「だから言っただろう可憐……今は止めても無駄だって」
 千影が首筋に薬を塗ってやりながらため息混じりに呟くと、可憐は小さくうなだれた。
「うん……」
「可憐が説得できるような眞美ちゃんなら、そもそも出ていこうとはしないからね」
「でも…ゴホッゴホッ…」
「……今は無理して喋らない方がいいな。喋るならゆっくり、低い声で…」
 可憐は目元に浮かんだ涙を拭うと、言われたとおりにいつもより低い声で喋り始めた。
「ここにいて待ってれば……お兄ちゃんがどうにかしてくれるのに」
「……」
「……千影ちゃん?」
 千影はほんの少し目を細め、そして言った。
「眞美ちゃんは……何が目的でここにやってきたのかな。それがわからなくてね」
「ひどいことをするつもりだった……って言ってた」
「眞美ちゃんは時々頭のいい嘘をつくからね……言葉の表面に囚われない方が無難だよ。でないと、鈴凛みたいになるから…」
 薬を塗りおえ、千影は指先で軽く首筋を叩いた。
「……」
「もうすぐ夜が明けるよ……可憐、少しは寝ておくんだ」
 
「……ねえ、眞美おねーちゃん、どうしていないの?」
 朝食の並んだテーブルにぽっかりと空いた席を指さしながら、雛子が首を傾げた。
「あ、あのっ、それ…は」
 少し掠れた声で何か言おうとした可憐に代わって千影が口を出す。
「フフ、眞美ちゃんはテストが嫌いだからね……しばらく家出するってさ」
「クシシシ……ヒナもテスト嫌いだよ」
「亞里亞も…きらい」
 雛子と亞里亞はお互いに首を傾け合って微笑んだ。
 年少組2人は……とりあえず表面上は理解したように振る舞ったが、残りの10人の表情はそれぞれである。
 いつもより静かな朝食を終え、めいめいは学校へと向かう。
「……眞美ちゃん、やっぱり出ていったのかな?」
「出ていく必要なんてないですのに……」
「四葉が余計なこと言ったからデス…」
 うなだれる四葉を見て、衛はちょっと首を傾げた。
「四葉ちゃん……『椎名眞美』って人はどういう人だったの?」
「良くわからないデス……記録では3歳か4歳の時に死亡してて、それなのに小学校には通ってた記録があって……」
「なんですの、それ?」
 白雪が黒いリボンをひらひらさせながら、ワケが分からないと言った感じに首を左右に振った。
「花穂ちゃんは、どう思う?」
 それまで会話に参加するでもなく、ぼんやりと道ばたのキンモクセイを眺めていた花穂に向かって衛は声をかけた。
「……紫陽花」
「え?」
 キンモクセイを指さしてそう呟いた花穂に、衛、白雪、四葉の3人は一様に首を傾げた。
「みんながあれを紫陽花って呼んだら、キンモクセイは紫陽花になるの?」
「花穂ちゃん…」
「花穂……そんなの変だと思うな。たとえどんな名前で呼ばれたって、キンモクセイは……じゃなくて、あの花はただ咲いて、香りをただよわせて、あそこにあるだけよね」
 花穂の言わんとするところを察して、他の3人は頷いた。
「お兄ちゃまが一緒に住むって言ったんだから、眞美ちゃんはあの家にいなきゃダメだと思うの」
 アタシの意志は無視ですか……と、この場に眞美がいたらそう呟いただろうか。
「アジサイ……デスか」
「どうかしたの、四葉ちゃん?」
「ん……四葉は、イギリスにいた頃アジサイみたいだって馬鹿にされてたデスよ……カタツムリを頭に乗せられたり」
 微妙な笑みを浮かべて空を見上げると、四葉は小さく頷いた。
「四葉は……ここに来て、兄チャマやみんなに会えて良かったです。だから……眞美ちゃんにも、そう思って欲しい…デス」
 ポケットから取りだした虫眼鏡が四葉の手の中でくるくると回転を始める。
「ま、人捜しは探偵の基本中の基本デスから……明日はちょうどお休みです」
「じゃあ、花穂は応援するね」
「……応援しかしないんだ、花穂ちゃん」
「そっ、そーじゃなくてっ!」
 花穂が顔を赤くして、ちょっと怒ったような眼差しで衛を睨む。
「うん、わかってる…」
 衛は呟いて、空を見上げた。
「ボク達は、自分ができる事をきちんとやればいいんだよね」
「姫は……」
 白雪はぎゅっと右手を握りしめながら空を見上げて言った。
「眞美ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、ご飯を作って待ってますの」
 
