珍しく街中を歩いている千影を目にして、兄が声をかけようとした瞬間、千影は静かに振り向いた。
「やあ、兄くん…私に何か用かい?」
「いや、姿を見かけたから声をかけようとしたところだったんだけどね…」
千影は軽く目を伏せ、そしてあらぬ方向に視線を向けた。
「この世に…偶然なんてものは存在しないんだよ…兄くん。」
「そう、言われると…確かに千影に会いたいと思っていた気もする…」
千影は寂しそうにほんの少しだけ微笑んだ。
「つれないね、兄くんは……本来、私と兄くんには距離など意味のないはずなのに…」
「うーん、確かに家族が1つ屋根の下で暮らしていないってのはちょっとなあ……」
ぼりぼりと頭をかく兄に向かって、千影は多少きつめの視線を送った。
「そういう意味ではないんだけどね……まあ、私は時が満ちるのを待つことにするよ。」
「立ち話もなんだからどこかで……?」
兄は言葉をのみ込み、驚いたようにきょろきょろと周りを見回した。目の前にはティーカップを傾けた千影がいる。昼なお暗いこの部屋のたたずまいは千影の部屋であることがわかる。
「兄くんの好きな紅茶だよ…冷めないうちにどうぞ。」
「…千…影、さっきまで家の外にいなかったかい?」
「兄くんは、時々おかしなことを言うね……」
くすっと小さく笑いながら、千影は見るものを引き込んでしまいそうな深い色をした瞳を向ける。
「そ、そうだよね、僕の勘違いだ……」
「兄くん……」
「な、何だい、千影?」
「……本当に忘れてしまったのかい、それとも忘れたフリをしているのかい?」
心持ち身を乗り出して、千影はじっと兄の目を見つめた。やがて、ため息をつく。
「すまない、兄くんを疑うなんてどうかしていた…。」
「ち、千影…話が見えないんだけど…?」
「兄くん…」
「は、はい!」
千影は視線をテーブルの上に落として呟く。
「兄くんは…恋をしているかい?」
「こ、恋?」
兄の言葉を待たずに、千影の唇は静かに言葉を紡ぎ出す。
「恋というのは、本来相手の魂を乞うことでね…その想いは全てを凌駕するのさ…」
「…千、千影、まさかお前好きな人でも…?」
少し傷ついたような、それでいて安心したような千影の表情。
「肉体と、記憶を失っても想いは残る……だとしたら運命というのは皮肉なものだね。」
千影は話を打ち切るように、少し音をたてるようにカップをテーブルの上に置いた。
「今日は楽しかったよ……兄くん。」
「あ、うん…」
「兄くんの魂が呼べば私はいつでも現れる。それを忘れないでくれ…」
千影の身体の輪郭が少しずつ闇の中に紛れていく。
「ち、千影?」
「お休み、兄くん。良い夢を…」
その直後、街中で立ちつくす自分の姿に兄は気がついた。
おしまい
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