」
「えー、四葉もイチゴサンデー食べるデス」
と、四葉も慌てて教室から出ていく。
「イチゴサンデー3つ!」
「え?眞美さん……2つで充分なんじゃ」
「……アタシが2つ食べるから」
「なるほど…」
鈴凛と眞美のやりとりに眉1つ動かさずに静かに頭を下げたウエイトレスのおねーさんにプロの意気込みを感じて眞美は小さく頷く。
「しかし、鈴凛ちゃん本当にありがとう!」
「あ、あはは、大げさだよ…でも、良かったね眞美さん」
「……やっぱり、鈴凛ちゃんってすごいよね。日本じゃなかったら、とっくに大学を卒業してるって言ってた千景さんの言葉ももっともだと思う」
「……」
「アタシ……また何かまずいこと言った?」
「……自分らしいって、どういう事?」
真っ直ぐに眞美を見据える鈴凛の視線が、年齢にそぐわない大人びた、ややもすれば冷たい印象を与える玲瓏さをたたえた。
「それを、アタシに聞くの?」
「眞美さんの意見でいいから聞きたい…」
「いいよ…」
「…自分のやりたいことをやるって事?」
「うんにゃ」
眞美は備え付けのストローを取り、それをくわえて首を振った。
「……?」
小さく折り畳んだストローの袋に、ぽとりと水滴を落とす……と、濡れた袋は生き物のようにうねうねと動き出した。
「これだけは譲れない……そういうこだわりって鈴凛ちゃんにはある?」
「こだわり?」
「例えば……いくら頼まれてもこういうメカは作らないとか」
「それは……もちろんあるけど」
眞美はほんの少しだけ遠くを見つめるような目をして、ぽつりと呟いた。
「ある人の受け売りなんだけど……そういうこだわりの集合体が個人だとアタシは思ってる」
「……」
「他人に強制するわけじゃなくて、自分だけの法律かな……その法律だけは、相手がどんなに大事な人であっても…」
「お待たせしました、イチゴサンデー3つ……以上ですね」
目の前にコトリと置かれたグラスに一瞬だけ視線を向け、眞美の視線はすぐに窓の外へと向けられた。
「うん……アタシは許せなかった」
「眞美さん……」
ふ、と眞美は視線を和らげてから、鈴凛の方を振り向いた。
「せっかくだし、食べてからにしようか」
「……うん」
二人同時にスプーンを口に運ぶ。
「……あ」
「どうしたの?」
「……四葉ちゃん」
窓にへばりつくようにして、恨めしそうな表情をした四葉がこちらを見つめている。
カランコロンカラン…
ドアベルが涼しげな音をたて、四葉が店の中に入ってきた。
そして、当たり前のように眞美達の席に座る。
「眞美ちゃんひどいデス……待っててって言ったのに」
「いや、アタシの推理では四葉チャンがそろそろ現れるかなと思って…」
と、イチゴサンデーのグラスを四葉の前に置いた。
「……むむ、実は眞美ちゃんは四葉のライバルだったデスね!」
「食べないの?」
「食べるデス!」
嬉しそうにスプーンを口に運ぶ四葉から視線を逸らし、眞美は窓の外に視線を向けた。
「あ、そうそう眞美ちゃん、ありがとデス」
「え、何が?」
「最近、妙な視線を感じなくなったデス……眞美ちゃんがなにかしたチェキね?」
「いや…ア、アタシは…何も、してない、かなあ?」
ただ、四葉をつけ回していた相手の名前を千影に教えただけ。
「またまた…千影ちゃんが教えてくれたデス。眞美ちゃんにお礼を言うようにって」
「ぶっふ」
イチゴサンデーを逆流させかけた眞美に、鈴凛は紙ナプキンをそっと差し出す。
「あ、ありがと……」
「二人とも、こういう食べ物はチェキチェキ食べるデスよ…」
「あ…」
眞美と鈴凛が止めるまもなく、四葉はさくさくとスプーンを動かし、そしてぽろりとそれを取り落とした。
「あ、あいたたたデス…」
「……自業自得かな」
鈴凛がぽつりと呟いた言葉を聞き、眞美は一瞬だけそちらに視線を向けた。
「眞美さんは……」
「ん?」
ダメージから完全に回復できなかったのか、四葉がこめかみを押さえながら先に帰った後、鈴凛と眞美は川沿いの道を歩いていた。
「なんで四葉ちゃんの頼みをきいたの?」