「鈴凛ちゃん、確かあにぃが近くにいれば音を鳴らして知らせてくれるレーダーを作ったことあったよね?」
「イヤだよ」
 衛が何を言い出すのかを察して、鈴凛は即座に首を振った。
「……そんなに眞美ちゃんのこと嫌い?」
「そういう問題じゃないでしょ」
「……?」
「他人と一緒に住んで……出ていったのをわざわざ連れ戻して……だったら」
 鈴凛はバンッとテーブルに手のひらを打ち付けて言った。
「私達って何!?家族とか、姉妹とか……それは全然意味がないモノなの!?」
「鈴…」
「私達っ、全然別の場所で育って……ここに来るまでお互いの顔さえ知らないで……それでも、こうして一緒に暮らすようになったのは兄妹だから、家族だから一緒に暮らしてるんだよねっ、そうでしょ!?」
 今まで堪えていたモノが堰を切ってしまったのか、鈴凛は目元に涙を浮かべつつなおも言葉を続ける。
「どうして眞美ちゃんも同じなの?兄妹だとか、家族だとか、血のつながりだとか……それは、他人と同じって事?だったら、私達はどうして一緒に暮らし始めたの?」
「それは…」
「じゃあ、眞美ちゃんは家族なの?」
「鈴凛ちゃん、そうやって会話を先回りされると何を話せばいいかわからなくなるよ……」
 途方に暮れたように衛が呟くと、鈴凛は少し気を取り直したのか、目を背けながら呟いた。
「衛ちゃんは……ここに来るまでどうしてた?」
「え、ボク?」
 衛はちょっと驚いたように自分を指さし、そして語り始めた。
「ボクは……自分にあにぃや姉妹がいるなんて知らなかった。おじさんとおばさんの子供だって思ってたから」
「それって……羨ましいよ」
「え?」
「私には……そういう疑似家族さえなかったから。だから、だから……私にはわからないよ」
「あにぃ…は?」
「……アニキを見た瞬間、良くわからないけどこの人は無条件で信じていいって思えた。だから……その時、多分これが家族なんだって信じられたよ……でも」
 言葉を続けようとした鈴凛を優しく抱きしめ、衛はそれ以上の言葉を封じた。
「急がなくていいんだよ鈴凛ちゃん……あにぃはボクにとっても特別の存在だし、多分みんなにとってもそうなんだから」
「家族なのに…私…」
「ボク達のことを、あにぃと同じように感じられないからって自分を責める必要なんて無いから……ボクも、そうだったから…」
「うっ、く……でも」
 ぼろぼろと泣き始める鈴凛を抱き、衛は殊更に優しい口調で囁いた。
「ボク達は鈴凛ちゃんが言うような家族として生まれてきたんじゃないかもしれないけど……きっと家族になれるから」
 
「『それとこれとは話が別』…か」
 衛は困ったような表情を浮かべ、暮れていく空を見上げた。
「ボク、眞美ちゃんのこと好きなんだけどな…」
「四葉だってそうです……でも、鈴凛ちゃんと四葉達は姉妹であっても同じ人間というワケじゃないデスから…好き嫌いが分かれて当たり前です…」
 四葉は虫眼鏡を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。
「夏休み前に…眞美ちゃんがひどく寂しそうな表情で言ってたデス…『人に代わりはいない』って」
「……」
「四葉、眞美ちゃんにいろいろ助けて貰ったです。雛子ちゃんじゃないけど、眞美ちゃんを家族みたいに思ってたデスよ……でも、四葉は眞美ちゃんにとって」
「ストップ、四葉ちゃん」
「……」
「よく解らないけど……みんながそれを望まない限り、眞美ちゃんは帰ってこないような気がする」
「みんなが…デスか?」
 四葉が少し首を傾げながら衛を見た。
「あにぃに言われたからとか、ボク達の何人かがそれを望んだからとか……多分、眞美ちゃんには意味がないんじゃないかって思うんだ」
「何となく……わかるデスよ」
 四葉はちょっとうつむきがちに呟き、そして言葉を続けた。
「でも……その『みんな』の中に眞美ちゃんが居なければ四葉にとっては無意味デス…」
「え?」
 今度は衛が虚をつかれたような感じで四葉を見た。
「四葉は、眞美ちゃんにも思って欲しいデス……この家に居たいって。四葉や兄チャマ達の側に居たいって…」
「……そうだね」
 衛はぽつりと呟き、そして小さく頷きながら繰り返した。
「うん、そうだね」
 
