日本舞踊は人の目を引くような大きな動きや速い動きがほとんどないため、とにかく姿勢を中心とした空間構成力と足さばきがポイントになる。
 特に足の運び方に関しては、人前に出られるまで厳しい修行の元10年はかかるという。
「はい、よろしい。」
 先生の合図で、あたりを支配していた緊張感が一気に弛緩する。
「ありがとうございました。」
「春歌さん、あなた真剣にこの道に進むつもりはなくて?」
「前も申しましたように、私、兄君様以外の方の前で舞おうとは思いませんので。」
「そうだったわね……」
「では、失礼いたします。」
 春歌はもう一度頭を下げ退出すると、薙刀を教えてもらっている道場へと急いだ。
 
「兄君様!」
 5間あまりの距離を一瞬で詰め、春歌は兄の前に立つ。
「薙刀の稽古は終わったの?」
「はい。」
 兄は空を見上げて何気なく呟いた。
「いい天気だ……少し歩こうか。」
「お供いたします。」
 誰がなんと言ようと、春歌はいつも兄の後ろに控えて、決して前はおろか兄と肩を並べようともしない。
 時折困ったような視線を兄が見せてもそれは変わらない。
 川辺まで来て、2人の足が止まった。
「満開の桜をずっと見上げていると気が狂うらしいけどね…毎年これを見る度にそれも悪くない気がするよ。」
「まあ、兄君様ったら…」
 春歌もまた桜を見上げる。
 見ている者の心を幻惑するように、一瞬たりともその姿をとどめることのない桜は、気が触れるという逸話にふさわしかった。
 手の上に舞い落ちてきた桜の花びらを、そっと川面に浮かべてやりながら春歌は呟く。
「うたかたの、淡き想いに、とまどえど……」
「春を惜しみて、我立ちどまる……という所かな?」
「兄君様、それでは上句と下句のつながりが……でも、嬉しゅうございます。」
「水の泡と色の淡を引っかけるところが現代俳句っぽいね。」
 強い風が吹いて、ざあっと音をたてて桜の花が盛大に散った。
「さて、気が狂う前に立ち去ろうか…?」
 自分の手を握った春歌に、兄は一瞬だけ怪訝そうな視線を向けた。
「桜のせいですわ、兄君様…」
 春歌はどこかあさっての方角を見つめながら、囁いた。
 出来ることなら、兄君様に惜しまれる存在でありたい。
 春歌はもう一度だけ桜を振りあおぎ、心からそう願った。
 
 
                    おしまい

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