「……いや、アタシ暇だし」
「じゃあ、暇じゃなかったら?」
眞美は足を止めて鈴凛に向き直った。
「理由が必要?」
「……さっきと、言うことが」
鈴凛の言葉を遮るように、眞美は歩道脇の一段高い部分にとびのった。
『……鈴凛は、私達と合流するのが遅かったから』
千影がふと漏らした言葉。
順番の早い遅いが、鈴凛の心の底に棘として残っていたのかは分からない。
ただ、四葉や春歌などが自分より遅く合流したのに、みんなとうち解けていることが何らかの苦痛を与えていることにさっき気付いた。
「鈴凛ちゃんって、泳げる?」
「え……うん」
鈴凛が頷くと、眞美の身体がバランスを崩したようにぐらついた。
「危ない!」
眞美の予想よりも早く、鈴凛の手が伸びた。
「……何で助けてくれたの?」
「何でって…」
何を馬鹿なことを…といった表情で鈴凛は眞美の顔を見た。
「アタシは馬鹿だから、ずっと小さい頃から問題に答えが出せない事に慣れてた……でも、鈴凛ちゃんはそれに慣れてないんだね」
にっと笑い、眞美は鈴凛の身体を抱きかかえて川の中へと飛び込む。
ザブーン!
河の流れは緩やかで、水深もそんなに深くはない……鈴凛は慌てて立ち上がって柳眉を逆立てた。
「ま、眞美さんっ!どうしてこんなコトするのっ!?」
「いーじゃない、夏だし」
「夏だし…って」
鈴凛は絶句し、ぐしょぐしょに濡れた服を泣きそうな目で見る。
「これは、鈴凛ちゃんにとって絶対に許せないこと?」
そう言いながら眞美も立ち上がる。
「……絶対にって事はないかもしれないけど」
「じゃあ、今度鈴凛ちゃんの買い物につき合うよ……アタシ、荷物持ちとしては優秀だよ」
「……わけがわかんないよ」
「そりゃそーでしょ。アタシはアタシだし、鈴凛ちゃんは鈴凛ちゃんだし……それに」
眞美は言葉を一旦切って目を閉じた。
眞美があの家に来て何度も味わった、『良くわからない人』というなんとも言えない感情。それは、自分の中の何かを確実に変化させた……ような気がする。
「あの家にくるまでのアタシと、今のアタシも違うしね……」
眞美は半ば強引に鈴凛を抱え上げ、背中に背負った。
「じゃ、風邪ひく前に帰ろうか?」
「ま、眞美さんのせいでしょ!」
「んーそうかも」
眞美は鈴凛を背負ったまま力強く堤防をよじ登り、小走りに家へと向かった。
「……眞美ちゃんも、随分と無茶をするね」
「アタシを嫌いになってもそれは悪い事じゃないと思う……それは、誰かを好きになれるって事だから」
眞美がそう言うと、千影はひどく傷ついた表情を浮かべた。
「ごめん……私は眞美ちゃんを利用してる」
別に気にしない…と言いかけ、眞美は別の言葉を使った。
「必要とされてると受け取るよ……アタシは、それでいい」
眞美はゆっくりと部屋の中を見回し、ぽつりと呟いた。
「鈴凛ちゃんに向かって偉そうなこと言ったけど……アタシは、ここでは異邦人だから」
「眞美ちゃん」
「分かってる…」
眞美の目の中の闇が固着したような暗さを認めたのか、千影はちょっと口をつぐむような素振りを見せた。
「千影さんは……辛くない?」
「私は、兄くんとの暮らしを守るためなら何でもするさ…」
「……そう思っててもね、やっぱりできないことがあるよ」
「え?」
「おやすみ、千影さん…」
眞美は立ち上がり、虚を突かれたような表情の千影に暇を告げた。
揺曳の章 完
あー、何か自分で書いててわけがわかんなくなってきた……つーか、登場人物が多すぎて絡みが複雑になったらまずいんだろうな。
いっそのこと開き直って、各キャラの過去とか考えない方がすごく楽なんでしょうなあ……って、それができたら苦労はしないけど。
そういや、『誰もが望まない内容のシスプリのお話を書いてどうします?』というツッコミを知人からいただきましたが、最高の誉め言葉だと受け取っておきましょう。(爆笑)
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