 ブンブンッ……と、力強く振り回される薙刀の音が、時折ヒュヒュッという感じの空気を切り裂く音に変化する。
 薙刀に限った事ではないが、格闘技および武道ではあるレベルに達するまではよどみのない動きを体現するために円の動きを徹底して教え込まされる(直線の動きを会得してから円の動きという説もあるが)……が、そこからワンランク上に行くためには、円の動きから直線、直線から円の動きという動きのメリハリが求められてくる。
 ちなみに薙刀の音が変化したのは、春歌のそれが目標に向かって弧を描く動きから最短距離をいく直線へと変化したときの音である。
 もちろん、その直線の動きは最後に小さく弧を描いて淀みなく戻ってくるのだが。
「……」
 春歌は軽く息を整えると、自分の稽古を側で見ていた可憐の方を振り向いた。
「可憐さん……私は一応あなたのお姉さんのつもりですよ」
「……え?」
 可憐はちょっとびっくりしたように顔を上げた。
「ずっと兄君様と過ごしてきた可憐さんに、私は頼りなく見えるかも知れませんが」
「別にそんな…」
「たまには……お姉さんらしいことをさせてくださいな。大事な妹がそんなふさぎ込んだ表情をしていては心配にもなります」
 春歌はゆっくりと薙刀を横構えに持ち、気合いと共に可憐の目の前を一閃させた。
「ひゃっ!?」
 目の前を高速で走り抜ける白い線と、遅れて髪をなびかせる空気の塊。
「な、な、何を?」
「これは薙刀なんですが……平法の一の大刀は、心に巣くった魔……恐れとか、不信の事ですけどね……を払うと言われてます」
 春歌はにっこりと笑うと、石突き(薙刀の手元の部分)でコツンと可憐の頭を叩いた。
「目は覚めましたか?」
 パチパチっと可憐は目をしばたたかせ、そして笑った。
「ありがとう春歌ちゃん」
「どういたしまして……」
 春歌は軽く頷くと、視線を空に転じた。
「……明日もいい天気になりそうですね」
 しばしの静寂を経て、春歌はぽつりと呟く。
「千影さん、鞠絵さん、咲耶さん……そして可憐さん」
「……はい?」
「兄君様が中学にあがる直前には衛さんと白雪さん」
「あ…」
 春歌の挙げる名前が何を意味しているかに気付いたのか、可憐は小さく口を開けた。
「可憐さんより先に生まれた私が姉妹と共に……いえ、その存在さえも知らずに育った理由ってなんなんですかね?」
 気負いも、憤りも感じさせない……ただ、何かを喪失した哀しみだけが微かに滲み出た春歌の口調に、可憐は言葉を失った。
「私には……何が足りなかったのでしょうか?」
「春…歌……ちゃん」
「……一度だけ、兄君様にそうお尋ねしたことがあるんです」
 コクッと、可憐の喉が鳴った。
「お兄ちゃんは…なん…て?」
「……『全部僕が悪いんだよ、春歌…』とだけ」
「……」
「あの時の兄君様のお顔……私は、一生忘れることができないと思います」
 二度とあのような表情はさせない……という決意を滲ませ、春歌は暮れゆく空に向かって薙刀を振った。
「今……とは言いませんけど、いずれ兄君様は話してくださるでしょうか?」
「どうして…可憐に言うんですか?」
 責めているわけではないという事を教えるように、春歌は可憐に対して穏やかに微笑んで見せた。
「……可憐さんが、私の妹だからです」
「…?」
「姉である私が背負うべき荷物なら、妹に背負わせておくわけにはいきませんもの…」
 
「妹が優秀だと、姉は楽だね…」
 独り言めいた千影の呟きに、鞠絵は紅茶をすすりながら窓の外に視線を向けてぽつりと言った。
「多分……私が一番楽をしてるんでしょうね」
 紅茶をすすりながら窓の外を見ていた鞠絵がぽつりと呟く。
「どうかな……まあ、眞美ちゃんの気遣いが少し報われてほっとしたよ」
「鈴凛さんは頭がいいだけに自分で出した答えに固執しますものね……それが揺らがない限り、考え直す事もしませんし」
 鞠絵は穏やかな笑みを浮かべ、ふと何かを思いだしたように千影に向かって言った。
「眞美さんの居場所……千影ちゃんにもわからないんですか?」
「自分では眞美ちゃんをかなり高く評価してるつもりだったんだけど、まだ過小評価だったみたいでね……」
「……誘拐されたときも、千影ちゃんに怖い目に遭わされたときも顔色1つ変えなかったあの可憐ちゃんが脅えてました」
「フフ……鞠絵が皮肉を口にするなんて、珍しいこともあるものだね」
 千影は僅かに目を細めると、話題を変えるように少しだけ視線を逸らした。
「まあ……とりあえず、眞美ちゃんの銀行口座は閉鎖しておいたよ」
「それはあんまりかと……」
 本当に申し訳なさそうな表情を浮かべ、鞠絵はあらぬ方角に向かって頭を下げる。
「……遠くに行くはずがないんだよ」
「え?」
 ひょこっと、鞠絵は顔を上げて千影を見る。
「私達に迷惑がかからないように……少なくとも、自分を追いかけてる連中をどうにかしない限り、眞美ちゃんが私達の側を離れるはずがない」
「それは……千影ちゃんの希望ですか?」
 千影はちょっと照れたように微笑み、そして呟いた。
「私は……眞美ちゃんに大きな借りがあるから」
「……それで、銀行口座を閉鎖ですか」
「追われてる自覚のある人間は、カードでお金をおろしたりはしないよ……自分の居場所を他人に教えるようなものだからね」
「……私、眞美さんが優しいとか強いとかいう事はわかるんですけど、どうもそういう職業的な抜け目のなさとは無縁のような気がして仕方がないのですが」
「実を言うと……眞美ちゃん、朝一番にお金を引き出そうとしてたみたいなんだ」
 
 ちなみに。
『……このカードはお取り扱いできません。恐れ入りますが窓口にて係の者と……』
「なぜにーっ!?」
 などと某銀行のATMの前でそんな悲鳴があがっていたり。
 
「……だから、余計に眞美ちゃんのことがわからないんだよ」
 千影は不思議そうに言葉を続ける。
「気配の察知能力や、何気ない足さばきから推測できる体術レベル。どう考えても父さんや母さんの筋と同業としか思えないのに……どこか天然に抜け過ぎてるというか。なんだろうね、あのアンバランスさは…」
「……千影ちゃん、はじめの頃は気配を消して執拗に眞美さんの後を追いかけてましたものね」
 そして奇妙な沈黙が2人を包み込み、やがて、ぽつりと鞠絵が呟いた。
「千影ちゃん……ちょっと眞美さんに嫉妬したりとかしてません?」
「……何故?」
「だって…今回兄上様が家を留守にしてるのは、お父様やお母様の連絡があったからじゃないんでしょう?」
「……兄くんも、私に似て秘密主義だからね。過保護と言い換えてもいいけど」
「私達……兄上様や千影ちゃんに守られてばっかりで、何も…」
「いいんだよ、鞠絵…」
「でも…」
「いいんだ…」
 千影は念を押すように繰り返し、そして呟いた。
「兄くんの影になる……兄くんが私達の盾になることを望んだように、それは私が望んだことだから」
「……」
「鞠絵が知ってくれている。多分、咲耶も薄々は気付いてる……それで十分だよ」
 千影はちょっとだけ首を振り、そして珍しく苦笑を浮かべた。
「眞美ちゃんもね、きっと何か気付いてたよ…」
「……可憐ちゃんは?」
 千影は微かに首を振った。
「私が荒事に手を染めていることまでは知らないんじゃないかな…」
 鞠絵は小さくため息をつき、そしてソファから立ち上がった。
「……今夜?」
「眞美ちゃんが姿を消した……とすると、とりあえず一度はこの家に来るだろうね。多分、眞美ちゃんもそれを待っているだろうから、私もここでそれを待つよ」
「ここ…で?」
 鞠絵は、ちょっと不思議そうに首を傾げて居間の中を見渡した。
「私が庭にいると……多分、眞美ちゃんはこない」
「そう…かも知れませんね」
 鞠絵が千影にお休みを言ってから数時間、庭先で突如膨れあがった2つの気を感じて千影はソファから跳ね起きた。
 まるでそうなることを想定していたかのように、明かりをつけるでもなくソファに掛けてあった黒いマントをひっかけて居間を飛び出す……が、気配は膨れあがった時と同じように唐突に消え失せる。
 千影がそこに駆けつけたときには、地面の上に僅かな争いの痕跡だけを残してまるで何もなかったように静まりかえっていた。
 ただ、秋の夜風だけが穏やかに通り過ぎていき……微かな争いの痕跡さえも消していく。
「勘だより……は、趣味じゃないけど」
 千影の手の中に白と黒のカードが音もなく現れ、その中の一枚をあくまでも優美な仕草で抜き取った。
「……愚者…ね。追うだけ無駄か…」
 千影は少し寂しそうな表情を浮かべ、妹達の眠る家に向かって歩き出した。
 
 
                    隠顕の章 完
 
 
 一応言っときますけど、耐えかねて路線変更したワケじゃないですよ。おおむね、当初の予定通りの展開ですからね。(笑)
 だから、石を投げないで。

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